2/2 終末の積荷
―― 原発のゴミと、月の裏の黒い門 ――
終章 さて…
月の裏側に、小さな探査機が、ひとつ、浮かんでいた。
ゲートは、もう、なかった。
ワダツミが帰還した三日後、黒い円は、静かに縮み、やがて、一粒の光となって消えた。世界中の望遠鏡が見守る中、それは、何の痕跡も残さなかった。ただ、月の裏側の、星々の並びだけが、ほんの少し、以前より、きれいに澄んで見えた。
凪が地球に降り立ったのは、年が明けた、一月の終わりだった。
帰還の記者会見で、彼女は、ありのままを語った。光の海のこと。巨人のこと。志賀のこと。ウナバラのこと。最初は、誰も信じなかった。信じたくなかった者も、多かった。
だが、ワダツミの船内に残された、無傷の記録が、すべてを語っていた。
記録の最後に、一本の、動画が残されていた。
ワダツミの、艦橋のカメラが、最後に、録画したものだった。日付は、ゲートを抜ける、三日前。再生すると、画面の中央に、志賀が、座っていた。作業着の襟を、きちんと正して、少し、照れくさそうに、カメラを、見つめている。
「えー」志賀は、咳払いをした。「これが、地球に、届くかどうか、わかりませんが」
「録音、していますよ」
ウナバラの声が、画面の外から、した。
「わかってる。いや、その、何だ。まず、礼を言わせてください。私のような、年寄りを、乗せてくれて」
志賀は、少し、笑った。
「私は、四十年、あの発電所で、働きました。誇りに、思っています。同時に、恥ずかしくも、思っています。作るのは、簡単でした。でも、終わらせるのは、誰も、考えなかった」
画面の中の志賀が、背筋を伸ばした。
「若い人に、言いたい。何かを作るとき、必ず、その終わり方を、一緒に、考えてください。どう始めるかより、どう終わらせるかを。それが、本当の、責任ってもんです」
「……」
「それと」
志賀は、一度、視線を落とした。それから、もう一度、カメラを、まっすぐ、見た。
「娘に。美咲に。すまなかった。ずっと、言えなかった。ありがとう。それだけです」
画面が、暗くなった。
会見場が、静まり返った。凪は、うつむいたまま、動かなかった。やがて、会場のどこかから、小さな、拍手が、ひとつ、起こった。
拍手は、ゆっくりと、波紋のように、広がった。長い、長い、拍手だった。誰も、立たなかった。誰も、声を、あげなかった。ただ、静かに、手を、叩き続けた。
画面の中の志賀は、もう、いなかった。けれど、会場の誰もが、あの背筋の伸びた老人を、確かに、見ていた。
凪は、会見の最後に、短く言った。
「第二便は、行きません。行かせません」
会場が、ざわめいた。
「ゴミを、遠くへ送れば、解決するわけではありません。送った先には、必ず、誰かがいます。誰かが、見ています。誰かが、背負っています。私たちは、作ったものに、最後まで、責任を持たなければなりません」
記者の一人が、手を挙げた。
「では、原発は。エネルギーは、どうするのですか」
凪は、少し考えてから、答えた。
「わかりません。私は、宇宙飛行士で、政治家ではありませんから」
会場に、小さな笑いが起こった。
「ただ、ひとつ、確かなことがあります。志賀恒一という人が、二万四千年、あの場所で、私たちの代わりに、見張っています。彼のことを、忘れないでください。そして、同じことが、二度と、誰かに、起きないように」
凪は、深く、頭を下げた。
その夜、彼女は、故郷へ帰った。
下北半島の、小さな漁村。海辺の、母の家。父の写真に手を合わせ、台所で、母の作った味噌汁を、黙って啜った。
「おかえり」
「ただいま」
それだけの会話だった。それで、十分だった。
それでも、母は、味噌汁をよそいながら、ぽつりと言った。
「テレビで、見たよ。あの、志賀さんって人の話」
「うん」
「立派な人だねえ。あんな顔で、笑える人は、そういないよ」
「うん。本当に、立派な人だった」
母は、お椀を、凪の前に置いた。湯気が、ふわりと、立ち上った。
「あんたも、笑ってたかい。向こうで」
凪は、少し、考えた。
「どうだろう。笑っていた、と思う。泣いてもいたけど」
「それなら、いい」
母は、満足そうに、頷いた。
「泣いて、笑って、帰ってこられたんなら、それが一番、いい旅だよ」
凪は、お椀を両手で包んだ。掌が、じんわりと温かくなる。宇宙の、どの場所よりも、ここが一番、重さのある場所だと、凪は思った。重さがあるから、人は、帰ってこられるのだ。
食事の後、凪は、ひとり、浜へ出た。
冬の海は、黒く、静かだった。波が、規則正しく、砂を洗っている。遠く、水平線の向こうに、六ヶ所の煙突の灯りが、赤く、瞬いていた。
子どもの頃から、変わらない景色だった。
凪は、その灯りを、じっと見つめた。
魔法の火だ、と父は言った。魔法には、代償がある、とも。
今、凪は、その代償の、本当の重さを知っていた。それは、二万四千年という時間だった。ひとりの老人の笑顔だった。名もなき巨人の、疲れた背中だった。
空には、満天の星が、広がっていた。
その中に、きっと、あの光の海がある。きっと、どこかで、志賀が、石の椅子に座って、ウナバラと、今日も、他愛のない話をしている。
凪は、空を見上げて、小さく手を振った。
「元気ですか」
風が、答えるように、吹いた。
それから数週間のうちに、凪は、いくつかの約束を果たしていった。
最初に訪ねたのは、福井の海沿いの町だった。
志賀の娘は、四十歳を少し過ぎたくらいで、父親によく似た目をしていた。古い平屋の玄関先で、彼女は、凪を静かに迎え入れた。仏壇の前に、志賀の写真があった。事故のあと、家を出たきり、数年に一度しか顔を見せなかった父の、まだ若い頃の写真だった。
「父は、本当に、あそこに」
「はい。石の椅子に座って、笑っていました」
娘は、しばらく黙っていた。湯呑みの湯気が、細く立ち上っている。
「父は、あの事故から、人が変わりました。家でも、一言も話さない日が続いて。母が亡くなったときも、葬式で、ただ立っているだけで」
「……」
「私は、ずっと、父を恨んでいたんです。あの人は、自分の仕事のことで、頭がいっぱいで、家族を見なかったと」
凪は、静かに首を振った。
「志賀さんは、最後まで、見ていました。あなたのことも、話していました。コーヒーの缶を握りながら」
娘は、顔を上げた。
「何て」
凪は、少し迷ってから、正直に言った。
「映像で、お聞きになった通りです。それと、訓練の合間に、よく携帯を開いて、一枚の写真を、見ていました。小さな女の子が、ランドセルを背負って、笑っている写真でした」
娘の肩が、小さく震えた。
「……入学式の、写真です」
「そうだったんですね」
娘は、両手で顔を覆った。凪は、何も言わず、傍に座っていた。窓の外で、冬の風が、遠くの海の音を運んでいた。
帰り際、娘は、小さな包みを、凪に差し出した。
「父が、昔、愛用していた缶コーヒーの空き缶です。事故の前の日に、飲んだものだそうで。なぜか、ずっと、仏壇の引き出しに」
錆びかけた小さな缶。凪は、それを、両手で受け取った。
「二万四千年のあいだ、父が、誰にも忘れられないように。そう、お伝えください」
「必ず」
凪は、頭を下げた。今度は、約束を、重ねた気がした。
福島の女性にも、会いに行った。
手紙を渡してくれた、あの人だ。郡山の小さな団地の一室で、彼女は、凪を待っていた。傍らに、あの日の女の子がいる。もう、小学校に入ったという。
凪は、手紙の束を、箱ごと、彼女の前に置いた。
「持って行きました。光の海へ。石の椅子の前にも、置きました。そして、持って帰ってきました」
女性は、箱を、じっと見つめた。
「私たちは、見てきました。あなた方が、ずっと、見たかったものを」
凪は、光の海のことを、ゆっくりと語った。手形の刻まれた円筒のこと。緑の薄膜のこと。鳴り続ける警報のこと。巨人のこと。志賀のこと。
女性は、一度も口を挟まなかった。話が終わると、静かに、息を吐いた。
「ありがとうございます」
「いえ」
「私、ずっと、怖かったんです。あれを、誰かが、見えないところへ、追いやってしまうことが。見えないところに行ったものは、いつか、なかったことにされてしまう。娘の姉のことも、そうやって」
女性の目から、涙が、一筋、零れ落ちた。
「でも、見てくれた人が、いた。そこで、誰かが、ずっと、見てくれている。それだけで」
女の子が、凪の袖を、そっと引いた。手に、一枚の絵があった。クレヨンで描かれた、大きな青い海と、小さな白い船と、その隣の、石の椅子に座る、おじいさんの絵。
「おじいさんに、あげてください」
凪は、その絵を、慎重に受け取った。
「どうやって、届けたらいいかな」
「えっと」女の子は、真剣な顔で、考え込んだ。「お星さまに、お願いする」
凪は、思わず、笑った。
「それは、いい方法ね」
その夜、凪は、絵を、宿舎の机の前の壁に、貼った。
朝比奈は、ワダツミの帰還後、自衛隊を辞めた。新しく設立された、民間の宇宙機関の訓練教官になったのだという。ある日、凪のもとに、短い手紙が届いた。
「船長。自分は、置いていくことを、やめます。誰かを、最後まで、見る人間に、なります。——朝比奈」
凪は、その手紙を、何度も、読み返した。
ルカは、帰還して一週間後、サンパウロへ飛んだ。祖母は、空港の到着ロビーで、車椅子に座って待っていた。ルカの腕の中に飛び込んだ祖母は、小さく、軽かった。
「おばあちゃん、約束、守ったよ」
「ええ、ええ」
その夜、台所で、祖母とルカは、並んで、豆を煮た。日本から持ち帰った、小さな瓶の味噌を、ひとさじ、鍋に溶かした。祖母は、一口、啜って、目を閉じた。
「これが、日本の味かい」
「うん」
「……ああ。懐かしいねえ」
祖母は、一度も、日本の土を踏んだことがなかった。それなのに、そう言った。ルカは、笑いながら、涙を拭いた。
窓の外には、南半球の、大きな星空が広がっていた。
どこかで、石の椅子に座っている人に、この空は、見えているだろうか。
そう思いながら、ルカは、祖母の細い手を、そっと握りしめた。
国会では、翌月から、新しい議論が始まった。宇宙処分を定めた法律は、静かに廃止の手続きに入った。かわりに、別の法案が、提出された。「最後まで責任を持つ」ための、長い、長い、仕組みを定める法案だ。
賛成する者、反対する者、迷う者。議論は、紛糾した。
それでも、誰かが、見ていなければならない。
誰かが、ずっと。
凪は、浜辺に立ったまま、遠くの赤い灯りを、もう一度、見つめた。
潮の音が、静かに、満ちていく。
私たちは、これから、どこへ行くのだろう。
作ったものを、どこへやるのだろう。
誰が、それを、見守るのだろう。
答えは、まだ、誰も持っていない。
だから。
さて……
ー了ー
後日譚 二万四千年のあとに
光の海に、朝は来ない。
けれど、そこには、確かに、時間が流れていた。石の椅子に座る老人にとっては、ゆっくりと、ゆっくりと。
最初の百年、志賀は、毎日、将棋を指した。ウナバラが、百万通りの負け方を、順番に試すのを、笑いながら、見守った。
千年が過ぎる頃、志賀は、光の海の、すべての円筒に、名前をつけ終えていた。三つの羽根の標識を持つもの。手形の刻まれたもの。警報を鳴らし続けるもの。それぞれに、ふさわしい名を、一つずつ。
「あれは、『さくら』」
「あちらは、『お母さん』ですか」
「そう。手形が、小さいだろう。きっと、子どもが、作ったんだ」
五千年が過ぎた頃、ウナバラが、気づいた。
「志賀さん。あの、緑の薄膜が、少しずつ、広がっています。放射線の強い場所ほど、濃く、育って」
「うむ」
「このままの速度なら、あと一万年ほどで、この海の、すべての円筒を、覆い尽くすでしょう」
志賀は、目を細めた。
「そうか。ゆっくり、ゆっくり、食べてくれてるんだな」
「ええ」
「ありがたいことだ」
一万二千年が過ぎた頃、石の椅子の隣に、小さな花が、一輪、咲いた。何の花か、志賀にも、ウナバラにも、わからなかった。ただ、薄い青色の花びらが、光の海の中で、ゆらゆらと、揺れていた。
「ウナバラ、見ろ。花だ」
「花ですね」
「誰が、植えたんだ」
「誰も、植えていません。自然に、咲きました」
志賀は、花を、しばらく、眺めていた。その横顔は、何千年を経ても、あの日の、作業着の老人のままだった。
「あの子の絵を、飾ろう」
志賀は、椅子の背に、立てかけていた、一枚の絵を、取り出した。クレヨンで描かれた、青い海と、小さな白い船と、石の椅子に座る、おじいさん。
凪が、いつか、届けてくれた絵だった。どうやって届いたのかは、わからない。ある朝、気がつくと、椅子の脇に、置かれていた。
「お星さまに、お願いしたのかな」
志賀は、そう呟いて、絵に向かって、微笑んだ。
二万四千年が、過ぎようとしていた。
最後の円筒が、静かに、眠りにつく日が、近づいている。緑の薄膜は、すべてを覆い、警報は、とうとう、止まった。光の海は、深い、穏やかな、青に、染まっていた。
志賀は、椅子から、ゆっくりと、立ち上がった。
「ウナバラ」
「はい」
「終わりだ」
「ええ。終わりです」
志賀は、長い、長い、息を、吐いた。それから、方位磁石を、胸ポケットから、取り出した。針は、ずっと、同じ方向を、指していた。光の海のどこにも、北などないはずなのに。
針は、遠い、青い星の方角を、静かに、指し続けていた。
「帰るか」
「はい。帰りましょう、志賀さん」
二人は、並んで、光の海を、見渡した。
「さて」志賀は、笑った。「次の一手は、どうしようか」
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あとがき
「原発のゴミを、ロケットに積んで、遠くの星へ運んだらいい」。そんな、ふとした発想から始まる詩は、最後に、「さて…」という言葉で、読者に問いを投げかけて終わります。
本作は、その「さて…」の先を、想像してみた物語です。
正解は、描いていません。ただ、見えなくなったものは、消えたわけではない、ということ。誰かが、いつも、見ているのだということ。それだけを、物語の底に、置いておきたかったのです。
紹介文
地下処分場の候補地がどこも拒絶された日本。「特定放射性廃棄物の宇宙処分に関する特別措置法」が可決され、高レベル放射性廃棄物を乗せた宇宙船「ワダツミ」が計画される。
元原発運転員の老舗・志賀恒一、無口なパイロット・朝比奈樹、船医の林ルカ、そして船長の水無月凪。彼らを乗せた船は、月の裏側に突如現れた謎の黒い門「ゲート」をくぐり、時空を超えた未知の領域へと足を踏み入れる。そこは、過去の無数の文明が捨て去った「終わらない積荷」が漂う、果てしない光の海だった――。


