ドッペルゲンガー重複削除事件
――宇宙管理局は、僕を二人とも消すらしい――
まえがき
ドッペルゲンガーを見ると、数日以内に死ぬ。
そんな都市伝説があります。
心理学では過労やストレスによる幻視として説明されることもあるし、遺伝や偶然という言葉で片づけられることもあるでしょう。
では、もし本当に自分とそっくりな人間が現れたら。
同じ名前を名乗り、同じ記憶を持ち、同じ人生を歩んできたとしたら。
そして宇宙のどこかにある管理局から、こう通知されたら。
「お二人の存在は、規定に違反しています」
あなたなら、どうしますか。
この物語の主人公、田所ケンジは三十八歳の平凡な会社員です。
大きな夢を諦め、目立たないように生きてきた男の前に、もう一人の自分が現れます。
片方が残れば、もう片方は消される。期限は七十二時間。
ところが調べてみると、宇宙の管理システムは思ったより古くさい。
名前の読み方が違えば別人。
記憶が違えば別人。
別人なら、削除する必要はない。
人類の存亡を救う鍵は、宇宙の真理でも超科学でもなく、表記揺れと稟議書にあるらしいのです。
これは、自分と出会ってしまった男たちと、彼らを消そうとする役人たちの物語です。
そして、選ばなかった人生をなかったことにしていいのか、という物語でもあります。
一章 ホームの向こう側
田所ケンジ、三十八歳。物流会社「ニッポン・ロジスティクス」情報システム課の係長である。
係長というのは不思議な役職だ。部下からは上の人、上司からは下の人と思われる。つまり誰からも本当の意味では思われていない空白地帯に、ケンジは九年間住んでいた。
十月の火曜日、午後十一時四十分。三日連続の終電だった。
目の奥が熱く、肩は石のように重い。立ったまま眠れる自信があった。
向かいのホームにはほとんど人がいない。蛍光灯がじい、と鳴っている。
その下に、男が一人立っていた。
よれたグレーのスーツ。肩からずり落ちかけた黒いリュック。緩んだネクタイ。右の襟だけがめくれている。
(ああ、あの襟、直したいな)
そう思った瞬間、眉をひそめた。あの襟は、今朝自分が直せなかった襟だった。
男が顔を上げた。目が合った。
目の下のクマ。左頬の小さなほくろ。髭の剃り残しまで同じだった。
男はぎょっとして、遠慮がちに会釈した。
ケンジも反射的に会釈を返した。サラリーマンは宇宙人に遭遇してもまず会釈する。
電車が滑り込み、扉が開き、閉まり、去っていった。
向かいのホームには誰もいなかった。
「……疲れてるな」
過労、ストレス、自己像幻視。バグなら再起動すればいい。つまり寝ればいい。
そこで余計な知識が頭をもたげた。
――ドッペルゲンガーを見ると、数日以内に死ぬ。
翌朝、会社のパソコンで「ドッペルゲンガー 死ぬ 確率」と検索した。確率は出なかった。代わりにリンカーンや芥川龍之介の名前が並んでいた。偉人を並べられても嬉しくない。
「田所さん、顔色悪いですよ」
隣の席の白石ミユキが言った。入社二年目、唯一ケンジを係長として扱ってくれる人間である。
「白石さん、もし自分にそっくりな人を見たらどうする?」
「世界には三人似た人がいるって言いますよね。会ってみたいです」
「会ったら死ぬ、とかは」
「朝から怖いこと言わないでくださいよ」
ミユキが笑ったのでケンジも笑った。背中に冷たい汗が流れていた。
その夜、ケンジはあえて同じ時刻に同じホームに立った。
男はいた。同じスーツ、同じリュック、同じめくれた襟だった。
男はケンジを見つけるとはっきり手を挙げ、何かを叫んだ。電車の接近音で聞こえない。口を大きく開け、一語ずつ区切るように繰り返した。
「ちょっと、はなせ、ませんか」
その口の動きまで、取引先に謝るときの自分のものだった。
二章 遺書とカレーうどん
死ぬまであと数日。そう考えたケンジは妙に勤勉になった。
水曜の夜、自宅のワンルームで遺書を書いた。書き出しは「拝啓」だった。そこから先が出てこない。結局宛先は「関係各位」になった。
「関係各位。私の死後、パソコンの中身は見ずに初期化してください。特に『資料_最終_最終_本当に最終_v3』フォルダは。以上」
最も大事な頼みがそれか、と自分で突っ込んだ。
金曜の昼、社員食堂でカレーうどんを食べていた。白いワイシャツにカレーが跳ねる確率は六割。ここまで来ればもう死んでもいい。
「あのー、ここ、空いてますか」
振り向かなくても声でわかった。毎朝洗面所の鏡の向こうから聞こえる声だった。
そこに自分が立っていた。トレーを持ち、ぎこちなく笑っている。左頬にほくろ、右襟がめくれている。社員証には「田所ケンジ」とある。
二人のケンジは見つめ合った。周囲は誰も騒がない。経理の女性が「田所さん、今日もカレーうどんですか」と二人に会釈した。「お二人とも」とは言わなかった。世界は同じ顔が二つあることを風景として処理しているらしい。
「まず言わせてください。あなたを殺しに来たのではありません」
「じゃあ何しに」
「私も、数日以内に死ぬと言われています」
ケンジはうどんを噴いた。ワイシャツにカレーが飛んだ。六割をきっちり引き当てた。
「誰に言われたんだ」
「役所の人です」
胸ポケットから名刺が出てきた。
宇宙管理局 整合性維持部 重複削除課 担当 サトウ
裏には小さく印刷されていた。
『本件は当方の手違いではなく、貴殿ら双方の存在が仕様に反しているために発生いたしました。ご理解のほど、よろしくお願い申し上げます』
「仕様に反している?」
「はい。この世界に二人同時にいてはいけないそうです。重複データだからだそうです。七十二時間後、どちらか一方が消されます」
食堂の天井から午後のチャイムが鳴った。
「本物が残るのか?」
「当局に本物という概念はありません。消えるのは重複した片方です」
ケンジは人生で初めて、自分の存在がデータとして扱われる恐ろしさを知った。
三章 もう一人の係長
「どっちが本物かという議論は無意味です」
会社の屋上で、もう一人のケンジは同じ銘柄の微糖の缶コーヒーを持って言った。味の好みまで同じなのが腹立たしい。
「宇宙はすべての存在を巨大なデータベースで管理している。私たちはほぼ同一のレコードで、並行世界ごとに別の棚へ格納されていて通常は衝突しない。ところが不具合で同じ棚に入ってしまった」
ケンジの職業的な部分が頷いた。
「重複データだな」
「そうです。一つを残して削除されます。二千年以上前の規定だそうです」
「二千年も放置してるのか」
「更新申請は三百八十七年前に提出されましたが、現在も審査中です」
宇宙も会社も大して変わらないらしい。
「俺はお前を何と呼べばいい」
「ケンジAとケンジBでどうでしょう。管理の都合です」
こうして二人の七十二時間が始まった。
ケンジBは仕事ができすぎた。先月から止まっていた配送管理システムを一晩で直し、使われていない七つのサーバーを整理し、年間経費を三百万円削減した。
「田所さん、すごいですね!」
ミユキが目を輝かせた。ケンジAは複雑な顔をした。自分の顔をした男が自分の会社で自分より評価されている。しかも本人に悪気がない。
その夜、居酒屋でケンジAは言った。
「お前、できすぎだろ」
「すみません。やることがなかったもので。残る方の田所さんに貯金を残そうと」
「俺が残る前提か」
「逆かもしれません。どちらが残っても同じ田所ケンジが残る。そう考えるとどっちでもいい気がして」
「どっちでもよくない。俺は俺が消えるのは嫌だ。お前が消えるのも、なんか嫌だ」
ケンジBは目を伏せた。
「ありがとうございます。実は私もです」
「なあ、お前の世界では俺は何をしてた?」
「大学のとき、漫画家になるのをやめませんでした。連載は取れませんでしたが、二十代の終わりまで投稿を続けました」
それが最初の分岐だった。ノートの端に描いていた四コマ。「才能あるよ」と言われた夏。就活の前日に全部捨てた原稿。あのとき確かに別の人生へ進めたのだ。
「後悔してないのか」
「あります。でも描かなかった人生よりは、描いた人生の方が好きです」
ケンジAは何も言えなかった。
四章 母とふたりの息子
土曜の朝、インターホンが鳴った。群馬から始発で出てきた母ミツコだった。両手に巨大な風呂敷包みを抱えている。
六畳のワンルームで二人は同時に固まり、同時に押し入れに逃げ込もうとして肩がぶつかり、足が絡まって畳に転がった。その騒音の中、扉が開いた。母は合鍵を持っていた。
「あら」
床に折り重なった二人の息子を見下ろし、母は言った。
「あんたたち、双子だったっけ?」
「違う!」
声が見事に重なった。
「あ、そうそう。お父さんが言ってたわ。うちの家系、昔からたまにそういうのが出るって」
「出ないよ!」
テーブルには肉じゃが、きんぴら、切り干し大根、ぬか漬けが並んだ。明らかに三人分ではない。
「二人いるならちょうどいいわね。これ二人分よ」
「最初から二人分作ってきたのか」
「あんたが近いうちに二人になる気がしたのよ。母親の勘」
母親の勘は宇宙管理局の予測より優秀なのかもしれない。三人で肉じゃがを食べた。二人は同じ順番でじゃがいもから口に運んだ。
食後、ミツコはケンジBの顔を見つめた。
「あんた、昔漫画描いてたでしょう」
風呂敷の底から古びた紙の束が出てきた。黄ばんだざら紙。十七歳のときに描いた四コマだった。
「大学に行くとき置いていったのよ。捨てるのももったいなくて」
「私はね、あんたのことずっと才能あると思ってたのよ。ただあんたがやめちゃっただけで」
母はケンジAを見て、それからケンジBを見た。
「でもそっちのあんたはやめなかったんでしょう」
ケンジBは小さく頷いた。
「じゃあお母さんはそっちの子の応援団長になるわ」
「……俺は?」
「何言ってんの。両方に決まってるじゃない」
その一言がケンジAの胸の奥に落ちた。どちらかが消えなければならない。宇宙の規則はそう言っている。けれど母にとっては二人とも息子だった。
五章 灰色の役人
土曜の午後、二人が駅前のファミレスでドリンクバーを注いでいると背後から声がした。
「お待たせして申し訳ございません」
灰色のスーツ、灰色のネクタイ、灰色の髪。景色になじむことに特化した男が立っていた。
「宇宙管理局、重複削除課のサトウです」
分厚いバインダーには『重複データ処理マニュアル 第十四版』とある。
「削除条件は四つです。氏名の読み、生年月日、遺伝情報、主要な記憶。記憶は直近四十八時間の一致率九九・九パーセント以上で重複と判定します」
「読みが違えば別人か?」
「別人です」
二人は顔を見合わせた。
「ケンジとケンイチなら?」
「読みが違いますので別人として扱われる可能性があります。ただし周囲がその名で呼び、本人が受け入れる必要があります。当局のシステムは旧世代でして」
「誰が審査してるんだ」
「審査中のため回答できません」
ケンジは額を押さえた。宇宙は広い。だが役所は狭い。
その夜、サトウは言った。
「当初、あなた方の期限は七十二時間でした。しかし本日、東京全域で約十四万件の重複が確認され、期限はリセットされました。新たな期限は月曜の零時です」
テレビでは異常事態が報じられていた。
『本日都内で自分とそっくりな人物を目撃したという通報が約十四万件に達しました』
画面のキャスターの隣には、キャスターと全く同じ顔の人物が座り、同じニュースを読んでいた。
「東京だけか?」
「世界各地で発生しています。東京だけでも十四万人が削除対象になる可能性があります」
その瞬間、ケンジAは自分一人が助かる方法を考えるのをやめた。
六章 十四万人の田所
日曜の朝、東京は同じ顔で溢れていた。駅員が二人、コンビニ店員が二人、交番の警察官が二人。アナウンスはわずかにずれて二重に響いた。
会社の会議室にケンジA、ケンジB、ミユキ二人、サトウが集まった。
「方法はある」
ケンジBがホワイトボードに書いた。
重複判定キー:①氏名の読み ②生年月日 ③遺伝情報 ④主要な記憶
「一番変えやすいのは名前だ。うちの顧客データベースでも『株式会社』と『(株)』が別会社として扱われて請求書が二重に飛んだことがある」
「それは直した方がいいですね」とミユキが言った。
ホワイトボードに大きく書かれた。
表記揺れ作戦。
サトウが眼鏡を押し上げた。
「理論上は可能です。名前を変え、周囲がその名で呼び、本人が受け入れ、異なる経験を積むこと。そうすれば別人です」
ケンジBは自分の名札を見た。三十八年間呼ばれた名前だった。
「……変えられるかな」
七章 ゴトウ部長の通達
日曜の昼過ぎ、東京中のテレビ、スマホ、電光掲示板が一斉に切り替わった。灰色の背景、灰色の机、立派な眉毛の初老の男。
『聞こえておりますでしょうか。宇宙管理局、整合性維持部、部長のゴトウです。このたびは当局の重複事故により多大なるご迷惑をおかけしております。ただし規定により、月曜零時の削除処理は予定通り実施いたします。例外は認められません。なお削除対象は先に発見された個体を保存し、後に発見された個体を削除する先着優先の原則に基づきます』
「ふざけるな!」「それ、聞いてないぞ!」
『田所ケンジ様の場合、先に発見されたのはケンジ様です。したがってもう一方の田所ケンジ様が削除対象となります』
ケンジBは黙っていた。ケンジAは初めて自分が助かることを素直に喜べなかった。
その夜、サトウの仲介でケンジAは宇宙管理局の臨時会議にオンライン出席した。灰色の役人たちが並んでいる。
ケンジAは資料を共有した。『宇宙管理局重複データ処理に関する運用改善提案書』三十七ページ。九年間上司の無茶ぶりに耐えた係長の渾身の書類だった。
「判定基準が厳しすぎること、記憶の変化が反映されていないこと、そして同じ顔の人々が異なる経験を積むことで一致率が急速に低下していること。削除ではなく別名で保存してください。重複ではなく派生データとして扱うのです」
「別名保存という機能が実装されていないなら、僕が作ります。僕は情報システム課の係長です。九年間仕様変更の無茶ぶりを受け続けてきました」
ゴトウ部長は初めて笑った。
「それでは稟議にかけましょう。承認までの所要時間は通常四十八時間です」
「間に合いません!」
「でしょうね。しかしハンコが一個足りないだけで宇宙は止まる。逆もまた然りです」
机の上に巨大な判子が置かれた。
八章 ケンイチ作戦
月曜午前六時。残り十八時間。
「ケンジをケンヂにしても読みは同じで意味がありません」とサトウが言った。
ケンジBはしばらく黙ってから、胸の社員証を裏返してポケットにしまった。
「今日から、私はケンイチになります。漫画を描いていた頃の自分に戻るんじゃなくて、続けます」
「わかった。ケンイチ、よろしくな」
その一言でケンジBの表情が少し変わった。もう一人のミユキも言った。
「私はミユと呼んでください。さんは要りません!」
オフィスに笑い声が起きた。誰かがSNSに投稿した。
『重複削除は表記揺れで避けられるらしい』
サトウが上司に内緒で流した情報は数時間で東京中に拡散し、渋谷では同じ顔の人間たちが新しい名前を叫び合っていた。「今日から俺はヒロキだ!」「じゃあ私はヒロミ!」
だが夕方になっても六万人が重複判定のままだった。
「残り六時間です」ケンジAはケンイチを見た。「お前、まだ引っかかってるんじゃないか」
ケンイチは名札のない胸元を見つめた。「名前を変えても、中身が変わらない気がするんです」
名前を変えるだけでは人生は変わらない。選んだ道を歩き始めなければ。
九章 スクランブル交差点の百人のハチ公
月曜の夕方、渋谷は世界で最も奇妙な場所になっていた。ハチ公像が一体、その周りにハチ公の格好をした人間が百人集まっていた。
「なぜハチ公なんですか」「個性を出したいんです」「なぜ全員同じ個性なんですか」
信号が青に変わり数千人が一斉に歩き出し、同じ顔がすれ違うたびにぎょっとして会釈した。日本人はどんな異常事態でも会釈をする。
そのとき大型ビジョンが切り替わった。白石ミユキが二人映っていた。ミユキAはミユキBのイヤリングを、ミユキBはミユキAのスカーフを巻いていた。
「私たち同じ服を着るのをやめて、お互いの好きなものを交換してみたんです。そうしたら気づきました。同じ顔でも同じ人間じゃないんです!」
交差点がどよめき、誰かが笑い出した。一人、二人、やがて数千人の笑い声が広がり、人々は互いの服や持ち物を交換し始めた。
端末を見ていたサトウが言った。「一致率、急降下。特に渋谷区、新宿区、港区」
「私は二千年近くこの仕事をしてきましたが、人間が重複を遊びに変えるのを見たのは初めてです」
灰色の顔にわずかな皺が浮かんだ。笑顔だった。
十章 七十二時間目
午後九時、東京タワーの展望台。窓の向こうにはいつもと同じ夜景が広がっている。
「正直に申し上げます。今回の件で私は始末書を書くことになるでしょう。勝手に情報を流しましたので」
「あなたが流したのか」「はい。規則を守ることと人を守ることが一致しないと気づきましたので」
サトウは少しだけ笑った。「実は私も重複データなのです。もともとサトウという名前の十七番目の重複でした。サトウとサトーの違いで削除を逃れたのです。現在十六人が別名で保存されています」
「宇宙って思ったより適当だな」「まったくです」
「ただケンイチ様、あなたの場合は名前だけでは足りません。記憶の一致率を下げる必要があります。二人の人生を決定的に違うものにすることです」
ケンジAは思い出した。漫画だ。
「ケンイチ、描けるか。今から一本、四コマでいい。お前が捨てた夢を、俺に見せてくれ」
ケンイチは鞄からペンを取り出し、床に座って紙に向かった。ケンジAは横に座り、サトウは三人分のコーヒーを買いに行った。
午後十一時、手が止まった。四コマが完成していた。
一コマ目、くたびれたサラリーマンが駅のホームで自分と出会う。
二コマ目、二人は驚きながら会釈する。
三コマ目、実は二人とも同じ漫画を描いていた。
四コマ目、二人の背後で地球が割れている。
「……オチが雑すぎないか」ケンジAは笑いながら泣いていた。「最高だよ。俺には絶対描けない」
その瞬間、サトウの腕時計が鳴った。「判定が更新されました。氏名の読み、不一致。主要な記憶の一致率、九七・二パーセント。閾値を下回りました」
十一章 稟議、午前零時
午後十一時三十分、別名保存申請書が完成した。A4で三十七ページ。『宇宙管理局重複データ処理に関する運用改善提案書』。ケンジAは残業の経験のすべてをかけて書き上げた。
展望台に小さなテーブルが広げられ、判子台が六つ並んだ。
「必要な承認印は六つ。担当、係長、課長、次長、部長、局長です」
最初の判子はサトウが押した。印影は『サトー』だった。「サトウでは十七番目の重複として処理される可能性がありますので」
二つ目はケンジAが押した。『田所』。三つ目は重複削除課の課長、灰色の女性がオンラインから静かに押した。「いい企画ね。私も昔削除されかけたことがあるの」
四つ目次長、五つ目部長。ゴトウ部長は書類をめくった。
「田所様、三十二ページ目。『表記揺れを積極的に許容することでシステムの寛容性が向上する』という一文。これは当局の思想にも触れますな」「承知しています」「よろしい」
にやりと笑ってドンと押した。
「残るは局長のみですな」
午後十一時五十五分、画面が切り替わった。巨大な白い人影。顔も性別も判別できない。
『局長です。田所ケンジ、あなたの書類を読みました。一点確認します。あなたはなぜ削除を止めたいのですか』
ケンジは東京の夜景を見た。
「僕は三十八年間ずっと何も選んでこなかった人間です。選ばないことが安全だと思ってきた。でもこの三日間で気づきました。選ばなかった道も誰かがちゃんと歩いていたんだって。選ばなかった僕を消したら、今まで係長として生きてきた僕自身も否定することになる気がしたんです。だから消さないでください。選ばなかった人生も、失敗した人生も、全部残してください」
長い沈黙のあと、局長は答えた。
『……承認』
ドン、と宇宙のどこかで巨大な判子の音が響いた。世界中の端末に通知が表示された。
『別名保存機能を実装します。なお本機能の正式運用開始には追加の稟議が必要です』
「最後までそれか!」「ご安心ください。今回は局長の承認が済んでおります」「だったら今すぐ実装しろ!」「はい。現在再起動中です」「宇宙を再起動するな!」
十二章 ホームのこちら側
午後十一時五十九分、東京は静まり返っていた。十四万人の重複した人々がそれぞれの場所でもう一人の自分の手を握っていた。
ケンジAのスマホが震えた。ミユキからのメッセージ。『SNS見てください』
画面には無数の投稿が並んでいた。
『重複した自分に手紙を書いた。初めて素直になれた気がする』
『自分のコピーに君はこっちで頑張れと言われた。俺はあっちで頑張る』
サトウの腕時計が鳴った。「記憶の一致率が東京全域で急降下しています。人々が自分の人生を選び直し始めています。当局のシステムは同じ人間が同じ時間に違う経験を積むことを想定していませんでした」
「つまり?」「つまり宇宙のシステムが人間に追いつけなくなったのです」
零時。時計の針が重なった。東京の空に音もなく光の粒が降り注いだ。
消えるはずだった人々の頭上に小さな文字が浮かんだ。
『別名で保存しました』
誰も消えなかった。
翌朝、ケンジAはいつもの私鉄のホームに立っていた。向かいのホームに襟をきちんと直した男がいた。
「ケンイチ!」
二人は口の形だけで会話した。
『お前元気か』『はい。連載決まりそうです』『嘘だろ』『嘘じゃないです』
ケンイチは『漫画家 田所ケンイチ』、ケンジAは『ニッポン・ロジスティクス 課長 田所ケンジ』の名刺を持っていた。同じ顔、同じ苗字、違う人生。
ホームの隅に灰色の名刺が一枚落ちていた。『宇宙管理局 別名保存課 担当:サトー』
「……サトウじゃなくてサトーか」
表記揺れ。世界はそうやって今日もぎりぎりのところで続いていく。
十三章 一年後のホーム
一年後、東京は驚くほど普通に戻っていた。人々はあの三日間を重複騒動と呼んだ。国会では「個人の表記に関する基本法」という、自分が名乗った名前は尊重しましょうという法律が満場一致で可決された。官房長官は二人のまま別々の記者会見を開き続け、たまにハモる。
情報システム課は課に昇格し、ケンジAは課長になった。
「田所課長、来週の会議資料です」「ありがとう、ミユキ」「ミユ、じゃなかったんですか?」「あれは期間限定でした」
もう一人のミユキは今、福岡でパン屋を開いている。毎週メロンパンが届く。
帰り道、書店に寄ると平台に漫画が積まれていた。『ホームの向こうの、僕』作者 田所ケンイチ。帯には『累計三十万部突破! 笑って泣けるドッペルゲンガー・コメディ』。冒頭にはあの四コマが載っていた。
「……直せよ、オチ」
奥付には小さく『この作品はフィクションです。ただしモデルになった「兄」には深く感謝します』とあった。
その夜、午後十一時四十分、ケンジはあのホームに立っていた。右隣に気配を感じると、くたびれたスーツの男が立っていた。左頬のほくろが右側にあった。
「田所ケンジさんですか? サトーさんからお名前を伺いました」
男は『別名保存申請書 テンプレート』を取り出した。表紙には『宇宙管理局重複データ処理に関する運用改善提案書 作成者:田所ケンジ』とある。
「いつの間にテンプレートになってるんだ」「大人気ですよ。宇宙中で使われています」
向かいのホームに電車が滑り込み、去っていく。その向こうにもう一人誰かが立っていた。ケンジはそっと手を挙げた。相手も遠くから手を挙げ、口の形だけで言った。
『ちょっと、お話、いいですか』
ケンジはにっこりと会釈を返した。
「ええ、どうぞ」
余談 サトウさんの退職願
重複騒動のあと、サトウは退職願を提出した。ゴトウ部長はしばらく黙ってから引き出しを開け、同じ書類をもう一枚取り出した。
「実は私も書いていたのだよ。田所ケンジという男の企画書が届くまでは出すつもりだった」
「では始末書は?」
「受理したよ。懲戒ではなく表彰だ。『宇宙の寛容性向上に寄与した者』としてな」
「表彰状の宛名は?」
「サトウでいいのか、それともサトーか」
サトウは少し考えて答えた。
「両方でお願いします。別名保存で」
その日、入口の札が掛け替えられた。
『重複削除課 改め 別名保存課』
灰色の職員たちがほんの少しだけ楽しそうに働き始めた。ただし申請書は以前より二枚増えた。宇宙は今日も誰かのバージョン違いをそっと保存している。
―了―
Amazon Kindle
あとがき
ドッペルゲンガーを見ると数日以内に死ぬ。そんな都市伝説は今も語り継がれています。
けれどもし自分とそっくりな誰かに出会ったら、その相手は本当に自分を消しに来たのでしょうか。それとも自分が選ばなかった人生を、代わりに生きてきた誰かなのでしょうか。
私たちは人生の節目でたくさんの選択をします。
進学するか、就職するか。夢を追うか、諦めるか。あの人に気持ちを伝えるか、胸の奥にしまっておくか。
選ばなかった道については、いつしか考えなくなります。けれど選ばなかったからといって、その道に意味がなかったわけではありません。
もし別の世界にもう一人の自分がいるとしたら、そこでは私たちが諦めた夢を今も追いかけているのかもしれません。失敗しながら、遠回りしながら、ときには笑いながら。
この物語のケンジは最後に気づきます。選ばなかった人生を消す必要はない。今の自分を否定する必要もない。大切なのはどちらが本物かを決めることではなく、それぞれの人生を生きることなのだと。
宇宙の管理システムがいつか本当に更新されるかは分かりません。
ただ、もし自分とそっくりな誰かに出会ったら、怖がる前に少しだけ話をしてみてもいいのかもしれません。
そして最後には、そっと会釈を。

