日本100名城  №19  川越城                  登城日 2012.8.4

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所在地      埼玉県川越市郭町2-13-1
城郭構造    平山城
通称        初雁城、霧隠城
築城年      1457年(長禄元年) 室町時代
築城主      太田道真、道潅 父子
主な改修者  大道寺政繁、松平信綱
主な城主    扇谷上杉氏、後北条氏、酒井氏、大河内松平氏、柳沢氏、
                     越前松平氏
廃城年      1869年(明治2年)
遺構        堀・土塁・本丸御殿の一部・移築物3棟 他
文化財指定  埼玉県有形文化財(本丸御殿)、埼玉県史跡
 
 
  100名城めぐりの最初は一番近くの川越城からです。
川越城は室町時代、関東管領 扇谷上杉氏の築城で、家老の太田道真の縄張りと言われます。
武蔵野台地の東北端にあり、東の古河公方と北の山内上杉氏に対する前線基地でした。

 やがて後北条氏の武蔵への蚕食が始まり、北条氏綱は江戸城に続き河越も陥れます。
ここに至って関東の覇権を争っていた両上杉氏と古河公方は連合して北条氏に抗し、大軍で河越城を囲みますが、城将の北条綱成と小田原から駆け付けた北条氏康は、知略を駆使した夜襲で連合軍を撃破し、河越城周辺は北条氏の支配下となります。

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川越市役所前にある川越城縄張りの石版
 
 
 1590年、豊臣秀吉の小田原征伐では前田利家軍が迫り、城将:大道寺政繁は討って出ましたが力及ばず降伏。ほどなく家康の関東移封により徳川氏に帰属します。
 家康は江戸に近い河越を重視し、腹心の酒井重忠を初代の河越藩主としました。重忠はこの地を川越と改名し、以後、堀田→松平→柳沢→秋元→松平と、幕府の要職が川越藩主を歴任し、江戸の北面を守ります。
 
 中でも松平伊豆守信綱は、城と城下を整備し、近郷の物資の集積地とし、新河岸川を開削して物資の江戸への大量輸送ルートを整備しました。  こうして川越には物と人が集まり、江戸期を通じ「小江戸」と呼ばれる程の繁栄を誇る事になります。
 
 
川越城を歩く
1. 城下

  最寄りの駅は西武の本川越駅ですが、徒歩では小一時間かかる距離です。
西武本川越駅の前の通りをそのまま北上すれば良いので、とても分かりやすいですね。
 小雨交じりの天気の中、自販機で水を仕入れて勇躍歩き始めます。
繁華街ではない、寂れた感じの町並みを15分ほど歩いて行くと、昭和→大正→明治と明らかに時代を遡っている感覚になります。
 
  ぽつぽつと土蔵造りの商家が現れだすと、前方に立派な商家群が軒を連ねているのが見えてきました。今はその殆どが土産物屋やギャラリーなどですが、小江戸観光の中心らしく、観光客がたむろして、人力車なども走っています。
良い雰囲気だけど、道路はクルマとの共存で、歩道が狭く、交通量が多いのが玉にキズですね。
 
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現在の川越の顔“蔵造り商家群”重厚です
 
 
  昔の商家を見慣れた歴史オタにも新鮮に映るこの土蔵造りの建物の重厚さ。
重厚な中にも各々が巧みに意匠を凝らし、統一感の中に個を主張しています。
こうした町並みが数百メートル続き、当時の川越の繁栄のほどが偲ばれる界隈です。

  観光客はそんな事を知ってか知らずか、意外と若者が目立ちます。
子供連れの若夫婦も多く、興味深げにあれこれ視線を走らす親に比べ、気だるそうな子供達の表情がなんとも面白いw
 
 
2. 城へ
 賑わう街を抜け、目的の川越城へ向かいます。
5分ほど歩いた“札の辻交差点”で右折、少し歩くと川越街道と交差しますが、その角に市役所があり、川越城の大手門跡です。
 遺構は一切無く、市役所の玄関脇の石碑でそれと判るだけですが…。
ここで旗を持った添乗員に引率された中国人の団体に遭いました。いろいろ添乗員の説明に聞き入ってたが、ちょっとキビシイだろなぁこれはw

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川越市役所玄関脇に立つ太田道潅像
 
 
 玄関脇には太田道潅の銅像があります。
この城の創建者というか、平将門と並ぶ関東のヒーローで、関東人は本当にこの人が好きですね。
 下克上の世に、軍事・民政とも主人を遥かに超える能力と人望とを持ちながら、決して私利私欲に奔らず主家に殉じた義の武人。
直江兼続や山中鹿之介に通じる所ですが、主に恵まれず、逆に疎まれて謀殺されてしまうのは悲運ですね。
司馬遼太郎が「箱根の坂」で描いた様に、伊勢新九郎(北条早雲)との交流が史実ならば…と思う惜しい人物です。

 
3. 外郭(曲輪)
 大手門には“丸馬出し”があった様で、現状でその遺構は無いものの、偶然にも市役所前の駐車場が場所・形状とも符号します。
 本丸めざして更に進んで行くと、上級家臣の武家屋敷エリアに入ります。
川越藩の場合、家老をはじめ上級家臣は郭内に、中・下級の家臣は城下に住まわせたらしいですね。

 いずれにしても、多くの城が廃城後に軍隊の駐屯地や学校・公園などの公共施設に活用され、比較的原形を保持したのに比べ、川越城は民間への払い下げ区域が多くて、すっかり市街化してしまっているのは残念な事です。
 
 
4. 三ノ丸 中ノ門付近
 さらに奥に歩いて行くと、突然看板が目に入ってきます。
外曲輪から三ノ丸へ入る中ノ門が復元されているらしいですね。
なるほど、門構えの様な井桁が組んであるが、急造の関所門の様にいかにも貧弱で、実戦想定の固定建造物には見えません。

 
 説明看板があったので読んでみると、本物は常駐する兵士の建屋に組み込んだ櫓門だった様です。やっぱりw 復元門ではなく模擬門…予算の関係かな?
中には空堀と土塀が復元してあり、看板を見る限り、位置も規模も同じで、こちらは本物を発掘して整備した復元堀の様です。
 
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復元:中ノ門堀 構造がおかしくない?
 
 
 空堀かと思ったら、当時は水堀だったんですね。
4mほどの深さで幅は10mほど。緩やかな土塁で、内側に土塀をめぐらして、銃眼が穿ってあるけど、銃前提の改修にしては心許ない構造です。
 極めつけは土塁の高さが明らかに攻め手(右側)の方が高いこと。
常識的にこれは有り得ないので、請け負った業者が掘った土砂を右手に勝手に盛ったもの…と解釈しましょうw
 
 
5. 本丸へ
 さらに奥へと進むと右手にこんもりとした森が見えてきます。
 
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 あの辺りが本丸で、城の象徴の天守を持たない川越城では、藩主の日常生活の場である本丸御殿のみが有り、その一部分が現存している筈です。
(幕閣老中の場合は江戸に常勤で、国元で暮らした日数はそう多くはないが)
森に隣接して野球場があり、セミの声と少年野球の歓声が響く中、駐車場の片隅に川越城本丸門跡の碑がひっそりとありました。
 
 
6. 本丸御殿
  駐車場の奥のドン詰まりに御殿はありました。
玄関と大広間、家臣や来客の控えの間に、別の場所にあった家老詰所が併設で復元されており、全部で165坪の規模だそうです。当
時は全体で1,025坪あったらしいから、僅か16%の復元ですね。
 
 こちらは予算の問題ではなく、廃城の際に城の建物を細かく分割して、安価で民間に払い下げられた為に分散してしまって、再度買い集めようにも現存しない物が殆どだ、という理由からです。
 明治新政府の役人は、特に徳川方の城に対して徹底してこれを行なって、 目の前にある御殿は煙草専売局の川越工場の一部となっていました。 
 家老詰所は近郷の豪農に住宅として移築されていたのを、1991年に県の文化財に指定し、2008年に買い取って現在の場所に戻したという事で、並大抵ではない苦労ですね。

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現存:本丸御殿玄関付近
 
 御殿に入ってみます。
まず二条城を思わせる車寄せ形式の唐破風の表玄関。
将軍の訪問を想定したのか、意匠といい部材といい他の建物に浮き立って豪華です。
普段は通用玄関のみの使用でしょうね。
 玄関を入ると大広間の建物になり、周囲を広い板敷きの廊下が走り、武家建築の趣が強く感じられます。
畳敷きの大広間は杉戸で幾つかに区切られ、会議に年中行事に来客謁見にとフレキシブルに使っていた様ですね。 

 廊下を歩いて裏に回ると、家老詰所の建物が見え、廊下で繋がっています。
こちらは家老やその家臣が起居した建物だけに、居室中心で大小の厠が二箇所と多少なりとも生活臭があります。
*もちろん使用禁止でトイレ臭はしませんw
 藩主の居住区が残っていたら、たぶんこの豪華版なのだろう…と勝手に想像。
余談ですが、 ヒットしたTVドラマの「JIN-仁-」は室内ロケの多くをここで撮影したらしく、南方先生と咲様が歩いた長廊下や急造の手術室など、何となく見覚えのある感じがします。

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御殿内の廊 質実剛健な武家建築です
 
 
7. 市立博物館
 本丸御殿を後にし、最後に向かいの川越市博物館に向かいます。
本丸御殿には展示物がほとんど無く、川越城にまつわる文化財の多くは、こちらに有るという事なので、急遽入ってみる事にしたのです。
 入るとすぐの広い展示室には江戸時代の川越城下のジオラマが置かれており、それまでの想像を具体的な形にして見せてくれます。
川越…なるほど当時にしては大きな町です。
 展示のテーマは古代から現代まで、武士の戦乱から庶民の暮らしまで、時系列で多角的な目線で川越を紹介しており、今回の訪問テーマを復習・補完する意味で大きな助けとなりました。
                             川越限定:芋のビール“コエド”
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あとがき
 100名城 川越城は思ったより質素な城でした。名将:太田道潅の古城は知る術もなく、
いま目の前にあるのは紛れもなく松平信綱が企図した川越城です。
信綱はこの城での戦闘など最初から想定していないのではないでしょうか?

敢えて質素な、平和な時代の城にした気がします。
 その資金で領内を整備し、経済基盤と流通の仕組みを造る事で、安寧で争いのない泰平の治世を創造して、城の備えを不要なものにしたのではないか? 
今も繁栄する川越の街を目の当たりにして、そんな思いが浮かびました。