お盆を過ぎてなお、猛暑続きの厳しい毎日ですね。
墓参に岡山へ出掛けたついでに、米子城に軽く登城して来たので、投稿しておきます
。
日本200名城 №169 米子城 鳥取県 登城日2025.8.17
別名 湊山金城、久米城
城郭形式 梯格式平山城(海城)
標高,比高 ともに90m
天守 天守台のみ 作事は現存せず
①1556年作 三層四重天守
②1601年作 望楼型四層五重天守
築城年 室町中期(1470年頃)
築城主 山名宗之
改修者 吉川広家、中村一忠など
城主 山名氏、吉川氏、中村氏、加藤氏、池田氏
廃城年 1871年(明治4年)
遺構 天守台等の石垣多数、堀、土塁、井戸
史跡指定 国の史跡
所在地 鳥取県米子市久米町
生家から60kmほどの距離にある米子城址。
当時は藪に覆われた鳥取藩の支城跡という事もあり未登城でしたが、近年の整備で全容が明らかになり、続百名城に選ばれるほどの名城である事が判ったので、この機会に観に行きました。
適当な縄張り図が見つからなかったので、写真表示 湊山公園駐車場をベースにザッと歩きました
市HPより拝借 現存遺構のみを強調したイラストですね 下の三の丸広場は改修工事中でした
案内看板 こちらは搦手道か?
米子城のある湊山に初めて城砦が築かれたのは応仁の乱の頃で、伯耆国守護の山名宗之によるものとされています。
出雲の尼子氏が勢力を強め、伯耆にも侵攻して来ると米子城もその支配下に置かれましたが、その後に毛利氏が尼子氏を攻めて駆逐すると、山陰方面軍の吉川元春は山名氏を城主に復しています。
永禄12年(1569)に山中鹿之助ら尼子氏再興勢力に呼応した山名之玄は吉川元春に攻められて自刃し、元春は家臣の福頼元秀を米子城主にしました。
登り口にあった湧水池 水の手の一つか?
登城路は手摺り付きで綺麗に整備されています 本来の道は壊しちゃった?
いえいえ、ちゃんと隣に遺っています
すぐに上に内膳丸の石垣が見えて来ました
豊臣政権下、毛利領の山陰東部を治めたのは元春の継子:広家であり、出雲東部、隠岐、伯耆西部の14万石がその領地でした。
居城は出雲の月山富田城でしたが、内陸で便の悪い古式の山城だったので広家は、米子城を新たな居城とすべく本格築城を始めました。
湊を持つ総石垣の海城の縄張りで、山陰の政治・経済の中心地とするべく壮大な計画でしたが、三層四階の天守が完成した頃、秀吉が死去して動乱が始まりました。
“関ヶ原の戦い”で間接的に東軍に与した広家は、家康から長門、周防の34万石に遇されますが、毛利氏の改易と引き換えだった為に慌てて辞退し、毛利氏存続に奔走して、自らは周防岩国2万石を領する毛利家臣の地位に甘んじました。
現在の岩国城と米子城の威容を見比べると、広家の忸怩たる思いがヒシヒシと伝わって来ますね。
内膳丸の虎口
奥行きのある細長い郭ですが、大手道、搦手道に覆いかぶさる様に効いている重要な郭です
蔵屋敷だった様ですが、先端は一段高くなり、出丸機能もありますね
残念ながら樹木が繁って、眺望は効きません
吉川氏に替わって米子城主になったのは中村一忠で、駿府14万石から伯耆一国17万5千石への加増移封でした。
一忠は大河ドラマ『功名が辻』でロンブー淳が演じた中村一氏の嫡子で、関ヶ原直前に病死した父を僅か12歳で継いだばかりでした。
一忠の米子入りには徳川家康もかなり気を使い、元三好家重臣の横田内膳村詮を中村家に斡旋し、執政家老として付けています。
家康の意向もあったのか、横田内膳は米子城の更なる強化改修を行ない、城下町を整備して近世城郭として完成させました。
吉川氏の天守は“小天守”として活用し、隣に四層五階の大天守を築き、この時点で米子城は山陰随一の名城となった様です。
*この大天守は明治になるまで存続しました。
内膳丸虎口に戻って この城の見どころのひとつ『登り石垣』ですが、“兵どもが夢の跡”でした
本丸へと登って行きます
番所跡の虎口が見えて来ました
三段に重なる高石垣 最上段が大天守台です
左手(南側)の小天守台 織豊期の吉川氏の作ですが… うん?
切込み接ぎで寸分違わず綺麗に積まれています(^^;
1988年に米子市が石垣補修した様ですが、これはかなり修正されましたね
しかし、中村家のプロパーな重臣達にとって横田内膳の活躍は面白いものではなく、折に触れ幼君の一忠を篭絡して行き、遂に慶長8年(1603)、横田内膳は城内で誅殺されてしまいました。
この行為は家康の逆鱗に触れ、首謀者の家老衆4名は即刻切腹させられ、一忠の江戸入りも許されなかったそうです。
その心労からか、慶長14年(1609)一忠は二十歳で病死しましたが、その長子への相続は許されず、中村氏は改易となってしまいました。
長子とその子孫は母方の縁で鳥取池田家に薄禄で仕えたそうです。
小天守台の西側が大手の鉄(くろがね)門
小規模ですが左折れの枡形になっています
これを登り切ると本丸広場
広い! 完全削平の平場です
その後伯耆国の領地は分割され、米子城には加藤貞泰が美濃国黒野から6万石で加増移封されましたが、元和3年(1617)には伊予国大洲に移封となったため、在任僅か7年の短期の治世でした。
これは姫路藩主池田光政の鳥取移封に連動していて、姫路池田家57万石は因幡・伯耆2ヶ国32万石の領主に替わりました。
池田家ではその際の居城選定にあたり、鳥取城か米子城かで永くモメた様です。
城郭の規模感、五階天守の威容だけでなく、穀倉地の広がり、交通の便(特に水運)などから米子城こそ太守の居城に相応しい…という声は強かった様ですが、大名配置のバランスなど幕閣の意向も酌んで、鳥取城に決まった様です。
中海です 遠くの島根半島まで弓ヶ浜の洲が続いています
東は米子市街の向こうに日本海、その奥には大山(だいせん)山系
大天守の礎石列 密集した柱の多い強靭な構造だったのでしょうね
別名:久米城と呼ぶのはこの天守台の人柱になった娘さんが『久米さん』だったからとも
思わず覗いてしまいました(^^; 下の二ノ丸、三の丸が良く見えます 左に見えるのは内膳丸
小天守台 不等辺矩形が望楼型天守を物語っています 遠景は大山から続く中国山地
現にこうして米子城の天守台に立って見ると、西は中海から宍道湖への水景、北は弓ヶ浜の白砂と松並木、その向こうに日本海と島根半島のシルエット、東は大山の威容と伸びやかな稜線から続く耕地、南は森林・水資源の豊かな幾重にも重なる中国山地の山容… どう見てもこれは城址として日本有数の景観ですね。
殿様になるなら、即決でこの城ですよ(^^;
しかし、落選した米子城ですが元和の一国一城令にも『伯耆の城』として問題なく遺され、一族で家老の池田由成が城代として支城を管理しました。
寛永9年(1632)、鳥取と岡山の両池田家で領地を交換する“国替え”がありますが、新たに鳥取に入った池田光仲は家老の荒尾但馬守成利を米子城代に据え、以後11代にわたり荒尾但馬守家が城代を継いで明治に至ります。
水の手門跡から下城して行きます
沿道に有った小型の人造ダム 雨水を貯めたのか?
前日に撮った宍道湖の夕日
了
******************************
酷暑対策で2週間早めた夏野菜の植え付けも、2週間早い梅雨明けでチャラに(^^;
戻り梅雨もほぼカラ梅雨で、水運びばかりしていた夏の菜園でした。
台風にも見放された感のある今日この頃…。
来年はサボテン(ドラゴンフルーツ)でも作るかな?
今年のひょうたんは葉も繁らず小柄です
炎天下にはもっぱら冷房の効いた部屋でランプ作り 最新作です