宇宙縁整理局
〜ご同輩、縁を切りすぎました〜


〜まえがき〜
この物語は、巻末に置いた短いメモからできています。
還暦を過ぎて、仕事の名刺が急に紙切れに見えた時期がありました。連絡先の数は増えるのに、通電している紐は減っていく。そんなことを考えていたら、「縁は見えない紐でできていて、たまに役所が回覧板を持って棚卸しに来る」という絵が浮かびました。
主人公の久保田勝は私ではありませんが、机の引き出しに残った輪ゴムの跡や、朝のトーストの焦げ方くらいは、私のものです。
もしあなたのスマホにも六百件以上の名前があるなら、そしてその中で本当に顔が浮かぶのが十七人くらいなら、この回覧板は今、あなたの玄関の前に止まっているのかもしれません。




第一章 六百十二件
久保田勝、六十三歳。三か月前に、三十八年勤めた文具メーカーを定年で退いた。
退職の日、総務部の若い連中は花束と色紙をくれた。色紙には「お疲れさまでした」が十七回書かれていて、そのうち四つは同じ筆跡だった。久保田はそれを眺めて、人間というのは労いの言葉でさえ分業制にするのだなと感心した。感心はしたが、腹は立たなかった。三十八年も総務にいれば、分業の尊さは骨身に染みている。
以来三か月、久保田の生活は驚くほど静かだった。
朝は六時半に目が覚める。七時に妻の悦子が焼いた、少し耳の焦げたトーストを食べる。八時には新聞を読み終える。九時にはもう、することがない。現役時代は「時間がない」が口癖だったのに、いざ時間ができてみると、それは思っていたよりずっと大きくて、持て余すほどぶかぶかだった。借りもののコートみたいなものである。
十月の終わりの土曜日、久保田は居間の座卓にスマートフォンを置いて、ぼんやり連絡先を眺めていた。
六百十二件。
画面の右端に、そう表示されている。
「六百十二人も知り合いがいるのか、俺は」
声に出してみたが、実感はまるでなかった。名前を上から順に送っていく。「相沢(協力会社)」「青木(青木印刷)」「青木(ゴルフ)」「青木(誰だ)」。最後の青木については、本当に誰だかわからない。たぶん十年前の宴会で名刺を交換し、そのまま連絡先に入れて、そのまま忘れたのだろう。向こうも、こっちを「久保田(誰だ)」で登録しているに違いない。
久保田は、ふと思った。
人は一生のあいだに、何人と出会うのだろう。
そして、そのうち何人と、友達になるのだろう。
知り合いなら、放っておいても増える。名刺を配れば増えるし、会議に出れば増えるし、宴会に出れば雪だるまのように増える。だが友達となると話が別だ。友達はそんなに増えない。ましてやマブダチ、つまり夜中に電話して「ちょっと聞いてくれ」と言える相手となると、指を折っても片手がまるごと余る。
久保田の場合、その片手の指は、一本しか折れなかった。
戸田である。
中学の同級生で、同じ野球部で、補欠同士で、ベンチの端で二人だけ別の試合の話をしていた。それが五十年続いている。ただ最近は、年に一度、正月に「元気か」「おう」と送り合うだけになっていた。それでも、戸田は戸田である。
「ずいぶん、遠くなったもんだな」
久保田がつぶやくと、台所から悦子の声がした。
「何が?」
「いや、人間関係が」
「あらそう。お昼、そうめんでいい?」
会話はそれで終わった。久保田は座卓に頬杖をついて、六百十二件の名前を、上から下までもう一度ゆっくり眺めた。眺めているうちに、画面が少しにじんで見えた。老眼のせいだと思うことにした。
その夜のことである。
久保田が布団に入って、天井の木目を数えていると、枕元でカサ、と音がした。
カサ、カサ、カサ。
紙をめくるような音だ。久保田は首をひねってそちらを見た。
枕元に、何かがいた。
大きさは十五センチほど。丸くて、つるんとしていて、全体にうっすら緑がかっている。手足は短く、背中には、どう見ても町内会の回覧板としか言いようのないものを、バンドで斜めがけに背負っている。目は豆粒のように小さく、口は、きちんと閉じていた。
それは久保田と目が合うと、背筋を伸ばして、こほんと咳をした。
「夜分に失礼いたします」
久保田は、とりあえず布団の中で姿勢を正した。人間、わけのわからない相手には、まず礼儀正しくなるものだ。
「はあ。どちら様で」
「宇宙縁整理局、第四課の回覧係でございます。久保田勝様、六十三歳、このたび満期となりましたので、縁の棚卸しに参りました」
「……満期」
「はい。人類は六十歳を超えますと、自動的に棚卸しの対象となります。通知は数年前にお出ししたのですが、回覧板が久保田様のお宅の前で止まっておりまして」
久保田は思い出した。たしかに数年前、近所の回覧板が玄関で何週間か止まっていた。あれは単に悦子が渡し忘れていたのだと思っていたが。
「それはその、すみませんでした」
「いえ、よくあることです」
緑の丸いものは、にこりともせずにそう言って、背中の回覧板を下ろした。ハンコを押す欄が、びっしり並んでいた。
久保田は天井を見上げ、それから緑の丸いものを見て、静かに目を閉じた。これは夢だ。そうに違いない。夢であれば、とりあえず最後まで付き合うのが礼儀というものである。


第二章 縁見メガネと削除印
「まず、お名前をお伺いしても」
久保田が訊くと、緑の丸いものは一瞬、虚をつかれたような顔をした。
「名前、ですか。係の者には、あまり訊かれませんので」
「呼ぶのに困りますので」
「では、カイランとお呼びください。回覧の係ですから」
「安直ですね」
「宇宙の役所は、どこもそんなものです」
カイランは回覧板をぱらりとめくり、読み上げた。
「ご説明いたします。人間の縁というものは、目には見えませんが、実際にはすべて紐でできております。久保田様と、久保田様がご存じのすべての人のあいだには、それぞれ一本ずつ、紐が張られております」
「紐」
「紐です。太いものもあれば細いものもあります。色もさまざまです。当局では、これらを定期的に棚卸しし、不要なものを整理していただくことで、宇宙全体の縁の渋滞を防いでおります」
「渋滞」
「後ほど詳しくご説明します。まずは、こちらを」
カイランは背中の回覧板の裏から、小さな眼鏡を取り出した。フレームは銀色で、レンズは薄い茶色だ。久保田が受け取って掛けてみると、視界がぐにゃりと歪んだ。
そして、見えた。
部屋じゅうに、紐が張りめぐらされていた。
天井から。壁から。窓の外から。それらはすべて、久保田の胸のあたりに、一本ずつ結ばれていた。台所のほうから伸びている一本は、淡い桃色で、ふっくらと太い。悦子だ。窓の外へ伸びる無数の紐は、太さも色もばらばらで、闇の向こうまで続いている。
「これが、縁見メガネです。一週間、お貸しします」
「すごい数だな」
「六百十二本、ございます。今日お調べになっていた数と同じです」
「見てたんですか」
「回覧板は、何でも回ります」
カイランは次に、帯の間から、親指ほどの大きさのハンコを取り出した。持ち手は白い骨のようで、先端は真っ赤に染まっている。朱肉もないのに、たっぷり濡れていた。
「こちらが、削除印です」
「削除印」
「紐の上から、ポンと押していただきます。それで縁は切れます。ただし、取り扱いにご注意を。切れた縁は、二度と元には戻りません。押す前に、よくお考えください」
久保田は、赤いハンコをしげしげと見た。重さはほとんどなかった。
「切れると、どうなるんです。相手は死ぬんですか」
カイランは初めて、少し困ったような顔をした。
「人聞きの悪いことをおっしゃる。死にません。ただ、遠くなります」
「遠くなる」
「はい。お互いにとって、ただの他人になります。道ですれ違えば、どちら様でしたかな、と軽く会釈する程度の。電話番号も、いつの間にか連絡先から消えます。恨みも、貸し借りも、思い出さえも、少しずつ薄れます」
「思い出も」
「ええ。ただし、これは大事な点ですが、切るのはあくまで縁であって、人ではございません」
久保田は少し考えて、それから訊いた。
「全員、切らなきゃいけないんですか」
「とんでもない。ご自分で選んでいただきます。当局が申し上げるのは、基準だけです」
カイランは回覧板の一ページ目を、久保田に向けた。そこには、整った文字でこう書かれていた。
〈削除の順序について〉
一、仕事絡みのもの。
二、わずかでもストレスとなるもの。
三、残ったもののうち、こちらを向いて微笑んでいるもの。これだけを残す。
久保田は、思わず声を出した。
「……どこかで聞いたような」
「人類の還暦を過ぎた方は、不思議と、皆さん同じ結論にたどり着かれます」
カイランは、まじめくさって言った。
「当局は、それを制度化しただけでございます」
久保田はしばらく黙っていた。それから、メガネをかけたまま、天井を見上げた。天井から垂れた紐の一本一本が、ゆらゆらと、波のように揺れている。見ていると、少し眠くなってきた。
「で、その作業を」
「今夜から、一週間かけて、お願いいたします。お手伝いはいたします。ただし、押すのは、久保田様ご自身で」
「一週間」
「はい。ただし、一度押し始めたら、途中でやめることはできません。回覧板が、そう決めております」
妙なところで厳しいな、と久保田は思ったが、夢の中の役所に文句を言っても仕方がない。彼は赤い削除印を、右手に握った。
ひんやりとして、少し湿っていた。


第三章 名刺の蝶、専務のゴム
最初の晩は、仕事絡みを削除することにした。
久保田は押し入れから、段ボール箱を二つ引っぱり出した。中には、三十八年分の名刺が入っている。輪ゴムで束ねたものが、およそ三百束。それぞれの束の上に、小さな紐が一本ずつ見えた。灰色で、やや細い。紐の端はどれも名刺の上でゆらゆらと揺れていて、持ち主の久保田を、特に求めている様子はなかった。
「では、一本ずつ、どうぞ」
カイランに促され、久保田は最初の束に、そっと削除印を押した。
ポン。
軽い音がした。
次の瞬間、束ねられていた名刺が、ふわり、と宙に浮かんだ。一枚一枚が、羽ばたくように震え、白い蝶になった。蝶は部屋の中を二、三周すると、窓の隙間から、夜の中へ消えていった。
久保田は、あっけにとられた。
「蝶になるのか」
「縁が切れますと、紙は所在をなくしますので」
「ずいぶんと詩的な役所だな」
「予算の都合で、演出は最小限でございます」
三十束を過ぎるころには、部屋じゅうが白い蝶でいっぱいになり、久保田の手つきはすっかり総務部長に戻っていた。判を押すことにかけて、彼は玄人だった。三十八年間、稟議書に判を押しつづけた手である。ポン、ポン、ポン。蝶は一匹ずつ、どこか遠くの、知らない取引先の机の上に止まるのだと、カイランは言った。
「その机の主は、ふと窓を見て、『最近あの会社と付き合いがあったな』と思い出します。そして、思い出した端から、忘れます」
「いい加減な供養だな」
「縁というのは、そういうものです」
二百束を過ぎたころ、久保田の手が止まった。
名刺の山の中から、一枚、異様に分厚い紐の付いたものが出てきたのである。
紐は灰色ではなかった。どす黒く、ねっとりと光っている。しかも太い。ゴムホースほどある。紐の先は、部屋の隅まで伸びて、そこで上下に震えながら、何かに引っぱられていた。
名刺には、こう印刷されていた。
〈常務取締役 鬼塚 剛造〉
久保田の背筋が、ぞくりとした。
鬼塚専務。いや、退職時には専務だった。久保田が総務部長のとき、毎朝七時五十分に内線電話をかけてきて、「昨日の弁当の領収書の但し書きが雑だ」と十五分間怒鳴りつづけた男である。
「これは」
久保田が言いかけると、カイランが耳打ちした。
「このあたりが、一番手ごわいところです。心の準備を」
久保田は深呼吸して、削除印を、ゴムホースのような紐に、ぐっと押し当てた。
ポ——
押しきる前に、紐がびよーんと伸びた。
久保田の手は、紐に引っぱられて、部屋の隅まで飛んでいった。
「うわっ」
「ゴム状の縁です。強い負荷のかかった縁は、切る側にも反動がございます」
「先に言ってくださいよ!」
久保田は踏ん張った。足の指に力を込め、畳をつかむようにして、全体重をかけて、削除印をもう一度、ぐいと押し当てた。紐はぎりぎりと鳴いた。久保田は、六年間の朝七時五十分を思い出していた。弁当の領収書の但し書き。「雑だ」。十五分間。「雑だ」。「そもそも君は」。
「そもそも、あんたは」
久保田は歯を食いしばって、つぶやいた。
「雑だ!」
パチン。
紐が、切れた。
反動で、久保田は畳の上を三メートル転がり、襖に頭をぶつけた。ゴム状の縁は、凄まじい速さで夜空へ飛んでいき、遠ざかりながら、細く、小さく、やがて糸くずのようになって、消えた。
名刺は蝶にならなかった。かわりに、折り紙のようにきれいに折りたたまれて、小さな紙の鶴になり、ことん、と畳に落ちた。
「これは」
「特別な縁でしたので、特別な形をとります」
カイランは、鶴を拾って、久保田の手に乗せた。
「ご覧ください。遠くのほうに」
久保田が縁見メガネ越しに窓の外を見ると、夜の街のはるか向こうに、小さな人影が見えた。スーパーの深夜のレジ待ちの列に、ジャージ姿の老人が一人、並んでいる。籠の中には、見切り品の弁当がひとつ。老人は、レジの店員に、何かを言っている。
どうやら、領収書の但し書きについてのようだった。
久保田は、じっとその姿を見つめた。
「……あの人にも、あんな姿があったんだな」
「縁が切れますと、人は『ただの他人』に戻りますので。他人は、よく見ると、わりとただの人間です」
久保田は、手のひらの鶴を、そっと机の上に置いた。肩のあたりが、少し軽くなったような気がした。


第四章 ストレスの棚卸し
二日目の夜から、久保田は「わずかでもストレスとなるもの」の削除に取りかかった。
仕事絡みと違って、こちらは名刺箱では済まない。紐は、久保田の生活のあらゆる場所から伸びていた。町内会の自慢男、親戚の義兄、同窓会幹事、同じ駅の同じ車両にいつも乗っている、なぜか挨拶してくる謎の人物。そして、スマートフォンの中のLINEグループ。
久保田は、まずスマートフォンを手に取った。
〈おはよう会(朝の花を見る会)〉
このグループには、毎朝五時四十分に、どこかの花の写真と、手書き風の文字で「今日も一日、笑顔でいきましょう」と書かれた画像が届く。送信者は、元の取引先の、木下という男である。久保田は、退職後すぐに「ぜひ入ってください」と誘われて、断れずに入った。
久保田は、グループ画面を、縁見メガネで覗いた。
画面の中から、細い蛍光ピンクの紐が一本、にゅるにゅると伸びていた。紐の先は、笑顔の花の絵文字で結ばれている。一見かわいらしいが、よく見ると、紐のそこかしこに、小さなトゲが生えていた。
「あ、これはトゲ付きの善意ですね」
カイランが、感心したように言った。
「悪意はないのに、受け取る側がじわじわ疲れる。当局では『善意系ストレス』と呼んでおります」
「どうして誰も言わないんでしょう」
「言えないからこそ、善意系なのです」
久保田は、迷わず削除印を押した。
ポン。
画面の中の花が、一斉に、しおれた。
五時四十分の通知は、その日を最後に、二度と鳴らなくなった。
次は、町内会の自慢男、伊勢谷である。孫の学校の成績、息子の年収、自宅の庭の松の値段を、会うたびに十五分ずつ語る。
伊勢谷の紐は、金色だった。ただし、金メッキである。縁見メガネで見ると、上塗りの下に、くすんだ鉄が見えた。久保田は、容赦なく削除印を押した。ポン。メッキの紐は、金粉を撒き散らしながら、きらきらと夜空に昇っていった。窓の外で、近所の犬が、きゃんと鳴いた。
義兄の話は、さらに難しかった。
悦子の兄で、親戚の集まりのたびに、久保田に「老後の資金は足りているのか」と訊いてくる。心配しているのだという。だが、その心配は、いつも、久保田の家の貯金額を聞き出すための前置きだった。久保田は、悦子の顔を思い浮かべながら、削除印を持った手を、しばらく宙に浮かせていた。
「奥様の縁は、別の紐ですから、影響はありません。ただ、ご親戚としての縁は、お二人のあいだでは切れます」
「悦子には、黙っておきます」
「それがよろしいでしょう」
ポン。
そのようにして、久保田は夜ごとに、削除印を押していった。一人削除するたびに、肩のあたりが、すっ、と軽くなった。
四日目の朝、久保田は洗面所の体重計に乗って、目を疑った。
三キロ、減っていた。
「ちょっと、あなた」
台所から、悦子が覗いた。
「痩せたんじゃない? どこか悪いの?」
「いや、どこも悪くない。むしろ、調子がいい」
「顔つきも、なんだか変わったわ」
久保田は、洗面所の鏡を見た。眉間の縦皺が、一本、薄くなっている。
「いいことよ」
悦子は、にっこり笑って言った。久保田は、その笑顔を見て、ふいに胸のあたりがあたたかくなった。縁見メガネをかけると、悦子の桃色の紐が、きらきらと光りながら、こちらを向いていた。


第五章 三十一本と、浮く男
一週間の作業は、日を追うごとに静かになっていった。
五日目あたりから、削除はほとんど事務作業になった。六日目の夜、残りは八十七本になった。七日目の夜、三十一本になった。
三十一本を前にして、久保田は少し手を止めた。部屋の中は、がらんとしている。天井にも壁にも、あの無数の紐はもうない。残っているのは三十一本だけで、どれもやわらかな色をしていた。桃色、橙色、水色、黄緑色。
「きれいなものだ」
「棚卸しの終わった棚は、いつもきれいです」
カイランは回覧板に何か書き込みながら言った。
「ところで久保田様、ひとつ申し上げ忘れていたことがございまして」
久保田は嫌な予感がした。役所の人間が「申し上げ忘れていた」と言うとき、それは大抵、申し上げたくなかったのである。
「縁は、双方向でございます」
「双方向」
「久保田様が切られた縁は、相手様のお手元でも切れております。同様に、久保田様の紐のうち、相手様が先に削除印を押されていたものも、すでに切れておりました」
久保田はスマートフォンを手に取った。画面は静まりかえっている。着信ゼロ。メッセージゼロ。連絡先の件数は、「三十一件」になっていた。
「六百十二件から三十一件へ。約九十五パーセントの削減でございます」
「先に切られてた縁というのは、どれくらい」
「四百十九本です。七割は、すでに先方が切っておられました」
「七割じゃないか」
「ご安心ください。残りは久保田様のほうが先でした」
「安心できるか、それが」
久保田は、残った三十一本をあらためて眺めた。その中に、見覚えのある水色の紐があった。総務部の若手、田村である。退職の日に色紙を取りまとめてくれた男だ。
そういえば、と久保田は思い出した。あの色紙の「お疲れさまでした」が十七回。そのうち四つは同じ筆跡だった。
「あの四つは、田村が書いたんだな」
「はい。来られなかった四名様の分を、田村様が代筆なさっております。ちなみに、その四名様の紐は、すでに切れております」
久保田は、笑った。笑いながら、少しだけ、目の奥が熱くなった。
その夜、久保田は妙なことに気づいた。
布団に入ると、背中がやけに軽い。軽いなあ、と思って天井を眺めているうちに、天井がだんだん近づいてきた。
久保田は、三センチほど浮いていた。
「カイランさん」
「はい」
「浮いてるんだが」
「削りすぎましたかな」
カイランは、さして驚いた様子もなく言った。
「縁の重みは、地面との縁でもございます。人間は、人との縁という錘に引っ張られて、この地に立っております。ほとんど切ってしまえば、浮きもいたします」
「戻るんだろうな」
「条件の三を、お済ませになれば」


第六章 こちらを向いて、微笑んでいる
〈こちらを向いて微笑んでいるものだけを残す〉。
簡単そうに見えて、これがいちばん難しかった。
三十一本の紐は、どれも色がやわらかい。だが、メガネ越しに、それぞれの紐の先にいる人をよく見ると、「微笑んでいる」ことと「こちらを向いている」ことは、まったく別の現象だとわかった。
微笑んでいるが、四十五度ほどそっぽを向いている人。微笑んでいるが、こちらではなく、自分のスマートフォンに向いている人。微笑みながら、肩越しに、久保田の背後にいる誰か偉い人を見ている人。
「社交辞令の微笑みです。笑顔の角度が、少しずつずれております」
カイランは、定規のようなものを取り出して、紐の先の角度を測った。
「この方は、二十二度。この方は、三十度。この方は、ほぼ九十度で、完全に横を向いておられます」
「九十度で微笑んでるのか」
「器用な方です」
こうして十四本が、削除対象に回った。久保田は、少し胸が痛んだが、判を押した。ポン。ポン。名刺も年賀状も出てこないので、今度は、小さな風船が、ぽわん、ぽわんと窓から出ていった。
最後に、十七本が残った。
一本目は、桃色。悦子である。
二本目と三本目は、橙色と黄色。息子夫婦。
四本目は、小さな小さな、ピンク色の綿菓子のような紐で、これは孫の陽菜である。六歳。笑うたびに、紐が、ふわふわ揺れる。
五本目は、水色。田村。
六本目は、白と赤の縞模様。近所の豆腐屋の大将である。「朝イチの木綿、残しとくよ」と毎朝言ってくれる。
七本目は、緑。スポーツジムの受付の山本さん。久保田の来館時には、必ず「今日は、いい顔ですね」と言う。
八本目は、茶色で、これは太く、短く、尻尾が付いていた。
「カイランさん、これは」
「柴犬のコロ様です」
「犬も、いいのか」
「種族の制限は、ございません。ただし、ご近所のコロ様の場合、笑顔のカウントが、尻尾の振りで判定されますので、少々、甘めの査定となっております」
「甘めでいい」
カイランは、続けて、定規を当てた。
「豆腐屋の大将様は、ゼロ度。ど真ん中でございます」
「毎朝、木綿を取っておいてくれるからな」
「それです。人は、自分のために何かを残しておいてくれる相手に、まっすぐ向かって笑うのです」
「陽菜は」
久保田が訊くと、カイランは、定規を、しばらく、じっと見つめた。
「……測定不能です」
「どういうことだ」
「全方位に、向いておられます。六歳児の笑顔というのは、角度の概念を、超えております」
「それは、俺のほうを、向いてるのか」
「久保田様のほうも、含まれております。ただし、ご近所の郵便ポストや、電柱や、通りすがりの野良猫のほうも、同じ角度で、含まれております」
「…まあ、六歳だからな」
「はい。当局としては、特例で、合格といたします」
久保田は、ほっとして、陽菜の綿菓子のような紐を、そっと、座卓の上で、整えた。
そうして、十七本の中の、最後の一本。
久保田は、その紐を、メガネ越しに、長いこと見つめていた。
髪の毛ほどの細さだった。
薄い灰色で、光に透かすと、消えてしまいそうに頼りない。だが、紐の先の人物は、確かに、こちらを向いて、微笑んでいた。
戸田である。
「ずいぶん細いな」
「最後にお会いになったのは」
「十一年前だ。中学の同窓会の二次会で」
「年賀状は」
「毎年、出してる。『元気か』『おう』」
「それが、現在のお二人の通電状況でございます」
カイランは、静かに言った。
「縁というものは、棚に並べて眺めているだけでは、痩せていきます。久保田様、棚卸しは、実は前半戦でございます。後半戦は、通電です」
「通電」
「電気を、通すのです。会って、話して、笑って、ときどき腹を立てる。その往復運動によって、はじめて紐は太くなります」
久保田は、しばらく黙っていた。浮いたまま、三センチ上から、細い灰色の紐を、じっと見つめた。
「戸田に、会いに行かなきゃいけないな」
「そのとおりでございます。ただ、その前に」
カイランは、背中の回覧板を、とん、と叩いた。
「見ていただきたい場所がございます。局長が、お待ちです」


第七章 宇宙縁整理局の窓口
次の瞬間、久保田は回覧板の上に座っていた。
正確に言えば、久保田のほうが、回覧板の大きさに合わせて小さくなっていた。身長が十五センチほどになったのだ。見下ろすと、居間の畳が、どこまでも広がる草原のようである。
「しっかりおつかまりください。回覧板は、速うございます」
「どれくらい」
「光の速さの、少し上くらいです」
そう言い終えた瞬間、窓の外に星が流れた。回覧板は、のんびりと、しかし猛然と飛んでいく。遠くに、街のような明るいかたまりが見えた。
灰色の、四角い、窓の多い建物。屋上に、色褪せた看板。看板には、〈宇宙縁整理局〉と、味気ない明朝体で書かれている。入口の自動ドアには、〈ご用のない方は、お通りください〉という、意味のよくわからない貼り紙があった。
「役所だな」
「役所です」
中に入ると、広い待合室に、長椅子が並んでいた。番号札を手にした、さまざまな種族の者たちが、順番を待っている。触手の多いもの、顔が三つあるもの、全身が煙のようなもの。みな、一様に、疲れた顔をしていた。
久保田の隣では、全身が煙でできた客が、番号札を握りしめて呟いていた。
「連絡先が、三千億件あるんです。毎朝全員におはようと言わなきゃ気が済まなくて、夜が明けないんです」
「そりゃあ、大変だ」
久保田が思わず言うと、煙は、ほっとしたように、ふわりと揺れた。
窓口の向こうの職員たちを見て、久保田は、あることに気づいた。
老人ばかりなのである。
白髪の、触角の垂れた職員。老眼鏡を額に上げた、ひょろ長い、足の八本ある職員。腰を叩きながら書類を運ぶ、頭のない、しかし明らかに腰の痛そうな職員。誰もかれも、定年間近、あるいは定年後の再雇用、といった風情である。
「皆さん、お歳なんだな」
「当局は、慢性的な人手不足でございまして。定年退職した職員が、再雇用で、窓口を支えております」
「うちの会社と同じだ」
「宇宙も、日本も、役所は同じでございます」
局長室は、五階の、いちばん奥にあった。
重そうな木の扉を、カイランが、こんこん、と叩く。「入りたまえ」という、低い、しかし妙に人懐っこい声がした。
部屋の中には、大きな机があり、その向こうに、卵形の老人が座っていた。
身長は、久保田の元の大きさと同じくらい。頭は、つるりとした卵のようで、髪は一本もない。ただし、眉毛だけが、白く、立派に長く、左右に垂れ下がっている。背広を着て、ネクタイを締め、机の上には、湯呑みが一つ。
「やあ、よく来た」
局長は、湯呑みを持ち上げて、にっこり笑った。
「ご同輩」


第八章 縁のゴミ箱
「削除された縁は、どこへ行くと思うかね」
久保田は、考えた。蝶になって飛んでいった名刺。金粉を撒いて昇った紐。風船。
「どこか、遠くへ」
「そう。遠くへ、行く。ところが、宇宙のその『遠く』が、満杯なのだよ」
局長は、湯呑みを置き、久保田をまっすぐ見た。
「各地で、年間、数兆本の縁が、削除されている。切られた縁は、その行き場を失い、ぐるぐると、同じ場所に溜まりはじめた。溜まった縁は、重くなる。重くなると、重力が狂う。銀河が傾く。時計が遅れる。先月は、二つの惑星の公転周期が、三分ずれた」
「三分」
「宇宙規模では、大惨事だ」
局長は言った。
「見ていただきたいのだ。切られた縁の、なれの果てを。カイランくん、案内を」
局の地下は、ひたすら暗い、巨大な空間だった。足元には、うっすらと光る床。そして、真ん中に、ぽっかりと、黒い穴が空いていた。直径は、東京ドームほどもあるだろうか。穴のふちには、柵があり、柵には、〈縁のゴミ箱 ご注意ください〉という札が、ぶら下がっている。
「正式名称は、『削除済縁集積装置』です。地球では、ブラックホールとも呼ばれておりますが」
久保田は、柵に近づき、穴の中を覗き込んだ。
メガネ越しに、見えた。
無数の紐が、ぐるぐると、渦を巻いていた。
灰色、桃色、橙色、金色、緑色。どれもこれも、もう、どこにも繋がっていない。ただ、ゆっくり、ゆっくりと、回っている。
久保田は、胸の奥が、少し、きゅっと縮んだ。
ふと、渦の端に、見覚えのあるものを見つけた。
どす黒く、ねっとりと光る、極太のゴム状の紐。
「鬼塚専務だ」
「はい。久保田様が、一日目にお切りになった縁です」
ゴム紐は、ぐるぐると、渦に乗って回っていたが、ときどき、びよーん、と、柵の方へ、伸びた。まるで、まだ、久保田に何か言いたいかのように。
びよーん。ぷるん。
「あの紐、まだ、こっちを狙ってるのか」
「いえ」
背後から、局長の声がした。
「縁というものはな、久保田くん。切られても、完全には消えない。相手に思い出されたとき、少しだけ、光るのだ」
「思い出された」
「あの専務さんは、毎晩、あなたのことを思い出しているのだろうよ」
久保田は、ぎょっとした。
「恨んでるんですか、俺を」
局長は、ゆっくりと、首を横に振った。眉毛が、ふさふさと揺れた。
「恨みなら、紐は、もっと、尖る。あの紐は、尖っておらん。むしろ、ふにゃふにゃして、頼りない」
言われてみれば、確かに、そうだった。切る前に見たあの黒光りは、もう、ない。ゴムは、しなびて、少し、疲れていた。
ふと、久保田は、あのスーパーのレジに並んでいた、ジャージ姿の老人を、思い出した。
「…あの人も、定年して、誰にも、領収書の但し書きを、言えなくなったんだな」
「そうかもしれん」
局長は、湯呑みを、ずず、とすすった。
「切るということは、憎むということではない。ただ、遠くへ、置くということだ。そして、遠くに置いた相手にも、道ですれ違えば、会釈くらいは、できる」
久保田は、しばらく、渦を見ていた。
やがて、柵の前に、すっと一歩、進み出た。
「専務」
声に出してみると、思いのほか、静かな声だった。
「お達者で」
ゴム紐は、渦の中で、ぴくりと動いた。
それから、ふにゃり、と、力が抜けた。
どす黒かった色が、すうっと、薄い灰色になっていく。紐は、渦の流れに、すっかり身を任せて、ゆっくり、ゆっくり、円を描いた。それは、まるで、何十年ぶりに、ゆっくりと息をついた人のように見えた。


第九章 通電
翌朝、久保田は、自宅の布団の中で目を覚ました。
枕元には、赤い削除印が転がっており、その隣で、カイランが、湯呑みの蓋に正座していた。
「おはようございます。後半戦の、開始時刻でございます」
久保田は、体を起こそうとして、気づいた。まだ、三センチほど、浮いている。布団と背中のあいだに、薄い空気の層がある。
「戸田様の通電が済むまでは、そのままでございます」
久保田は、朝食のトーストを、浮いたまま食べた。悦子は、台所から、ちらちらと久保田を見ていたが、何も言わなかった。長年連れ添った夫婦というのは、夫が三センチ浮いていても、ひとまず、見なかったことにするのである。
「ちょっと、出かけてくる」
「あら。どこへ」
「戸田のところへ」
悦子は、味噌汁の鍋を、おたまでかきまぜながら、少し手を止めた。
「戸田さん。久しぶりね」
「ああ」
「お土産は、いらないの」
「…いるな」
「冷蔵庫に、羊羹があるわ。持っていきなさい」
久保田は、羊羹を、紙袋に入れて、家を出た。
電車に乗ると、浮いているおかげで、吊り革をつかむ必要がなかった。ただ、停車のたびに、体が慣性で、ふわりと前へ流れるので、久保田は、車両の端から端まで、ゆっくりと往復する羽目になった。乗客たちは、誰も、気にしなかった。人間は、他人の空中浮遊にも、案外、寛容である。
戸田の家は、隣の県の、海沿いの小さな町にあった。年賀状の住所は、毎年、見ている。だが、実際に訪ねるのは、初めてだった。
古い、二階建ての家だった。玄関の横に、〈将棋 ご自由にどうぞ〉と、墨で書かれた板が掛かっている。
久保田は、呼び鈴を押そうとして、手が止まった。
十一年ぶりである。
「大丈夫でございます」
肩の上で、カイランが、ささやいた。
「通電とは、何かを、お話しになることではございません。ただ、同じ空気を吸って、電気の通り道をつくることです」
久保田は、呼び鈴を押した。
ぴんぽーん。
しばらくして、玄関の引き戸が、がらがらと開いた。
白髪の、ずんぐりした男が、立っていた。右の頬の、あの、野球部のときにできた古傷が、まだ、うっすら残っていた。
男は、久保田の姿を見て、一度、まばたきをした。
それから、久保田の足元を見て、もう一度、まばたきをした。
「…お前、浮いてるな」
「…ああ」
「やっぱり、お前もか」
「お前も」
戸田は、無言で、自分の足元を指さした。
戸田も、浮いていた。四センチほど。久保田より、少し高い。
玄関の奥から、小さな、黄色い生き物が、ひょこっと顔を出した。手には、団地の自治会で使うような、ぼろぼろの回覧板を持っている。
「あっ、先輩」
「おや、サブロー君」
カイランと、黄色い生き物は、互いに会釈した。
「同じ区画の担当でして。こうして通電のタイミングが重なるのも、何かの縁ですな」
「お互い、様ですな」
こうして、二人の老人は、それぞれの係を肩に乗せたまま、玄関の三和土で、向かい合った。
「お前も、削除したのか」
「ああ。一週間かけて」
「何本、残った」
「十七」
「俺は、二十二だ」
戸田は、少し、悔しそうに言った。
「勝ったと思うなよ」
「勝負じゃないだろう」
「中学のときから、お前に勝ったことがないんだ」
二人は、同時に、ふっと、笑った。
家の中に上がり、居間の将棋盤を挟んで、座った。座ったと言っても、二人とも浮いているので、座布団の上、数センチの空中である。
駒を並べ、指しはじめる。
最初のうちは、ほとんど、会話がなかった。ぱち、ぱち、と駒音だけが響く。十一年ぶりの対局は、十一年分、下手くそだった。お互い、「ああ、そこ、待ってくれ」「待たん」と、中学の頃と同じことを言った。
二局目が終わるころ、戸田が、台所から缶コーヒーを二本持ってきた。ぬるかった。「冷蔵庫、壊れててな」と戸田は言った。「三年前から」。久保田は、三年も壊れた冷蔵庫と暮らす友人を、ある意味、うらやましく思った。ぬるい缶コーヒーは、思ったよりも、うまかった。
「覚えてるか。三年の夏の、最後の試合」
「ああ」
「九回裏、二死満塁。お前が、代走で出た」
「出たな」
「一塁から、ホームまで走ってきて」
「滑り込んだ」
「ベースの、三メートル手前でな」
「言うな」
「あれ、今でも、夢に見る」
「俺は、見ない。見ないようにしてる」
戸田は、肩を震わせて、笑った。笑いすぎて、缶コーヒーをこぼした。
笑いがおさまると、部屋の中は、急に、静かになった。海の音が、遠くから、聞こえた。
三局目の途中で、戸田が、ぽつりと言った。
「実はな」
「うん」
「お前の紐だけは、最後まで、残してたんだ」
久保田は、飛車を持つ手を、止めた。
「…俺もだ」
「お前の紐は、細かった。髪の毛ほどでな。切るのは、簡単だった。親指で、ひと押しすれば、終わりだった」
「俺も、そう思った」
「でも、できなかった」
「俺もだ」
二人は、しばらく、黙った。
それから、戸田が、盤の横から、赤い削除印を、取り出した。久保田も、ポケットから、同じものを、取り出した。二つの印は、並べてみると、まるで双子のように、そっくりだった。
「これ、どうする」
「返却だろう」
「今すぐ?」
「…いや。もう少し、持ってよう」
久保田が言うと、戸田は、少し、笑った。
「そうだな。まだ、八局しか、指してない」
そのとき、二人の足元で、ふわっ、と、何かが動いた。
久保田が、気づくと、体が、ゆっくりと、座布団に降りていた。三センチあった空気の層が、すうっと薄くなり、尻の下に、座布団のやわらかさが、戻ってきた。
戸田も、同じように、降りていた。
「…降りたな」
「降りたな」
二人は、そろって、足元を見た。それから、ふと、同時に、顔を上げた。
見えない紐が、二人の間に、確かに、通っていた。縁見メガネを、かけていないのに、わかった。灰色だった髪の毛ほどの紐は、いつの間にか、中学の頃の、部活のユニフォームのような、くすんだ、しかし、しっかりとした、赤茶色に、変わっていた。
親指ほどの太さである。
「あれ、俺たちの縁、こんなに太かったか」
「元から、こうだったんだよ。お前が、見てなかっただけだ」
戸田は、さらりと言って、歩を、ぱち、と、打った。
「王手」
「…待った」
「待たん」


第十章 ご同輩へ
その夜、久保田が家に戻ると、居間の座卓の上に、カイランが、背筋を伸ばして、立っていた。
正面には、小さな風呂敷包みが、置いてある。
「お帰りなさいませ、久保田様」
「その包みは」
「私の、荷物でございます」
カイランは、少し照れたように、目をそらした。
「実は、本日付で、定年退職となりまして」
「定年」
「宇宙の暦で、満期でございます。久保田様の案件が、私の、最後の担当でございました」
久保田は、座卓の前に、座りこんだ。
一週間、この小さな、緑の、回覧板を背負った生き物と、一緒に、夜を過ごしてきた。たった一週間だが、何ヶ月かの、会社の飲み会よりも、よっぽど、長く感じられた。
「寂しくなるな」
「そう言っていただけると、光栄です」
「退職したら、どうするんだ」
「故郷の草原で、昔の回覧板を、読み返して過ごします。我々の種族は、六十歳を過ぎると、草原に帰って、日向ぼっこをしながら、それを読むのです」
「いい老後だな」
「ご同輩の、皆様と、同じでございます」
カイランは、そう言って、背中の回覧板を、そっと、下ろした。
「これを、久保田様に、お預けしたいのですが」
「いや、それは、あんたの」
「いえ。回覧板というのは、本来、順番に、回すものでございます」
カイランは、回覧板を、久保田の前に、押し出した。
一ページ目には、あの、整った文字で、削除の順序が書かれている。めくっていくと、最後のページに、空白があった。
そこに、一行だけ、薄く、罫線が引かれている。
「次の方への、ひとことを、お書きになるのです」
久保田は、胸ポケットから、ボールペンを取り出した。三十八年間、稟議書の端に、小さな添え書きを、書いてきた、あのボールペンである。
しばらく、考えた。
「…これでいいか」
「拝見いたします」
カイランは、背伸びをして、回覧板を覗きこんだ。そして、少し、目を細めて、うなずいた。
「たいへん、結構かと」
久保田が書いたのは、こうだった。
〈削除は、軽くなるためにする。通電は、重くなるためにする。両方、やりなさい〉
「当局の、標語にしたいくらいです」
「著作権は、取らんから、使ってくれ」
久保田は、回覧板を閉じて、カイランに返そうとして、手を止めた。
「…これは、誰に、回すんだ」
「お好きな方に」
久保田は、考えた。
それから、スマートフォンを取り出して、画面を開いた。連絡先は、十七件になっている。その中には、田村がいる。ジムの山本さんがいる。豆腐屋の大将がいる。孫の陽菜がいる。
そして、一番上には、戸田がいた。
「明日、戸田に、持っていく」
「承知いたしました」
「あいつに、先に書かせてやる。それで、そのあと、田村に回す」
「田村様は、お若うございます」
「若いやつにこそ、早いうちに、回しておくんだ」
久保田は、回覧板を、座卓の上に、置いた。
カイランは、風呂敷包みを、背中に、くくりつけた。それから、玄関のほうへ、ひょこひょこと、歩きだした。
「それでは、久保田様。お世話になりました」
「いや、こちらこそ」
「お体、お大事に。浮くような削除は、もう、なさいませんように」
「わかった」
カイランは、玄関の前で、くるりと、振り返った。
豆粒のような目が、少し、潤んでいるように見えた。
「ご同輩」
「…ああ」
「ご同輩」
そう、もう一度、言ってから、カイランは、小さく、手を振った。次の瞬間、玄関の隙間から、ふわりと、夜の風が吹き込んだ。気づくと、カイランは、もう、いなかった。
久保田は、しばらく、玄関に、立っていた。
台所から、悦子の声がした。
「あなた。お風呂、沸いてるわよ」
「ああ。今、行く」
「誰か、来てたの?」
「いや」
久保田は、少し、考えた。
「役所の人が、退職の挨拶に、来ただけだ」
「あら、ごくろうさま」
悦子は、それ以上は、何も聞かなかった。
風呂に入り、湯船に、肩まで、つかった。浮かない。ちゃんと、湯の重みを、感じる。久保田は、天井を見上げて、深く、息を吐いた。
人は、一生のあいだに、何人と、出会うのだろう。
そのうち、何人と、友達になるのだろう。
六百十二から、十七になった。いや、戸田の分と、さらに数名が通電を再開したので、近いうちに、二十人ほどには、戻るかもしれない。だが、それで、ちょうどいい。
残りの持ち時間は、それだけで、いいのだ。
久保田は、湯を、両手ですくって、顔を洗った。
眉間の皺が、また、ひとつ、薄くなっている気がした。
風呂から上がり、居間に戻ると、悦子が、お茶を淹れて待っていた。
「ねえ、あなた。今年の年賀状、何枚書くの」
「十七枚」
「あら、ずいぶん少ないのね。去年は、二百枚近く書いてたのに」
「ちょうどいい」
「そう」
悦子は、湯呑みに口をつけて、しばらく、黙っていた。それから、さらりと言った。
「私はね、十二枚にしたの」
「え」
「去年の秋。夢に、黄色い丸いのが出てきてね。回覧板を背負って」
久保田は、飲みかけたお茶を、危うく、吹き出すところだった。
「…お前も、やったのか」
「六十になったときにね。あなたより、ちょうど三年早く」
悦子は、くすくす笑った。
「あなたの紐だけは、どうしても、切れなかったのよ。太すぎて、印が、届かなくて」
「ゴム状か」
「いいえ。ただ、太かったの」
久保田は、返事ができなかった。湯呑みの中の茶柱を、じっと見つめた。茶柱は、まっすぐ、立っていた。
悦子は、それ以上、何も言わなかった。お茶を飲み干して、「おやすみなさい」と寝室へ向かった。その背中に、久保田は、小さな声で言った。
「通電、してなかったな。最近」
「あら、毎日、してるわよ」
悦子は、振り返らずに答えた。
「朝のトースト、焼いてるじゃない」
久保田は、座卓に残された湯呑みを見ながら、しばらく、動けなかった。それから、座卓の上の回覧板に目をやると、それは、ほんのり、金色に光っていた。
久保田は、それを、そっと、手に取った。
表紙の裏に、小さな文字で、カイランの、最後の書き込みが、あった。
〈次の方へ。軽く、なりました。——ご同輩〉
久保田は、ふっと、笑った。
窓の外では、夜の街が、静かに、息をしていた。どこかの家の窓が、ぽつぽつと、灯っている。その一つ一つの下に、見えない紐が、無数に、張りめぐらされている。
そんなことだよ。
久保田は、誰にともなく、そう、つぶやいた。
「そんなことだよ、ご同輩」

ー了ー



〜あとがき〜
書き終えてから気づきましたが、この話は「捨てる話」に見えて、「残す話」でした。
六十を過ぎてから、人付き合いの量が質に変わる感覚があります。若い頃は数が錘でした。数があれば立っていられた。いまは逆で、数があると浮いてしまう。地面に立たせてくれるのは、こちらのトーストを覚えていてくれる豆腐屋の大将や、冷蔵庫が三年壊れたままの友人のような、数本の、少し太い紐です。
カイランという名前は安直だと作中で言わせましたが、回覧という仕事は安直ではありません。回す、という行為は、次を信じることです。私もこの回覧板を、次に回してみようと思います。もしあなたのところに、少し焦げたトーストの匂いがする回覧板が回ってきたら、それは多分、私からです。
最後までお付き合いいただいたご同輩に、感謝を。

Amazon Kindle

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〜原詩〜
人は一生の間に
何人と出会うのでしょう
そして
何人と友達になるのでしょう
知り合いは
きっと多く出来ても
友達ともなると
そんなに多くはないはずで
ましてや
マブダチなんて
ほんの数人で
その他は皆
時間と共に
遠くなってしまう
還暦をも越すと
また
リタイアでもすると
周りにいた多くの知り合いも
もうそんなに必要なくなって
まずは
仕事絡みから削除してみる
次は
わずかでもストレスとなる連中も
バッサリ削除し
その残りから
こちらを向いて
微笑んでいる方々だけを残す
すると
大事な友達は
さほど多くないと気づいて
もう
残りの持ち時間は
それだけで良いと
軽くなる
そんなことだよ
ご同輩


〜紹介文〜
六十三歳、定年三か月。スマホの連絡先は六百十二件。
でも夜中に「ちょっと聞いてくれ」と言える相手は、一人しかいなかった。
ある夜、枕元に現れたのは、回覧板を背負った十五センチの役人・カイラン。
「六十歳を過ぎると、縁の棚卸しが始まります」
渡されたのは、縁が見えるメガネと、押せば縁が切れる赤い削除印。
基準は三つ。
一、仕事絡みから。
二、わずかでもストレスになるものから。
三、残りから、こちらを向いて微笑んでいる人だけを残す。
名刺は蝶になり、金メッキの自慢話は金粉になって昇り、長年こびりついたゴムのような縁は、夜空へ飛んでいく。
軽くなるのは気持ちがいい。だが軽くなりすぎると、人は少しだけ浮いてしまう。
削除と通電。どちらもやらなければ、人は立てない。
ご同輩へ贈る、役所ファンタジー。