神様の使い、ただいま満席につき
――神様不足と、足るを知る人間の話――


まえがき
神様というのは、忙しいらしい。
困れば助けを求められ、叶わなければ責められ、何か起これば、なぜ見ていなかったのかと叱られる。
しかも近頃は、願いの内容まで欲張りになった。
健康でいたい。
家族が無事でいてほしい。
明日も、いつもどおり暮らせますように。
そんな願いの隣で、もっと稼ぎたい、もっと有名になりたい、もっと幸せになりたい、という願いが、際限なく膨らんでいる。
神様だって、たまには休みたくなるだろう。
もしも神様が、実は宇宙規模の保守係で、全国の神社に配属された小さな技術者だったとしたら。
もしも神様が不足して、神社が満席になり、とうとう人間のほうに助けを求めてきたとしたら。
そんな馬鹿げた想像から、この物語は始まる。
主人公は、六十一歳の元水道メーター検針員、久保田誠。
特技は、毎日同じ道を歩き、数字を正確に読み取ること。
神社で願うことは、いつも三つだけ。
健康。
安全。
安定。
それ以上は、あまり望まない。
そんな男が、神様不足という宇宙規模の大問題に巻き込まれる。
けれど本当に足りなくなっているのは、神様の数なのだろうか。
それとも、自分にとって何が大切かを思い出すための、ほんの少しの時間なのだろうか。
不思議で、滑稽で、少しだけ切ない物語です。
肩の力を抜いて、お読みください。
読み終えたあと、どこかの小さな神社の前を通りかかったら、一度だけ足を止めてみてください。
ひょっとすると、そこは満席かもしれません




第一章 気配
神社には、神様のいるところと、いないところがある。
こんなことを書くと、各方面から叱られそうだ。
けれど、還暦を越えた僕の実感は、どうしてもそうなのである。
立派な朱塗りの鳥居。磨き上げられた石畳。社務所には色とりどりの御守りが並び、絵馬にはアニメの女の子が笑っている。
そういう神社に限って、手を合わせても、うんともすんとも言わない。
広い駐車場で観光バスのドアが開くたび、僕は「展示場だな」と思ってしまう。
もちろん、口には出さない。罰が当たると困るからだ。
僕は久保田誠、六十一歳。
三十七年間、水道メーターの検針員をしていた。
他人様の庭先や路地裏を、毎日毎日歩いてきた。犬のいる家は、門の前に立っただけで分かる。吠える前の、空気の張りつめ方だ。
人の気配も、似たところがある。姿が見えなくても、誰かがいると分かることがある。
そんな仕事を続けていたせいか、「何かがいる」という感覚だけは、人より少しばかり鋭いらしい。
あの十月の午後も、そうだった。
実家へ向かう途中で、僕は道を一本まちがえた。
住宅地の細い路地を抜けると、ブロック塀と自動販売機のあいだに、ひしゃげた小さな鳥居が立っていた。
奥には祠がひとつ。
屋根には苔が生え、賽銭箱は去年の台風で曲がったままらしい。
誰が見ても、ただの小さな神社だ。
それなのに僕は足を止めた。
空気が、ひんやりと濃かったのである。
真夏に冷蔵庫を開けたときの、あの「中に何かいる」感じ。
正確には、冷蔵庫の中にいるのは牛乳とチーズなのだが、そういう理屈ではない。
確かに誰かが、こちらを見ている。
「失礼します」
誰にともなく言って、帽子を取った。
一礼、二拍手、そして一礼。
健康と、安全と、安定を。
いつもの三つを、いつもの順番で。
柏手を打ったちょうどそのとき、頭上の楠から木の葉が一枚、ひらひらと降りてきて、僕の頭のてっぺんにぴたりと着地した。
偶然だ、と思う。
だが次の瞬間、突風がごうっと路地を吹き抜け、ほかの葉っぱは全部あらぬ方向へ飛ばされたのに、僕の頭の葉だけは接着剤でも塗ったように動かなかった。
「……守られているのかな」
勝手にそう思って、嬉しくなった。
同時に「気をつけなさい」と言われた気もして、背筋が伸びた。
人間の勘というものは、いつだって嬉しさと警戒を一緒に連れてくる。
最後に一礼して顔を上げ、僕は習慣でポケットからスマホを出し、祠を撮った。
画面を確かめて、思わず声が出た。
祠の屋根のあたりに、白く丸い光の粒が、三つ、四つ、五つ。
シャボン玉のようにふわふわと映っている。
ゴミでも虫でもレンズの汚れでもなさそうだ。
なぜなら、そのうちの一つが、画面の中で、確かにこちらへお辞儀をしたからである。
「いま、頭を下げたよな」
僕はスマホに話しかけた。
スマホは当然、答えない。
ところが、答えたものがいた。
「ええ、下げました。ご挨拶ですので」
声は足元から聞こえた。
見下ろすと、アスファルトの割れ目のそばに、ピンポン玉ほどの光が浮かんでいる。
小さな鈴を転がしたような、それでいて妙に事務的な声だった。
「久保田さんですよね。久保田誠さん、六十一歳。お待ちしておりました」
僕は、たいていの人が選ぶ行動を選んだ。
深呼吸をして、目をつぶり、五つ数えてから、もう一度目を開けた。
光は、まだいた。
しかも、少し不満そうに明滅していた。
「聞こえてますか」と言いたげな、あの感じで。


第二章 玉響、名刺を出す
「玉響第七分隊、広報兼受付のユラと申します」
光はそう名乗ると、ぽん、と小さな音を立てた。
すると光の中から、切手ほどの紙片がひらりと飛び出して、僕の手のひらに着地した。
名刺だった。
印刷された文字は、見たことのない形をしているのに、なぜか読めた。
――恒星間保守機構 地球駐在部 氏神係 受付 ユラ
「こうせいかん……ほしゅ……」
「長いですよね。この国では『神様の使い』のほうが通りが良いので、普段はそう名乗っております。正確には保守ユニットなのですが」
「ほしゅ、ユニット」
「はい。点検、清掃、案内、苦情の受付。主にその四つです。特に苦情の受付が多くて」
僕は路地のブロック塀に、そっと背中をあずけた。膝が笑いはじめていたからだ。
「あの、僕は疲れているんでしょうか」
「いいえ、至って健康です。血圧がやや高めですが、塩分を控えれば問題ありません」
「どうして知ってるんですか」
「久保田さんは、四十一年間、毎回同じ申請を出していらっしゃいますので」
ユラは、ふわりと僕の目の高さまで上がってきた。
「健康。安全。安定。お賽銭を入れて手を合わせるたび、この三つだけ。他の項目は、一度も」
「申請……というのは、お願いごとのことですか」
「こちらでは申請と呼んでいます。実はですね、この三つは宇宙標準の保守三原則とぴったり同じなんです。つまり久保田さんは、毎回、完璧な書式で提出されている。事務処理がたいへん楽で、しかも一度も差し戻しがない」
「はあ」
「優良申請者として、累計で三万八千四百ポイントが貯まっております」
「ポイント。景品は」
「ございません」
僕は笑ってしまった。
笑ったら、膝の震えが少し止まった。
ユラは続けた。
「ところで久保田さん、昨今は、こうも思っていらっしゃいますよね。『そろそろ本音の、カネも、と願ってみようか』と」
どきりとした。
確かに、今朝の電車で、そんなことを考えた。
「あ、いえ、それは足りるだけあれば」
「存じております。結局お取り下げになりましたよね。ただ、あの一瞬、審査課がざわつきました」
「審査課があるんですか」
「ございます。あの久保田さんがついに、と。皆、お茶をこぼしました」
「……なんだか、すみません」
「いえいえ。人間らしくて、たいへんよろしいと思います」
ユラは、少しだけ声を落とした。
「それで本日は、久保田さんにお願いがあって参りました」
「お願い。神様の使いのほうから、お願い」
「はい。逆なのです。普通は人間のお願いを聞く側なのですが、いま、こちらが少々困っておりまして」
光の粒が、小さくため息をついた。
ため息をつく光というものを、僕は初めて見た。
「神様が、足りません」


第三章 神様は着任するもの
「神様が、足りない」
僕はユラの言葉を、そのまま繰り返した。
繰り返さないと、頭に入っていかなかったのだ。
「少し長くなりますが、順にご説明しましょう。立ち話もなんですので、中へどうぞ」
「中、というのは」
「祠の中です」
祠の観音開きの扉は、錆びて閉じていたはずだった。
ところがユラが「失礼します」と声をかけると、扉は音もなく、すうっと開いた。
そして僕は、覗いた。
中は、満員だった。
親指ほどの小さな人影が、ぎっしりと座っている。
烏帽子の人、巫女装束の人、どう見ても作務衣の人もいる。
六柱、いや七柱か。
肩を寄せ合い、湯呑みを片手に、押しくらまんじゅうのような体勢で、一斉にこちらを見上げた。
「あ、どうも」誰かが言った。
「すんません、狭くて」別の誰かが、座布団を少し詰めてくれた。
「ご覧のとおり、この社は、ただいま満席につき」
ユラは、まるで居酒屋の呼び込みのように言った。
「どういうことですか」
「神様というのは、実は職名なのです」
ユラは祠の屋根にちょこんと止まって、語りはじめた。
一万二千年前。
巨大な保守船が、この星の近くで故障して不時着した。
船の名は、天磐船。
乗組員はおらず、船そのものが管理知性を持っていた。
壊れた船体は大地に溶け、船の知性は数万の欠片に分かれて、日本中の「社」と呼ばれる場所に着任した。
欠片のひとつひとつが、すなわち神様である。
「もっとも、神様と呼んでいただいているだけで、私どもは本当は単なる保守係です。地面の揺れを均したり、水の流れを整えたり、悪い気の溜まりを掃除したり。あ、悪い気というのは、技術的には電磁的な淀みのことですが」
「では、さっきの気配は」
「ひんやりとした感じでしょう。あれは、着任中の保守係が作業しているときに出る排熱です」
「排熱」
「はい。冷蔵庫の裏側みたいなものです」
僕は、自分で思い浮かべた冷蔵庫の比喩が、そのまま正解だったことに、少し複雑な気持ちになった。
「じゃあ、立派な神社に何も感じないのは」
「着任者がいないのです」
ユラはきっぱりと言った。
「立派な社殿は、予算がございますから、毎年きれいになります。でも、神様、いえ保守係は、あれが苦手でして。大音量のスピーカー、行列、写真撮影の順番待ち、そしてお祭り騒ぎ。満員電車の中で瞑想してくださいと言われるようなものです」
「それは、たしかに落ち着かないでしょうね」
「静かで、苔があって、水が近くて、風通しが良い。そういう場所に、皆、集まってしまうのです」
「それで、こんなに狭い祠に」
「ええ。人気の物件は、いつも満席です」
祠の中の誰かが、「そうそう」と言って、お茶をすすった。
「では、足りないというのは」
「人手です。この国に、社は数十万。保守係は、その十分の一もおりません。そこへ最近、新しい問題が出てきました」
「新しい問題」
「ええ。久保田さんには、それを見ていただきたいのです。ただし」
ユラは、少し言いよどんだ。
「その前に、ひとつだけ、先にお伝えしておきたいことがあります」
「なんでしょう」
「私たち玉響の人員は、実は地元調達なのです」
「地元調達」
「はい。詳しくは、また後ほど。ここでは、お茶でも飲みながら」
祠の中から、湯呑みが一つ、そっと差し出された。
親指ほどの大きさの湯呑みに、ほんの一滴だけ、緑色のお茶が入っていた。
僕は、その一滴を、両手で恭しく受け取った。
不思議なことに、香りだけは、普通のお茶の何倍も濃かった。


第四章 鳳凰、迷子になる
翌朝、僕は実家近くの氏神神社へ向かった。
久保田家が代々お世話になっている、石段の長い小さな社だ。
ユラは僕のスマホケースの隙間にもぐり込み、「お邪魔します」と言ったきり、時々ぽわっと光るだけの存在になった。
杉の木立に入ると、空気がすっと変わった。
昨日の路地の祠より、さらに濃い。
本殿の格子の向こうでは、玉響たちがきらきらと輝いていた。
数えきれないほどの光の粒が、棚のあいだをふわふわ行き来している。
どれも小さな帳面のようなものを抱えているように見えた。
「棚卸しです」
ケースの中からユラが囁いた。
「毎月二十三日は、御神体の在庫確認の日でして」
「今日は二十四日ですが」
「今月は、少し押しております」
神様の世界にも、月末進行はあるらしい。
僕は賽銭を入れ、二礼二拍手一礼をした。
ユラが小声で解説を添える。
「ちなみに、この所作は認証手順です。一礼目が接続要求、二礼目が確認応答。柏手は、いわゆるピングです。二回打つのは、一回だと風の音と間違えるので」
「そんな理由で」
「最後の一礼で、通信を切ります。切り忘れる方が時々いらして、一晩じゅう回線がつながったままになります」
聞かなければよかった。
次から、柏手のたびに回線のことを考えてしまいそうだ。
そのとき、頭上の空が暗くなった。
見上げると、杉の梢のはるか上を、巨大な鳥が旋回していた。
鳳凰だった。
七色の尾羽が朝日を弾いて、空に長い虹の帯を引いている。
翼の幅は、軽自動車を二台並べたくらいはあるだろうか。
僕は口をぽかんと開けたまま、動けなくなった。
鳳凰は、ゆっくりと高度を下げた。
境内に降り立つのだ、と思った。
荘厳な瞬間だ、と思った。
一度目、鳳凰は鳥居の笠木に降りようとして、五十センチ手前で外した。
二度目は、手水舎の屋根に降りようとして、柄杓を二本はね飛ばした。
三度目で、ようやく石畳に着地した。
いや、着地というより、ばさっと不時着した。
杉の葉が雪のように舞い散り、僕の頭にも、また一枚ぴたりと乗った。
羽をばたつかせて起き上がった鳳凰は、咳払いをひとつして、重々しく言った。
「我は、広域巡回機『鳳』である」
低い、よく通る、しかし少し疲れた声だった。
「久保田誠とは、そなたか」
「あ、はい」
「うむ。ところで、ここは、いずこであるか」
「氏神神社です」
「うむ。うむ。……コンビニではないのか」
「違います」
「地図には、コンビニと記載がある」
「それは、隣町の神社の、ちょうど向かいにある店では」
鳳は、しばらく黙っていた。
それから、ふっと遠い目をした。
「また間違えたか」
ケースの中でユラが、「ホウさんは、いつもなんです」と、申し訳なさそうに明滅した。
「衛星の規格が、一万二千年前のままでして」
「それで、よく全国を巡回できますね」
「巡回自体は得意なのだ」
鳳は胸を張った。
「降りるのが苦手なだけで」
その後、鳳はためらいがちに、僕のスマホをじっと見つめた。
「そなたの、その板だが」
「スマホですか」
「そのスマホに、我の通信を、つないではもらえぬだろうか」
「……テザリングですか」
「それだ。我の回線は、いまだに三世代前なのだ。山間部に入ると、ぷつりと切れる」
鳳凰が、頭を下げている。
僕は、その気高い鳥から、パケット代の話を切り出される日が来るとは思ってもみなかった。
「いいですけど、料金は」
「経費で落とす」
「どこの経費ですか」
「……天の経費だ」
それ以上は、聞かないことにした。
鳳は、ひとしきりテザリングの設定に苦労したあと、ようやく真顔に戻って言った。
「本題に入る。昨夜、隣の県の社で、離任が出た」
「離任」
「神が、持ち場を去ったのだ」
杉の木立が、ざわ、と鳴った。
ユラが、ケースの中でぎゅっと縮んだ。
「いよいよ、ですか」
鳳はうなずいた。
「願いの処理が、限界に近づいている」
「願いの処理」
「そうだ。人間が神に頼みごとをするたび、こちらには申請が届く。願いを受け取り、整理し、可能な範囲で環境を整える。だが、いまは申請の数が多すぎる」
「願いを叶えるのも、大変なんですね」
「叶えるという言葉は正確ではない。できるのは、せいぜい風を少し変え、水の流れを整え、人が立ち止まる機会を作る程度だ。人間自身が歩かなければ、願いは動かぬ」
鳳は、長い尾羽を畳んだ。
「それでも、人間は、すべてを我らに任せようとする」
その声には、少しだけ疲れが混じっていた。
「まずは、離任した神に会いに行く。そなたにも来てもらいたい」
「僕がですか」
「そなたの願いが、鍵になるかもしれぬ」
鳳はそう言って、再び空を見上げた。
「今度こそ、間違えずに飛びたいものだ」
その言葉だけは、神々しいというより、切実だった。


第五章 アニメ神社の夜逃げ
隣の県の大きな駅から、タクシーで二十分。
そこに、その神社はあった。
その名も「天翔神社」。
数年前に、あるテレビアニメ『ほしのみこミコ!』の舞台のモデルになってから、全国から参拝客が押し寄せているのだという。
僕が着いたのは夕暮れだったが、境内はすでにすごい人だった。
行列は鳥居の外まで伸び、ライトアップされた参道の両脇には、等身大パネルがずらりと並んでいる。
社務所の隣には「公式グッズ売場」。
限定の御守り、限定の絵馬、限定のガチャ。
拝殿のスピーカーからは、アニメの主題歌が繰り返し流れていた。
「祝詞ボイス、六百円です」
スタッフの青年が、にこやかに僕へチラシを差し出した。
僕は反射的に受け取ってしまった。
行列の人たちは、みな熱心に手を合わせていた。
パン、パン、と柏手が響く。
その音を聞いて、僕はぞっとした。
返事が、ないのだ。
彼らの柏手は、ピングを打っても、相手が応答しない。
誰もいない部屋に向かって、何度も呼び鈴を押しているようなものだった。
「完全に空き家です」
ユラがケースの中から低く言った。
「神様が着任なさっていた頃は、参道に入った瞬間、空気が変わったものですが」
「その神様は」
「本殿の裏です。ホウさんの調べでは、まだ、いらっしゃるようで。急ぎましょう」
僕らは行列の流れに逆らって、社務所の裏手へ回った。
『関係者以外立入禁止』と書かれた札の前で、ユラが小さく光った。
すると札は、ことん、と地面に倒れた。
「いいんですか」
「札のほうが、勝手に倒れたのです」
本殿の裏には、使われなくなった賽銭箱や、アニメのポスターの丸まった束が、無造作に積まれていた。
その奥、ブルーシートの陰から、かさこそと何かの音がする。
近づくと、小さなみかん箱ほどの段ボールがあって、その中に、親指ほどの小さな人影が、せっせと荷物を詰め込んでいた。
烏帽子の下の顔は、驚くほど皺だらけだった。
手には湯呑みと、風呂敷包み。
「……あの」
僕が声をかけると、小さな人影は、ぎくり、と動きを止めた。
「見つかってしもうた」
「スクナさん、スクナさんですよね」
ユラが飛び出した。
「統括から、捜索願が出ております。持ち場を離れるなら、せめて離任届を」
「届けは出した。毎日出した。受理されんだけじゃ」
スクナさんは、風呂敷を抱きしめた。
「ワシはな、もう限界なんじゃ」
小さな神様は、ぽつり、ぽつりと語った。
朝は六時から主題歌。
昼は握手会ならぬ、拍手会。
夜は花火とドローンショー。
静かな時間は、ひとときもない。
祝詞は、もう半年、誰も上げてくれていない。
みな、願いは言うのに、挨拶がないのだと。
「最近の願い事は、ひどいもんじゃ」
スクナさんは、疲れたように目をこすった。
「彼女がほしい、で済めばよいのに。もっと、もっと、もっとじゃ。ひとつ叶えたら、そのすぐ上に、次の願いが生える。際限がない」
「際限がない」
「そうじゃ。そういう願いは、わしらの処理では追いつかんのじゃ」
そのとき、頭上からヴーンという低い音がして、強い光が僕らを照らした。
小型のドローンだった。
胴体には、赤いリボンと『天翔神社公式』のロゴ。
拝殿の警備と、グッズの在庫管理を兼ねているらしい。
「お客様。こちらはバックヤードです。お賽銭を、お納めください」
機械の声は、あくまで丁寧だった。
「お賽銭を。お賽銭を。お賽銭を」
繰り返すたびに、ドローンはじりじりとこちらに近づいてくる。
「いかん、逃げるぞ」
スクナさんが叫んだ。
「久保田さん、鞄を」
ユラが言った。
僕はリュックのファスナーを全開にした。
スクナさんは段ボールごと、ぴょんと飛び込んだ。
僕は走った。
還暦を越えた膝の限界を、このとき初めて知った。
後ろからドローンが、ヴーンと追ってくる。
「お賽銭を。お賽銭を。お賽銭を」
石段の下で、僕はポケットの小銭を手当たり次第、後ろへ投げた。
五円玉が、ちゃりん、ちゃりんと闇に転がる。
ドローンは、一瞬、止まった。
「ご縁を、ありがとうございます」
その隙に、僕らはタクシー乗り場へ飛び込んだ。
タクシーの運転手は、リュックの中から聞こえる小さな怒鳴り声を気にしなかった。
「神社帰りですか」
「まあ、そんなところです」
「最近、あそこは人が多いですねえ」
運転手は、バックミラー越しに笑った。
「神様も、大変でしょうな」
僕は、返事ができなかった。


第六章 スクナさん、居候
築四十年の我が家は、駅から歩いて十五分のところにある。
夜遅くに帰り着いた僕は、リュックをちゃぶ台の上に置いた。
ジッパーを開けると、スクナさんが箱ごとよろよろと這い出してきた。
「ふう。助かったわい」
居間の電気に照らされて、小さな神様は、まぶしそうに目を細めた。
「ええ家じゃの」
「ただの古い家です」
「いや、静かじゃ。静けさが、よう染み込んどる」
スクナさんは、座布団がわりのティッシュの上にぺたんと座ると、僕の湯呑みのお茶に目をつけた。
僕は急須から小皿に一滴だけ、お茶を取り分けてやった。
「うむ。うむ」
スクナさんは目を閉じて、味わった。
「これじゃ。これなんじゃ」
それから、スクナさんは台所を一周した。
冷蔵庫の上を気に入って、「ここが良い」と、風呂敷包みをどさりと置いた。
窓際で、ちょうど夕方の光がたまり、風が抜け、そして冷蔵庫のモーターが、ほどよく温かいのだという。
こうして、我が家に神様が着任した。
着任初日の夜、スクナさんは味噌汁椀を風呂にした。
僕の晩酌のお猪口は、ちょうど良い湯呑みになった。
僕がいつも読み捨てている新聞のチラシは、布団の敷き紙になった。
「神様って、ずいぶんと質素なんですね」
「必要なものは、そう多くない。人間も、そうじゃろう」
そう言って、スクナさんは湯呑みの縁に腰かけた。
ふと、視線を感じて、僕は居間の隅の仏壇を見た。
妻の遺影が、いつもの笑顔でこちらを見ている。
十年前に病気で逝った、和子だ。
その遺影の前に、小さな白い光が、ふわふわと浮かんでいた。
あれ、と思って目をこらすと、光はすっと仏壇の陰に隠れた。
まるで、見られたくないものを、うっかり見られたときの人のように。
「ユラさん」
「はい」
「いま、あそこに」
ユラは仏壇のほうを見て、ぼうっと明滅した。
「あ、あれは、その……後ほど、ご説明いたします」
「後ほどが、多いですね」
「申し訳ございません。段取りがございまして」
役所のようだ、と思った。
夜が更けると、冷蔵庫の上からスクナさんの声が降ってきた。
「久保田どの」
「はい」
「ワシは、離任したのではない。避難したのじゃ。どうか、それだけは、わかってほしい」
「はい」
「いま、この国では、願いの処理がパンク寸前なのじゃ。願う者は増え、願いは膨らみ、保守係は減る一方。放っておけば、いずれ全国の社が止まる」
「止まると、どうなるんですか」
スクナさんは、しばらく考え込んだ。
「そうじゃなあ。まず、水が濁る。次に、風が荒れる。最後は、人がひどく疲れる」
それは、神様の仕事というより、この社会の話みたいだった。
「どうすれば、止まらずに済みますか」
「それを、久保田どの、あんたに聞いてもらいたかったのじゃ」
僕は、暗い天井を見上げた。
冷蔵庫のモーターが、ぶうん、と眠そうに唸った。
「僕は、水道メーターを読んでいただけの人間ですよ」
「よう、知っとる」
スクナさんは、くすりと笑った。
「毎日、同じ道を歩いて、数字を一つずつ正しく読む。そういう者の願いは、よう届くんじゃ」
遠くの電車の音が、夜の底を通りすぎていった。
僕は、仏壇のほうをもう一度見た。
和子の遺影は、いつもと変わらず笑っていた。
ただ、その夜は、少しだけ近くに感じられた。


第七章 願いのバグ
翌朝、台所に立つと、冷蔵庫の上でスクナさんが体操をしていた。
味噌汁の湯気を浴びながら、小さな腕をぐるぐると回している。
「朝の巡回じゃ」
「体操に見えますが」
「巡回じゃ」
そのとき、窓の外から、ものすごい勢いで光の粒が飛び込んできた。
ユラだった。
いつもの事務的な声が、今朝はうわずっている。
「久保田さん、大変です。全国の願い処理キューが、本日未明、限界を超えました」
「きゅー」
「順番待ちの列のことです。処理待ちの願いが三千万件を超えました」
僕は、味噌汁を吹きそうになった。
「三千万」
「はい。しかも、いまも増え続けています。統括をお呼びしますので、少々お待ちください」
ユラが何かを唱えると、冷蔵庫のモーターが、ぶううううん、と野太く唸った。
庫内灯が、ひとりでに、ぱっと点いた。
「こちら、統括である」
声は、冷蔵庫の中から聞こえた。
「冷蔵庫に出るな、と言うておるじゃろう」
スクナさんが天板の上から怒鳴った。
「通信状態が、いちばん良いのだ」
統括は悪びれない。
僕はひそかに、牛乳の賞味期限を確認した。
統括の説明は、こうだった。
本来、人間の願いというものは、数が決まっている。
健康、安全、安定。
多少の枝分かれはあっても、結局はこの三つに集約される。
保守の側からすれば、それは閉じた箱のようなもので、処理しきれないということは起こらない。
「ところが、この五十年ほどで、新しい型の願いが増えた」
冷蔵庫の声は、ため息まじりだった。
「いわゆる、『もっと型』である」
「もっと」
「もっと稼ぎたい。もっと有名になりたい。もっと当たりたい。もっと、もっと。叶えたその瞬間に、次の『もっと』が生えてくる。しかも、これは終わりの条件を持たぬ」
「終わりの条件」
「ループなのだ。人間の言葉で言えば、堂々めぐりである。我々は、ひとつ叶えるたびに次の申請を受け付けねばならぬ。その繰り返しが、いまや全国の社で、同時に何億回も走っている」
僕は、検針のことを思い出した。
一軒で水漏れがあると、メーターは止まらず回り続ける。どこかで栓を閉めない限り、数字は増え続けるのだ。
「……水漏れのようなものですか」
「的確である。止まらぬのだ」
ユラが、ぽつりと補足した。
「バグ、と呼んでおります」
「バグ」
「はい。仕様書に想定がないのです。『もっと』には、終わりが書かれておりません」
神様の仕様書に、人間の欲の終わりが書かれていないのは、考えてみれば当然のような気もした。
人間自身にも、終わりがわからないのだから。
「では、どうすれば」
「それが、久保田どの、あんたの出番じゃ」
スクナさんが、天板の縁から身を乗り出した。
「あんたの願いには、終わりがついとる」
「僕の」
「『足りるだけあれば良い』じゃ」
冷蔵庫の中の統括が、重々しく言った。
「我々の仕様書には、『足る』という概念が存在しなかった。あれは、人間が自ら生み出した発明品であった。ところが、四十一年間、あんたの願いだけが、すべて正常終了で処理されておる。こんなことは、全国でも数えるほどしかない」
僕は思わず聞き返した。
「四十一年?」
ユラが尋ねた。
「いや。もっと前からです。若い頃、父に連れられてから、何となくね」
「なるほど。継続申請の期間が、さらに長くなる可能性があります」
「ポイントも増えるんですか」
「増えます」
「景品は」
「ございません」
僕は笑った。
笑ったあと、少しだけ考えた。
「僕の願いなんて、ただ、健康でいたいだけですよ。ありふれた話です」
「そのありふれた話が、いま、いちばん足りないのじゃ」
スクナさんが言った。
冷蔵庫のモーターが、ぶうん、と同意するように鳴った。
「でも、健康も安全も安定も、願ったからといって、必ず叶うものじゃありません」
「そうじゃ。願えばすべてが思いどおりになるなら、わしらはとっくに失業しておる」
スクナさんは、湯呑みを抱え直した。
「願いとは、未来を命令することではない。今日を、どう歩くかを決めることでもある」
その言葉を聞いて、僕は少し黙った。
水道メーターを読んでいた頃、数字はいつも正直だった。
使った水は、使っただけ動く。
節約した家では数字が少なく、庭に水をまく家では数字が増える。
数字は、人間を責めない。
ただ、そこにあるものを示す。
人間の願いも、そうならよいのかもしれない。
「久保田さん」
ユラが言った。
「お願いがあります。全国の社へ、あなたの願いを届けていただきたいのです」
「僕が、全国に」
「はい。『足りるだけあれば良い』という、終わりのある願いを」
僕は窓の外を見た。
秋の空は、よく晴れていた。
「……やってみましょうか」
そのとき、冷蔵庫の中で、統括が小さく咳払いをした。
「なお、成功報酬はポイント三倍である」
「景品は?」
「ございません」
「ですよね」


第八章 ホウさん、全国放送
作戦の決行は、その夜になった。
舞台は、実家近くの氏神神社。
ホウさんが上空で待機し、僕のスマホにテザリングでつながる。
ユラたち玉響の第七分隊が、そこから全国の社へ、僕の願いを配って回る。
聞いただけなら、立派な計画だ。
しかし、出発前に問題が発覚した。
「スマホの充電が、十二パーセントです」
「じゅうに」
ホウさんの声が、少し揺れた。
「全国中継には、およそ三十パーセント要る」
「そんなこと、先に言ってくださいよ」
「言う機会を逃していた」
「鳳凰にも、言い出せないことがあるんですね」
「ある。特に電池残量については、どうにも弱い」
「ワシが入ろう」
スクナさんが、ひょいとポケットから出てきた。
それから、スマホの充電口に、小さな手をぺたりと当てた。
「ほれ」
画面の数字が、ぐんぐん上がった。
十五、二十、三十、五十。
「どうなっているんですか」
「神様の、ささやかな、まごころじゃ」
ちなみに、あとで聞いたところでは、これは神様の備蓄エネルギーを、毎回少しずつ削っているらしい。
スクナさんは、「ワシの寿命は、そのぶん減るが、まあ、しれとる」と笑った。
僕は、そのとき、もう少し丁寧に礼を言うべきだったと思う。
夜の十時。
氏神神社の石段は、静まり返っていた。
杉の梢の向こうに、星が出ている。
上空では、鳳が旋回を始めていた。
七色の尾羽が、夜空に、うっすらと虹を引く。
「玉響第七分隊、散開」
ユラの号令で、本殿の中から、無数の光の粒が一斉に飛び立った。
それは、流れ星の逆回しのように夜空へ昇り、そして北へ、南へ、西へと、日本中へ散っていった。
「久保田さん、お願いします」
僕は賽銭を入れた。
二礼。
そして、二拍手。
緊張のあまり、手が滑って、パンパンパン、と三回打ってしまった。
「三回は、緊急通報です!」
ユラが叫んだ。
上空のホウさんが驚いて、ぐらりと傾く。
「すみません!」
「大丈夫です、取り消します! もう一度、最初から!」
深呼吸をひとつ。
もう一度、二礼。
そして、パン、パン。
今度は、ちゃんと二回だった。
僕は目を閉じて、いつもの三つを、いつものとおりに心の中で唱えた。
健康を。
安全を。
安定を。
そして、少しだけ間を置いて、最後にこう付け足した。
足りるだけあれば、良いです。
一礼。
その瞬間、杉の木立が、ふうっと息を吐いたような気がした。
頭上で、ホウさんがひときわ大きく輝いた。
夜空に七色の光が、傘のように広がった。
光は、ゆっくりと、ゆっくりと、全国へ降りていく。
あとでユラが教えてくれた。
そのとき、日本中で、こんなことが同時に起きたそうである。
宝くじ売場の前の行列が、なぜか三分の二になった。
ゲームのガチャを回していた青年が、ふと指を止めた。
「まあ、今日は、このへんでいいか」
そう思ったのだという。
賽銭箱の前で、長いこと手を合わせていたおじさんが、にっこりして、「十分かもなあ」と呟いて帰っていった。
ある家では、母親が冷蔵庫を開け、食材を見て、夕食の献立を決めた。
「今日は、あるものでいいわね」
その声を聞いた家族が、なぜか全員、ほっとした顔をした。
天翔神社の警備ドローンは、機械の声でこう言った。
「お賽銭は、お気持ちで結構です」
そして、全国の願い処理キューは、三千万件から、みるみる減って、ついに二十件まで落ちた。
「二十件」
僕が呟くと、ユラがうれしそうに明滅した。
「はい。ほとんどが、ペットの健康に関するものです」
「それは、残しておきましょう」
「もちろんです。ペットの願いは、終わりが見えやすいのです。元気でいてほしい、痛くありませんように、今日もご飯を食べてくれますように。人間のように、次から次へと条件を増やしません」
僕は、思わず笑った。
「人間より、よほど立派ですね」
「そのように申し上げると、苦情が増えますので、内緒にしておきます」
石段のてっぺんで、僕はようやく大きく息を吐いた。
膝が、がくがくと笑っていた。
スマホは、残り八パーセントになっていた。
「お疲れさまでした」
ユラが言った。
その声が、いつもより少しだけ、やさしかった。
「久保田さん。後ほどの件を、お話しする時が参りました」
第九章 オーブの正体
石段に腰を下ろした僕の隣に、ユラがふわりと降りてきた。
「玉響の人員は、地元調達だと、申し上げましたね」
「ええ」
「実は、この国で亡くなった方々の、気配なのです」
夜風が、杉の葉を鳴らした。
ユラの説明は、こうだった。
神様は、もともと機械である。
優秀だが、人の心の機微が、どうしても読めない。
そこで保守機構は、ある時代に、ひとつの方法を見つけた。
人が亡くなったあとに残る、あたたかな気配の残り。
それを志願者として募り、保守ユニットに迎え入れる。
気配の核に宿った「ありがとう」の量が多いほど、ユニットはよく働くのだという。
「玉響という名は、そこからです。魂が、しばらく揺れている、という意味で」
「ユラさんも」
「はい。江戸の頃、街道沿いの宿屋で女中をしておりました」
「道理で、受付が上手いわけだ」
「接客は、得意でして」
ユラは、少し照れたように明滅した。
「つまり、ですね。久保田さんが毎日の暮らしの中で見ている、あの浮遊する光の粒たち。あれは、かつて久保田さんが手を合わせてきた、それぞれの社の使いであり、同時に」
ユラは、そこで一度、言葉を切った。
「久保田さんの、ご先祖や、先立ったご友人たちなのです」
僕は何も言えなかった。
足元を、一匹の蛾がひらひらと飛んでいった。
どこかで遠く、犬が吠えた。
「証拠は」
やっと、それだけ言った。
「ご自宅にお戻りになれば、わかります」
ユラは、やさしく言った。
その夜、家に着くと、玄関の電気がひとりでに点いた。
台所では、スクナさんがすでに寝息を立てていた。
居間に入ると、仏壇の前で、小さな光がふたつ、ゆらゆらと揺れていた。
ひとつは、白く、控えめな光だった。
もうひとつは、少しオレンジがかって、そわそわと落ち着きがなかった。
「よう、久保田」
オレンジの光から、声がした。
僕は、危うく玄関の段差で転ぶところだった。
「お前、また道、間違えたな」
それは、紛れもなくヤスの声だった。
ヤスは大学時代からの親友で、五年前に、あっけなく心筋梗塞で逝った。
人のいい男で、よく喋り、よく遅刻し、そしてよく、僕の財布から千円を借りた。
返してもらったことは、一度もない。
「ヤス」
「おう」
「お前、千円、返せ」
「第一声がそれかよ」
ヤスの光は、ぷるぷると笑った。
「まあ、積もる話は、あとにしようぜ。お前、さっき全国中継、やってたろ。見てたぞ。拍手三回のところ、最高だった」
「見てたのか」
「俺、第七分隊の見習いだからさ。ユラさんに、こき使われてるんだわ」
「見習いは、ヤスさんだけです」
ユラが、小声でつっこんだ。
「しかも、よく迷子になります」
「性格は、生きてた頃のままなんだな」
僕は笑った。
笑いながら、鼻の奥がツンとした。
もうひとつの白い光は、仏壇の前から、すうっと台所へ移動した。
そして、窓の前で止まった。
窓ガラスは、夜気でうっすらと曇っていた。
その曇りに、指先で書くように、文字がゆっくりと浮かんだ。
 おつかれさま
僕は、その場に膝から崩れ落ちた。
和子だった。
「声が、小さくなってしまうんです」
ユラが、そっと言った。
「気配の出力が弱くて、声にならないのです。その代わり、こうして、湯気や曇りに文字を」
「木の葉は」
僕は涙で、声がかすれた。
「あの、頭の上に、ぴたりと乗る、あの葉っぱは」
「奥様の合図です。大丈夫よ、という」
僕の頭の上で、そのとき何かがふわりと触れた。
それは、十年ぶりの和子の手の温度に、よく似ていた。
僕は、ずっと寂しかったのだと思う。
妻を亡くした日から、十年。
寂しさは、少しずつ薄れていくものだと思っていた。
実際、毎日は続いた。
朝になれば起き、食事をし、仕事に行き、帰ってくる。
水道メーターの数字を読み、買い物をし、洗濯物を干す。
生きている人間には、やることがある。
やることがあるから、悲しみを忘れる時間もある。
けれど、忘れたわけではなかった。
ただ、思い出しても、返事がなかった。
それが、寂しかった。
「和子……」
声に出したのは、何年ぶりだっただろう。
窓の曇りに、また文字が浮かんだ。
 ちゃんと食べていますか
僕は、笑ってしまった。
「食べてるよ」
しばらく間があって、また文字が浮かんだ。
 薬は飲んでいますか
僕は、仏壇の前の座布団に手をついた。膝が、少しだけ震えていた。
「飲んでる」
 無理をしていませんか
「してないよ」
 ほんとうですか
「……少しは、してるかな」
文字は、しばらく現れなかった。
それから、ゆっくりと、こう浮かんだ。
 ほどほどにね
その瞬間、僕は泣いた。
大声ではなかった。
誰かに聞かせるためでもなかった。
ただ、十年分の返事が、ようやく出てきたような気がした。
冷蔵庫の上から、洟をすする音がした。
目を覚ましたスクナさんだった。
「神様でも、こういうのには弱いんじゃ」
庫内灯が、ぱっと点いて、野太い声がぼそりと言った。
「……統括も、同じく」
夜は長かった。
僕は、お茶を二つ、いや、小皿を加えて四つ、いや五つ淹れ、ヤスと、和子と、ユラと、スクナさんと、冷蔵庫の統括と、朝まで話をした。
話したことは、あまり覚えていない。
ただ、ヤスが千円の話を七回ごまかしたことだけは、よく覚えている。
夜明け前、和子の光は少しずつ薄くなった。
「もう、行くのか」
僕が尋ねると、窓に文字が浮かんだ。
 またね
それだけだった。
けれど、その二文字で十分だった。
僕は、窓に向かって一礼した。
いつもの神社でするのと、同じように。


終章 大吉
年が明けて、元日の朝。
僕は、実家近くの氏神神社の石段を登っていた。
ポケットには五円玉と、使い込んだスマホ。
肩のあたりにはユラ。
そして頭の上には、いつものように、一枚の木の葉がぴたりと乗っている。
冷蔵庫の上のスクナさんは、今朝、「元日くらいは、ゆっくり寝かせてくれ」と言って、味噌汁椀の風呂にとっぷりと浸かっていた。
統括は、庫内灯を二回、チカチカさせた。
たぶん、「行ってらっしゃい」の意味だった。
境内は、思ったよりも静かだった。
初詣の人は、いるにはいるが、みなどこか穏やかな顔をしている。
賽銭箱の前の列は、ゆっくりと進んでいた。
「今年は、まあ、このくらいで」
そんな小さな声が、あちこちから聞こえた。
あの全国中継から、二か月が過ぎていた。
天翔神社には、先月、新しい神様が着任したのだという。
物静かな小さな神様で、まず最初に、境内のスピーカーのボリュームを半分にしたそうだ。
グッズ売場には、いまでも行列ができている。
ただ、その列の人々は、なぜかきちんと拝殿で一礼して帰るようになった、とユラが教えてくれた。
「着任者がいる神社は、行列も静かになります」
「不思議なものですね」
「不思議ではございません。ご挨拶に、返事があるからです」
僕は本殿の前に立った。
鳳が上空を、ゆっくりと旋回している。
今朝は三度目で、きちんと鳥居の笠木に降りた。
進歩だ。
賽銭を入れた。
二礼。
二拍手。
健康を。
安全を。
安定を。
そして、そのとき、ふと心の隅に、あの悪い癖が頭をもたげた。
……あと、本音を言えば、カネも。
その瞬間、本殿の中が、がたがたっ、と揺れた。
「審査課が、また、ざわつきました」
ユラが小声で言った。
「お茶をこぼした者が、三名おります」
「すみません!」
僕はあわてて、心の中で付け足した。
いえ、やっぱり、足りるだけあれば、良いです。
本殿の中が、すうっと静まった。
それから、小さな、ほんの小さな拍手のような音がした。
ぱち、ぱち、ぱち。
三回ではなく、たぶん、もっとたくさんの拍手だった。
一礼して、顔を上げる。
空が、よく晴れていた。
頭上の杉の枝から、また木の葉が一枚、ひらりと落ちてきた。
今度は、僕の肩にぴたりと乗った。
ヤスの、あのお調子者の笑い声が、風の中に聞こえた気がした。
和子の、湯気のような気配が、肩のあたりにふわりと触れた気がした。
社務所で、おみくじを引いた。
大吉だった。
去年も、おととしも、その前も。
引くたびに、なぜか大吉だったが、今年の大吉は、ことさら重みが違った。
紙の端には、こう書いてあった。
 足るを知る者、神に近し。
僕は笑ってしまった。
笑ったら、少し涙が出た。
石段を降りる途中、僕は立ち止まって、スマホを出し、本殿の屋根を撮った。
画面には、白く丸い光の粒が、たくさん映っていた。
数えきれないほどだ。
その中のひとつが、確かに、こちらに向かってぺこりと頭を下げた。
僕も、頭を下げ返した。
世の中には、神様のいる神社と、いない神社がある。
立派な朱塗りの鳥居の前で、何も感じないこともある。
名もない小さな祠の前で、ふいに空気が濃くなることもある。
そして、神様のいない場所にも、誰かの気配が残っていることがある。
台所の湯気に。
夜の窓ガラスに。
ふと頭に触れた木の葉に。
それは、科学では説明できない何かかもしれない。
あるいは、忘れたくない人を思う、僕たち自身の心なのかもしれない。
どちらでも、かまわないと思う。
大切なのは、そこに誰かを思う気持ちがあることだ。
もし、あなたの前にも、そんな場所が現れたら、どうか足を止めてみてほしい。
一礼して、手を合わせてみてほしい。
願い事は、ひとつでもいい。
三つでもいい。
たくさんあっても、かまわない。
ただ、ときどきは、自分に聞いてみてほしい。
いま、本当に必要なものは何だろう。
もう、十分に持っているものは何だろう。
そして、いまも自分を思ってくれている誰かに、ちゃんと「ありがとう」と言えているだろうか。
神様の使いたちは、今日もどこかで働いている。
地面を均し、水の流れを整え、人間の願いを受け付けながら。
ときどき、休憩を取りながら。
ときどき、迷子になりながら。
そして、ときどき、満席の祠で、誰かが空くのを待ちながら。
満席のことも、あるけれど。

ーーおわりーー



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あとがき
神様が足りなくなる。
そんなことがあるものか、と笑われるかもしれません。
けれど、書きながら、ふと思いました。
人間は、昔から神様に、たくさんのお願いをしてきました。
病気が治りますように。
家族が無事でありますように。
仕事がうまくいきますように。
大切な人と、もう一度会えますように。
どれも、切実な願いです。
そして、願いが叶わなかったとき、私たちは悲しみ、悩み、時には神様を恨むことさえあります。
それでも、手を合わせる。
そこには、目に見える結果だけでは測れない、何かがあるのだと思います。
この物語の久保田誠は、特別な人間ではありません。
長年、同じ仕事を続け、妻を亡くし、年齢を重ね、これからの暮らしを考えている、ごく普通の男です。
彼が宇宙規模の問題を解決できたのは、特別な能力があったからではありません。
自分にとって何が必要なのかを、長い時間をかけて知っていたからです。
健康。安全。安定。
そして、足りるだけあれば、良い。
もちろん、もっと豊かになりたいと思うことが、悪いわけではありません。
夢を持つことも、努力することも、新しいものを望むことも、大切です。
ただ、どこまで進んでも、まだ足りないと思い続けるのは、少し疲れます。
時には立ち止まり、いま手元にあるものを数えてみる。
その中に、すでに失ったと思っていたものが、思い出として残っていることに気づくかもしれません。
そして、もうひとつ。
亡くなった人は、どこへ行くのでしょう。
その答えを、私は知りません。
けれど、誰かを思い出すとき、その人の言葉や笑い声が、驚くほど鮮やかによみがえることがあります。
もう会えないはずなのに、ふとした瞬間に、すぐそばにいるように感じることがあります。
それを魂と呼ぶのか、記憶と呼ぶのか、それとも心の働きと呼ぶのか。
名前は違っても、そこに残る温かさまで、なくなるわけではないのでしょう。
久保田の頭に落ちてきた木の葉が、和子の合図だったのかどうか。
それは、最後まで読んでくださった皆さんに、お任せしたいと思います。
さて、神様の使いたちは、今日も忙しいことでしょう。
全国の社を巡回し、願いを受け付け、時にはドローンに追いかけられ、時には冷蔵庫の中から指示を出しているかもしれません。
もし、どこかの小さな神社で、ひんやりとした気配を感じたら。
もしかすると、そこには神様がいるのかもしれません。
ただし、満席の場合もありますので、どうぞご容赦ください。
最後に、読者の皆さんへ。
今日も、どうか健やかに。
どうか安全に。
そして、あなたにとって、足りるだけの幸せがありますように。