ジョンのピアノ
――旧軽 時空奇譚――
まえがき
時間とは、私たちが思うほど頑なな壁ではないのかもしれません。
ふとした音の狂い、古い路地に落ちる午後の光、そして誰かが残したささやかな言葉。それらが重なったとき、時空の隙間に小さな道筋が現れます。
この物語は、旧軽井沢の静寂の中に眠る一つのピアノと、そこに交差した二つの時代の記憶を辿る小さな旅の記録です。耳を澄ませて、調子外れの旋律に心を寄せていただければ幸いです。
序 七九年の夏
七九年の夏、旧軽銀座で、ひとつの付箋に出会った。
付箋、と言っても、文房具のそれではない。土産物屋の裏手の板壁に、薄い和紙の切れ端が、米粒ほどの糊で貼りついていた。端が風にめくれて、墨で小さく、矢印のようなものが書かれていた。
十代の終わりで、金も時間もなく、ただ夏の人混みの中を歩いていた。矢印が指す先には何もなかった。ただ、細い路地の奥に、午後の光が白く落ちているだけだった。
それでも、その路地へ入った。理由は説明できない。喉の渇きのような、あるいは誰かに名前を呼ばれたような、そういう曖昧な力に引かれたのだと思う。
路地を抜けた先で、ある音を聞いた。
ピアノだった。どこかの建物の窓が開いていたのだろう。古い、少し調子の外れたアップライトが、たどたどしく、同じ旋律を繰り返している。
ネコ踏んじゃった。
子供でも弾ける、あの曲だ。だが、その時の僕には、それが不思議なほど遠くから届く音に聞こえた。距離ではなく、時間の遠さだった。何十年、いや、もっと向こうから、薄い糸のように伸びてくる音だった。
その夏、ある男の話を聞いた。異国から来て、この土地を愛し、あのホテルのピアノを好んで弾いたという、背の高い男の話だ。
僕の旅は、そこから始まった。
そして、あの付箋が何だったのかを、四十年以上、考え続けることになる。
一 触れないで下さい
秋の初め、七十を過ぎた身体を引きずって、軽井沢に来た。
新幹線の窓から浅間山が見えると、胸のどこかがほどける。ほどけた分だけ、年を取ったのだと思う。昔は、山を見て胸が締まったものだ。
万平ホテルは、大規模な改修を終えて、前よりも静かな顔をしていた。古い木と新しい木が、同じ光の中で、ぎこちなく握手をしている。そんな印象だった。
荷物を預け、ロビーを抜けて、奥のバーへ向かった。
目的は、はっきりしていた。ピアノだ。
かつてメインダイニングに置かれていた、ヤマハのアップライト。その後、資料室へと移され、誰も来ない小部屋で、埃と静けさに包まれていたあのピアノ。改修のあと、それはバーの一角へ移されたと聞いていた。
バーは、まだ早い時間で、客はいなかった。
チェーンで囲われた中に、そのピアノはあった。
いや、囲われた、と言うほど厳重なものではない。細い金属のチェーンが、ポールとポールの間に、低く渡されているだけだ。それが、ピアノを半ば守り、半ば遠ざけていた。蓋は閉じられ、鍵盤は見えない。足元の小さなプレートには、こう書かれている。
「触れないで下さい」
しばらく、その文字を見ていた。
怒りも悲しみも湧かなかった。ただ、ああ、そういう時代になったのだな、と思った。かつて、このピアノの鍵盤に指を置いた。混んでいなかった頃のダイニングで、勝手に、ネコ踏んじゃったを弾いて、慌てて駆けてきた人に注意された。顔から火が出るほど恥ずかしかったが、今思えば、あれは人生の中で、最も素直な行為のひとつだった。
それから何年も経って、資料室へ移ったピアノを、こっそり訪ねた。誰もいない部屋で、また、そっと同じ曲を弾いた。苦笑いをしながら、満足している自分がいた。
その二度の記憶が、いま、チェーンの向こうで眠っている。
「お客様」
背後から声がした。振り返ると、白いシャツに黒いベストの、若いバーテンダーが立っていた。
「そのピアノは、お触りいただけないのですが」
「分かっています。見ているだけです」
「ええ。実は、古いもので、調音もだいぶズレていて……」
「ズレている、ですか」
「はい。弦が緩んでしまって、どの鍵盤も、少しずつ違う音になってしまうんです。調律師の方も、これは直せない、と」
彼はそう言って、少し申し訳なさそうに笑った。
「あの方(ジョン)が弾いていた頃の音とは、もう、違うんでしょうね」
僕がそう言うと、彼は意外そうな顔をした。
「ご存じなんですね。当時、お好きだったそうで、欲しがられたとも聞いています」
「ええ。昔、少しだけ、縁がありまして」
縁、という言葉を口にしながら、自分でも可笑しかった。縁と呼ぶほどのものではない。ただ、四十年以上、勝手に思い続けてきただけだ。
バーテンダーが奥へ下がり、一人になった。
チェーン越しに、閉じた蓋を見つめる。
その時だった。
ポーン、と、一音、鳴った。
誰も触れていない。息を止めた。
もう一音。今度は、ひとつ上の音。そして、またひとつ。音は、不揃いに、ためらうように、並んでいく。
ネコ踏んじゃった。
蓋は閉じたままだった。チェーンも、揺れずに、そのままだった。それなのに、あの旋律が、ピアノの内側から、確かに響いていた。
しかも、その音は、ズレていた。半音の半分ほど、高かったり低かったり。調子外れ、というより、何か別の音階の上で、同じ曲を歌っているかのようだった。
背筋に冷たいものを感じた。しかし、怖くはなかった。むしろ、ずっと待っていたものが、ようやく来た、という安堵に近かった。
音が、止んだ。
足元のプレートの端に、何かが貼りついているのが見えた。
小さな、和紙の切れ端。
米粒ほどの糊。墨で書かれた、細い矢印。
四十年前に見たものと、同じだった。
二 人影なき旧軽
矢印は、バーの出口を指していた。
ホテルを出た。夕暮れが、浅間の山肌を橙色に染めている。平日の、季節の端境期。観光客の姿も少なく、道は、思いのほか静かだった。
旧軽銀座へ向かって、歩く。
昔と違って、店の看板は洗練され、舗装も整っている。それでも、通りの形は変わらない。緩やかにうねりながら、まっすぐに、かつての宿場の心臓へと続いている。
歩きながら、あの付箋のことを考えていた。
最初に見たのは七九年の夏。以来、何度もこの町を訪ねたが、同じものに出会ったことは一度もない。それが、今日、ピアノの足元に貼りついていた。
通りの角を曲がると、また、あった。
古い蔵造りの店の柱に、同じ和紙の切れ端が貼られている。矢印は、今度は、通りの先を指していた。
思わず笑ってしまった。
「そういうことか」
声に出して、そう言った。誰が聞いているわけでもない。ただ、道しるべの付いた散歩というのは、悪くない、と思った。
次の付箋は、石の道標の裏にあった。その次は、水車小屋の跡の脇。紙片に導かれるまま、旧軽の裏道を、ゆっくりと進んだ。
やがて、人の声が、遠のいていることに気づいた。
さっきまで、遠くに聞こえていた観光客の笑い声や、店の呼び込みが、すっかり消えている。代わりに、虫の声が、足元から湧いていた。
空を見上げる。
星が、多すぎる。
立ち止まった。
夕暮れの橙は、いつの間にか、深い藍に変わっていた。街灯が見当たらない。さっきまであった電線も、ない。
周囲には、砂利の道と、低い軒の連なりだけがあった。
「やあ、これは」
言葉が、掠れた。
どれほど歩いたのか、記憶がない。ただ、道の幅が変わっている。舗装が、土になっている。両脇の家は、二階建ての板張りで、軒下に、提灯が揺れている。
提灯。灯の中で、墨の文字が滲んでいる。
「亀」と、読めた。
その瞬間、四十年前の記憶が、閃光のように繋がった。七九年の夏に聞いたピアノの音は、距離の遠さではなかった。時間の遠さだった。
あの音は、ここから届いていたのだ。
ゆっくりと、息を吐いた。
足が、震えている。それなのに、胸の奥は、驚くほど静かだった。
人影なき旧軽へ出向けば、時空は歪み、あの日が見えるかもしれない。そう、詩に書いた。半分は、冗談のつもりだった。もう半分は、祈りだった。
どうやら、祈りの方が、届いたらしい。
ふと、足元に、またあの付箋があった。
道の真ん中、踏み固められた土の上に、和紙が一枚、貼りつくように落ちている。矢印は、道の先の、ひときわ明るい灯りを指していた。
紙片を拾い上げた。
指先に、ざらりとした和紙の繊維が触れた。ひどく、現実的な手触りだった。
三 軽井沢宿の夜
灯りの正体は、宿の入口にかかった大きな行灯だった。
土間には、草鞋を脱いだばかりの男たちが、疲れた顔で腰を下ろしている。腰には刀。髷は、ほどけかけて、旅の埃をかぶっている。
場違いな洋服のまま、足を踏み入れてしまった。
誰かが、僕を見た。次の瞬間、土間のざわめきが、波のように静まった。
「おい」
低い声がした。
声の主は、土間の奥の框に腰かけていた。三十がらみの、痩せた男だった。着物の裾は擦り切れ、眼の下に濃い隈がある。けれども、その眼だけは、驚くほど澄んでいた。
「そこの御仁。いかなる身なりか」
「いや、これは」
言葉に詰まった。何と答えればいいのか。旅の者です、では通らない。異人です、と言えば、斬られるかもしれない。
その時、男が、ふっと、笑った。
「怪しむなよ。ずいぶん待ったのだ」
「……待った?」
「あんたを、さ」
男は、立ち上がった。背は、僕よりも少し低い。けれど、立ち姿に、不思議な安定があった。
周囲の男たちが、ざわめいた。
「善次郎殿、お知り合いで」
「ああ。古い、知り合いだ」
男はそう言って、僕の腕をつかんだ。
「こっちへ来い。ここじゃ、話もできぬ」
引きずられるように、宿の裏手の小さな座敷へ通された。障子の向こうで、囲炉裏の火が揺れ、薄い煙が天井の梁を這っている。
向かい合って座ると、男は、僕の顔をじっと見た。
「やはり、年を取られたな」
「え」
「いや、すまぬ。こちらの話だ。……名乗ろう。善次郎という。浪士組の端くれだ」
浪士組。その言葉に、頭の中で、幕末の年表が、ざわりと動いた。江戸で募られた浪士の一団が、将軍の上洛に先立って、京を目指した。その道筋に、中山道があった。
「文久三年。如月の末、ですか」
「ほう」
善次郎は、目を細めた。浅間山から吹き下ろす冷たい風が、障子をかすかに震わせている。
「ご存じなのか。その通りだ。昨日、碓氷の峠を越えて、この軽井沢の宿に入った」
何も言えなかった。今、目の前にいるのは、百六十年以上も昔の人間だ。そして、その人間は、僕を「待っていた」と言う。
「怖がらなくていい」
善次郎は、茶を一杯、僕の前に置いた。
「あんたが、私の知る誰かと同じ人間かどうかは、正直、分からぬ。だが、あんたは、あの音の通り道を、ここまで辿ってきた。それだけは、確かだろう」
「音……」
「ねこ、ふんじゃった」
彼は、その言葉を、一語一語、確かめるように発音した。
背中に電流が走るのを感じた。
「聞こえたのですか。あの曲が」
「毎夜、聞こえる。江戸を発ってから、ずっとだ。宿に着くたび、夜更けに、どこからか、あの調子外れの音が、細く、ながれてくる」
善次郎は、囲炉裏の火を見つめた。
「最初は、狐の悪戯かと思った。だが、同じ旋律が、何夜も、何夜も続く。しかも、音が、一音ごとに、微妙にずれている。まるで、この世の調べの外にある、別の調べの上を、渡っているようだ」
「別の、調べ」
「そうだ。私は、琴も三味線も、少しは心得ている。だから分かる。あの音は、私たちの音階では、鳴らぬ」
湯呑みを両手で包んだ。熱が、掌に染み込んでくる。
「あれは、ずっと先の時代の楽器です。西洋から渡って来た、鍵盤のある、大きな琴のようなもので。今は、あなたの時代から、百六十年ほど先に、あります」
善次郎は、驚かなかった。
「やはり、そうか」
「やはり、とは」
「あの音は、先のものだと、思っていた。この世の音ではなく、これから来る世の、音だと」
彼は、静かに、笑った。
「面白いな。私は、この旅の先で、死ぬかもしれぬ。京に着けば、何が起きるか分からぬ。そういう身だ。それなのに、毎夜、遠い先の世の、拙い調べを聞いている。あれは、不思議と、慰めになった」
胸が詰まった。ピアノの、たった一曲の、拙い調べが。百六十年の時を越えて、一人の侍を、慰めていた。
「善次郎さん」
切り出した。
「あの付箋は、あんたが貼ったのですね」
「付箋」
彼は、首を傾げた。
「ああ、この紙切れのことか。そう呼ぶのか、あんたの世では」
彼は、懐から、和紙の束を取り出した。小さく切り揃えた、米粒ほどの糊のついた紙片。そのすべてに、墨で、細い矢印が書かれている。
「宿から宿へ、道を行くたびに、貼ってきた。あの音を、聞く者が、どこかにいるのなら。その者が、この道を辿れるように」
「どうして、そんなことを」
善次郎は、答えず、囲炉裏の灰を、火箸でゆっくりとならした。
そして、ふと、一枚を取って裏返し、そこに筆でさらりと書いた。
「旧中山道は ここだよ」
差し出された紙を見て、声を失った。詩の中で、僕は、書いたのだ。浪士組の善次郎が、旧中山道はここだよ、と、仕掛けた付箋だったのかもしれない、と。
それは、僕の言葉だった。今頃になって、勝手に思いついた言葉だった。
「……なぜ、その言葉を」
「さあな。昔、ここを通った旅の者が、道に迷っていた。だから、そう書いてやったまでだ」
善次郎は、何でもないことのように笑った。
四 善次郎
その夜、善次郎の話を聞いた。
彼は、信州の小さな藩の、下級武士の家に生まれた。長男ではなかった。家を継ぐことも、役に就くこともできず、江戸へ出て、剣と学問を学んだ。しかし、時代は荒れ、学んだものの行き場は、どこにもなかった。
浪士組の募集を知った時、彼は、迷わなかった。
「ただ、行くべき場所が欲しかった。それだけだ」
善次郎は、淡々と語った。
「京へ上れば、何かが変わるかもしれぬ。変わらずとも、道の上に身を置いていれば、自分が生きていることだけは、確かめられる」
不思議な親しみを覚えていた。行くべき場所が欲しかった。それは、七九年の夏の、僕自身の姿だった。
「善次郎さん。私は、あんたに、会ったことがあるような気がします」
「ほう」
「七九年の夏に、旧軽銀座で、あの付箋を見つけました。それから、ずっと、あれは何だったのかを、考えてきたのです」
「七九年。あんたの世の、暦か」
「はい。ここから、百六十年と、少し先の」
善次郎は、茶を啜った。
「そうか。ならば、私の付箋は、ちゃんと、届いたのだな」
その言い方が、あまりに静かで、あまりに嬉しそうで、涙が出そうになった。
頭の中で、仮説を組み立てていた。
あの古いアップライトは、どの鍵盤も、少しずつ違う音を出す。この世の標準の音階から、逸脱している。その逸脱が、時間の壁に、小さな隙間を作る。
探り当てるように、僕が、ネコ踏んじゃったを弾いた。勝手に、子供のように、無邪気に。あの単純な旋律が、いちばん純粋に、隙間を通り抜けたのではないか。
「あんたの、顔つきが変わったな」
善次郎が言った。
「何か、分かったのか」
「少しだけ。……あんたと、私の時代を繋いでいるのは、あのピアノの、ズレた音なのだと思います」
「ズレた音、か」
彼は、しばらく黙っていた。そして、小さく、呟いた。
「ズレているものほど、遠くへ届くことがある。私は、そう思うよ」
息を呑んだ。
「私は、器用な人間ではなかった。どこへ行っても、居場所がなく、いつも、少しだけ、人と調子が合わなかった。だが、そのせいで、人の気づかぬものに、気づけたのかもしれぬ。あの、ねこふんじゃった、とやらも、同じだ。きっと、きれいな音なら、ここまでは届かなかった」
囲炉裏の火が、ぱちりと爆ぜた。
障子の向こうでは、夜の宿場が、深く眠り込んでいる。馬の鼻息、遠い犬の声、梁の軋み。そのすべてが、百六十年の時を隔てて、生々しく届いていた。
時間とは、そんなに頑なな壁ではないのかもしれない。
調子外れの音ひとつで、隙間が空く。人の想いひとつで、道が繋がる。
五 宿場の昼
宿場の朝は、早かった。
善次郎が貸してくれた粗末な羽織を、洋服の上から無理やり羽織り、彼の連れとして、宿の土間に座っていた。善次郎は、僕のことを「信濃の古い知人で、足を痛めた者」と、周囲に紹介してくれた。誰も、深くは追及しなかった。浪士組の男たちは、それぞれ、自分の明日で精一杯だったのだ。
昼前に、宿の外へ出た。
軽井沢宿は、浅間山の麓の、風の強い宿場だった。家々の軒は低く、屋根には石が置かれている。強い風に、板屋根を飛ばされないためだろう。通りを歩く人は少ない。荷駄の馬が一頭、のんびりと草を食んでいる。
あの旧軽銀座の、洒落た石畳の通りを、思い浮かべた。同じ場所だった。ここに、あの店が建つ。あの教会が建つ。あの外国人たちの別荘が、森の中に、点々と灯りを灯す。この寒々しい宿場が、いつか、世界中から人を集める避暑地になるなど、ここの誰が、想像できるだろう。
「そこの御方」
声をかけられて、振り向いた。
十歳ほどの、女の子が立っていた。粗い木綿の着物に、擦り切れた草履。頬が、寒さで真っ赤になっている。
「おじさん、遠いとこから、来なすったの」
「うん。ずいぶん、遠いところから」
「あたしね、毎晩、聞こえるの」
少女は、唐突に言った。
「へんな音。どこかのお琴みたいな、でも、お琴じゃない音。ぽん、ぽん、って。ずっと、同じ形で、鳴ってるの」
膝を折って、少女の目の高さに、顔を寄せた。
「その音は、怖いかい」
「ううん」
少女は、首を振った。
「面白いの。でもね、おっかさんに言っても、誰も聞こえないって」
「そうか」
「おじさんには、聞こえるでしょう」
少し迷って、頷いた。
「聞こえるよ。おじさんは、その音を、ずっと追いかけて、ここまで来たんだ」
少女は、満足そうに、にっこり笑った。
「じゃあ、あたし、変じゃないんだ」
「変じゃない。他の人に聞こえないものが聞こえるのは、変なことじゃない。大事な耳を、持っているということだよ」
少女は、僕の言葉を、噛みしめるように、聞いていた。それから、ふっと、真顔になって、言った。
「あのね、あの音、だんだん、遠くなってるの」
胸が、冷えた。
「いつから、遠くなった」
「おとといぐらいから」
おととい。つまり、旧軽の通りで、あの付箋を辿り始めた頃だ。
あの音は、道しるべだった。僕が辿るための、細い糸。僕が、この時代に到着した今、その糸は、役目を終えようとしているのかもしれない。いや、もっと悪い想像もできる。あの音の道が閉じれば、戻れなくなる。
宿へ戻ると、善次郎が、門の前で待っていた。
少女から聞いた話を、彼に伝えた。善次郎は、黙って聞いていた。やがて、腕を組み、遠くの浅間山を、睨むように見上げた。
「音が、遠くなる、か。ならば、急がねばならぬな」
「どうすれば」
「今夜、行こう。音の、いちばん濃い場所へだ。あの音は、毎夜、あそこから、流れてくる」
六 音の淵
その夜、宿を抜け出した。
月は、薄く雲に隠れていた。善次郎は、小さな提灯を手に、先を歩いた。その背中を、必死に追った。
町外れの、森の入口に着く。ここから先は、道がない。獣道のような、細い踏み跡が、闇の中へ、続いている。
「恐ろしいか」
「少し」
「私もだ」
善次郎は、そう言って、笑った。
森の中は、静かだった。静かすぎた。虫の声が、ない。風の音も、ない。木々の葉が、揺れているのに、音だけが、どこかへ吸い取られている。
しばらく歩くと、前方が、ぼうっと、明るくなった。
森が、ふいに、開けた。
そこは、小さな窪地だった。直径は、二十歩ほどだろうか。地面は、一面、苔に覆われ、中央に、一本の古い白樺が、立っている。
そして、窪地の空気が、揺れていた。陽炎のように、淡く、揺らいでいる。揺らぎの中に、光の粒が、無数に漂っていた。蛍とも違う。星屑とも違う。それは、音の粒だった。
「これが、音の淵だ」
善次郎が、囁いた。
「あの音が、毎夜、流れ込んで来る場所。この世のあらゆる時の音が、ここに、溜まっている」
窪地の縁に立つと、音が、聞こえ始めた。最初は、遠い囁きだった。やがて、それが、さまざまな響きに、分かれていく。馬の蹄の音。鐘の音。汽車の汽笛。ラジオの雑音。若い男女の、笑い声。時代が、層になって、重なっている。
その中に、ひとつ、耳を捉えた響きがあった。
ピアノだった。誰かが、楽しそうに、鍵盤を叩いている。旋律は、ないに等しい。ただ、思いつくままに、音を並べているだけの、陽気な遊びだ。そこに、異国の言葉の、笑い声が、重なっている。低い、温かい、男の声。
息を止めた。
ジョンだ、と思った。皆が親しみを込めてそう呼んでいた、あの男だ。
姿は、見えない。言葉も、聞き取れない。けれど、その声の持ち主が、このピアノを、心から楽しんでいることだけは、はっきりと分かった。
「聞こえるか」
「ええ、聞こえます」
「この音だ。この、遠い世の、見知らぬ男の遊び声が、いつも、一番はじめに、流れてくる」
目頭が熱くなった。あの人は、ただ、楽しんだだけなのだ。何かを遺そうとしたわけでも、時を越えようとしたわけでもない。古いピアノが好きで、この土地の空気が好きで、思いつくままに、鍵盤を叩いた。ただ、それだけだった。けれど、その純粋な喜びの音が、このピアノを、時の隙間へ、開いたのだ。
意図のない、無垢な音ほど、遠くへ届く。
善次郎が、言った。
「あの異人は、時を動かそうなどとは、きっと、露ほども思わなかっただろう。だが、それでいい。時を動かすのは、いつも、そうやって、何も企まぬ者の、ささやかな楽しみだ」
窪地の中央の、白樺を見た。その根元に、小さな、石の祠があった。古い、苔むした、手のひらほどの祠。扉の中に、何かが、納められている。
近づき、扉を開けると、中には、一枚の、薄い板が、入っていた。板には、墨で、文字が書かれている。百六十年前の、墨の字だった。しかし、その文字は、読めた。
「音を 絶やすな」
善次郎の顔を、見た。
「これは、あんたが」
「いや。私ではない。私が、初めてここを見つけた時には、すでに、あった。誰が、いつ、置いたのか、分からぬ」
「では、誰が」
「分からぬ。だが、きっと。あんたや、私や、あの異人や、これから先、この音を聞く、すべての者が、少しずつ、置いていっているのではないか」
板を、じっと見つめた。音を、絶やすな。それは、命令ではなかった。祈りだった。誰かが、誰かに、そっと、手渡す、細い糸の端だった。
胸の内ポケットから、自分の手帳を取り出した。ページを一枚、破り、持っていた鉛筆で、短く、書きつけた。そして、祠の中の、古い板の隣に、そっと、置いた。
「何を書いた」
「ひとつ、詩です。あんたと、あの音のことを、書いた詩の、最初の一行を」
善次郎は、目を細めた。
「そうか。それは、いいな」
窪地の音が、少しずつ、静まっていった。光の粒が、ゆっくりと、森の奥へ、流れ出していく。
「戻ろう。あんたの帰り道は、きっと、開いている」
七 付箋
翌朝、善次郎に連れられて、宿の外へ出た。
夜明けの軽井沢は、霧に包まれていた。浅間の山は見えない。ただ、白い靄の底に、屋根の連なりが、薄い墨絵のように浮かんでいる。
浪士組の一行は、すでに出立の支度を始めていた。男たちの声、馬のいななき、荷を積む音。遠い昔の朝が、確かな重みを持って、周りに広がっていた。
「ここから先は、あんたの足で、行くしかない」
善次郎は、街道の脇に立って、言った。
「私は、京へ向かう。あんたは、あんたの時代へ、戻らねばならぬのだろう」
「戻れるでしょうか」
「戻れるとも。あの音の通り道は、一本道だ。来た者は、帰れる」
彼は、懐から、また一枚、付箋を取り出した。
「これを、持っていけ」
差し出された紙片には、墨が、まだ濡れて光っていた。そこには、矢印はなく、代わりに、数文字が、書かれていた。
「また 弾け」
紙を受け取った。
「あんたが貼ってきた、紙ですか」
「いや。今、書いた」
「また、弾け……」
「そうだ。あんたの世で、あの楽器が、触れてはならぬものになったと聞いた。だが、触れてはならぬものにも、もう一度、触れる方法はある」
「どういう」
「それは、あんたが考えろ」
善次郎は、悪戯っぽく笑った。
「私に分かるのは、ひとつだけだ。音は、鳴らされるために、ある。鳴らされぬ音は、いつか、本当に死ぬ」
紙片を、胸の内ポケットに入れた。そして、深く頭を下げた。
「ありがとうございました。あんたのおかげで、四十年来の疑問が、解けました」
「礼を言うのは、こちらの方だ。私は、この先で、死ぬかもしれぬ。だが、遠い世の誰かが、私の貼った紙を、拾ってくれた。それを知ることができた。それだけで、この旅は、無駄ではなかった」
別れの時が、近づいていた。ふと、気づいた。
「善次郎さん。もしかして、あんたは、私が、詩に書くことを、知っていたのですか」
「詩」
「私は、あんたのことを、詩に書きました。浪士組の善次郎が、旧中山道はここだよ、と、付箋を仕掛けたのかもしれない、と」
善次郎は、目を丸くした。そして、声を上げて、笑った。
「それは、傑作だ。そんなことを、書いたのか。あんたは」
「ええ。冗談半分に」
「いいや」
彼は、笑いを収め、真顔になった。
「冗談半分でも、いい。あんたが、そう書いたから、私は、ここにいるのかもしれぬ」
息を止めた。
あの日、七九年の夏に、僕が見つけた付箋。あれを貼ったのは、善次郎だった。だが、善次郎が付箋を貼る気になったのは、四十数年後の僕が、詩に書いたからだった。増してや、僕が詩を書く気になったのは、あの日の付箋があったからだった。輪だ。始まりも終わりもない、円環だ。
「ここまで来て、ようやく、繋がったな」
善次郎は、満足そうに言った。
「さあ、行け。霧が晴れる前に」
もう一度、頭を下げて、歩き出した。数歩進んで、振り返った。霧の中に、一人の侍の、細い影が立っていた。手を、軽く挙げている。その影が、霧に溶けて、見えなくなるまで、立ち尽くしていた。
八 ズレた音
霧の中を、歩いた。どれほど歩いたのか、分からない。足元の土は、いつの間にか、砂利に変わり、やがて、固い舗装の感触に変わっていた。虫の声が、遠のいた。代わりに、遠くから、人の笑い声が聞こえた。車の音。店先の音楽。霧が、ゆっくりと晴れていく。
旧軽銀座の、入口に立っていた。夕暮れの橙が、再び、浅間の山肌を染めている。観光客が、ぽつぽつと、通りを行き交っている。さっきと、何も変わらない風景だった。
腕時計を見た。出てから、ほんの二十分ほどしか、経っていなかった。
胸の内ポケットを探る。和紙の感触が、あった。取り出すと、墨の字が、乾いて、くっきりと残っていた。
「また 弾け」
紙片を、じっと見つめた。あれは、夢ではなかった。
通りを、引き返す。足は、驚くほど軽かった。年を取った身体が、一晩、若い頃の血を借りてきたかのようだった。
万平ホテルへ戻ると、玄関で、先ほどのバーテンダーが、気づいた。
「お客様、お戻りですか」
ためらいながら、聞いた。
「あのピアノのことで、お願いがあるのですが。触れさせてほしい、というわけではないんです。ただ、少しだけ、音を、鳴らす方法はないでしょうか」
バーテンダーは、困ったように、眉を寄せた。
「申し訳ありません。あれは、文化財のようなものでして」
「そうですよね」
頷いた。流石にそうだな、と思い直した。そして、ふと思い当たって聞いた。
「あの、調音が、ズレている、と、おっしゃいましたよね」
「はい」
「どのくらい、ズレているのですか。半音ほど?」
「それが、不思議なんです。調律師の方が、機械で測ったら、鍵盤ごとに、ズレ方が、違うんですが、よく調べると、どれも、ある音階の上に、並んでいるそうで」
「ある音階」
「ええ。西洋の十二平均律ではなく、むしろ、日本の古い音階に近い、と。……まあ、偶然でしょうが」
息を呑んだ。
あのピアノは、百六十年の時を隔てて、二つの時代の音階の、ちょうど中間に、立っているのだ。十二の音の世界と、もうひとつの、遠い調べの世界。その狭間で、ズレた音が、橋になっている。
「もしよろしければ。閉店後に、少しだけ、蓋を開けて、ご覧になりますか。触れずに、見るだけなら、私の判断で」
頭を下げた。
「ありがとうございます。それだけで、十分です」
九 資料室
あれは、何年前のことだっただろう。改修の前、まだ、あのピアノが、資料室に置かれていた頃。一度、ホテルの人に頼み込んで、その部屋を、見せてもらったことがある。
ホテルの歴史を伝える、古い写真や、食器や、書簡が、ガラスケースに並んでいた。その部屋の、いちばん奥の壁際に、ヤマハのアップライトピアノが、ひっそりと、置かれていた。
案内の人は、「お時間は、十五分ほどで」と言って、部屋を出ていった。一人になった。誰もいない、静まり返った部屋。窓から、午後の光が、斜めに差し込んでいる。光の中で、埃が、ゆっくりと、舞っていた。
ピアノの前に、立った。蓋は、閉じていた。けれど、鍵がかかっているわけでは、なかった。
しばらく、ためらった。触れてはならない。そう分かっていた。ここは、資料室であり、このピアノは、展示物のはずだ。
けれど、手は、気づけば、蓋に、触れていた。そっと、持ち上げる。象牙の鍵盤が、光を受けて、鈍く、輝いた。
右手の人差し指を、ひとつの鍵に、置いた。そして、押した。
ポーン。少し低くて、少し濁った、懐かしい音だった。ひとつずつ、鍵を押していった。
ネコ踏んじゃった。
苦笑いが、こみ上げた。こんな年になって、こんな曲を。けれど、音が、部屋の静けさの中に、消えていく時、深い満足を感じていた。
あの時、気づくべきだったのだ。ピアノの音が、普通よりも、長く、部屋の中に残っていたことを。弾き終えて、蓋を閉じ、振り返った時。窓の外の光が、ほんの一瞬、金色から、薄い青へ、揺らいだことを。
あれは、きっと、最初に開けた、小さな隙間だったのだ。あの時、時を、ほんの少し、ずらしてしまっていた。そして、そのずれが、四十年前の、旧軽銀座の路地に、一枚の付箋を、貼りつけた。
輪が、回り始めたのは、その瞬間だったのかもしれない。
「そういうことだったのか」
バーのピアノの前で、小さく、呟いた。客のいないバーは、静かだった。チェーンの内側の、古い楽器が、独り言を、黙って聞いている。
あの日、規則を破って、そっと弾いた、ネコ踏んじゃった。それは、いたずらだったかもしれない。けれど、そのいたずらが、あの善次郎という侍の、孤独な夜を、慰めた。
触れてはならないものに、触れてしまうこと。それが、時に、誰かの命綱になる。
ピアノに、深く頭を下げた。「ごめんなさい。そして、ありがとう」
チェーンの向こうで、閉じた蓋が、ほんの少し、微笑んだように、見えた。
十 閉店後のバー
その夜、バーの灯りが落ち、最後の客が帰ったあと、ピアノの前に立った。
バーテンダーは、白い手袋をはめ、ポールからチェーンの片側を、静かに外した。そして、蓋を、そっと持ち上げた。象牙の鍵盤が、薄暗い灯りの中で、鈍く光った。黄ばんで、ところどころ欠けている。それでも、一本一本に、長い年月の呼吸が、宿っている。
「どうぞ、ご覧ください。触れないでくださいね」
「はい」
鍵盤を見つめた。善次郎は、「また弾け」と言った。けれど、触れてはならない。そのことを、彼は、知らなかったはずだ。ならば、あの言葉は、何を意味しているのか。
目を閉じた。そして、頭の中で、あの旋律を、弾いた。ネコ踏んじゃった。音は、出さない。ただ、記憶の中の鍵盤の上を、指が、動く。若い頃の、混んでいなかったダイニング。誰もいない資料室。そして、今、この薄暗いバー。三つの場所の、三つの時間が、頭の中で、重なった。
その時、バーテンダーが、小さく、声を漏らした。
「あ」
目を開けた。ピアノの弦が、震えていた。誰も触れていないのに、低音から高音へ、細かい波が、駆け上がっていく。鍵盤は、沈まない。それなのに、弦だけが、共鳴している。
探り当てるように、音が、聞こえた。小さく、かすかに、けれど確かに。ネコ踏んじゃった。調子外れで、ズレていて、どこか懐かしく、遠い。
バーテンダーは、後ずさりして、壁に背をつけた。
「これは、いったい」
「大丈夫です」
静かに言った。
「あのピアノは、時々、こうして、歌うんです。昔の人が、ここに、置いていった音を」
「昔の人」
「ええ。たくさんの人が、この楽器に、音を置いていった。弾いた人、聞いた人、ただ、通りがかっただけの人。そのすべてが、少しずつ、弦に染み込んでいる」
ピアノに、そっと、手をかざした。触れない。ただ、掌を、蓋の上に、浮かせる。温かかった。人の体温のような、微かな熱が、木の奥から、じんわりと、伝わってくる。
その時、気づいた。弦の一本に、小さな和紙が、挟まっていることに。米粒ほどの糊。墨の文字。
バーテンダーに頼んで、手袋を借り、その紙を、そっとつまみ上げた。広げると、そこには、一行だけ、書かれていた。
「触れずとも 弾ける」
思わず、笑った。そして、泣いた。善次郎は、知っていたのだ。触れずとも、音は、鳴る。指で押さなくても、想いが、弦を震わせる。そのことを、彼は、百六十年前から、知っていたのだ。
「お客様」
バーテンダーが、不安そうに、見ていた。
「大丈夫です。……ありがとうございました。もう、十分です」
蓋を、静かに閉じた。チェーンを、元に戻す。バーを出る時、振り返ると、チェーンの向こうの、古いアップライトが、薄闇の中で、満足そうに、佇んでいた。
十一 あの日
翌朝、旧軽銀座を、もう一度歩いた。人影は、まだ少ない。朝の光が、通りを、白く洗っている。七九年の夏と、同じ道だった。
土産物屋の裏手へ、回った。そこには、板壁があった。苔が生え、何度も塗り直された跡のある、古い壁。その壁の、ちょうど目の高さに、小さな和紙が、貼りついていた。米粒ほどの糊。墨の矢印。
四十年前に、僕が見つけた、あの付箋だった。いや。違う。顔を近づけた。紙は、新しかった。墨は、まだ、にじんで光っている。それは、昨日、善次郎が書いた、あの紙と同じ匂いがした。
息をのんで、路地の奥を見た。七九年の夏。午後の光が、白く落ちていた、あの路地。
そこに、一人の、若い男が、立っていた。十代の終わり。痩せて、疲れた顔。金も時間もなく、ただ、行くべき場所を探している、青年。
僕だった。
若い僕は、付箋を見つめ、首を傾げ、そして、路地の中へ、足を踏み入れていく。
声をかけようとした。けれど、思いとどまった。あの日の僕は、このあと、ピアノの音を聞くのだ。調子外れの、遠い、時間の向こうの音を。そして、四十年かけて、その意味を、辿ることになる。それを、邪魔してはいけない。
ただ、遠くから、若い自分の背中を、見送った。若い僕は、路地の奥に、消えた。
その途端、あたりの風景が、ふっと、揺れた。朝の光が、ゆっくりと、元の色に戻る。壁の付箋は、跡形もなく、消えていた。そこには、ただ、苔むした板壁が、あるだけだった。
しばらく、立ち尽くしていた。そして、小さく、呟いた。
「ありがとう」
誰に向けた言葉なのか、自分でも、分からなかった。善次郎に。若い自分に。あのピアノに。この、旧軽井沢という土地に。すべてに、だった。
十二 過去帳
月に一度、東京の図書館に通うのが、ささやかな習慣だった。その週も、旅から戻って三日目の朝に、いつもの閲覧室の、いつもの窓際の席に座っていた。けれど、その日は、いつもの本を、開かなかった。
浪士組の名簿を、探した。文久三年、江戸を発った者たちの、記録。分厚い史料集を、書架から何冊も抱えてきて、一頁ずつ、指で辿った。
善次郎、という名は、どこにもなかった。予想していたことだった。彼は、歴史に名を残す類いの人間ではない。端くれだ、と自分でも言っていた。名簿の末尾の、小さな活字の列にさえ、載っていないのかもしれない。
それでも、探し続けた。名簿の脇に添えられた、道中の記録。各宿の人足の覚書。庄屋の日記。そうしたものを、片端から、めくっていく。
昼を過ぎた頃、指は、ある一行で、止まった。それは、軽井沢の近在の、古い寺に伝わる、過去帳の翻刻だった。村の出来事を、住職が、簡単に書き留めた、備忘録のようなものだ。
「二月、浪士の一団、宿に泊す。その中に、道端に紙片を貼りて歩く者あり。童女ひとり、これを拾いて、離さず」
息を止めた。
何度、読み返したか分からない。文字は、それ以上は、何も語らない。ただ、その短い二行が、百六十年の沈黙を破って、目の前に、現れていた。
あの少女だ、と思った。十歳ほどの、頬の赤い、木綿の着物の少女。毎晩、へんな音が聞こえると、打ち明けた子。彼女は、善次郎の紙片を、拾っていたのだ。
顔を上げ、窓の外を見た。曇り空の下を、人々が、傘をさして、足早に通り過ぎていく。誰も、胸の中で起きていることを、知らない。
さらに、調べた。その寺の名を頼りに、郷土史の小冊子を取り寄せ、地元の古老の聞き書きを、読んだ。そして、また、ひとつ、小さな発見をした。
明治の中頃、軽井沢に、外国人向けの旅館が、いくつもできた頃。その一軒の、女中頭に、ひとりの老女がいた。老女は、若い頃から、変わった耳を持っていたという。誰にも聞こえない音を聞き、ときどき、ふと手を止めて、遠くを見つめた。そして、孫たちに、こんな話を、よく聞かせていた。
「昔ね、おばあちゃんが小さい頃、不思議なお侍さんがいてね。紙を、道端に貼って歩いてたの。それが、風に飛ばされて、ひらひら落ちてくるのを、おばあちゃんは、大事に拾ってね」
「その紙に、何が書いてあったの」
「矢印だけ。それと、ひとこと」
老女は、そこで、いつも、微笑んだという。
「音を、絶やすな、ってね」
閲覧席で、声を殺して、泣いた。隣の席の学生が、怪訝そうに、こちらを見た。手の甲で目元を拭い、会釈をして、立ち上がった。
廊下に出て、窓辺に寄りかかる。善次郎は、少女に、直接、何かを語ったわけではない。ただ、紙片を、道端に貼り続けた。それだけだった。それなのに、少女は、その紙を、生涯の宝として、持ち続けた。そして、老いてなお、それを、孫に語り継いだ。
一人の侍の、無名の、ささやかな行為が。百六十年の、長い時間の中で、確かに、誰かの人生の底に、根を下ろしていた。
音は、鳴らされるために、ある。善次郎は、そう言った。けれど、彼が撒いたのは、音そのものではなかった。音を、聞こうとする心だった。耳を澄ませば、見えないものが、聞こえてくる。そのことを、彼は、紙切れ一枚で、人々に伝えたのだ。
バッグから、手帳を取り出した。旅の間に、鉛筆で書きつけた、断片が、並んでいる。ピアノのこと、付箋のこと、善次郎の笑顔のこと。それから、音の淵で置いてきた、詩の、最初の一行。
新しいページを、開いた。そして、書き始めた。
> ジョンのピアノ
> かつて
> 万平ホテルの
> メインダイニングに置かれ
> その後
> 資料室へと移っていた
> ヤマハのアップライトピアノ
> それが大規模改修後
> バーへと移されて
> もう触れることは出来ない
> それは
> 当時 ジョンが好んで弾き
> 欲しがったピアノだそうで
> すでに朽ちて
> また調音もズレて
> 骨董品となっている
> 若い頃
> まだそこが混んでなかった頃
> それで
> ネコ踏んじゃったを勝手に弾き
> 注意された記憶
> それが
> その後 資料室へと移り
> 誰も居ないそこで
> またそっと
> ネコ踏んじゃったを弾き
> 苦笑いしながら満足などした男
> それももう
> バーへと移され
> 触れないで下さい なんて時代
> 時間の経つあまりの速さと
> 戦いながらも
> 今がすべてだと
> 老いた身体を前向きに戻す
> すべては
> 79年の夏
> 旧軽銀座で出会ってしまった所から
> 僕のジョンは
> 深くなったようだ
> それもまた
> もしかすると
> 浪士組の善次郎が
> 旧中山道はここだよ と
> 仕掛けた付箋だったのかもと
> 今頃 思ってみる
> 旧軽井沢とは
> 多くの想いが残る場所なようだ
> 昨今
> 見えなかったものが
> 見え始めて
> ならば
> もしかすると
> 今
> 人影なき旧軽へと出向けば
> 時空は歪み
> あの日が見えるかも?
> あの日に戻れるかも? なんて…
>
書きながら、気づいた。この詩は、僕ひとりの、思い出の記録ではない。善次郎に宛てた、返事だった。少女に宛てた、返事だった。あのピアノに、旧軽井沢に、そして、これから、この音を聞くかもしれない、見知らぬ誰かに宛てた、返事だった。
音を、絶やすな。その祈りに、言葉で、応えている。
ペンを走らせながら、自分の指先が、鍵盤を叩くように、軽やかに動いていることに、気づいた。
ネコ踏んじゃった。その調子外れの旋律が、紙の上で、新しい形を、取り始めていた。
終 ジョンのピアノ
東京へ戻る日、もう一度、バーに寄った。昼間のバーは、静かだった。チェーンの内側で、ピアノは、閉じた蓋を、鈍く光らせている。足元のプレートには、変わらず、こう書かれていた。
「触れないで下さい」
その文字を、もう一度、読んだ。沸き立つ感慨とともに、今度は、少しも悲しくなかった。触れなくても、いい。触れずとも、音は、鳴る。
ポケットから、善次郎の最初の紙片、「また弾け」を、取り出した。チェーンの下の、ほんの小さな隙間から、そっと、滑り込ませる。紙は、ピアノの足元に、ふわりと、落ちた。
誰かが、いつか、この紙を、見つけるだろう。それは、一年後かもしれない。四十年後かもしれない。あるいは、百六十年後かもしれない。その誰かが、この紙の意味を考え始めた時、また、新しい輪が、回り始める。
バーを後にした。玄関を出ると、浅間山が、秋の空に、白く煙を上げていた。
時間は、相変わらず、あまりに速く流れていく。身体は、日に日に、老いていくだろう。いつか、旧軽を歩く足も、鈍るだろう。
それでも、今がすべてだ。老いた身体を、また一歩前に進めて、歩き出す。
旧軽井沢とは、多くの想いが残る場所なのだ。見えなかったものが、見え始める。あの日に戻れるかもしれない、と思うことは、決して、愚かなことではない。なぜなら、時間とは、案外、そういう仕掛けでできているのだから。
ジョンのピアノは、今日も、静かに、そこにある。触れられなくなった楽器の中で、いくつもの時代の音が、そっと、息をしている。
ネコ踏んじゃった。調子外れの、拙い、遠い旋律が、浅間の風に混じって、聞こえた気がした。
(了)
あとがき
旧軽井沢の銀座通りが、かつての中山道だったと知ったのは、いつの頃でしょう。
万平ホテルのバーに置かれた、触れることのできない小さなアップライトピアノ。調律が合わない、という理由で、静かにそこに佇むピアノ。
そのピアノの前に立つたび、ふと考えるのです。ここで、誰かが笑いながら鍵盤を叩いていた日があったのだと。
昭和五十四年の夏、旧軽の裏路地で見た一枚の和紙の切れ端。それが、なぜかずっと忘れられませんでした。
この物語は、その二つを、ただ繋いでみたかっただけの試みです。
作中のジョンは、あえて姿を見せません。声も、言葉も書きません。私の中のジョンという人は、遠くから楽しそうに笑っている、それだけで十分な人だからです。実在の方への畏敬も込めて、音の向こう側に留まっていただきました。
善次郎、少女、バーテンダー、そして主人公。彼らはすべて創作です。浪士組の史実や軽井沢の地名は、物語の都合に合わせて自由に使わせていただきました。
ただ、ひとつだけ本当のことがあります。
あのピアノは、今もバーの片隅にあります。
「触れないで下さい」と書かれた小さなプレートの向こうで、静かに時代の音を抱えて。
もしあなたが旧軽井沢を訪れることがあれば、どうかその前で、少しだけ足を止めてみてください。
そして、耳を澄ませてみてください。
何も聞こえないかもしれません。
けれど、もし遠くの方から、調子外れの、懐かしい旋律がほんの一瞬、届いたなら。
それは、誰かがあなたに残した付箋です。
どうぞ拾って、そして次の誰かのために、そっと貼ってあげてください。
音を、絶やさぬように。
紹介文
調律の外れたピアノが、百六十年の時を繋いだ。
1979年夏、旧軽井沢の路地裏で出会った一枚の付箋。それは幕末・文久三年、軽井沢宿を歩いた名もなき侍が遺した道しるべだった。
万平ホテルのバーに眠る、かつて異国の客人が愛した古いヤマハのアップライト。西洋の平均律から微妙にズレたその音が、二つの時代の間に小さな隙間を空ける。
誰も弾かなくなったピアノから、なぜか今も聞こえる《ネコ踏んじゃった》。その拙い旋律に導かれ、七十を過ぎた「僕」は、人影なき旧軽へと迷い込む。
一編の詩と一枚の付箋が結ぶ、時空を超える幻想と郷愁の物語。

