走るおっさんライダーのブログ -6ページ目
諸々あって記事の投稿が滞ってしまった。

人は先入観や偏見、それに基づく憶測で勝手な未来予測をする。
「彼は左翼(或いは右翼)だから・・・」と、その主張を頭から否定したり、逆に盲信したり・・・
「○○法案は、××××(勝手な推論)につながり大変な事になる。それに賛成する奴は国賊だ。」など。

先日の科学的論文の疑義に関しても、専門家でもない者が「存在する。」とか「あり得ない。」などと、記者会見の答え方の印象から、わかった気になっている者もいるようだ。

意識下か無意識下かはわからないが、体制や多数の意見に迎合する者がいる反面、同じようにして反対の意見を取ろうとする者もいる。

自分の印象を出発点にして、それに関する論理を組み立てて、情報の重さを恣意的に判断する。
意見に沿えば重要だと思い、反すればその情報は軽く扱われる。

そうして補完された結論は、いかにも正しい予測、正しい判断として、その確信は強固になって行くようだ。
そしてその主張を外部にひとたび発信すると、その後に主張の根拠がひっくり返されても、なかなか撤回することはできない。

もしかしたら、あの発見も彼女のそうした気持ちが、無いものを有ると信じて発表させたのかもしれないし、勿論本当に存在が確認されたのかもしれない。
現段階で誰も判断できない以上、彼女を断罪することはできないはずだと思う。
仮に存在が確認されれば、コピペや画像の問題、論文が稚拙だと言う意見など取るに足らない戯言になる。

消費税の8%への増税決定までは、いわゆる保守派と言われる人たちでさえ、その多くが反対してその論拠を語っていたが、安倍総理が増税の決定をした途端、増税するべき理由を口にし始めた。
この場合は、増税反対の主張を撤回する方が、安倍支持を撤回するより楽だったからだろうと想像する。


大阪市の橋下市長は、左派勢力からも右派勢力からも、賛否両論を受けている。
―あらかじめ言うと“走るおっさんライダー”は、今のところ橋下維新を支持する立場である。―

面白い事に、彼に反対する者は、普段マスメディアの批判をしながらも、マスメディアからの情報を頼りに、いかに彼が信用できないかを語ったりする。
現代に差別など無いと、それによる優遇の廃止を言うものでさえ、彼の出自を取り上げて、彼を非難することさえある。
そういった人たちは、
彼が大阪市の財政を改善しても、
海外で日本人が受けている不当な非難に対して立ち上がっても、
朝鮮学校への支援を打ち切っても、
生活保護費の不正受給を是正する対策も、
教育費の支出を増やし、
日教組の組合員の教員が国歌斉唱を拒否したことに対して厳格に対処しても、
「単なるパフォーマンスだ。」と軽く見るのだ。

道州制(の前段階としての府市統合)やカジノ特区の推進を、「日本人以外の者に利する。」と考えているようだが、その考えが勝手な推論に基づいていることを自覚しているのだろうか?

「道州制は在日外国人に地方が乗っ取られる。」とか
「カジノは治安悪化や、パチンコ業界への優遇だ。」と言うのは、根拠のない批判だ。
なぜなら、それらの法案の中身はなにも固まっていない。

自分で情報を集め、自分で考えることは重要だと思うが、そこから得られた結論に対して、柔軟でいることも必要だと思う。

常に、前提が崩れれば・・・、新たな情報があれば・・・、必要に応じて精査し、結論も見直すという姿勢でいなければ、自分の結論の前に盲目になってしまう危険性があると思うのだ。
先日、3月29日(土)午前01:30からの『朝まで生テレビ』を見ていたのだが、コメンテーターである若い社会学者の発言が気になった。
彼は、日本で戦前まで行われていた道徳教育の一つである【修身】の復活の声に対して意見した。
「【修身】は人としての道徳教育と言うが、それが行われていた時代の軍隊は【いじめ】が酷く、その教育が行われてない現代の自衛隊は非常に規律正しい。だから【修身】教育は効果がないので必要ない。」(ブログ主の意訳)
と言う様なものであった。

さらりと聞くと、説得力がありそうに受け取られる方もあるだろう。
しかし“走るおっさんライダー”は全く考え方が違う。
確かに、戦前戦中の軍隊では恐らく酷い“いじめ”が行われていたのだろう。
またそうでなければ、特攻と言う作戦を考え付かないといえるかもしれない・・・。
ただ、それが果して【修身】教育によるものだろうか?直接の関連があると言えるのだろうか?

たとえば少なくとも、現在伝え聞く話では、大東亜戦争時代の日本軍は、欧米の植民地と化したアジア各地に侵攻した際、非常に規律正しく、また現地の住民を大切にしたと言う。
南京事件として言われる、陥落後に入城した日本軍だが、『虐殺があった』と言う証拠のない主張に反して、現地住民との親交を示す写真やフィルムが多数残っている。
パラオでは兵士が現地住民に日本の農業技術を伝え、やがて島を守るための戦い(ペリリューの戦い)では、アメリカ軍との戦いを前に島民を避難させた話しは、今でも親日的なパラオの方々から伝わる話しだ。
戦後抑留された日本兵が、ウズベキスタンで建設に従事したナボイ劇場は、市内の建物がことごとく倒壊した二度の大地震に耐え、抑留と言う状況下でも手を抜かず真面目に建設した証しとして、今でも残っているという。

戦前の欧米列強がアジア諸国を植民地として支配していた当時、はたして現地の住民はどのような待遇、権利があったのだろうか。
戦後日本はアジア諸国を侵略したとされているが、あえて侵略であると認めるとしたらそれは、アジアの独立国を侵略したのではなく、欧米列強に支配されていた植民地に侵略したと言えるだろうと考えている。

当時の日本軍と現在の自衛隊と比べて、【修身】による道徳教育に意味が無いと語ることに妥当性はないと考える。
少なくとも当時の日本軍は、他国の軍と比較すれば規律正しく、高い道徳心を持っていたのではないだろうか。
もちろんそれが【修身】による道徳教育の賜物かどうかはわからない。
しかし、教育が人格に与える影響は少なくない。
環境の影響も大きいと思うのだが、環境の一部は教育が影響している。
その環境としての、人々が作るその場、その土地の習慣や価値観、善悪の判断=道徳心を形成する要素となりえるからだ。

悪事に対する抑止力は、そう言った環境としての価値観が左右するのではないだろうか。
教育、道徳心、価値観、環境と言ったものは、それぞれが密接に関係し合っていると思う。
日本国民が高い道徳心、価値観を有しているからこそ、震災時にも混乱が少なく、その姿に他国が驚いたのだ。

【修身】の道徳教育が、日本を戦争に導いたと言える根拠は認められない。
そもそも世界では【修身】の教育が行われていないにも拘わらず、現在でも戦争や紛争は絶えていないのだ。
自衛隊を国防軍にしたり、憲法九条を変えることで「日本は戦争する。」と唱えることにも根拠はない。
世界では軍隊を有する国がほとんどであるにもかかわらず、そのほとんどの国が戦争をしていないからだ。

【修身】による道徳教育が、今後必要かどうかは、ここで問題にする気はない。
しかし少なくとも、「【修身】による道徳教育に意味が無い。」と語る社会学者の主張には根拠が無いと言えると考えている。
憲法とは何なのか・・・それは国家の最高法規である。
(憲法に関して学問的に勉強したわけではないので、そのつもりでお読みください)
ただその役割について、決定した明確な定義は無いようだ。
先日国会質疑で、社民党の福島瑞穂議員の「憲法は権力を縛るもの。」(ブログ主の理解)と主張する質問に対し、安倍総理は「そういう面もあるが、それだけではない。」と答弁した。
 
これは、与党自民党の憲法改正草案に関する議論として行われたと記憶している。
国会議員は権力者であり、国民は被権力側であると言う前提で語られており、草案には"権力を縛る以外の内容が入っている”と反発したわけだ。
 
福島議員を含む一部の人たちは、このように「憲法は権力を縛るもの」と言っているのだが、"走るおっさんライダー”は、しかし安倍総理の答弁の方が支持できる。
そもそも現行憲法においても、例えば
第二六条の“義務教育(親は子に教育を与える義務を負う)”や、
第三十条の“納税の義務”など、権力者の権力を縛る以外の内容は入っている。
もし福島議員の主張を正とするなら、何よりもまず現行憲法を変える必要があることになろう。
 
そしてさらに矛盾を感じるのは、憲法九六条の憲法改正要件である。
第九章 改正
第九六条 この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
(2)憲法改正について善行の承認を経たときには、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを交付する。
日本が国民主権の民主主義国であり、権力者である政治家を縛る(面もある)憲法に、国民の意思が反映されるべきであるなら、現行憲法は改正発議の首根っこを権力者が握っているのであるから、そこを見直すのは何らおかしなことではないと思う。
現状は、もし国民が改正を望んでいたとしても、三分の一を少しでも超える国会議員が変えたくないと望めば、国民投票をすることは出来ず変えられないわけだ。
 
現行の日本国憲法が、敗戦後のGHQによる占領下で成立したことは周知の事実であるから、占領軍からすれば簡単に変えさせたくないと考えるのは当然だろう。
それほど、大東亜戦争における日本人の戦いぶりは彼らに脅威を与えたのだろう。
そして、占領下とは言えあまりにも理不尽な憲法では、GHQの無法ぶりが非難される懸念もあっただろうし、主権回復後に簡単にひっくり返されても困る。
その落としどころが、厳しい改正要件だったのではないかと、勝手な推測をしてみた。
 
いずれにしても、発議の要件を緩和したところで、国民投票による審判は行われるのだ。
発議できたからと言って、「憲法が簡単に変えられる」などと言うことは考えられないし、もし変わるのであるなら、それだけの憲法でしかなかったと言うことではないだろうか・・・?
2014年3月9日放送の「たかじんのそこまで言って委員会」
もう、かのフェミニスト田嶋陽子氏の発言はネタとしか思えない・・・。
冒頭、百田直樹氏の登場で「人間のくず」発言について、そして、大東亜戦争(太平洋戦争、第二次世界大戦)における、米国の原爆投下の違法性発言について主張がされた。

本来、原因が何であろうと戦時においても、非戦闘員に対しては攻撃をしてはいけないというルールを、連合軍(米国)が侵したのは明白だ。
しかし田嶋陽子氏は、原爆投下について「正しいとは言わないが、日本が戦争をやめなかったからだ。」と発言した。
もしこの主張基づくなら、そして、仮に日本に不正義な原因があるとするなら・・・
例えば、重大犯罪を犯して逃走する犯人を制止するために、犯人の家族や友人知人を殺して逃走意欲を削ぎ、
それを「彼がいつまでも逃走するからだ。」と言うに等しいのではないだろうか・・・?
 
日本は、開戦時の真珠湾攻撃においても、一般人を対象としていない軍事施設を狙った攻撃だったそうだ。
アジア地域での戦闘に於いても、植民地支配を受けていた国の国民ではなく、支配していた欧米の軍隊と戦った。
これを侵略と言うかどうかは、立ち位置によって変わるようだが、“走るおっさんライダー”は、侵略というなら侵略といってもいいと思っている。
但しそれは、独立国家への侵略ではない。欧米諸国が支配する植民地への侵略だ。
 
当時、個々人としては、真に植民地の解放と大東亜共栄圏の建設の為と考えた者がいただろうし、領土拡大を動機とした者もいたかもしれない。
しかし、誰のどのような発言や記録があったとしても、今更どちらか一方に決められるものではない様に思う。
ただ、日本軍の戦闘の相手が欧米の軍隊(及びその協力者)だけであったことを考えるなら、「植民地の解放を掲げた侵略戦争」とすればいいし、かつまた、これを恥じることも無いと思うのだ。
 
田嶋氏は、侵略ではなかったと主張する百田氏やその他のコメンテーターの意見に対して、「そんなに言うなら、国際的な裁判でもやって“東京裁判”をひっくり返せばいいじゃないか。それをしないで反対するのは潔くない。」という趣旨のことを主張した。
それはそうかもしれない・・・。
ただ、そうならば“自称従軍慰安婦”に対しても、同じことを言って欲しいと思うのだ。
「世界中あちこちに慰安婦像を建ててないで、国際的な裁判でもやって決着をつけろ。」・・・と。
 
そして何より、いわゆる“(従軍)慰安婦の人身売買や強制連行”を否定する者たちに対して、グゥの音も出ないような証拠を叩き付けて欲しい。
田嶋氏は「証拠はある。」と常々言っている。彼女たちは年老いている。もう一刻の猶予も無いと思うのだが・・・。