しかし、そのいくつもある相違点の中で最も早く明らかになるのは、やはりリーチの差だろう。ケルビモンの得意とする攻撃手段は雷を用いたもの。あるときは槍にまたある時は落雷として落とす雷はその射程距離もかなり長く、汎用性が高い。
一方でリリスモンのメインとなる武器は触れたものを腐食させる件の爪と末端からデータを消失させる呪いの吐息だろう。そのどちらも掠りでもすれば、腕の一本二本すぐに消えるような代物。対処を誤ったり、傷を放置していれば、そのまま掠り傷が致命傷になる。しかし、一方で爪の稼働範囲はリリスモンの腕の長さに依存し、吐息も離れすぎては呪いが薄まり効力を発揮できなくなる。
つまりケルビモンが取るべき手段は一つ。それは懐に入り込ませず、自分の間合いを維持して攻撃を行うことだけだ。
「ライトニングスピア」
比較的小さなアクションでそれが可能なのが、片手で生成した雷槍の投擲。たった一本程度ではリリスモンには当然当たらない。だが、三葉らの方に進路を取るより早くに牽制として投げることで、こちらに注意を誘導することには成功した。
「ふ、ふふ」
踊るようなステップで宙を駆けるリリスモン。その動きに驚嘆しつつ、斜めに後退して最低二十メートルは距離を維持。先ほどよりも若干遅く大振りな動作で右手を振るい、五本の槍を生成。横一列に並んだ槍が均等に間隔を空けながら走る。リリスモンそのものを狙うというよりは、ある程度広範囲に仕掛けて彼女の動きを制限するのが狙いだ。
一歩でも足を止めれば僥倖。あわよくば近接攻撃しかないはずの彼女がどう対処するのかを見極める。
「うふふ」
前者の目論見は叶うことはなかった。雷の槍はリリスモンに届く前に霧散し、彼女は一歩も足を止めることはなかった。後者も完全に見極められたわけではない。ただ、いつのまにかリリスモンの周囲に渦巻いていた紫の霧が五本の槍を受け止め、消滅させたという事実を視認できただけだ。
「ち……」
すかさず次の手の準備を進め、再度五本の槍を生成、投擲。絶えず身体を動かしながら、思考能力も高速で働かせる。
ありがたいことにあの紫の霧に心当りが無い訳でもない。リリスモンというデジモンの持つ最大の武器の一つ、呪いの吐息「ファントムペイン」だ。自身がその抗体を持っているのなら、浴びたものを末端から消失させるそれを周囲に展開して守りに使うという手も可能だろう。ただ、その呪いが雷にまで通じるとはどんな理屈だろうか。
「ふ、フフフッ」
「む……っ!」
リリスモンとの距離が瞬間的に一気に詰まる。ケルビモンの思考の合間に生まれた僅かな隙。虚とでも呼ぶべきその一瞬を突いて、女神はその肢体からは連想できない体捌きを見せる。
踊るようなステップから一転。摺り足のような歩法からの跳躍。一挙手一投足。そのすべてがただ城や遊郭の奥に潜むだけの女では不可能な、その手でその毒であらゆる男を沈めてきた暗殺者のそれだ。
見とれる間もなく、距離は一メートルも無い。振り上げられる右手は死神の鎌のように、その先の爪
「ぬぐぅっ!!」
振り下ろされる呪いの爪。それは標的に定めたケルビモンの首へとまっすぐに走り、――雷の柱によってその進路を阻まれた。
ケルビモンが呻き声を上げたのは断末魔などではなく、単純に左手に掛かる重みに耐えてのもの。原因はその左手に握る雷の槍と激突するリリスモンの爪。仮にも人の、か弱い淑女の姿をしていながらなんて膂力だ。だが、その膂力に抗うという状況にまで持ってくることがどれだけ難しいか。
「正直さっきの貴女の動きを見て、一切効き目は無いかと思いましたが……上手くいって良かったです」
「ええ、よい判断ですわ」
「お褒めに預かり光栄です」
件の爪――ナザルネイルは触れた物を即座に腐らせ、朽ちさせる呪いの爪。それを相手にしては鋼やミスリルであろうと紙切れを盾にしているのと同じ。だが、雷の槍ならば朽ちた瞬間から、ケルビモンのエネルギーを変換することで失った分を修復することができる。いつも以上にエネルギーを消費することにはなるが、それは些細なことだ。
それにこの攻防でついでに推測できたことがある。それは先に投げて消失した方の雷。あれはこちらのエネルギー供給が無かったために末端から消えたのだろう。
「では、これは?」
試すような笑みの後、リリスモンは一度大きく息を吸い込む。その予備動作が何を意味するのかはケルビモンも即座に理解できた。対応策も迅速に取っている。それは既にリリスモンの口へと狙いを定めた小さな雷槍だ。
「ん……ふふ」
ノーモーションで放たれる雷の鋲。それをリリスモンは頭を後ろに傾けて回避。二秒置き、思わず止まった息を吐き出すべく彼女は頭を起こす。
「ふッ!?」
その口を狙う生成途中の二本目の雷。完全に槍として充分な長さを備えたそれこそが、ケルビモンの本命。起き上がる頭を迎え撃つかたちで彼女の口に鍵を掛けようと奔る。
「ふ、すぅぅー」
リリスモンの戸惑いはほんの一瞬。口を開け溜めこんだ瘴気を吐き出して雷へとぶつける。その瞬間、ケルビモンの右手に掛かるエネルギーの消費が感覚的に分かるほどに増大する。槍から喪失した分を補給するために余分に吸われている証だ。爪よりも消費量は多いが、それを差し引いても十分槍の形状は維持できている。なら、後はそのまま押し込めばいいだけ。
「はあああ――くっ!?」
そのはずだったのに、ケルビモンの右手はそれ以上前に進むことなく引っ込んでいた。槍の狙いが大きく逸れた訳ではない。このまま腕を伸ばせばケルビモンの腕自身が瘴気に飲まれて朽ちることを彼が恐れたためか。凡そ正解。それが自分の一撃の対価になるのなら、ケルビモンも渋々差し出した。しかし、ただ無駄に失っていいような代物でもない。
ケルビモンの目の前を通過する女性らしい柔らかい肌の手。それは数秒前までケルビモンの右手を掴もうと動いていた。左手があれだけの膂力があるのだ。見た目がか弱い乙女の手だとしても、それに掴まれたならばきっと、掲げた槍は届くことなく、ケルビモンの右手が瘴気の犠牲になっていただろう。
「ち――」
右手が無駄な犠牲になることは避けられた。だが、その犠牲を作ろうとした瘴気は既に吐かれて今まさに迫っている。
「……――弾――石敢当改」
不意に遠くから聞こえた声。直後に目の前の地面から突き出る巨大な石の壁。それが誰が誰のために仕掛けたものかは一瞬で分かった。あそこからはこちらの詳細は正確に判断できないだろうに。ただ、リリスモンが息を吐くような動作をしたと見えたから壁を張ったというところか。
どんなかたちであろうと今はありがたい。目の前で無残に朽ちていく石壁の提供者に感謝しつつ、彼女がくれたヒントを活かすべく周囲に目を向ける。気合いを入れるのは良いが、視野狭小になるのは頂けない。俯瞰する理性で反省しつつ、それが意識する範囲を周囲に広げる。
「優れた直感に、窮地を守るサポート。えぇ、とてもよくってよ。ねぇ、もっと見せて。ほら、もっと足掻いてちょうだい」
いつのまにかリリスモンは敬語が崩れて本性
三葉が用意した石壁はあらゆる場所から綻び、朽ちて消える。その奥でケルビモンが見たのは、先の言葉を発するに相応しい程に興奮したリリスモン。彼女は先ほどとは別方向に進路を取った自分を認識した途端、獲物を捉えた鷹のようにドレスを翻してまっすぐに駆けだした。
周辺には先の戦いで生まれた瓦礫の山が遍在している。その一つに一瞬だけ視線を移し、左にステップを踏む。後を追うリリスモンから目を逸らさず、自分は倒壊した瓦礫の山へと潜り込んで彼女の視線を切る。
「ふふ」
リリスモンは笑みを絶やさずに、かなりの熱を持った思考でケルビモンの意図を探る。
瓦礫を壁にして身を護る魂胆か。だが、その壁は瘴気の吐息の前では十秒も持たずに崩れる程度のもの。入り口にした瓦礫はすぐに跡形もなく消え、それを支えにしていた瓦礫も落ち、瘴気に飲まれて消滅する。潜り込んだ城は音を立てて倒壊を始め、跡形もなく朽ち果てる。
「あら?」
リリスモンは人差し指を口元につけて首を傾げる。消えたのは瓦礫だけでなく、その奥に隠れたはずのケルビモンもだった。瓦礫とともにあっさり朽ち果てたとは流石にリリスモンも考えていない。ならばどこに。眼球だけ動かしてその姿を探して十秒。リリスモンは顔を上げて口角を吊り上げる。
視線の先には上空で悠々と佇むケルビモン。周囲には三十もの雷の槍が待機中。加えてリリスモンの頭上にはゴロゴロと音を鳴らす雲が。
「裁きを!」
ケルビモンの声を合図に、彼が身を隠している間に仕掛けた下準備が実を結ぶ。
正面から走る雷の槍。真上から降る落雷。二か所から同時に襲う雷はファントムペインを使ったとしてもリリスモンには防ぎきれないはず。轟音が空気を裂き、閃光が視界を塗りつぶす。感覚を妨害するものが消えたその先で、彼女が膝を着く姿が待っているだろう。
「あぅ、あがっ……あぁン……ク、うふふふ」
音は止んだ。光は消えた。だが、その女は膝を着いておらず、今までにないほどに悦に浸っている。けして無傷などではない。豪奢な衣装はびりびりに裂け、身体の至るところから血に塗れている。特に額に入った傷は夥しい量の血を流し、顔の大半を覆っている。
「ンフフ、あぁン……アッ、あふフフフ」
口元の鮮血に左手の指を這わせ、指先に着いた赤を丁寧に舐めとる。そうして味わった自身の血はリリスモンにとっては痺れるほどに甘美で、蕩けるような快楽に抗えない。染み出る血が溶け込むほどに頬は紅潮し、身体は無意識に痙攣し大きく仰け反る。
望み通り足掻いてくれた。その成果として自身に傷をつけてくれた。そんなケルビモンを愛
「フフはぁン……あハハハハッ! よくってよ、よくってよぉ。あぁ、あなた本当によくってよ!!」
掻きむしるように左手を顔に押し当て、リリスモンは感情のままに大声で笑う。半分隠れた状態でも分かるほどにその芸術品のような顔は歪み、喘ぐような声を半ば壊れたラジカセのように長々と鳴らす。
「何を……」
ケルビモンにはそのすべてが全身の毛が逆立つほどに不気味で不快だった。一矢報いたはずなのに、何の達成感も生まれない。思考も目の前の相手の狂気に困惑中だ。
ただ一つ言える事実があるとするなら、それは開けてはいけない箱を開けてしまった、ということだけだ。