三葉が言い放った言葉の意味が、一也にはすぐには理解できなかった。
誰かを好きになったこともない? そんなはずはない。そう言い放った片割れと同じように誰かを愛していたはずだ。自分を救ってくれた人を眩しいと思い、その背中に憧れ、その肩を支えたいと思い、その心が幸せであってほしいと思った。三葉と同じ起点からここまで、同じようにその思いは変わらずに繋げてきたはずだ。
そうだ。そう言えばいい。そのはずなのに、言葉は詰まり、喉は渇きを訴え、視線は告発者の目に焦点が合わない。――否定しなくてはいけないはずの言葉を否定することができない。
「……どうしたの? 違うとか、そんなことはないとか言えないの?」
「そん……ち、が……いや、なっ……」
三葉に急かされてやっと声が出たが、それが言葉の体裁を取ることはない。まとめようにもその材料となる自分の思いを自分自身が疑ってしまう。
「……お前と同じように葉月先輩を思っていた、とでも言いたいの? 笑わせないで。一也は私の真似事をしていただけ」
答えられない一也を無視して三葉は持論をぶつける。それに対する反論も一也から出されることはないため、一也がけしかけたはずなのに逆に三葉の弁論が一方的に展開される。
「確かに一也も私もあの日に救われ、救ってくれた二人にそれぞれ憧れた。でも、一也はあくまでずっと憧れで変わらなかった。一方で私は本気で充先輩を、あの人を好きになっていた。……一也は誰かのことを思って苦しんだことある? あの人の所作や感情の機微がいちいち気になったことがある? 私はある。というか今も、むしろさらに激しくなってるの! なら、いっそ……きっと私のやってることを知ったら心の底から嫌われるでしょうね。そうだとしても――どんなかたちでもあの人の隣に居れればそれでいいの!」
言葉には熱が乗り、酔っているかのように頬は紅潮している。内容はいつのまにか一也の感情の論破から、自分の感情の吐露へとすり替わっていた。それに三葉自身も気づいたらしく、頬を染めたままわざと咳払いし、改めて一也に告げる。
「……話が逸れたわ。一也は私のそんな姿を見て、自分を同一視していただけでしょう? 私が充先輩に本気で思いを寄せる姿を見て、同じ出来事を起点にしている片割れなら同じようなことをするだろうと考えて、葉月先輩を好きだと思い込んでいた。『金城葉月が好きな三条一也』を演じていただけよ」
三葉が充を好きになったのだから、自分も彼女と同じように救ってくれた人を好きになる。お前の気持ちはその前提を持っての思い込みなのだと糾弾されていた。
一也は反論しない。答えを持たない人間には不可能なのだから当然か。だが、ムキになって感情論をぶつけることすらしなかったのは、単純に言い返せないだけではないということでもあった。
「そんな人間に私の気持ちが分かるはずない。私はもうあんなもの見たくないから、現実にしたくないから……」
三葉の言葉は、彼女が吐き出した感情はまだ止まらない。彼女自身、一也のことなどもうどうでもよくなっているのだろう。ただ、自分が下した独善的で愚かな選択の言い訳をしなければ心の平穏が保てなくなっていた。
「だから、あんな運命はここですべて消してみせる」
そうして彼女は語る。ここに至る契約を。どう考えても間違っている選択の言い訳を。
――ごめん。その気持ちは受け取れない。
そう言ってあの人は自分に背を向ける。なぜですか? そう問い掛けると、困ったように顔だけ向けてひどく冷めた声で答えた。
――君が怖いんだ。正直、あまり関わりたくない。
意図していなかった答えに呆然と固まる。そんな私を置いて、あの人は静かに立ち去っていく。もうお前とは関係ないと突きつけるように。
待ってください。その言葉を聞いてもらおうと伸ばした手が届かない。ショックからか視界が歪み、世界にひびが入る。自分の大切なものが遠のいていくことに耐えられず、目の前の出来事を直視できない。
認識できなくなった世界が音を立てて崩れる。ひびが広がり細やかな模様となって、それらを起点に砕けていく。
破片の雨をしのいだ後、自分の前には去ったはずのあの人が居た。先ほどの未来が終わりを迎えて、また新たな未来へと分岐したらしい。
あの人は見知らぬ女と抱きあっていた。自分ではない誰か。どこの馬の骨とも知らない女。それでも自分を差し置いてあの人に選ばれた恋人。
なぜ私じゃないのか。そう問いたくともその言葉が出ない。それは先ほど見た別の未来であの人が突きつけた言葉が胸に突き刺さったままだから。目の前のあの人が私に言ったかは分からない。しかし、それが私が選ばれなかった理由の一つなのだとは思う。
女を大事そうに抱きしめるあの人の顔は心底幸せそうだ。あの人の幸せを私は望んでいたのだから、この未来は充分ハッピーエンドのはずだ。しかし、胸の棘は深く刺さったままで、何の喜びも祝福の気持ちも生まれない。望んでいた結果は果たされたはずなのに何も満たされない。
白状するなら、あの人に私から離れてほしくないのだ。
遠くに行かないで。そんな女より私を選んで。そう言おうとした直後、また視界が歪み、世界が砕ける。見せるものを見せ、理解させることを理解させたと、私を幻の檻に閉じ込めた淫魔が判断したのだろう。そして、また私はあの人との別れを経験することになる。
一番最初の経験を思い出すことも難しい。どうしてこんなものを見ているのかを思い出せるかも危うい。あの人との失恋の結末を、それらに至る幾百もの未来を経験する。その度にどうしようもなく苦しくなり、自分の酷く醜い本心を思い知る。
私はもうあの人の幸せを望むことはできなくなっていた。だってそれ以上に強い感情が芽生えてしまったのだから。
自分といっしょにいてほしい。自分を愛してほしい。自分の愛を受け入れてほしい。あの人が欲しい。
もっと自分を見てほしい。もっと甘い言葉を囁いてほしい。絶対に見捨てないと言ってほしい。もっと自分を理解してほしい。
もっと。もっと。もっと。欲しい。欲しい。欲しい。欲しくてたまらない。それが叶うのならどんなことでもする。
だって私を見てくれたから。私を心から心配してくれたから。あの人が私を大事に思ってくれていると知ってしまったから。
そんなことをされたら諦められなくなってしまう。見捨てられるのが怖くなってしまう。せっかく近づいてくれたあの人の心が離れることに耐えられない。――いっそ好意を一切見せてくれなかったのなら、きっと諦めることもできたのに。
もう自分の気持ちに嘘はつけない。見せられているものが幻だとしても、それが現実に起こり得る可能性ならばそのすべてを否定しなければ、あの人を想うことが怖くて仕方ない。
――私に従うのなら、貴女の望みに力を貸してあげましょう。
正真正銘の悪魔が囁きに今の私が抗えるはずもなかった。
語り終えた三葉の息は荒い。溜めこんでいた感情を一気に吐き出した結果だろう。けして気楽に話せるものでもなく、話して楽しいものでもない。だが、話さずに抱えたままにするのはもっと苦しかった。聞き手が長い間近くに居て、理解してくれた人間だったのもありがたい。
「つまり、『充先輩に選ばれない未来』とやらの幻を何十何百パターンと見せられて、『ならいっそ自分のものにしてしまえ』と考えたわけか」
「……そうよ。その通りよ」
久々に口を開いた一也の言葉に、三葉は呻きながらも頷く。自分に起きたことと、その結果の決断をまとめると、一也が口にした通りのことだ。敵の術中に嵌ってかけられた幻だとは分かっている。だが、同時に現実に起こり得る未来の可能性だということも分かっていた。だから、そんな未来が怖くて否定したかった。その未来に繋がらないように、悪魔の手を借りようとした。
「――要するに、お前は心を折られてやけになったんだろ」
端的な言葉が三葉の胸に突き刺さり、彼女の声を奪う。
それは三葉自身が最も理解していた本質。そして、言い訳がましい言い方で取り繕いたかった弱み。
「……そうよ。その通りよ。あんな未来があることが、それが運命になることが怖いの。……無様でしょ。自分でも臆病加減に嫌になる」
何故充は自分を気にかけるような素振りを見せてくれたのか。どうして自分の心をかき乱すようなことをしたのか。心のどこかで望んでいたことのはずなのに、今の三葉には寧ろ恨みたくなる。――ああ、こんなに臆病になるなんて自分でも予想外だ。
「臆病でもいいだろ。ちゃんと自分の気持ちを分かっているなら」
「……責めないの?」
いつも以上に脆くなった弱みを晒している。それなのに一也は三葉を糾弾しようとはしなかった。だから、三葉もそんなことを聞いてしまっていた。
「行動は百パー間違っている。けど、その根底にある思いは純粋な気持ちだ。臆病だろうと、その気持ちを責める権利は俺にはない」
一也の言葉にはその場の取り繕いの無い本心だ。ただ、それが以前と違うのは異様に落ち着いているということ。言い換えるなら、彼はもう吹っ切れているようだった。
「俺はきっと、三葉の言うように真似事をしていただけなんだろう。三葉ほど深く思うことがすべてじゃないとは思う。けど、本当に誰かのことを思って苦しんだことはなかった。――俺は誰かを好きな自分が好きだったんだ」
憧れの人に対する思いに決別に迷いはない。それは一也自身が沈黙の間に自分の本心に向き合い、三葉の言葉に納得していたから。仮に言いくるめられただけだとしても、自分にとってはその程度だったということだ。そう断じれるほどに一也は開き直っていた。
「それでも俺は三葉を止める」
「……まだ、そんなことを言うの?」
だが、そんな一也でも、いや今の一也だからこそ譲れないものがあった。
「ああ。同じ始まりでも俺にはできなかった純粋な気持ちだ。それが汚れるのは我慢ならないからな」
三葉が抱いた恋慕の情を、嫉妬でも何でもなく美しいと思った。眩しいと思った。応援したいと思った。
だから、本人が拒むとしてもきれいな道を歩ませたい。道を歪める不届き者に蹴りを入れる馬になりたい。
幾重のバッドエンドを自力で否定して、その手にハッピーエンドを掴む姿を見届けたい。
「三葉の運命は三葉自身が切り拓いてみせろ」
こちらの気持ちを否定したのなら、それくらいしてもらわないと割に合わない。
続けてそう口にしようとした瞬間、一也のD-トリガーがひとりでに黄金の光を放つ。
「う、撃て! ……あっ」
気づけば三葉は、獣の天使に構えていた槍を放つよう命令していた。目の前の相手が誰かも考えずに、ただ理性よりも先に本能的に口が動いてしまった。
雷の槍が放たれる。ぴったりと狙いを定められていたセントガルゴモンの腹へと走る。動けないセントガルゴモンは黒光を迎え、突き刺さる寸前に自身の身体を自壊させて相殺した。
「……え?」
剥き出しになった中身と飛び散った破片が緑の光を放ってそれぞれの元々の形を再構成する。中身はテリアモンへと退化し、傷の残る身体に燃え切っていない意思をその目に宿す。破片は羽の生えた金色の球体へと戻り、未だ金色の光を放つD-トリガーに吸い込まれる。
「強引に成形した反動か。なんでもいい。正直助かった」
一也も意図しなかった、強制的な退化。どうやら置き土産も本来の力で使われたいらしい。それをこのタイミングまで踏ん張ってくれた置き土産に感謝すら覚える。
仕切り直し。一也とテリアモンが待ち望んだチャンス。それを三葉とロップモンのために惜しみなく使ってやる。
「悪い。もう一踏ん張り頼めるか、テリアモン」
「もちろん。任せてよ~」
傷だらけでもテリアモンはまだ自分と戦おうとしてくれている。自分達にはもう一つ武器がある。もう一踏ん張り。自分には辿れなかった道を三葉が進むのを邪魔させないように。
「装甲進化弾
一也が放つ弾丸は、先ほど一瞬見えた置き土産そのもの。込められた力も彼の持つ置き土産が本来持っていた力。三葉の運命を切り拓くその力をここに示す。