昨日

皇居一般参観へと出掛けてみました

すると今朝は

こんな夢…


またひとつ

滑稽な物語が出来ました




皇居





松の廊下で逢いましょう
――四十八人目の義士と、付け髭の彼女――


夕暮れの江戸城の
松の廊下跡の碑の前にひとり佇むと
300年前の大事件
殿中でござる! と
浅野内匠頭を止める声が聞こえて来た
その瞬間 時空は飛び
ここは? と見れば
両国の吉良の屋敷
僕はどうやら
赤穂義士のひとりらしい
お前は裏門へとの指示を受け
雪舞う真夜中 今まさに突入
もう命は預けたと覚悟すると

隣りに付け髭の女が現れた

なに? と思っていると
そこで目が覚めてしまった…



まえがき
「自分では何も決められない」
そう思いながら生きてきたことはありませんか。
誰かと肩がぶつかれば自分から先に謝り、メニューを選ぶときは「どっちでもいいよ」と言い、居酒屋では「とりあえず生で」の「とりあえず」ばかり小さくなる。相手を傷つけたくないから、自分が間違いたくないからと譲り続けているうちに、いつの間にか自分の本当の気持ちが見えなくなってしまう。
この物語の主人公・八木沢悟も、そんな「覚悟ゼロ」の男です。
恋人に振られ、失意の中で佇んでいた皇居東御苑の松の廊下跡で、彼は三百年以上の時を超え、元禄十五年の討ち入り直前の赤穂事件現場へと「落ちて」しまいます。
そこで出会ったのは、タイムトラブルを収拾するために未来から派遣された、これまた不器用で優柔不断な少女・雪村凛でした。
歴史を背負う四十七人の凄まじい「カクゴ」の熱気と、現代の文具メーカー営業マンの持参した「養生テープ」。一見ミスマッチな要素が織りなす、一夜限りの小さな奇蹟。
誰かのために一歩を踏み出すとき、人は知らず知らずのうちに自分だけの「覚悟」を宿します。
ほんの少し肩の力を抜きつつ、最後には優しく温かい気持ちになっていただければ幸いです。


一 とりあえず、生
十二月十四日の夕暮れ、僕は皇居東御苑の石畳を、できるだけ堂々と歩いていた。堂々と、というのは、迷子であることを周囲に悟られないための歩き方である。
八木沢悟、三十四歳。文具メーカーの営業二課。担当は付箋とクリアファイル、ときどき養生テープ。同期のあいだでのあだ名は「二課の『あ、すみません』」。肩がぶつかれば、ぶつかられた僕のほうが先に謝る。エレベーターの「閉」ボタンは、誰かが乗ってきそうな気がして押せない。居酒屋では「とりあえず生で」の「とりあえず」の部分だけ声が小さくなる。そういう男だ。
出張の帰りで、新幹線まで二時間も空いていた。それで、なんとなく、来た。理由はもうひとつある。三日前に、恋人に振られたのだ。
「悟くんって、何も決めないよね」
三年付き合った由香里は、駅前のカフェでそう言った。「どこでもいいよ」と僕が答えた店だった。
「ごはんも、旅行も、私たちのこれからも、全部『どっちでもいいよ』。私ね、命を預けてもいいと思えるくらいの覚悟を、あなたに見せてほしかったの。でも、あなたには、そういうの、ないでしょう」
命を預ける覚悟。カフェラテの泡が、ぷちんと割れた。僕は反論しようと口を開き、「あ、すみません」と言った。それが三年間の最後の会話になった。
(「あ、すみません」で終わる三年間とは、いったい何だったのだろう。)
そんなことを考えながら歩いていたら、大きな石の碑の前に出た。
  史蹟 松之大廊下跡
ここか、と思った。元禄十四年三月十四日、赤穂の殿様・浅野内匠頭が、この廊下で吉良上野介に斬りつけた。たったそれだけの出来事が、一年九か月後の、四十七人の討ち入りにつながった。
夕暮れだった。遠くで閉園を告げる放送が流れ、観光客の足音が、潮が引くように遠のいていく。石碑の前には、僕ひとりだけが残った。
三百年ちょっと前、ここで刃傷沙汰が起きたのだ。刀を抜く覚悟、人を斬る覚悟、そのあとで腹を切る覚悟。みんな、そんな覚悟を、いったいどこで買ったのだろう。僕には「とりあえず生」の覚悟すらないというのに。
「覚悟、かあ」
声に出して言ってみた。
その時である。
「殿中でござる!」
耳元で、割れんばかりの声がした。時代劇のよく通る声だ。誰かが後ろから、僕の肩をがっしりと掴んで止めたような気配がした。僕は思わず「あ、すみません!」と叫んだ。
次の瞬間、ピッ、という音がした。駅の自動改札に、定期券をかざしたときの、あの音だった。
世界が、折り紙のようにぱたりと畳まれた。


二 鎖帷子は冷たい
雪のにおいがした。
目を開けると、石碑は消えていた。夕暮れも消えていた。かわりに、墨を流したような闇と、凍りつくほど冷たい空気がある。ここは、と見回して、足もとで何かがじゃり、と鳴った。草鞋だった。革靴が、草鞋になっている。
僕は黒い着物を着ていた。その下に、重くて冷たい鎖が、ちゃらちゃらと身体を締めつけている。鎖帷子というやつだ。頭には鉢金。右手には長い槍。左手には、なぜか、出張用の営業鞄。
(鞄は持ってこられるんだ……)
ポケットのスマートフォンを出してみた。画面が青白く光り、電波は圏外、電池は三パーセント。画面の時計は午前三時五十二分を示している。元禄の冷気に曝されて消えてしまいそうな表示を、僕は慌てて画面をオフにしてポケットへ押し戻した。圏外なのは当然として、三パーセントには、ちょっとだけ悲しくなった。
「静かに」
頭の上から、低い声が降ってきた。見上げると、白髪まじりの、小柄だが眼光のするどい男が、僕を見下ろしていた。同じ黒い装束の男たちが、あたりの塀の影に、ずらりと並んでいる。誰もが押し黙り、白い息だけが、闇のなかでゆらゆらと揺れていた。
「ここは両国、本所松坂町。あれが吉良の屋敷だ」
男は塀の向こうを顎で示した。どうやら、僕は、そういう場所にいるらしい。
「お前は裏門へ」
「はい?」
「持ち場を離れるな。合図あるまで、息を殺しておけ」
男はそれだけ言うと、音もなく闇に消えた。僕は槍を抱えたまま、数人の男たちと一緒に、裏門の前に残された。
ほんとうに、赤穂義士だ。僕は赤穂義士のひとりになっている。夢だろうか。頬をつねってみる。痛い。つねった指が、鎖帷子の冷たさで、さらに痛い。
雪が舞っていた。
不思議だった。歴史の本には、討ち入りの夜、雪は前の日にやんでいたと書いてあったはずだ。それなのに、僕の頭のまわりだけ、ちらちらと細かな雪が踊っている。まるで、そこだけ小さな雪の国ができているみたいに。
(どうしよう。どうしよう、どうしよう。)
胸の鼓動が、鎖帷子をがたがた鳴らしていた。そんなに震えたら、みんなに聞こえてしまう。ところが周りの義士たちは、誰ひとり、僕を見ない。それどころか、動かない。
動かない?
隣の男の鼻先に、雪のひとひらが、ぴたりと止まっていた。落ちもせず、溶けもせず、空中に縫い止められている。男の目は大きく見開かれたまま、まばたきもしない。
「え」
「動かないで」
右隣から、声がした。
まだ若い、そして、どう聞いても女の声だった。
「顔を向けないで。そのまま、前を見ていて。……あなた、四十八人目よ」
僕は、ぎこちなく、声のほうを盗み見た。
そこにいたのは、僕と同じ黒装束の、ひどく小柄な「義士」だった。顔の下半分には、立派な付け髭がべったりと貼りついている。ただし、右のほうが少し剥がれて、ぶらん、と垂れ下がっていた。


三 四十七が四十八になると
「ええと」と僕は言った。「付け髭、取れかかってますけど」
「えっ」
彼女は慌てて髭を押さえた。それから、ひとつ咳払いをして、無理やり低い声を作った。
「……拙者は、時間観測庁、第七課、整合係補佐代理見習い、雪村凛でござる」
「長いですね」
「肩書きが長いのは、役所だからです。あと、語尾は気にしないでください。現地の言葉に合わせようと思ったのですが、うまくいかなくて」
うまくいっていなかった。ござる、が、ところどころ「でござります」になったり「でございます」になったりしている。
「それより、聞いてください。時間がないんです。いえ、時間はあるんですけど、ないんです」
彼女はそう言うと、袖口から、懐中時計のようなものを取り出した。蓋をあけると、文字盤には、数字のかわりに細かな目盛りが渦を巻いていた。針は一本。それがぶるぶる震えて、「2」のあたりで止まっている。
「まず、状況を説明します。いま、この夜は、私の権限で引き延ばしてあります。外から見れば、討ち入り前のほんの数分。でも、私たちの体感では、およそ九時間です。周りの方々が止まって見えるのは、止まっているのではなくて、遅くなっているんです。五百四十分の一くらいの速さで。雪が舞っているのは、その副作用です。時間が引っ張られると、空気中の水分が勝手に踊るので」
僕は、鼻先に雪を止めたままの義士を、そっと見た。まばたきの途中で、まぶたが半分だけ降りている。
(歴史上の英雄に、こんな顔をさせてしまって、いいのだろうか。)
僕は思わず、その義士に頭を下げた。「あ、すみません」
「謝らなくていいです」
「あ、すみません」
「それも」
彼女は、小さくため息をついた。
「本題に入ります。八木沢悟さん」
「え、なんで僕の名前を」
「鞄に書いてありました」
営業鞄の隅に、会社名入りのタグが付いている。そうか。
「あなたは、二〇二六年から、ここに『落ちて』きました。毎年、十二月十四日の夕暮れ、松の廊下跡では、時間の継ぎ目がゆるむんです。『殿中でござる』という、歴史上もっとも強く『止めた』声が、いまもその場所に残っていて。普段は気配程度で済むんですが、年に一度、誰かがその声に引っ掛かる」
「それが、僕」
「はい。通常、覚悟の強い人間は、継ぎ目をはね返します。ところが、あなたの『覚悟』は、ほとんどゼロでした。ゼロは空いているので、すとん、と落ちたんです」
ひどい言われようだと思ったが、反論できる材料が、なにもなかった。
「どうして、そんなことが分かるんですか」
「これです」
彼女は懐中時計を、僕の目の前にかざした。
「覚悟計です。単位は『カクゴ』。いま、あなたは二カクゴ。ちなみに、ここにいる義士の皆さんは、一人あたり、およそ八千カクゴあります」
「差がすごい」
「ええ。四十七人分で、三十七万六千カクゴ。この覚悟のエネルギーが、歴史を、ずっと支えているんです」
凛さんは、ここで急に、深刻な顔になった。付け髭が、またすこし垂れた。
「四十七という数字は、日本にとって、とても大事な『整合定数』なんです。四十七士。四十七都道府県。いろは歌の、四十七文字」
「いろは歌って、『ん』を入れると四十八では」
「入れません。入れたら、整合が崩れるので」
彼女は、きっぱり言った。そういうものらしい。
「もし、この討ち入りに四十八人目がいたら、どうなるか。まず、地図に、四十八番目の県が、ぽこんと現れます。名前は、おそらく、八木沢県。県庁所在地は、不明」
「僕の名前の県が」
「次に、いろは順に並んだ名簿が、全国で一人ずつずれます。さらに」
彼女は、声をひそめた。
「年末の討ち入り特番が、四時間半から四時間三十一分に延びて、全国の録画予約が、最後の一分で切れます」
「それは、困りますね」
本気で困った。年末の忠臣蔵は、実家の父が、毎年、最後の一分まで見ているのだ。
「ですから、夜が明ける前に、あなたを元の時間に戻さないといけません。戻る方法は、ひとつ」
彼女は、懐中時計を、ぱちん、と閉じた。
「この討ち入りの瞬間、四十七人の覚悟がいちばん高まるとき、継ぎ目がもう一度開きます。その波に乗って、帰る。ただし、乗るには、あなた自身の覚悟が、最低でも百カクゴ必要です」
「百」
「いま、二です」
雪が、僕の頭のまわりで、静かに舞っていた。
「……あの」
「はい」
「ちなみに、もし、百カクゴに届かなかったら」
凛さんは、僕から目をそらして、付け髭を、そっと直した。
「そのときは、あなたは、元禄の人になります」


四 養生テープと付け髭
「ひとまず、座りましょう。九時間あります」
凛さんはそう言って、凍りついた義士たちの列の端、土蔵の壁の陰に腰をおろした。僕も隣にしゃがむ。通り道にいる義士たちを避けるために、僕は何度も「あ、すみません、失礼します」と頭を下げた。そのたびに、凛さんが小さく吹き出した。
「真面目なんですね」
「ただ、気が小さいだけです」
「同じことでしょう?」
「全然違うと思います」
彼女は、くすくす笑った。笑うたびに、付け髭が、ぷるぷると揺れた。もう右半分は完全に外れて、顎の下にぶら下がっている。
「それ、直しましょうか」
「え?」
「こう見えて、粘着物のプロなんです」
僕は営業鞄を開けた。付箋、付箋、クリアファイル、付箋、そして、養生テープ。
「付箋の糊は、弱いんです。剥がしても跡が残らないように、わざと。ですから髭には向きません。こちらの『強粘着タイプ』なら、ご要望に近いんですが、肌に直接貼ると、剥がすときに痛いので……ええと、こちらの養生テープ、いかがでしょう。一巻き三百円。まとめてご購入で、お値引きも」
「営業、始まりました?」
「あ、すみません、つい」
職業病だ。凛さんは、また笑った。それから、顎をすこし上げて、目を閉じた。
「じゃあ、お願いします」
僕は、養生テープを短く切って、彼女の顎に近づけた。雪が、ちらちらと、二人のあいだを舞っている。近い。彼女のまつげの長さまで、分かる。髭の端を押さえる指が、すこし震えた。
(やめてくれ、手。)
「……あの、これ、くすぐったい」
「あ、すみません」
「謝らなくていいって」
貼り終えた付け髭は、さっきより、すこし斜めになっていた。それが、なんだか、愛嬌があった。
「ありがとう」
凛さんは、懐中時計を開けて、目盛りを確かめた。針が、ぶるっと動く。
「三」
「三?」
「いま、あなたは三カクゴ。一増えました」
「何でですか」
「分かりません。でも、人にものを頼まれて、ちゃんと応えると、覚悟が、一つ貯まるのかも。……データが足りないの。私、現場に出るの、これが初めてなんです」
「初めて」
「はい。ほんとうは、こういう案件は、選択補助システムの『ミチビキ』が全部やってくれるんですけど」
「ミチビキ」
「私の時代では、みんな、そう呼んでいます。朝ごはんの献立から、着る服、仕事、結婚相手まで、全部『ミチビキ』が、いちばん幸せになれる選択肢を、ひとつだけ教えてくれるの。迷う人は、もう、いません」
「それは、楽そうですね」
「楽なんです。すごく」
彼女は、膝を抱えた。
「だから、誰も、覚悟を持たなくなりました。覚悟って、選べなかったときに、後悔を引き受ける力のことでしょう。選ばなくていい世界では、いらないんです」
「それで、昔の時代から、分けてもらいに?」
「あ、これは言っちゃいけないことだった」
彼女は、慌てて口を押さえた。付け髭が、またずれた。
「で、でも、今回は、ミチビキが答えを出さなかったんです。『前例のない事案のため、現場判断に委ねます』って。それで、私に、お鉢が回ってきて。私、初めて、自分で、決めなくちゃいけなくなって。おかげで、昨日から、何も食べられないの」
「ごはんも、決められなくて?」
「ええ。梅干しにするか、鮭にするかで、三時間迷って」
僕は、思わず、笑ってしまった。
「何がおかしいの」
「いえ。僕もそうなんです。『どっちでもいいよ』が、口癖で」
「あなたは、決められないんじゃなくて、決めないんでしょう?」
痛いところを、まっすぐ突かれた。でも、不思議と、嫌な気はしなかった。
「……そうです。決めないんです。決めて、間違ったら、怖いから。誰かを傷つけるくらいなら、自分が譲ったほうがいいって、ずっと、思ってきました」
「譲ってきたんですね。ずっと」
「はい。気づいたら、譲りすぎて、何も残ってませんでした。三日前に、彼女にも、言われました。命を預けるくらいの覚悟が、ないって」
雪が、静かに舞った。凛さんは、しばらく、黙っていた。それから、懐中時計を、僕の目の前に差し出した。
針は、「四」を指していた。
「いま、あなたが、自分から、誰かに話したから。四」
「話しただけで?」
「たぶん、弱いところを『見せる』ことも、覚悟のひとつなんです。ねえ、八木沢さん」
「はい」
「私のことは、凛と呼んでください。肩書きで呼ばれるの、ちょっと疲れたの」
「凛、さん」
「さんも、いりません」
「それは、ちょっと、まだ、ハードルが」
「ハードルが、あるんですね」
彼女は、嬉しそうに言った。それから、小声で、足した。
「私にも、あります」


五 百カクゴへの道
トレーニングは、その夜のうちに、始まった。
「覚悟を貯めるには、小さな決断を、積み重ねるのがいいと思うんです」
凛さんは、袖から、ちびた矢立と、巻紙を取り出した。「ミチビキ」の使えないこの時代で、メモを取るためだ。
「第一問。この草鞋と、あの草鞋。どちらを履きますか?」
「ええと、どっちでも」
「ブー」
「あ、すみません。じゃあ、右、いや、左……いや」
「三十秒以内に」
「ひ、左!」
「正解」
「正解なんてあるんですか」
「ありません。決めたことが、正解です」
針が、ちょこ、と動いた。五。
「第二問。あの塀の上の猫に、名前をつけてください」
「猫?」
見ると、塀の上に、まだらの猫が一匹、前足を上げた姿勢のまま、凍りついていた。
「……にゃんこ」
「ありきたり」
「じゃあ、大石内蔵助」
「それは、だめです」
「ですよね。ええと、ええと、『ポスト』」
「ポスト?」
「付箋の、ポスト・イット」
「ふふ。採用」
六。
そんな調子で、僕らは、九時間のうち、三時間ほどを、くだらない決断の練習に費やした。昼ごはんを何にするか。どの道を通って帰るか。この雪が、きれいか、うっとうしいか。
「うっとうしい、と思ってるでしょう」
「いえ、きれいです。凛さんの、まつげに、積もってて」
言ったあとで、顔が熱くなった。凛さんは、驚いたように、まばたきをした。その拍子に、まつげの雪が、ぽろりと落ちた。
針が、一気に、跳ねた。
十八。
「い、今のは、なに」
「分かりません。ただ、その、本当のことを、言ってみただけで」
「……そう」
凛さんは、懐中時計を、ぱちん、と閉じて、胸にぎゅっと押しあてた。表情は、付け髭のせいで、よく読めない。でも、耳が、真っ赤だった。
「次、行きましょう」
「は、はい」
四時間目に、事件が起きた。
吉良邸の裏門の脇の、小さな潜り戸が、ぎい、と開いたのだ。
ぬっと現れたのは、寝ぼけ眼の、男だった。着ているのは、寝間着。手には、提灯。どうやら、厠にでも行くつもりらしい。
「ま、まずい。凛さん、あの人、動いてますよ」
「吉良家の下働きの方ですね。時間流の外側にいる。つまり、普通の速さで動いている」
「どうします」
「見つかったら、討ち入りが、始まる前にばれてしまう。歴史が、変わります」
「止めないと」
「止められますか」
「…………」
男は、提灯を揺らしながら、こちらへ歩いてくる。ひたひた、ひたひた。僕の槍が、がたがたと震えた。
(どうする。どうする。どっちでもいい、はなしだ。)
僕は、立ち上がった。
「八木沢さん?」
自分でも、驚いた。足が、勝手に、前に出ていた。草鞋の底で、雪が、きゅっと鳴る。男が、ぎょっとして立ち止まった。
「な、何者じゃ」
僕は、槍を、地面に、そっと置いた。それから、深々と、頭を下げた。胸ポケットをまさぐり、営業マンの習性で名刺入れを出しそうになって慌てて引っ込め、かわりに鞄からあるものを取り出した。
「あ、すみません」
「へ?」
「夜分に、大変申し訳ありません。実は、これから、こちらのお屋敷に、討ち入りをさせていただく予定でして」
「う、討ち入り?」
「はい。つきましては、ご迷惑をおかけしますが、あなたには、危害を加えません。ですので、すみませんが、このまま、お部屋にお戻りいただいて、朝まで、出てこないでいただけませんでしょうか。お願いします。お詫びのしるしに、これを」
僕は、営業鞄から付箋のセットを一つ取り出して、男の手に丁寧に握らせた。
「……な、なんじゃ、これは」
「付箋です。試供品です」
男は、手の中の、色とりどりの小さな紙の束を、じっと見た。それから、僕の顔を、見た。ずいぶん長い間、見ていた。
「……よう分からんが、お前、悪い人間ではなさそうじゃな」
「ありがとうございます」
「ええもんをくれた。ええ、ええ、今夜は寝ておこう。厠は、我慢する」
男は、付箋を、大事そうに懐に入れて、ひたひたと、戻っていった。ぎい、と潜り戸が、閉まる。
僕は、その場に、へなへなと座り込んだ。
「……やった」
「やりましたね」
凛さんが、僕のそばにしゃがんで、目を見開いていた。
「八木沢さん、あなた、今」
「は、はい」
「見てください」
懐中時計の針は、ぶるぶると震えて、いままでで、いちばん高いところに届いていた。
「四十一」
「四十一?」
「すごい。あんなこと、普通、覚悟のない人にはできません。……ねえ、どうして、立てたんですか」
「分かりません。ただ」
僕は、自分の手を、見た。まだ、震えていた。
「あの人が、見つかって、あなたが、困るのが、嫌でした」
凛さんは、何も言わなかった。付け髭の下で、唇が、すこし、動いた気がした。
「覚悟って」と僕は続けた。「誰かの、ためのものなんですね。自分のためだけだと、僕、どうしても、『どっちでもいい』になっちゃうんです。でも、誰かの顔が、浮かぶと」
「……浮かぶと?」
「足が、勝手に、動きます」
雪が、凛さんの、肩に、静かに積もっていた。
その夜の残りを、僕たちは、ほとんど、しゃべらずに過ごした。壁にもたれて、並んで座って、凍った義士たちの、白い息を眺めていた。ときどき、肩が触れた。そのたびに、針が、ぴく、と動いた。
五十八。
六十三。
七十一。
「あの」と凛さんが言った。
「はい」
「これ、増えるときと、増えないときの、違いが、分かってきました」
「何ですか」
彼女は、懐中時計を見つめたまま、小さな声で、言った。
「たぶん、私、が、そばにいるとき、なんです」
僕は、返事ができなかった。針が、七十九まで上がって、そこで、ぴたりと止まった。


六 裏門、午前四時
九時間が、終わった。
凛さんが、懐中時計の蓋に指をかけて、「戻します」と言ったのだ。ぱちん、という音と同時に、世界が、一度だけ、深呼吸をした。
雪が、一斉に、落ちはじめた。止まっていた義士たちが、まばたきをして、白い息を吐いた。猫が、塀の上から、ひらりと飛び降りた。
遠くの闇のむこうで、太鼓の音が、鳴りはじめた。
ドン、ドン、ドン。
一打ち、二打ち、三流れ。山鹿流の陣太鼓。表門の方向だ。
「始まります」
凛さんが、僕の袖を、つかんだ。付け髭は、養生テープの力で、しっかり貼りついたままだ。
「八木沢さん。ここからは、時間が、普通に流れます。裏門が破られた瞬間、四十七人分の覚悟が、いちばん高くなって、継ぎ目が開きます。その波に、乗らないといけません。あなたの覚悟は、いま」
彼女が、懐中時計を開いた。針は、九十四を指して、ぶるぶると震えていた。
「九十四。あと六です」
「たった六」
「たった、ではないんです。そこから、動かないの。何度やっても、九十四で、止まる」
「何が足りないんでしょう」
「分かりません。……いえ」
彼女は、顔をそむけた。
「分かっています。たぶん」
「掛矢を持て!」
小柄な頭分の声が、闇に響いた。数人の義士が、大きな木槌を担いで、裏門の前に進み出る。僕と凛さんも、槍を握りなおして、その後ろに、続いた。
足が、震える。鎖帷子が、がちゃがちゃ鳴る。それなのに、さっきまでの怖さとは、種類が違う気がした。怖いのは、同じだ。ただ、怖いのに、足が、前を向いている。
「ここで、お別れですね」
凛さんが、小声で言った。
「え?」
「継ぎ目が開いたら、あなたは、二〇二六年へ。私は、二三〇八年へ。同じ継ぎ目から戻るんですけど、行き先が、別だから。たぶん、もう、会えません」
「そんな」
「大丈夫。報告書には、『整合維持に成功、対象者は無事に帰還』と書いておきます。ミチビキも、きっと、褒めてくれます。いい経験でした。……短かったけれど、楽しかったです。ごはんも、決められたし。ほら、梅干しにしました。九時間前に」
「食べてないじゃないですか」
「食べてません。でも、決めたんです。それが、正解です」
彼女は、笑った。付け髭の下で、泣きそうな顔をして、笑った。
その顔を見た瞬間、僕の脳裏を、あの駅前のカフェがよぎった。カフェラテの泡が割れた瞬間、僕を見つめていた由香里の冷めた目。
——命を預けてもいいと思えるくらいの覚悟。
あの時、喉まで出かかって、出せなかった言葉。逃げて、「あ、すみません」で済ませてしまった自分。
だが、いま目の前にいる彼女には、違った。
「凛」
呼び捨てにしたのは、それが、初めてだった。彼女が、びくりとして、僕を見た。
「僕は、どっちでもよくない」
「……え?」
「帰るのは、どっちでもよくない。あなたと会えなくなるのは、全然、どっちでもよくないんです。あなたに、会いたい。明日も、来年も、できれば、ずっと。あなたが、二三〇八年の人でも、肩書きが長くても、付け髭が、似合わなくても」
「似合わないって、言いました?」
「すごく、似合ってないです。でも、好きです」
雪が、僕らのあいだに、ひとひら、落ちた。
「凛。僕は、あなたに、命を預けます。預かって、もらえますか」
彼女は、口を開けたまま、固まっていた。時間は、普通に流れているのに、まるで、また止まったみたいだった。
「……私、預かったことが、ないの」
「僕も、預けたことが、ありません」
「どうやるのか、分からない」
「分かりません。たぶん、決めるだけです」
凛さんは、うつむいた。懐中時計を、ぎゅっと握りしめて、肩が、小さく震えている。
「怖い」
「僕もです」
「ミチビキが、何も、教えてくれないの」
「僕らで、決めましょう」
彼女は、顔を上げた。まつげに、雪が、積もっていた。
「……預かります」
「ありがとう」
「あなたのも、預かります。だから」
彼女は、僕の目を、まっすぐに見た。
「私のも、預かってください」
「はい」
「あ、すみませんは、なしで」
「……はい!」
そのとき、凛が、僕の営業鞄から付箋を一枚抜き取った。矢立でさらさらと何かを書きつけ、くるりと丸めて、僕の手のひらに押しつける。
「読むのは、帰ってから」
「いま、何を」
「決めたことを、書きました」
次の瞬間、懐中時計の針が、ぶわっ、と跳ね上がった。九十四、九十五、九十六、九十七、九十八、九十九、そして。
「百」
針は、「百」の目盛りを、通りすぎて、くるくると、回りはじめた。
「百二十。百五十。……二百? どうなってるの、これ」
「壊れましたか」
「壊れたんじゃなくて」
凛は、呆れたように、笑った。
「『愛』って、覚悟計の目盛りに、なかったんです」
「せーの!」
頭分の声。掛矢が、振り上げられる。
バーン!
裏門が、割れた。木片と雪が、舞い上がった。同時に、四十七人の義士たちの、雄叫びが、闇を、揺らした。
覚悟、という言葉の重さを、僕は、そのとき、体で知った。空気が、ぎゅうっと、濃くなる。目に見えない、巨大な、熱のようなもの。それが、地面から、空へと、立ち上がっていく。
「今です!」
凛が、僕の手を、つかんだ。
「敷居を、またいで!」
僕らは手をつないだまま、壊れた裏門の敷居を跨いだ。背後で、あの下働きの男が、「付箋の兄さん、達者でな」と言った気がした。
その瞬間、ピッ、という音がした。
世界が、折り紙のように、ぱたりと開いた。


七 閉園のお時間です
「閉園のお時間です。お出口は、あちらです」
耳元で、拡声器の声がした。
目を開けると、夕暮れだった。石畳。頭上の松。目の前には、「松之大廊下跡」の碑。
僕は、革靴を履いていた。スーツだった。営業鞄は、いつも通り、左手にあった。
「あの、お客様? 大丈夫ですか」
制服の係員が、懐中電灯を持って、僕を覗き込んでいる。
「あ、すみません。大丈夫です」
「もう閉めますからね。お気をつけて」
係員が、去っていく。僕は、碑の前に、ひとり、残された。
(……夢、だったのか。)
そう思いかけて、右手を見た。
手のひらに、小さく丸められた、黄色い紙が、握られていた。付箋だった。うちの商品の、中粘着タイプ。広げると、見慣れない、丁寧な筆跡で、こう書いてあった。
  覚悟、確かに預かりました。
  来年の十二月十四日、夕暮れ、松の廊下で。
  継ぎ目は、年に一度、開くので。
  これは、私が、決めました。
  追伸 梅干し、食べました。おいしかった。
                     凛
読み終えたとたん、目の奥が、じわりと熱くなった。僕は、付箋を、そっと胸ポケットに貼った。粘着力は、中。剥がれにくくて、跡が残らない。我ながら、いい商品だ。
スマートフォンが、ぶるっと震えた。電池は、三パーセント。時刻は、十六時十二分。僕が、碑の前に立った、あの夕暮れから、一分も進んでいなかった。
僕は、しばらく考えてから、由香里にメッセージを打った。
『三年間、ありがとう。あのとき、何も言えなくてごめん。僕は、これから、自分で決めることにします。お元気で』
送信、を、押した。迷わなかった。押した瞬間、スマートフォンは、満足したように、ふっと、暗くなった。
東京駅の立ち飲みで、僕は、ビールを頼んだ。
「ご注文は?」
「生を、一つ」
「とりあえず?」
「いえ。『生』です。決めてます」
店員は、きょとんとして、それから、にっこり笑った。
*
その年の暮れ、僕は、実家のこたつで、父と並んで、年末の討ち入り特番を見ていた。
「お前、今年は、やけに、しゃんとしとるな」
「そうかな」
「前は、『あ、すみません』ばかり言っとったのに」
「今も、ときどき、言ってるよ」
父は、満足そうに、みかんを剥いた。画面では、裏門の場面が、はじまっていた。雪。掛矢。「せーの!」
「おや」と父が、身を乗り出した。「今年の裏門の義士、一人だけ、付け髭が、斜めだぞ。演出かね」
僕は、みかんを、喉に詰まらせかけた。
特番は、四時間三十分ちょうどで、終わった。録画は、最後の一分まで、ちゃんと、撮れていた。地図に、八木沢県は、現れなかった。


八 そして、また、夕暮れ
一年が、過ぎた。
僕は、営業一課に、異動になっていた。きっかけは、社内の企画コンペだった。「あ、すみません」を、一度も言わずに、自分の案を、最後まで、プレゼンしきったのだ。企画は、通らなかったが、部長が、笑って、言った。
「八木沢、お前、ちょっと、変わったな」
「はい。決めたので」
「何を」
「いろいろです」
十二月十四日の夕暮れ、僕は、皇居東御苑の石畳を、堂々と歩いた。今度は、迷子ではない。目的地が、あるからだ。
碑の前には、もう、誰もいなかった。松の影が、長く伸びている。遠くで、閉園の放送が、流れはじめた。
僕は、ポケットから、付箋を一枚取り出した。一年前に、凛が書いてくれた、あの付箋だ。
「覚悟、かあ」
声に出して、言ってみた。
もう、独り言ではなかった。
その時である。
「殿中でござる!」
耳元で、割れんばかりの声が、した。僕は、「あ、すみません」とは、言わなかった。かわりに、にっこり、笑った。
ピッ、という音。世界が、折り紙のように、ぱたりと、畳まれて、また、ひらいた。
目の前に、彼女が、立っていた。
黒い装束ではなかった。二三〇八年の、白い、すっとした服。髪が、肩まで、伸びている。そして、顔の下半分に、立派な付け髭が、べったりと、貼りついていた。
しかも、右が、すこし、斜めだった。
「……なんで、付け髭」
「だって」と凛は、言った。「この髭がないと、あなたが、私だって、分からないでしょう?」
「分かります。どこにいても」
「即答」
「決めてるので」
彼女は、真っ赤になって、付け髭を、ぺり、と剥がした。それから、僕の手を、ぎゅっと、つかんだ。
「お待たせしました。八木沢悟さん。預かった覚悟、返しに来ました」
「返さなくて、いいです。そのまま、持っていてください。僕のも、預かってもらってるので」
「じゃあ、交換ね」
「交換?」
「そう。ずっと」
閉園の放送が、僕らの背中を、そっと押した。
「ところで」と凛が言った。「これから、どこへ行きますか?」
僕は、息を吸った。
「どっちでもいい、はなしだ」
「なしです」
「じゃあ」
僕は、胸を張って、答えた。
「梅干しのおにぎりが、おいしい店」
「採用」
夕暮れの松の廊下に、雪は、降っていなかった。それでも、僕の頭のまわりには、ちらちらと、小さな光が、舞っていた。
夢なら、覚めなくていい。
いや、もう、決めたのだ。
これは、夢じゃない。

ー了ー




あとがき
物語の中で、八木沢悟は「覚悟」を、「誰かの顔が浮かんだ時に、勝手に足が動き出すもの」と再定義します。
現代社会では、AIや情報システムの最適化によって、迷わずに済む環境が整いつつあります。失敗を避けるには非常に便利ですが、その一方で「自分で引き受ける覚悟」を持って選ぶ喜びが、少し薄れてしまうようにも思えます。
私自身、歳を重ねる中で、昔の記憶や昭和の空気感、人と人との不器用な触れ合いを思い返すことが多くなりました。便利になった時代だからこそ、あえて失敗や後悔すらも自分で引き受ける「選択」の温かさを書いてみたい——そんな思いから生まれたのが、この『松の廊下で逢いましょう』です。
誰かを大切に想う気持ちそのものが、自分自身を前へと突き動かす一番のエネルギーであるのかもしれません。
もし読者の皆様が日々の生活の中で「どっちでもいいや」と迷いそうになった時、この物語の「養生テープで貼り付けた不器用な付け髭」や「一粒の梅干しおにぎり」のシーンをふと思い出し、クスリと笑っていただければ幸いです。


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