映画犬について僕が知っている二、三の事柄★ -5ページ目

現代小説について

阿部和重を読んで少しは気が楽になったけれど、昨今の現代小説は物語作りに終始するものやお涙頂戴ものが多すぎて僕はとてもじゃないが悲観的だ。嫌いな作家はポスト村上春樹、つまり村上春樹の文体を真似して「喪失」をテーマにした小説を量産する作家たち。読むに絶えない作家が多すぎる。「この小説を一気に読んで袖を濡らしました!」とか帯に書かれてると眉唾だし、阿部和重の『グランド・フィナーレ』がそうだけれど「文学が阿部和重に追いついた」って何さ?結局どこがどう追いついたのか誰も言わないし。誰かは誰かの受け売りになってしまっているように思う。
ぼくらの世代が読んで来た本てなんだろう。ぼくは夏目漱石ばかり高校時代読んでいたけれど、いま本当にシンパシーを感じるのは内田百間だったりする。あるいは須賀敦子だったりする。太宰治も好きだ。太宰は処女作「逆行」で芥川賞の次点だったが、いまの芥川賞作家たちは太宰を越えているか?
そもそも芥川賞の選考委員の顔ぶれも危うい。石原慎太郎とか高樹のぶ子とか、選評観たけれど、本当に批評なんだろうか?

書籍★阿部和重『グランド・フィナーレ』

阿部和重は芥川賞を得る前からずっと読みたい作家だったけれど、なかなか時間を作れなくてその機会がなかった。映画を意識した文章を書くひとであることは、いろんな批評誌で言われていたことだったし、何しろ蓮實重彦と互角とまではいかないまでもほぼ対等にハナシができる作家だと言う事で頭のどっかに彼の名前があったことは確かだ。



著者: 阿部 和重
タイトル: グランド・フィナーレ

『グランド・フィナーレ』は完結した作品ではない。つまり「作品」ではない。ある接続を常に欲望している小説であり、それは阿部和重本人の他の著作とも容易に接続が可能であり、あるいは他の作家、そして我々との接続を欲求している小説であるように思う。
本作の「フィナーレ」はそうした性質を表わしているように思う。最近の映画や小説にありがちな含みを持った終わらせ方、意味を中吊りにするやり方とは本質的に違っている。この小説のページも残り僅かという時になって、二人の少女が自殺サイトを検索し主人公がそれに驚きを覚える場面が挿入されるが、これは中途半端と言ってしまえばそうである。作品としてこの作品をみると、中途半端な挿入でしかない。しかし、これが『グランド・フィナーレ』において接続プラグとして機能していて、この小説が、世界とは別個の小説世界というべきものを表現しているのではなく、このような箇所で世界と接続していることを確認できるのである。

市川準『トニー滝谷』(日本/2004年)@テアトル新宿

バイトのSさんからのご推薦。
薦められなかったら観なかったと思う。



トニー滝谷は元来孤独であるか?孤独とは奪われた存在であり、欠如を伴う。彼は母を幼くしてなくし、父はジャズグループを率いて旅をしているので、彼は一人。だからといって孤独ではない。それは生得的な欠如であるから、よって欠如ではない。彼にとっての欠如とは妻の不在そのもののことであり、自己に拠って妻を無くした彼は孤独である。一方、この妻は、しかし、滝谷とともにあっても孤独である。洋服を来る日も来る日も買い続け、飽くなき消費を続ける妻は、常に奪われている存在である。滝谷の妻は服を着こなすが、それは飽くなき消費なしにあり得ない。一時的な満足を得る消費によって、妻は一時的に孤独を逸脱するが、やがて同じ場所へ戻る。妻が消費を自制する時に観ずる空白感は孤独感に違いない。
滝谷ら夫婦の部屋は村上春樹の小説に特有な空虚な空間である。生活感がない、と言ってしまえば済む形容である。外に向けて全体を露呈するためのガラスは開放的に見えてそうではない。そこに何がうつっているか、記憶はない。しかし、ショーウィンドウに似たこのガラスは彼らを奪いさる。開け放つこと、それは投棄である。逆に妻の洋服部屋はドアを除いて四方を壁に塞がれている。妻は消費を自制した時、この部屋に安堵を見出す。四方を塞ぐ壁は、それら大量の洋服が投棄されることを防ぐ。
市川準による村上春樹原作の映画化はある程度成功しているように思う。空間の描写に村上固有の「喪失」を偲ばせるあたりが村上小説の映画らしい。


評価 ★★★☆☆ (3)

ソフィア・コッポラ『ヴァージン・スーサイズ』(米/1999年)DVD

やっと最初から最後までこの映画を観たよ。確か二三年前に観た記憶があるんだけど、途中で妨害されて観るのやめた気がする。



タイトル: ヴァージン・スーサイズ

映像でごまかしながら作った映画。映像は本当に綺麗で、女の子も男の子もよく描いているんだけど、表面的にしか描いてない。映像で心を描くのは難しいし、20代の前半だったソフィアには無理なことかもしれない。おそらく病気で切り倒される街路樹は娘たちのメタフォールだろう。中途半端だと思う。こういう映画で批評する気にはなれないです。

ただ、一時的な快感を味わう映画だと思う。


評価 ★☆☆☆☆ (1)

コーエン兄弟『ビッグ・リボウスキ』(米/1998年)DVD

「この物語は90年代の初め。まだサダム・フセインとモメてた時代のハナシである。…デュードはこの時代にぴったり嵌った人物である」
冒頭、オフの声でこう告げられながら、当時の大統領ブッシュの「サダム・フセインは絶対に赦さない」という映画中映像を挿めて、この映画は始まる。




タイトル: ビッグ・リボウスキ

デュードは「英雄」ではないが、この時代に求められる人物である。
リボウスキという名字による人違いで事件に巻き込まれるが、彼は単に小便で汚された絨毯を弁償して欲しいだけである。
ロス・アンゼルスという「天使の街」にころころと転がる木屑の塊のように、風邪に流され、要らないものを巻き取りながら生きる。
ボウリングという娯楽に生きて、それ以上は求めない。
ブッシュのように求めることはしない。
ただ、それだけの映画である。

やっぱりスランプだな!

評価 ★★★☆☆ (3)

ヒッチコック『泥棒成金』(米/1954年)

南仏リヴィエラを背景にグレース・ケリーのセレブリティとケイリー・グラントのダンディズムを前景に、ヒッチコックがサスペンスとスリラーを捨てて作った映画。



タイトル: 泥棒成金

実のところ、あまりこの映画を楽しめなかった。
やっぱりヒッチコックだからサスペンスもしくはスリラーを求めてしまって、この映画の本質を見失ってしまった感がある。
セリフの華麗な言い回しとか含みとか、俺はあまり分らないから(英語だしね)、そういう部分よりも映像的な部分に目を効かせてしまっていた。
物語的な繋がりは「ヒッチコックだから」どうしようもなく繋がらないところがある。
これはこの映画に限らないことだからよい。

グラントは「北北西に進路を取れ」と同様、ダンディでユーモアな紳士、そしてグレース・ケリーは「裏窓」「ダイヤルM」の演技で魅せたセレブリティ。
まぁ、結局この映画の良さは彼らに持ってかれたね。

評価 ★★☆☆☆ (2)

2005-02-23

他人を理解できない、他人の気持ちなんてわかりやしないという不可能性から出発しよう
「理想的な発話状況」?
あり得ないことには沈黙しよう
ないんだから、いつも人は他の場所で他の思考でものを考えてるんだから、
意見の一致なんてないのよ
あるのは意見の妥協
それしかないの

相互理解の不可能性こそが、他者理解への最短距離にして唯一の手段だ

御殿場・伊豆旅行

昨日・今日と小金井祭実行委員会(GI)の連中と旅行(通称:慰安ツアー)に行って来た。大学院のもうすぐ二年っつう忙しい時期に楽しい楽しい旅行に行ける機会があるのは嬉しい限り。東京は慣れている間はシュウカツと修論のことをすっかり忘れていれたので、本当に楽しめました。っても昨日は昼過ぎまで有楽町で朝日新聞社の会社説明会に参加していたので、終わってすぐに電車に乗り込んだのね。だからやっぱり忙しい身分なんだ、今は。
御殿場にある温泉に浸かって、すぐ近くのロッジで御殿場高原ビールをたらふく(友人に言わせればそんなことない)飲んだ。地ビールだからコクがあってすっきり。どこぞの缶ビールとは訳が違う!温泉は好きだけど、そこのは塩素の臭いが気になって、満足はできなかった。温泉にサルモネラ菌が入った事件の所為で塩素たっぷりになってしまって、塩素入れるほかに対策はないのですか?



今日は伊豆高原にある、いろんな意味で「寒い」遊園地に行った。遊園地なんだけど、ジェットコースターとかないの。全部、自転車なの。なぜか?「サイクルスポーツ・センタ―」だから。お客さん、ほぼゼロ。大の大人総勢10人による貸し切り状態。でもね、ディズニーランドより好き。あそこの作られた笑顔はやっぱり駄目なのさ。ここのおばちゃんの笑顔が好きなのさ。結局8つくらいはあった「アトラクション」(?)全て制覇。いま地方のレジャーランドはほんときついだろうね。バブルの負の遺産だけど、どうしようもないエンタテイメントだけれど、僕はこういう場所を嫌いになれない。おばちゃんタチが精一杯支えてるんだから。

『フォーン・ブース』(米/2002年)

監督:ジョエル・シュマッカー
出演:コリン・ファレル、ケイティ・ホームズ
@DVD

別に『オペラ座の怪人』の監督だからってわけではなく、面白そうだから借りてきた。
『フォーン・ブース』ってのはphone boos(?)だから電話ボックスってことで、そう、電話ボックスに閉じ込められた宣伝マンのハナシ。
公衆電話に入ったら、急に電話がかかってきて(かけたのではなく)ついつい出てしまった男が=宣伝マン(ファレル)が、電話を切ったら殺されるって通話相手から言われて、実際どこからかライフルで狙われているわけ。
その相手、ファレルのことをストーキングして宣伝マン=嘘つき男の女性関係とか全部知ってるから、ここで(なんやかんやで警察が取り囲む事態になっていて、テレビ局も大勢きてるし、嫁さんと愛人も来てる)ぜんぶ告白しろって強要される。



「告白」すると全部償われるってのが、キリスト教的で面白い。
ちょっと前にジョージ・クルーニーが「コンフェッション」って映画撮ったけど、それもそういう映画だった。

すごく面白かった。
映像もすばらしい、コリン・ファレルはどんな役柄でも演じれそうなくらいうまい。

評価 ★★★★☆ (4)

『オペラ座の怪人』

監督・脚本:ジョエル・シュマッカー
脚本・製作・音楽:アンドリュー・ロイド=ウェバー
主演:ジェラルド・バトラー(ファントム)、エミー・ロッサム(クリスティーヌ)

@新宿文化シネマ

人気ミュージカル『オペラ座の怪人』の「ミュージカル映画」化。
ぱら犬はミュージカルが苦手なんです。
セリフがいきなり歌になったりするのがちょっと。
『ムーラン・ルージュ』、『シカゴ』なんかも。

ただ、天才作曲家アンドリューのおかげで音楽を楽しめた。
映画の序盤、廃墟と化したオペラ座。
遺物のオークション。
「あの惨事を引き起こしたシャンデリアが蘇った!」みたいなことを司会がのたまうと、シャンデリアが天井に向かって浮き上がると同時に、廃墟のオペラ座が壮麗に大変身。
この壮麗なシーンが荘厳な音楽と結びついてかっこいい。


評価 ★★★☆☆ (3)