吉田隼人『忘却のための試論』感想 | Papytat~東京農工大学生協読書部~

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 こんにちは。修論というイニシエーションが刻一刻と近づいてきている代表です。

 少し前まではPokemonGO!にハマりすぎていて、大学への往復の電車の中やら家のちょっとした空き時間やらでポケモンを乱獲していたのですが、少しずつ読書に時間を割くようになってきています。

 閑話休題。久しぶりに「ゴゴゴゴゴッッ」っと自分の中で響いた本があったので感想とともにご紹介。

 吉田隼人『忘却のための試論』書肆侃侃房、です。なお、本文の「流砂海岸」「反響 ―Echoes and Reflections―」に収められた歌は漢字に旧字体が使われていますが、機種依存文字やらの関係で引用時には一部標準字体で打ち込ませてもらってます。すみません。

 

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 「おやすみなさい、鳥類」という作品からいきなり「グッとくる」感じで惹かれたのが印象的。歌集全体に漂う死の雰囲気、あるいはそれを悼み、それこそ「忘却」しようとするからこそ、強烈に生と死の境目が心象としてスケッチされているような感覚。

 

  建築のあひまを燃やすあさやけを飛びながら死ぬ冬の鳥類
  旋回をへて墜落にいたるまで形而上学たりし猛禽

 

 どちらも一瞬の情景を、あくまで淡々と描いたような歌だが、体言止めで一番最後に現れてくる鳥が実に響いてくる。結句にいくまでは、一体何が飛んでいて、もっと言うと何が「死ぬ」のか分からないような、空洞のような生がイメージの中を舞っている。それが最後の最後で一気に、鮮烈に、像を結ぶ。
 鳥葬、という葬儀にあらわれているように、鳥類というのは「飛ぶ」というその特異性でもって、人間に不思議な印象を与える動物だと思う。この世=大地=此岸と、あの世=空(の向こう側)=彼岸とを、文字通り「飛翔」できるような、翼を持った生き物なのだけれども、その生を終える時、重力に引かれて(皮肉にも)その身体は地面へと落ちてくる。
 無常観を淡々と詠むというよりも、例えば希死念慮だったり、仄かな自殺願望、あるいは自分という存在が希薄に思えるほど切迫した精神状態だからこそ感じ取れるような様子を感じる。それは「セカイ系」みたいに、自分とセカイ、あとその他、的に中間項が短絡した自意識というよりは、むしろその逆で、セカイは自分なんかなくても回り続けていて、自分がそこにどう入り込めばいいのか分からずにいるような、強い疎外感からくる、感性の萌芽のようなものだと思う。次の一首からそういったものを感じる。

 

  枯野とはすなはち花野 そこでする焚火はすべて火葬とおもふ

 

 枯野。春夏には草木茂り花開いていたあの花野。それが今や、色を一気に失って、枯れた状態でしか残されていない。だからそこでする焚火は、草花たちの火葬だ――。そう単純に捉えるのも勿論だが、「おやすみなさい、鳥類」にあえてこの、鳥類が絡んでいない一首が入れられている理由を勘ぐりたくなってしまう。
 理系っぽい話になってしまうが、植物というのは「生産者」として位置づけられる。植物は光合成をして、無機物を有機物へと変換し、我々動物が生きるために必要な環境や資源、エネルギーを作り出してくれている。ただ、植物は光合成だけで自らの養分をまかなっているわけではない。土の中から水だけでなく、他の必要な栄養素を吸い上げてもいる。そしてその栄養素の中には、他の動物が死に、分解された諸々の物質すら含まれているわけだ。そうすると、植物というのはある意味、「動物の分解物を糧にして育つ」と言えなくもない。青々と茂ったあの雑草は、死んだ何かしらの動物の成れの果てだったのかもしれない(櫻の樹の下には……)。そうして育った植物すら死に、動物の死も植物の死も渾然一体となった状態の「枯野」で行われる焚火、火葬は、白煙となって天井まで彼らの魂を届けるであろう――だから鳥類よ、今はその翼をゆっくり休めよ。なんていう見方をしては怒られるだろうか。天地を繋ぐものは、何も鳥類だけではない。それゆえに、鳥類は「おやすみなさい」と言って、一時であれ休むことはできる。勿論、作者は「おやすみなさい」という「休み」に、ただの「休憩」という意味だけでなく、よく比喩される「永眠」や「死」の比喩を含めているのだろうけれども。

 

 表題作にもなっている「忘却のための試論」はやはり傑作だと感じた。

 

  死んでから訃報がとどくまでの間ぼくのなかではきみが死ねない

 

 表記に注目したい。他の首でもそうだが、作者は実に巧妙に漢字と平仮名とを使い分けているように思える。「きみ」の死を受け入れられずに呆然とする「ぼく」の様子は、平仮名で冗長に描かれた様子からも想像できるのだが、あえて漢字だけを読んでみる。死――訃報――間――死。風のうわさ、友人からの連絡、そういったものでふと告げられた「きみ」の死。そして届く訃報。けれども実感は全くわかなくて、むしろこの気持ちをどうしたらいいかわからず、凍りついたような(たぶん永遠にも感じられるような)、間。そしてひしひしと沁み入るように感じられる、「きみ」の、死。重大な知らせを聞くときの、あのやけに長く感じられる時間と、けれどもその中で刹那のように起伏する感情。

 

  はしやぎにくさうに喪服ではしやぎゐる僕の知らないきみの友だち

 

 たった一首で「僕」が三種類の人間に対して感じていることが伝わってくる気がする。
まず思うのは、「僕の知らないきみの友だち」に対して「僕」が実に無関心である、ということだ。「きみ」の葬式で「はしやぎゐる」のに、「僕」は怒りも何も感じてはいないようにみえる。むしろ、どこか遠くで冷静に、他人事のように「きみの友だち」を観察してすらいるようだ。
 ではこの歌は誰に何を感じたものなのか?
 「僕」が、「僕」と「きみ」に対して抱いた感情が伏流しているのではないだろうか。
 「僕」は、「喪服ではしやぎゐる」ことはできないでいる。けれども「僕の知らないきみの友だち」は「喪服ではしやぎゐる」。「僕」は一体、「きみ」にとっての何だったのだろうか。「きみの友だち」のように、せめて最後の一瞬だけでも「はしやぎゐ」て、天へ上っていく「きみ」に「友人」としてのはなむけもできないままで、いいのだろうか。そういった「きみ」への申し訳無さ、あるいは「僕」自身への不甲斐なさ。そして、それと矛盾するように、「僕の知らないきみの友だち」をもっていた「きみ」に対する、やり場のない感情。知っていたはずの相手の、知らない側面。そんなものがあることは当然なのだが、ある種の独占欲のようなものを「きみ」に抱いていたのかもしれない、ということに、未だ「僕」は気付いていないのかもしれない。けれども歌は、言葉を切り詰めるがゆえに、削りきれなかった感情が、言葉の切れ目からいくらでも溢れ出してくる。
 この「僕」の家路だろうか。やるせなさ、所在なさ、そういったものが痛いほど感じられる一首を引用しておこう。

 

  寺町にわれは他所者うすずみの夜の駅までのゆくへも知らで

 

 ところで、漢字と平仮名との使い分けが巧妙な作者だ、ということを述べたが、それが感じられる歌をいくつか「砂糖と亡霊」から引用しておこう。

 

  気の弱いせいねんのまま死ぬだらうポッケに繊維ごちやごちやさせて
  兄さんが鬼籍に入ればいもうとでなくなるのだよ油断するなよ
  毛布には毛布の荒野にんげんは油断してると死んじまふのさ

 

 「せいねん」「いもうと」「にんげん」が意図的に平仮名で書かれているように思える。
 一首目。青年、ではなく「せいねん」と表記することで「気の弱い」という接頭語が映えている。「ポッケに繊維ごちやごちやさせて」という最後の一言まで「気の弱いせいねん」の風体がブレることなく想像できる。青年、と自身を表することにむしろ申し訳無さすら感じている、この「せいねん」の懊悩、自堕落になりきることもできない息苦しさのようなものが伝わってくる。
 二首目。「兄さん」「いもうと」の漢字の書き分けはどういった理由なのだろうか。長男であるがゆえに、知らず知らずのうちにのしかかってくる様々な重圧がある「兄さん」と、そんなこととは露も知らない「いもうと」なのだろうか。ふざけて「いもうと」に将来のことを話すような素振りでいながら、「兄さんが鬼籍に入れば」を漢字を使ってゴリゴリと書くことで不気味なリアリティを醸し出している雰囲気がある。「いもうとでなくなるのだよ」と、まるで絵本のような、親しみやすさすらある口調で少し緊張をほぐしながらも、最後には「油断するなよ」と釘を差している。「兄さん」は、「兄さんが鬼籍に入れば」を、わりと「油断」ならない仮定だと感じているようだ。
 三首目。この時期にはうってつけの一首だ。非常に個人的な話になって申し訳ないのだが、我が家には炬燵と電気カーペットというとんでもないセッティングがあり、夕飯の後とかにうっかりその温もりを満喫していると、文字通り「死んじま」って翌日に支障をきたすこともしばしば……という自堕落な生活に近頃なりつつある。そういった意味での「毛布の荒野」と捉えても楽しいし、もっと教訓的な捉え方をしてもいいかもしれない。「毛布」のようにぬくぬくとした環境で「油断してると」、どうなっても知らないぞ、というような。

 

 「あらかじめ喪はれた革命のために」から、三首を紹介したい。

 

  袖口をだぼつかせつつ牛乳を熱せり夜のふかきところで

 

 「牛乳を冷ませり」ではないことに注目したい。深夜、寝付けないのだろうか。あるいはまだ起きてなにかをするつもりなのだろうか。手を服の中で縮こまらせ、「袖口をだぼつかせ」るほど寒い夜。何よりも暗く深い夜。真っ暗な空間にいるその人と、青白い炎、ぐつぐつと煮える牛乳。「夜のふかきところ」であるにも関わらず、描かれていない色彩がまるで夜明けを思わせるようで面白い。
 この作者は「あおいろ」の描き方が実に多彩だ、と感じたのが二首。

 

  交接ののちこひびとを愛づるごと闇あをき夜の虚無を抱き締む
  春怒濤見つついだけりうなそこの首長龍のあをき孤独を

 

 若山牧水の「白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」はあまりにも有名であり、明らかにそれを想起させるような「あを」という表現を使っているにも関わらず、「白鳥は」の歌に雰囲気を飲まれることなく、作者独特の世界観を構築しているという点で、この二首は白眉だと思う。
 「交接の」の歌は、男女の性行為の後の情景を描きながらも、湿っぽくなりすぎず、かといってドライにもなりすぎない点が、読んでいて心地いい。「闇あをき夜」という一言が天才的だ。情熱的な交接だったのだろうか、あるいは惰性からしたものだったのだろうか。二人の背景は分からないが、終わったあとにふと戻ってくる現実的な感覚。俗に言う賢者タイムとは違うのは、相手がいて、自分がその相手を「抱き締」めているのにもかかわらず、同じくらい、いや、それ以上に虚しさを覚えてしまう一瞬。刹那的な快楽で追いやっていた現実的な悩みや不安が再び押し寄せてくる事後。ぼんやりした脳内で、心のどこかにやりきれないものを感じているからこそ、「抱き締」めている相手は「虚無」となる。自分のことで精一杯になってしまう現実が、ここにある。
 一方、「春怒濤」は実に爽やかな歌だ。情景に注目したい。初句からいきなり「春怒濤」と盛り上がりのピークがあり、その勢いを殺さず、むしろ波に乗るように平仮名の二句目を読み、その速度で一気に三句目まで読み飛ばしていくと、四句目の「首長龍」という質量の前に一旦停止する。そしてその瞬間に、つまり目が「首長龍」を捉えて像を結ぶ瞬間に、読み飛ばしていた三句目の「うなそこの」の意味を理解して、大波荒れ狂う海面の風景が一瞬で静寂な深海へと変わる。えっ?首長龍?うなそこ?とこちらが驚いている最中に、結句の「あをき孤独を」がやってきて、颯爽と幕引きをしてしまう。後に残されたのは、静かな暗い海で鎮座する「首長龍」、という、絵画のような情景だけだ。初句と二句の五七の部分と、四句と結句の七七の部分とが、三句目の「うなそこの」によって絶妙なタイミングで繋がれているのがたまらない。首を通して軽快な速度で読み進められる気持ちよさが魅力的だ。
 作者にとって「うなそこ」と「首長龍」は特別なモチーフであることが伺える二首を、さらに引用しておく。

 

  うなそこにほねをうづめてめつばうをゆめみるひともうをも恐龍も
  くびながき爬蟲のいまもうなそこにあるをしんぜば怒濤くらしも

 

 一首目はやはり平仮名で書かれているのだが、先程のような勢いではなく、むしろ淡々と無気力な感じが伝わってくる。「めつばうをゆめみる」がさらりと書かれたその心象や、「ひともうをも恐龍も」と異なる生物たちを並置する気持ちに尋常ならぬ様子がふつふつと感じられる。 二首目は、うなそこにいる「くびながき爬蟲」を自分の支え、動力源にしている様子がわかる。本当は「くびながき爬蟲」なんて「うなそこ」にいるわけはないのだが、その孤独に寄り添い、あるいは畏敬の念を抱きながら信奉することにより、自らの救いとすることができるのではないだろうか。希望や救いのようなイデアは、実体がないからこそ、誰でも、何に対してでも、想像できる。海底にいる神的な龍を分かるのは自分だけだ、いや、自分こそが最もその龍に近いのだ、という、他人からみたらけったいな思い込みでも、当人にとっては何よりの救済となりえるのだ。神でも仏でも首長龍でも、己が信じるものがあればこそ、その信心が自らへの力となって、結果的に自分が救われる。
 余談だが、マルクス・ガブリエルによれば「ロマン主義の青い花、ピカソの青の時代、『ブルーベルベット』、ウォレス・スティーブンの『青いギターをもった男』などが示すように、青色は常に超越の象徴である」のだそうだ。村上春樹「青が消える」、桜庭一樹『ブルースカイ』など、日本の作品でも枚挙にいとまがないだろう。北野たけし監督の「キタノブルー」や、それこそ最近では細田守監督や新海誠監督のアニメーション作品の、あの吸い込まれるような独特の夏の青空は非常に特徴的なものがある。海であり、空である「青」という色に、僕たちはかなり特有の感覚、美的意識を持っているのかもしれない。だからこそ、その「青」という色を、ひとくくりに「青」として表現してしまうのではなくて、「あを」という何とも多義的で、日本語でありながら少しよそよそしく、だからこそ解釈の余地に富む言葉に、なんとも言えない言霊的魔力が備わっているのではないだろうか。作者が明らかにそれを意識している一首を引用しておく。「空」を頭上に広がるものとして「そら」と読むのか、まだ何もない場所を示す語として「くう」と読むのか、あるいは他の読みを当てるべきなのか。しかしいかなる読み方をしても、清々しさのある一首が次のものだ。

 

  青と蒼の差異をし問へば垂直に空へとほそき指をかざせり

 

 さて、「猫さらひ注意!」から、一気に三首引用したい。作品内では間に他の歌が入っているが、こうして並べてみると、また別の面白さが感じられる。

 

  幼年期 射精なきその絶頂の指に断たれしたんぽぽの首
  しんしんと射精せしもの拭ひさる紙くづは毒蛾潰ししかたち
  精通の少年の吹くたんぽぽの綿毛をみなが注視してをり

 

 一首目と三首目は明らかに対応している。たんぽぽの綿毛を吹く、というだけの単純な歌に見えるが、実際はそうではないのではないだろうか。
 一首目には綿毛を吹く表現がなく、「たんぽぽの首」を断つという描写のみである。「射精なきその絶頂の指」という表現が首の中心を占めているが、これは何を意味しているのだろうか。思うに、性的な欲求が満たされた果ての「絶頂」というよりは、無垢であるがゆえに生を蹂躙し、そしてそれに純粋な悦びを感じている「幼年期」の様子を示しているのだろう。子供というのは、誰もが経験したことがあると思うが、草花を摘んだり、あるいは蟻を踏み潰したりする。拾ってきた虫を家で飼っていた、なんて人もいるだろう。そういった小さな命を自らの掌中で思うがままに操る、という「幼年期」独特の行為を「射精なきその絶頂」と喩えているのではないだろうか。「断たれしたんぽぽの首」という表現も見過ごせない。「断たれしたんぽぽの茎」ではない。あくまで「首」なのだ。たんぽぽに備わっていた生を感じさせる「首」という言葉であり、また同時に、欲望の鎌首、のようなメタファーをも感じさせる。「たんぽぽの首」を断つことにより、幼年期の欲望の鎌首は、充足され、萎え、感情的に断たれる。
 一方で三首目。幼年期は終わりを告げ、精通を果たした少年は綿毛を吹いている。少年の吹く綿毛が、その白さや散逸性から射精や精液に比喩されていて、言うなればもう身体は成熟を迎えつつあること、だからこそ幼年期のまま無責任ではいられず、大人たち、つまり「みな」がその行方を注視している、という見方ができる。また、深く抉るならば、名著『幼年期の終わり』そのものを本歌取りしている、とすら考えられる。一首目に対して、文字通り幼年期が終わりを迎えた少年は、社会、というひとつの集合体の中へと入っていく。既存の集団への新たなる参入者に対して、「みなが注視して」いるのかもしれない。
 さて二首目。おそらく彼は自慰をしていたのだろう。それを「しんしんと射精」と表現するあたり、作者の豊かな言語感覚が伺える。快楽を得るために、けれどもどこかに罪悪感を覚えながら、自らのために。そういった、ないまぜになった感情の中駆動する様子は、たしかに「しんしんと」と言えるだろう。「紙くづは毒蛾潰ししかたち」が特徴的な表現だ。「毒蛾潰しし」という言い方から、自らが出したものに対する嫌悪感、汚らわしさが伝わってくるが、それだけではないだろう。「毒蛾」は「毒牙」にも通じる。男性である、ということ自体が有する、ある種の暴力性、性欲の衝動、そういった毒牙の牙を自らが剥く前に、「潰し」た。そこまで読むのは邪推が過ぎるだろうか。ただ、「蛾」は「蝶」となるならば、優しく扱われる。あるいは自らにとって、少なくとも無害なものとして感じられる。それがいかなる希望のかたちなのかは分からないが、一首、さらに引用しておこう。

 

  ちり紙にふはと包めば蝶の屍もわが手を照らしだす皐月闇

 

 豊かな情景や色彩感覚で景色を描くだけでなく、日本語の音韻、ある種の言葉遊び的な歌も本書の中にはある。頭の中で音読するようにして読むと、韻のリズムが心地いいものがある。いくつか紹介しておこう。

 

  ことごとにことだまを言ふ少女らの手紙てかがみ髪のたましひ
  冴えかへるまふゆゆふやみまふゆときアルファ・タウリはかくまで赭き
  行倒れ 雪夜に仆れ 背に街に大陸に雪の死化粧
  はつふゆのゆめもうつつもうつろにて鬱にてしづむ流砂の岸へ

 

 「ことごとに」の首は「こと」と「かみ」の音が反復されている。「こ」「か」と発音するたびに漏れる呼気がむしろ気持ちよく、それが「少女ら」の快活な雰囲気を思わせてくれる。軽快な軟口蓋破裂音の連続の中、三句と結句の末に置かれた「言ふ(言う)」「たましひ(たましい)」の発音ですっと落ち着ける感覚があるのが、また心地よい。
 「冴えかへる」の首は、文字の上ではハ行、マ行、ヤ行が目立つのだが、読んでみるとハ行のいくつかはア行の音として読める(冴えかへる→冴えかえる、ゆふやみ→ゆうやみ)。見た目と発音のそんなギャップがあるからこそ、「まふゆ」の「ふ」の音に注意が向く。太陽ではない地球に最も近い恒星の、夜空にぎらつくようなきらめきが、反復された「まふゆ」の「ふ」の音に感じられる。
 「行倒れ」の首は、「行倒れ」からの「仆れ」という漢字の使い方がなんともにくい。「仆れ」という漢字が、文字通り倒れてしまった様子を象形しているようだ。「死化粧」と書いて「エンバーミング」というふりがなが当てられているので、破調なく三十一文字に収まっている。「行倒れ」と「雪夜に仆れ」の二句だけがスペースで区切られているのも、初句、二句、とふらふら歩いてきて、とうとうそこで倒れてしまったような雰囲気が字の上から感じられる。「背に街に大陸に」と、次第に風景が拡大していく様は、まるで映画やテレビドラマでカメラが遠ざかっているような、そんな描写が浮かぶ。「ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なるひとひらの雲」の首は少しずつ情景がズームインしていく名歌だが、この首はその逆に、情景がゆっくりとズームアウトしていっている。
 「はつふゆの」の首も音を重ねて戯れているようでありながら、漢字と平仮名の使い分けが下の句の部分で何とも言えない緊張感を孕ませている。「はつふゆのゆめもうつつもうつろにて」と、文字通り虚ろな、平仮名だけで書かれた上の句の部分が序詞のようになって、下の句の「鬱にてしづむ流砂の岸へ」を際立たせている。「うつ」という音は三回繰り返されているが、「鬱」のみが漢字表記されていることは見逃せない。「はつふゆのゆめも」という、ぼんやりした冬の白い風景が、最終的に「流砂の岸へ」という砂漠のような乾燥した景色へと一瞬で変貌していて、それがさらに下の句の印象を強烈なものにしている。

 

 作者にとって「雪」と「岸」という語やイメージは、終末に近いもの、というシニフィエを指しているのだろう。ただ、「雪」がどちらかというと、ゆっくりと訪れるような、包まれるような優しさの中にある終わりの風景に使われているのに対し、「岸」はよりイメージの力を総動員するような、鮮烈な一瞬の風景、感情を切り取っているように感じられる。「雪」が年末年始のお涙頂戴系スペシャルドラマだとするなら、「岸」はバルトゥスの絵画のような、不動であるがゆえに堂々たる力強さをもって、立ち現れる語のようだ。その違いが分かる二首が次のものだ。

 

  ここにふるゆき雪ならずしんじつの雪やこころのいづかたに降る
  岸にきてきしよりほかのなにもなくとがびとのごと足をとめたり

 

 だから、作者の歌にでてくる「雪」は、基本的に柔らかさを伴って描写されている。もう少し「雪」について語るため、さらに二首。

 

  朝を待つ駅舎にしんとすきとほる糖衣のようなものの降りきぬ
  まなぶたの重みのままにやがてこの都市に眠りの雪はふりつむ

 

 「朝を待つ」の首、いったい詠み人はなぜ「朝を待つ駅舎」にいるのだろうか。始発を待っているのか、あるいは不眠症でふらついた先、駅の光にすっと引き寄せられたのか、理由はわからない。ただ、「しんとすきとほる」「降りきぬ」という言葉遣いが、「朝を待つ駅舎」にいる者でないとできない感性のあらわれとして感じられる。「糖衣のようなもの」という比喩にも注目したい。糖衣、というのは錠剤などに使われている、外側の甘い部分だ。つまり、内部には目的の薬剤が、あの苦くてたまらない物体が埋め込まれている。それを踏まえると、「大気中のNOxやSOxが溶け込んだ雨が凝固し、雪となっている、いわば大気汚染を詠んだ句」として捉えるよりも、むしろ、「作者が高校時代までを過ごしたフクシマに降る、雪」という意味で捉えたほうがいいのではないか、とすら思えてくる。近頃はめっきり報道されなくなっているが、福島の原発事故、それに伴う甚大な被害は、爪痕として深々と残っているし、まさか全てが円満に終了した、なんていうわけはない。未だ故郷に帰れない人々がいて、未だに原発の廃炉作業は道半ばである。一方我が国は原発を諦めることなく、むしろ粛々と再稼働したり、事業を進めたりしている。そういった人間のエゴイスティックな様相が様々に絡んでいるのに対し、忘れ去られたかのように、置き去りにされている「フクシマ」。そこに降る雪は確かに、「雪」としては他のいかなる場所に降る雪とも変わりはないだろう。けれども、決して甘いものではなく、どこかに「苦み」をすら感じさせるものとして、「雪」が描かれているのかもしれない。そう考えると、「朝を待つ駅舎」というものも、また別の意味があるように感じられる。いまだ復旧していない沿岸の鉄道、津波に飲まれ海の藻屑となった線路。完全な復旧を迎え、再び電車が走る夜明けを待ち望んでいるのが、「朝を待つ駅舎」であるのだろう。
 「まなぶたの」の首に書かれている「眠りの雪」という表現も、どこかそれに近いものを感じさせる。終末を告げるものとしての「雪」という見方だ。ただ、「眠りの雪」というと、三好達治の「雪」が連想される。
「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。」
 しんしんと降り積もる雪の中、ずいぶん静かな街で、人々がゆっくりと眠る。「都市に眠りの雪はふりつむ」という下の句に、どことなく抱擁されるような印象がある。冬の歌であるのに、不思議と寒さは感じず、なんとも言えないぬくもりが残っているようだ。「雪」の優しさを表現した歌だが、逆に、「人」の優しさを表現したものが次の歌だろう。

 

  こんなにも積もるものかね敵はんね街灯ばかり明るいのだね

 

 さて、ずいぶんと引用して感想を述べてきた。このままいくと、おそらく本書に挙げられているほぼ全ての歌を引き合いに出してやんややんやと思いのたけを綴ってしまうことになりそうなので、名残惜しいがそろそろ筆を置こう。
 最後に、一首だけ紹介しておきたい。あお、平仮名、生と死。作者が全面に押し出したこれらの特徴が余すところなく入れ込まれた珠玉のものを。

 

  そらのあを うみのあを とはことなれるあをさもて咲くほかなき 死びと

 

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 吉田隼人『忘却のための試論』、という歌集の感想でした。
 これぐらいスムーズに修論も書き終えられたらいいのになあ。