一週間遅れの「好き」
時差と遅配の、不思議なSF恋愛物語
まえがき
この物語を思いついたのは、孫がタブレットを手に、地球の裏側にいる友達と笑い合っているのを見た日でした。
今は、指先ひとつで「好き」が届きます。返事は瞬時に返ってきて、遠く離れた相手の顔さえ、画面の向こうに見ることができます。
けれど、昔は違いました。
手紙を書き、封をして、ポストに入れる。相手に届くまで一週間。返事が戻ってくるまで、さらに一週間。
その間、人は何をしていたのでしょう。
ただ待っていたのか。それとも、届かない言葉を胸の中で何度も読み返し、相手を思うことで、知らず知らずのうちに気持ちを育てていたのでしょうか。
便利さを否定するつもりはありません。私自身、今の時代の恩恵をありがたく感じています。
ただ、待つ時間の中にしか生まれないものも、確かにあったような気がするのです。
この物語は、そんな思いから生まれた、時差と遅配の不思議な恋愛SFです。
KDDの交換台、赤電話、水色の航空便の封筒。そこには、私自身の記憶の断片も織り込まれています。
もし、あなたにも、もう連絡を取れなくなった誰かがいるのなら。
日曜日の夜九時、ほんの三分だけ、その人を思い出してみてください。
もしかすると、遠いどこかでも、同じ時間に誰かがあなたを思い出しているかもしれません。
序 二〇二六年、秋
日曜日の朝、孫の結衣がタブレットを抱えて縁側に座り込んだ。
「おじいちゃん、見て。リスボンのマリアが、今日行ったお店の写真を送ってきた」
画面には、石畳の坂道と黄色い路面電車が映っていた。
続いて、メッセージがぽん、ぽん、と跳ねるように届く。
〈今日はここへ行ったよ〉
〈このお店、かわいくない?〉
〈そろそろ遊びに来ない?〉
結衣は笑いながら返信を打っている。
地球の裏側にいる友達も、隣の部屋にいる友達も、この子の世界では何も違わないらしい。
僕、水無瀬隼人、七十二歳は、その横顔を眺めながら湯呑みを両手で包んでいた。
いつの間にか、世界は狭くなった。
狭くなりすぎて、ときどき、少し寂しくなるほどに。
「ねえ、おじいちゃんにもいた? 地球の裏側の友達」
結衣の何気ない質問に、湯呑みの中のお茶が小さく揺れた。
「……いたよ」
「どんな人?」
「手紙の人だ」
「手紙? スタンプとか使わないの?」
「使わない。使えない。そもそも、返事が届くまでに一週間かかった」
「一週間!」
結衣は目を丸くした。
「その間、何してたの?」
「待ってた」
僕は笑った。
「それしか、できなかったからな」
そのとき、門の前でバイクの止まる音がした。
郵便配達の青年が、一通の封筒を差し出した。
「水無瀬さん、航空便です。珍しいですね、これ」
受け取った瞬間、指先がしびれた。
薄い水色の封筒。
縁には赤と青の斜めの縞模様。
航空便の、あの封筒だった。
切手はブラジルのもの。消印の日付は、一九七六年十月十八日。
五十年前の今日だった。
差出人の欄に、懐かしい字が並んでいた。
丸みを帯びて、少し右に傾いた、あの字。
〈Mio Fujisawa — São Paulo〉
「おじいちゃん?」
結衣の声が遠くに聞こえた。
「顔、真っ白だよ」
封筒は黄ばんでいなかった。
切手も、消印も、宛名も、すべてが五十年前のものなのに、水色の紙だけは、まるで今朝、郵便局で買ってきたばかりのように鮮やかだった。
僕は、しばらく動けなかった。
五十年。
この手紙は、五十年かけて、ここへ届いたのだ。
いや。
本当は、五十年もかかったわけではないのかもしれない。
ただ、僕たちの間にあった何かが、ずっと、この手紙を足止めしていたのだ。
僕はそのとき、すべてを思い出していた。
あの一年と、あの不思議な遅れのことを。
一 KDDの交換手
一九七五年。
僕は二十歳で、東京の大学に通っていた。
澪に出会ったのは、その年の春、神保町の古書店だった。
洋書の棚の前で、背伸びをして一番上の辞書に手を伸ばしている女の子がいた。
僕が代わりに取ってやると、彼女は「ありがとう」と言ってから、少し困った顔で付け加えた。
「ポルトガル語の辞書って、こんなに高いのね」
藤沢澪。
僕と同い年だった。
両親が仕事でブラジルに渡り、十代の半分をサンパウロで過ごしたという。日本には大学に通うために戻ってきたのだそうだ。
日本語は完璧なのに、ときどき、ふっと言葉を探す。
そのたびに彼女は、窓の外の遠いところを見るような目をした。
「日本にいると、時計がひとつ足りない気がするの」
初めて二人で喫茶店に入った日、澪はそう言った。
「足りない?」
「サンパウロは、ここと十二時間ずれてるでしょう。だから、向こうの家族の時間も、いつも頭のどこかで数えてる。今、父さんは朝ごはんかな。母さんは寝る支度かな、って」
「それ、疲れない?」
「疲れない。だって、それが家族だから」
彼女はコーヒーに角砂糖を二つ落とした。
「でもね、遠くの人のことを考える時間って、不思議と、近くの人より濃いのよ」
僕は、その言葉の意味を、ずっと後になるまで本当には理解できなかった。
それから一年、僕たちはほとんど毎日会った。
図書館で、古書店で、夜の神田川のほとりで。
何を話したのかは、もうあまり覚えていない。
覚えているのは、澪が笑うとき、いつも先に目が笑うこと。
彼女の歩幅が僕より少し小さくて、並んで歩くと、僕のほうが自然とゆっくりになること。
喫茶店で向かい合うと、彼女はときどき、僕の顔をじっと見た。
「何?」
「ううん。覚えておこうと思って」
「何を?」
「今の隼人くん」
「毎日会ってるじゃないか」
「毎日会えることと、覚えておけることは違うでしょう?」
僕には、よくわからなかった。
二十歳の僕には、明日も、来週も、その次の春も、当たり前のように続く気がしていた。
別れは、予告されていた。
一九七六年の二月。
澪の父親の会社から、サンパウロに戻る辞令が出た。
家族を呼び戻す必要があり、澪も一度、帰らなければならなくなった。大学は休学。日本に戻れる時期は、わからなかった。
羽田の展望デッキは寒かった。
「手紙を書くわ」と澪は言った。「毎週、必ず」
「僕も書く」
「約束ね」
彼女はポケットから小さな紙片を出した。
住所が、整った文字で書かれている。
「失くさないで。これがないと、私たち、世界の端と端でただの迷子になっちゃう」
そう言って笑った目が、少し濡れていた。
僕は何か気の利いたことを言おうとした。
けれど、結局、言えなかった。
代わりに、彼女の手を握った。
飛行機が滑走路へ向かう。
澪は窓際の席に座っていた。
機体が動き出す直前、彼女は小さく手を振った。
僕も手を振った。
ジェット機が灰色の空に吸い込まれていく。
見えなくなってからも、僕はずっと同じ場所に立っていた。
最初の手紙が届いたのは、それから八日後だった。
水色の封筒に、ブラジルの切手。
僕は下宿の階段に座り込んで、すぐに封を切った。
〈隼人くんへ
無事に着きました。
飛行機は長くて、窓の外の夜がずっと終わらなかった。
こっちは夏です。暑くて、空が高くて、でも朝起きて、一番にあなたの顔が浮かびます。
今日は、あなたのいる東京の夜の時間に、同じ月を見ました。
同じ月かな。違う月みたい。
澪〉
日付は、一週間前だった。
僕はそれを読んで、ふと奇妙な感覚にとらわれた。
ここに書かれているのは、一週間前の澪の気持ちだ。
今この瞬間の澪は、もう違うことを考えているかもしれない。
手紙の中の彼女は、すでに過去の人なのだ。
もちろん、そんなことは当たり前だった。
けれど、当たり前だと思っていたことが、急に寂しくなった。
僕はすぐに机に向かい、返事を書いた。
今日のことを書いた。
授業で居眠りをしたこと。古書店の店主に、澪の好きだった詩集を見せてもらったこと。喫茶店で、いつも二人で座った窓際の席が空いていたこと。
最後に、こう書いた。
〈こっちは、まだ寒いです。そっちは夏なんだね。季節まで、遠くに行ってしまったみたいだ。
でも、僕は毎日、君のことを考えています。
好きです。
この手紙が届く頃にも、そう思っているはずです〉
書き終えて、封をして、ポストに入れた。
そして気づいた。
この手紙が澪に届くのは、おそらく一週間後。
そのとき僕は、もう今日の僕ではない。
つまり僕たちは、いつも一週間分ずつ、相手の「昔」と話をしているのだった。
それでも、僕は嬉しかった。
一週間遅れの「好き」でも、「好き」は「好き」だ。
そう思っていた。
最初のうちは。
二 三千円の三分間
一ヶ月が過ぎたころ、澪の手紙に初めて、小さな綻びが差した。
〈毎週書くって言ったのに、今週は一日遅れました。ごめんなさい。こちらの郵便局の窓口が混んでいて、出すのが遅くなってしまったの。
でも、ちゃんと書いています。
隼人くんは?〉
僕は笑った。
たった一日、手紙を出すのが遅れただけで、こんなに丁寧に謝る。
それが澪らしかった。
その週の僕は、少し無理をした。
アルバイトの給料を握りしめて、国際電話に挑んだのだ。
当時、海外に電話をかけるのは、今のように簡単ではなかった。
国際電話の窓口に申し込み、相手の番号と国名を伝え、交換手が回線をつないでくれるのを待つ。
すぐにつながるとは限らない。
僕はその夜、下宿の廊下にある赤電話の前に座って、受話器を握りしめたまま待った。
小銭を用意し、何度も腕時計を見た。
やがて電話が鳴った。
「サンパウロとおつなぎします。お話しください」
交換手の声のあと、受話器の向こうで、遠いベルが鳴った。
カチ、カチ、とノイズが入る。
誰かが受話器を持ち上げる気配がした。
「……ハロー?」
澪の声だった。
少し遅れて、少しだけ割れて、でも確かに澪の声だった。
僕の喉は固まってしまった。
言うことは山ほど用意してきたはずなのに、最初に出たのは、情けないほど小さな声だった。
「……もしもし」
「隼人くん? 本当に?」
「うん」
「どうしたの、こんな時間に。お金、かかるでしょう」
「かかる」
「馬鹿ね」
澪が笑った。
その笑い声が、受話器の向こうから届くまで、ほんのわずかな間があった。
僕がしゃべる。
少し遅れて、彼女が聞く。
彼女が答える。
少し遅れて、僕が聞く。
その間が、二人の間にある何千キロもの距離を、もどかしいほど正確に測っていた。
三分間話した。
何を話したのか、ほとんど覚えていない。
「元気?」
「元気」
「暑い?」
「暑い」
「ご飯、食べてる?」
「食べてる」
そんな、手紙にすら書かないようなことばかりだった。
けれど受話器を置いたとき、僕の手はまだ震えていた。
翌月、電話代の請求が届いた。
三分間の会話に、僕の一ヶ月分の食費に匹敵する金額が消えていた。
聖徳太子の顔が印刷された一万円札を、財布から出すときの感覚を、僕は今でも覚えている。
たった三分。
それでも、後悔はなかった。
若かった僕には、そんなことを何度も繰り返す余裕はなかった。
結局、僕たちは手紙に頼り続けた。
航空便なら一週間ほど。
船便なら、もっと長い。
一週間という時間は、今思えば、短いものだったのかもしれない。
夏になった。
僕は分厚い辞書を机の上に広げ、澪の手紙に混じるポルトガル語を一語ずつ引いていた。
彼女はときどき、日本語に置き換えられない言葉を、わざとそのまま手紙に混ぜた。
〈この前、saudadeという言葉を考えていました。
会えない人を思う気持ち。
ただ寂しいというだけじゃないの。
会えないことが寂しいのに、その人を思う時間まで、どこか愛おしくなる。
日本語には、ぴったりの言葉がない気がするの〉
僕は辞書を引いた。
いくつかの訳語は見つかった。
郷愁。懐旧。思慕。
けれど、どれも少し違うように思えた。
一語で言い当てられない気持ちを、僕は一時間かけて辞書の中から探した。
それでも見つからなかった。
返事の手紙の最後に、ひらがなでこう書いた。
〈さうだーじ。
わかった気がします。
たぶん、いまの僕の全部のことです〉
書き終えて、封をして、ポストに入れた。
その日から、おかしなことが始まった。
手紙が、遅れはじめたのだ。
最初は気のせいだと思った。
一週間ほどで届くはずの澪の手紙が、九日かかった。
次は十日。
その次は十三日。
日付を確かめた。
澪は毎週、きちんと手紙を書いている。
消印も、毎週押されている。
それなのに、手紙が僕の手元に着くまでの日数だけが、少しずつ、少しずつ伸びていく。
郵便局に聞いても、首をかしげられるばかりだった。
「航空便でも、いろいろありますからね」
それ以上の説明はなかった。
そして、さらに不思議なことがあった。
僕の手紙のほうも、同じように遅れていたのだ。
澪の次の手紙には、こう書いてあった。
〈あなたの手紙、今週は十六日目に届きました。
私、何か悪いことをしましたか?
それとも、あなたが私を忘れてしまったの?〉
僕は慌てて返事を書いた。
違う。そうじゃない。
僕は忘れてなどいない。
毎日、君を思っている。
けれど、その手紙がきちんと澪の手に届くかどうか、僕にはもう確かめるすべがなかった。
遠さというのは、距離のことだと思っていた。
けれど、そのとき初めて、それがどうやら距離だけではないらしいと、僕は薄々気づきはじめていた。
三 遅配の番人
秋のはじめ、澪からの手紙は二十三日かかった。
僕は大学の授業を休み、東京中央郵便局の国際郵便の窓口へ行った。
事務の女性は気の毒そうに首を振り、奥から年配の職員を呼んできた。
久世、という名札をつけた白髪の男だった。
名札の字は古い活字のように少し擦り減っていた。
眼鏡の奥の目が、不思議と少年のように澄んでいた。
「ブラジルとの手紙が、遅れるんだって?」
「はい。しかも、だんだんと」
久世さんは、封筒を一通、手に取った。
消印を確かめ、宛名を指でなぞり、それから僕を見た。
「君は、相手のことを考えて手紙を書いているかい?」
「もちろんです」
「相手にどう思われるか、考えながら書いているかい?」
「それは……」
「自分の気持ちを伝えるために書いているか。それとも、相手を心配させないために、言いたいことを飲み込んでいるか」
僕は答えられなかった。
久世さんは何も言わず、僕を連れて長い廊下を歩いた。
蛍光灯の唸る階段を降り、地下の倉庫のような部屋に入る。
棚が、天井まで続いていた。
そこには何千通もの手紙が、整然と並んでいた。
宛先不明でも、返送でもない。
どれも、まだ誰にも届いていない手紙だった。
消印の日付は、昭和三十年代のものから、つい先月のものまである。
「遅配室、と私らは呼んでる」
久世さんが言った。
「公式には、存在しない部屋だがね」
「これは……」
「届くはずの手紙だよ。ただ、まだ着いていない」
僕は笑おうとして、うまく笑えなかった。
久世さんの声が、あまりに静かだったからだ。
「君は、手紙が何で運ばれていると思う?」
「飛行機と、トラックと、人です」
「それは体の話だ」
久世さんは、棚に並んだ封筒を見渡した。
「手紙には、もう一つ、運ぶ力がある」
「運ぶ力?」
「書いた人が、相手に向けた気持ちだよ」
僕は黙っていた。
「ただし、好きだと思う気持ちの強さだけじゃない。相手に本当のことを伝えようとする力だ。相手を信じて、自分の弱さまで渡そうとする力だ」
久世さんは、古い封筒を一通抜き出した。
宛名は神戸の住所。
消印は、昭和三十四年。
「これはね、娘さんが父親に出した手紙だ。長い間、仲違いをしていたそうだ」
「届かなかったんですか?」
「郵便としては、何度も届けようとしている。だが、手紙が最後の一歩を踏み出せない」
「そんなことがあるんですか」
「あるとも。少なくとも、ここではね」
久世さんは封筒を棚に戻した。
「娘さんは、父親に謝りたかった。父親も、娘に会いたかった。けれど、どちらも相手から先に来るのを待っていた。手紙には謝罪が書いてある。けれど、その次の行には、相手を責める言葉がある。謝りたい気持ちと、傷つけられた気持ちが、同じ封筒の中で引っ張り合っている」
「それで、届かない?」
「届くときもある。だが、時間がかかる」
久世さんは僕を見た。
「君たちの手紙も、そうなっているのかもしれないね」
僕は、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
「じゃあ、僕と彼女の手紙が遅れるのは、僕たちの心が離れているからですか」
「離れている、というより、互いに相手を思いやるあまり、本当のことを言えなくなっているんじゃないかね」
僕は、返す言葉を失った。
久世さんは棚の前に立ち、背中を丸めた。
「遠くの人に手紙を書くとき、人はよく、いい自分を送りたがる。元気だよ。心配しないで。大丈夫だよ。そんな言葉ばかり並べてしまう」
「……」
「でも、相手が本当に受け取りたいのは、元気な君の報告だけじゃない。君が寂しいこと。困っていること。どうしようもなく会いたいこと。そういう、少し格好の悪い本当の気持ちなんだ」
久世さんは、僕の肩に手を置いた。
「君は彼女に、寂しいと言ったかい?」
僕は、答えられなかった。
「彼女は君に、寂しいと言ったかい?」
澪の手紙を思い出した。
〈あなたがいないと、こちらの空が広すぎる気がします〉
〈大丈夫です。ちゃんと食べています〉
〈心配しないでください〉
僕たちは、互いに心配をかけないように、少しずつ本当の気持ちを隠していたのかもしれない。
「どうすれば、いいんですか」
僕は尋ねた。
久世さんは、しばらく考えた。
「まず、約束をすることだね」
「約束?」
「毎週、決まった時刻に、相手を思う。手紙を書く必要はない。ただ、三分間、相手のことを思うんだ。自分がどう見られるかも、相手が何を返してくれるかも考えずに」
「それで、手紙が届くんですか?」
「それはわからない」
久世さんは、あっさりと言った。
「ただ、同じ時間に相手を思うことはできる。離れていても、同じ時刻に、同じ人を思い出す。その時間だけは、二人の時計を合わせられるだろう」
僕は、しばらく黙っていた。
「日曜日の夜九時にします。東京の時間で」
「サンパウロでは?」
「朝の九時です」
「いい時刻だ」
久世さんは、少しだけ笑った。
「忘れないことだね。手紙を届けるためだけじゃない。君自身が、何を大事にしているのか、忘れないために」
僕は礼を言い、遅配室を出た。
階段を上るとき、背中に久世さんの声が追いかけてきた。
「君。手紙が遅れることより、怖いことがある」
僕は振り返った。
「何ですか?」
「届いていないと思い込んで、もう書かなくなることだよ」
その夜、僕は一晩かけて長い手紙を書いた。
久世さんの話は書かなかった。
信じてもらえるはずがない。
ただ、約束だけを書いた。
〈毎週日曜日の夜九時、東京時間で。
サンパウロは、ちょうど朝の九時です。
その時間に、お互いに、相手のことを思う。
手紙のことは忘れて、ただ、三分間だけ。
僕は、その時間に君を思います。
君も、同じようにしてくれたら嬉しいです〉
返事は、いつもより長くかかった。
それでも、返事は来た。
〈いいわ。やりましょう。
素敵な約束ね。なんだか、星に祈るみたい。
日曜日の朝九時。
その時間は、私のものでもあるし、隼人くんのものでもあるのね。
澪〉
次の日曜日から、僕は夜九時になると窓を開け、空を見上げた。
東京の空は、雲に覆われていることもあった。
月が出ている夜もあった。
サンパウロの朝に、澪が何をしているのかはわからない。
コーヒーを飲んでいるのだろうか。
ベランダの洗濯物を取り込んでいるのだろうか。
それとも、僕と同じように、空を見ているのだろうか。
僕は目を閉じた。
澪の声を思い出した。
目が先に笑う顔を思い出した。
三分。
それだけで、不思議と胸の奥が温かくなった。
手紙は、少しずつ早くなった。
二十日。
十七日。
十二日。
十一月の終わりには、九日で届くようになった。
あと一日。
あと、たった一日で、僕たちは、最初の頃の距離に戻れる。
僕はそう信じていた。
そして、その頃、母が倒れた。
四 届かなかった返事
母の入院は三ヶ月に及んだ。
僕は故郷の病院と東京を往復し、大学を休み、アルバイトを増やした。
下宿に戻っても、机に座る気力がなかった。
日曜日の夜九時。
僕は病室の簡易ベッドで眠りこけていて、窓の外の月のことなど考えもしなかった。
一度。
二度。
三度。
約束を破った、という自覚はあった。
けれど、澪に説明する手紙を書く余裕がなかった。
書けば、母の病状を書くことになる。
そうすれば、彼女は心配し、自分を責めるだろう。
ならば、母が落ち着いてから、まとめて書こう。
そう考えた。
黙っていることが優しさだと思い込んでいた。
愚かだった。
手紙の遅れは、また伸びはじめた。
十日。
十四日。
二十日。
澪の手紙の調子が変わった。
〈あなたからの返事が、ないのね。
忙しいのだと思います。分かっています。
でも、少しだけ、さびしい。
私、日曜日の朝九時になると、コーヒーを淹れて、窓のところに座るの。
あなたが今ごろ、どんな顔をしているのか考えます。
でも、この頃は、あなたが私のことを思い出してくれているのか、わからなくなりました〉
僕は何度もペンを握り、そのたびに手が止まった。
何を書いても、嘘になる気がした。
母は春に退院した。
僕は大学に戻り、すぐに澪に長い手紙を書いた。
事情を、すべて書いた。
母が倒れたこと。
病院と東京を往復していたこと。
日曜日の約束を守れなかったこと。
そして、彼女に心配をかけたくないと思い、何も言えずにいたこと。
謝罪も書いた。
〈本当は、寂しかった。
母の病室で、君のことを何度も思い出した。
君に話したかった。
でも、何も話せなかった。
君に心配をかけたくないと思ったのに、何も言わなかったせいで、君をもっと心配させてしまった。
ごめんなさい〉
書き終えたとき、僕は初めて、少しだけ息ができるようになった。
けれど、返事は来なかった。
一週間。
二週間。
一ヶ月。
遅配室の久世さんのところへも行った。
けれど、窓口の人は、そんな職員はいないと言った。
地下室の鍵を借りても、いつか見た廊下の先は、ただの古い倉庫になっていた。
棚も、封筒も、久世さんも、どこにもいなかった。
僕は、ようやく悟りはじめていた。
手紙を引っ張る力は、僕の側だけでは足りないのだ。
二人で引かなければ、手紙は動かない。
そして僕は、一番大事なときに、その手を離してしまった。
いや。
本当は、手を離したつもりなどなかった。
ただ、黙っていれば、いつか元に戻ると思っていた。
母が元気になれば。
僕が落ち着けば。
手紙を書けるようになれば。
そのうち、澪もわかってくれるだろう。
けれど、人の心には、待つことのできる時間に限りがある。
相手を思う気持ちがあっても、何も伝えなければ、相手はその気持ちを受け取れない。
それは、今ならわかる。
けれど、二十歳の僕には、わからなかった。
そして、澪の側にも、事情があったのだろう。
若い二人には、それぞれの生活があった。
家族の病気。
学業。
仕事。
知らない土地での暮らし。
恋愛だけを中心に、世界が回ってくれるわけではない。
夏が来た。
秋が来た。
一九七六年の九月、僕は最後の手紙を書いた。
〈澪へ。
君からの手紙は、もう四ヶ月届いていません。
僕が悪かったのだと思います。約束を守れなかった。
君を思う気持ちは、変わりません。
でも、思うだけでは、君に届かない。
それが、この一年でわかったことです。
もし君が、もう僕を必要としていないのなら、それは仕方のないことです。
この手紙が最後になるかもしれません。
どうか、元気で。
隼人〉
投函して、僕は長いこと、ポストの前に立っていた。
それが、僕たちの終わりだった。
手紙は、その後、一通も来なかった。
僕は大学を卒業して就職し、結婚し、子供が生まれ、孫が生まれた。
妻は、七年前に亡くなった。
穏やかな、よい人だった。
僕は彼女を愛していたし、彼女も僕を愛してくれていた。
そのことに、疑いはない。
澪を忘れられなかったから、妻を愛せなかった、という話ではないのだ。
人の心は、そんなに単純ではない。
人生には、いくつもの季節がある。
それぞれの季節に、大切な人がいる。
その人と過ごした時間は、次の季節が来たからといって、消えてしまうわけではない。
それでも、人は人生のどこかに、小さな抽斗を持っているものだ。
僕の抽斗の奥には、一九七六年の、水色の封筒の束が、ずっと眠っていた。
開けることはなかった。
捨てることもなかった。
ただ、そこにあることだけは、知っていた。
五 五十年後の手紙
「おじいちゃん、ねえ、本当に大丈夫?」
結衣が僕の肩をゆすっていた。
僕は縁側に座り込んだまま、水色の封筒を両手で持っていた。
指先が、まだ震えている。
「大丈夫だ。……ちょっと、一人にしてくれるかな」
結衣は心配そうに僕の顔を見て、それから、何かを察したように小さくうなずいた。
「温かいお茶、淹れてくるね」
足音が遠ざかっていった。
庭の柿の木に、秋の光が斜めに差していた。
僕は封を切った。
糊の部分は、まるで昨日貼られたばかりのように、柔らかく剥がれた。
中から、同じ水色の便箋が三枚、折りたたまれて出てきた。
インクの青は鮮やかだった。
五十年前の青ではなかった。
今朝の青だった。
僕は、読みはじめた。
〈隼人くんへ
一九七六年十月十八日、月曜日の朝です。
昨日の日曜日、私は約束の時間に、窓辺に座りました。
でも、あなたのことを思いながら、何を考えているのか、自分でもわからなくなってしまいました。
あなたからの手紙を読み返して、泣きました。
最後の手紙だと書いてありました。
読んで、泣きました。そして、少し怒りました。
勝手に終わらせないで、と思いました。
でも、そのあとで、気づいたの。
あなたは悪くない。私も、悪くない。
ただ、お互いに、少し疲れてしまっただけ。
あなたが約束を守れなかった週、私も、守れなかったんです。
私の父が、工場で怪我をしました。
大きな怪我でした。
毎晩、病院に通いました。
あなたに言えなかった。
心配させたくなくて、そして、あなたが忙しいのを知っていたから、私のことなんかで煩わせたくないと思ったの。
同じことを、していたのね。
お互いに、相手を思うあまり、何も言えなくなって。
本当は、寂しかった。
本当は、あなたに会いたかった。
でも、そんなことを言ったら、あなたを困らせると思っていました。
私は、あなたにとって、困らせる人になりたくなかった。
それが、間違いだったのね。
久世さんという人に会いました。
あなたも会ったでしょう?
郵便局の地下にいる、不思議なおじいさん。
彼は言いました。
遅れるのは、気持ちが足りないからじゃない。
気持ちが、重なる場所を探しているからだ、と。
私は、その言葉を何度も考えました。
そうかもしれないと思いました。
私たちは、互いに相手のことを考えていた。
でも、相手に本当のことを伝えずにいた。
あなたを心配させたくない。
あなたを困らせたくない。
あなたに嫌われたくない。
そうやって、言葉を飲み込むうちに、手紙は私たちの間で立ち止まってしまったのかもしれません。
だから、これは別れの手紙ではありません。
私は今から、この手紙を書いて、封をして、ポストに入れます。
きっと、すぐには届かない。
あなたが、私のことを、もう一度、まっすぐに思い出してくれた日まで、この手紙は遠くで待っているでしょう。
一年先かもしれない。
十年先かもしれない。
もっと先かもしれない。
それでも、いいの。
いつか、世界が今よりもずっと小さくなって、思ったその瞬間に、声が届くような日が来たなら。
そのとき、もう一度、あなたに「ハロー」と言わせてください。
今度は、半秒も遅れずに。
日曜日の朝九時に。
約束ね。
藤沢 澪〉
読み終えても、僕はしばらく動けなかった。
庭の柿の木から、一枚、葉が落ちた。
風が、ゆっくりと通っていった。
五十年。
あの人は、五十年前の今日、この手紙を書いたのだ。
僕に届くのは、五十年後だと知らずに。
いや、もしかすると、知っていたのかもしれない。
なぜ、今日なのだろう。
久世さんの言葉が、ふっと頭に浮かんだ。
手紙が遅れるのは、気持ちが足りないからではない。
気持ちが、重なる場所を探しているからだ。
結衣に訊かれたのだ。
地球の裏側に、友達はいたか、と。
そのとき僕は、五十年ぶりに、澪のことを、まっすぐに、強く思い出した。
ただ懐かしむのではなく。
あの頃の自分を正当化するのでもなく。
澪がどんな気持ちで手紙を書き、どんな思いで返事を待っていたのか。
初めて、そのことを考えた。
僕は、あの人に、何も伝えていなかったのだ。
好きだという気持ちは、確かにあった。
けれど、好きだという気持ちを、相手が受け取れる形にして渡すことはできなかった。
そのことが、五十年たった今、ようやくわかった。
「おじいちゃん、お茶」
結衣が戻ってきた。
僕は顔を上げた。
「結衣。頼みがある」
「なに?」
「地球の裏側の人に、連絡を取りたい」
結衣は、僕の顔を見た。
「ブラジルの、サンパウロの人だ。名前は、藤沢澪という。五十年前に、別れた人だ」
結衣は湯呑みを置き、エプロンで手を拭いた。
そして、僕の顔をまっすぐに見た。
「……それ、すごく大事なことだね」
「うん」
「任せて。世界中の友達とつながってる私に、探せない人なんていないよ」
結衣は自信に満ちた顔で笑った。
それから、僕の手から水色の封筒をそっと受け取り、差出人の欄の文字を、丁寧に写真に撮った。
僕は、隣で見ていた。
五十年前なら、住所を頼りに手紙を書き、郵便局へ持っていくしかなかった。
今は、写真を一枚撮るだけで、世界中の誰かに尋ねることができる。
結衣は、いくつかの画面を行き来しながら、友達にメッセージを送っていた。
二時間ほど経ったころだった。
「おじいちゃん!」
結衣が声を上げた。
「見つかったかもしれない」
画面には、サンパウロの日系人会の交流ページが映っていた。
そこに、藤沢という名前の老婦人の写真があった。
小柄な人だった。
白い髪を短く切り、眼鏡をかけている。
そして、少し右に傾いた笑い方をしていた。
僕は息を止めた。
五十年前の澪が、そこにいた。
もちろん、五十年分の時間が顔に刻まれていた。
けれど、目が笑う順番だけは、変わっていなかった。
「この人かな?」
結衣が尋ねた。
僕は何度もうなずいた。
「……そうだ」
声が震えた。
「この人だ」
結衣は、その人のページに、丁寧なメッセージを書いた。
僕の名前と、手紙が届いたこと。
五十年前に知り合った日本の青年が、あなたと話したがっていること。
そして、もし迷惑でなければ、連絡を取りたいこと。
送信ボタンを押したあと、僕たちは、しばらく画面を見つめていた。
「ここから、どうするんだ」
僕が尋ねると、結衣は笑った。
「返事を待つんだよ、おじいちゃん」
「……待つのか」
「うん。今度は、そんなに長くないと思うけどね」
僕は笑った。
そうだ。
今度は、待つのだ。
五十年前と同じように。
ただし、今度は、何も言わずに待つのではない。
自分の気持ちを、ちゃんと伝えたうえで。
六 日曜日の夜九時
返事は、その日の夕方に届いた。
結衣がタブレットを持って、縁側へ走ってきた。
「おじいちゃん、返事!」
画面には、ポルトガル語の短い文章が表示されていた。
結衣が翻訳を開く。
〈水無瀬隼人さん。
あなたが本当に、あの隼人くんなら、ぜひ話したいです。
ずっと、どうしているのかと思っていました。
私も、あなたに伝えたいことがあります。
今夜、そちらの時間で九時はどうでしょう。
こちらは朝の九時です。
澪〉
僕は、しばらく画面を見つめた。
日曜日の夜九時。
サンパウロでは、朝の九時。
五十年前に交わした約束の時刻だった。
「おじいちゃん、どうする?」
結衣が尋ねた。
僕は、ゆっくりとうなずいた。
「その時間に、お願いしたい」
結衣はすぐに返事を送った。
そして、夜が来た。
僕は縁側に座っていた。
膝の上にはタブレット。
隣には、結衣が淹れてくれた温かいお茶。
空には、まるい月が出ていた。
五十年前の下宿の廊下を思い出した。
冷たい受話器。
小銭の重さ。
遠い国で鳴る電話のベル。
あの頃、僕は三分間話すために、一ヶ月分の食費を使った。
それでも、澪の声が聞けるなら、それでよかった。
今は、薄い箱ひとつで、顔まで見える。
時間も、距離も、あの頃とは比べものにならないほど縮まった。
けれど、僕の胸の中にあるものは、五十年前と少しも変わっていないような気がした。
壁の時計が、八時五十九分を指した。
「おじいちゃん、そろそろだよ」
結衣が言った。
僕は、うなずいた。
窓を開けた。
十月の夜気は、冷たくて澄んでいた。
画面には、澪の名前が表示されている。
結衣が、そっとボタンを押した。
呼び出し音は、ほんの一度、鳴っただけだった。
画面が、ぱっと明るくなる。
窓辺の、朝の光。
白い髪を短く切った、小柄な女性。
眼鏡の奥の目が、画面のこちらをまっすぐに見つめている。
目が、先に笑った。
五十年経っても、彼女は、いつも先に目が笑う人だった。
「……ハロー?」
声が、画面の向こうから届いた。
半秒の遅れもなかった。
僕の喉は、あの夜のように固まってしまった。
言うことは、五十年分、用意してあったはずだった。
それなのに、最初に出てきたのは、あの夜とまったく同じ、情けないほど小さな声だった。
「……もしもし」
画面の中で、澪が笑った。
笑った顔が、涙でくしゃくしゃになっていた。
「隼人くん。本当に、隼人くんなのね」
「うん」
「どうしたの、こんな時間に。お金、かかるでしょう」
「かからない」
「馬鹿ね」
「そっちこそ」
二人で、声を出して笑った。
笑い声は、重なった。
ひとつも、ずれなかった。
「手紙、届いた?」と澪が訊いた。
「今朝、届いた。五十年かかった」
「ごめんなさい。遅くなって」
「いいんだ」
僕は、ゆっくりと言った。
「一週間遅れの『好き』でも、好きは好きだ。五十年遅れでも、同じだよ」
澪は、しばらく何も言わなかった。
それから、小さな声で言った。
「今朝ね、不思議なことがあったの」
「うん」
「孫が、日本の友達の話をして。私、ふと、思い出したのよ。あなたのこと。五十年ぶりに、はっきりと」
彼女は、少しだけ笑った。
「そうしたら、胸の奥で、何かがぱちんと鳴ったの。今日が日曜日だって気づいたのよ」
「僕も、同じだ」
「同じ時刻に、同じことを思ったのね」
「久世さんの言った通りだ」
「ええ」
僕たちは、それから、話した。
何を話したのかは、あまり覚えていない。
五十年分のことを話そうとして、三十分もしないうちに、お互いに諦めた。
多すぎて、話しきれない。
僕は妻のことを話した。
澪は夫のことを話してくれた。
どちらも、もうこの世にはいなかった。
僕たちは、互いの人生にいた大切な人の話を、静かに聞いた。
妻がどんな人だったか。
澪の夫が、どんなふうに笑う人だったか。
子供たちの話。
孫の話。
ブラジルの庭の話。
日本の柿の木の話。
澪の父親は、あの怪我のあと、十年生きたという。
「よかった」と僕は言った。
「ええ。大変だったけれど、父はよく頑張ったわ」
「君も、頑張ったんだね」
澪は、少し黙った。
「隼人くんもね」
それだけで、十分だった。
五十年前、僕たちは、お互いに心配をかけまいとして、何も話さなかった。
今は、五十年分の人生を、それぞれの言葉で伝え合っていた。
「ねえ、隼人くん」
澪が言った。
「あの頃の私たち、もう少し上手にやれたと思う?」
僕は考えた。
そして、正直に答えた。
「無理だったと思う」
「どうして?」
「あの頃の僕らには、あれが精一杯だったから」
澪は、ゆっくりとうなずいた。
「そうね」
僕は続けた。
「でも、おかげで、僕は知った。遠いということは、距離のことだけじゃないって」
「私も。近いということも、距離のことだけじゃないのね」
画面の向こうで、澪が窓の外を見た。
「そちらは、夜?」
「夜だ。月が出てる」
「こちらは、朝よ。同じ月は、見えないけれど」
「同じ月だよ。ちゃんと」
「そうね」
澪は、画面の向こうで、そっと微笑んだ。
「ちゃんと、同じ月」
通話を終えたあと、僕は窓辺に座り続けた。
結衣が、そっと隣に座って、温かいお茶を差し出した。
「おじいちゃん、よかったね」
「うん」
「また、話せるよ。毎日だって」
「毎日は、いいかな」
僕は笑った。
「毎週日曜日の、夜九時で、いい」
結衣は首をかしげた。
それから、何かを理解したように、にっこり笑った。
「うん。いいと思う」
僕は、膝の上に残った水色の便箋を見た。
五十年前、澪はこの手紙を書いた。
届くかどうかもわからないまま。
僕は、五十年前、彼女に最後の手紙を書いた。
もう返事は来ないと思いながら。
僕たちは、互いに相手を思っていた。
それなのに、思っていることを伝えられなかった。
五十年後、ようやく、言葉が届いた。
いや。
言葉が届いたのは、今日が初めてではない。
五十年前にも、手紙は届いていた。
ただ、僕たちが、その中に書かれた気持ちを、最後まで受け取れなかったのだ。
それを、今になって知った。
終 遅れない世界で
夜の空に、月が静かに浮かんでいた。
僕は、五十年前の下宿の廊下を思い出していた。
冷たい受話器と、小銭の重さ。
半秒の遅れ。
分厚い辞書と、一ヶ月かかった手紙。
わずか半世紀。
僕らの世界は、想像もしなかった場所まで来た。
薄い箱ひとつで、誰とでも、瞬時につながれる。
言葉は、一瞬で翻訳される。
地球の裏側は、もう、裏側ではない。
それならば、この先の半世紀には、何があるのだろう。
僕らの世界は、きっと、僕らの想像を遥かに越えていくのだろう。
それを、僕は見ることができないかもしれない。
けれど、いいのだ。
結衣の世代が、そのまた先の誰かが、いつか、その世界で、誰かに向かって、同じことを言うだろう。
今日はここへ行ったよ。
これはどう思う?
そろそろ、来ない?
そして、世界のどこかで、誰かが、遅れずに返事をするのだろう。
僕は、膝の上に残った水色の便箋を、そっと撫でた。
五十年遅れの手紙は、今日、ちゃんと届いた。
手紙を書いた人の気持ちも。
手紙を読んだ人の気持ちも。
同じ日曜日の、同じ時刻に。
僕は、ふと思った。
手紙が届くまでの一週間、僕たちは、相手の過去と話していた。
届いた手紙を読み、返事を書き、また一週間待つ。
その間に、僕たちは少しずつ変わっていく。
それでも、手紙に書いた気持ちは、書いた日のまま残っている。
だから、届いたときには、過去の人から、今の自分へ、言葉が渡されるのだ。
五十年という時間も、同じだったのかもしれない。
澪が五十年前に書いた手紙は、五十年前の澪から、今の僕へ届いた。
そして、今の僕は、今の澪に返事をした。
もう、過去の人と話しているのではない。
五十年を生きた二人が、今、同じ時間を生きている。
それで、十分だった。
窓の外の月は、変わらず美しかった。
僕は、目を閉じた。
日曜日の夜九時。
地球の裏側では、朝の九時。
今ごろ澪も、窓辺に座っているだろうか。
コーヒーを飲みながら、こちらの夜を想像しているだろうか。
僕は、声に出さずに言った。
好きです。
五十年前と同じ言葉。
けれど、五十年前よりも、ずっと静かで、ずっと確かな言葉だった。
そして、今度は、ちゃんと届く気がした。
了
あとがき
この物語に出てくる国際電話の待ち時間も、航空便の水色の封筒も、ポルトガル語の saudade という言葉を辞書で引いても、ぴったりの日本語が見つからなかった昼下がりも、私の記憶の断片から生まれています。
もちろん、郵便局の地下にある「遅配室」はフィクションです。
けれど、そこに並んだ、まだ届いていない手紙のイメージだけは、どこかで本当に見たことがあるような気がしてなりません。
人は、相手を思うあまり、本当の気持ちを言えなくなることがあります。
心配させたくない。
困らせたくない。
嫌われたくない。
そうして言葉を飲み込んでいるうちに、伝えたかったことまで、相手には届かなくなってしまう。
若い頃には、私自身にも、そんな不器用さがありました。
だからこそ、この物語では、五十年前の恋を、ただの悲しい思い出にはしたくありませんでした。
二人には二人の人生があり、それぞれに大切な人がいて、取り戻せない時間があります。
それでも、かつて誰かを大切に思った気持ちは、人生の次の季節が訪れたからといって、消えてしまうわけではない。
そういう物語にしたかったのです。
今は「既読」がつかないと不安になる時代です。
メッセージは瞬時に届き、返事がなければ、すぐに相手の気持ちを知りたくなります。
けれど、待つ時間があったからこそ濃くなった気持ちも、確かにありました。
便利さと引き換えに失ったものを、否定したいわけではありません。
ただ、たまには日曜日の夜九時に、遠くの誰かを三分間だけ思い出す。
そんな約束があってもいいのではないかと思います。
もし、あなたにも、もう会えなくなった人や、伝えられなかった言葉があるのなら。
無理に過去を取り戻そうとしなくてもいいのです。
ただ、その人を大切に思った自分の気持ちまで、なかったことにしないでほしい。
それだけで、十分なのかもしれません。
この物語を、かつて誰かを思い、待ち、そして別々の人生を歩いてきた、すべての人に捧げます。
二〇二六年十月十八日
原詩
いつの間にか
世界は狭くなって
毎日のように
地球の裏側の友達たちから
日常の連絡が入る
今日はここへ行った
これはどう思う?
そろそろ来ない?…
そんな日常の会話だ
あの頃
今日 キミから届いた手紙は
1週間前のキミの気持ちで
すぐに折り返した僕の気持ちが
キミへと届くのもまた
1週間も先だった
そんな距離に阻まれた心は
いつしか負けて離れてしまった
それがどうよ
今では
手に乗る薄い箱ひとつで
どこにいても
瞬時に世界と繋がる
しかも無料で
テレビ電話でだ
わずか半世紀
KDDの女性交換手を通して
聞き覚えのない電話のベルが鳴り
ハロー って声が聞こえた瞬間
聖徳太子が1枚 落ちた
若さゆえ
そんなことが出来るはずはなく
時間の掛かる手紙となった
それですら
AIR Mail に変わったばかり
船便よりも
遥かに早かった
更には
分厚い辞書を片手に
ひとつひとつを調べた単語も
今では一瞬で翻訳してくれる
それも
英語だけではなく
世界のほとんどの言葉だから
なんとも不思議でならない
わずか半世紀で
想像もしなかったことが
今 目の前の現実となった
すれば
この先また
半世紀もしたら
世の中は僕らの想像を
遥かに越しているのだろう
それを僕らは
知ることは出来ないけれど

