比自山城の続きです。

 

Aエリア(本丸)をさらに見て行きます。

 

 

本丸(観音寺本堂跡)の北側切岸沿い 途中で藪に阻まれます

 

諦め悪く、切岸の上からも確認ウインク

 

本堂跡北東の一段高い場所に郭らしい広場を視認

 

縄張り図にも井戸っぽい記載があるので、庫裏跡かも

 

本堂の西側には夥しい数の五輪塔が散乱 墓地だったか?

 

これは、一ヶ所にまとめて供養してあげねばならない…

 

 

 観音寺は縄張り図からも本堂跡の東側一帯に主要な建物が有った様に思います。

ただ、もっとも藪がひどく荒れているのもこのエリアであり、意を決して入って行っても、礎石や手水鉢などの遺物は見つかりませんでした。

 近代になって一帯に杉や桧が植林されていますが、藪がひどいエリアは畑地として使われていたのは間違い無いですね。

 

 そうした城跡を活用した痕跡が見られるのに引き換え、墓石が散乱しているのは何ともやるせない気持ちになります。

放置だけでなく堀端に集積されたのもあり、おそらく投石用に集められたんでしょう。

一部はすでに崖下に転がっているのかも知れません。

 

 観音寺だから観世音菩薩が本尊だったのでしょう。

おそらく此処に眠っていた信者さんは、日々の平穏と傷病の平癒だけを望んだ善男善女が大半の筈です。

 戦時にはやむを得ない事ですが、戦が終わればまた一ヶ所に戻して、供養してあげるのが何処の城址でも為されている本来の姿と思うのですが…。

 

 

西端にちょっとだけ二重堀切

 

その先は急斜面で落ちています こちらの攻め手は堀秀政の区間

 

観音寺の通用門的な場所か

 

参道の極端に狭まる場所ですが、何が有ったか想像も付きませんニヤリ

 

 

 最後にCエリア(朝屋丸)を見て行きます。

朝屋丸は比自山南麓一帯の朝屋郷の地頭だった福喜多将監が造り、守った郭と言われます。

 福喜多将監は百田藤兵衛と同じく、伊賀十二人衆の一人であり、伊賀惣国一揆の主要なメンバーです。

この朝屋丸を東に下った平地際に城館(福喜多将監城)を構えており、言わば城館の詰め城的な郭がこの朝屋丸になるくらいの位置関係です。

 

 その朝屋丸ですが、長田丸とはちょっとレベチでしたびっくり

 

 

朝屋丸の横堀

 

複雑に削平痕のある西側斜面

 

その上に土塁の巻いた主郭がありました

 

広さ、削平具合とも長田丸よりかなり上等です

 

北側の土塁は一段と高く…

 

谷間へは急激に落ち込んでいます

 

北東に延びる尾根には階段状に曲輪が重なり、その南側には鉄砲対策の土塁付き

 

主郭南の攻守に重要な腰曲輪

 

その下の横堀を覗く 切岸が高い!

 

 驚くのはその土木工事量で、当時の国人領主の居城並みの施工が為されていると言っても過言ではありません。

≪前編≫でも記述しましたが、現在に遺っているという事は、シッカリ造られているという事なので、とてもとても数日、数十日の突貫工事で為せるものではありません。

少なくとも朝屋丸は以前から城郭機能を持っていたのだ…と思えます。

 

 朝屋丸には主に筒井順慶の軍が攻め寄せましたが、決死の防戦に攻めあぐねて一旦退いたところ、すぐに夜襲を受けて大損害を被っています。

 

 

西向きの緩斜面にも削平痕

 

横堀に降りて来ました この斜度と堀の深さで遺るのは奇跡

 

横堀の東端

 

南に緩く落ちて行く竪堀 搦手口かも?

 

横堀は主郭を囲む様に南側から西側へと続き…

 

どんどん続き…

 

やがて帯曲輪になって、最後は犬走りで本丸→長田丸と続いて行きます

 

西側は相変わらずの急斜面

 

本丸(観音寺跡)の入り口と対面する朝屋丸入口 枡形虎口やんびっくり

 

 ひと通り見て来ましたが、やはり縄張りから施工まで、じっくり時間をかけて造られた城…という感想です。

 そして規模感ですが、伊賀国では小領主がそれぞれ単独で城館を構えているのが基本ですが、地域の土豪が合同で共有の詰め城を持っている事例があります。

 比土の壬生野城や河合の田屋伊予守城がそれで、まとまった戦力で籠る規模の城郭を形成しています。

 ですから此処も、朝屋地区の朝屋丸、長田地区の長田丸…と見た方がシックリ来るんですよね。

 

 

 比自山城をタップリ愉しんで、下城します。

登城路の整備されていない城址ですから、また適当に下って行くしかないのですが、大きなお寺が有れば参道も有った筈ですから、見当をつけて本丸南の谷間を下って見ます。

 

 

お茶の木が群生しています

 

荒れていますが、明らかな参道跡(大手道?)

 

灌漑用の二段池を隔てる堤防を南に渡ります

 

その後の道筋は不明瞭ですが、道端にポツポツとある観音像が目印になります

 

有志の方の努力で、途中まで整備が進んでいます

 

出て来た西蓮寺は広い霊園のある大きな寺院 駐車場も余裕でした 左上に上野城

 

 

 下って行く途中から、不意に綺麗に拓けた道に変わります。

チェンソーを使って竹を伐っている方が見えたので話を伺うと、ボランティアで三十三観音めぐりのルートを綺麗に整備されているのだそうです。

 『山の持ち主が山に興味が無く、長く手付かずなんだ…』と嘆いていましたが、目標は城跡まで楽に登れる様にする事で、『今後のライフワーク!』と言っていました。

ありがとう、そしてご苦労様です。

 

 登城路が不明で藪に覆われ敷居の高い比自山城ですが、皆さんこのルートなら間もなく楽に迷わずアクセスできる様になりますよ。