今抱えている問題も悩みもすべて消え去ったらどうなるのだろうか。
苦しみのすべてが目の前から無くなり、代わりに自分の望む快楽だけの世界。自分にも周りにも醜いものは存在せず、ただ光輝く楽園だけがそこにある。
誰もが夢見る天国のような世界。夢のようにふわふわと包み込み、ここにいれば望むすべてのものを手にできる。
彼女の目下の悩み――目的は倉木真治とガビモンが自分達から離反し、洗脳か何かされたように辺りで暴れまわっていること。目の前で目撃した巧はひどく傷つき悲しみ、それでも彼を救おうと悲壮な決意を胸に立ち上がった。彼女達も彼の気持ちを汲み取り、敵となった彼を可能な限り手段を講じて救おうと頑張っていた。
そして今、倉木真治とガビモンは目の前で穏やかな笑顔を見せてこちらに片手を伸ばしている。一切の邪気が祓われた幸せそうな表情。何の後遺症もなく、この世界で初めて会ったときのような軽い明るさも持っていた。
もう彼は敵ではない。自分達の頼れる仲間。ほら、巧も心底嬉しそうに笑っている。本当に良かったと。泣いていないのが意外だったが、そんなことを些末なことに思えるほどの眩しい笑顔を振りまいて、楽しそうに叫んでいる。――その横顔が何となく気にくわなかった。
最も率先すべき目的は達成された。ならば、次は何をするべきか。いや、何をするべきだったか。……そうだ、悪核を作り出している者を突き止め、止めさせ、最終的には元の世界に帰る術を得るのだった。
我ながらアバウトな方針。充が空間関連の知識を蓄えたもののどうにも自分達との世界にだけは上手く門を繋げられないらしく、自力で確立するにはまだまだ色々なものが足りないようだ。
――ならば私が開いてやろう。
響くどこかで聞いたことのあるような声。深く考えるより早く目の前の空間に穴が空き、その中には久しぶりに見る駅前のビル、通いなれた校舎、地元でも比較的大きな自宅、etc……。紛れもなく、自分達が住んでいた世界が広がっていた。
そこを抜ければ今までの戦いも忘れてかってのように学校に通い、みんなで馬鹿やって人並みの青春を遅れる。訳の分からない世界で玩具じみた銃をぶっ放す必要もない。
ただ自分に残っている問題はなくなったが、この世界に、パートナーに残った問題はどうなる。僅かに残った義務感から振り返るとそこにはパートナーが究極体の姿――紫と白の官能的な衣装を纏った蓮のような美しい女性――となって、悪核を作り出していた張本人だったであろう何か黒いものを黒い杖から放つ光で消し去っていた。すると、主の死に呼応するようにこの世界中の悪核が消え去り、再び平和が訪れたではないか。
つまり、これで自分達がこの世界で成すべきことはなくなった。後はもう後腐れなく帰ることができる。パートナーと向かい合い、互いに今までの苦労を泣きながら分かち合う。落ち着いてからは互いの温もりを忘れないようにと軽く抱擁し、他の五人とともに元の世界へと帰還。
素晴らしき感動のフィナーレ。成り行きですべてがフィクションのようなこの世界に招かれ、そこから色々な無理難題を乗り越えての大団円。後に待つのはボーナスステージのような、リアルな世界での充実した日々。そこではこの世界に来る前よりもやりがいのある人生があるだろう。
色々と仲間のこともより深く知れた。もしかしたら案外男共の良いところを再確認して何か淡く甘酸っぱい感情も生まれるかもしれない。充に対しては改めて心からの尊敬と親しみを覚えられたし、一也に対してはどれだけ自分のことを思ってくれているか、その真っ直ぐすぎる思いを理解することができた。そして、巧には……何度へこたれても負けずに立ち上がるその姿に何か心の奥底で昂ぶるものを覚えた。
これからは一度しかない青春を謳歌しよう。恋に没頭し、部活に励み、勉強はそつなく且つ未来を見据えて取り組み、眩しく素晴らしい日々を楽しもう。
学業を離れ自らの力だけで生活する頃には、学生生活の中で見つけ定めた未来像をこの手に掴んで、仕事とプライベート両面で常に自身が楽しんでいられるような楽園のような日々を送ろう。その中で愛したいと思った人と交わり子を成し、家族としての幸せを享受しよう。子が育つのを温かい眼差しで見ながら少しづつ衰弱してゆく身体を夫と支えながら最後は穏やかにかつ盛大にその身を散らそう。
ああ、何て幸福で非の打ち所のない未来。望むすべてが適うのならば、何か間違いが起きることもない。すべてが自分の描いた筋書き通りに動き、そのすべての結果が自身に快楽となって返ってくる。そのあまりに甘美で抗い難い誘惑に――葉月は反吐が出そうだった。
「何これ、ふざけないで」
目が覚めると同時に出た言葉がそれだった。葉月は今、自分がこの世界に来て最も怒りを秘めているという自覚があった。いつもの仮面などとうに脱ぎ捨て、口調も本性がすぐ出せるものに変えた。
まず、幻術じみた技に二度かかった自分に腹が立った。何の準備もなく無条件にこの小世界に吸い込まれ、慌ててピクシモンを進化をさせたもののすでに遅く、彼女諸共相手の術中にはまったことは仕方ないことかもしれない。だが、同じような技にかかったということは学習していないということ。それは自己の怠慢に他ならない。改めて今までの戦闘を復習し、同じ轍を踏まないようにしなくてはならない。
だが、それは原因のほんの数%ほど。最も腹立たしかったのは見せられた幻の内容。戦意を奪うのを目的としたものだというのは理解しても、その甘ったるい内容を思い出すだけで吐き気を催す。
幸福だけを集めた素晴らしい世界。幻想のようにふわふわと温かく包み込むような甘さ。子供の頃、それも十年前ならば、戦いの日々で怯え震えていた自分の心はその安らぎに甘えて永遠に心を預けていただろう。だが、今の葉月にはそうそう通用しない。この十年間、彼女が何も変わらずにいたはずがないのだ。
「ま、掛からないだけだけど」
ここまで言ってはみたものの、悲しいが幻術が掛からないというだけ。今、彼女は木の蔦のようなもので両手足を縛られ、パートナー共々十字架にかけられた聖人のように木に吊らされている。
首だけ動かして周囲を見回せば、木々が等間隔で並びそれらすべてが色とりどりの果実をなしている。下には草花が緑の宇宙とそこで仄かに輝く星々を演出している。こんな状況でなら心から癒されるのだろうと、葉月は半分やさぐれながら思った。
「これに慣れてきた自分が嫌になるわね。……うわ、頼れる相棒はだらしない顔晒してる、と。サイアク」
右に首を捻ると、肝心のパートナーは若干恍惚とした表情を浮かべていて、そこには戦意の欠片も感じられなかった。完全体の状態を保っているのは有難いが、何と言うか色っぽい表情を浮かべて蔓でその成熟した身体を拘束されている姿は相棒として耐え難いものがある。
視線を前方に移す。こちらに背を向けているため顔は見えないが、その姿は先の幻で見た紫と白の衣装を纏った美女に酷似していた。というかそのものだった。
これが意味することは一つしかない。奴の姿こそがピクシモンの前世の究極体で、ワイズモンの言う試験官だということ。
「ロトスモン。さっき見させられたからか、すんなり頭に浮かんだわ」
蓮の名にふさわしい均整の取れた美しさ。正直少し羨ましいと思ったが、そんな自分の感情に対して不思議と何ら苛立つこともなかった。
彼女の意識はある一本の木に向いていた。その木にはもう少しで花が咲きそうな蕾が。捕らえておいた自分たちには幻で魅せておけばよいとでもいう風に侮られているのか。そう思う反面、納得できないこともなかった。今まで気にしないでいたが、少しずつ蔦を通して力というか活力というのか、俗にいうエナジーのようなものを少しずつ吸いとられていたのだ。だから、相手としては幻から抜け出たときには既に木の養分の残り滓になっているだろうと踏んだのだろう。
だが、それは自分という誤算さえなければ許せたかもしれない慢心。つまり、この場においては状況を左右しかねない判断ミスだ。
僅かに動く右手を可能な限り動かす。支柱となっている木に拳大の実がなっているのを発見。指先を上手く使ってもぎ取り、パートナーの紅潮した側頭部に手首のスナップだけでぶつける。
「ふぎゅっ!? ふぁに……?」
ドライアモンがこちらに顔を向けるがその目は焦点が合っておらず、まだ甘ったるい夢を見ながらお寝んねしているようだ。さっきまで熱を放っていた心がすっと凍ってゆく。自分でもその全容が掴めないまま、
ただ機械的に彼女を見据え、今できる最大限の笑顔を向けて口パクでこう告げる。
――ちょっと黙ってなさい。
初めて見るドライアモンの血色の失せた顔。さしずめ、幻という楽園を追放され、現実という悪鬼の住まう地獄に連れてこられたという気分だろうか。まあ、その物珍しい表情の変化も今となっては至極どうでもいい。彼女に求めるのはただ屈辱を受けた分の働きをしてもらうこと。ただそれだけだ。
口パクで軽く用件を伝える。やってもらうことは至ってシンプルなもの。重要なのはタイミングだけ。オーバーなほどに首を振るパートナーに一抹の不安を覚えたものの、彼女を信じて自分の成すべきことを成すだけ。
「とっとと殺さないあたり、甘ちゃんね」
ロトスモンがゆっくりと振り向く。意外なほどに表情がなく機械的な佇まいだ。彼女自身が本物のロトスモンでないのはなんとなく分かっていたが、今ならその正体が看破できた。彼女は恐らく神器の記録から再現した模造品。だから、さっき大声で吐いた台詞とは真逆の存在。やはり、自分達が生きているのも自ら手を掛ける必要はなく、その活力を有効活用出来ると判断しただけの話だったようだ。
「敵を侮って放置するような間抜けと一緒に旅をしていたなんて昔の私もさぞ苦労したんでしょうね。他の三人ならそんな甘い分析を行わなかったでしょうに」
感情があるのかは分からない。ただそれでも標的を自分に定めたのは確実。黒と白の蛇が絡んだ金の杖をゆっくりとこちらにを向ける姿に何も感じなかった訳でもないがそんなものは心の隅に押しやり、逆に舐めきったような視線をぶつける。
「ほら、その棒切れから魔法なり何なり撃てば。飾りじゃないんでしょ、それ?」
顎だけを使って挑発をする。それが勘に障ったのか、それともこちらの意見が妥当だと判断したのか分からないが、ロトスモンの双蛇の杖に黒いオーラが宿る。
「サーペントルイン」
蛇のように波打つ軌道を描いて走る黒いオーラの牙。明確な攻撃の意思を持ったそれが甘えなど迷いが微塵も感じられないほどの速度で葉月の元へと迫る。数刻も経たぬうちにその牙は彼女の腹のすぐ前に。
――そして、その咢は空気を噛み、長い胴は彼女の衣服を軽く轢いただけに留まった。
「ふっ……ふんぎゃっ! 地味に痛いわね」
お尻を擦りながら葉月は何事もなかったかのように立ち上がる。女らしからぬ悲鳴が出たが無視する。胸元がざっくりいかれたが仕方ないと割り切る。拘束が外れたのだから、そんなことは些末なことだ。その手足に絡まった蔦はすでに彼女の元から離れて何事もなかったかのように木からぶら下がっている。植物の考えていることなど分かろうとも思わないが、何だか少し不快に感じる。
「女としてどうなの、今の状況」
「あれ、さっき伝えたこと忘れたのかな?」
「はい、承知しております。先ほどの失言誠に申し訳ありませんでした」
「よろしい。『ガイアシンフォニー』を上手くやってくれたことは感謝するわ」
自分と同じように拘束から解放されたパートナーの戯言は封殺する。確かに彼女は葉月の指示通りのことを行った。自分達を拘束している植物はロトスモンの支配下にあった。だから、葉月を攻撃しようと力のリソースを割いて支配力が弱まったところに、ドライアモンの植物を操る技「ガイアシンフォニー」によって拘束を解除させたのだ。下手をすれば葉月の身が危なかったのだが、生憎彼女は自分の身の安全を優先しようと考えられる精神状態ではなかった。
「武器を取り上げないところもやっぱり甘ちゃんね」
D-トリガーを構えつつ黒い蛇の牙を何度か躱し、その間に弾丸を選択。蛇行するような動きを見せるものの軌道自体はそこまで予測できないわけでもない。そこまで速度がある訳でもないので、途中で変更できないのなら多少運動神経がある程度の葉月でも回避は不可能ではなかった。
「強化弾、メタリフェクワガーモン――ホーミングレーザー」
もう片方の虹色の杖が光を放ち始めるのが一瞬見える。それが自分達に幻影を見せたものだということを直観的に理解し、すぐにD-トリガーから十のビームを発射。幻を見せる魔術が起動されるより先に攻め込む。ロトスモンがそれらを払おうと双蛇の杖が再び黒いオーラの蛇を放つ。
「強化弾、メタルガルルモン――ガルルトマホーク」
さらにそれに対抗するように葉月は銃口からミサイルを発射。ビームより早くロトスモンの目前に到達したそれはオーラの黒蛇と激突し爆発。衝撃で彼女を後退させ、ビームまでもその軌道を分散させる。
爆風が止む。直接的なダメージは与えられなかったようだが、怯ませて幻を見せる動作を中断させることには成功。自分が掛からない自信はあるが、正直相方の方はまったく信用できなかったので、実際に封じられたのは良かった。
「いちいち中断するなんて集中力なさすぎるんじゃないの?」
すかさず挑発を加えてみる。機械的な部分はあるが、なるほど多少の単純な思考くらいはあるのか、案外乗ってくる。
「サーペントルイン」
「ハニーズアイブレイク」
以前より出力が増した黒いオーラが走る。それを今度はドライアモンが蜂の群れで押しとどめようとするが、地力の差で押し切られつつある。
「技能弾、ビショップチェスモン」
それは葉月も理解しているので、弾丸を通じて新たな技を与える。蜂は一度力を与えておけば後は勝手にやってくれる。突進を続ける蜂たちの後方でドライアモンの正面に魔法陣が描かれ、そこにエネルギーが収束していく。
「ビショップレーザー」
放たれた一条の白光は円状に散開した蜂たちの間を抜けて黒いオーラと激突。蜂たちと協力しながら拮抗する段階まで全体の威力を底上げする。
だが、それは葉月の弾丸による一時的なもの。当然自身の技を使っているロトスモンに再び押し返されるのも時間の問題。このままいけば、また押し返されて今度は黒蛇の餌食になるだけ。
――葉月とて、それは分かっていたし、そうならないための策もかなり前に準備を終わらせていた。
「のぎゃっ!?」