一瞬の罪の中で
――常灯社会の小さな命と、見えない光――
まえがき
この物語は、去年の夏、台所で一匹の蚊を叩いたところから始まりました。
手を洗っても、なぜかそこだけが痒いような、引っかかるような気がして、手のひらを見つめていたら、ふと「この蚊にも昨日までがあったんだ」という当たり前のことが、急に重く感じられたのです。
私たちは、便利さと安全のために、たくさんの闇を消してきました。
それは間違いではなかったと思う。ただ、消した闇の中に何があったのかを、思い出す時間も必要なんじゃないか。
そんなことを考えながら書きました。
一章 パチッ
その夜、僕は蚊を一匹、殺した。
二〇九一年の九月の終わりのことだ。残暑というには少し涼しく、秋というにはまだ湿った空気が、築七十年の集合住宅の四階に溜まっていた。
もう、蚊などほとんどいない時代だった。
四十年前に始まった「遺伝子駆動による衛生計画」で、媒介性の蚊は表向き全国で根絶されたことになっている。子どもたちは蚊を、図鑑の中の少し不気味な針を持った絵としてしか知らない。
だから耳元でプ~ンという羽音を聞いたとき、最初それが何の音か分からなかった。
懐かしい、と思った。子どもの頃、祖母の家の縁側で聞いた音だ。蚊取り線香の匂いと、麦茶の氷が鳴る音と、夏の夜の湿った手触り。そういうものが一気に立ち上がってきた。
けれど懐かしさは三秒もたなかった。首筋にちくりとした痛みが走ったのだ。
反射だった。考えるより先に右手は首筋を打っていた。
パチッ!!
乾いた、小さな、いやに明瞭な音が部屋に響いた。
手のひらには赤黒い小さな染みと、折れ曲がった細い脚が一本。それがさっきまで飛んでいたもののすべてだった。
ティッシュで拭う。それだけのことだ。数秒後には忘れてしまうはずの、ごく小さな出来事だった。
けれどその夜に限って、拭いたはずの手のひらに何かが残った。
最初は蛍光灯の反射かと思った。
手のひらの中央に、髪の毛より細い淡い光の筋が一本浮かんでいた。白とも金とも言えない、水の底から見上げた月のような色だ。
こすった。水で洗った。石けんをつけて爪で引っかいた。
光は消えなかった。むしろ洗うほどはっきりする。光の筋は手のひらから立ち上がり、一本の細い糸になって部屋の空気を伸びていった。窓をすり抜け、夜の向こうへどこまでもまっすぐに。
そのとき部屋の音がすっと遠のいた。冷蔵庫の唸りも上階の足音も薄い膜の向こうへ引いていく。そして糸の上を、何かが流れてくるのが見えた。
光の粒だった。
小さな粒が糸をたどって手のひらに向かってひとつ、またひとつと流れてくる。そのひとつひとつが映像を宿していた。
雨上がりの排水溝の澱んだ水たまり。米粒より小さな卵がいくつも寄り添って浮かんでいる。
次の粒では卵が割れていた。ぼうふらと呼ばれる黒い体をくねらせ、水面に尻の先を突き出して息をしている。
次の粒。脱皮。
次の粒。濁った水の底から必死に水面を目指す影。水の膜を破って初めて空気に触れる濡れた羽のふるえ。
僕は見ていた。
それは僕が数秒前に潰した小さな命が、ここまで辿り着くために費やしたすべての時間だった。
何日も水の中を生き延びたこと。乾いて消えかけた水たまりの最後の湿りにしがみついたこと。羽が乾くのをただじっと待ったこと。そして初めて飛んだ夜の、言葉にならない高さ。
最後の粒は見覚えのある部屋だった。僕の部屋。僕の首筋。そして巨大な手のひら。
映像はそこでぷつりと途切れた。
気づくと床にへたり込んでいた。
手のひらの光の糸はまだそこにあった。流れてくる粒は止まり、糸はただ静かに明滅していた。
「……ごめん」
誰もいない部屋で声に出していた。
馬鹿げている、と頭では思った。たった一匹の蚊だ。害虫だ。
けれど口から出てくるのは同じ言葉ばかりだった。
天井の照明がふっとまばたきをするように揺らいだ。気のせいだったのかもしれない。
二章 常灯の街
僕の名前は綾瀬灯。三十八歳。都市照明管理局、第七区「暗点対策課」に勤めている。
灯と書いて「ともる」と読む。亡くなった母が「暗い道でも誰かの足もとを照らす人に」と付けてくれた名前だと聞いている。
皮肉なことに、僕の仕事は世界から暗がりを消すことだった。
二〇九一年の日本は「常灯社会」と呼ばれている。
五十年前の「都市完全照明法」により、人の住むすべての地域に二十四時間一定以上の照度を保つことが義務づけられた。理由は単純だった。暗闇で起きる犯罪、事故、孤独を光で追放しようとしたのだ。
その試みは驚くほど成功した。夜間の犯罪は九割減った。夜道を怖がる子どもはいなくなった。
街には「常灯」と呼ばれる柔らかな光源があらゆる場所に埋め込まれている。道路にも壁にも街路樹の幹にも。光は眩しすぎず暗すぎず、夜の底を薄く均一な乳白色で満たしている。
空はもう夜空ではなかった。街の上にはいつも白い天井がかかり、星は僕が生まれる前に見えなくなった。
僕の仕事は常灯網の「暗点」を見つけて潰すことだ。
古いビルの陰、電柱の裏、路地の吹き溜まり。光の網の目からこぼれ落ちた小さな闇が生まれる。
僕はこの仕事が得意だった。検知システムが警告を出すより前に、ここだな、と思う。行ってみると確かにそこに闇がある。同僚は僕を「暗点嗅ぎ」と呼んだ。
今にして思えば嗅覚ではなかった。闇が好きだったのだ。好きだから居場所が分かった。好きだから見つけるたび胸のどこかが少し痛んだ。小さな闇に光を注ぎ込むとき、僕はいつも心のどこかでごめんと呟いていた。
ある秋の夕方、第七区の古い高架下に呼び出された。暗点レベル三。橋脚の陰に段ボールと毛布で作った小さな寝床があり、一人の老人が丸くなって眠っていた。
「困りますね。ここは立ち入り禁止区域ですよ」
同僚の若い職員が声をかけた。老人はゆっくり目を開けて僕たちを見上げた。
「ああ、すまんね。もう追い出されるのかい」
「いえ、ここに光を足さないといけなくて」
「光か」老人は歯の少ない静かな笑い方をした。「ありがたいんだがね。ここだけは勘弁してくれんかな。明るいとどうにも眠れんでなあ」
規則では迷う余地はない。僕は追加ユニットを橋脚に取り付けた。スイッチを入れると乳白色の光が毛布の上に広がった。
老人は何も言わず毛布を頭までかぶって背中を向けた。
帰り道、若い職員が言った。
「綾瀬さんってああいうときいつもちょっと黙りますよね」
「そうかな」
「明るい方が安全なのに」
振り返ると高架下の白い光の中で、毛布の小さなふくらみがどこかに隠れる場所を探すようにじっと動かなかった。
その夜、僕は初めて自分の仕事のことを考えた。明るくすることは誰かの居場所を奪うことでもあるのではないか、と。
家に帰ると娘の凪がリビングの床でタブレットに何かを描いていた。七歳になったばかりの凪は妻の澄に似て大きな目をしている。澄は三年前に病気で亡くなった。
「おかえり、お父さん」
「何を描いてるの?」
凪は画面をこちらに向けた。黒い背景に白い点がたくさん散らばっている。
「ほし。学校の図鑑で見たの。夜になると空にいっぱい光る点が見えるんだって。でも見たことない」
「そうだね」
「ねえお父さん、夜ってなに?」
僕は答えに窮した。
「……お父さんもちゃんとは知らないんだ」
凪は不思議そうな顔をして、それからにこりと笑った。
「そっか。じゃあいっしょにしらべようね」
その言葉が後になって胸の奥で小さく光り続けることになる。
凪が眠った後、僕は一人リビングに座っていた。手のひらの糸はまだ消えていなかった。
よく見ると糸はただまっすぐではない。遠く北の空で、くいっと方向を変えていた。その先に何かがある。確信があった。
窓の外を見た。常灯の白い光が街の底を満たしている。その中で僕の手のひらの糸だけが、別の種類の、もっと古い光を湛えていた。
この糸の光は街の光よりずっと暗いのに、ずっとはっきり見える。
たくさんの光の中では見えないものがある。それはとても小さな、とても大切な光だと思った。
三章 光を持たない光
三日が過ぎても糸は消えなかった。
四日目の朝、職場の光学実験室にこっそり入った。暗点対策課にある古い分光計だ。左の手のひらを受光部に向けてスイッチを入れた。
画面には何も映らなかった。平らな線。ゼロ。どんなに弱くても必ず何かが記録されるはずなのに、僕の糸は機械にとって存在しないものだった。
「光を持たない光、か」
背後から声がした。白髪の老人、霧島さんだった。八十を過ぎてとうに退職した伝説的な光学技師だ。
「見えるんですか」
「見えるさ。ずいぶん久しぶりだがね」霧島さんは僕の手のひらの少し上、何もない空間を見ていた。「蚊か。重いのを叩いたな。それは最後の一匹かもしれん」
「最後の一匹」
「この国からあの虫はほとんど消えた。人間の手で消したんだ。お前さんが叩いた一匹の光の糸は、その種がこの国で歩いてきた何百万年分の道のりの一番端っこの一滴なんだよ」
「糸はどこへ向かっているんでしょう」
「北だな」霧島さんは窓の方角を見た。「北の方に、昔から闇を残してきた場所がある。人間が闇を闇のまま守ってきた場所がある。信州の善光寺だ。あそこの本堂の下には戒壇巡りという本物の闇がある。わしも若い頃一度だけ入ったことがある」
霧島さんは目を細めた。
「わしが戒壇に入ったのは妻を亡くした年だった。毎日光を測る仕事をしておきながら、妻が逝った夜、病室の灯りが眩しくてたまらなかった。あの白い光の下では泣くことさえはばかられてな。それでふらりと善光寺に行ったんだ。暗闇の中を手探りで歩いていて、ふと気づいた。妻の笑った顔が見えたんだ。目で見たのではない。もっと奥の方でな。あの暗さの中でなければ、あんなふうには会えなかった」
「光は見えるものを増やしてくれる。だがな綾瀬くん、闇もまた見えるものを増やしてくれるんだ。見えるものの種類が違うだけでな。行ってみるといい。お前さんを呼んでいるものがある」
出ていく間際、老人は振り返って言った。
「罪を感じたことを恥じるな。あの光が見えるのは罪を感じられる人間だけなんだ」
四章 北へ
週末、僕は凪を連れて北陸新幹線に乗った。
「どうしてながのに行くの?」
「夜を探しに行くんだ。凪が聞いただろう、夜ってなにって。お父さんはうまく答えられなかった。だからいっしょに見に行ってみようと思ってね」
凪は目を丸くして大きく頷いた。
車窓の外を常灯の白い街並みが流れていく。手のひらの糸は窓の外へまっすぐに伸びていた。
「お父さん」凪が僕の左手をそっと握った。「お父さんの手、光ってる」
「見えるのか?」
「うん。ちっちゃくてほそーいひもみたいなの。ほしみたい。あったかいね」
僕はあの夜のことを凪に話した。蚊を叩いたこと、光の糸が残ったこと、糸をたどると小さな命の道が見えたこと。
凪は黙って最後まで聞いていた。
「お父さん、かなしかった?」
「ああ。申し訳なかった」
凪は僕の手のひらの糸に小さな指先を添えた。
「ごめんねって、もっと遠くまで届くまで言えばいいよ」
長野駅に着いたのは午後四時を回った頃だった。駅前から善光寺へ続く上り坂の参道を手をつないで歩く。
山門を抜けると正面に善光寺本堂が大きな屋根を広げていた。周囲にも常灯は埋め込まれているが、本堂そのものには不思議と常灯の気配が少なかった。歴史的建造物の保存規定で設置が制限されているのだ。
本堂の前で立ち止まる。手のひらの糸が強く輝きはじめ、細く鋭く本堂の中へ引き込まれていく。
堂内に入るとひんやりした空気が頬を撫でた。線香の匂い、古い木の匂い。受付には「戒壇巡り」と書かれた札が掲げられている。
「本堂の内陣の下には真っ暗な回廊がございます。右の手で壁を伝いながら進んでください。途中に極楽の錠前がございます。それに触れることができれば仏様とご縁が結ばれると言われております。灯りはまったくございません」
僕は凪の目を見た。「怖かったらいつでも言うんだよ」
凪は首を横に振った。「こわくないよ。だってお父さんの手にほしがあるから」
階段の入口の木の戸をくぐると、足もとを照らす最後の灯りが遠ざかり、数歩ごとに世界が黒く塗りつぶされていく。十段降りたところで後ろの小さな四角い光も消えた。
右手で冷たい木の壁に触れた。左手には凪の小さな手があった。
目を開いても閉じても同じだった。世界から光が一粒残らず剥がれ落ちた。
五章 真っ暗という世界
闇とはこういうものだったのか。
目を一杯に開いても瞳孔が限界まで開いても、そこには色さえない。見えないという状態だけがある。
僕が十五年潰してきた暗点は、せいぜい薄暗いというだけのものだった。本物の闇を一度も見たことがなかった。
足がすくんだ。心臓が耳の奥で鳴っている。
「お父さん」すぐそばから凪の声がした。
「いるよ。ここにいる」
小さな手のひらが汗ばんで少し震えている。
「だいじょうぶ。でもへんなかんじ。じぶんがなくなっちゃいそう」
七歳の子どもが、僕が言葉にできなかった感覚をそのまま口にした。闇の中では自分の輪郭が溶けていく。体と空気と壁の境目がほどけていく。
壁の冷たさと凪の手のあたたかさを命綱にして、一歩ずつ進んだ。
闇の中では聞こえるものも変わる。自分の呼吸、衣擦れ、板のきしみ。壁の向こうから風の音のような、水の音のような、遠い昔から続く囁きのようなものが聞こえてくる。
数分経つうち、意識の片隅に何かが浮かび上がってきた。白でも金でもない、水の底から見上げた月のような色。網膜に入ってくる光ではない。脳の奥の静かな場所に誰かが小さなランプを灯したような輝きだ。
手のひらの糸が、明るい場所で見るよりはるかに鮮明に見えはじめた。
そして気づいた。光は僕の糸だけではなかった。闇のいたるところに無数の淡い光の糸が揺れていた。壁の木目の中に、床板の隙間に、天井の暗がりに。何千という細い糸。ほとんど透明な極細の糸、うっすら金色を帯びた太い糸、短く途切れる糸、何世代もの時間を越えて長く続く糸。
「お父さん、ほし、いっぱい。ほしがいっぱいいる」
「見えるのか」
「うん。きれい」凪の声は闇の中で静かだった。「これみんなここでしんじゃったいきもののひかり?」
僕はようやく理解しはじめていた。この場所は千四百年の間、人間の都合で消されなかった闇だ。その闇の中には昼の光では見えない、遠い昔からの命の足跡が降り積もっている。
蚊の糸がここへ僕を導いたのは偶然ではなかった。命が終わるとき、その道のりの光は闇の中へ帰っていく。けれど常灯の街には帰る闇がない。だから光は行き場を失って僕の手のひらにとどまったのだ。
六章 同じ価値の光
糸がほどけた。
手のひらの糸は指先から離れて闇の中へひらひらと舞い上がり、無数の糸の間を縫うようにすり抜けていく。
「待って」思わず手を伸ばした。凪の手を握ったまま糸の行方を目で追う。
糸は闇の中のひときわ大きな光の群れへ向かっていた。そこには巨大な光の流れがあった。川というのが一番近い。何億という細い命の糸がより合わさって一つの音のない大河になっている。
光の川の中にありとあらゆる命の映像を見た。
海の底で青白い光を灯していた深海の魚。草原で地面を揺らしていた巨大な獣。空を覆い尽くす渡り鳥。川を遡る鮭。そして人間。何百世代もこの闇を通り抜けて手を合わせ去っていった数えきれない人々。
僕は知らず涙を流していた。
光の川の中ではすべてが同じだった。大きな命も小さな命も同じ太さの糸だった。くじらの糸も蟻の糸も人間の糸も蚊の糸も、同じ光で同じ明るさで輝いている。長さが違うだけだ。
「同じ、価値」
声に出していた。比べることができるのは僕たちが勝手に物差しを持ち込むからだ。その物差しを手放した瞬間、命はただ一本一本の始まりと終わりを持つ光の道としてそこにあるだけだった。
光の川をさらにさかのぼると静かな森の映像があった。誰も歩いたことのない巨大な木々の森。枝の間を数えきれない蛍が金色の呼吸をするように明滅していた。闇があるから光は見える。光があるから闇は深い。
ふと、ある一本の糸に目を奪われた。人間の糸だった。ほかと見分けがつくはずもない。けれどその糸は僕のすぐ前でやわらかく揺れた。懐かしい気配だった。
「……澄」
三年前に病院の白い光の下で息を引き取った妻の名前だった。糸は凪の方へ寄り添うように揺れた。
凪がじっと見つめて小さく言った。「おかあさん」
「凪にもわかるのか」
「うん。あったかいいろ。おかあさんのにじみかた」
澄は白い病室で最期まで窓の外の見えない星を探していた。「いつか凪に本物の夜空を見せてあげてね」と掠れた声で言っていた。
糸は僕の頬に一瞬触れて、それから光の大河の中へ静かに溶けていった。僕は声を殺して泣いた。
凪が僕の背中をそっと撫でた。「だいじょうぶだよ」
凪の指さす先に小さな一本の糸が浮かんでいた。僕の手のひらを離れたあの蚊の糸だった。光の大河のほとりでためらうように揺れ、糸の先端から小さな光の玉がぽつりとふくらんだ。玉はゆっくり僕の方へ漂ってきて目の前で止まった。
言葉はなかった。けれど光の玉は確かに何かを伝えてきた。
最初に伝わってきたのは水の匂いだった。雨上がりの濁った水たまり、甘い花の蜜の匂い。次に空の高さ。生まれて初めて翅を広げて空気を捉えた瞬間の胸が張り裂けそうな昂ぶり。
そしてあの部屋。長い旅の果てだった。街のどこにも仲間はいなかった。ずっとひとりきりだった。何日も探し歩いた。そしてあの部屋で一つの大きなあたたかい生きものを見つけた。
――ひとり、じゃなかった。
あの蚊は孤独だったのだ。人類が消した種の最後の一匹としてずっと独りで街の隅をさまよっていた。そしてようやくあたたかな生きものに出会えた。
僕は膝から崩れ落ちた。
「ごめん。ごめん」
光の玉は僕の頬に触れた。冷たくも熱くもない、ただ静かな触れ方で感覚が流れ込んでくる。
――おこっていない。ただ、みていてくれた。ありがとう。
ありがとうを言ったのは蚊の方だった。
僕は嗚咽した。この世界はどれほどやさしいのだろう。
光の玉はふわりと浮き上がり、光の大河へゆっくり戻っていく。溶けていく寸前、玉は一度だけ振り返った。小さな蚊の姿が光の中に浮かんでいた。細い脚、透きとおる翅。そしてその姿は川の流れの中へ溶けて消えていった。
七章 極楽の錠前
どれくらいの時間が経ったのだろう。光の大河は静かに遠のき、闇はふたたびただの闇に戻っていた。けれど最初の闇とは違っていた。もう怖いとは思わなかった。闇の中には無数の光が息をひそめている。ただ見ようとする目が必要なだけだった。
「お父さん、いこう」
数歩進んだところで壁に何かが触れた。ひんやりした金属の感触。壁の中に埋め込まれた鍵の形をしたかたまりだ。長い年月多くの人の手に触れられて角がすっかり丸くなっている。極楽の錠前だ。
躊躇していると凪が僕の手を錠前の方へ引き寄せた。「いっしょにさわろう」
凪の小さな指先が金属に触れ、僕もその上に手を重ねた。冷たかった。すぐに僕たちの体温を受け取ってあたたかくなった。何千という人々がこの錠前に体温と時間を少しずつ預けてきた。
僕は目を閉じた。心の中で祈った。許しを乞うべきなのか誓いを立てるべきなのか。ひとつだけ確かな言葉が浮かんできた。
――忘れません。
祈りが一つの言葉になった瞬間、闇がやわらかくほどけた。光が錠前のあたりからあたたかく広がっていった。常灯のような白い光ではない。ほの暗い金色の小さな灯。ろうそくの炎のような揺らぎを持った人の目にやさしい光だ。
その光の中で初めて凪の顔を見た。闇の中でぼんやり浮かび上がった七歳の娘の顔は泣いていた。けれど笑っていた。
「おとうさん、ほんとうのほしがみえた」
八章 一瞬迷った、その先に
階段を上って外へ出た。夕方の光が僕たちを包んだ。日は傾き本堂の屋根の上には茜色の雲が伸びていた。
僕は手のひらを広げた。光の糸はもうそこにはなかった。ただの人間の手だ。少し汗ばんであたたかい。
「なくなっちゃったね」「ああ。でもいいんだ。ちゃんと帰れたから」凪は僕の手をぎゅっと握った。「でもね、ほし、まだあるよ」凪は僕の手のひらを自分の胸にあてた。「ここに」 とくん、とくんと小さな鼓動が伝わってきた。
東京に戻った三日後、霧島さんの家を訪ねた。
「行ってきたか」霧島さんは縁側に座って静かに聞いてくれた。
話し終えると老人は庭を眺めて言った。「綾瀬くん、お前さんはあの光をどうするつもりだ」
「背負いたいとは思いません。ただ忘れたくないんです。それと凪に本物の夜空を見せたい」
霧島さんは目を細めた。「それはずいぶん遠い話だな」「はい。でも遠くても歩いていきます」「歩いていけばいつかたどり着くとは限らんぞ」「はい」
老人は声を出して笑った。「いい返事だ」
翌週、僕は辞表の代わりに一枚の企画書を課長に提出した。「夜間照明の段階的緩和と、闇の保全区画に関する提案」
課長は読み終えて言った。「綾瀬くん、これは局の存在意義を否定する内容だぞ」
「承知しています。街のすべてを闇に戻したいのではありません。ほんの一部、ほんの少しの区画、ほんの少しの時間だけ、闇を闇のままにしておく場所を残したいんです」
「何のために」
「見るためです。僕たちは光の下で安全を手に入れました。けれど同時に、見えなくなったものがあったんです」
課長は眉をひそめた。「ポエムだな」「はい。そう思われるかもしれません」課長はため息をついて企画書を机に置いた。「すぐには通らんぞ」「それでも出し続けます」
課長はしばらく黙っていた。そしてぽつりと言った。「……実はわしの祖母がな、よく言ってたんだ。夜の闇は死んだ人たちの居場所だって」
十一月のはじめ、局の屋上で十分間だけの小さな実験を行った。屋上の常灯をすべて切る。有志数名だけの私的な集まりだった。
スイッチを落とすと足もとの数メートルだけがふっと暗くなった。それでも人々は息を呑んだ。数十秒が経ち目が慣れていく。街の光の底にほんの一瞬何かがまたたいたような気がした。
若い職員がささやいた。「何か今そこにあったような」
十分が過ぎてスイッチを入れ直すと光が戻った。「またやりましょうよ。次はもう少し長く」
十二月のはじめの夜。仕事を終えてアパートへ帰り、駐輪場の奥を見た。そこに一か所だけどうしても常灯が届かない小さな暗点が残っている。僕はあの夜からその暗点を見て見ぬふりをし続けていた。
コンクリートの割れ目に小さな水たまりができている。のぞき込むと水面がかすかに揺れ、何かがいた。黒い細いくねくねと動く影。ぼうふらだ。一匹ではない。五匹、十匹、数えきれないほどの小さな命が濁った水の中で泳いでいた。
あの蚊は孤独ではなかったのだ。どこかに卵を産んでいた。僕に血を求めたのはこの命のためだったのかもしれない。
衛生局に通報するべきだろうか。法律では見つけ次第報告する義務がある。通報すれば数時間で駆除班が来て水たまりは薬剤で処理される。
僕は立ち上がれなかった。答えが出なかった。手のひらの光はもうない。ただ水たまりの上の小さな暗がりの中にかすかな光の気配が揺れている気がした。
――迷えば、いいんだよ。
誰かがそう囁いた気がした。
僕は水たまりの前で静かに手を合わせた。そしてアパートの階段を上った。
部屋に入ると凪が待っていた。
「おかえり、おとうさん」
「少し迷っただけだよ」
「それで?」
僕は窓の外を見た。常灯の白い光が街の底に広がっている。その光の間にぽつんと小さな暗がりがあった。暗がりの中で何かかすかな金色の光がまたたいている。ひとつ、ふたつ、みっつ。それはまだ生まれたばかりの小さな命のはじまりの光だった。
窓をそっと開けた。夜の空気が部屋の中にすうっと流れ込んできた。冷たくて少し湿っていて懐かしい匂いがした。
「凪。今夜は電気、消そうか」
「くらくするの?」
「うん。少しだけ」
部屋の照明をひとつずつ消していく。最後に壁に埋め込まれた小さな常灯を手動のスイッチで切った。部屋が闇に沈んだ。窓の外から街の光がうっすら差し込んでいる。
凪の小さな頭が僕の肩にもたれかかる。しばらくして凪が囁いた。
「おとうさん、みえるね」
僕は目を凝らした。窓の外のずっと遠く、ビルの谷間のわずかな隙間の向こう、常灯の白い膜のその奥に。小さな小さな星がひとつ瞬いていた。
涙が頬を伝った。誰かの命の光なのか、それとも本当に遠い宇宙の燃える星なのか。もうどちらでもよかった。光はそこにあったのだから。
罪は消えない。僕らはこれからも気まぐれな一瞬の判断で小さな命を終わらせてしまうだろう。
けれどそのたびに僕らはふと立ち止まれる。果たしてこれで良いのだろうか、と。その迷いこそがきっと闇の中の一番小さな灯りなのだ。
窓の外で小さな星がまたひとつまたたいた。
ー了ー
Amazon Kindle
あとがき
善光寺の戒壇巡りを初めて体験したのは、もう十年以上前のことでした。本当に何も見えない。手探りで進むうちに、自分の手足がどこにあるのか分からなくなる。怖いというより、自分という輪郭がほどけていくような不思議な感覚でした。そのとき、暗闇は単に光がない状態ではなく、何かを隠し持っている場所なのだと感じました。
常灯というアイデアは、光害のニュースから来ています。いま私たちは夜をどんどん明るくしています。それは安全で便利なことですが、その代償として失われたものについて考える機会はあまりありません。虫も星も、少しずつ見えなくなっている。
綾瀬灯という名前は、最初から決まっていました。灯りをともす人。でも本当は、闇を残せる人であってほしいという願いを込めています。娘の凪は、凪いだ海のように、すべてを映す存在として書きました。
もしこの物語を読んで、今夜、部屋の電気をほんの数分だけ消してみようと思った方がいたら、それがこの物語にとっての「極楽の錠前」です。暗がりの中に、あなたにしか見えない小さな光が見つかるかもしれません。
またどこかの闇でお会いできることを願って。
綾瀬灯の物語は、ここで終わりますが、あなたの夜はこれからです。
紹介文
二〇九一年、日本は「常灯社会」だった。
法律で二十四時間照らされ、夜も犯罪も星も消えた国で、男は一匹の蚊を叩いた。
手のひらに残ったのは、消えない細い光の糸だった。
都市照明管理局で闇を潰す仕事をする男、綾瀬灯。七歳の娘・凪と共に、糸に導かれて善光寺の戒壇巡りへ向かう。
完全な闇の中でだけ見える、無数の命の川。大きな命も小さな命も同じ明るさで輝く世界で、男はあの蚊の最後の言葉を聞く。
一瞬の罪の中に、光は必ず差す。夜を取り戻す物語。



