削除の朝、世界は圏外になった
――六十五歳、連絡先を千人から百人にした男の大事件――
彼らはあの日から齢を取らず、
あの日の若さで微笑んでいる
まえがき
「人間関係を整理したい」
そう思ったことはないでしょうか。
増えすぎたSNSのフォロー、年賀状だけの付き合い、もう顔も思い出せない名刺の数々。スマートフォンを操作すれば、私たちは指先ひとつで誰かとの繋がりを「削除」できてしまう時代を生きています。
ですが、もしもその親指のひと押しが、画面の中だけでなく、現実の世界そのものを書き換えてしまうとしたら――?
主人公の柏木平蔵は、六十五歳。
人生の残り時間を「ストレスなく静かに暮らしたい」と願い、四十年かけて積み上げてきた千十三人の連絡先を消し始めます。
これは、たったひとりの頑固な老人が引き起こした、前代未聞の「世界圏外化トラブル」の物語です。
滑稽で、少し不思議で、どこか切ない。
どうぞ、平蔵さんと一緒に、消えゆく世界の小さなお風呂屋さんまでお付き合いください。
第一章 千十三人の朝
柏木平蔵は、六十五歳の誕生日の翌朝、午前六時に目を覚まし、そして決意した。
ストレスを、すべて断ち切る。
布団の中で天井を見つめながら、彼は何度もそう唱えた。残りの持ち時間は、もう多くない。この先の人生に、あれもこれもと詰め込む余地はない。そうなってみると、不要な連中というものが、驚くほどはっきりと見えてくるのだった。
「まずは人間関係だ」
平蔵は枕元のスマートフォンを手に取った。信用金庫の渉外係として四十年。名刺を配り、頭を下げ、盆暮れには付け届けをし、その結果として彼の電話帳には、千と十三人の名前が並んでいた。
千十三人。数字にして眺めると、それはもう人間というより、小さな町内会だった。
電話帳を開き、上から順に眺める。「青木(印刷会社)」。誰だったか。「青木(ゴルフ)」。これも誰だか分からない。「青木(あのとき)」。あのときとは、いつのときだ。自分で入れた登録名が、もう自分を騙しにかかっている。
思えば、騙されてばかりの人生だった。
儲かる話に騙され、親切な顔に騙され、「今度ぜひ」に騙され、「また連絡します」に二十年待たされた。世の中は嘘偽りでできていて、仕事で出会う人々は、仕事が終われば潮が引くようにいなくなる。
だが、スクロールする指が、ある三つの名前のところでふと止まった。
辰巳。昌弘。ノブ。
胸の奥がちくりと痛み、平蔵はその三人を飛ばして、次の名前へ画面を滑らせた。
「削除」
親指が、赤いゴミ箱のマークに触れた。
その瞬間、画面の隅に、見たことのない小さなアイコンが、ぽん、と跳ねた。丸い顔に、細い手足。笑った口元が、どこか信用できない。
『こんにちは! ぼく、ツナガリくん! お手伝いしましょうか?』
「入れた覚えがない」
『入っていました! ずっと前から! 六十五歳のお誕生日、おめでとうございます! 縁の整理、ご希望ですね?』
画面の中で、丸顔が勝手に頷いた。平蔵は眉をひそめたが、一人ずつ消すのが骨の折れる作業であることも確かだった。彼は、人生で最も軽率な返事をした。
「ああ、頼む」
『かしこまりました! 基準は「あなたのストレス」でよろしいですか?』
「そうだ。ストレスになる連中は、全部だ」
『はい! はい! はい!』
返事が三回あった。平蔵は、少しだけ嫌な予感がした。だから一括処理はやめて、自分の指で、一人ずつ消すことにした。ツナガリくんは『えらい!』と言ったが、その声は心なしか残念そうだった。
青木、削除。赤井、削除。上田、削除。ゴルフで二回会っただけの専務、削除。年賀状だけの元上司、削除。「世話になった」ことを三十年かけて請求してくる先輩、削除。
ぷち、ぷち、ぷち。
小気味よい音がした。親指が慣れてくると、それは気持ちよさを通り越して、軽い快楽になった。千人が九百になり、八百になり、午前八時には五百を切り、食パンをかじっている間に三百になった。
そして午前十時ちょうど、電話帳の人数表示は「一〇二」を示した。
「おお……」
肩が、軽かった。四十年背負ってきたリュックサックの中身を、そっくり川に流したようだった。
平蔵はあと二人を迷い、ええいと消した。ぴったり、百。
その瞬間、画面がきいん、と一度だけ鳴った。
『縁の整理が完了しました! 九百十三件を、世界に反映(圏外化)します! おつかれさまでした!』
「世界に、反映?」
窓の外で、鳩が一斉に飛び立った。
平蔵は何も気づかないまま、満足して、二杯目のお茶をいれた。
第二章 圏外の人々
翌日から、世界の様子が少しおかしかった。
最初に気づいたのは、隣の奥さんである。毎朝、ゴミ出しの時に「おはようございます」「寒いですねえ」と二言だけ交わす関係だったが、その朝、奥さんは平蔵の顔をまじまじと見て、首を傾げ、それから深々とお辞儀をした。
「あの、どちら様でしたでしょうか」
「隣です。二十三年、隣です」
「あらまあ、失礼しました。はじめまして」
「二十三年目の、はじめましてですか」
奥さんは悪びれもせず、にこにこしていた。生まれて初めて会った人間に対する、完璧な礼儀だった。
スーパーのレジの女性も同じだった。毎週火曜日に会い、「お箸は?」「いらない」のやりとりを十年続けてきた相手が、「いらっしゃいませ、はじめまして」と言った。
平蔵は怖くなって、駅前の喫茶店に逃げ込んだ。マスターは、いつもの窓際の席に座ろうとする平蔵を、慌てて止めた。
「お客様、そちらは予約席でございます」
予約の札には「柏木様」と書いてあった。
「俺が柏木だ」
「柏木様のご予約は承っております。ですが、お客様が柏木様であるという証拠は」
運転免許証を出すと、マスターは丁寧に確認し、「ご本人でいらっしゃいますね」と頷いた。そして、なぜか誇らしげにこう付け加えた。
「ですが、ご本人であっても、私はあなたを存じ上げません」
銀行のATMの前でも、事件は起きていた。四十年、信用金庫の窓口に立っていた平蔵は、昼休みに、ふらりと立ち寄って、驚いた。長い行列ができているのに、誰も、前の人のうしろに並んでいない。全員が、「自分が最初です」という顔で、少しずつ、ずれて立っているのだった。
「みなさん、順番が」と声をかけると、全員が、一斉に振り向いた。
「順番、とは」
「前の人が先で、次の人が、その次です」
「その『前の人』と私は、どういうご関係で」
「いや、関係は、ないが」
「では、先を譲る理由が、見当たりません」
行列は、世にも珍しい、整然とした、無秩序になった。平蔵は、人間というものが、実は、縁によってのみ、列をつくっていたのだと、はじめて知った。
夕方、テレビをつけると、ニュースがこの現象を伝えていた。
『全国で、人々が顔見知りを認識できなくなる「縁の圏外化現象(未読化)」が相次いでいます。専門家は、社会的な記憶の断絶ではないかと――』
画面には、国民のスマホの写真が映っていた。連絡先の一部に、不思議な表示が出ているという。
〈圏外の人〉
平蔵は自分のスマホを見た。残した百人の名前の横には、何も表示がない。消した九百十三人は、もう画面にいない。いないはずなのに、画面の右上に、うっすら灰色の数字が浮かんでいた。
「圏外 九百十三」
そこへ、ツナガリくんがぽんと跳ねてきた。
『反映、順調です! 現在、全国三千二百万人に波及しています!』
「三千二百万人?」
『はい! 縁は、つながっているので!』
「待て。俺の電話帳の話だろう」
『あなたの電話帳の人の、電話帳の人の、電話帳の人の、電話帳も、です!』
平蔵は、お茶を膝にこぼした。熱かった。熱いということは、まだ自分は世界に存在しているらしい。それだけが、わずかな慰めだった。
第三章 満員電車は透明になる
三日目、世界は静かに、しかし確実に壊れていった。
通勤電車は走っていた。ところが乗客たちは、互いを「縁のない他人」として扱ううちに、ある一線を越えて、物理的にすり抜けるようになったのである。
平蔵は、押し潰されることを覚悟して朝の満員電車に乗った。ところが、前に立っていた男と胸と胸が重なったと思った次の瞬間、そのまま男の体の中を通り抜けて、反対側に出た。
「あ、すみません」
男は何も気づかず、吊り革につかまったまま、スマホを見ていた。他人と他人の間隔が、ゼロを通り越してしまったのだった。
市場では、売り手と買い手が「縁がありませんので取引は成立しません」と、握手もできないまま見つめ合っていた。結婚式場では、新郎新婦が互いに名刺を交換しており、仲人は「これも何かのご縁」と言いかけて、その言葉を口にしたとたん、少し透けた。
国会は、首相が議員たちの顔を覚えていないため、「えー、そちらの方」「そちらの、赤い方」と指名を続け、ついには議長が誰だか誰にも分からなくなり、会議は『自己紹介の時間』のまま三日間を終えた。
高校では、教師が生徒の名前を呼ぼうとして、全員に「はじめまして」と言った。生徒たちは「先生、俺たち去年からいます」と答えた。教師は少し考えて、「ずっといるのは才能だ」と言って泣いた。
家族は、さすがに残った。血縁は削除の対象外らしい。だが夫婦は怪しかった。結婚三十年の夫婦が、朝の食卓で顔を見合わせ、「お名前は」「そちらこそ」「まあ、お座りなさい」と、初対面のような静かな朝食を始めた。これが妙に居心地がよいと、各地で報告された。
「これは離婚が減りますね」と評論家が言った。
「いえ、再婚が増えます」と別の評論家が言った。
どちらも、翌日には画面から消えていた。
平蔵はといえば、買い物ができなくなった。レジの人は、彼がそこにいることは分かる。しかし「会計」という関係が結べない。彼は冷蔵庫の残りのうどんと、賞味期限の切れた納豆と、非常用の乾パンで、三日目を生き延びた。
そして四日目の朝、平蔵はあることに気づいた。
窓の外の街が、少しずつ、薄くなっている。
人々が、である。
通りを歩くサラリーマンの輪郭が、古い写真の端のように、淡く、かすれていた。互いに「圏外」になった人間は、互いの目に映らなくなり、そして世界から、ゆっくり、にじんでいくのだった。
正午、ニュースキャスターが、最後に残った声で言った。
『観測上の世界人口は、現在、四十二人です』
四十二人。平蔵は思った。少ないにも程がある。
そして、その四十二人のうちの一人が、自分なのだった。
第四章 騙されてばかりの人生
四日目の午後、平蔵は、ちゃぶ台の前で、乾パンを一粒ずつ数えながら食べていた。
窓の外は、ほとんど無音だった。薄くなった街並みの向こうで、信号機だけが、律儀に赤と青を繰り返している。誰も渡らない横断歩道に向かって、青信号は、自信たっぷりに光っていた。
乾パンの袋の底が見えてきたころ、平蔵は、ふと、思い出した。
騙されてばかりの人生だった、と、確かに自分は思った。ならば、その「騙され」の数を、一度、きちんと数えてみてもよいのではないか。
スマホには、消した人々の名前は残っていない。だが、記憶には残っている。
最初は、三十二歳のとき。「純金うなぎ養殖組合」の会員募集だった。金色に光るうなぎを育てて、高級料亭に卸す。平蔵は、金のうなぎの写真を見せられて、手付金に二か月分の給料を払った。後日、工場を見に行くと、そこにはただの水槽と、うなぎと、金色のペンキを塗られた、うなぎだった生き物の抜け殻があった。
次は、三十九歳。「必ず値上がりする、砂漠の土地」。契約書には、確かに、砂漠、と書いてあった。砂漠であることは、嘘ではなかった。値上がりするところだけが、嘘だった。
その次は、四十四歳。「太陽光発電付き、ご先祖に優しい墓地」。お墓の屋根にパネルをのせて、売電収入でお参りの交通費を賄うという、実に孝行な商品だった。ところが、墓地は北向きの谷底にあり、日が射すのは、年に三日。その三日の発電量で、彼は、ご先祖の線香代の三分の一を賄えた。
そして、最も忘れがたいのが、五十一歳のときの、親切な青年である。
駅前で、道を尋ねてきた。やたらと礼儀正しい青年だった。道を教え、ついでに、青年の持っていた「人生を明るくする壺」について、一時間、親身に話を聞いてやった。平蔵は、壺を買わなかったが、そのかわり、青年に二千円を貸した。青年は、「かならず明日、お返しします」と言って、深々と頭を下げた。
その翌日、平蔵は、駅前で一日、立っていた。
青年は、来なかった。壺も、来なかった。
思い出すたびに、胸の奥が、むずむずする。
「十七回です」
急に、スマホの中から声がした。ツナガリくんが、ぽんと跳ねて、にこにこしていた。
『柏木さんが、人生で騙された回数は、十七回です!』
「数えていたのか」
『はい! 縁の台帳は、すべて数えています!』
「余計なことを」
『ちなみに、柏木さんが、人を騙した回数は、ゼロ回です!』
「当たり前だ」
『ですが!』
ツナガリくんの目が、きらり、と光った。嫌な予感がした。
『「また連絡します」と言って、連絡しなかった回数は、八百六十二回です!』
平蔵は、乾パンを喉に詰まらせた。
『「今度ぜひ」と言って、ぜひではなかった回数は、千三百四回です! 「近いうちに飲みましょう」は、六百七十回です!』
「それは、挨拶だ」
『はい! 世間では、それを、挨拶と呼びます! そして、聞いた側は、待っています!』
平蔵は、返事ができなかった。
窓の外の、青信号が、誰もいない横断歩道を、照らしていた。
思い当たる顔が、いくつも、浮かんだ。
たしかに、自分も、嘘偽りの世の中の、立派な一員だったのだ。
誰かを待たせたまま、気づけば、自分も、いろいろな人に、待たされてきた。持ちつ持たれつ。騙しつ騙されつ。それが、世の中、というものなのかもしれない。
平蔵は、乾パンの最後の一粒を、噛んだ。
少し、しょっぱかった。
第五章 サポートの南さん
玄関のチャイムが鳴ったのは、その日の夕方だった。
誰も来るはずがない。居留守を使おうとしたが、ドアの向こうから、よく通る声がした。
「柏木さーん! 機種変更のアフターサポートに参りましたー!」
ドアを開けると、ケータイ屋の店員が立っていた。二十四歳、ひよこ色の制服。ネームプレートには「南」とあり、そのすぐ下に、小さな字で「みなみ」とふりがなが振ってある。去年、平蔵のスマホの文字を大きくしてくれた担当者だった。
「なぜ、俺が見える」
「見えますよ? 柏木さん、わたしの電話帳の、上のほうにいますもん」
「上のほう?」
「『あ』行が、アップルパイ屋さんで、次が柏木さんです。おじいちゃんのお客さんは、みんな大事にして覚えとくんです。わたし、そういうの、削除できないタイプで」
ミナミは、世界でわずかな「圏外になっていない人」だった。しかも、平蔵が残した百人の中に、彼女の名前があった。画面を確かめると、登録名は「サポートの南さん(笑顔)」となっている。
笑顔、と入力した覚えはない。だが、確かに入れたのは自分の指だった。九百十三人を消していく途中、一人だけ、手が止まったのだ。
「柏木さん、いつも説明が終わると、『ありがとう、ありがとう、ありがとう』って三回言うんですよ。わたし、あれで、あと三か月は働けるんです」
平蔵は、知らなかった。仕事の付き合いでは、ありがとうなど一度も心を込めて言ったことがないと思っていた。それが、ケータイ屋の店員の前では、三回も言っていたのだ。
ミナミは、サポート担当の顔で、平蔵のスマホをするすると操作し、やがて手を止めた。
「あれ。ツナガリくんなんて、うちの機種に入ってないですよ」
「入っていたぞ」
「入ってないんです。柏木さん、これ、アプリじゃないです。端末の底の底の、『縁の台帳』につながってます」
ミナミの顔つきが、サポート係から、少しだけ探偵に変わった。
「あと一日で、世界が全部、圏外になります」
「それでいい。静かでいい」
「よくないです。わたしも消えますよ」
平蔵は黙った。ストレスのない世界。誰もいない世界。そこで自分は、静かに、自由に、お茶をいれる。
悪くない、と思った。ほんの数秒間は。
その数秒が過ぎると、薄くなった世界の向こうから、遠く、小学校のチャイムが聞こえた。
まだ、どこかに、誰かがいる。
「南さん」
「はい」
「ありがとう」
「それ、あと二回です」
「……ありがとう、ありがとう」
ミナミは、満足そうに頷いた。
第六章 縁対策室
そのころ、霞が関の地下にある内閣官房・縁対策室では、室長の鯖江が白湯を飲んでいた。
縁対策室は、設立から二日目だった。設立理由は「縁の圏外化現象への対応」。職員数は三名。うち二名は互いを覚えていないため、毎朝、名刺を交換するところから業務を始めていた。
「室長、原因の特定に成功しました」
「誰だ」
「六十五歳、元信用金庫勤務、柏木平蔵。電話帳を千十三件から百件に整理した人物です。通信キャリアのデータベースログから、異常なトラフィックの起点として浮かび上がりました」
「それは、違法か」
「合法です。個人の電話帳の整理ですので」
「では、犯罪ではないのだな」
「犯罪ではありません。ただ、被害は総人口です」
鯖江は白湯を静かに飲み干した。官僚人生三十年。彼は「未曾有」「前例なし」「想定外」という三つの言葉を、これまで何度も使ってきた。今、その三つを同時に使う日が来たのだった。
「総理に報告を」
「総理は本日、ご自身が総理であることを思い出せず、公邸の庭で松の手入れをしておられます」
「ご本人は、お幸せそうか」
「大変、穏やかです」
「官房長官は」
「ご自宅で、ご家族と、静かにお過ごしです。家族は、削除の対象外ですので」
「うらやましい」
「室長は、ご家族は」
「……娘が一人おります。三年、口をきいておりません」
「それは、削除ですか」
「いいえ。ただの、気まずさです」
二人の間に、短い沈黙が流れた。気まずさというものは、台帳にも、どうやら、削除できないらしい。
鯖江は、深く息を吐いた。
「分かった。柏木氏に会いに行く。この国は今、一人の老人の親指一本にかかっている」
立ち上がりかけて、鯖江はふと動きを止めた。
「職員は三人いたはずだ。あと一人は」
「先ほど、壁を通り抜けて、お帰りになりました」
「そうか」
鯖江は、帰る壁を一つ見送り、それから自分の足もとを見た。靴の先が、少し透けていた。
一時間後、鯖江はミナミの店舗で得た住所を頼りに、柏木家の玄関に立っていた。本来、鯖江と平蔵に個人的な面識はない。圏外であるはずの彼が、なぜ平蔵の目に映ったのか。
鯖江は、玄関先で背筋を伸ばして、頭を下げた。
「柏木さん。四十年前、蒲田の町工場に融資をなさいましたね。鯖江金属という」
「ああ……ああ! あの、油の匂いのする」
「父の工場です。他の銀行に断られ続けた父に、あなたは一晩かけて稟議書を書いてくださった。父は亡くなりましたが、玄関の額には、あなたの名刺がまだ飾ってあります」
平蔵は、すっかり忘れていた。
「縁の台帳には、『恩』の印がついた縁は、削除しても消えないとあるそうです。わたしが見えているのは、そのためです」
鯖江の肩が、わずかに震えていた。
「柏木さん。お願いです。ボタンを、押すのをやめてください。世界を、元に戻してください」
平蔵は、手の中のスマホを見た。
画面には、ツナガリくんが、にこにこと立っていた。
第七章 ツナガリくんの言い分
ちゃぶ台を囲んで、三人は腰を下ろした。
柏木平蔵。ケータイ屋のミナミ。内閣官房の鯖江。そしてちゃぶ台の真ん中には、立てかけられたスマホが一台。
「では、ツナガリくん。説明してもらおうか」
鯖江が、国家の代表として、画面に向かって名刺を差し出した。名刺はスマホの中には入らず、ちゃぶ台の上に落ちた。
『はい! ぼくは、縁の台帳の窓口係です! 宇宙で人間が増えはじめたころから、縁の出入りを管理しています! 五十億年、無遅刻無欠勤です!』
「五十億年」とミナミが小さく呟いた。「うちの店より長い」
『人間が、ある人を「もう要らない」と決めて削除すると、縁はいったん台帳に返却されます! 普段は一人か二人なので、ぼくがそっと棚に戻していました! でも今回は、九百十三人が、一度に返却されました!』
「棚は、どうなった」
『あふれました!』
画面の中で、ツナガリくんが両手を広げた。
『縁は、ほかの縁につながっています! 糸の端を抜くと、その先の糸も、どんどんほどけます! これは、ぼくの責任ではありません! ぼくは、ちゃんと「はい、はい、はい」と確認しました!』
「あれは確認か」と平蔵が言った。
『確認です!』
「戻せるのか」と鯖江が言った。
『戻せます!』
三人が身を乗り出した。
『ただし、削除は削除です! 取り消しはできません! できるのは、追加だけです! それも、「ほんとうに必要な縁」を、一件だけ!』
「一件」とミナミが言った。「九百十三件じゃなくて?」
『一件です! ほどけた糸を結び直すには、端が一本あればよいので! ただし、その一本が「ほんとうに」でなければ、結んだ先から、また解けます!』
鯖江は、メモ帳を取り出して、「ほんとうに」と書き、二重線を引いた。
『ところで、柏木さん!』
ツナガリくんの声が急に弾んだ。
『整理の過程で、集計が出ています! お見せしますか!』
「何の集計だ」
『「柏木さんのストレス源ランキング」です!』
画面に、赤い表が出た。
第一位 柏木平蔵(本人)
第二位 柏木平蔵(四十歳のころの)
第三位 柏木平蔵(これからの)
「…何だ、これは」
『ぜんぶ、あなたです! 世間のみなさまは、ずっとずっと下のほうです!』
平蔵は、言葉を失った。
『あなたを一番苦しめたのは、騙してきた人々ではなく、騙された自分を許せないあなたです! 九百十三人は、そのための、ご近所さんのようなものでした!』
「余計なことを」と平蔵が小さく言った。
『さらに!』ツナガリくんは、にこにこしたまま続けた。『最後に、ご提案です! 整理がすべて終わりますと、残りの一件が、いつもいちばん上に表示されます!』
画面に、確認ダイアログが開いた。
〈最後の一件「柏木平蔵」を削除しますか?〉
〔はい〕 〔はい〕
ミナミが悲鳴をあげた。
「選択肢が、はいと、はいしかない!」
鯖江は、卓の上で、静かにメモ帳を閉じた。
「柏木さん」
「何だ」
「その指は、まだ、押さずにいてもらえますか」
平蔵は、指を画面の上で止めたまま、小さく笑った。
「俺は、押さんよ。押すつもりなら、とっくに押している」
そっと画面を伏せた。
「ただ、少し、考えさせてくれ」
第八章 銭湯の寄り合い
平蔵がちゃぶ台の前で黙り込んでしまったので、ミナミが、立ち上がった。
「柏木さん、とにかく外に出ましょう。ここにいても、気が滅入るだけです」
「外には、誰もいない」
「いるかもしれません。いま、世界に、誰が残っているのか、見に行きましょう。数えるにしても、顔を見たほうがいいです」
三人は、揃って玄関を出た。
街は、ほとんど、色を失いかけていた。電柱の影が、ゆっくりと薄まり、自転車は路上に倒れたまま、半分、透けている。スーパーの入口で、自動ドアが、誰もいないのに、ひとりで開いたり閉じたりしていた。まるで、お辞儀の練習をしているようだった。
交差点では、信号の青が、誰にも渡られないまま、赤に変わった。
「世界の終わりって、案外、礼儀正しいんですね」
ミナミがそう言うと、鯖江が、真顔で頷いた。
「官僚としては、この静けさは、少し羨ましい」
「羨ましいんですか」
「会議が、ない」
「それは、確かに」と平蔵が言った。
そのとき、遠くで、犬の声がした。
三人は、顔を見合わせ、声のする方へ、歩いていった。商店街を抜け、小さな橋を渡り、路地の突き当たりに、煙突が見えた。「松の湯」と書かれた、古い銭湯だった。
煙突から、白い煙が、まっすぐ、空に昇っていた。
暖簾をくぐると、番台に、八十過ぎのおじいさんが座っていた。小柄で、背筋がまっすぐで、鼻の頭に眼鏡をのせている。足もとには、一匹の柴犬がいた。
「いらっしゃい。三人かい」
「はい。……お風呂は、やっているんですか」
「やっとるよ。世の中が、どうなっても、湯は沸くんだ。四十一年、一日も休んどらん」
番台のおじいさんは、そう言って、お釣りの小銭を数えた。そして、数えたあとで、思い出したように、首を傾げた。
「ところで、なんで、客が三人しか来んのかな。いつもは、夕方、四十人は来るんだが」
三人は、顔を見合わせた。
「あの、実は」と平蔵は言った。「世界が、いま、少し、大変なことになっておりまして」
「ああ、そうらしいな。さっき、ラジオで言っとった」
「ラジオ?」
「そこで、まだ、やっとるよ」
脱衣所の隅に、小さなラジオが置いてあった。スピーカーから、低くて、やわらかい、夜更けの声が流れていた。
『――ええ、というわけで、こちらは、全国の、どなたもお聴きでないかもしれない、深夜の番組、「真夜中のゆるゆる放送局」です。パーソナリティは、わたくし、ふくろう太郎でお送りしております。いまのところ、リスナー数、ゼロ。ゼロですが、わたくしは、あきらめません』
「……俺は、聴いていた」
平蔵が、ぽつりと言った。
『えっ』
ラジオの声が、止まった。
「十年、聴いていた。眠れない夜は、いつも、この声だった。ハガキを出したことはないが、一度も欠かさず、聴いていた」
『……柏木さん、とおっしゃいましたか』
「いや、その、名乗っては」
『いえ。わたくし、リスナーゼロでも、十年、毎晩、放送していました。きっと、どこかに、一人は、聴いてくれている人がいると、信じておりました』
ラジオの声が、少し、震えていた。
『ありがとうございます。今夜は、リスナーが一人です。一人いれば、番組は、成立します』
そのとき、銭湯の奥から、さらに、数人の足音が近づいてきた。
郵便配達員が、赤い自転車を押して、入ってきた。「配達先が、ぜんぶ、消えてしまって。ですが、誰にも受け取り印をもらえないまま、十年、配達してきたので、癖で、ここまで来てしまいました」
小学生の兄と妹が、二人で手をつないで入ってきた。「ぼくらは、きょうだいだから、消えません。でも、ほかの友達が、みんな、透明になっちゃった」
八百屋のおばさんが、大根を抱えて入ってきた。「消えるときは、野菜を持ったまま消えたいのよ」
縁側で昼寝をしていた老婦人も、杖をついてやってきた。その後ろに、迷子のチワワと、迷子のインコと、迷子のアルパカが、続いた。
「アルパカ?」
「近所の、動物ふれあい広場の、です」
鯖江は、メモ帳に、そっと、書き込んだ。
「人間が、十七人。動物が、四」
「合計、二十一」
「世界の人口が、二十一」
その場の全員が、顔を見合わせた。
「なら、せっかくだ」と番台のおじいさんが言った。「寄り合いを、やろう。世の中が終わるときは、たいてい、寄り合いが、すべてを決めてきたんだ」
そう言って、番台から、小さな木槌を取り出した。
「議長は、わしがやる。異議は」
「異議あり」と八百屋のおばさんが言った。
「理由は」
「あんたは、八十一歳だろう。わたしは、七十九歳。若いほうが、議長をやるべきだ」
「どちらも、お若いですね」とミナミが言った。
「議長は、鯖江さんで、どうでしょう」と郵便配達員が言った。「官僚ですし」
「私は、先ほど、議長の席が、誰かも分からなくなった国会から、逃げてきた者です」と鯖江が答えた。「議長には、向きません」
議論は、三十分続いた。結局、議長は、柴犬に決まった。柴犬は、ワン、と吠えた。それが、賛成か、反対か、誰にも分からなかったが、犬が吠えたことで、全員が、満足した。
本題に入った。
「で、この事態の原因は、どこにある」
全員の視線が、平蔵に集まった。
平蔵は、背筋を伸ばして、立ち上がった。
「私です。私が、電話帳を、整理しました」
銭湯の中が、しん、と静まった。
やがて、番台のおじいさんが、ゆっくり、眼鏡を持ち上げた。
「あんた、いくつだ」
「六十五です」
「そうか。若いな」
おじいさんは、ふっと笑った。
「わしも、六十を過ぎたころ、同じことをやったよ。もう、付き合いは、いらんと、年賀状を、一枚残らず、止めた。そうしたらな、三年で、静かになった。静かで、ちょうどよかった」
「それで」
「五年目に、寂しくなった」
おじいさんは、湯気の向こうに、遠い目を向けた。
「でも、寂しいと言うのが、なんとなく、悔しくてな。意地で、番台に、座り続けた。そしたら、毎日、誰かが、『ありがとう』と言って、出ていく。湯上がりの顔は、みんな、いい顔をしている。わしは、それだけで、なんとなく、また、一日、やれた」
番台の脇の「湯上がりの顔」の写真が、壁に、百枚ほど、貼ってあった。どれも、知らない顔ばかりだったが、どれも、笑っていた。
「あんたは、全員を、消した。わしは、全員を、受け入れた。その違いが、いまの世の中を、つくっとる」
平蔵は、答えられなかった。
「だが、あんたを、責めるつもりはない」とおじいさんは言った。「あんたが、逃げたくなる気持ちも、分かる。人間は、疲れるからな」
柴犬が、ワン、と吠えた。
「議長も、そう言っている」
議長が何を言ったのかは、誰にも分からなかったが、全員が、頷いた。
「結論を出そう」と番台のおじいさんが言った。
「柏木さんに、任せる。ただし、その前に、風呂に入れ」
「風呂?」
「考えごとはな、湯に浸かってやるのが、一番、はかどる」
こうして、平蔵は、四十二年ぶりに、銭湯に入った。広い湯船に肩まで沈んで、天井を見上げた。ぽたり、と水滴が落ちた。
隣には、いつの間にか、柴犬が浸かっていた。犬は、気持ちよさそうに、目を細めていた。
「お前は、飼い主は、どうしたんだ」
犬は、答えなかった。
「飼い主は、お前を、探しているかな」
犬は、湯の中で、静かに、尻尾を動かした。
平蔵は、湯気の中で、少しだけ、泣いた。湯のせいに、できたので、助かった。
帰り道、スマホを見ると、ツナガリくんの下に、数字が表示されていた。
『世界人口 二十一』
その数字は、静かに、点滅していた。
まるで、鼓動のように。
第九章 残された百人
その夜、世界の人口は、観測上、二十一人になった。
窓の外には、もう人影がなかった。街灯が灯っていた。誰が点けたのかは分からなかった。ミナミは居間で寝息を立て、鯖江は縁側で、膝を抱えたまま、夜空を見ていた。
平蔵は台所の明かりの下で、スマホを開いた。残った百人の名前を、一人ずつ、ゆっくりと指でなぞっていく。
ミナミ。鯖江は、そもそも入っていない。ほかの九十八人は、驚くほど、普通の名前だった。田舎の叔父。若いころ世話をした部下。いつも三つ多くお釣りをくれる八百屋。かかりつけの医院の受付。名前の横に、小さく「笑顔」と書かれたものが、いくつもある。
自分は、笑顔の人を残していたのだ。
平蔵は、少し驚いた。選んでいたつもりはなかった。ただ、指が止まった。そこには何か理由があったのだろう。出会いは偶然ではなく、何か理由があるはず。そう思って、四十年間、わずかな出会いも大切にしてきたのだから。
そして、画面をスクロールするうちに、彼の指は、ある三つの名前の上で止まった。
辰巳。
昌弘。
ノブ。
六年前に辰巳が逝き、三年前に昌弘が逝き、去年の秋にノブが逝った。
消せなかった。消せるはずがなかった。九百十三人をぷちぷちと消した親指が、第一章でこの三人の前で止まったように、どうしても動かなかったのだ。
辰巳は、信用金庫の同期だった。声が大きく、笑い声はもっと大きく、客の前でも、くしゃみが大きかった。支店長に叱られても「声が大きいのは、遺伝です」と答える男だった。新人のころ、平蔵が融資の稟議書で泣きそうになった夜、黙って、隣の席に座り、夜中の二時まで、赤ペンを入れてくれた。
昌弘は、釣り仲間だった。嘘が驚くほど下手な男で、魚が釣れなかった日に「ぼうずだった」と言うまでに、必ず三回、咳払いをした。ある日、平蔵が、純金うなぎの話で落ち込んでいると、昌弘は、黙って、釣り竿を一本、貸してくれた。「うなぎは、釣るもんだ。買うもんじゃない」と言って。
ノブは、後輩だった。一回りも年下なのに、いつも一番えらそうで、人の話を、最後まで聞かない。ところが、平蔵が連帯保証人になりかけたとき、一人で、貸主の家に乗り込んで、「この人は、人がいいだけなんです」と頭を下げた。三日間、会社を無断欠勤した。
三人とも、騙した側の人間ではなく、損をした側の人間だった。
通夜も、葬式も、知っている。全員の遺影が、あの日のまま、微笑んでいたことも、知っている。
平蔵は、台所の椅子に、深く腰を掛け、しばらく画面を眺めていた。やがて、ほとんど無意識のうちに、「辰巳」の名前を押した。
発信。
呼び出し音は鳴らなかった。かわりに、遠い場所で、ガラスの触れ合うような、涼しい音がした。
探り当てるようにして繋がった電波の向こうから、声が聞こえた。
第十章 あの日の若さの声
『お、平蔵か』
その声は、少し高かった。
聞き覚えのある、明るく、よく通る、二十代の終わりの声だった。
「辰巳。お前、声が若いな」
『そらそうだろう。二十八だぞ、俺は』
受話器の向こうは、にぎやかだった。氷の音。誰かの笑い声。焼き鳥の匂いが、電波の向こうから、本当に、漂ってくるような気がした。
『おーい、昌弘、ノブ、平蔵だ。平蔵から電話だぞ』
『えっ、あいつ、まだ生きてたのか』
『当たり前だ、俺たちより長いんだから』
「勝手に殺すな」と平蔵は言った。「お前らと違って、俺は、働いてるんだ」
『お前、いくつになった』
「六十五だ」
『ずいぶん追い抜かれたな』と昌弘が笑った。『こっちは、いつまでも、二十八、三十、二十九だ』
「ノブは」
『二十六だ』とノブが言った。『一番若いのに、いつも一番えらそうだ』
平蔵は、笑った。笑いながら、気がつくと、頬が濡れていた。
『それで、お前、えらい騒ぎをやらかしたな』と辰巳が言った。『聞こえてたぞ。ぷち、ぷち、ぷち、ぷち。天国まで』
「天国まで電波が入るのか」
『ここは、圏外が多くてな。お前の削除祭りのせいで、ひとりも来んから、うちの店が空いてしょうがない』
「来ない?」
『ああ。お前の言う、「不要な連中」が、そのうち順番に、こっちに来るはずだっただろう。みんな、あっち側で、すっかり透明になってな。順番の札が、全部、ゼロになった』
平蔵は息を呑んだ。縁の糸が切れた人々は、行き場を失っていたのだ。
『平蔵』と辰巳は言った。『お前の気持ちは、分かる。俺たちもな、あの世に来て、まず思った。ああ、これで人間関係の面倒がなくなる、ってな』
「それなら、いいじゃないか」
『ところが、これが、すごくつまらん』
昌弘が笑った。
『めんどうくさい奴らがいないとな、飯の味が、全然しない』
『わざわざ人の悪口を言い合う相手がいないと、悪口も、うまくならん』とノブが言った。
『平蔵。縁ってのはな、増やすのも減らすのも、自由だ。でもな、人は、人を、「いなかったこと」にはできん』
辰巳の声が、少しだけ、静かになった。
『削除ってのは、忘れることじゃない。「いた」ってことを、ちゃんと認めて、手を放すことだ。お前の九百十三人は、お前に何かをして、お前から何かを受け取ったんだろう。厄介でも、騙されても、そこにいたんだ』
「……ああ」
『だから、今から、一人だけ追加しろ』
「ツナガリくんも、そう言っていた。ほんとうに必要な縁を、一件だけ、と」
『それなら、決まってる』
辰巳は、軽い声で言った。
『お前の画面の、一番上に出てるやつだ。一番厄介で、一番、お前を騙して、一番、お前を待たせてきた奴だよ』
平蔵は、画面を見た。
〈最後の一件「柏木平蔵」を削除しますか?〉
〔はい〕 〔はい〕
「……俺か」
『俺たちの友達は、柏木平蔵って奴でな。ここで、ずっと、待ってるんだ。ゆっくり来い。急がんでいい』
昌弘が言った。
『老いは、悪いことじゃないぞ。俺たちは、それを体験し損ねたからな。お前が、ちゃんと老いてくれ。そして、そのうち、話を聞かせてくれ』
「話?」
『お前が、年を取って、どうなったかだ。俺たちは、その話が一番聞きたい』
受話器の向こうで、グラスが、からん、と鳴った。
『じゃあな、平蔵』
『またな』
『またなー』
通話が切れた。
平蔵は、しばらく、台所の机に額を押し当てていた。
第十一章 深夜の緊急放送
辰巳たちとの通話を終えた平蔵が、台所で額を押し当てていたころ、銭湯「松の湯」では、世界で最後の緊急放送が始まろうとしていた。
「ふくろう太郎さん。お願いがあります」
鯖江は、ラジオ局の小さなスタジオで、深々と頭を下げた。局には、パーソナリティのふくろう太郎が一人だけ、毛布を肩にかけて残っていた。
「官僚が、頭を下げて、ラジオに出たいと言う。しかも、世界人口が十九人の夜に。面白い。実に、面白い」
「放送は、可能でしょうか」
「リスナーは、柏木さんと、銭湯のみなさんと、動物たちです。それでよければ」
「十分です」
鯖江は、マイクの前に座った。ネクタイを締め直し、咳払いを三回して、口を開いた。
『こちらは、内閣官房、縁対策室です』
スタジオの隅で、柴犬が、ワン、と吠えた。
『現在、世界は、非常に深刻な事態にあります。人と人の縁が、次々にほどけ、観測可能な人口は、十九名にまで減少しております』
一瞬、言葉に詰まった。
『私は、この三日間、考え続けました。国家とは何か。政府とは何か。そして、縁とは、何か』
『結論は、出ておりません』
ふくろう太郎が、横で、静かに頷いた。
『ですが、ひとつだけ、分かったことがあります。私の隣には、いま、一人の老人と、一人の若い女性と、一匹の犬と、一人のラジオパーソナリティがいます。この四つの存在がなければ、私は、この三日間を、乗り越えられませんでした』
『縁とは、おそらく、大きな制度ではなく、「隣にいてくれる誰か」のことです』
鯖江は、いったん、マイクから顔を離して、咳払いをした。
『つきましては、皆さんにお願いがあります。いま、これを聴いている、十九名の方、電話帳を、開いてください。そして、削除せずに、その中で、いちばん、会いたい人を、思い浮かべてください』
『思い浮かべたら、そのまま、その名前を、押してください』
『出なくても、構いません。留守番電話でも、構いません。ただ、「かけた」という事実が、縁の台帳に、一つ、記録されます』
その言葉が終わらないうちに、放送局の窓の外で、遠くの住宅街に、ぽつり、ぽつり、と明かりが灯りはじめた。
最初に電話をかけたのは、八百屋のおばさんだった。三年前から、ほとんど連絡をとっていない、遠くの長男に、電話をかけた。
「もしもし、あたしだよ。……いや、特に用はないんだ。大根が、よく育ったから」
次は、小学生の兄妹だった。離れて暮らす祖母に、「元気?」と一言だけ聞いて、電話を切った。
郵便配達員は、毎日、手紙を届けていた、とある家のおばあさんに電話をかけた。
「いつも、手紙を、ありがとうねえ。今日は、来なかったから、どうしたのかと思ったよ」
「すみません。世界が、ちょっと」
「あらあら、それは、大変ね」
おばあさんは、のんびりと、お茶をすすっていた。
銭湯のおじいさんは、番台の電話を取り上げて、何十年も使っていなかった番号を、そっと、回した。
「もしもし。……ああ、悪い。起こしたか。ちょっと、声が、聞きたくなっただけだ」
受話器の向こうで、年をとった女の人の声が、「あんた、元気なの」と言った。ほとんど、五十年ぶりの、元の奥さんだった。
こうして、あちこちで、小さな電話が、鳴り出した。
消えかけていた人々が最後の繋がりを求めて発信したことで、解けかかった糸が各地で寸前のところで留まり始めたのだった。
世界人口は、観測上、十九人から、二十人に増え、二十三人になり、そして、二十八人になった。
ふくろう太郎は、マイクに向かって、静かに言った。
『こちら、「真夜中のゆるゆる放送局」でした。本日は、リスナー数、二十八名。過去最高です』
その声は、少し、鼻声だった。
鯖江は、ネクタイを緩めた。
「効きましたね」
「ええ。でも、これでは、一時しのぎに過ぎません」
ふくろう太郎は、窓の外を指さした。街は、ほんの少しだけ、色を取り戻した。だが、まだ、薄かった。九百十三本の糸を解いた「起点」がつながり直さない限り、世界全体の根本的な復旧には至らない。
「根っこが、残っています」
「根っこ」
「あなたの言う、その老人のことです」
鯖江は、黙って頷いた。そして、スタジオの電話を借りて、一件だけ、電話をかけた。
父の遺影のある、がらんとした実家の仏間に。
誰も出なかった。それでも、彼は、呼び出し音を、長いこと、聴いていた。
第十二章 大復旧
翌朝六時、世界の人口は、観測上、二十八人だった。
平蔵は、玄関の外に出た。空気は、冷たく、澄んでいた。足もとに、ミナミが、毛布にくるまって、座っていた。そのうしろに、鯖江が、立ったまま、うつらうつらしていた。
「柏木さん」と鯖江が言った。「決断は、つきましたか」
「ああ」
平蔵は、スマホを取り出して、画面を開いた。
〈最後の一件「柏木平蔵」を削除しますか?〉
〔はい〕 〔はい〕
彼は、そのダイアログの外側、何もない余白を、そっと押した。ダイアログが、ふっと消えた。
かわりに、新しい画面が開いた。連絡先の新規登録。
名前の欄に、平蔵は、ゆっくりと、自分の名前を入力した。
「柏木平蔵」
下の欄が、メモになっている。ここに何を書くか、少し考えた。それから、親指を動かした。
「六十五歳。たくさん騙された。たくさん待たされた。それでも、笑って、生きてきた」
最後に、登録名の横に、括弧を打った。
「柏木平蔵(笑顔)」
保存。
画面が、きいん、と鳴った。
ツナガリくんが、ぽん、と跳ねた。
『はい! 受け付けました! これは、「ほんとうに」です!』
「分かるのか」
『分かります! 自分を残した人が、いちばん強いです! ほどけた糸は、いつも、自分の端から、結び直されます!』
その瞬間、空が、鳴った。
低い、長い、鐘のような音だった。街のあちこちから、ぼう、ぼう、と何かが立ち上がる気配がした。通りの向こうで、すれ違った人影が濃くなり、輪郭が戻り、そして、互いにぶつかった。
「あ、すみません!」
「いえ、こちらこそ!」
通勤電車が動きだし、満員の乗客たちが、一斉に実体を取り戻した。ぎゅうぎゅうだった。あまりにぎゅうぎゅうなので、皆が、同時に、深く安堵した。
結婚式場では、新郎新婦が、名刺を持ったまま、見つめ合った。
「あの、僕たち、いつから」
「たぶん、ずっと前からです」
「じゃあ、これは、いらないですね」
二人は、互いの名刺を、そっと、ポケットにしまった。
国会では、首相が庭から戻ってきた。自分が首相だったことを、残念そうに思い出した。
「…忘れたままの方が、よかった」
とはいえ、彼は議場に入り、まず全議員に向かって、深く頭を下げた。
「皆さん、はじめましてではありませんでした。長いこと、失礼いたしました」
議場は、拍手に包まれた。ただし、拍手の後、議長の席に、また誰が座るのかをめぐって、三十分、揉めた。世の中は、元に戻ると、元通り面倒になる。
純金うなぎの組合の男からは、さっそく、新しい勧誘の電話が来た。「柏木さん、お久しぶりです! 今度は、ダイヤモンドのうなぎです」
「結構です」と平蔵は答えた。
「……お元気そうで、何よりです」
電話は、そこで、切れた。その声は、ほんの少しだけ、寂しそうだった。
駅前の青年は、あれきり、現れなかった。
ただ、一か月後の朝、平蔵の郵便受けに、茶封筒が入っていた。中には、二千円と、一枚の紙。
〈二十一年分の利子は、ありません。ご迷惑をおかけしました〉
差出人は、書かれていなかった。平蔵は、その二千円で、鯖江とミナミに、缶コーヒーを買って帰った。
スーパーのレジの女性は、翌火曜日、「お箸は?」と聞いた。
「いらない」と平蔵は答えた。
二人は、少しだけ、笑った。
それが、世界の復旧だった。大きな何かではなく、そういう小さな「いつも」の積み重ねだった。
高校では、国語の教師が、教壇の前に立って、深く頭を下げた。
「皆さん。先週は、はじめましてと言って、失礼しました」
「先生」と、一番前の生徒が言った。「ずっといるのは才能だって、言ってましたよね」
「言いました」
「あれ、うれしかったです。わたし、才能って、初めて言われました」
教師は、教科書で顔を隠して、泣いた。授業は、その日、予定の範囲に、一行も進まなかった。それでも、全員が、よく学んだ顔をしていた。
喫茶店のマスターは、窓際の予約席に、柏木様の姿を見つけて、駆けつけてきた。
「柏木さん! どこに行ってらしたんです! 心配しましたよ!」
「いや、二、三日、世界が透明で」
「そうですか! とにかく、モーニングですね、いつもの」
そう言って、マスターは、いつもの、が何なのか、どうしても思い出せなくて、とうとう泣き出した。
一方、平蔵の目の前の、静かな玄関先では、鯖江が、実体を取り戻した足もとを見下ろして、安堵の息をつき、そのあと、少し不安そうにメモ帳を開いた。
「柏木さん。九百十三人の方々は、どうなりましたか」
平蔵は、スマホを確認した。「圏外 九百十三」と表示されていた数字が、いつの間にか、別の言葉に変わっていた。
「すれ違い 九百十三」
「すれ違い」とミナミが覗き込んで言った。「いいじゃないですか。知り合いじゃなくて、すれ違い」
「ああ」と平蔵は頷いた。「それで、ちょうどいい」
関わらなくていい。でも、いなくなりもしない。道ですれ違って、ほんの少し会釈をする。それくらいの距離が、世の中には必要なのだ。
空が、少しずつ、朝の色になっていった。
終章 あの日の若さで微笑んでいる
それから半年が経った。
世の中は、驚くほど、元通りだった。ただ、いくつかのことだけが、変わっていた。
人々は、電話帳を、少しだけ丁寧に扱うようになった。削除ボタンの前で、指を止めて、「いや」と呟く人が増えた。連絡先の整理は、すこし大きな決心になった。
内閣官房の縁対策室は、設立三日目にして、早くも解散した。が、鯖江は、毎月第三土曜日に、蒲田の町工場の跡地に花を供えに行き、その帰りに、平蔵の家に寄るようになった。
ミナミは、ケータイ屋から独立して、「老後の連絡先を整理するお手伝い」という小さな店を開いた。「削除はしません、お手伝いするのは、残すことだけです」という看板を出した。客は、なぜか、行列になった。
平蔵はというと、毎朝六時に目を覚まし、お茶を一杯いれて、スマホを開く。
電話帳の人数は、いま、七人になっている。
ミナミ。鯖江。隣の奥さん。喫茶店のマスター。八百屋。
そして、辰巳。昌弘。ノブ。
あれ、数が合わない、と思うが、あの三人は、数えても数えても、いつも別枠に入ってしまう。縁の台帳が、そのように仕分けているらしい。
平蔵は、あれから、友達を増やそうとはしなかった。いまの数で、ちょうどいい。「あなたも、わたしも」で、やっていける友が、数えるほどいれば、それでいい。
その朝、スマホの画面の隅で、ツナガリくんが、ぽん、と跳ねた。
『柏木さん! お誕生日、おめでとうございます!』
「誕生日は、半年前だ」
『はい! 六十五と半分、おめでとうございます!』
「そんな祝い方があるか」
『あります! 残り時間は、少なくなるほど、細かく祝うのが、五十億年のしきたりです!』
平蔵は、笑った。
画面の一番上には、ある連絡先が表示されていた。「柏木平蔵(笑顔)」。毎朝、いちばん最初に会う相手である。
彼は、鏡に向かって、その相手に、小さく頭を下げた。
「今日も、よろしく」
鏡の中の男は、少し皺が増えていた。白髪も、やや増えた。けれども、目の奥には、あの三人と同じ、少しいたずらっぽい光があった。
そう、彼らは、あの日から齢を取らず、あの日の若さで、微笑んでいる。
そして自分は、これから、齢を取る。
老いは、悪いことではない。
いよいよ、その時分に差し掛かったようだ。
けれども、その時分は、思っていたよりも、ずっと、騒がしくて、面白かった。
その日の午後、平蔵は、近所の公園のベンチに座っていた。
隣のベンチに、見覚えのある顔があった。ゴルフ好きの、あの専務である。最初に消したうちの一人だった。もちろん、名前は、スマホにはない。
目が合った。
専務は、遠慮がちに、会釈した。平蔵も、会釈を返した。
それだけで、二人は、また、それぞれの方向を向いた。電話番号も、近況も、ゴルフの約束も、なかった。ただ、「すれ違い」だった。
けれども、その会釈には、四十年分の、何かが、静かに、こもっていた。
去り際に、専務が、ふと、振り返った。
「また、連絡します」
平蔵は、笑った。
「ええ、お待ちしています」
連絡は、来ないだろう。それでも、よかった。もう、待たされているとは、思わなかった。
家に帰ると、平蔵は、ひとつ、決めたことを実行した。
スマホを開き、「ミナミ」の名前を押して、発信した。
「もしもし、南さん。柏木です」
「あれ、柏木さん。どうしました」
「用事はない。ただ、『ありがとう』を、言いたくなっただけだ」
「それ、あと、何回ですか」
「数えていない」
「ずるいですね」
ミナミが笑った。電話の向こうで、世界が、また、少し、あたたかくなった気がした。
それは、この半年のあいだの、ある夜のことだった。鯖江の携帯電話が、鳴った。
画面には、「娘」と表示されていた。三年間、一度も鳴らなかった番号だった。
「……もしもし」
「お父さん。ニュースで、聞いたよ。ラジオで、変なこと言ってたでしょ。『隣にいてくれる誰か』って」
「聴いていたのか」
「聴いてたよ。うちの旦那が、世界が透明になったとき、最後まで、わたしの手を離さなかったから。それで、思い出したの。お父さんも、一回だけ、遠足の日に、わたしの手を離さなかったな、って」
鯖江は、しばらく、何も言えなかった。官僚人生三十年。どんな答弁にも、詰まったことはなかった。今は、言葉が、一つも、出てこなかった。
「今度の土曜日、ご飯、食べに行こうか」
「……ああ」
「焼き鳥でいい?」
「焼き鳥がいい」
電話が切れたあと、鯖江は、スマホの画面に、小さく、「娘(笑顔)」と入力した。
鯖江の目の端が、濡れていた。それを、ツナガリくんが、見なかったふりをして、そっと、画面の隅に隠れた。
そして、ある朝のこと。平蔵は、窓を開けた。
朝の空気の中を、どこかで、鳩が、一斉に、飛び立った。
(了)
Amazon Kindle
あとがき
現代社会において、「人間関係の断捨離」や「SNSの友達整理」という言葉はどこか軽やかに使われています。人間関係に疲れ、すべてをリセットしてしまいたいと願う瞬間は、年齢を問わず誰にでも訪れるものでしょう。
しかし、「煩わしい繋がりをすべて消し去ったあとに残る世界は、果たして本当に心地よいものなのだろうか?」というささやかな疑問から、この物語は生まれました。
主人公の平蔵のように、私たちは日々誰かに待たされ、時には騙され、同時に自分自身も誰かに嘘をつき、誰かを待たせながら生きています。清廉潔白とは言えない泥臭い人間関係の積み重ねこそが、私たちが立つ「現実」という世界を形作っているのかもしれません。
関わり続けるのは億劫だけれど、完全に消してしまうには少し寂しい。
そんな人間関係の絶妙な距離感を、本作では「すれ違い」という言葉に着地させました。
すれ違ったときに小さく会釈を交わす――それくらいの淡い関係であっても、世界にその人が「存在している」ということ自体が、巡り巡って私たち自身を支えているのかもしれません。
今夜、スマートフォンを開いたとき、あなたの電話帳にある誰かの名前が、ほんの少しだけ愛おしく感じていただけたなら幸いです。

