リレー小説その4 | Papytat~東京農工大学生協読書部~

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リレー(お題)小説  テーマ:食卓


 
 誰にでも心地のよい場所、お気に入りの場所というものがあるだろう。
 私にとっての“お気に入り”は、なんといっても家族が揃って食事をする食卓だ。

 
 私が初めて食卓に招かれたのは、私が生まれてしばらくしてからだった。
 登美子さんは自分の食事が終わると、まだ乳飲み子だった私をひざの上に乗せて哺乳瓶からミルクを与えてくれた。早くに母親のぬくもりを失った私にとって、まるごと私を包んでくれる登美子さんの手はたった一つの拠り所であった。
 ぼんやりとした記憶しか残っていないが、あの頃は同じように幼かった桜ちゃん(といっても彼女は自分で自分ことができる程度には成長していたが)といつも登美子さんの取り合いをしていた。といっても対抗意識を燃やしていたのは桜ちゃんだけで、私には自我というものが芽生えもしていなかったのだが。


 私が生まれてから数ヶ月が経ち、何の問題もなく銀色の皿から自力で餌を食べられるようになった頃、私の居場所はまさに食卓にあった。といっても食事を囲むテーブルの傍ではなく、ちょうどよい日陰のあるリビングの隅である。
 私は食事――とくに夕食の時間――が好きだった。家族で食卓を囲み、登美子さんの手料理(私はドッグフードであった)を食べながらたわいもない話をする。人間の言葉を話せない私は会話に参加することはできなかったが、賑やかで温かで優しい雰囲気のなかに自分がいること、それだけで幸せであった。
 あの頃は桜ちゃんと毎日のように遊んでいた。休日になると必ずと言っていいほど大きな公園に遠出して、一緒に思いっきり走り回った。私はボールを追いかけるのが好きだったが、桜ちゃんはフリスビー遊びが好きであまりボールを投げてはくれなかったな。しかし私が無垢な瞳でボールを見つめ、それ
から桜ちゃんを見上げてじぃっとしていると、

「仕方ないなぁ。一回だけだよ」

なんて相好を崩しながらボールを放ってくれるのだった。別に意識してやっていたわけではないのだが、私は案外幼い頃から世渡りが上手だったのかもしれない。
 また、私は近所でも有名な名犬であった。トイレやハウスといった基本的なしつけを難なくマスターし、お手やお座りといった芸も比較的短期間のトレーニングで覚えた。
桜ちゃんは自宅に友だちを招くたび私に芸を披露させ、私のことを自慢げに話してくれた。それが嬉しくて、私はもっと誉めてもらうために他にも様々な芸を覚えた。決して芸が成功したときにもらえるビーフジャーキー目当てでやっていたわけではない。


 私が食卓から離れたのは、体がリビングのケージに納まりきらなくなった頃だった。
 健司さん(登美子さんの夫で、桜ちゃんの父親)が手作りした犬小屋はペンキの臭いが強烈で所々に隙間もあり慣れるまでに時間がかかったが、それほど居心地が悪いわけではなかった。
 しかし私は寂しかった。いつもなら直接耳に飛び込んでくるはずの家族の談笑も、新しい犬小屋ではガラス越しに聞くことしかできない。愛しい家族の姿は遮光カーテンに遮られて影しか見えず、私は独りで食べる食事がこんなにマズイものかと驚いた。
 それでも私は幸せでいられた。昼間には登美子さんがかまってくれるし、朝と夜の散歩は桜ちゃんがやってくれた。休日は健司さんが散歩に連れて行ってくれたし、半年に一度は家族と一緒に旅行へいくこともできた。あの食卓に自分がいることはできなくなってしまったが、自分もまた、彼らと同じ家族であると感じられていた。


 食卓が私の好きな食卓でなくなったのは、私がすっかり大人になってからだった。
ある日を境に、食卓から声が消えた。それまで必ず夕食までには帰ってきていた桜ちゃんは、ほとんど毎日、すっかり夜になってからでないと帰ってこないようになった。それどころか、朝になっても帰ってこない日もあった。健司さんも仕事が忙しくなったようで、帰ってくるのは日付が変わる少し前になった。
 その頃から、登美子さんはたびたび私を食卓へと招いた。一度食卓を離れた私にとってそれは嬉しいはずの出来事だったのだが、登美子さんが私に何かを話しかけるたびに、私は悲しい気持ちになった。彼女はいつも一人で食事をしていた。登美子さんだけではない。桜ちゃんも健司さんも、いつも一人で食事をしていた。同じ家に住んでいるはずなのに家族はバラバラだった。
「なんだか、寂しくなっちゃったわね」
 登美子さんはことあるごとに、こう私に囁いた。
「仕方ないんだけどね」
 何が仕方ないのか、犬である私には理解できようもなかったが、諦めなければならないということだけわかった。


 それから幾度も季節が巡った。
 私は老いた。瞳は白く濁り、耳も随分と遠くなった。体力も落ちた。最近では走ることはおろか、満足に歩くことすら難しい。すぐに息があがるので、一日三回だった散歩が今は一日一回に減り、距離もうんと短くなった。以前はなんとも思っていなかった夏の暑さも、今では想像以上に堪える。
 死が近づいていることを、私は漫然と理解していた。死後、私という存在がどのようになるのかなど、信じる神もいない私には見当もつかないが、愛しい家族との別れが来ることだけはわかっていた。
しかし、私は今とても幸せだ。なぜなら、毎日、愛しい家族と食卓を囲むことができるからだ。濁った瞳では顔を見分けることもできないが、声や匂いでわかる。楽しそうに食事をし、会話をし、時間を共にする。その中に自分もいると感じるだけで、私の心は温かい気持ちで満たされるのだ。
「今日も暑いねー」
 夕方。リビングでだらしなく伏せっていた私の頭を、すっかり大人になった桜ちゃんがわしわしと撫でてくれる。
 仕事についてからさらに忙しくなった桜ちゃんは、それでも夕食の時間にはしっかりと帰ってくるようになった。健司さんも、平日の帰宅は相変わらず遅いが、休日は自らの手料理を振る舞うようになった。日曜大工の腕はからっきしだったが料理の腕はいいらしく、「毎週末ご馳走ばっかりで太っちゃう」なんて桜ちゃんが楽しそうに話していた。
 昔のように皆がいつも揃って――というわけにはいかないが、それでも食卓は私の好きな食卓へと戻った。時間は私の体を容赦無く蝕んでいくが、同時に賑やかな食卓も運んできてくれた。そう考えれば案外老いるということも悪くはないと、最近では思う。


「ほら、夕飯できたわよ」
 登美子さんの声と、食器の置かれる音。漂う香ばしい匂い。桜ちゃんの手が私から離れ、足音が洗面所のほうへ行く。そしてすぐに戻ってくるとそのまま食卓へ。椅子の引かれる音が三つして、私は動かない足のかわりに耳をぴんと立てた。
「はい、じゃあ皆さん揃って…」
 健司さんの音頭で三人が一斉に手を合わせる。
『いただきます』
 今日も食卓に、幸せの合図が響き渡る。