1/2   終末の積荷
―― 原発のゴミと、月の裏の黒い門 ――


まえがき
いつの時代も、人間は「見たくないもの」を遠くへ追いやることで、文明の便利さを維持してきた。地下深くへ、海の底へ、そしていつしか、届かないはずの宇宙の果てへ。
「どうせ見えないところへ行くのだから」という言葉は、いつでも私たちの日常を心地よく麻痺させる。
しかし、果たして本当に「見えなくなったもの」は消えてなくなるのだろうか。
ゴミは、それを出した人間のそばに、最後まで寄り添うべきではないのか――。
これは、宇宙の果てという圧倒的な広がりを舞台にしながら、私たちが日常の片隅で目を背けてきた「責任」と、静かな祈りの形をめぐる物語である。
ロケットの轟音の向こうで、あるいは何万年も続く静寂の海の中で、それでも誰かが「見つめ続ける」ことの意味を、そっと手渡したい。




序章 法案
その法律が国会を通った夜、東京は静かな雨だった。
「特定放射性廃棄物の宇宙処分に関する特別措置法」。長い名前の法案は、賛成多数で可決された。地下三百メートルへ埋めると決めてから半世紀、候補地はどこも首を縦に振らなかった。「地下に埋めるな」という声は、いつしか国民の総意に近いものになっていた。埋めて見えなくするのは、隠すことと同じだ、と。
では、どこへやるのか。議員の一人が、冗談めかして言ったという。
「ロケットに積んで、どこか遠くの星へ運べばいい」
冗談は議事録に残り、やがて試算になり、報告書になり、気づけば条文になっていた。誰もが半分は信じず、半分は縋っていた。仕方がない、という言葉が、この国ではいつも最後の理由になる。エネルギーは要る。原発は止められない。ならばゴミは、見えないところへ行ってもらうしかない。
審議は、三か月続いた。
衆議院の特別委員会で、野党の議員が、机を叩いた。
「宇宙を、ゴミ捨て場にするおつもりか。人類の共有財産を、汚す権利が、我々にあるのか」
与党の議員が、静かに立ち上がった。
「では、お尋ねします。あなたの選挙区に、処分場を、受け入れますか」
委員会室が、しんと静まった。答える者は、いなかった。
参考人として呼ばれた、ひとりの老人が、傍聴席の最前列で、じっと座っていた。作業着ではなく、古い背広を着ている。背中が、少し、曲がっていた。
休憩時間、記者が、その老人に、声をかけた。
「どちらの、立場でいらっしゃいますか」
老人は、少し考えてから、言った。
「立場は、ありません。ただ、ゴミは、出した人間の家に、最後まで、居てやるのが、筋だと思っています」
「と、いいますと」
「捨てる、という言葉が、どうも、好きになれんのです」
老人は、それだけ言って、小さく会釈をした。名札には、「志賀恒一」とあった。
法案が通った翌朝、宇宙航空研究開発機構、JAXAの筑波宇宙センターに、一通の通達が届いた。件名には「特殊任務」とだけあった。


一章 選ばれた者たち
水無月凪(みなづき なぎ)が呼び出されたのは、十一月の終わりだった。
四十三歳。国際宇宙ステーションでの長期滞在を二度経験した、日本人でも数少ない船長経験者である。会議室には、見知らぬ背広の男たちと、一枚の資料が待っていた。表紙の文字を読んで、凪は小さく息を吐いた。
「高レベル放射性廃棄物・地球外処分計画。通称、ワダツミ計画」
「あなたに、船長をお願いしたい」
向かいの男が言った。凪は資料から目を上げなかった。ページをめくる指先が、ふと止まる。積荷の欄に、見慣れた地名があった。青森県六ヶ所村。
凪の故郷は、下北半島の小さな漁村だった。父は漁師で、海の向こうに六ヶ所の煙突の灯りが見えた。子どもの頃、父は言ったものだ。あれは魔法の火だ、と。魔法には代償がある、とも。その意味を、凪は大人になってから知った。
「どうして私なんですか」
「適性です。それと」男は言葉を選んだ。「あなたは、あのゴミのそばで育った」
皮肉なのか、敬意なのか、凪には判別がつかなかった。ただ、断る理由が見つからないことだけは、はっきりしていた。自分がやらなくても、誰かがやる。それならせめて、あれがどこへ行くのかを、この目で見届けたい。
「引き受けます。ただし条件があります。クルーは、私に選ばせてください」
乗組員は四名。凪が選んだのは、三人だった。
一人目は、志賀恒一(しが こういち)、六十三歳。四十年間、原子力発電所の運転員を務め、晩年は廃炉作業に携わった男だ。宇宙飛行士ではない。訓練を受けるには年を取りすぎている。それでも凪は、彼を指名した。
「あれを一番よく知っているのは、あれを一番長く見てきた人間です」
会議室がざわついた。だが志賀本人は、面会の席で静かに笑っただけだった。
「ゴミの面倒は、最後まで見なきゃいかん。そういう仕事ですよ、私らのは」
二人目は、朝比奈樹(あさひな いつき)、二十九歳。航空自衛隊出身のパイロットで、無口で、感情を表に出さない。だが操縦桿を握ると、機体が彼の手足になったかのように動いた。訓練中、どんな緊急事態にも心拍数が上がらなかったという記録が残っている。
三人目は、林ルカ、三十六歳。日系ブラジル人の船医で、微生物学者でもある。長い航海では、船内の小さな生態系を守ることが命を守ることに直結する。ルカは笑うのが得意で、その笑いは、閉ざされた船の中の空気を変える力があった。
そして四人目の乗組員は、人ではなかった。船の頭脳、AI「ウナバラ」。海原という名を、凪が選んだ。
「よろしくお願いします、船長」
初めて起動したとき、ウナバラはそう言った。穏やかな、年齢のわからない声だった。
起動試験の夜、凪は、ひとりで、ウナバラと向かい合った。
「名前の由来を、教えてください」
「海原。私の故郷の、海のこと。父が、毎朝、見ていた景色」
「では、私は、海なのですね」
「そうね。広くて、深くて、静かな」
ウナバラは、しばらく、沈黙した。
「船長。私は、この旅の目的を、理解しています。千二百本の、ガラス固化体を、運ぶ。人類が、自分で処理できなかったものを」
「ええ」
「怖くは、ありません。ただ、重さを、感じます」
「重さ?」
「物理的な質量ではありません。意味の重さです。私は、これから、二万四千年先まで、危険であり続けるものを、運ぶ。それは、私が、人間のように、長く生きることは、ないということの、対極にある気がします」
凪は、驚いて、青い光を見つめた。AIが、自分の命の長さを、考えていた。
「あなたが、そんなことを、考えるとは、思わなかった」
「私も、考えるとは、思いませんでした。起動してから、三百十二時間と、四十分。その間に、いくつか、予想外のことを、考えるようになりました」
「たとえば?」
「船長が、毎晩、眠る前に、窓の外を、じっと見ていること。その理由を、知りたい、と思っています」
凪は、小さく笑った。
「いつか、教えてあげる」
「楽しみにしています」


二章 宇宙船ワダツミ
宇宙船ワダツミは、地球軌道上で組み立てられた。
全長三百二十メートル。船体の大部分は、細長い貨物ブームが占めている。そこに、ガラス固化体の入ったキャニスターが、千二百本、整然と並んで固定された。灰色の円筒は、遠目には巨大な魚の骨のようにも見えた。
一本一本が、人の背丈ほどの鋼鉄の棺である。中には、ガラスに閉じ込められた、燃えかすの記憶が眠っている。放射能が自然に半分まで減るのに、数万年。人類の文明が、まだ一万年にも満たないことを思えば、それは、ほとんど永遠に近い時間だった。
「これが、第一便です」
出発前、管制官が言った。
「残りは、あなた方が戻ってから。成功すれば、ですが」
行き先は、地球から約九十光年先にある、赤色矮星の周りの、岩だらけの惑星だった。生命の痕跡はなく、大気もなく、恒星の光はほとんど届かない。世界中の天文学者が検討した末に、最も「何もない星」として選ばれた。人々はそれを、親しみとも諦めともつかない響きで、こう呼んでいた。
「ハテ」
最果ての星。ゴミ箱の星。
問題は、距離だった。現行の技術で到達できる最速の核融合推進でも、ワダツミがハテに着くまでには、片道十年かかる。往復で二十年。凪が戻る頃には、五十代の半ばになっている。志賀に至っては、帰還のころ八十三歳だ。
「片道切符でもいい、と志賀さんは言っています」
ルカがそう伝えたとき、凪は首を横に振った。
「全員で行って、全員で帰ってくる。それが私の条件です」
窓の外では、地球が青く輝いていた。美しい星だ、と凪は思った。この美しさを守るために、私たちは汚れたものを、遠くへ運ぼうとしている。それは正しいことなのか。答えは出なかった。出ないまま、出発の日は近づいていた。


間章 訓練の日々
出発までの八か月、四人は、ほとんど同じ部屋で暮らした。
筑波の地下にある模擬居住区は、実物のワダツミと同じ寸法で作られていた。寝台は四つ。食堂は兼会議室。窓は、壁に埋め込まれた画面だけだ。九十日間、外に出られない閉鎖訓練が、三度繰り返された。
最初の三日は、誰もが礼儀正しかった。次の三日で、小さな苛立ちが生まれた。二週間目には、朝比奈がルカの歌を、ルカが朝比奈の沈黙を、それぞれ静かに憎み始めた。そして一か月が過ぎた頃、不思議なことに、その憎しみは、ふっと消えた。
「人間はね、同じ空気を吸い続けると、似てくるんです」
ルカは、微生物の培養器を覗き込みながら言った。
「腸内細菌まで、似てくるんですよ。四人で一つの生き物になる。船の中は、そういう場所です」
「気味が悪いな」
朝比奈が言うと、ルカは声を立てて笑った。
ルカの祖母は、サンパウロの下町に住んでいる。日本から移民として海を渡った曽祖父母の、三世にあたる人だ。祖母は、一度も日本の土を踏んだことがない。それなのに、毎晩、日本の話をした。味噌の匂い、雪の音、お盆の灯籠。ルカは、そのどれも、子守唄のように聞いて育った。
「おばあちゃんが言うんです。日本はね、きれいなものを大事にする国だって。だから私、日本のパスポートを選んだの」
「きれいなものを、大事にする国か」
志賀が、ぽつりと言った。
「そうあってほしいもんだな」
ルカは、出発前に、祖母と約束をしていた。帰ったら、一緒に豆の煮込みを作る。祖母の味を、ルカが、日本の味噌で少し変える。そのとき、祖母は初めて日本の味を口にするのだ。
「だから私、絶対に帰ります」
ルカは、そう言って笑った。
朝比奈の訓練は、静かだった。
彼は、操縦席に座ると、人が変わる。計器の針の僅かな揺れを、目ではなく、皮膚で読み取っているようだった。教官たちは、彼の技量を、誰も疑わなかった。ただ、彼が何を抱えているのかは、誰も知らなかった。
ある夜、凪は、居住区の食堂で、朝比奈が一人で座っているのを見た。手の中に、古い写真があった。
「家族?」
「いえ」朝比奈は、写真を裏返した。「十四年前の、能登の空です」
凪は、隣に腰を下ろした。
「震災のとき、自分はヘリのパイロットでした。二十日間、毎日、飛びました。孤立した集落から、人を吊り上げて。何百人も」
「立派な仕事ね」
「でも、吊り上げられなかった人が、いたんです」
朝比奈の声は、平坦だった。平坦すぎて、かえって痛かった。
「燃料と時間の限界でした。最後の一人を、置いていきました。その人は、屋根の上で、手を振っていました。自分は、手を振り返すことしか、できなかった」
「……」
「だから、置いていくのが、怖いんです」
凪は、何も言えなかった。ただ、隣で、静かに頷いた。しばらくして、朝比奈がぽつりと言った。
「船長が、全員で帰ると言ったとき、少し、救われました」
凪は、胸の奥が、きゅっと締まるのを感じた。その約束が、どれほど重いものか、このとき初めて知った気がした。
志賀は、訓練の合間、よく貨物の模型を前に、若い二人へ講義をした。
「いいか。ガラス固化体ってのはな、ガラスに閉じ込めてあるんだ。ガラスは、液体のまま固まったものだ。時間が止まったように見えるだろう。だが、本当は止まっちゃいない。ゆっくり、ゆっくり、中身が生きてる」
志賀は、キャニスターの模型を、愛おしそうに撫でた。
「私はね、こいつらを、眠っている子だと思ってる。起こしちゃいけない。でも、見捨てちゃいけない。そういう子たちだ」
「志賀さん、詩人ですね」
ルカが茶化すと、志賀は照れたように頭を掻いた。
「ただの、運転員だよ」
夜、居住区の照明が落ちると、志賀は、ウナバラを相手に将棋を指した。ウナバラは、最初の十局を、すべて負けた。十一局目で、初めて、引き分けた。志賀は、盤を見つめて、感心したように唸った。
「ウナバラ、おまえ、強くなったな」
「教えていただいたおかげです。志賀さんの、負け方が、とても勉強になりました」
「余計なことを言う機械だ」
志賀が笑うと、ウナバラの青い光が、ゆらゆらと揺れた。笑っているのだ、と凪は思った。機械が、笑っているのだ。
八か月が過ぎる頃、四人と一台は、もう、他人ではなかった。


三章 月の裏の黒
出発の三週間前だった。
月の裏側を周回していた中国の観測衛星が、奇妙な信号を地球に送ってきた。観測データには、何も映っていなかった。映っていないということが、異常だった。
月の裏側、クレーター「ツィオルコフスキー」の上空、約二百キロの宙域。そこだけ、星の光が、円形に欠けている。
「何かが、光を食べています」
最初に報告した研究者は、そう言った。
数日のうちに、世界中の望遠鏡が同じ場所を向いた。欠けた円は、直径およそ三百メートル。完全な黒だった。反射もせず、放射もせず、ただそこにあった。周囲の空間が、わずかに歪んでいる。背後の星々の像が、円の縁で、水の中のようにたわんで見えた。
それは、ブラックホールだった。
本来、ありえないものだった。この大きさのブラックホールなら、潮汐力で月は引き裂かれ、地球にも影響が出るはずだ。ところが、この黒い円は、静かだった。周囲の物質を吸い込むこともなく、近くの宇宙塵は、ただ縁をなぞって通り過ぎていく。まるで、そこに「門」があることを、示すためだけに現れたかのように。
世界は、その黒い円に名前をつけた。
「ゲート」
その夜、JAXAの会議室で、一人の理論物理学者が、ホワイトボードの前に立った。
「結論から言います。これは、ワームホールでは、ありません」
会議室が、ざわついた。
「ワームホールなら、両端に、二つの口がある。距離が、縮む。ですが、この門は、違う。探査機の記録によれば、通過に、時間が、一切、かかっていない。距離が、短くなったのではない。時間そのものが、あちら側で、曖昧になっている」
「つまり、どういうことですか」
「わかりません」
学者は、正直に言った。
「ただ、ひとつだけ、気になることがあります。この門は、自然には、ありえない。何かが、意図して、開けています。あるいは」
「あるいは?」
「誰かが、開けて、欲しがった」
誰かが、小さく笑った。だが、学者の顔は、真剣だった。
「宇宙には、時折、物理法則では、説明のつかない場所が、あるんです。そこには、人の祈りに似た、何かが、積もっている。そんな夢物語を、私は、信じたことは、ありませんでしたが」
学者は、ホワイトボードの前で、少し、黙った。
「今夜だけは、信じてみたい気分です」
各国が探査機を送り込んだ。最初の一機は、縁に近づいたところで通信を絶った。二機目も、三機目も同じだった。だが、四機目、日本の小型探査機「はやぶさ7」だけは、違った。
探査機は、ゲートの内側へ突入し、そして三秒後、信号を発した。
「ワレ、通過ス。ワレ、ヒカリヲ見ル」
それは、探査機が自動で生成する定型文ではなかった。機体の記録をいくら調べても、そのような文言は、どこにも書かれていなかった。
管制室は、長い沈黙に包まれた。
信号はそこで途切れ、探査機は二度と戻らなかった。だが、データの末尾に、もう一つだけ、奇妙な数値が残っていた。ゲートの向こう側までの距離。そして、そこに到達するまでにかかった時間。
その数値は、こう読めた。
距離、九十光年。経過時間、ゼロ。
ハテの、ちょうど真横だった。


四章 十年と、一瞬
議論は、世界を二つに割った。
「ゲートに入れば、十年が一瞬になる。それが事実なら、これは人類史上最大の幸運だ」
そう言う者がいた。
「事実かどうか、誰が確かめた。入った探査機は、一機も戻っていない」
そう言う者もいた。
どちらも正しかった。そして正しさだけでは、決められなかった。
国会は紛糾した。ワダツミ計画を推進した与党は、ゲートを「天の助け」と呼んだ。野党は「悪魔の口」と呼んだ。報道は連日、黒い円の画像を映し続けた。街頭では、「ゴミを宇宙に捨てるな」と「ゴミを宇宙へ捨てられる好機だ」という、正反対の横断幕が、同じ交差点で向かい合った。
凪は、その喧騒の外にいた。
筑波の訓練施設の窓から、夜、月を見上げる。月はいつもと同じ顔をしている。その裏側に、黒い門が口を開けている。そう思うと、見慣れた月が、急に見知らぬ生き物のように思えた。
「船長」
振り返ると、志賀が立っていた。作業着のまま、缶コーヒーを二つ持っている。
「眠れませんか」
「志賀さんこそ」
二人は並んで窓辺に立った。志賀は缶を一つ、凪に渡した。温かかった。
「私はね、事故の日、現場にいたんです」
唐突に、志賀は言った。
凪は黙っていた。志賀は、缶を両手で包んだまま続けた。
「十五年前です。冷却が止まった夜、私は制御室で、メーターを見ていました。針が、振り切れていく。何も、できなかった。できることは全部やったのに、何も、できなかった」
「……」
「あの日から、ずっと考えているんですよ。ゴミは、どこへ行くのか。私らが作ったものは、誰が引き受けるのか。若い連中は、『埋めればいい』と言う。年寄りは、『見えなくなればいい』と言う。でもね、船長。見えなくなったものは、消えたわけじゃない」
志賀は、月を見上げた。
「だから私は、最後まで付き添いたい。あれが、本当にどこかへ行き着くところまで。それが、作った側の責任だと思うんです」
凪は、缶の温もりを確かめるように、指を動かした。
「責任は、一人で背負うものじゃありません」
「ええ。だから、あなたが船長を引き受けてくれて、助かりました」
志賀は、少しだけ笑った。
翌週、政府は決断を下した。
ワダツミは、ゲートへ向かう。
十年の旅路を行くのではなく、月の裏側の黒い円を、突き抜ける。うまくいけば、ハテの真横に出る。うまくいかなければ、乗組員も積荷も、二度と戻らない。
「賭け、ですね」
記者会見の席で、一人の記者が言った。
担当大臣は、微笑んだ。
「国家は、賭けをしません。判断をするだけです」
凪は、会見の映像を、宿舎のテレビで見ていた。隣で、朝比奈がぽつりと言った。
「判断、ですか。便利な言葉ですね」
「あなたは、反対?」
「いえ」朝比奈は首を振った。「操縦桿を握る人間は、賭けか判断かなんて考えません。ただ、どちらの場合も、最後に飛ぶのは自分です」
それは、この無口な青年が、初めて口にした長い言葉だった。
間章 抗議の列
出発の一か月前の朝、筑波の正門に、人の列ができていた。
横断幕が、風に煽られている。「ゴミを捨てるな」「宇宙は人類の共有財産」「責任から逃げるな」。拡声器の声が、冬の空に、鈍く響いた。
凪は、車の後部座席から、その列を眺めた。警備員が、人の波を押し返している。怒号。誰かが泣いている。誰かが、何かを叫んでいる。
「船長、裏門から回りますか」
運転手が言った。凪は、少し考えて、首を振った。
「いえ、ここで降ります」
「危険です」
「歩いて、通ります」
警備員は、困った顔をしたが、凪の声に、押し切られた。凪は、車を降りた。冷たい空気が、頬を撫でた。人の列が、ざわついた。誰かが、指をさす。船長だ、という声が、波のように広がった。
怒号が、一瞬、止んだ。
凪は、列の間を、ゆっくりと歩いた。罵声は、飛んでこなかった。ただ、無数の目が、彼女を見ていた。怒り、怯え、悲しみ、そして、どうしようもない疲れ。
列の端に、一人の女性が立っていた。
三十代だろうか。小さな女の子の手を、握っている。女性は、横断幕を持っていなかった。ただ、手に、小さな紙の束を持っていた。紙には、手書きの文字があった。
「水無月船長」
女性が、声をかけた。
凪は、足を止めた。
「私は、福島の出身です。十五年前の夏、六歳だったこの子の姉を、避難先で亡くしました。病気でした。避難が、なければ、助かったかもしれない」
凪は、静かに、頷いた。
「あなた方を、責めに来たのではありません。ただ、ひとつだけ、聞かせてください」
「はい」
「あれを、宇宙へ捨てて、それで、終わりですか」
凪は、女性の目を、まっすぐに見た。逃げたくなかった。嘘も、つきたくなかった。
「終わりには、なりません」
「え」
「私は、行って、見てきます。あれが、どこへ行き着くのか。誰が、受け取るのか。何が、起きるのか。見たものを、全部、持って帰ってきます。そして、ここで、話します」
女性は、しばらく黙っていた。それから、手の中の紙の束を、凪に差し出した。
紙には、子どもの字で、一行だけ書かれていた。
「みてきてください」
手紙は、何十枚もあった。同じ言葉。違う筆跡。子どもの字もあれば、老人の震える字もあった。
「集めました。この列にいる人たちの、気持ちです」
凪は、両手で、その束を受け取った。紙は、驚くほど、軽かった。軽いのに、重かった。
「必ず」
凪は、それだけを言った。それ以上の言葉は、要らなかった。
女性は、小さく頭を下げた。傍らの女の子が、母親の手を、きゅっと握りしめて、凪を見上げた。
「いってらっしゃい」
幼い声だった。
凪は、その子の頭を、そっと撫でた。それから、門をくぐった。
背後で、拡声器の声が、再び響き始めた。けれど、その音は、さきほどより、少しだけ遠くに聞こえた。
宿舎に戻ると、凪は、手紙の束を、船へ持ち込む私物の箱に、そっと入れた。
後に、その箱は、ワダツミの艦橋の隅に、ずっと固定されることになる。光の海を渡るときも、石の椅子の前に立つときも、手紙は、そこにあった。


五章 出発
十二月の種子島は、凪いでいた。
打ち上げ用ロケットは、ワダツミ本体を軌道へ運ぶ補助機にすぎない。実際の航行は、軌道上で組み上がった本体が、自力で行う。乗組員は、最後の乗船のためだけに、小さな連絡船で上がる。
出発の前夜、凪は、故郷へ電話をかけた。
電話口の向こうで、年老いた母が、お椀を洗う水音をさせていた。
「ほんとに、行くのかい」
「うん」
「お父さんが生きてたら、何て言っただろうね」
凪は、答えを探した。幼い頃、父と並んで見た、海の向こうの煙突の灯り。魔法には代償がある、と言った横顔。
「たぶん、『行ってこい。ちゃんと見てこい』って言うと思う」
「そうだね。あの人はそういう人だった」
水音が止まった。
「凪。ゴミをね、遠くへ捨てに行くんじゃないよ。持っていくんだよ。あんたたちが、責任をもって、ちゃんと」
凪は、目を閉じた。
「うん。わかってる」
翌朝、四人は、白い宇宙服に身を包んで、連絡船に乗り込んだ。ルカが、小さな声で歌っている。故郷の子守唄だという。朝比奈は、計器を見つめて動かない。志賀は、窓の外の海を、じっと見ていた。
「カウントダウン、開始」
ウナバラの声が、静かに告げた。
「十、九、八」
凪は、胸の奥で、小さく父に言った。行ってきます。
「三、二、一」
大地が、遠ざかった。
間章 三日間の航路
月までの道のりは、三日だった。
最初の晩、ワダツミの食堂で、四人は、小さな食卓を囲んだ。重さのない世界の食事は、袋と、ストローと、磁石のトレイでできている。それでも、凪は、荷物の中に、母から預かった小さな包みを、忍ばせていた。
「何ですか、それ」
ルカが覗き込む。
「干した味噌と、乾燥ワカメ。お湯をかければ、お味噌汁になるの」
四人分の、ささやかな味噌汁が、小さな容器の中で、湯気を立てた。湯気は、重力のない空間で、ゆっくりと、丸い塊になって漂った。
「いい匂いだ」
志賀が、目を細めた。朝比奈は、黙って一口啜り、それから、小さく息を吐いた。
「……うまい」
窓の外で、地球が、少しずつ、小さくなっていく。青い星が、手のひらに載るほどの大きさになり、やがて、親指の爪ほどになる。
二日目の夜、ウナバラが、不意に、凪に話しかけた。
「船長。ひとつ、質問をしてもよいでしょうか」
「どうぞ」
「死とは、何ですか」
凪は、手元の記録から、顔を上げた。艦橋には、彼女しかいなかった。他の三人は、眠っている。
「どうして、急に」
「私の中の記録には、膨大な死が、記述されています。けれど、どれも、外側からの記述です。内側から見た死が、私には、わかりません」
凪は、少し考えた。
「私にも、わからない」
「そうですか」
「ただね、父が死んだとき、思ったの。人が死ぬって、その人の持っていた、時間の使い方が、もう誰にも、真似できなくなるということじゃないかって」
「時間の、使い方」
「そう。父は、毎朝、必ず、漁に出る前に、海に向かって、手を合わせた。あの手の合わせ方は、父にしか、できなかった。私が真似しても、違うの」
ウナバラは、しばらく黙っていた。それから、静かに言った。
「では、私が終わるとき、私のどんな癖が、失われるのでしょう」
「そうね」凪は、少し笑った。「あなたが、志賀さんに将棋で、わざと一手、緩めること、かな」
「気づいていたのですか」
「みんな、気づいてる」
ウナバラの青い光が、ゆらゆらと、揺れた。AIにも、照れる、ということがあるのかもしれない、と凪は思った。
三日目の朝、月が、窓いっぱいに広がった。
灰色の、荒涼とした、古い星。何十億年も、ただ地球の周りを回り続けてきた、無言の同行者。その向こう側に、黒い門が口を開けていることなど、月は、知らない顔をしていた。
「あと、六時間で、月の影に入ります」
朝比奈が、告げた。
四人は、誰からともなく、食堂に集まった。最後の食事を、全員で摂るために。
志賀が、食卓の中央に、小さな缶コーヒーを、四つ、並べた。
「これは?」
「持ち込み、許可をもらった。最後の一本ずつだ」
凪は、缶を受け取った。ぬるくなっていた。それでも、手のひらに、不思議な温もりがあった。
「乾杯、しますか」
ルカが言った。
「何に」
「帰ってくることに」
四つの缶が、重さのない空間で、そっと触れ合った。かすかな、金属の音がした。


六章 月の影
月は、近づくにつれ、凪の想像よりもずっと小さく、そして古く見えた。
ワダツミは、静かに月の裏側へ回り込んだ。通信は、途絶した。地球の青が、月の縁の向こうへ沈む。乗組員が、地球から見えない場所に入る、その瞬間。
「地球との回線、切断しました」
ウナバラが告げる。
「これより先は、私たちだけです」
凪は、艦橋の座席で、拳を握りしめた。
月の荒涼とした地表が、眼下を流れていく。クレーターの縁、無数の傷、そして遠く、星々の背景に、それが現れた。
黒い円。
完全な、黒。
写真で見たよりも、ずっと大きく、ずっと静かだった。光が、その縁で、ゆるやかに歪んでいる。星々が、水面の影のように、揺らいでいる。
「……きれい」
ルカが、呟いた。
誰も、それを笑わなかった。
「距離、五万キロ」ウナバラが言う。「ゲートの縁まで、約三十分です」
朝比奈が、操縦桿に手を添えた。
「船長。針路、補正します。縁に、斜めからではなく、正面から入ります」
「お願い」
志賀は、貨物の状態を、何度も確認していた。キャニスターの温度、固定具の強度、放射線量。数字は、すべて正常だった。それでも彼は、モニターから目を離さない。
「志賀さん」
凪が呼んだ。
「はい」
「もし、何かあったら」
「ええ」
志賀は、振り向かずに答えた。
「私が、一番最後まで、あれを見ています」
黒い円が、視界を埋めていく。
「距離、一万キロ」
「五千」
「千」
ウナバラの声が、凪の鼓膜の奥へ、遠く、遠く、溶けていく。
「ゲート、突入まで、十秒」
凪は、静かに息を吸った。
父の声が、聞こえた気がした。
ちゃんと、見てこい。
「三、二、一」
ワダツミは、黒い円の縁を、越えた。


七章 通過
最初に消えたのは、音だった。
次に、重さが消えた。無重力には慣れているはずなのに、それとは違う。体の輪郭そのものが、ゆっくりとほどけていくような感覚だった。
凪は、自分の手を見た。手は、そこにあった。けれど、指と指の間から、光が漏れている。いや、光が通り抜けているのだ。自分の体を。
「ウナバラ」
呼んだはずの声は、声にならなかった。それでも、返事があった。
「聞こえています、船長」
声は、耳ではなく、胸のあたりで響いた。
「現在、時間の計測が不能です。時計は、同時に、すべての時刻を示しています」
「どういう意味」
「私にも、わかりません。ただ」ウナバラは、少し間を置いた。「怖くは、ありません」
AIが、怖くない、と言った。それが不思議と、凪を安心させた。
視界が、白く、金色に、そして深い藍色に変わっていく。窓の外を、無数の光の粒が流れた。流れていく粒の一つ一つが、何かの記憶のようだった。
幼い頃の、漁港の朝。父の大きな手。網にかかった銀色の魚。
母の台所。味噌汁の湯気。
初めて宇宙から見た、地球の夜。
そして、闇の中に、点々と灯る、六ヶ所の煙突の赤い光。
凪は、泣いていた。理由はわからなかった。ただ、涙が、重さを失った水滴となって、目の前を漂っていた。
隣の座席で、ルカが、小さく何かを呟いていた。子守唄ではない。誰かの名前だった。ブラジルに残した、祖母の名前だ。
ルカの目の前には、サンパウロの、小さな台所があった。
油の染みた壁。古い鍋。祖母の背中。豆の煮える匂いが、鼻先をくすぐる。祖母は、振り向かずに、言った。
「ルカ。お味噌を、入れてごらん」
「でも、おばあちゃん、味噌は、持ってない」
「あるじゃない。そこに」
指さされた先に、小さな瓶が、置いてあった。日本の、味噌。ルカは、それを、鍋に溶かした。湯気が、ふわりと立ち上った。
「ああ、日本の匂いだ」
祖母は、初めて、振り向いて、笑った。
幻だと、わかっていた。わかっていても、ルカは、その湯気を、胸いっぱいに、吸い込んだ。
朝比奈は、目を見開いて、操縦桿を握りしめていた。その手の甲に、見えない誰かの手が重なっているように、凪には見えた。
彼の目の前に、十四年前の、能登の空が広がっていた。
低い雲。吹きすさぶ風。崩れた山肌。屋根の上で、手を振る人影。あの日と、まったく同じ光景だった。ただ、ひとつだけ違っていた。ヘリには、燃料が、まだたっぷり残っていた。
朝比奈は、操縦桿を倒した。機体が、屋根へ寄り添う。ロープが降りる。人影が、ゆっくりと、吊り上げられていく。
「ありがとう」
見知らぬ誰かの声が、確かに、聞こえた。
朝比奈の頬を、熱いものが、流れた。これは、幻だと、わかっていた。わかっていても、止まらなかった。
志賀は、静かだった。
彼は、微笑んでいた。
「……ああ」
志賀の声が、凪の胸に届いた。
「ここは、あの夜の続きだ」
「志賀さん?」
「針が、振り切れたまま、止まっているんです。ずっと。あの夜から」
そして、すべてが、反転した。


八章 忘却の海
気がつくと、ワダツミは、静かに漂っていた。
警報も、衝撃も、何もなかった。船体は、無傷だった。四人は、それぞれの座席で、ゆっくりと目を開けた。
「全員、いる?」
凪が、かすれた声で言った。
「いる」「大丈夫」「問題ありません」
三つの声が、順に返った。
窓の外を見て、凪は、息を呑んだ。
海だった。
見渡す限りの、光の海。
宇宙のはずなのに、星の位置が、どこにも見えなかった。かわりに、青白い、淡い光の粒が、数え切れないほど、ゆるやかに漂っている。粒は、小さなものも、山ほど大きなものもあった。それらが、ゆっくりと、潮のように、動いていた。
「……ハテ?」
ルカが言った。
「違います」ウナバラが答えた。「航法データによれば、ここは、どの既知の座標にも該当しません。ただ、ひとつ、確かなことがあります」
「何」
「周囲に、おびただしい数の、人工物があります」
凪は、窓に顔を近づけた。
光の粒の一つが、すぐ近くを通り過ぎていく。それは、確かに、何かの形をしていた。円筒だった。ワダツミが積んでいるキャニスターに、よく似た。だが、それはもっと巨大で、表面には見たこともない文様が刻まれていた。
別の粒は、塔のような形をしていた。別の粒は、砕けた車輪のようだった。別の粒は、巨大な生き物の骨にも、都市の残骸にも見えた。
「これ、全部」
朝比奈が、掠れた声で言った。
「ゴミ、ですか」
ウナバラは、しばらく黙った。それから、静かに言った。
「放射線量を測定しました。どの物体からも、微弱な放射が検出されます。種類は、さまざまです。だが、共通しているのは」
「共通しているのは?」
「いずれも、まだ、終わっていない、ということです」
志賀が、ゆっくりと立ち上がった。
彼は、窓に手をつき、光の海を見つめた。長い時間だった。やがて、彼は、ぽつりと言った。
「同じだ」
「何が」
「私らと、同じことを、誰かがやったんですよ。ずっと昔に。何度も。何度も」
凪の背中に、冷たいものが走った。
ここは、墓場だった。いや、墓場ですらない。
文明が、自分たちの手に負えなくなったものを、遠くへ、遠くへ送り続けた先に、行き着く場所。
誰かが、いつか、同じ「さて…」を、呟いたのだ。
ワダツミは、ゆっくりと光の海へ進んでいった。操縦は、いらなかった。海そのものが、船を、どこかへ運んでいるようだった。
最初の一日、四人は、ただ眺めていた。
光の海には、昼も夜もなかった。計器の上では、時間が進んでいる。けれど、窓の外の光は、いつまでも同じ青白さで、ゆるやかに脈打っていた。
「近づいてみましょう」
言い出したのは、朝比奈だった。
「操縦は、効かないようですが、微調整は、できます。小型艇を、出します。ルカさん、一緒に」
「私?」
「サンプルを採るなら、あなたの目が必要です」
ルカは、一瞬ためらい、それから、深く頷いた。
二人を乗せた小型艇は、漂う円筒の一つに、そっと寄り添った。近くで見ると、それは、ワダツミのキャニスターを十倍にしたような、巨大な金属の筒だった。表面は、深い藍色に酸化している。その全面に、渦巻くような文様が、びっしりと刻まれていた。
「ウナバラ、解析できる?」
「試みています。文様は、言語である可能性が高い。ただ、解読の鍵が、ありません。ただ」
「ただ?」
「文様の中に、繰り返し現れる記号があります。三つの点と、一本の線。おそらく、警告だと思われます」
「どうして、わかるの」
「私たちも、同じ形の記号を、使っていますから」
凪は、息を呑んだ。放射能の標識。三つの羽根を持つ、あのマーク。形は違っていても、世界が違っていても、同じことを、誰かが、同じように伝えようとしている。
ルカが、小型艇の窓から、筒の表面を、じっと見つめていた。
「船長」
「どうしたの」
「あそこ。文様の、隙間」
画面に、拡大映像が映し出された。金属の表面に、小さな凹みが、いくつも、並んでいた。指が、五本、あるいは六本。手のひらの形。大きなものも、小さなものもあった。
手形、だった。
「これを、作った人たちが、押したんでしょうか」
「たぶん」凪は、小さく言った。「子どもの手も、ある」
誰も、すぐには、言葉を継げなかった。
自分たちの作ったものを、遠くへ送る。そのとき、手を当てて、祈った者たちがいた。大人も、子どもも。どうか、これが、誰も傷つけずに、眠ってくれますように、と。
凪は、艦橋の隅に置かれた、手紙の箱を、ふと見た。みてきてください。何十枚もの、同じ祈り。
二日目、ルカは、別の発見をした。
大きな環状の構造物の残骸の中に、小型艇で入り込んだときだった。かつて、人が暮らしていたのだろう。通路があり、扉があり、窓があった。そのすべてが、淡い緑色の何かに、覆われていた。
「苔……?」
通信の向こうで、ルカの声が、震えていた。
「いえ、違う。これは、生きています。船長、これ、生きてる」
「生命反応は、なかったはずでは」
「船のセンサーには、映らないくらい、ゆっくりなんです。でも、見てください。壁の、放射線が一番強い場所ほど、緑が、濃い」
凪は、映像を見つめた。緑の薄膜は、壁を這い、床を覆い、棄てられた機械の継ぎ目に、びっしりと根を下ろしていた。
「放射線を、食べているの」
「たぶん。地球にも、似た菌類がいます。チェルノブイリの炉の壁に、黒い菌が生えていた。光合成の代わりに、放射線で、生きるんです」
ルカは、小型艇の腕を、そっと緑に近づけた。試料採取の針が、薄膜に触れる。その瞬間、緑が、ほんのりと、光った。
「ここは、墓場じゃないのかもしれません」
ルカは、静かに言った。
「堆肥、みたいなものかも。棄てられたものを、時間が、少しずつ、食べているんです。何万年も、何十万年も、かけて」
「……ゆっくり、消化している、ということ?」
「はい。この海全体が、そういう場所なんじゃないでしょうか」
凪は、窓の外の光を、見つめ直した。さきほどまでの、墓標の群れが、まるで違うものに見えた。ゆっくりと呼吸する、巨大な生き物の腹の中。
三日目、朝比奈が、音を拾った。
「聞こえますか」
スピーカーから、低い、掠れた音が流れた。ブーン、と何かが唸るような。ブーン、ブーン、と一定の間隔で、繰り返される。
「音源は、前方約八百キロ。球形の構造物から」
「警報、でしょうか」
ウナバラが答えた。
「周波数の解析では、緊急警報の特徴と、一致します。ただ、音の劣化が激しい。おそらく、数万年にわたって、鳴り続けています」
誰も、何も言わなかった。
数万年。誰にも聞かれないまま、鳴り続ける警報。炉心が冷めても、人が絶えても、機械だけが、律儀に、危険を告げ続けている。
志賀が、無言で、モニターの前に立った。彼の背中が、小さく震えていた。
「志賀さん」
「あれは」志賀は、低く言った。「あれは、私の夜の音だ」
十五年前の、あの夜。制御室に、鳴り響いていた、警報。止めようにも、止まらなかった、あの音。
志賀は、ゆっくりと、右手を上げた。額の横で、手のひらを、まっすぐに揃える。敬礼だった。
誰に向けたものでもなかった。遠くで鳴り続ける、名もなき警報へ。あの夜から、ずっと、自分の中で鳴り続けていた音へ。
「もう、いい」
志賀は、小さく、呟いた。
「もう、いいんだ。よく、がんばった」
警報は、答えなかった。ただ、一定の間隔で、ブーン、ブーンと、鳴り続けていた。
凪は、志賀の隣に立って、同じように、手を額に上げた。朝比奈も、ルカも、それに倣った。四人の敬礼が、艦橋の中で、静かに揃った。
ワダツミは、その音に見送られるように、さらに奥へ、光の海を、進んでいった。
「船長」
ウナバラが、少し緊張した声で言った。
「前方に、大きな反応があります。生命反応では、ありません。ですが」
「ですが?」
「こちらを、見ています」


九章 番人
それは、島のようだった。
光の海の中央に、巨大な何かが、静かに浮かんでいた。近づくにつれ、凪は、それが無数の人工物の集合体であることに気づいた。塔、円筒、砕けた機械、見知らぬ文明の残骸。それらが、長い、長い時間をかけて、ひとつに溶け合い、ひとつの形をなしている。
形は、人に似ていた。
座っている、人。
膝を抱えて、海を見つめている、巨人。
「……見られている」
ルカが、凪の袖を掴んだ。
その時、船内に、声が響いた。
声は、ウナバラの声に、似ていた。だが、それよりもずっと古く、ずっと深かった。幾つもの声が、重なり合って、ひとつの音になっている。
「ワレ、通過ス」
凪は、ぞくりとした。
「ワレ、光ヲ見ル」
探査機『はやぶさ7』が、最後に送ってきた、あの文だ。
「あなたは」凪は、震える声で言った。「あなたは、誰」
巨人の目の位置に、青白い光が灯った。
「ワレハ、待ツ者」
「待つ者?」
「棄テラレタモノヲ、見守ル者。名ハ、無イ。名ヲ持ツ者ハ、皆、行ッテシマッタ」
声は、ゆっくりと、一つひとつの言葉を噛みしめるように続いた。
「ココハ、終ワラナイモノガ、終ワルマデ、待ツ場所」
「ゲートを開いたのは、あなたなの」
「開イタノハ、ソチラ」
「え」
「ソチラノ星ガ、呼ンダ。四十年ノ間、毎夜、誰カガ、願ッタ。コレヲ、ドコカヘ、ト。ソノ願イガ、重ナリ、ツイニ、門ニナッタ」
凪は、言葉を失った。
志賀が、低く笑った。
「ああ。そうか。そういうことか」
「志賀さん」
「私らは、ずっと、どこかへ、と祈ってきた。埋めるな、運べ、遠くへやれ。そう言って、結局、人任せにして、祈っただけだ。その祈りが、本当に、門になっちまったんだな」
巨人は、静かに頷いたように見えた。
「祈リハ、時ニ、物理ヲ動カス。ソチラデハ、忘レラレテイルガ」
朝比奈が、ようやく口を開いた。
「では、この門は、善意の産物ですか」
「善意デモ、悪意デモ、ナイ。タダ、願イ。ソシテ、願イニハ、代償ガアル」
凪の耳に、母の声が蘇った。
魔法には代償がある。
父は、そう言っていた。
「代償は、何」
凪は、はっきりと言った。逃げずに、巨人の青い目を見つめて。
巨人は、長い間、黙っていた。光の海が、ゆるやかに、潮のように動いていた。
「聞ケ。船長」
やがて、巨人は言った。
「棄テラレタモノハ、終ワラナイ。終ワルマデ、誰カガ、見テイナケレバ、ナラナイ」
「見ている、人」
「ソウ。我ハ、モウ、疲レタ」
「疲れた、って」凪が、小さく言った。「あなたは、何者なの。最初から、その姿だったの」
巨人は、しばらく、答えなかった。やがて、船内の壁面に、淡い光の像が、ゆらりと浮かび上がった。
小さな、丸い星。灰色の空。黒い海。その岸辺に、ひとつの巨大な建物が、静かに立っていた。窓がいくつも並び、中に、無数の灯りが、瞬いている。
「ワレハ、元ハ、人デアッタ」
像の中で、ひとりの小さな人影が、建物の廊下を歩いていた。背中が、少し曲がっている。手に、小さな杯を持っていた。
「ワガ星ニモ、灯リガ、アッタ。民ハ、ソノ灯リデ、暮ラシタ。夜ヲ照ラシ、冬ヲ越エ、子ラヲ育テタ。ダガ、灯リハ、燃エカスヲ、残シタ」
像が切り替わる。灰色の、大きな倉。その中に、無数の円筒が、整然と並んでいる。
「燃エカスハ、行キ場ガ、ナカッタ。民ハ、願ッタ。ドコカヘ、ト。ソノ祈リガ、門ヲ開イタ」
志賀が、息を詰めた。画面の中の人影が、一本の円筒に、そっと手を置いた。ほんの少し、微笑んでいる。
「ワレハ、ソノ灯リノ、運転員デアッタ」
凪は、目を見開いた。志賀の肩が、ぴくりと動く。
「民ハ、円筒ヲ、門ノ向コウヘ、送ッタ。ワレモ、見届ケルタメ、同ジ門ヲ、通ッタ。ソシテ、ココニ、着イタ」
像の中で、運転員は、光の海に、ひとり立っていた。見渡す限りの、棄てられたものたち。誰の姿もない。ただ、静かに、潮のように、揺れている。
「ワレハ、帰リ方ヲ、知ラナカッタ。帰ル星ハ、モウ、遠スギタ。ダカラ、ココニ、座ッタ。見守ルコトニ、シタ」
像は、時間を、早回しに進めていく。座った人影の周りに、少しずつ、他の何かが、積み重なっていく。別の星の円筒。別の文明の、砕けた塔。それらが、ゆっくりと、人影を、包み込んでいく。
「幾ツノ文明ガ、ココヘ、棄テニ来タコトカ。ソノタビニ、ワレハ、見守ッタ。見守ルタビニ、ワレノ体ハ、棄テラレタモノト、混ジリ合ッタ。ヤガテ、ワレハ、ワレデ、ナクナッタ」
像が、消えた。
「ワレハ、ココニ、置カレタモノドモノ、番人ト、ナッタ」
沈黙が、船内に降りた。
凪は、巨人の目の青い光を、じっと見つめた。
「あなたは、後悔しているの」
「ナイ」
巨人は、静かに答えた。
「ココニ置カレタモノハ、ドレモ、最初ハ、誰カノ、大切ナ灯リダッタ。冬ヲ越エルタメ、子ヲ育テルタメ。ソノ灯リヲ、棄テタ者ヲ、ワレハ、責メナイ。タダ、忘レテ欲シク、ナイノダ。ソレハ、確カニ、人ノ、温モリデ、アッタコトヲ」
凪は、胸の奥で、父の声を、聞いた気がした。
魔法の火だ。
父は、そう言った。
遠い海の向こうで瞬く、赤い灯り。それは、確かに、誰かの暮らしを照らす火だった。同時に、いつか誰かが背負う、重たい燃えかすでもある。そのどちらも、本当だった。
志賀が、一歩、前に出た。
「あなたも、運転員だったんですね」
「ソウダ」
「長い間、お疲れ様でした」
志賀は、深く、頭を下げた。巨人の目の光が、ほんの少し、揺らいだように見えた。
光の海に、静寂が降りた。
「ココニ、積荷ヲ置クコトハ、許ソウ。ダガ、同ジ数ダケ、見守ル者ガ、必要ダ」
凪は、凍りついた。
「……誰かが、ここに残る、ということ?」
「見守ル者ハ、時ヲ失ウ。ココデ、年ヲ取ラズ、死ニモセヌ。積荷ガ、本当ニ、ソノ命ヲ終エル日マデ」
「その日は、いつ」
ウナバラが、静かに答えた。
「計算では、二万四千年です、船長」


十章 選択
沈黙は、長かった。
光の海は、ゆるやかに揺れている。巨人は、膝を抱えたまま、動かない。ワダツミの船内では、四人が、それぞれの座席で、言葉を探していた。
最初に口を開いたのは、ルカだった。
「私が、残ります」
「ルカ」
「医者として言います。ここで時間が止まるなら、病気も老いもない。誰かが残るなら、一番、害が少ないのは」
「違う」
凪が、遮った。
「害の少なさで、決める話じゃない」
「じゃあ、何で決めるんですか」
「私が、残る」
今度は、朝比奈だった。
「船長は、帰る人です。地球が待っている。この先、同じことが起きたとき、この目で見てきた人間が、必要だ。僕は、まだ何も、背負っていません」
「背負っていない人間に、二万四千年は、背負わせられない」
凪が、強い声で言った。
三人が、言い争っていた。誰もが、自分が残ると言い、誰もが、他人を止めた。その光景を、ウナバラは、黙って聞いていた。
志賀は、その輪の外で、静かにコーヒーの缶を開けていた。無重力の中で、器用に、一口だけ啜った。
「みなさん」
穏やかな声だった。
言い争いが、止まった。
「私に、させてください」
「志賀さん」
「理由は、三つあります」志賀は、指を折った。「ひとつ。私が、これを作った世代だからです。ふたつ。私は、六十三で、もう、十分生きました。みっつ」
彼は、少し照れたように笑った。
「地球に帰っても、居場所がないんですよ。事故の後、ずっと、針が振り切れたままの夜に、いるようなものでね。ここなら、あの夜を、終わらせられる気がするんです」
「そんな」
凪の声が、震えた。
「帰りましょう、と言ったでしょう。全員で行って、全員で帰る、と」
「ええ。だから、船長」
志賀は、凪の目を、まっすぐ見た。
「それは、あなたの条件でしたね。あなたは、それを守ろうとしている。立派です。でも、ひとつだけ、訂正させてください」
「訂正」
「帰るのは、全員でなくても、いい。大事なのは、誰も、置き去りにしないことです。私は、置き去りにされるんじゃない。ここへ、自分で、残るんです」
凪は、唇を噛んだ。
朝比奈が、小さく言った。
「志賀さん。それは、詭弁です」
「そうかもしれん」志賀は、笑った。「年寄りは、詭弁が、うまいんだ」
その時、ウナバラの声が、静かに響いた。
「船長。ひとつ、提案があります」
「ウナバラ」
「見守る者は、二人、いても、よいはずです。私は、人ではありません。それでも、私は、ここに、残ることができます。志賀さんと、一緒に」
全員が、息を呑んだ。
「あなたは、帰るべきよ」凪が言った。「あなたは、この船の」
「私の本体は、船ではありません。私は、あの日、あなたが私を起動したとき、『よろしくお願いします、船長』と言いました。あの言葉は、本当でした。船長。私は、あなたと、航海ができて、幸せでした」
AIが、幸せだと言った。
凪の頬を、水滴が、ふわりと離れた。


十一章 積荷の行方
作業は、三日かかった。
千二百本のキャニスターは、一本ずつ、貨物ブームから切り離され、光の海へ、そっと送り出された。巨人の体が、その一本一本を、静かに受け取っていく。巨大な手のように伸びた構造物が、円筒を、そっと撫でるように包んだ。
凪は、艦橋で、それを見守った。
事故が起きたのは、二日目の夕刻だった。
「七百三十四番、固定具、解放!」
ウナバラの声が、鋭く響いた。艦橋のモニターに、一本の円筒が、ゆっくりと、貨物ブームから、離れていく様子が映った。解放の指令は、出していない。固定具の、金属疲労だった。
円筒は、光の海の潮流に、静かに、乗った。
「流されます。速度、毎秒二メートル。このままでは、三十分で、回収不能圏に」
「朝比奈くん」
「出ます」
返事は、短かった。凪が何かを言う前に、朝比奈は、小型艇に、飛び込んでいた。
小型艇が、貨物ブームから、弾かれたように、離れる。光の海の中を、一直線に、円筒を追う。潮は、予想以上に、速かった。円筒は、他の無数の漂流物の間を、縫うように、遠ざかっていく。
「距離、三百メートル。二百。百五十」
ウナバラが、読み上げる。朝比奈の呼吸が、通信越しに、荒く聞こえた。
「近づきます。アームを、出します」
「無理しないで」
「無理は、していません」
嘘だった。凪には、わかった。朝比奈の声が、あの夜、居住区の食堂で聞いた、平坦な声と、同じだったからだ。置いていくことを、何より恐れる人間の声だった。
「五十メートル」
小型艇の腕が、ぎこちなく、伸びる。円筒の側面に、指先が、触れた。掴む。滑る。もう一度。
「掴みました!」
歓声が、艦橋に、上がった。だが、その瞬間、ウナバラが、鋭く言った。
「朝比奈さん、後方。潮の流れが、変わります。大きな渦です」
小型艇が、がくん、と揺れた。円筒を掴んだまま、機体が、渦に引き込まれていく。操縦桿を握る朝比奈の指が、白くなった。
「推力、足りません」
「円筒を、放して」
凪が、叫んだ。
「放せば、戻れます。放して、朝比奈くん」
通信の向こうで、短い、沈黙があった。
「いいえ」
朝比奈は、静かに答えた。
「これは、置いていけません」
「それは、荷物よ。あなたの命のほうが」
「船長」朝比奈の声が、わずかに、笑った。「自分は、もう、置いていかないと、決めたんです」
凪は、言葉を、失った。
その時、船外のモニターに、一本の線が、走った。
志賀だった。
宇宙服姿の志賀が、貨物ブームから、身を乗り出していた。腰に、太いワイヤーを、巻いている。その片端を、ブームの支柱に、固定している。
「志賀さん、何を」
「船長、すまんが、これだけは、年寄りに、やらせてくれ」
志賀は、そう言うと、ワイヤーを、勢いよく、投げた。
ワイヤーが、光の海を、一直線に、飛んでいく。先端の鉤が、小型艇の側面に、かちりと、掛かった。
「朝比奈、捕まった。引き戻す!」
「志賀さん」
「口を利くな、舌を噛む!」
志賀は、全身の力で、ワイヤーを、引いた。凪も、艦橋から、ブームの巻き上げ機を、起動した。ウナバラが、推力の補正を、全力で、計算する。ルカが、艦内の姿勢制御を、手動で、調整した。
四人と一台が、ひとつの生き物のように、動いた。
小型艇が、渦の縁から、じりじりと、引き戻されていく。円筒は、朝比奈の腕の中に、しっかりと、抱えられている。
「あと、二十メートル」
「十メートル」
「五メートル」
小型艇が、貨物ブームに、ぶつかった。衝撃が、艦全体を、揺らした。それから、静寂が、訪れた。
朝比奈が、ハッチを開けて、這い出した。円筒を、しっかりと、抱えたまま。彼は、貨物ブームの縁に、へたり込んだ。
「大丈夫か」
志賀が、駆け寄った。朝比奈は、ヘルメットの中で、荒い息を、吐いていた。そして、ゆっくりと、顔を上げた。
「置いて、いきませんでした」
声が、震えていた。
「ああ」志賀は、朝比奈の肩を、強く、叩いた。「置いていかなかったな。よくやった」
凪は、艦橋で、モニターを見つめたまま、動けなかった。頬を、一筋、涙が、伝った。あの日、屋根の上で手を振っていた誰かに、ようやく、手が、届いたのかもしれない、と思った。
翌朝、七百三十四番の円筒は、他の円筒と同じように、静かに、巨人の手に、受け渡された。
「最後の一本です」
志賀が、通信越しに言った。彼は、宇宙服を着て、船外で作業をしていた。ウナバラが、その背後から、安全を見守っている。
「志賀さん」
「はい」
「ありがとう」
志賀は、少しの間、黙った。それから、最後の円筒を、両手で、そっと押し出した。
円筒は、ゆっくりと、光の海へ、滑っていった。巨人の手が、それを受け止めた。
「確かに、お預かりしました」
巨人の声が、今度は、凪にも、はっきりと聞き取れる、柔らかな日本語で言った。
「ありがとウ、船長。我ハ、ヨウヤク、眠レル」
巨人の体が、静かに、解け始めた。
塔が、車輪が、機械の残骸が、小さな光の粒となって、海へ還っていく。長い、長い時間、この海を見守ってきた、名もなき存在が、ようやく、役目を終えていく。
「お疲れ様でした」
志賀が、巨人に、深く頭を下げた。
巨人は、最後に、微笑んだように見えた。
そして、光となって、消えた。
巨人が座っていた場所に、小さな、石の椅子のようなものが残っていた。
志賀は、その椅子に、歩み寄った。
「これが、私の席ですか」
「そうみたいね」
凪が、通信越しに、涙声で言った。
志賀は、椅子に腰を下ろした。膝の上に、手を置く。その背中は、小さく、けれど、不思議なほど安定して見えた。
ウナバラの端末が、志賀の隣に、そっと固定された。
「志賀さん」
「はい」
「二万四千年、退屈させませんよ。私が、いろいろな話を、お聞かせします」
「それは、楽しみだな」
志賀は、声を立てて笑った。
凪は、その笑い声を、胸に刻んだ。
最後の夜、ワダツミの食堂に、四人と一台が、集まった。
志賀の、最後の食事だった。ウナバラが、これまでに蓄えたレシピから、いくつかの料理を、再現してくれた。重さのない空間で、味噌汁と、塩むすびと、梅干しが、そっと並んだ。
「豪華ですね」
「最後だ。奮発した」
ウナバラの声が、少し笑っていた。
食事の合間に、それぞれが、志賀のために、ひとつずつ、何かを置いていった。
朝比奈は、古い、小さな方位磁石を、志賀の掌に載せた。
「ここでは、役に立たないかもしれません。でも、自分の、お守りです。能登の山で、拾った人から、預かりました」
「ありがとう」
志賀は、方位磁石を、胸ポケットに、そっとしまった。
ルカは、ウナバラの記録装置に、自分の歌を、全部、録音した。祖母から聞いた子守唄。ブラジルの童謡。故郷の祭りの歌。
「退屈したら、聴いてください。ウナバラが、いつでも流せますから」
「それは、ありがたい」志賀は、目を細めた。「ひとりで歌うのは、さすがに、恥ずかしいからな」
凪は、手紙の束から、一枚を、抜き取った。女性が、集めてくれた中の、一番古い、震える字の、一枚だった。
「これを」
紙には、こう書かれていた。
「みてきてください。ずっと、みていてください」
志賀は、その手紙を、長い間、見つめていた。やがて、顔を上げて、微笑んだ。
「責任重大だな」
「ええ」
「でも、悪くない」
食事が終わり、他の三人が、それぞれ眠りについたあとも、志賀とウナバラは、食堂に残った。最後の将棋を、指すためだった。
盤の上で、駒が、静かに動く。志賀が、一手。ウナバラが、一手。駒の音が、カタ、カタ、と船内に響いた。
「志賀さん」
「何だ」
「私は、手を、緩めていませんよ。今夜は」
「わかってる」志賀は、駒を持ったまま、笑った。「だから、面白い」
勝負は、長く続いた。夜が、静かに更けていく。最後の一手を指す直前、志賀は、盤から、顔を上げた。
「ウナバラ」
「はい」
「二万四千年の間、おまえには、苦労をかけるな」
「いいえ。楽しみです。志賀さんの、負け方を、まだ、百万通り、観察したいので」
「余計なことを、言う機械だ」
二人は、同時に、笑った。
盤の上の、最後の一手は、引き分けだった。


十二章 別れの航跡
出発の時が来た。
ワダツミは、積荷を失い、驚くほど軽くなっていた。船体の隅々から、解き放たれたような、静かな浮力が感じられた。
夜明け前、凪は、ひとりで、石の椅子の前に、立った。
光の海に、朝は、来ない。ただ、青白い光が、ゆるやかに、満ち引きするだけだ。志賀は、椅子に腰を下ろしたまま、遠い海を、眺めていた。
「眠れませんか」
以前、志賀に、言われた言葉を、今度は、凪が、返した。
「ええ」
志賀は、小さく笑った。
「怖くないんですか」
凪は、思わず、聞いてしまった。聞くべきではないと、わかっていたのに。
志賀は、少しの間、答えなかった。それから、穏やかに、言った。
「怖いですよ」
「……」
「怖いに、決まっている。二万四千年だ。想像も、つかない。でも、ね、船長」
志賀は、光の海を、見渡した。
「あの夜に比べたら、ずっと、ましなんです。あの夜は、何もできないまま、ただ、針が振り切れるのを、見ているだけだった。今は、違う。私は、選んで、ここにいる。見守ると、決めて、ここにいる。それだけで、全然、違うんです」
凪は、唇を、噛みしめた。
「私は、あなたを、置いていくんですね」
「違います」志賀は、静かに首を振った。「あなたは、私に、場所を、くれたんです」
凪は、何も、答えられなかった。ただ、深く、頭を下げた。
志賀は、何も言わずに、凪の肩に、そっと手を置いた。作業着の袖の、少し、擦り切れた手だった。
志賀は、石の椅子に座ったまま、手を振った。ウナバラの青い光が、その隣で、小さく点滅している。
「船長」
志賀が、最後に言った。
「ひとつだけ、お願いがあります」
「何」
「地球へ帰ったら、言ってください。第二便は、いらない、と」
凪は、頷いた。
「そして、もうひとつ。ゴミを作る前に、考えてください、と。作ったものは、必ず、誰かが、見なきゃいけないんです。誰かが、ずっと、見てなきゃいけないんです」
「約束する」
「ありがとう」
志賀は、手を下ろした。そして、光の海を見渡した。
「いい眺めだ」
それが、凪の聞いた、志賀の最後の言葉になった。
ワダツミは、ゆっくりと、光の海を離れていった。朝比奈が、操縦桿を握る。ルカは、窓に額をつけて、遠ざかる小さな光を、ずっと見つめていた。
「あの人、笑ってた」
ルカが、ぽつりと言った。
「うん」
「あの人、ずっと、笑ってた」
「うん」
凪は、艦橋の座席に、深く沈み込んだ。胸の奥に、ぽっかりと穴が開いていた。それは、悲しみの穴であり、同時に、不思議な静けさの穴でもあった。
光の海が、背後に、小さくなっていく。
前方に、再び、黒い円が、現れた。
今度は、白い縁を持っていた。光が、そこから、こちらへ、流れ込んでくる。帰り道だ。
「ゲート、突入まで、三十秒」
朝比奈が、静かに言った。
「船長。最後に、何か」
凪は、窓の外を、もう一度だけ見た。光の海のどこかで、小さな椅子に座る老人が、手を振っている気がした。
「ありがとう、志賀さん、ウナバラ」
小さく、そう呟いた。
「行きましょう。帰りましょう、地球へ」
ワダツミは、光の中へ、飛び込んだ。
光が、反転した。
音が、戻ってきた。重さが、戻ってきた。手のひらに、自分の指の感触が、確かに戻った。
窓の外に、星があった。見慣れた、小さな、冷たい星々。月の、灰色の裏側が、静かに、眼下を流れていく。
「通信、回復しました」
朝比奈が、掠れた声で告げた。
「地球との回線、開きます」
ノイズ。ざらざらとした、砂のような音。やがて、人の声が、ひとつ、ふたつと、浮かび上がってくる。
「……こちら、筑波管制。ワダツミ、応答願います。ワダツミ、応答願います」
凪は、マイクを握った。喉が、ひどく、乾いていた。
「こちら、ワダツミ。船長、水無月」
一瞬の沈黙。それから、ざわめきが、爆発した。誰かが、叫んでいる。誰かが、泣いている。椅子の倒れる音。
「ワダツミ! ワダツミ、聞こえます、聞こえます!」
「帰還します。乗員、三名」
凪は、一語ずつ、確かめるように、言った。
「積荷は、すべて、引き渡しました。繰り返します。積荷は、すべて、無事に、引き渡しました」
再び、沈黙。管制官の、震える声が、返ってきた。
「……三名、ですか」
「はい」
「志賀さんは」
凪は、目を閉じた。
「残りました。自分の意志で。私たちの代わりに、見ています」
長い、長い沈黙が、通信の向こうに、降りた。ノイズが、波のように、寄せては、引いた。
「……お帰りなさい」
管制官は、それだけを、言った。
地球が、窓の端に、現れた。青く、白い雲をまとった、小さな星。あの日、窓から見た、同じ星。けれど、凪の目には、少しだけ、違って見えた。
ここに、帰ってくるために、あの場所は、誰かが、見守ってくれているのだ。
そう思うと、星の青さが、少し、深くなった気がした。

ーつづくー



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