一秒泥棒
――八十億人から盗まれた一秒――
まえがき
永遠という言葉が、私はあまり好きではない。
永遠を望んでも、その永遠などどこにもない。年齢を重ねるほど、そう思うようになった。
過ぎ去った時間は戻らない。
あのとき、もう一言だけ話していれば。
あと一分、早く着いていれば。
もう一度だけ、会えていたら。
そんな後悔をいくつ抱えても、時計の針は知らん顔で進んでいく。
それでも、人は生きている。
取り戻せないものを抱えたまま、朝になれば顔を洗い、味噌汁を飲み、誰かに小言を言われながら、一日を始める。
この物語は、世界から一秒ずつ盗み続ける、不思議な泥棒の話である。
盗まれた時間を取り戻そうとする老人と、どうしても取り戻したい一秒を抱えた少年。
二人が出会ったとき、時計では測れないものが、少しずつ動き始める。
もし、あなたにも取り戻したい一秒があるのなら。
どうか、その一秒を思い浮かべながら読んでいただきたい。
序 世界が毎日、一秒ずつ痩せていく
世界から、毎晩、一秒ずつ、何かが消えていた。
誰も気づかなかった。
通勤電車は相変わらず混んでいたし、テレビの天気予報は外れたし、コンビニのレジでは、いつもの店員が、いつもの質問を繰り返していた。
「ポイントカードはお持ちですか」
持っていない。
持っていないのに、毎日聞かれる。
人間の一生には、もっと大切なことがあるはずだが、世の中は案外、そういうことでできている。
だから、世界から一秒が消えたところで、誰も困らなかった。
ただ一人を除いて。
針ヶ谷宗太郎、六十八歳。
一年前まで、商店街で時計店を営んでいた男である。
彼は四十年間、時計を直して暮らしてきた。
進みすぎる時計を遅らせ、遅れる時計を進ませ、止まった時計を再び動かしてきた。
人間の時間だけは、どうにもならなかった。
そのことを、彼はよく知っていた。
ある朝、宗太郎は、自分の居間に掛けてある柱時計を見上げた。
昨日まで正確だった時計が、一秒だけ遅れていた。
たった一秒。
普通の人間なら、気にも留めない。
しかし、宗太郎は時計屋だった。
時計屋にとって、原因のない一秒は、原因のない人生と同じくらい気になるものだった。
彼はまだ知らなかった。
その一秒が、世界中の人々から盗まれたものだということを。
そして、その一秒を盗んでいたのが、たった十歳の少年だということを。
これは、八十億人分の一秒をめぐる、史上最小にして史上最大の窃盗事件である。
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第一章 狂わない時計が、狂っていた
事の始まりは、居間の柱時計だった。
閉店して一年。
宗太郎は、店から持ち帰った古い柱時計を、毎朝六時にねじ巻きしていた。
振り子の長さ、歯車の噛み合わせ、脱進機の動き。
四十年かけて磨いた腕で調整した、彼の最高傑作だった。
日差は、ほとんどゼロ。
その時計が、一秒遅れていた。
「ほう」
宗太郎は眼鏡を押し上げた。
電波時計と見比べる。
やはり、一秒。
昨日までぴたりと合っていた針が、ぴたりと一秒だけずれている。
「故障か」
分解した。
歯車を一つずつ拡大鏡で確かめた。
異常なし。
ぜんまいも、振り子も、異常なし。
翌朝、また一秒遅れていた。
合わせ直した。
翌朝、また一秒。
三日目、宗太郎は納戸から古い時計をありったけ引っ張り出した。
腕時計が二十本。
置時計が九台。
懐中時計が三つ。
機械式も、電池式も、電波式も。
全部、一秒ずれていた。
「あなた、朝から何をしているの」
台所から妻の澄江が顔を出した。
六十五歳。
若い頃は白バイ隊員だった。
結婚前は白バイで悪い男を追いかけ、結婚後は悪くない男を追いかけて捕まえた。
捕まった男が宗太郎である。
「時計が全部、一秒遅れとる」
「そんなの、誤差じゃないの」
「毎日、きっちり一秒だぞ」
「一秒くらい、いいじゃない」
「よくない」
宗太郎は、胸を張った。
「誰かが盗っとる」
澄江は、しばらく夫を見つめた。
「何を?」
「一秒を」
「……あなた、それ、被害届を出せるの?」
宗太郎は黙った。
その発想はなかった。
「それを、これから確かめに行く」
彼は古い革靴を履いた。
紐を結ぶ手が、少し震えていた。
手の故障ではない。
四十年間、時間を測り続けてきた男の胸に、久しぶりに好奇心が戻ってきたのである。
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第二章 被害額、〇・二八円
交番の安藤巡査は、二十七歳だった。
眠そうな目をした、親切な青年である。
「はあ。一秒を盗まれた、と」
「そうです」
「それは、時計が遅れているということでしょうか」
「違う。時計は結果にすぎん。盗まれているのは、時間そのものだ」
安藤巡査は、困った顔で被害届の用紙を取り出した。
「被害品目は……時間?」
「一秒だ」
「被害額は?」
宗太郎は胸ポケットからメモを出した。
昨晩、計算してきたのである。
「時給千円として、一秒あたり約〇・二八円」
「〇・二八円……」
「一日だけならな」
宗太郎は、メモを裏返した。
「だが、被害者は私だけじゃない。世界中の人間だ。八十億人が一秒ずつ盗まれている」
「八十億人……」
「一日あたり、約二十二億円相当。年間なら、八千億円近い」
もちろん、全人類の一秒に一律の賃金をつけることなどできない。
その計算は、時計屋が勝手に考えた、いささか乱暴な試算だった。
しかし、安藤巡査には、そのことを指摘する余裕がなかった。
「それは……大変な事件ですね」
「そうだろう」
「ただ、被害を確認できないと、警察としては……」
「確認できる。時計が遅れている」
「でも、被害者の皆さんは困っていませんよね」
「困っていないから、盗んでいいということにはならん」
安藤巡査は、しばらく考えた。
「針ヶ谷さん。仮に犯人が見つかったら、どうされます?」
「返してもらう」
「一秒を?」
「一秒を」
安藤巡査は、用紙をそっと伏せた。
「少々、お待ちください。上司に相談してきます」
十分後、彼は戻ってきた。
「申し訳ありません。警察としては、現時点では対応が難しいそうです」
「なぜだ」
「被害の立証が難しく、被害者本人も気づいていないので」
宗太郎は、深いため息をついた。
「つまり、盗まれても気づかないものは、盗んでもいいということか」
「いえ、そういうわけでは……」
交番の外では、澄江がヘルメットを抱えて待っていた。
「どうだった?」
「相手にされん」
「そう」
澄江は、ヘルメットをかぶった。
「じゃあ、私たちでやるしかないわね」
「何をする気だ」
「犯人を捕まえるのよ」
澄江は、顎紐を締めた。
「こういうのは、現行犯が一番早いの」
四十年前、白バイに乗っていた頃と同じ目をしていた。
宗太郎は思った。
時計を直すだけの人生も、案外、悪くなかった。
しかし、今夜は少しだけ、面白いことになりそうだった。
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第三章 録音できない声
その夜の作戦会議には、思わぬ参加者がいた。
孫の陽である。
七歳。
娘の美咲が仕事で出張になり、一晩、祖父母の家に泊まることになった。
「おじいちゃん、ぼくも見つけたよ」
陽は、小さな手帳を卓袱台に広げた。
幼い字で、数字が並んでいる。
「これは何だ?」
「時計の記録」
「時計の?」
「寝る前と、朝に見てるの。ちょっとずつ、ずれてるんだよ」
宗太郎は、孫の顔を見た。
「お前にも分かるのか」
「うん。それとね」
陽は声をひそめた。
「夜中に、ときどき起きちゃうの。そしたら、耳のそばで、誰かが言うんだ」
「何と?」
「ごちそうさま、って」
宗太郎と澄江は、顔を見合わせた。
「録音は?」
「した!」
陽はタブレットを取り出した。
再生ボタンを押す。
夜の静けさが流れた。
遠くを走る車の音。
エアコンの低い唸り。
そして、録音の途中に、奇妙な空白があった。
背景音まで、一秒だけ、ぽっかりと消えている。
「ここだよ」
陽が言った。
「ここで、ごちそうさまって言ってた」
宗太郎は、息を呑んだ。
声が録音されなかったのではない。
声を録音するはずの一秒そのものが、そこから抜き取られていたのだ。
「泥棒は、自分の声が記録に残らないようにしているのか」
「たぶんね」
澄江は腕を組んだ。
「でも、ひとつ分かったわ」
「何だ」
「毎晩、同じ時刻に来ている」
陽の手帳には、午前三時三十三分という数字が、何度も書かれていた。
「ゾロ目だな」
「几帳面なのね」
「泥棒にしては、礼儀正しい」
「あなた、礼儀正しい泥棒なら許すの?」
「そういう意味じゃない」
澄江は笑った。
「今夜、張り込むわよ」
陽が手を挙げた。
「ぼくも行く!」
「駄目だ」
宗太郎が即座に言った。
「どうして?」
「夜中だ」
「でも、ぼくが一番、証拠を持ってるよ」
宗太郎は言葉に詰まった。
澄江が、そっと陽の肩に手を置いた。
「暖かい格好をしていくこと。それから、眠くなったら、すぐに言うこと」
「うん!」
こうして、八十億人分の一秒を盗む犯人を捕まえるため、六十八歳の元時計屋と、六十五歳の元白バイ隊員と、七歳の孫が、夜の商店街へ出かけることになった。
警察より先に。
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第四章 息の糸
軽トラックの荷台に、毛布と水筒と望遠鏡を積んだ。
午前二時。
商店街の裏通りは、ひっそりと静まり返っていた。
宗太郎の店だった場所には、まだ看板を外した跡が白く残っている。
四十年間、そこだけ日差しから守られていた壁の色だった。
午前三時。
陽は毛布にくるまり、澄江はヘルメットを膝に置き、宗太郎は望遠鏡を握っていた。
三時三十分。
三十一分。
三十二分。
そして、三十三分。
その瞬間、世界が静かに息を吸った。
宗太郎には、そう感じられた。
民家の窓という窓から、細い銀色の糸が立ちのぼり始めたのである。
糸は、眠っている人々の口元から伸びていた。
ひと呼吸ごとに、ほんの少しだけ、何かを連れて夜空へ上がっていく。
「息だ……」
宗太郎は呟いた。
「眠っている人間の息から、一秒を抜き取っている」
銀色の糸は、数百、数千と増えていった。
それらは夜空を縫い、一点へ集まっていく。
商店街で一番高い、薬局の屋根の上だった。
そこに、小さな影が立っていた。
影は、巨大な砂時計を背負っている。
上半分は空っぽ。
下半分には、銀色の砂が少しずつ積もっていた。
糸が一本、砂時計に吸い込まれるたび、砂が小さく光った。
影は、礼儀正しい声で呟いていた。
「ごちそうさま」
「ごちそうさま」
「ごちそうさま」
宗太郎は望遠鏡を下ろした。
「……あれが犯人か」
「ずいぶん、ちっちゃいわね」
澄江が言った。
月明かりの下、少年の姿が浮かんでいた。
十歳くらいだろうか。
丸い眼鏡。
くしゃくしゃの髪。
黒いマントには、小さな文字盤がびっしりと縫い付けられている。
「どうする、あなた」
澄江はヘルメットをかぶった。
「現行犯よ」
そして、腹の底から叫んだ。
「そこの泥棒! 待ちなさーい!」
⸻
第五章 商店街、一秒差の追跡
少年は、びくりと振り向いた。
「しまった!」
彼は慌てて砂時計を背負い直し、懐から小さな杖を取り出した。
杖の先端は、秒針の形をしていた。
「ええと、こういうときは、名乗るのが礼儀だったな」
少年は屋根の上で胸を張った。
「われこそは怪盗セカンド。またの名を、一秒小僧。夜ごと、人々の一秒をいただく者!」
「ご丁寧にありがとう!」
澄江が叫んだ。
「でも、返してもらうわね!」
「それは、できない相談でござる!」
少年が杖を回した。
次の瞬間、姿が消えた。
いや、消えたのではない。
一秒だけ、先へ移動したのである。
気づいたときには、少年は三十メートル先の電柱の上に立っていた。
「ずるい!」
陽が叫んだ。
「ずるくないでござる。盗んだ一秒を使っただけでござる!」
「何それ!」
「そういう能力なのだ!」
少年は得意げに答えた。
「得意げに言うことじゃないだろう!」
宗太郎は叫んだが、誰も聞いていなかった。
澄江は軽トラックの荷台から、古い原付スクーターを引っ張り出した。
「あなた、陽ちゃんをお願い!」
「いや、俺は運転が……」
「免許はあるでしょう!」
「あるが!」
「じゃあ、乗って!」
宗太郎は陽を後ろに乗せ、必死にしがみついた。
エンジンが唸った。
少年は電柱から電柱へ、一秒ずつ飛び移る。
澄江のスクーターが商店街を駆け抜けた。
「あなた、昔の白バイを思い出すわ!」
「俺は白バイじゃない!」
「似たようなものでしょう!」
「どこがだ!」
陽は二人の間で、大笑いしていた。
その笑い声を聞いて、宗太郎は、ふと気づいた。
自分は今、時計のことを忘れていた。
一秒も、二秒も、気にしていなかった。
ただ、孫が笑っている。
妻が怒鳴っている。
夜の風が、頬を打っている。
それだけで、何かが満たされていた。
やがて少年は、商店街の端まで逃げ延びた。
アーチの上に立ち、三人を見下ろした。
「今日は、このへんで失礼するでござる!」
杖が光った。
少年の姿は、闇に溶けるように消えた。
あとには、小さな紙片がひらりと舞い落ちた。
陽が拾い上げた。
そこには、こう書かれていた。
〈ごちそうさま。一秒小僧〉
「おじいちゃん」
陽が言った。
「この子、悪い子なのかな」
宗太郎は、すぐには答えられなかった。
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第六章 ぜいたくな一秒
翌朝、新聞には奇妙な記事が載っていた。
〈全国の時計に謎のズレ?〉
テレビでは、専門家が難しい顔をしていた。
「原因は不明ですが、日常生活に大きな影響はないと考えられます」
宗太郎は、味噌汁をすすりながら怒鳴った。
「大きな影響がないから、いいというものではない!」
「あなた、朝から血圧が上がるわよ」
澄江は海苔を炙っていた。
「でもね、昨日、不思議なことがあったの」
「何だ」
「お隣の奥さんが、夢の中で礼儀正しい男の子に会ったんですって」
「一秒小僧か」
「さあね。でも、男の子は『ごちそうさま』ってお辞儀したそうよ」
宗太郎は箸を止めた。
昨日、屋根の上で見た少年。
人々の眠りから一秒を盗む少年。
しかし、彼は無差別に盗んでいるわけではないようだった。
「幸せそうに眠っている人からだけ、盗んでいるのかもしれん」
宗太郎は呟いた。
「ぜいたくな一秒を、選んでいるんだ」
「ぜいたくな一秒?」
「何も心配せず、ただ眠っている時間だ。誰かに追われることも、何かを急ぐこともない。使い道を考えなくてもいい一秒」
澄江は、少し考えた。
「そんな一秒があるなら、私も欲しいわね」
「盗まれる側としてか?」
「いいえ。あなたが黙っている一秒」
「……」
「ほら、今の一秒」
陽が吹き出した。
宗太郎は、湯呑みを置いた。
笑いながらも、彼は考えていた。
あの少年は、なぜ一秒を盗むのか。
そして、なぜ、盗んだ一秒を砂時計にためているのか。
「会って、聞いてみたい」
宗太郎は言った。
「何を?」
「なぜ、盗むのかを」
澄江は、頷いた。
「そうね。理由を聞かずに捕まえるのは、私も好きじゃないわ」
「お前、昨日は現行犯だと言っていたじゃないか」
「現行犯で捕まえてから、話を聞くのよ」
宗太郎は、黙って味噌汁をすすった。
元白バイ隊員というのは、どうやら一生、元白バイ隊員らしい。
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第七章 白い四角の扉
一秒小僧の居場所を見つけたのは、時計だった。
宗太郎は、市内の時計のズレを、地図に書き込んでいった。
一秒が抜き取られた場所には、ごく小さな時間の痕跡が残る。
それを追っていくと、奇妙なことが分かった。
ズレの中心は、閉店した坂口時計店の跡地だったのである。
「まさか、自分の店とはな」
日が暮れると、宗太郎は陽を連れて店の前に立った。
壁には、看板の跡が白く残っている。
四十年間、日差しから守られていた四角形。
陽が指をさした。
「おじいちゃん、ここ、光ってる」
白い四角が、かすかに明滅していた。
まるで、呼吸するように。
宗太郎は、おそるおそる手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、壁の表面が水面のように揺れた。
「おじいちゃん!」
「大丈夫だ」
宗太郎は陽の手を握った。
そして、一歩、踏み出した。
二人の体は、白い四角の中へ吸い込まれていった。
目を開けると、そこは、どこまでも続く巨大な倉庫だった。
天井は見えない。
左右にも果てがない。
無数の棚に、小さなガラス瓶が並んでいる。
瓶の中では、光がちらちらと動いていた。
宗太郎は、近くの瓶を手に取った。
札には、こう書かれていた。
〈磯貝よし子さん、七十一歳。昨夜、あくびをした一秒〉
瓶の中では、おばあさんが小さくあくびをしていた。
隣の瓶には、
〈野良猫のミケ。伸びをした一秒〉
その隣には、
〈小学二年生、給食のプリンを見つけた一秒〉
宗太郎は、瓶を見つめた。
どれも、取るに足りない瞬間だった。
しかし、そこには、それぞれの人間の暮らしがあった。
眠気。
安堵。
小さな喜び。
誰にも気づかれない、ささやかな幸せ。
人の一生は、重大な出来事だけでできているわけではない。
むしろ、何でもない一秒のほうが、ずっと多い。
そして、その何でもない一秒が集まって、一人の人生になっている。
「見つけてしまいましたか」
棚の向こうから、小さな声がした。
宗太郎が振り向くと、少年が立っていた。
黒いマントは脱いでいた。
大きすぎる白いセーターを着て、丸い眼鏡をかけている。
目は赤く腫れていた。
陽が尋ねた。
「泣いてたの?」
「泣いてないでござる」
「ござる、はもういいよ」
少年は、困ったように笑った。
「……僕、小暮秒。十歳」
宗太郎は、静かに頷いた。
「秒くん。少し、話をしよう」
少年は、俯いた。
「僕、泥棒なんだよ」
「知っている」
「それでも?」
「それでもだ」
宗太郎は、棚の瓶をそっと戻した。
「話を聞くくらいなら、できる」
⸻
第八章 一秒小僧の計算ノート
小暮秒は、古い方眼紙のノートを取り出した。
ページいっぱいに、数字が並んでいる。
何日分もの記録。
一秒の数。
砂時計にたまった量。
計算式の横には、何度も消して書き直した跡があった。
「何を計算しているんだ?」
宗太郎が尋ねた。
秒は、しばらく黙っていた。
それから、小さな声で言った。
「お母さんが亡くなった、その日のこと」
三年前の十一月三日。
秒の母親は、病院のベッドで、死の床についていた。
その日、母親は言った。
「秒、ジュースが飲みたいな」
秒は売店へ走った。
自動販売機でジュースを買い、こぼさないように両手で持って、病室へ戻った。
たった一分ほどのことだった。
しかし、病室に戻ったとき、母親は目を閉じていた。
看護師が言った。
「ほんの少し前だったのよ」
秒は、ジュースを握りしめたまま、立ち尽くした。
まだ温かかった手が、冷たくなっていく。
「僕が、あと一秒、早く戻っていたら」
秒の声が震えた。
「お母さんの最後に、間に合ったかもしれない」
宗太郎は、何も言わなかった。
少年は続けた。
「それから、考えたんだ。世界中の一秒を集めれば、戻れるんじゃないかって」
「過去へ?」
「うん。盗んだ一秒を使って、あの日に戻る。そうしたら、ジュースを持って、お母さんのそばにいられる」
「それで、三年間?」
秒は頷いた。
「でも、足りないんだ。八十億人から盗んでも、全然足りない。計算が合わない」
「そりゃあ、そうだ」
宗太郎は静かに言った。
「一秒をいくら集めても、過ぎた時間そのものは戻らない」
「知ってるよ」
秒は顔を上げた。
「知ってる。そんなこと、ずっと前から知ってるよ」
眼鏡の奥で、涙が光った。
「でも、知ってるから、悔しいんじゃないか」
その言葉に、宗太郎は胸を突かれた。
過去は戻らない。
そんなことは、誰だって知っている。
知っていても、願わずにはいられない。
もう一度、会いたい。
もう一度、声を聞きたい。
もう一度だけ、あのときに戻りたい。
理屈ではどうにもならない思いが、人間にはある。
宗太郎は、秒の隣に腰を下ろした。
「お母さんは、どんな人だった?」
秒は、涙を拭いた。
「料理が上手だった。特に、味噌汁。豆腐と、わかめと、ねぎ。普通の味噌汁なんだけど、すごくおいしかった」
「そうか」
「あと、僕が失敗すると、怒るんだけど、最後には笑うんだ。僕、牛乳をこぼしたことがあってね。そしたら、お母さん、床を拭きながら、『牛乳は拭けばいいけど、時間は拭けないね』って」
秒は、少し笑った。
「そのときは、意味が分からなかった」
宗太郎は、目を伏せた。
「今なら、分かるか」
「うん」
秒は、ノートを閉じた。
「だから、取り戻したかったんだ」
⸻
第九章 輪になった一秒
倉庫の一番奥に、小さな台座があった。
その上に、銀色の輪が浮かんでいた。
手のひらほどの、細い輪。
内側では、淡い光がぐるぐると回っている。
「それは何だ?」
宗太郎が尋ねた。
秒は、輪に近づいた。
「お母さんの最後の一秒」
輪の中に、小さな病室が見えた。
夕暮れの窓。
白いカーテン。
ベッドに横たわる母親。
その胸が、ゆっくりと上下していた。
息を吸う。
息を吐く。
そして、また最初へ戻る。
「僕が、最初に盗んだ一秒なんだ」
秒は言った。
「これだけは、どうしてもなくしたくなかった。だから、輪にして、ずっと保存していた」
「三年間、ずっと見ていたのか」
「うん。毎晩」
秒は、少しだけ笑った。
「でも、最近、お母さんの顔がぼやけてきた」
宗太郎は拡大鏡を取り出した。
輪の表面には、細かな傷があった。
同じ一秒を繰り返すたび、輪の縁が少しずつ擦り減っている。
「時計の歯車と同じだ」
宗太郎は言った。
「同じ場所ばかり噛み合わせていれば、いつか摩耗する」
「じゃあ、お母さんは……」
「このままでは、消えてしまうかもしれん」
秒は、輪を両手で包んだ。
「そんなの、嫌だ」
声が、小さくなった。
「僕、お母さんの最後の一秒を守るために、三年間、頑張ってきたんだ」
「分かっている」
「世界中の一秒を盗んだんだよ。悪いことだって分かってた。でも、ほかに方法がなかった」
宗太郎は、少年の肩に手を置いた。
「君は、お母さんに会いたかったんだな」
秒は頷いた。
「会いたかった。もう一度、話したかった。あのとき、ありがとうって言えばよかった。ジュース、持ってきたよって。おいしかったよって。もっと、そばにいればよかった」
少年の声が、途切れた。
「……もっと、一緒にいたかった」
宗太郎は、目を閉じた。
時計なら、直せる。
壊れた歯車なら、交換できる。
失われた一秒だけは、どうにもならない。
しかし、目の前の少年を、このまま一人にしておくこともできなかった。
「秒くん」
「なに?」
「その輪を、少し貸してくれないか」
「直せるの?」
「分からん」
宗太郎は正直に答えた。
「だが、時計屋は、直せるかどうか分からなくても、まず中を見るものだ」
秒は、しばらく考えてから、輪を差し出した。
「……お願いします」
宗太郎は、両手で受け取った。
⸻
第十章 時計屋の最後の仕事
その夜、宗太郎は眠れなかった。
布団の中で、天井の木目を数えていた。
四十年間、時計を直してきた。
止まった時計を動かし、狂った時計を正してきた。
しかし、人の悲しみを直したことは、一度もなかった。
「あなた」
隣の布団で、澄江が言った。
「あの子のこと、考えているんでしょう」
「うん」
「どうするの?」
「分からん」
宗太郎は、天井を見つめた。
「俺は、時計屋だ。人間の時間までは直せん」
澄江は、しばらく黙っていた。
それから、静かに話し始めた。
「私ね、白バイに乗っていた頃、一度だけ、助けられなかった人がいるの」
宗太郎は、妻のほうを向いた。
初めて聞く話だった。
「若い女の人。交通事故だった。私が現場に着いたときには、もう間に合わなかった」
澄江は、天井を見た。
「あと一分、早ければって、何度も思ったわ。何年も夢に見た。あの一分を取り戻せたらって」
「……そうか」
「でもね、ある日、気づいたの」
澄江は、ゆっくり息を吸った。
「取り戻せなかった一分があるからって、そのあとの時間まで、なくなるわけじゃないんだって」
宗太郎は黙って聞いていた。
「そのあと、私はあなたに出会った。陽ちゃんが生まれた。毎日、くだらないことで笑ったり、喧嘩したり。そういう時間が、ずっと続いてきた」
澄江は、夫の手を握った。
「過去に間に合わなかったからって、今までの時間が無駄になるわけじゃないのよ」
宗太郎は、握られた手を見つめた。
長年連れ添った妻の手だった。
昔は、白バイのハンドルを握っていた手。
今は、味噌汁を作り、洗濯物を畳み、自分の手を握っている手。
「……そうだな」
翌朝、宗太郎は納戸から古い道具箱を引っ張り出した。
ピンセット。
拡大鏡。
油差し。
そして、使い込んだ小さなドライバー。
「何してるの、おじいちゃん」
陽が、目をこすりながら聞いた。
「仕事だ」
「しごと?」
「最後の時計屋の仕事だ」
卓袱台に銀の輪を置き、宗太郎は慎重にのぞき込んだ。
擦り切れた縁。
薄くなった光。
指先が震えた。
陽が、そっと宗太郎の手首を握った。
「がんばれ」
「ああ」
宗太郎は、輪の縁を丁寧に調べた。
しかし、直せなかった。
擦り切れた一秒を、元に戻すことはできない。
四十年の腕をもってしても、それは不可能だった。
宗太郎は、道具を置いた。
「すまんな、秒くん」
少年は首を振った。
「ううん。おじさんがやってくれたこと、分かってる」
そのとき、宗太郎は気づいた。
輪の内側。
何度も繰り返され、擦り減った一秒の、さらに奥。
そこに、小さな光の点が残っていた。
輪を繰り返し再生するための光ではない。
一度きりの、最初の光だった。
「秒くん」
宗太郎は、拡大鏡を差し出した。
「ここを見てみろ」
少年は、身を乗り出した。
「何……?」
「輪の中に、まだ残っているものがある」
少年は、息を止めた。
光の点は、かすかに明滅していた。
消えかけている。
しかし、確かにそこにあった。
「お母さんの最後の一秒は、まだ終わっていないのかもしれんな」
宗太郎は言った。
「今度は、繰り返して見るんじゃない。ちゃんと、受け取るんだ」
⸻
第十一章 味噌汁の一秒
「いただきます」
小暮秒は、坂口家の卓袱台の前で、きちんと正座していた。
宗太郎が連れてきたのである。
澄江は玄関で少年を見て、最初に尋ねた。
「ご飯は食べたの?」
秒は、困った顔で首を振った。
「じゃあ、上がりなさい」
「えっ、でも、僕……」
「泥棒でも、お腹は空くでしょう」
澄江は、それ以上聞かなかった。
味噌汁と白いご飯と卵焼きが、卓袱台に並んだ。
秒は、おそるおそる味噌汁の椀を持ち上げた。
湯気が眼鏡を曇らせた。
一口、すすった。
そして、動かなくなった。
「どうしたの?」
陽が尋ねた。
秒は、椀を胸に抱えたまま、小さく言った。
「あったかい」
その声が震えた。
「お母さんの味噌汁と、同じ味がする」
澄江は何も言わなかった。
ただ、少年の背中に手を置いた。
秒は、泣きながら味噌汁を飲んだ。
三年間、誰とも一緒に食事をしなかった少年だった。
誰にも「おいしい」と言わず、誰からも「おかわりは?」と聞かれなかった少年だった。
盗んだ一秒を抱えて、ずっと一人で暮らしてきた。
陽は、自分の皿の卵焼きを半分に割った。
そして、秒の皿に置いた。
「はい」
「何?」
「ぼくの一秒」
秒は、きょとんとした。
「卵焼きが一秒なの?」
「うん。おいしいものを食べる時間って、いい時間でしょ。だから、あげる」
秒は卵焼きを口に入れた。
噛みしめた。
「……おいしい」
「でしょ」
陽は、誇らしげに胸を張った。
宗太郎は、湯呑みを置いた。
「秒くん」
「はい」
「盗んだ一秒を、全部、返そう」
少年は顔を上げた。
「全部?」
「八十億人分だ」
「でも、それを返したら……」
秒は、膝の上で拳を握った。
「僕には、何も残らない」
「そうかもしれん」
宗太郎は頷いた。
「だが、君の時間までなくなるわけじゃない」
少年は、何も言わなかった。
「取り戻せない一秒はある。けれど、これからの一秒は、まだ君のものだ」
宗太郎は、少年の目を見た。
「お母さんが君に残してくれたものまで、盗まれたままにするな」
秒は、長い間、俯いていた。
やがて、小さく頷いた。
「……うん」
澄江が、味噌汁のおかわりを差し出した。
「ほら、冷めるわよ」
秒は両手で椀を受け取った。
「いただきます」
その言葉を聞いて、宗太郎は微笑んだ。
一秒は、時計の中だけにあるのではない。
誰かと食事をする時間にも。
誰かの話を聞く時間にも。
誰かの手を握る時間にも。
一秒は、ちゃんと生きていた。
⸻
第十二章 世界、一斉に深呼吸
返却の計画は、三日でまとまった。
もっとも、計画を立てたのは宗太郎だったが、実行できるのは秒だけだった。
「盗んだときと同じように、眠っている人の呼吸に合わせて返すんだ」
宗太郎が言った。
「一秒を、元の持ち主に戻す。記憶ではなく、時間の欠けそのものを」
秒は、砂時計を見つめた。
「できると思う」
「なら、やろう」
「でも、八十億人だよ」
「お前が盗んだんだろう」
「……はい」
「だったら、返すんだ」
澄江が横から口を挟んだ。
「逃げたら、今度こそ捕まえるからね」
「はい……」
陽が笑った。
その夜、午前三時三十分。
坂口時計店の跡地に、宗太郎、澄江、陽、秒が並んで立っていた。
なぜか、安藤巡査もいた。
「夜勤明けで、たまたま通りかかっただけです」
「そうか」
宗太郎は、大きな柱時計を指さした。
「では、これを持ってくれ」
「えっ、僕がですか?」
「ほかに誰がいる」
安藤巡査は、柱時計を抱えた。
秒は、砂時計を背負い、杖を高く掲げた。
午前三時三十二分。
夜風が吹いた。
三十三分。
宗太郎の柱時計が、鐘を鳴らした。
ゴーン。
その音は、夜の街に広がっていった。
銀色の糸が、砂時計から伸び始めた。
一本。
十本。
千本。
やがて、数え切れないほどの糸が、夜空へ舞い上がった。
糸は世界中へ散っていった。
海を越え、山を越え、街を越え、眠る人々のもとへ向かった。
八十億人の胸に、盗まれた一秒が戻っていく。
誰かが、寝返りを打った。
誰かが、夢の中で笑った。
誰かが、枕を抱きしめた。
そして、世界中の人々が、ほんの少しだけ、深く息を吸った。
すう。
宇宙全体が、一瞬、膨らんだようだった。
朝になっても、誰も大事件だとは思わなかった。
電車がいつもより少し余裕を持ってホームに滑り込んだ。
うどん屋の店主は、麺をちょうどよく茹でた。
ある母親は、子どもの寝顔を、いつもより一秒長く眺めた。
ある老人は、電話を切る前に、息子へ「またな」と言った。
その一秒が、世界を変えたのかどうかは、誰にも分からない。
ただ、安藤巡査は、交番の日報にこう書いた。
〈本日、異常なし。なぜか少し、気持ちに余裕あり〉
そして、その下に小さく付け加えた。
〈柱時計、返却済み〉
⸻
第十三章 お母さんの、最後のひとこと
返せなかった一秒が、一つだけ残っていた。
倉庫の奥。
小さな台座の上で、秒は銀の輪を両手に包んでいた。
世界中から盗んだ一秒は、すべて返した。
もう、砂時計には砂が残っていない。
それでも、母親の最後の一秒だけは、返すことができなかった。
返す相手がいないからだ。
「これだけは、どうしたらいいんだろう」
秒は呟いた。
宗太郎は、少年の隣に腰を下ろした。
「それは、君のものだ」
「でも、僕が盗んだんだよ」
「最初は、そうだったのかもしれん」
宗太郎は、輪を見つめた。
「だが、お母さんが君に残してくれた一秒まで、盗みと呼ぶ必要はない」
秒は、輪を握りしめた。
「……僕、ずっと見ていたんだ」
「うん」
「お母さんの顔を、ずっと見ていた。忘れたくなかったから」
「うん」
「でも、声は……」
秒は、そこで言葉を止めた。
宗太郎は、少年の肩に手を置いた。
「聞いてみなさい」
「どうやって?」
「息を合わせるんだ」
宗太郎は、ゆっくり息を吸った。
「お母さんの息と、自分の息を合わせてみる。見ようとするんじゃない。聞こうとするんだ」
秒は目を閉じた。
輪を胸に押し当てた。
すう。
母親が息を吸う。
はあ。
息を吐く。
その終わりに、何かがあった。
かすかな音。
風のような、囁きのような声。
秒は、耳を澄ませた。
もう一度。
すう。
はあ。
そして。
「……ありがとう、秒」
少年の肩が震えた。
「え……?」
声は、かすかに続いた。
「生まれてきて、くれて……ありがとう」
秒は、目を開けた。
輪の中で、母親の唇が動いていた。
最後の息の、そのまた最後。
ジュースを買いに出た息子へ。
病室にいなかった息子へ。
それでも、何より大切だった息子へ。
母親は、ありがとうと言っていた。
「お母さん……」
秒は、輪を抱きしめた。
「僕、ずっと、ごめんなさいって言いたかったんだ」
涙が、頬を伝った。
「ジュース、持って帰ったんだよ。お母さんが飲みたいって言ったから。ちゃんと、買ったんだよ」
少年は、声を上げて泣いた。
「でも、間に合わなかった。僕、間に合わなかったんだ」
宗太郎は、何も言わなかった。
陽が、そっと少年の背中をさすった。
しばらくして、秒は顔を上げた。
「ねえ、おじさん」
「何だ」
「僕、お母さんに、間に合ったのかな」
宗太郎は、すぐには答えなかった。
時計屋としてなら、答えは決まっている。
三年前の時間は、戻らない。
しかし、今、少年は母親の最後の言葉を受け取った。
「……ああ」
宗太郎は、静かに言った。
「三年、遅れたが、間に合ったよ」
秒は、泣きながら笑った。
その瞬間、銀の輪が、静かにほどけた。
繰り返されていた一秒が、初めて輪を離れた。
細い光の線となり、少年の胸へ吸い込まれていく。
もう、繰り返されることはない。
もう、いつでも見られるわけではない。
しかし、それは、秒の中で、一度きりの時間として生き続ける。
母親の最後の一秒は、もう、失われたものではなかった。
少年が、これから生きていく時間の中に、確かに残ったのである。
⸻
第十四章 四人分のお茶碗
倉庫は、朝が来ると跡形もなく消えた。
壁の白い四角は、ただの日焼けの跡に戻っていた。
宗太郎は、その前にしばらく立っていた。
四十年間、ここで時計を売り、時計を直し、客の話を聞いてきた。
もう店はない。
看板もない。
しかし、壁には白い四角が残っている。
そこに、何があったのか。
宗太郎は、忘れないだろうと思った。
「おじいちゃん」
陽が尋ねた。
「秒くん、どうなるの?」
宗太郎は、少年を見た。
秒は、両手を握りしめていた。
「僕、これからどうしたらいいのかな」
澄江が、あっさりと言った。
「うちにいなさい」
秒は目を丸くした。
「えっ?」
「ご飯は食べられるし、お風呂もある。寝るところもあるわ」
「でも、僕、泥棒で……」
「盗んだ時間は返したでしょう」
「はい……」
「だったら、残っているのは、あなた自身の時間よ」
澄江は、少年の顔を覗き込んだ。
「それは、あなたが好きに使いなさい」
秒は、宗太郎を見た。
「おじさん……」
宗太郎は笑った。
「うちは時計屋だったからな。時間の使い方には、少しうるさいぞ」
「僕、時計は直せないよ」
「これから覚えればいい」
「僕、また失敗するかもしれない」
「人間は、誰でも失敗する」
宗太郎は、少年の肩を叩いた。
「失敗したら、直せるところは直す。直せないところは、次の時間を大事にする。それでいい」
秒は、長い間、黙っていた。
それから、小さく頷いた。
「……僕、ここにいてもいいの?」
「もちろんよ」
澄江が答えた。
「ただし、味噌汁のおかわりは自分で言うこと」
秒は、涙を拭きながら笑った。
「はい!」
その日の夕方。
坂口家の卓袱台には、お茶碗が四つ並んだ。
宗太郎。
澄江。
陽。
そして、小暮秒。
「いただきます」
四人の声が重なった。
味噌汁の湯気が、ゆっくりと天井へ昇っていく。
秒は、一口すすった。
「あったかい」
「また、それ?」
陽が笑った。
「だって、あったかいんだもん」
澄江が、鍋を持ち上げた。
「おかわりは?」
秒は、少し考えてから答えた。
「……お願いします」
宗太郎は、柱時計を見上げた。
午後六時十二分。
針は、正確に動いていた。
しかし、彼はもう、一秒のズレを気にしていなかった。
今、ここにいる人たち。
食卓を囲む人たち。
笑っている人たち。
その時間が、確かに流れている。
それだけで、十分だった。
「あなた」
澄江が言った。
「今、うれしそうな顔をしているわよ」
「してない」
「してる」
陽が秒の耳元で囁いた。
「おじいちゃん、素直じゃないけど、分かりやすいんだよ」
秒は、くすっと笑った。
その笑い声は、一秒で消えた。
けれど、四人のいる部屋には、確かに残った。
⸻
終章 一秒小僧の足跡
春が来て、夏が来た。
宗太郎の手は、相変わらず少し震えていた。
それでも、彼は卓袱台で小さな時計を直していた。
ご近所から頼まれた、古い目覚まし時計だった。
報酬はいただかない。
代わりに、陽と秒が横で見学している。
「おじいちゃん、ここ、何の部品?」
「脱進機だ」
「だっしんき?」
「時計が一秒ずつ進むための仕組みだよ」
秒は、拡大鏡を覗き込んだ。
「一秒ずつ、か」
「そうだ。一秒ずつだ」
宗太郎は、ドライバーを回した。
「一度に一生分の時間を手に入れることはできん。だが、一秒ずつなら、誰にでも手に入る」
秒は、その言葉を胸の中で繰り返した。
壁の白い四角は、結局、塗り直さなかった。
ある日、陽と秒が、そこに緑色のクレヨンで時計の絵を描いた。
針は、午前三時三十三分を指していた。
その下には、幼い字で、こう書かれていた。
〈一秒小僧、ここにいた〉
宗太郎は、叱らなかった。
ただ、少し笑った。
その夜、寝る前に、柱時計のねじを巻いた。
ちく、たく。
ちく、たく。
一秒ごとに音が生まれ、一秒ごとに消えていく。
同じ音は、二度と戻らない。
それでも、時計は動き続ける。
宗太郎は、ふと、若い頃の自分を思い出した。
何かを成し遂げたかった。
誰かに認められたかった。
この世に、自分が生きた証を残したかった。
店を持ち、仕事を覚え、家族を養い、四十年も時計を直した。
それでも、時間が過ぎれば、店はなくなる。
看板も外される。
自分の名前を覚えている人も、少しずつ減っていく。
わずかでも生きた証をと、この世に傷をつけてみたけれど、時間とともに修復され、足跡は消えていく。
結局、あれこれジタバタしたけれど、残せたものは家族だけ。
――まあ、それがきっと、最上級なのかと、今更ながら思ってみる。
宗太郎は、柱時計を見上げた。
そして、深く息を吸った。
必要なだけ吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
窓の外では、八月の入道雲が、まぶしくそびえていた。
台所から、澄江の声がした。
「あなた、ご飯よ!」
「今、行く!」
陽が笑い、秒が笑った。
宗太郎は、時計から手を離した。
明日も、きっと一秒ずつ、時間は過ぎていく。
取り戻せない一秒がある。
言えなかった言葉がある。
会えなくなった人がいる。
それでも、次の一秒はやってくる。
誰かが呼んでいる。
誰かが待っている。
誰かと一緒に、食べるご飯がある。
宗太郎は、もう一度、深く息を吸った。
そして、食卓へ向かった。
その一秒を、今度は誰にも盗ませないために。
いや。
誰にも盗ませないのではない。
大切な人と、分け合うために。
――了――
あとがき
時間をテーマにした物語を書こうと思ったとき、最初に浮かんだのは、取り戻せないことの切なさでした。
あのとき、もう少し一緒にいればよかった。
あのとき、もう一言、話しておけばよかった。
誰にでも、そんな思い出があるのではないでしょうか。
けれど、過去を取り戻せなくても、その後の人生まで失われるわけではありません。
宗太郎も、澄江も、秒も、それぞれ取り戻せない一秒を抱えています。
彼らが最後に見つけたのは、時間を戻す方法ではありませんでした。
一緒に食べるご飯。
誰かの話を聞くこと。
何でもないことで笑うこと。
そうした、いつもなら見過ごしてしまう時間でした。
永遠はないのかもしれません。
だからこそ、今日の一秒には、今日にしかない意味がある。
この物語を読み終えたあと、あなたが誰かに「ありがとう」と伝えたり、いつもより少しだけゆっくり食事をしたりしてくださったなら、作者として、とても嬉しく思います。
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紹介文
世界から、毎晩、一秒ずつ何かが消えている。
閉店した時計店の元店主、針ヶ谷宗太郎は、世界中の時計が毎日一秒ずつ狂っていることに気づいた。
交番に届けても、被害額はわずか〇・二八円。
警察にも相手にされない。
ならば、自分たちで犯人を捕まえるしかない。
元白バイ隊員の妻・澄江と、七歳の孫・陽を巻き込み、宗太郎は午前三時三十三分の商店街へ向かう。
そこで目撃したのは、巨大な砂時計を背負い、眠る人々から一秒ずつ盗み続ける、不思議な少年だった。
少年の名は、小暮秒。
彼が盗み続けていたのは、三年前に亡くした母親の最後の一秒を取り戻すためだった。
しかし、どれほど時間を集めても、過去は戻らない。
時計を直すことはできても、人の悲しみまでは直せない。
そう考えていた宗太郎が、少年と出会い、最後に見つけたものとは――。
不条理な窃盗事件から始まり、味噌汁の湯気と家族の食卓へたどり着く、不思議で滑稽で、少し切ないSFファンタジー。
取り戻せない一秒がある。
それでも、次の一秒はやってくる。
あなたには、誰かと分け合いたい一秒がありますか。

