カラータイマーの向こう側
― 往生際に ―


まえがき
この話を書き始めたきっかけは二つあります。
一つは、子どもの頃に夕方テレビの前で見ていた、あの胸のランプです。あれが鳴り始めると、もう終わりだと思っていました。でも大人になってから見返すと、あの音は勝つ直前に必ず鳴っていた。最後の力を振り絞る合図だったのだと気づきました。
もう一つは、犬と歩いた時間のことです。犬の速度は人より少し遅くて、少し正確です。電柱の匂いを嗅ぎ、草の露に鼻を濡らし、季節を人より先に知る歩き方。その速度で四十年ほど町を歩いてきました。いなくなってからも、玄関で靴を履くときに、爪がフローリングを叩く音を体が先に待ってしまう。
時間が敵に回ったように感じることがあります。でも、もしかしたら時間はずっと味方で、呼び方が違うだけなのかもしれない。そんなことを考えながら書きました。




第一章 点滅
十二月の朝、洗面所の鏡の前で、宗一は自分の胸が光っているのに気づいた。
最初は髭を剃っている途中の錯覚だと思った。左胸、この春の手術でできた傷跡の少し下あたりに、青白い小さな光が灯っている。ぽつ、ぽつ、と。豆粒ほどの明かりだった。
シャツのボタンを外し、鏡に顔を近づけた。光は皮膚の下から滲むように出ていて、点滅のたびに肋骨の影がうっすら浮かんだ。痛みはない。熱もない。ただ規則正しく、静かに何かを知らせるように瞬いていた。
「ウルトラマンかよ」
声に出してみると、六十五歳の男の声は洗面所のタイルに跳ね返って、ひどく間抜けに聞こえた。
子どもの頃、毎週夕方にテレビの前に座っていた。ウルトラマンは三分しか戦えない。胸のタイマーが青から赤に変わって点滅し、ピコン、ピコンと鳴り始めると、子どもたちは画面に向かって「がんばれ」と叫んだ。あの音が鳴るということは、残りが少ないということだった。
宗一は耳を澄ませた。音は聞こえない。代わりに冷蔵庫のモーター音と、遠くの国道を走るトラックの音と、自分の心臓の音が聞こえた。
その日は病院へ行った。春に手術をした病院の定期診察日だった。待合室の長椅子には、宗一と同じ年恰好の男女が、同じように少し前かがみで座っていた。
診察室の医師は四十代の穏やかな男だった。聴診器を当て、傷跡に触れ、血液検査の結果を画面に出してゆっくり頷いた。
「問題ありませんね。傷は綺麗ですし、数値も安定しています」
「胸のところが、光ったりしませんか」
言ってから後悔した。医師は一瞬手を止めたが、笑わなかった。
「光る、ですか。レントゲンでもエコーでもおかしなものは写っていません。念のため心電図も撮りましょうか」
心電図は正常だった。医師は「お疲れが溜まっているのかもしれませんね」と言った。疲れ。この一年、何度その言葉を聞いただろう。疲れやすく、疲れは取れず、体は固まりつつある。去年までできたことが、今年はできなくなった。それは病気ではなく、ただの経過なのだと誰もが言った。
帰りのバスの窓に、冬の薄い日が差していた。宗一はコートの前をそっと開けて胸元を覗いた。光はまだそこにあった。診察室では医師に見えなかったのだ。これは宗一にしか見えないものなのか。それとも、宗一にしか見えなくなったものなのか。
バスが揺れ、隣の老婆がこくりこくりと舟を漕いでいた。その老婆の胸元にも何か光っていないかと、宗一は無意識に目をやり、慌てて視線を逸らした。
家に着くと、玄関の靴箱の上に三つの首輪が並んでいる。ゴン、ムギ、コタ。三匹とも、もういない。首輪だけを宗一は捨てられずにいた。
「ただいま」
誰にともなく言って靴を脱いだ。返事がないのは慣れたはずだった。慣れたはずなのに、玄関に立つたび爪がフローリングを叩く音を、体の方が先に待ってしまう。
その時だった。
胸の光が、ほんの少し速くなった。ぽつ、ぽつ、が、ぽ、ぽ、ぽ、になった。靴箱の上の首輪の、いちばん端のコタの鈴が、小さくちりん、と鳴った気がした。誰も触れていないのに。
宗一は固まったまま、しばらく動けなかった。


第二章 午前三時の公園
光は夜になっても消えなかった。むしろ暗くなるほどはっきりと、胸の上で脈を打つように瞬いた。宗一は布団の中で天井を見つめ、点滅の間隔を数えた。一、二、三、四、五で、ぽつ。また一、二、三、四、五で、ぽつ。五秒に一度だ。
いや、朝より速くなっている。朝は七秒だった気がする。
枕元の目覚まし時計を見た。午前二時五十八分。秒針が動いていなかった。電池切れかと手に取ってみたが、秒針は三十七秒のところで止まっている。スマートフォンを見ると、時刻は「2:58」のまま変わらない。部屋の外の気配を探った。冷蔵庫のモーターが止まっている。国道のトラックの音も消えている。
世界の音が、抜き取られたように静かだった。
その中で、胸の光だけが動いていた。ぽつ。ぽつ。そして、その光に応えるように、どこか遠くでちりん、と鈴が鳴った。
宗一は起き上がった。理屈では説明のつかないことが起きているのに、不思議と怖くはなかった。怖がるには少し年を取りすぎたのかもしれない。それよりも鈴の音の方が気になった。聞き覚えがあった。何度も聞いた音だった。
コートを羽織り、玄関を出た。
外はまるで写真の中のようだった。街灯の光が空中で止まり、舞っていた枯葉が宙に浮いたまま動かない。吐いた息の白さだけがゆっくり流れて消えた。動いているのは宗一と、胸の光だけ。
鈴の音は、いつも犬たちと歩いた散歩道の方から聞こえてくる。
足は自然とそちらへ向かった。この道を、三匹と通算で何千回歩いただろう。最初のゴンは十五年、次のムギは十四年、最後のコタは十三年。合わせると四十年以上、宗一は毎朝毎夕、犬の速度で町を歩いてきた。
公園の入り口に、見慣れない扉が立っていた。壁も建物もなく、ブランコと砂場の手前の何もない空間に、灰色の金属の扉が一枚、ぽつんと立っている。表札のようなプレートにこう書かれていた。
「時間局 第三出張所」
宗一は声を出して笑ってしまった。笑ってから胸の光に手を当てた。光は温かくも冷たくもなかった。ただ扉に近づくにつれて点滅がさらに速くなった。ぽ、ぽ、ぽ、ぽ。
「入るかね」
後ろから声がした。振り向くと、ベンチに老人が座っていた。八十近いだろうか。ニット帽をかぶり、両手で杖に手を置き、ずいぶん前からそこにいたような顔をしている。そして、その老人のコートの胸元からも同じ青白い光が滲んでいた。
「見えるのか」
「見えるさ。お互いな」老人は杖で自分の胸を軽くつついた。「あんた、いくつだ」
「六十五です」
「若いな。わしは七十八。千葉という。ここに来るのは三度目だ。ほら、あんたの光はまだ青いだろう。わしのは、最近ちょっと黄色くなってきた」
言われてみれば、老人の光は青の中にわずかに濁った黄色が混じっていた。
「これは、いったい何なんです」
「詳しくは窓口で聞くといい。ただな」千葉老人は少し声を落とした。「ここの連中は、聞かれたことにしか答えない。何を聞くかが肝心だよ」
宗一は扉の前に立った。取っ手に手をかけると、金属は冷たくなく、むしろ人肌のようにぬるかった。
後ろで、千葉老人が言った。
「もし鈴の音が聞こえたなら、あんたは運がいい。聞こえない者は、ここに来ても何も得られん」
宗一は振り返らずに頷いた。そして扉を引いた。


第三章 三つの窓口
扉の向こうは、役所の待合室だった。古い役所だ。昭和の終わりの市役所の出張所のような匂いがした。リノリウムの床、蛍光灯、壁に掲げられた色褪せた標語。長椅子が並び、番号札の発券機が置かれ、「お待ちの間はお静かに」という札が下がっている。ただし窓の外は、星も闇もない均一な白だった。
窓口は三つあった。それぞれの上に手書きの札がかかっている。
「昭和」「平成」「令和」
宗一は発券機から番号札を取った。札には「六十五」とだけ印字されていた。自分の年齢と同じ数字だ。
待合室には数人の人影があった。みな高齢で、みな胸に光を持っていた。青い人、黄色い人、そして一人だけ赤く点滅している老婦人がいた。老婦人は長椅子の端でうつむき、膝の上で手を組んで静かに待っていた。誰も話さない。誰も目を合わせない。
「六十五番の方」
昭和の窓口から声がした。向こうに座っていたのは無表情な中年の女性だった。年齢がわからない。若くも老いても見える。胸元には名札があり、「担当」とだけ書かれている。
「ご用件は」
宗一は千葉老人の言葉を思い出した。何を聞くかが肝心だ。
「この胸の光は、何ですか」
「持ち時間の残量表示です」
担当の女は、まるで天気の話でもするように答えた。
「男性の持ち時間は、標準で八十一年に設定されています。あなたは現在、六十五年を使用済みです。残量は十六年。ですが表示は残量そのものではなく、残量の消費速度を示します。点滅が速いほど、消費が速い」
「速くなっているんですか、私の時間は」
「今朝から約三割増しになっています」
宗一は喉が鳴るのを感じた。
「なぜ、今朝から」
「あなたが、この一年で消費速度の加速期に入ったからです。誰もが通る過程です」
「それは、年を取れば当たり前のことでは」
「当たり前、というのは、ここでは通用しない表現です」女は事務的に続けた。「時間は貸与されます。八十一年分を、あなたは生まれた時に借りました。返済期限は八十一年後です」
「借りた」
「はい。そして貸与された時間には、利用状況に応じた変動があります。若い頃、時間はあなたの味方でした。借りた時間は豊かに増えるように感じられた。それは初期の優遇措置です」
宗一は思わず窓口に身を乗り出した。
「味方だったはずの時間が、いつの間にか敵側に回ったような気がしてるんです。それは気のせいじゃないんですか」
女は初めてわずかに瞬きをした。
「その質問は、受理されます」
女は引き出しから薄い冊子を取り出し、宗一の前に置いた。表紙には手書きでこう書かれていた。
「時間の収支報告書 宗一 昭和三十六年生」


第四章 収支報告書
宗一は待合室の長椅子に腰を下ろして冊子を最初から読み直した。ページの端は誰かの指で何度もめくられたように丸くなっていた。細かい数字の羅列は、読んでいるうちに人生の年表のように見えてきた。就職した年。引っ越した年。親が死んだ年。そのたびに数字は大きく動いていた。
そしてゴンの行に辿り着いた。昭和が終わる冬だった。
宗一は二十八歳で、機械メーカーの設計課に勤めていた。毎晩遅くまで図面を引き、寮に帰って寝るだけの暮らしをしていた。あの夜は冷たい雨が降っていた。工場の裏口を出たところで、段ボール箱の中にびしょ濡れの茶色い子犬がいた。箱には何も書かれていなかった。子犬は鳴きもせず、じっと宗一を見上げていた。
寮はペット禁止だった。宗一は一度は通り過ぎた。三歩歩いて立ち止まった。さらに三歩歩いてまた立ち止まった。そして戻って、コートの前を開けて子犬を懐に入れた。小さな体は驚くほど熱かった。
名前をつけるのに一晩かかった。子犬は寝言で「ごん」と聞こえる声を出したのだ。それでゴンになった。大家に見つからないよう毎朝こっそり連れ出し、毎晩こっそり連れ帰った。七日後に元号が変わった。ゴンは昭和最後の週に来て、平成を一緒に迎えたのだった。
冊子の注釈を読んだ。ゴンの行の脇の小さな文字を。
「三十五歳。父、逝去。三日間、足元を離れず。悲しみの一部、預託」
思い出した。父が亡くなった日、宗一は葬儀の段取りに追われて一度も泣かなかった。泣く暇がなかった。その間、ゴンはずっと足元に座っていた。眠る時も食事の時も、足の甲に顎を載せてじっと動かなかった。
あの時自分の悲しみはどこへ行ったのだろうと思ったことがあった。涙が出ないのは薄情だからだろうかと。
答えがここに書いてあった。預託。ゴンが持っていてくれたのだ。宗一が持ちきれない分を預かってくれていた。
ページをめくった。ムギの行があった。平成十七年。宗一は四十四歳。ゴンを見送って一年が過ぎていた。もう犬は飼わないと決めていたのに、友人の家で生まれた雑種の子犬を「一度見るだけ」と言って見に行き、帰りには膝の上に白と茶の毛玉が載っていた。
ムギはゴンとは正反対の犬だった。ゴンが寡黙で重厚だったのに対して、ムギは陽気でおしゃべりで、人間の言葉を全部わかっているような顔をしていた。
そしてコタ。平成二十三年。震災のあった年の秋に、保護犬の譲渡会で部屋の隅で震えている小さな黒い柴を見つけた。他の犬が吠えて愛想を振りまく中で、コタだけが壁に張りついて目を逸らしていた。「この子は人が怖いんです」とスタッフは言った。宗一はその場で決めた。
読み進めるほど、数字の海から顔が浮かんだ。三匹の顔が。そしてその間に挟まれた自分自身の顔が。
最後のページに合計欄があった。
「預託総額 四十二年三ヶ月」
宗一はその数字を長い間見つめていた。
「この預託は、返却されるのですか」
昭和の窓口の女は短く答えた。
「預託は、預かる側の意思で使われます。返すか、使うか、その時が来るまで保管されます」
「その時とは」
「あなたが、胸の光をはっきりと理解した時です」


第五章 春の手術
冊子の一番新しい頁には今年の春の日付があった。
三月十四日。入院。三月十五日。手術。そのあとに赤いペンで見慣れない注釈があった。
「時間、一時停止。お迎え係三名、出動。対象者の意識、押し戻し」
宗一はその行を何度も読み返した。そしてあの夜のことを思い出した。
手術の前夜、宗一は四人部屋が満室で個室に入れられた。白い壁と白いカーテンと窓の外の街の灯り。明日は朝八時から全身麻酔で胸を開く。成功率は高いと医師は言った。けれど「高い」は「確実」ではない。
眠れなかった。誰かに電話をかけようかと思ったが、かける相手が思いつかなかった。スマートフォンの連絡先を上から下まで何度もスクロールして、結局何もせずに閉じた。
こんなはずではなかった、と思った。六十五歳になればもっと落ち着いていると思っていた。穏やかに縁側で犬を撫でていると思っていた。その犬がいない。
夜中の二時を回った頃、廊下から音が聞こえた。こつ、こつ、こつ、と。病院の廊下を歩く看護師の靴音ではなかった。もっと軽い。爪がリノリウムを叩くような音だった。
足元に何かがいた。見えない。けれど確かにそこにいた。ふわりとした温かい気配がパジャマの裾に触れていた。
「コタか」
声が掠れた。返事はなかった。ただ足の甲に小さな重さが載った。顎の重さだった。
宗一はその場にへたり込んだ。冷たい床に座り込んで何もない空間に手を伸ばした。毛の感触はなかった。それでも手のひらが温かかった。
「怖いよ」
誰にも言ったことのない言葉がこぼれた。
「怖いんだ、コタ。明日目が覚めなかったらどうしようって。誰にも気づかれないまま終わったらどうしようって」
足の甲の重さが少しだけ強くなった。
その夜、宗一は病室に戻って眠った。朝まで一度も目を覚まさなかった。麻酔が効き始めたのは八時十五分だった。数を数えるように言われて十まで数えて意識が途切れた。
そこから先は記憶がないはずだった。ただ赤いペンの注釈を読んで断片が蘇ってきた。
暗い長い廊下を宗一は走っていた。足が軽かった。胸も痛くなかった。廊下の先に白い光が見えた。あの光の向こうに行けば楽になれるとわかっていた。
その時、足首を何かに噛まれた。痛くはなかった。甘噛みだった。振り返ると黒い小さな柴がズボンの裾を必死に咥えていた。
「コタ、放せよ」
コタは放さなかった。その横に茶色い大きな犬が立ちはだかっていた。ゴンだった。ゴンは廊下の真ん中にどっしりと腰を下ろして行く手を塞いでいた。そして上からムギが背中に飛び乗った。
三匹は答えなかった。ただ一斉に宗一の体を押し戻した。後ろへ、後ろへ。光から遠ざけるように。
「まだだ」とゴンが言った気がした。
「まだ早い」とムギが言った。
「もう少し待ってて」とコタが小さな声で言った。
そして宗一は、集中治療室の天井を見上げていた。
担当の女が隣に立っていた。
「あなたの持ち時間は、本来であればあの手術で尽きるはずでした。あなたは四十代から五十代にかけて他者から時間を借りすぎたのです。その精算期があの春でした」
「ところが、お迎え係の三名が規則を破りました。あなたの精算を自分たちの預託分で肩代わりした」
「十六年」
「はい。八十一歳までの持ち時間です」
宗一は八十一という数字を頭の中で繰り返した。男の持ち時間は八十一年。そのちょうどきっかりの数字。
「春からの疲れは、時間を無理に押し戻した代償です。正常に流れていた時間を一度堰き止めた。その反動が体に来ています」
宗一は冊子を胸に抱いた。
「あいつら、何も言わないで」
「犬は、そういうものです」
担当の声がわずかに柔らかくなったように聞こえた。


第六章 ジタバタする人々
平成の窓口には別の担当が座っていた。
「あなたは人生のある時期にジタバタしませんでしたか」
宗一は苦笑いした。
「しましたよ。五十を過ぎたあたりかな。健康診断で引っかかって突然ジムに通い始めました。ランニングもして、サプリも飲んで」
「記録にあります。抵抗には一時的に消費速度を落とす効果があります。ただしそれは時間を創り出しているのではありません。借りているのです」
「誰から」
担当は窓口の横の小さな扉を開けた。中には細長い部屋があった。壁一面に無数の小さな引き出しが並んでいる。それぞれに小さな札が貼られている。
「他者の時間の保管庫です。老いに抵抗して速度を落とした人々は、その分の時間を他の誰かの口座から一時的に借りています」
「誰の」
「たとえば子どもたち。孫たち。あるいはあなたがかつて一緒に暮らした存在たち」
宗一は引き出しの一つに目を留めた。札には「ムギ 十四歳」と書かれていた。
「ムギは犬ですよ」
「ここでは区別がありません。愛された者の時間は愛した者の口座に流れ込みます。時間は関係の中でしか存在できないのです」
宗一は引き出しに手を伸ばしかけてやめた。
「私がジタバタして借りたのは」
「ムギさんの時間の一部です。三年と二ヶ月。あなたが五十代の終わりに体を作り直そうと必死だった頃です」
ムギの最期の年を思い出していた。十一歳を過ぎてから急に老いが早くなった。散歩の途中で座り込み動かなくなる。抱いて帰ったことが何度もあった。自分が走り汗をかきサプリを飲んでいた頃、ムギが急速に衰えていったことをずっと偶然だと思っていた。
「責める必要はありません」担当は少しだけ声を和らげた。「ただ、のほほんと生きている人々の老いがゆるいのは、他者の時間を借りていないからです。彼らはただ流れに乗っているだけで、速度を競わない」


第七章 八十七年の待合室
細長い部屋の突き当たりにもう一つ扉があった。担当が開けると冷たい空気が流れ込んできた。そこは巨大な待合室だった。天井が見えないほど高く、長椅子が果てしなく並んでいる。そこに座っているのはすべて老人だった。八十七歳を越えた人々、と担当が教えた。
誰もが動かず静かだった。胸の光はほとんど消えかかっていた。蛍のような光が時折思い出したように灯る。
「彼らは何を待っているのですか」
「お迎えです」
「しかしお迎えは遅れています。十年、二十年と待っている方もいます。人生百年時代と呼ばれるようになってから、待合室は膨らむ一方です」
通路を歩いた。ある老人の膝には古びたハーモニカが載っていた。別の老人は膝の上で空っぽの両手を、まるで何かを撫でるように動かしていた。
「お迎えに来る者は決まっています。その人が最も愛した者。最も長く毎日を共にした者」
通路の先から音が聞こえてきた。ちりん、ちりん、ちりん。三つの鈴の音。微妙に音程の違う三つの音。ゴンのずんぐりした低い音。ムギの澄んだ高い音。そしてコタの少しだけ欠けた一番小さな音。
宗一の胸の光は狂ったように点滅していた。ぽぽぽぽぽぽぽ。青からうっすら赤みを帯び始めている。
草原があった。信じられないほど緑の柔らかな、どこまでも続く草原。その真ん中を三つの影が走っていた。


第八章 赤い光の老婦人
待合室の端に、あの赤い光の老婦人が座っていた。宗一は少し離れた席に腰を下ろした。老婦人の光は他の誰よりも速くせわしなく点滅していた。
「断ったのね」
老婦人が前を向いたまま言った。
「令和の窓口で。声が聞こえたのよ。ここは静かだから」
久子、と名乗った。
「わたしはね、返却したの。三年前に。主人が亡くなって四十六年連れ添った人でした」
「あの人が逝った後、毎日が重かったの。朝目が覚めると胸の上に石を載せられているみたいで。そんな時にここの話を聞いたのよ。悲しみを返却できると」
「返却したら本当に楽になったの。体が軽くなって笑えるようになった。でもね、わたしは思い出せないのよ。主人の名前が。顔も声も。写真の中の人は他人のようで」
「家に湯呑みが二つあるのよ。同じ形の色違いの。片方は青で片方は茶色。毎朝二つ並べてお茶を淹れてしまうの。なぜだかわからないのに。手が勝手に動くの」
「それからね、毎年秋になると庭の金木犀の下に立ってしまうの。ぼんやりと。理由もないのに涙が出そうになるの。でも、悲しみは返却してしまったから。涙は出ないの」
「どうして赤いんですか」
「重さがないからよ。悲しみがあると時間はそこに留まるでしょう。重いから。でも悲しみがなくなると、時間は軽くなりすぎて手のひらから滑り落ちていくの。毎日があっという間。昨日と今日の区別がつかないまま、時間だけがすごい速さで流れていく」
「取り消しはできないんですか」
「申請しているの。もう三年。前例がないんですって」
それから久子は宗一の方を初めて真っ直ぐに見た。
「お願いがあるの。もしあなたがお迎えの向こう側へ行くことがあったら、主人に会えたら伝えて。忘れたんじゃないのよって」
宗一はしばらく考えた。そして静かに口を開いた。
「久子さん。その青い湯呑みと茶色い湯呑みは、どちらが旦那さんのですか」
久子は目を見開いた。
「茶色いほう。いつも茶色いほうを右側に置くの」
「背は高い人でしたか」
「ええ。台所の一番上の棚に手が届く人で」
「金木犀は、旦那さんが植えたんですか」
久子の唇が小さく震え始めた。
「わからない。わからないけれど、そうだったような気がするの。あの木はわたしが嫁いだ年に、あの人が黙って植えたのよ」
宗一は隣に座って待った。久子の胸の赤い光がほんの少しだけ速度を落とすのを見ていた。
「ねえ。いま胸のあたりが少しだけ重たいの」
「重たいですか」
「ええ。痛くて、重たくて、とてもいい気持ち」
久子の目から一粒だけ涙がこぼれた。三年ぶりの涙だった。


第九章 お迎えの訓練
茶色の柴犬が大きな体を揺らして先頭を走っていた。ゴン。晩年は腰が悪くて階段を上るのにも苦労していたのに、いまは何の苦労もないように地面を蹴っている。
その横を白と茶の雑種が跳ねるように駆けていた。ムギ。そして二匹に遅れまいと必死に短い脚を動かして追いかけている小さな黒い柴。コタ。
宗一は気がつくと草原の端に立っていた。足元の草は柔らかく、冬の空気はここにはなかった。
「あれがお迎え係の訓練です」
後ろに平成の担当が立っていた。
「お迎えには手順があります。対象者の持ち時間の残量が一定の水準に達した時、お迎え係は対象者のもとへ出発します。ただしそれには合図が必要です」
「合図」
「対象者の胸の表示と、お迎え係の首輪の鈴が共鳴すること」
宗一はハッとして自分の胸を見た。光はいまや草原の三匹の動きと同じリズムで脈打っていた。
「私のこの光は」
「警告ではありません。最初から警告ではなかった。あれは散歩の合図です」
胸の奥のずっと凍っていた部分が、ゆっくりと解け始めていた。
カラータイマーが点滅し鳴り続けている。そのことを宗一はずっと終わりが近いという意味だと受け取っていた。でも考えてみれば、あのタイマーが鳴るのはいつだってウルトラマンが勝つ直前だった。最後の力を振り絞るその瞬間の合図だった。
草原の向こうでゴンが立ち止まった。大きな耳がぴくりと動いた。宗一の方をゆっくりと振り返った。目が合った。ゴンは尻尾を一度だけ大きく振った。それから何事もなかったかのようにまた前を向いて走り出した。
宗一は声を上げずに泣いた。泣きながら笑っていた。六十五年の人生でこんなふうに泣いたのは初めてだった。


第十章 三分間
草原の端に立ったまま、宗一は動けずにいた。
「許可が出ています」
背後から令和の窓口の担当の声がした。
「何の許可ですか」
「訓練場への立ち入り許可。三分間だけ。胸の表示が青から赤に変わるまでの間です」
宗一は思わず笑ってしまった。三分間。ウルトラマンと同じだ。
「規則なら仕方ないですね」
宗一は草原に一歩踏み出した。足の下で草が柔らかく沈んだ。春の土の匂いがした。歩くほどに体が軽くなるような気がした。
「ゴン」
声に出した。喉が震えた。遠くで茶色い影がぴたりと止まった。ゴンは走ってはこなかった。急がない。慌てない。大切なものにはゆっくり近づく犬だった。
ゴンは歩いてきた。一歩一歩確かめるように。そして宗一の目の前で止まり、鼻を宗一の膝に押しつけた。手術をした方の膝ではなく、胸の傷跡の真下あたりに。ゴンは宗一の胸の光を鼻でそっと嗅いだ。
宗一は膝をついた。ゴンの首に腕を回した。毛の感触が手のひらにはっきり伝わった。硬くて温かくて日向の匂いがした。
「悪かった。ちゃんと見送れなくて」
ゴンは何も言わなかった。ただ大きな舌で宗一の頬を一度だけ舐めた。
背後から軽い足音が駆けてきた。ムギだった。勢いのまま宗一の背中に飛びついた。老いて足腰が弱ってからは決してできなかった飛びつきだった。宗一は前のめりに草の上に倒れた。
「わかった、わかった、ムギ、苦しい」
笑いながら泣いていた。
そして最後にコタが来た。ゴンとムギがまとわりついている間、コタは少し離れた場所でじっと立っていた。何年経っても初めての人には近づかなかった。宗一にだけ心を許した犬だった。
宗一は体を起こして手を差し出した。
「コタ。おいで」
コタは一歩近づいた。立ち止まった。また一歩。小さな黒い体が小刻みに震えていた。それは怖いのではなく嬉しくてどうしていいかわからない時の震えだった。やがてコタは宗一の手のひらに鼻先を載せた。冷たく湿った鼻の感触が手のひらから胸の奥まで貫いた。
宗一は三匹をまとめて抱きしめた。
「会いたかった」
その時、胸の光が青からうっすらと赤く変わった。
「時間です」と担当が声をかけた。
宗一は顔を上げた。まだ一分も経っていないように思えた。
「いまの三分ですか」
「正確に三分です」
宗一は立ち上がろうとした。足が重かった。三匹から離れたくなかった。けれど犬たちは驚くほど静かだった。コタは宗一の足の甲に小さな顎を載せていた。それは昔からコタがやる「行かないで」の合図だった。
宗一はしゃがみこんでコタの頭を撫でた。
「また来るから」
コタはじっと宗一の目を見ていた。それから足の甲から顎を離した。
ゴンが前足をゆっくり持ち上げた。そして宗一の手のひらの上に載せた。お手だった。それはさよならの挨拶ではなかった。約束の握手だった。
宗一は振り返らずに草原を後にした。振り返ればまた動けなくなるとわかっていた。


第十一章 令和の窓口
令和の窓口は一番奥にあった。他の二つとは違って、その前には行列ができていた。若い人々だった。三十代、四十代、あるいはもっと若い。みな胸の光が赤くあるいは白く忙しなく点滅していた。
宗一が並ぶと前の若い男が振り返って小さく会釈した。「消費、速いんですよね、最近」と疲れた笑顔で言った。
窓口に着くと、令和の担当は三人の中で一番若く見えた。
「六十五番の方ですね。昭和、平成の説明はお聞きになりましたか」
「ええ」
「ではご提案があります」
担当は一枚の書類を差し出した。
「返却制度のご案内です。ご自身の持ち時間を全額または一部返却することができます。返却すると消費速度が正常化し、身体の疲れや痛みなどが解消されます。若返りと呼ぶ方もいます」
宗一は書類を見つめた。
「その代わり、返却される時間はあなたが過ごしてきた時間の中から選択されます。たとえば最も重い、最も負荷の大きかった時間。悲しみの時間」
「具体的には犬たちとの別れの記憶です」
宗一の背中が固くなった。
「ゴンさん、ムギさん、コタさん。三度の別れがあなたの時間に最も大きな負荷をかけています。それを返却すればあなたの体は十年は若返ります。走ることもできます」
宗一は書類を持つ手が小刻みに震えているのを感じた。走りたかった。正直走りたかった。階段が億劫で靴紐を結ぶのが辛くて、ああと嘆くばかりの日々が確かにあった。それが消えるというのだ。
「ただし悲しみを返却するということは、悲しみの元になったものを返却することと同義です」
「つまり」
「犬たちとの時間そのものが、あなたの記憶から消えます。出会ったことも一緒に歩いたことも名前も」
宗一は窓口の前でしばらく動かなかった。後ろの若い男が小さく咳をした。急かしているのではない。ただこの窓口で誰もが一度は同じ場所に立ち止まるのだとわかった。
宗一は書類を静かに窓口に戻した。
「お断りします」
「理由を伺っても」
「悲しみは、預かり証だからです」
自分でも驚くほどはっきりした声が出た。
「あの子たちを愛した証拠がこの悲しみなんです。これがなくなったら、私は愛した事実ごと無くしてしまう。それなら疲れやすいままでいい。走れないままでいい」
担当はしばらく宗一を見つめていた。そして書類を引き出しにしまいながら、ごく小さな声で言った。
「皆さんそうおっしゃいます。ほとんどの方が。ただ、そう答えられる方は思ったより少ないのです」


第十二章 初夢のように
扉を出ると朝だった。公園の入り口にあの灰色の扉はもうなかった。ブランコと砂場がいつものように霜をかぶって立っている。止まっていた世界はすっかり動き出していた。
ベンチに千葉老人の姿はなかった。代わりに座っていた場所にニット帽が一つぽつんと置かれていた。宗一はそれを手に取り、少し迷ってからベンチの背もたれにそっとかけた。
胸の光はまだそこにあった。ただ点滅はだいぶゆっくりになっていた。ぽつ、ぽつ、とまるで深呼吸のように。青はさらに澄んで朝の空の色に溶けていた。
宗一はコートの前を閉じて歩き始めた。わざと遠回りした。犬たちと歩いたあの散歩道だ。電柱の根元、草むらの陰、橋のたもと。一つひとつの場所に犬たちの匂いがまだ残っているような気がした。
橋の上でふと立ち止まった。川面に朝日が揺れていた。
こんなはずではなかった、と思い続けてきた。老いと格闘せねばならないとは思わなかった、と。去年できたことが今年できないのは理不尽だと。
だがいまは少し違うように思えた。こんな者がいた、とそれだけのこと。それは今朝までは諦めの言葉だった。いまは少しだけ別の響きを持っている。こんな者がいた。三匹の犬を愛した者がいた。その愛の分だけ悲しみを預かって、この世にまだ居る者がいた。
家に着いた。玄関のドアを開けると靴箱の上の三つの首輪が朝の光を受けて並んでいた。
宗一はいちばん端のコタの首輪を手に取った。小さな鈴に噛み跡の傷がある。振ってみると欠けた小さな音が鳴った。ちりん。
胸の光がぽつ、と同じ間で応えた。
「もう少し待っててくれ」
宗一は首輪に向かって静かに言った。
「俺はもうちょっとだけジタバタしてみる。無駄な抵抗かもしれないけどな。でもそれでも毎日少しずつ歩いてみるよ。お前たちと歩いた道を」
首輪を元の場所に戻した。そして玄関に立ったままほんの少しだけ足を踏み出した。背後で何かがついてくる気配がした。三つの軽い足音。振り返らなかった。振り返れば消えてしまうとわかっていた。だからそのまま前を向いて台所へ向かった。湯を沸かし茶を淹れる。窓の外に年の瀬の薄く透き通った空が広がっている。
カラータイマーは点滅し鳴り続けている。けれどそれはもう終わりを告げる音には聞こえなかった。散歩に行こう、と呼ぶ声だった。
宗一は湯呑みを置いてゆっくり立ち上がった。膝が少しだけ軋んだ。それでも立ち上がった。玄関で靴を履きドアを開け、冬の朝の光の中へ一歩踏み出した。その足元を三つの影が並んで歩いていた。


第十三章 春の散歩
三月になった。宗一は毎朝歩いていた。あの日から一日も欠かさなかった。最初は百メートルが精一杯だった。膝が痛み腰が固まり息が上がった。それでも毎朝犬たちと歩いた道を少しずつ延ばしていった。電柱の根元で立ち止まり、橋の上で川を眺め、公園のベンチで一息つく。それは犬の速度だった。
胸の光はまだそこにあった。ぽつ、ぽつ、とゆっくり瞬いている。慣れてしまえばただの心音のようなものだった。
手術の傷跡は春の訪れとともに不思議と疼かなくなっていた。医師は「経過が良いですね」と笑顔で言った。「何か運動を始められました?」
「散歩です。犬を連れてないですけどね」
「いいことです。何よりのリハビリですよ」
その朝も宗一は公園のベンチに座っていた。桜の蕾が固く膨らんでいる。そこへベビーカーを押した若い男が通りかかった。令和の窓口の前で並んでいた男だ。男は宗一に気づかないようだった。ただひどく急いでいた。胸の赤い光がスーツの上着の下でせわしなく点滅している。
ベビーカーの中で赤ん坊がぐずり始めた。男は足を止め、ため息をついて赤ん坊を抱き上げた。赤ん坊は笑った。その瞬間、男の胸の赤い光がふっと緩んだ。速度が落ち、赤がわずかに淡い桃色に近づいた。
男は赤ん坊を抱いたまま立ち尽くしていた。それから周囲を見回して宗一と目が合った。
「あ、すみません、うるさくて」
「いいえ」宗一は微笑んだ。「いい声ですね」
「そうですか。夜泣きがひどくて寝不足で。毎日時間が足りなくて焦ってばかりで」
宗一は少し考えてから言った。
「ゆっくりで、いいんですよ」
「え?」
「いや独り言です。年寄りの」
男は不思議そうな顔をしたが、軽く会釈して赤ん坊を抱いたままゆっくり歩き出した。急ぐのをやめたような歩き方だった。
桜の蕾に朝日が当たっていた。風が少し温かくなっている。
宗一は立ち上がった。そしてふと思いついた。走ってみようか。五十メートルだけ。公園の入り口まで。
深呼吸をして一歩踏み出した。二歩。三歩。体が重い。それでも足は前へ前へと進んだ。風が顔に当たった。息が苦しい。だが苦しさの中に懐かしい感覚があった。走っていた。確かに走っていた。
背後に足音が聞こえた。三つの軽い爪の音。
宗一は声を出して笑った。
「待てよ、お前たち、速すぎるだろ」
公園の入り口で膝に手をついて肩で息をした。心臓がうるさいほど鳴っていた。胸の光がいつもよりはっきりと、そして温かく瞬いていた。
振り返ってもそこには誰もいなかった。ただ朝の光が芝生の上に四つの影を落としていた。宗一の影と、その隣に並ぶ三つの小さな影を。
宗一はそれをもう持ち時間とは呼ばないことにした。散歩、と呼ぶことにした。そしてまた歩き出した。

ー了ー


あとがき
この物語は、手術の後の妙に体が重い時期に、家の玄関に残った首輪を見ながら書きました。犬がいなくなった後の家は、音が一つ減るのではなく、世界の速度が少しだけ変わるのだと、その時に知りました。
宗一の胸の光は、誰にでもあるものかもしれません。健康診断の数値だったり、階段を上る時の膝の軋みだったり、あるいは夜中にふと目が覚めた時の静けさだったり。形は違っても、誰もが自分の消費速度を気にしながら生きています。
もしこの物語のどこかで、ご自身のゴンやムギやコタの顔を思い出していただけたなら、それが一番嬉しいことです。彼らはお迎え係になる訓練を、どこかの草原で続けていると私は信じています。私たちがゆっくり時間を使い切るまで、慌てずに待っていてくれると。
拙い物語ですが、あなたの散歩の合図になれば幸いです。


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紹介文
六十五歳の宗一の胸に、ある朝、青白い光が灯る。手術痕の少し下で、規則正しく点滅する豆粒ほどの光。痛みも熱もない。ただ、確かにそこにある。
それは子どもの頃に見たヒーローの胸のタイマーに似ていた。青から赤へ変わり、鳴り始めると残り時間が少ない合図だった、あの光に。
病院では異常なしと言われる。誰にも見えない。暗くなるほどはっきりとするその光に導かれ、宗一は真夜中の公園で一枚の扉を見つける。「時間局 第三出張所」と書かれた扉の向こうには、三つの窓口があった。昭和、平成、令和。
そこで渡された一冊の収支報告書に記されていたのは、宗一がこれまで生きてきた時間と、共に暮らした三匹の犬――ゴン、ムギ、コタに預けてきたものの記録だった。
老いとは何か。悲しみを手放すとはどういうことか。ウルトラマンが三分しか戦えなかった本当の理由を、散歩の速度で解き直す物語。




ー付録ー
原詩「往生際に」

みんな オジさんになる
みんな オバさんになる
仕方なくも
この世のシステムは
そういうことのようだ

そして
たぶん一度くらい
どこかでジタバタしてみる
でもそれも
無駄な抵抗だと知りながら
それでも
なんとかならないかと
抵抗を続ける

するとその抵抗からか
わずかながら老いはスピードを落とす

それでも
そんなこととは関係なく
のほほんと生きている連中の方が
老いはゆるかったりもする

ストレスが敵か
取り巻きが敵か
友達は味方か
ペットも味方か

先立った
友達ロスは
ペットロスは
続いたままここにある

分かっちゃいるが
逃れられず
その宇宙で彷徨っている

味方だったはずの時間は
いつの間にか敵側に回った
いずれなんとかなるかも、と
期待などした時間は
今まだ知らん顔をしている

昭和 平成と
なんとか無事に生きて
負ったかすり傷を治療し
振り返ってみる

期待した令和とやらは
更に手強くなって
目の前に立ちはだかっている

その巨大な壁を
なんとかしたいが
なんともならず
カラータイマーは
点滅し鳴り続けている

振り返れば
昨年までは出来たことが
今年 出来なくなった
六十五になり
からだは
こんなはずではなかった
と思うことばかりが起きている

疲れやすく
疲れは取れず
からだは固まりつつあり
曲がらない
走れず
億劫になり
あ〜あ、と
嘆くばかり

それでも
負けるかと
意気込んでみるが
なかなか元には戻らない
ほんのわずかな怪我で
一気に落ちるそうだが
この春の
手術入院が
今まだ尾を引いている

さて
年が開ければ
またひとつ齢を取る
まさかこんなに
老いと格闘せねばならぬとは
思わなかった
こんなはずではなかった
そう思うことばかり

こんな者がいたと
それだけのこと

僕たち男の持ち時間は八十一年だそうだ
そしてその多くが八十七年を越せないそうだ

幸か不幸か
その八十七年を越した
十パーセントに満たない方々も
老いた身体を引きずりながら
いつ来るのかと
お迎えを待つ現実

人生百年時代だと
誰かが言うが
それは幸せなのか、と
自らに問い始める齢となった

振り返るのは
若かった
半世紀も前のことばかり

それと同じだけの時間は
もう残ってはいない

愛した犬くんたちを
三度見送って
次は、と思いながらも
もうここまでかと止めに入る

悲しみは生涯残り
ロスは常にここにある