バンで良い男
〜見掛けより中身を貫いたら、なぜか町内一の見栄っ張りになった話〜


まえがき
この話は、どこにでもいる中年男性が、良い話を聞いて、良い方向に頑張って、良い感じに道を外す話である。
きっかけは「見掛けか、中身か」という、古くて新しい問いだった。答えはとっくに出ている。どっちも大事だ。なのに私たちは、どちらか一方を捨てれば立派になれるような気がしてしまう。
古田慎吾は、私の知り合いに似ている。いや、少し前の私に似ているのかもしれない。




序 ある詩
見掛けか 中身か
カネで
道具で
着飾るよりも
自分を鍛えよ と

そんな教授の言葉を、あの日、古田慎吾はスマートフォンのメモ帳に打ち込んだ。ただし最後の二行だけは、帰り道の駐車場で自分で付け足したことを、この時の彼はまだ忘れている。
市民ホールの硬い椅子に座り、幕の内弁当の空き箱を膝に載せたまま。目はうるみ、鼻は少し赤かった。
これは、そのメモを信じすぎた男の、たいへん真面目で、たいへん滑稽な一年の記録である。


一章 シンポジウムの午後
古田慎吾、四十五歳。食品卸「東和フーズ」営業部の課長である。
手首にはスイス製の腕時計が光っていた。文字盤には小さな窓がいくつもあり、何が表示されているのか本人もよく知らなかった。百八十万円。ローンは六十回払いで、まだ四十一回残っている。
車は黒い外車のSUVだった。タイヤの幅は慎吾の肩幅より広い。月々の支払いは九万八千円。ボーナス月は加算がある。
スーツはオーダーメイドだった。裏地には自分のイニシャルが金糸で刺繍してある。ただし人目に触れる機会は、居酒屋の座敷で上着を脱ぐときくらいしかない。
口癖は「見掛けも実力のうち」だった。妻の美和は「はいはい」と聞き流し、中学二年の娘ひなたはヘッドホンを外さずに言う。
「パパ、それ今月九回目」
その日、慎吾が「令和ビジネスパーソン自己研鑽シンポジウム」に参加した動機は不純だった。部長の三浦が「市の補助で参加費三千円、昼食付きだってさ」と言った。昼食付き、という響きに弱い。しかも市民ホールなら取引先の八百屋に近い。
会場には二百人ほど。前方は眠る準備をしている中年男性で占められている。慎吾は後方の通路側に座った。
登壇したのは白髪の老教授だった。黒板に大きく一行だけ書いた。
『見掛けか 中身か』
「良い車に乗っていますか。良い服を着ていますか。良い時計をしていますか。それは悪いことではありません。ただ、それよりも、身体を鍛えたほうがいい。知識を身につけたほうがいい。マナーを磨いたほうがいい。ジムに通い、習い事をし、こうしてシンポジウムに足を運ぶ。その方がずっと人間の厚みになる」
そこで慎吾は雷に打たれた。正確には、袖の中の百八十万円に打たれたのである。
教授は続けた。
「車はバンでいい。服はユニクロでいい。時計はカシオでいい」
隣で寝ていた作業着の老人が「え、バン?」と言ってまた眠った。
休憩時間に配られた幕の内弁当。ご飯を口に入れた瞬間、また泣きそうになった。ただの幕の内なのに、卵焼きが甘すぎず、でもほんのり甘い。たけのこの煮物に薄い醤油の染みがある。
「これだ。これが、中身だ」
帰り道、駐車場の精算機は千二百円と表示した。参加費三千円の四割である。しかも自分の外車は白線から二十センチはみ出していた。管理人のおじさんが小さく首を振っていた。
ピカピカの黒い車体に空が映り、その隅に四十五歳の見栄っ張りの顔が映っていた。
「おまえは、俺の見栄の塊だ」
その夜、ダイニングに家族を集めた。
「みんなに大事な話がある」
美和が手を拭きながら来た。
「また何か買ったの?」
「逆だ。売る。時計と、車と、スーツを」
沈黙の後、ひなたが本気で心配した顔で言った。
「パパ……病気?」


二章 断捨離という名の逃走
翌週の土曜日、慎吾は高級時計買取店のドアを開けた。白い手袋の店員が七分かけてルーペで見て、やさしく言った。
「査定額は、四十二万円でございます」
「百八十万円で買ったんですが」
「時計は買った瞬間に価値の半分以上が失われる世界でして」
売れた。ローンはまだ六十万以上残った。店を出ると手首だけに冬が来た。
カーショップでも同じだった。査定と残債を相殺しても足が出る。詩にはこういう場面は出てこない。詩はいつもきれいなところしか描かないのだ。それでも売った。
「次のお車はどうされますか」
「バンで。荷物がたくさん積めるやつを」
「何を積まれるんですか」
慎吾は真顔で答えた。
「中身です」
三日後、自宅前に白いバンが来た。中古で走行十二万キロ。側面にはうっすら消えかけた文字。
『田中水道設備 漏水・詰まりすぐ対応』
前のオーナーは水道屋だったらしい。慎吾はあえて消さなかった。消すのは見栄の延長だと思ったからだ。
美和が玄関先で三秒立ち尽くした。
「ご近所さんに、水道屋さんだと思われるよ」
「構わない」
「午後の三時に『あの、蛇口が』って来たらどうするの」
「直す」
「直せるの?」
「……勉強する」
実際勉強した。ホームセンターで工具を買い、動画を見て洗面所の蛇口を分解した。元に戻すのに四時間かかった。その間ひなたは台所の流しで顔を洗った。
「パパ、中身を鍛えるの、うちの洗面所を犠牲にしないとダメ?」
服も替えた。クローゼットのスーツを業者に渡し、駅前のユニクロへ行った。黒いポロシャツ千九百九十円、チノパン、フリース、ヒートテック。カゴ二つで会計一万六千円。スーツ一着の百分の一である。
最後に時計だ。家電量販店の最下段にあった。
『カシオ スタンダード 税込千二百円』
「これだ。これが中身の時計だ」
店員が言った。「ストップウォッチもアラームもバックライトも防水も付いてますよ」
「買います」
千二百円で、百八十万円より多くの機能を手に入れた。液晶にはただ「10:42」とだけ表示されている。世界はその数字で十分だった。
鏡の前に立つ。黒いポロシャツ、チノパン、千二百円のカシオ。家の前には田中水道設備の白いバン。どこから見ても配管の修理に来た中年男性である。
背後からひなたの声がした。
「パパ、配管工になったの?」
「いや、課長だ」
「配管工にしか見えない」
「それは中身が輝いているからだ」
「中身が配管工なんじゃない?」


三章 質素の見栄
ユニクロの落とし穴は、町内の誰かとかぶることである。
日曜の朝、紺のフリースでゴミ出しに行くと、隣の山下さんも紺のフリースを着ていた。元理科教師の七十歳。
「ユニクロですね」
「ユニクロですね」
奇妙な連帯感が生まれたかと思いきや、山下さんが言った。
「私のは、セールで九百九十円でした」
慎吾の中で何かがカチリと音を立てた。
「私のは、千九百九十円でした」
「定価ですか」
「定価です」
山下さんがほんの少し勝ち誇った顔をした。その瞬間、悔しさを覚えた。
質素は安さを競うものではなかったはずなのに。
時計の話になった。慎吾が堂々とカシオを見せると、山下さんは袖をまくった。さらに小さく、さらに色あせたデジタル時計があった。
「三十二年前、八百円で買いました。電池は六回替えました」
完敗だった。質素の世界にもヒエラルキーがあった。安さ、古さ、持続年数。その三冠を山下さんは独占していた。
その日から慎吾の中で火がついた。見栄の炎である。しかも質素という名の見栄だった。
缶コーヒーを水筒に替え、弁当を自分で作り始めた。同僚の佐々木が言った。
「課長、貧乏ですか」
「違う。質素なんだ」
「同じじゃないですか」
「貧乏は仕方なくなるものだ。質素は選んでなるものだ」
質素合戦は町内会に広がった。
「うちは軽トラ二十年だ」
「うちの冷蔵庫、昭和六十三年よ」
その向こうの青年が言った。
「俺、冷蔵庫、持ってません。コンビニが近いんで」
場が静まった。青年が頂点に立ったのである。冷蔵庫を持たない男には誰も勝てない。
帰りのバンで慎吾は手首を見た。液晶は「21:15」と光っていた。
「俺は一体何をしているんだろう」
彼は「質素の見栄」という新しい病にかかっていた。見掛けを捨てたはずなのに、「見掛けを捨てた自分」という見掛けをまた着込んでいた


四章 ジム、習い事、そしてマナー講座
詩にはこうあった。ジムに、習い事に、シンポジウムに、と。慎吾はすべてを一度に実行した。
駅前の24時間ジムに月七千円で入会。初回案内を断り、レッグプレスの機械に両足を挟まれて動けなくなった。三週間通うと腹がへこみ、肩が丸くなった。その頃から更衣室の鏡を必要以上に見るようになった。
市の生涯学習センターで英会話、書道、マナー講座に申し込んだ。
英会話で「How are you today?」と聞かれ「I am fine, thank you, and you?」と答えると講師は微笑んだ。通じた、と感動して帰宅すると美和が言った。「あの人日本に二十年住んでる人よ」
書道では「心」を書かされたが墨がにじんで「必」に見えた。先生は言った。「これは迷いの心ですね。迷っている人の字は味があります」
マナー講座の講師は六十代の桜井先生だった。
「名刺は両手で、相手の胸の高さに。お辞儀は三十度。ゆっくり下げてゆっくり戻す」
その夜から家は道場になった。
夕食時、ひなたが箸を取ろうとすると「いただきますのお辞儀は?角度が浅い。三十度だ」
「パパ、箸の持ち方を採点しないで。ご飯がまずくなる」
美和が味噌汁を飲みながら言った。
「あなた、お辞儀の角度、家の中で測ってるの?」
慎吾はポケットから小さな分度器を取り出した。ひなたは無言で写真を撮った。その写真は後日「父、覚醒」と題されクラスのグループチャットで拡散された。


五章 家族を、友達を、ご近所を
自己研鑽には欠点がある。時間がかかる。
朝は五時にジム、昼は英単語、夕方は書道、夜はマナーと肩こり体操、週末はご近所づきあい講座。これでは家族に会う時間がない。
美和が静かに言った。
「あなた、家族を大事にしたいって言ってたよね。それ、いつやるの」
手帳を開くと予定がびっしりで、家族の欄は日曜夜の十五分だけ。「家族団らん(マナー確認含む)」と書いてあった。
ひなたの誕生日にジムのスペシャルレッスン「体幹と姿勢の極意」に出ていた時、美和から『今日、ひなたの誕生日、覚えてる?』とLINEが来てバランスを崩し、隣の女性のマットに倒れ込んだ。「体幹、お鍛えになった方がいいですね」と言われた。
帰宅するとひなたは友達とケーキの残りを食べていた。玄関で土下座した。
「いいよ、別に。パパ、最近中身中身ってうるさいけど、中身ってそういうことじゃないと思う」
十四歳の娘に中身を説かれた。教授の言葉より痛かった。
学生時代の友人ガクトから『飲まない?』とLINEが来ても『シンポジウムがある』と断り続けた。『おまえ、変わったな』と返ってきた。
ご近所づきあいの実践として朝六時に道路で「おはようございます!」と四十五度の最敬礼つきで挨拶を始めた。犬が吠え、鳩が飛び、掲示板に『早朝の挨拶運動は八時以降にお願いします』と張り紙が出た。自分が名指しされていることに最後まで気づかなかった。



幕間 取引先にて
変身は会社でも話題になった。白いバンを停めるたび、守衛さんに「業者用入口はあちらです」と指差され、営業部のフロアに着くまでに三人から「トイレはあっちです」と案内された。
大口取引先「丸栄スーパー」の鷹野部長との商談。五十代、恰幅がよく、かつて慎吾が持っていたのと同じような時計をしている。三浦部長は自分の予備の上着を貸した。肩が三センチ余り「兄の服を借りた弟」のようだった。
鷹野部長は一目見て眉を上げた。
「以前は随分お洒落なスーツでしたよね」
「方針転換をしまして。見掛けよりも中身を鍛えようと思いまして」
沈黙の後、鷹野部長は膝を叩いた。
「実は私も考えていたんだ。これ、三百万円した。重くて肩が凝る」
「わかります。私も同じ時計で同じ肩こりでした。しかも保険の勧誘が来ます」
「来るんだ、それ。三社から」
二人の間の壁が崩れた。商談の終わりに鷹野部長が言った。
「うちの店の駐車場に水漏れがあるんだが。あなたのバンに書いてあるじゃないか。漏水すぐ対応と」
翌日、本当に元栓のパッキンを替えた。洗面所で学んだ知識が役に立った。その週、丸栄スーパーは発注量を三割増やした。


六章 黒い外車
隣の御手洗家には大きな黒い外車があった。慎吾がかつて乗っていたSUVより一回り大きい。見るたび胸がざわついた。
教授の言葉の最後に、慎吾は自分で一行付け足していた。
『特に良い車に乗ってる奴ほどマナーが悪い』
これは持論だった。かつて自分もマナーが悪かったから、同じ車に乗る人は皆同じだと思いたかったのだ。ダイニングの壁に貼った「古田家十か条」第九条にもそう書いた。
ある木曜の夜、バンが御手洗家の車庫の出入りをやや狭めていた。翌朝ガタンという音で目が覚めると、御手洗さんの黒い外車がバンの前で止まっていた。
「しまった」と思った次の瞬間、別の考えが走り出した。「わざと俺のバンの前で止まったのでは。威圧しているのでは」
慌ててバンを前に出すと、窓が下りた。
「古田さん、おはようございます。ご迷惑をおかけしました」
「い、いえ、こちらこそ」
運転席で固まりながら小さく言った。
「……演技だ。必ずどこかでボロを出す」
その日から観察が始まった。これは偏見ではない、検証だ。検証には道具がいる。ホームセンターで双眼鏡二千九百八十円と、小さなノートを買った。表紙に『御手洗氏 観察記録』と書いた。
美和が下駄箱の上でそれを見つけた。
「これは何?」
「マナーの研究だ」
「それ、ストーカーっていうのよ」
「違う、観察だ」


七章 証拠不十分
観察は二週間続いた。毎朝五時、二階の窓から。
『五時二十分 家の前の道路を掃く』
『五時三十分 集積所の周囲の散らかったゴミを拾う。ネットを広げ直す』
『六時 隣の新聞を郵便受けから玄関先に置く』
『七時 近所のおばあさんの買い物袋を持って家まで送る』
洗車の日も見た。バケツに水をため、ホースは使わず、スポンジは上から下へ。近所の子どもを助手席に座らせクラクションを一度だけ鳴らしてやる。
ノートに書く言葉が浮かばなかった。
美和がのぞき込んだ。
「あなた、観察記録、全部いい人の記録じゃない」
「……うん」
「最初からわかってたんじゃない?」
「わかりたくなかった。自分が黒い車に乗っていた頃マナーが悪かった。だから同じ車の人は皆同じだと思いたかった」
翌朝、バンのワイパーにメモが挟まっていた。
『古田様 おはようございます。バンの右前輪の空気圧が少し低いようでした。勝手ながら空気を入れておきました。御手洗』
右前輪は理想の硬さだった。朝の光が白い車体に反射して『田中水道設備』の文字が光った。



第八章 洗車
その夕方、慎吾は手土産の出汁醤油ゼリーを持って御手洗家の玄関に立った。四十五度の最敬礼で袋が胸に当たりぺちゃっと音がした。
「タイヤの空気をありがとうございました。そしてずっと観察していたことをお詫びします。双眼鏡で二週間、マナーの粗を探そうと」
「粗はありましたか」
「ありませんでした」
御手洗さんは吹き出した。
「実は双眼鏡のことは二日目に気づいていました。朝日がレンズに反射して二階の窓がキラキラしてた」
「すみませんでした」
「見られていると思うと背筋が伸びましたよ」
奥から色あせた写真を持ってきた。若い女性が笑っている。
「家内です。十年前に亡くなりました。足の悪い人でね、乗り降りが楽なように座席の高い大きな車を選んだんです。今は乗せる人はいないんですけどね。手放せなくて」
慎吾は自分がどれだけ小さい男だったかを痛感した。
「よかったら洗車、一緒にしませんか。バンもそろそろ洗ってあげないと」
その土曜日、二人の男は並んで洗車をした。黒い外車と白いバン。御手洗さんが丁寧に教えた。
「スポンジは上から下へ。下の汚れを上にこすり付けないように。ホイールは最後に別のスポンジで」
「はい」
「車は人と同じです。外側だけ磨いても中がダメなら長持ちしない。でも外側を洗うことで中を気にする気持ちも生まれる。どっちも必要なんですよ」
そこへひなたが来てスポンジを手に取った。三人で洗うとバンは早くきれいになり、消えかけた文字だけがいい味を出していた。
「この文字、消さなくていいの?」
「消さない。これもうちのバンの歴史だから」
「なんかパパよりかっこいいかも」


終章 ある詩
その年の暮れ、町内会の忘年会。持ち寄りの煮物や日本酒の中に慎吾の出汁醤油ゼリーは誰も手をつけなかった。それでも幸せだった。隣に御手洗さん、向かいに勇気を出して誘ったガクトがいた。ガクトは自分の腕時計を外した。慎吾と同じカシオだった。
「三年前から。言わなかっただけ」
宴の終わりに一人ずつ一言。慎吾が立った。
「今年、私は詩に出会いました。見掛けか中身かという詩です。その詩を読んで全部変えました。車をバンに、服をユニクロに、時計をカシオに」
スマホを取り出しメモ帳を映した。
『そう 特に 良い車に乗ってる奴ほど マナーが悪い ってことだよ』
「これは、私が勝手に付け足した行です。教授はそんなことは言っていない。かつて良い車に乗っていた自分のマナーの悪さが恥ずかしくて、他人のせいにしたかった」
御手洗さんが肩に手を置いた。
「だから改訂します」
最後の二行を消し、新しく打ち込んだ。
『そう 特に 他人の車を見てマナーを決めつける奴ほど 自分の運転が危ない ってことだよ』
拍手が起きた。ひなたが言った。「パパ、やっぱりちょっとダサい」美和は黙って笑っていた。
翌春、慎吾の初期型カシオがレトロで人気になり、定価の十倍で取引されているとガクトが教えた。
「売れば百八十万だぞ」
「売らない。これは中身だから」
「中身って時計の?」
「うん、時間の」
その夕方、白いバンで家路についた。側面にはうっすらと『田中水道設備 漏水・詰まりすぐ対応』と残っている。先週も近所の老人が「あの、蛇口が」と訪ねてきた。一時間半かけて直した。老人は五百円玉を渡そうとしたが手を振った。
「ご近所ですから」
二人のお辞儀の角度はきれいに揃っていた。
見掛けか、中身か。もうあまり考えなくなった。
ただ一つだけ、御手洗さんの黒い外車の隣にバンを並べたとき、ちょっとだけ思った。
「やっぱり、ああいう車も、かっこいいな」
そして首を振った。
「いや、これは見掛けだ」
少し考えて付け足した。
「……でも、見掛けも、悪くない」

おわり



あとがき
書き終えて気づいたのは、この話はバンの話でも時計の話でもないということでした。人が何かを信じたときに、信じたもの自体より「信じている自分」が好きになってしまう瞬間の話です。
古田は教授の言葉を信じたのではなく、教授の言葉を信じて変わった自分に酔った。だから質素を競い、他人を裁き、家族との時間を手帳の余白に追いやる。私にも覚えがあります。良いことをしているはずなのに、なぜか周りから少しずつ人が離れていくあの感じです。
御手洗さんという人を出したのは、裁くための悪役が必要だと思ったからでしたが、書いているうちに彼が一番まともな人になってしまいました。黒い外車の理由を「亡くなった奥さんのため」にしたのは、少し出来すぎかもしれません。でも、見掛けの裏には必ずその人にしかわからない事情がある、という当たり前を、私は物語にしないと信じられないことがある。
最後に残った『田中水道設備』の文字は、消さないでおきます。古田の歴史であり、この物語の履歴でもあるからです。
読んでくださって、ありがとうございます。
古田慎吾のバンは、たぶん今日もどこかでパンクしています。空気を入れてくれる人が、隣にいることを願って。


アマゾン キンドル



ーー原詩ーー

見掛けか 中身か

カネで
道具で
着飾るよりも
自分を鍛えよ と

良い車
良い服
良い時計

それよりも
身体を
知識を
マナーを と

ジムに
習い事に
シンポジウムに と

車は バンで良い
服は ユニクロで良い
時計は カシオで良い

自分を磨けば
すべてが付いて来る

それよりも
家族を
友達を
ご近所を と

大事なことは
きっと
そんなことだよ

そう
特に
良い車に乗ってる奴ほど
マナーが悪い ってことだよ

失礼