走るおっさんライダーのブログ -8ページ目
女優シリーズ 第3弾
 
なんとなく外人ぽくなってしまった・・・
加藤あい_A 
 
何かが違う・・・
加藤あい_B 

 

最近息抜きにこんなの書いてます。

『日本人はなぜ日本のことを知らないのか』 竹田恒泰著 2011年9月29日発行
 
憲法学者である竹田恒泰氏の著書をこれまで何冊か拝読してきたが、いつも明快で解りやすい内容だ。
日本は世界にも稀な、国家としての長い歴史を持つ。
その自国の建国の歴史を、戦後の日本は教育していない。
それどころか、このような長い歴史を持つ日本と言う国に、日本人が誇りを持たないような教育がなされている。
 
それは、大東亜戦争(第二次世界大戦又は太平洋戦争)の敗戦後の日本において、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による占領政策が、日本を骨抜きにする政策だったからのようだ。
この占領政策は、連合国とは言いながら実質的には米国の思惑によって1945年から1952年までの間に行われており、将来的にも日本が国際社会において影響力を持たないようにと言う意図があった。
 
不思議なことにというか皮肉なことに・・・、自由主義国である米国の占領政策は、国内の共産主義勢力に引き継がれる。
共産主義者は公権力(政府)に反発し、雇用者(経営者)に反発する。
日本政府の弱体化を狙ったGHQの政策は、その点において、社会構造の変革を望む共産主義勢力と共通していたわけだ。
 
そういった者達が、マスメディアの記者となって、政権に対して批判的な目を持つのは、政府によるプロパガンダの危険性を考えれば、安全弁としての働きをするという点で評価できると思う。
しかし一方で、政治の暴走を監視するに止まらず、ただ政府の転覆を望んだり、盲目的な社会主義国の賛美や、そういった他国の視点ばかりに立つ主張をするのは、国民のためになるとは思えない。
それもまた、別の方向のプロパガンダとなるからだ。
 
また、欧米の社会では、雇用者(支配者)と被雇用者(被支配者)はそれぞれ別の階層だ。
それを前提に考えれば、個々では微力な被雇用者(労働者)が、強い権限を持つ雇用者(経営者)に対抗する為には労働組合が必要だ。
日本では、のれん分けと言う言葉に見るように、被雇用者が相応の実力をつけた時、雇用者になりうる社会は馴染みがなかっただろう。
だから、労働組合が普及してない日本を非民主的、前近代的だと考え、労働組合の普及を促したのではないかと思われる。
これもまた、労働者主体の社会を標榜する共産主義者に利用されることになった。
 
日本教職員組合(日教組)がGHQにより組織されたのも、日本の弱体化を狙ったものだと言える。
日本人に自信を喪失させ、欧米への反発を将来的に起こさせないための、長期的な計画の政策が実施されたと聞く。
これもやがて、当時共産主義にかぶれた独善的で自尊心の高い学生が、学生運動の果てに教職員となり、自虐史観を教育することとなる。
現在の教職員が全てそうだとは言わない、しかし、少なくとも日教組としては、正しい歴史を教える姿勢は無いようだ。
 
日本は、古事記、日本書紀などの物語に始まる、世界一長い歴史を持っている。
好き嫌いにかかわらず、天皇を中心にした国家として、他に類の無い文化を築いた。
もし仮に、天皇象徴制を否定するのであれば現行憲法も否定することになるわけだが、そうであっても、だからといって歴史教育においてあるイデオロギーを・・・、少なくとも国家を否定するような教育を施すことに、正当性を感じない。
本書の後半第二部には、そういった面も踏まえつつ、竹田恒泰氏の考える、あるべき『歴史教科書』が載せられている。

この物証や文献に基づいた歴史教科書を多くの方に読んでいただきたいと感じるものだ。
もしこの内容に反論するのであれば、証拠に基づいた論理的な反論が出来なければならない。
 
私見だが、日本は農耕を基礎としてきたためか、強奪目的で戦うのではなく、平和とよりよい政治のために治世権を争った。
例外が無いとは言わないが、基本的に他国へは自国への脅威がない限り、無闇に攻めることは無かったのではないだろうか。
現実がそうかどうかではなく、そのように解釈できるし、そのように教育する方が、自国に誇りを持つことが出来るだろう。
少なくとも、自虐的な解釈を刷り込まれ自国を恥じ卑屈で、本来好戦的だと教えられるよりも、誇り高く平和を愛する歴史を持つ民族だと教わる方が、どれ程国際社会に貢献できる国民を育てられるだろうか・・・
11月2日(土)
“走るおっさんライダー”の住む福岡から高速道路を使って1時間あまり
2013 佐賀インターナショナル・バルーンフェスタに行って来た。
開催期間は11月1日から4日までの4日間
11月にしては暖かく、バイクでのプチツーリング
 
 
 
なかなかの人出だ。
出店もありにぎわっている。
 
佐賀に来たにもかかわらず『佐世保バーガー』の看板に誘われて買ってみた・・・。
しかし・・・パテは焼きすぎて硬く、残念な味・・・
 
 
同会場ではトライアルバイクのデモンストレーションも行われていた。
見物客が多く、遠くからしか見れなかったが・・・うーん 神業だ。
 
本命のバルーンは、午後のスタート時間が15:30からとのこと
バルーンは天候に左右されやすいらしく、雨や強風で中止もありえるらしい。
・・・天気が怪しい

とはいえ、準備は進み、見物客も続々と場所の確保に集まっている。
 
スタート予定30分前に、天候を考慮して距離を短くして開催すると発表された。
先発隊の3基のバルーンが準備され、大空にゆっくりと舞い上がる。
 
 
 
これだけでは終わらない。
出場者のカラフルなバルーンが膨らみ始める。壮観な眺め・・・
 
 
やがて、まるでサンゴの産卵でも見るかのようなテイクオフが続く・・・
フワッと上空に吸い上げられ、まるで生き物のようだ。
 
 
 
そのうちの1基が頭上すれすれを横切った。
今日イチのベストショット!
 
 
 
次々に舞い上がるバルーンは、直径およそ20m程だろうか・・・
そのバルーンがざっと数えると70基ほど・・・壮大なスケール
 
 

もっと撮影したかったが、バッテリーが切れてしまった・・・
 
バルーンは遠くで漂う様子を見るのも楽しいものだが、
“走るおっさんライダー”は、たくさんのバルーンのテイクオフの瞬間が特に興奮した。
 
数年後の国際大会を誘致すべく、活動しているとのこと。期待したい。
『歪みの国・韓国』金 慶珠(キム キョンジュ)著 2013年6月10日発行
テレビ番組『たけしのTVタックル』などにも出演されている、東海大学教養学部国際学科准教授である彼女を、ご覧になられている方も多いだろう。
今まで、韓国に関する書籍をいくつか読んできたが、本書はそれまでとは違う視点で書かれている。
本書の韓国人の視点で書かれた、韓国人の国民性、経済、政治に関する内容はとても興味深い。
日本人向けに書かれたこれらに関する内容は、おそらく十分な配慮をされたのだろう。
無闇に日本を貶めたり、また逆に諸手を挙げて賞賛することも無い。
日本もそして韓国も、共に一定の成果があり、且つ又共に問題点を抱えていると言う論調だ。
 
ここからはかなり主観が強くなることを前提だと断った上でのことだが、彼女のテレビでのコメントなどを念頭に置くと、前述のような内容による、まるで「日本も韓国も共に功罪があるのだから、日本側の韓国に対する非難は正当ではない。」のような論調を、そのまま簡単に受け入れる気にはなれない。
 
対象を一般化して、レッテル貼りによって単純化する手法は、確かに判りやすいのだが、反面、多くの例外を含むことになり、単純化の程度が高いほど、例外部分の比率は高まる。
本書の冒頭で、このような単純なレッテル貼りを否定している。これは、大いに賛同できる点だ。
例えるなら、経済大国である日本は、貯蓄大国とも言われているが、だからと言って、国民の多くが果たしてそれほど多くの貯蓄をしているのだろうか?と言うことだ。

日本における韓国の情報は、その多くが『親韓』もしくは『嫌韓』の、両極に分かれているのではないだろうか?
『親韓』は主にテレビ番組などで多く見ることが出来る。バラエティ番組や音楽番組で顕著ではないだろうか・・・。
一方『嫌韓』はネット上で、その多くを見ることが出来る。韓国における『反日デモ』は、テレビニュースとは比較にならないほど、その情報がネットに溢れている。
 
ここで、個人的に注意が必要だと思う点がある。
テレビなどのマスメディアの情報は、視聴者は多いが閲覧(視聴)時間は短い。
しかしネットの情報は、それを見る人は一定時間には少なくても、蓄積され再利用され、総体的には多くの人の元に届くだろうと言う点だ。

例えば、韓国の小学校における反日教育の証拠として、ネット上には地下鉄の駅に張り出された児童の反日絵画を見ることが出来る。
この作品群には、日本に対するマイナス感情が溢れている。
だがしかし・・・、反日教育が本当に広く深く浸透しているなら、もっと多くの反日絵画が展示されている事例があってもおかしくないと思うのだが、この例以外に見ることは無く、反日教育の存在自体を否定する気はないが、一部の例外的なものだと言えなくも無い。
 
日本では、なかなか韓国の日常は伝わらない。逆に、日本の日常も韓国には伝わりにくいだろう。
両国のメディアで取り上げられるのは、その多くが日常ではなく、非日常なのだ。
これは特に意識すべきだと思う。
韓国内では、メディアと政府は日本のような対立構造ではないようだ。
だから、取り上げる日本の情報は、おのずと反日的なものが主体になっていても不思議は無い。
しかし言論の自由が確保されている日本では、マスメディアによる政府への批判も自由で、政府の意向に従うことは無い。
批判する声が上がり始めているところではあるが、日本のメディアは“報道しない自由”もあるようだ。
日本のマスメディアで、大々的に韓国の批判や反日運動のニュースを見る機会はあまり多くないと感じる。
予測の域を出ないのだが、そのようなニュースを出すと、一つには在日を中心とした団体や個人から、大量の抗議が寄せられるからではないかと思う。
それと共に、韓国籍の社員も入ってくれば、おのずと『嫌韓』『反韓』の情報は“報道しない自由”に取り込まれるだろう。
このような波に逆らう形で、ネット上に日本の『嫌韓』の情報が氾濫してきたのではないかと思うのだ。
 
こういった状況で相手の国を見るとき、ネットの情報を知った日本人は、『韓国人は基本的に全て反日である。』と考えるだろう。
しかし、韓国の政府やメディア、一部の韓国人の言動が反日的であったとしても、必ずしも全ての韓国人が反日であるとは言い難い。
日本のメディアに『親韓』的な情報が溢れていても、日本人の全てが『親韓』とは言えないのと同じだ。
国家やその国家の、政府の方針や言動を、その国の国民全てに当てはめるのは不当だろうと思う。

東京の新大久保では、在日朝鮮人とそれらの人々の持つ特権を批判する団体との衝突が、恒常的に続いているようだ。
ヘイトスピーチと言う言葉が知られるようになったきっかけと考えられる。
おそらくこの運動は、韓国にも知られているだろう。しかし、この運動は日本全体で言えば、一部の特異な例だ。
にもかかわらず、彼らは「日本では反韓のヘイトスピーチが盛んである。」と受け取っているかもしれない。
 
韓国を擁護する気はない。
ただ、ニュースになるような出来事は非日常であり、その非日常の情報で、韓国の日常を知ることは難しい。
つまり、ニュースで知った情報を頼りに、その対応策をとったところで、日常の問題の適切な対応になるとは思えないと言うことだ。
『日本人はいつ日本が好きになったのか』 武田恒泰著 2013年10月2日発行

数年前までは『愛国』と言うと、少々偏った思想の持ち主だと思われた。
しかし、最近では状況が変わってきたと感じている。
本書を読むと、日本人としての自信と誇り、愛国心の高まりを感じる。

 

書かれている主張は、ほとんどが同意できる内容だった。

 

ただ、韓国を [どうでもいい国] と、かなり軽視している点については同調できなかった。
いい意味か悪い意味かは別として、注意を払う必要があると思っているからだ。
 
一方で、このような流れに強く反発するものも根強いようだ。
革新派(いわゆる左派)であり、その代表とも言えるのが日本共産党ではないかと思う。
先日『たかじんのそこまで言って委員会』と言う関西発信のテレビ番組で、共産党大会が放送されたが、その主張の矛盾を感じた人は少なくないだろうと予想する。
いちいち、矛盾点を書き連ねるのも面倒なくらいだが、個人的に特に嫌いなのは、天皇陛下を軽視する態度だ。
日本は、天皇と国民が互いのことを想い合いながら、その長い歴史を歩んできたと思っている。
このことを尊重しないでは、日本の歴史の連続性を否定する、日本の破壊であると思う。
日本の、和の精神、相手を思いやり、利己的にならず、切磋琢磨する国民性が好きだからだ。
 
また、慰安婦問題において、共産党はその強制性を訴えているのだが・・・
 
ある犯罪の疑いがある時、明確な証拠も無しに、容疑者を有罪にすることは許されるのだろうか?
仮に告発者の証言のみで、しかもその証言が二転三転する内容だった時、犯罪の成立を認めていいのだろうか・・・?
 
共産党にしても、そして社民党にしても、こと日本政府に対する事案に限っては、大きな矛盾や証拠に基づく反論も、異常なくらいに受け入れようとしない。
 
告発者のあいまいな証言に対し、被告にはそれを否定する物的証拠があるにもかかわらず、泣き叫びながら証言する原告に、感情的な反応で犯罪を認める社会は、果たして公平・公正な社会といえるだろうか。
 
もし、大東亜戦争当時の日本を責めたいなら、明確な証拠を示してからにして欲しいものだ。
そうでなければ、彼ら自体に対する信頼感は持ちようが無い。
『日本を元気にする本』まるごと一冊竹田恒泰 ムック本
正直なところ、この本が日本を元気にするかどうかについては、個人的には疑問である。
まさにまるごと一冊竹田恒泰氏を紹介しているだけである。
それ自体が悪いとは思わないが、取り立てて元気を誘う印象は残らなかった。
竹田恒泰氏については、その著作を読む方が元気になるし、日本人としての誇りを取り戻せると思う。
 
竹田氏は昭和天皇の玄孫(やしゃご)であり、旧皇族家の方である。
そのご出身であることから、天皇(制)を守る立場で論陣を張っておられると思われ、この点においては間違いなく保守派である。
しかし、多くの保守派と違い、反原発を訴えておられる。
原発については“走るおっさんライダー”は判断を保留している。判断するための情報が不足しているからだ。
また竹田氏は、在日外国人(朝鮮人を代表とする)は『日本の宝』という主張をされており、多くの保守派とは異なる見解だ。
“走るおっさんライダー”は、『日本の宝』とは言いすぎだと思うが、一部の保守派が在日特権を有する外国人の排除を叫ぶことには賛成していない。
それらの人々の排斥ではなく、あくまでも特権の解消を訴えるべきであり、それに伴ういびつな構造こそ不透明な部分や、不平等があるように思う。

さて、保守を自認する方の中には、こうした竹田氏の反原発や在日外国人に対する見解を持って、「竹田氏が実は左翼(左翼的)である。」という意見をネット上で見聞きしたことがある。
しかし仮に、竹田氏の主張する反原発の根拠に反論したとしても、その論証を持って竹田氏を左翼とする考えには違和感を憶える。
在日外国人を『日本の宝』というからと言って、反日思想であると断ずることにも同意できない。
 
原発については、肯定派、否定派、共に議論百出である。放射線の有害性についても、両論が存在する。
安全性や廃棄物など、現時点でのコントロールが十分でないことを持って反対することも出来るし、現時点でコントロールできないからといって、諦めてしまっては、この先コントロールできる可能性すら放棄することになる。とも言えるのだ。
『保守なら原発肯定だ』などと言う前提に基づいた肯定派の反論は、賛成派の論理と同程度の曖昧さしかないように思う。
つまりは、原発反対か賛成かは、その人の集めうる情報の内容によるものでしかなく、どちらの主張を取るかと、日本の将来を想っているかいないかとは別だと思うのだ。
 
自分が立つ、今この地点から目的地まで、道順が明確でない中、右に行く方が早いのか、東に行く方が早いのか・・・。という状況を考えていただきたい。
右が早いと信じる者が、左が早いと信じて進もうと言う者を、「左に行こうと言う奴は、実は目的地を目指していない。」と、その目的自体を否定するのは論理の飛躍だ。
 
竹田氏が在日外国人は『日本の宝』と主張することに関しても、今後の日本が歩む歴史の中で、彼ら在日外国人が日本を愛し、いずれ帰化して日本人の一員となりうると考えてのことであり、これまでの日本の歴史を振り返ったときに、そう言った事実が認められることに基づいているようだ。
更に竹田氏は、反日思想の在日外国人は『日本の宝』から除外して述べておられる。

こういった点を考えれば、竹田氏が左翼的、すなわち日本の弱体化を意図しているとは、到底断ずることは出来ないと思うのだ。