生きることに意味はあるのか

 

 

これをお読みくださっているみなさんも、一度は考えたことがあるかもしれません。

 

 

古今東西、人間は「生きる意味」について考えを巡らせてきました。

 

 

私個人は、生きることそのものに「意味」はないと考えています。

 

 

生きること、生きているということは、ただそのようにあるという「状態」のことだと思っているからです。

 

 

人間にあるのは「意味付け」の自由ではないでしょうか。

 

 

人間に導入されている情報処理システムは「脳」という名で呼ばれています。

 

 

全ての人の脳がそうというわけではないかもしれませんが、多くの場合、脳は「思考」という作業をこなす際に「合理性」を作り出します。

 

 

ここでいう脳の合理性とは、自分が抱いている感情の理由や、物事に対し特定の意見を持っている理由を説明しようとする働きのことです。

 

 

脳のこの働きのために、多くの人は「意味がない」あるいは「意味があるのかわからない」と感じる状態に、居心地の悪さを覚えます。

 

 

人間が「意味」を求めるのは、実際にそれが「ある」からではなく、思考を行う際にそれが「必要」になるという「システム上の問題」です。

 

 

あると思っていたものがないとわかれば、探し回って不安になるという問題が解消されますし、自分に導入されているシステムの仕組みがわかれば、それに振り回されずにうまく使うことができます。

 

 

「合理性」がないと思考がままならないというのは、人間の「機能的な制約」であり、一種の「不自由」ですが、この不自由さが人間に「意味付け」の自由や楽しさを生み出しました。

 

 

好きなように意味を付けられるなんて、とてもお洒落で素敵だと、私は思っています。

 

 

またこの「不自由」は、脳にとって大きな役割を担っています。

 

 

脳にはその情報処理能力や記憶容量に上限があるので、合理化によって膨大な数(量)の情報をひと纏まりのもの(概念)として扱えるようになることは、過剰な負荷から脳を守ることになるからです。

 

 

このような脳の「自由」な働きは、脳が作り出す「不自由」によってなされています。

 

 

世の中にはこのように、自由のために作り出される不自由が溢れているのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

多くの子供には、あらゆることに「なんで?」を投げかけてくる「なぜなぜ期」と呼ばれるものがあります。

 

 

「なんで風船は赤いの?」「なんで虹がかかるの?」などの質問に大人が回答を詰まらせてしまうのは、彼らのこの「なぜ」を、仕組みなどの「理屈」を問うものだと勘違いしているためです。

 

 

彼らがこのように聞き始める頃(二歳くらい)の「なぜ」は、「何のために」「誰のために」そうであるのかという「目的」に対しての問いであり、どのような仕組みでそうなっているのかという「理屈」に関心が出てくるのは、もう少し後だそうです。

 

 

「何がために風船は赤いのか」「誰がために虹はかかるのか」などには答えがなく、まさしく「意味付け」の自由や楽しさがあるとは思いませんか?

 

 

人間にはそれができます。

 

 

私がこの、人間が演じる不自由さゆえに途方もなく拡大する自由を、お洒落で素敵だと感じ、人間という存在の醍醐味の一つであると感じているのは、このような理由です。

 

 

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