私が急に、この拙い俳句を始めたのは、東日本大震災と福島第一原発事故による避難のあの年の冬からのこと。
毎週末復興ボラに参加させていただき、神奈川からボラバスを出す活動のスタッフに加わる中で、気付けば不眠と不調に襲われてのドクターストップ、抱えきれなくなった自分を吐き出すために短歌と俳句を書き溜めていきました。
阪神の震災、広島豪雨のボラ、東北ボラとあれから年月が経ちましたが、奥能登の画像、惨状を画面からネットから、ラジオから視聴するのが未だに苦しい。途中で視聴を止めることも。
年齢と既往を考えると、家族を説得してまで現地支援には、もう行けない…。
ジャムパンの凍りぬ喉を通ざりき
正月の暗展せる午後四時十分
破魔矢の如女子アナ叫ぶ逃げろ逃げろ
マイカーに凍へり断水停電を
ヒト棲める場所などわずか冬の災
スイッチを押せば暖くる朝がくる
小寒や蛇口から湯の出る日常
八日ぶり地獄風呂と呼ぶ初湯かな
奥能登へ派遣警察官若し
震災忌とならむ昭和百年元旦
東日本大震災ボランティア、…バスを借りて水一式と道具、食料すべて自前で積み込んで、泊まりも着替えも車中、瓦礫と言わない、写真は撮らない、を約束にして各地に向かいました。ボラバスにより女性の参加が一気に増え男女逆転になりました。女性は、被災地で安心して迎えてもらえるボランティアの主力となりました。