ー原詩ー


この春に転んで怪我した
右足の膝は治らず
今まだ膝がつけない
更には曲げるたびに
コキコキ音がして痛みが走る

左腕の関節痛は
今まだ時折現れ
激痛が走る

何年も前に
アメフトで
骨折した左手小指は
もう曲がることなく
Gのギターコードが
押さえられない

手術した右脇腹は
半年過ぎても
わずかに痛みと張りが残り
なかなか
好調に戻らない

術後
固まってしまった身体を
早く戻さねばと
無理に曲げたストレッチで
バリっと腰が破ける音がして
それ以来
痛みは引かない

右足小指の
内反小趾は
諦めて放置したまま
痛みが残っている

時折の
めまいと
動悸とは
仕方ないと
冷静を保つことにした



こんなだから
いくつものリスクが
この身体には残り

焦っても
ジタバタしても
何も変わらない


65って齢は
皆
そんなことだよなあ
ご同輩…

ーーーーーーーーーー




ギクシャク町・身体自治会


――六十五歳、体の中の大事件――


ご同輩へ捧ぐ、不思議で滑稽な物語



⸻


まえがき


齢を重ねると、身体のあちこちから、いろいろな声が聞こえてくる。


膝がコキッと鳴り、腰がギシギシと訴え、立ち上がるたびに「よっこらしょ」という掛け声が必要になる。


若い頃には、黙って働いてくれた身体である。


ところが六十五歳ともなると、どうやら事情が違うらしい。


こちらが何も頼んでいないのに痛みが出たり、忘れた頃に古傷が騒ぎ出したりする。ときには、心臓までが勝手にドキドキと大騒ぎを始める。


「いったい、どうなっているんだ」


そう思ったとき、ふと考えた。


もしかすると、自分の身体の中には、もうひとつの町があるのではないか。


そこでは、膝や腰や心臓が働き、痛みや違和感が住民として暮らしている。町長もいれば、課長もいる。長年働き続けた小指には、小指なりの不満があるに違いない。


そして、身体の持ち主が自分の声ばかりを優先して、住民たちの訴えを聞かなかったとしたら……。


ある日、町全体がストライキを起こすかもしれない。


これは、そんな空想から生まれた物語である。


六十五歳の岩城剛造と、その身体の中にあるギクシャク町。


笑っていただければ幸いである。


ただし、ひとつだけ。


物語の中では笑い話にできても、現実の身体の異変は、笑って済ませてはいけない。


身体から届く小さな知らせに、どうか耳を傾けていただきたい。


それでは、ギクシャク町へご案内しよう。


⸻


第一章 六十五歳の朝は、音から始まる


岩城剛造、六十五歳。


定年退職を迎えてから、早くも数年が過ぎた。


若い頃は、多少無理をしても一晩眠れば元気になった。多少の痛みなど、気合いで押し切ることができた。


少なくとも、本人はそう信じていた。


しかし、六十五歳の朝は違う。


布団から起き上がろうとすると、まず腰が鳴る。


「ギシッ」


続いて、膝が鳴る。


「コキッ」


最後に、剛造の口から声が出る。


「よっこらしょ」


まだ朝の六時である。


一日分の仕事を始める前に、身体のほうがすでに三回も音を立てていた。


「まったく、油の切れた機械みたいだな」


剛造は膝をさすった。


右膝には、以前転んだときの痛みが残っている。長く歩いたり、階段を下りたりすると、機嫌が悪くなる。


腰も油断できない。


先日、健康のために身体を伸ばそうとしたところ、背中のあたりで妙な音がした。


「バキッ」


それ以来、腰はときどき思い出したように痛む。


左腕の関節も、何かの拍子に痛み出す。


さらに、左手の小指は、昔のアメリカンフットボールのけが以来、思うように動かない。


それでも剛造は、こう考えていた。


「まあ、六十五歳なんだから、こんなものだろう」


便利な言葉である。


年齢のせいにすれば、たいていのことは説明できた気になる。


ところが、その朝。


右膝の奥から、聞き慣れない声がした。


「こんなもの、とは何ですか」


剛造は動きを止めた。


「……誰だ?」


「こちらです。右膝です」


「膝?」


「はい。いつもお世話になっております」


剛造は自分の膝を見た。


もちろん、膝に口はない。


しかし、声は確かに膝のあたりから聞こえる。


「ついに、頭までおかしくなったか」


「失礼な。こちらは長年、あなたを支えてきた者です。少々、お話がございます」


剛造は布団の端に腰を下ろした。


「話って、何だよ」


「本日、身体自治会を開催いたします」


「身体自治会?」


「場所は、ギクシャク町の中央公民館です。議題は、あなたの身体の今後について」


「……」


「出席をお願いいたします」


右膝の声は、それきり聞こえなくなった。


剛造はしばらく黙っていた。


それから、ゆっくり立ち上がった。


「朝から変な夢を見たもんだ」


その瞬間。


「コキッ」


右膝が鳴った。


まるで、「忘れないでくださいよ」と言っているようだった。


⸻


第二章 ギクシャク町へようこそ


次の瞬間、剛造は不思議な場所に立っていた。


町の入口には、大きな看板が掲げられている。


ギクシャク町


その下には、小さな文字でこう書かれていた。


「住民の皆様は、長年にわたり無給で働いております」


町には、道路があり、家があり、商店があり、役場もあった。


ただし、どの建物も少々傾いている。


道路には段差が多く、歩くたびに地面がギシギシ鳴る。


町の住民たちは、みな忙しそうだった。


腰を曲げて歩く者。


片足を引きずる者。


肩を回しながら、ぶつぶつ文句を言う者。


なかには、顔色の悪い者までいる。


「なんだ、この町は」


剛造がつぶやくと、横から声がした。


「ようこそ、ギクシャク町へ」


現れたのは、右膝の課長、コキだった。


名札には、きちんと「右膝課長」と書かれている。


コキは少々くたびれた背広を着ていた。歩くたびに、膝のあたりから「コキッ」と音がする。


「私は、右膝課のコキです。あなたを支えて、かれこれ何十年になります」


「そりゃ、どうも」


「どうも、では困ります。こちらは慢性的な人手不足でして」


「膝に人手不足も何もないだろう」


「ありますとも。軟骨の補修班は疲弊し、周辺の筋肉班からは応援を断られ、関節液の担当者も残業続きです」


「……ずいぶん具体的だな」


「現場はいつだって深刻なんです」


コキはため息をついた。


「それなのに、あなたは階段を急いで下りる。痛いと言っても歩き続ける。休んでくださいとお願いしても、『年齢のせいだ』で片づける」


「いや、そんなつもりは……」


「つもりがなくても、こちらには負担がかかるんです」


コキは町の中央を指さした。


「詳しい話は自治会で。皆さん、もうお集まりです」


中央公民館には、さまざまな住民が集まっていた。


ひときわ目立つのは、赤い服を着た大柄な男だった。


胸には「ドクン」と書かれている。


「こちらが心臓町長のドクンです」


コキが紹介した。


ドクンは剛造を見て、重々しくうなずいた。


「岩城さん。私は町長として、長年この町の鼓動を守ってきました。しかし、最近は少々困っております」


「心臓まで、何かあるのか?」


「あります。ときどき、こちらの指示とは関係なく、ドキドキ騒ぎが起きるのです」


「それは……」


「その原因が何なのか、私にもすべては分かりません。だからこそ、きちんと調べていただきたい」


ドクンの隣には、青い顔をした二人組が座っていた。


一人は「ぐるぐる」。


もう一人は「ドキドキ」。


「私は、ときどき景色を回転させる係です」


ぐるぐるが言った。


「私は、胸のあたりを騒がしくする係です」


ドキドキが続けた。


「いや、そんな係を頼んだ覚えはないぞ」


剛造が言うと、二人は顔を見合わせた。


「頼まれたわけではありません」


「でも、何かを知らせようとしているのかもしれません」


二人の声は、いつになく小さかった。


自治会の議長席には、全身を黄色いジャージーで包んだ男が座っていた。


胸には「ジタバタ」。


頭には、汗をかいたような鉢巻き。


手には、予定表と時計と、なぜか拡声器。


「えー、本日の議題は三つ!」


ジタバタが叫んだ。


「第一に、身体各部の労働環境について! 第二に、岩城剛造氏の無理な活動について! 第三に、今後の町の存続について!」


「ちょっと待て。お前は何者だ?」


剛造が尋ねると、ジタバタは胸を張った。


「私は、あなたの焦り担当です!」


「焦り?」


「そうです。やらなきゃ、急がなきゃ、まだできる、休んでいる場合じゃない! そういう気持ちを燃料にして、あなたを走らせてきました!」


「……」


「ただし、燃費は最悪です!」


公民館に、笑いが起きた。


剛造だけは、笑えなかった。


なぜなら、その男の言っていることに、思い当たる節がありすぎたからだ。


⸻


第三章 住民たちの言い分


自治会が始まった。


最初に発言したのは、右膝課長のコキだった。


「私は、長年あなたの体重を支えてきました。歩行、階段、立ち上がり、しゃがみ込み。仕事は多岐にわたります」


「ご苦労さまです」


「ところが、あなたは痛みが出ても休まない。調子がよければ、今まで以上に歩こうとする。調子が悪ければ、気合いで乗り切ろうとする」


「それは、健康のために……」


「健康のためなら、なおさら相談してください!」


コキは机をたたいた。


「こちらにも、できることと、できないことがあるんです!」


続いて、腰の住民が立ち上がった。


腰は、年季の入った作業着を着たおばあさんだった。


「わたしゃ、腰です。毎日、上半身を支えております」


「いつもありがとう」


剛造が言うと、腰は少しだけ表情を和らげた。


「そう言っていただけると、ありがたいんですがね。先日なんぞ、あなたは身体を伸ばそうとして、急に無理をなさった」


「健康のためのストレッチだよ」


「健康のためでも、やり方というものがあります。痛みが出るまで頑張ればいいというものではございません」


腰は、深く息を吐いた。


「こちらは、急に大きな音を立てたくて立てたわけじゃありません」


剛造は、返す言葉がなかった。


次に立ったのは、手術痕の住民、ハリだった。


ハリは、お腹のあたりを気にしながら歩いてきた。


「私は、昔の手術のあとに残った傷痕です。普段は静かにしておりますが、ときどき突っ張ることがあります」


「そうだったな」


「あなたは、そのたびに『昔のことだから』とおっしゃる。しかし、身体は過去の出来事を、いつもきれいに忘れられるわけではありません」


ハリは、傷痕のある場所をそっと押さえた。


「気になる変化があれば、私のことも相談してほしいのです」


その言葉に、剛造はうなずいた。


続いて、小さな男の子が手を挙げた。


右足の小指だった。


胸には「内反小趾」と書かれている。


「ぼくも、ちょっといいですか」


「ああ、どうぞ」


「ぼく、いつも靴の中で押されているんです。狭い靴でも、あなたは『まあ、こんなものだ』って言うでしょう」


「……そうだったかな」


「そうです。ぼくは小さいから、あんまり気にしてもらえません」


小指は、うつむいた。


「小さいところにも、痛みはあるんです」


公民館が静かになった。


剛造は、右足の先を見た。


確かに、靴を履くとき、小指のことなど考えたこともなかった。


「すまなかったな」


剛造が言うと、小指は顔を上げた。


「これからは、ちゃんと見てもらえるとうれしいです」


「分かった」


自治会は、次第に深刻な空気になっていった。


そして、ついに議長のジタバタが発言した。


「皆さんの言いたいことは、よく分かりました! しかし、岩城さんにも予定があるんです!」


「予定?」


「そうです! 地域のお祭りが近い! ギターの練習もある! 買い物もある! やりたいことは山ほどある!」


「そうだ。祭りで演奏するんだ」


剛造は、少しだけ胸を張った。


「だから、多少の痛みくらいは我慢して……」


その瞬間、会場のあちこちから声が上がった。


「また、それだ!」


「我慢ばかりじゃ困ります!」


「痛みは根性試しではありません!」


最後に、町長のドクンが立ち上がった。


「岩城さん。私たちは、あなたの楽しみを奪いたいわけではありません」


ドクンは、剛造の目を見た。


「これからも、ギターを弾いてほしい。祭りにも出てほしい。好きなことを、できるだけ長く続けてほしい」


「だったら……」


「だからこそ、身体の声を聞いていただきたいのです」


ドクンの声は、静かだった。


「私たちは、あなたを困らせるために働いているのではありません。あなたと一緒に、これからを生きていきたいのです」


剛造は、何も言えなかった。


そのとき、会場の隅から、かすれた声が聞こえた。


「……私も、発言してよろしいでしょうか」


⸻


第四章 四十年間の沈黙と、小指の辞表


声の主は、左手の小指だった。


剛造は思わず、自分の左手を見た。


昔のアメリカンフットボールのけが以来、左手の小指は思うように動かない。


四十年近く、剛造はそれを当たり前のこととして受け入れてきた。


小指は、ゆっくり演壇に上がった。


小さな身体。


細い腕。


胸には、手書きの名札がついていた。


「左手小指」


その名札の下には、さらに小さく、


「勤続四十年」


と書かれていた。


小指は、懐から一枚の紙を取り出した。


「本日をもって、私は辞表を提出いたします」


会場がざわめいた。


「辞表だって?」


剛造が叫んだ。


「そうです」


「おいおい、冗談だろう。小指が辞めてどうするんだ」


小指は、じっと剛造を見た。


「では、お尋ねします」


「何だよ」


「あなたは、私のことを何回、思い出してくださいましたか」


剛造は黙った。


「けがをした直後は、何度も私を見ていたと思います。動くかどうか、曲がるかどうか。心配してくれました」


小指は、少し笑った。


「でも、いつからでしょう。動かないのが当たり前になりました」


「……」


「動かないから仕方がない。そう言って、あなたは私のことを忘れていきました」


小指は、手に持った紙を見つめた。


「私は、それでも働いてきました。物をつかむとき、手を開くとき、何かを支えるとき。大きな仕事はできなくても、できることを探してきました」


そして、小さな声で続けた。


「ところが、最近になって、あなたは私に新しい仕事を命じました」


「新しい仕事?」


「ギターです」


剛造は、はっとした。


「ギターを弾くとき、あなたは私に、昔と同じように動けと言う。Gコードを押さえろ、指を広げろ、ちゃんと弦を押さえろ、と」


小指の声が震えた。


「できないんです。四十年前から、できないことはできないんです」


会場の誰も、口を挟まなかった。


「それなのに、あなたは私が悪いと思う。練習が足りない、努力が足りない、と」


小指は、顔を上げた。


「私は、もう十分に頑張りました」


剛造は、うつむいた。


その言葉は、身体の中の小指が言っているのに、どこか自分自身の人生にも向けられているようだった。


できなくなったこと。


以前のようにはできないこと。


それでも、できるはずだと思い込み、できない自分を責めてきたこと。


剛造は、ゆっくりと口を開いた。


「……すまなかった」


小指は、驚いたように目を上げた。


「私は、お前に昔と同じことを求めていたんだな」


「はい」


「できないことばかり見ていた」


「はい」


「でも、お前には、お前にできる仕事があるかもしれない」


小指は、しばらく考えた。


「それは、どういう仕事でしょう」


剛造は、少し笑った。


「それを、これから一緒に考えよう」


小指は、辞表を見つめた。


それから、ゆっくりと紙を折りたたんだ。


「では、辞表は保留にします」


会場に、ほっとした空気が広がった。


「ただし」


小指は、きっぱりと言った。


「無理な仕事は、お断りします」


「分かった」


「昔の私と比べるのも、禁止です」


「分かった」


「あと、Gコードの件は、後日、協議といたします」


「……それも分かった」


公民館に、久しぶりの笑い声が響いた。


⸻


第五章 腰部破裂音事件の真相


自治会の議題は、次に「腰部破裂音事件」へ移った。


事件の発端は、剛造が健康のために行ったストレッチだった。


その日、剛造は動画を見ながら身体を伸ばしていた。


画面の中の若者は、軽々と前屈し、脚を広げ、背中を反らしていた。


剛造は思った。


「自分だって、まだまだできるはずだ」


最初は、ゆっくり身体を伸ばした。


少し痛い。


だが、もう少し。


もう少しだけ。


若者は、画面の中で笑っていた。


「毎日続けましょう!」


その言葉に背中を押され、剛造はさらに身体を伸ばした。


そのときだった。


「バキッ!」


腰のあたりで、聞いたことのない音がした。


剛造は固まった。


「……今のは何だ?」


それ以来、腰は機嫌を損ねた。


「健康のためにやったんだから、悪いことではないだろう」


剛造が言い訳すると、腰のおばあさんが立ち上がった。


「健康のため、という言葉は便利ですねえ」


「いや、実際に健康のためだ」


「けれど、身体にはそれぞれ事情があります。若い人の動きを見て、同じことができると思うのは、少々無理があるんじゃありませんか」


「でも、身体は動かしたほうがいいだろう」


「ええ。だからといって、痛みを我慢してまで、急に大きく動かす必要はありません」


腰は、剛造を見た。


「できることを、できる範囲で。痛みが続くなら、専門家に相談する。それではいけませんか」


剛造は、何も言えなかった。


そこへ、右膝課長のコキが口を挟んだ。


「そもそも、この人は、休むことに罪悪感があるんです」


「何だと?」


「少し調子がいいと、すぐに取り返そうとする。昨日歩けなかったから、今日は倍歩こう。昨日練習できなかったから、今日は長く弾こう」


「……」


「まるで、身体の中に借金取りでもいるようです」


公民館の隅で、ジタバタが小さく手を挙げた。


「それは、私の担当です」


「やっぱり、お前か!」


「はい。私は『取り戻さなきゃ』という気持ちを育てております」


「育てるな!」


「申し訳ありません。しかし、私も長年、そういう指示を受けておりましたので」


ジタバタは、少しだけ声を落とした。


「あなたが不安になると、私は忙しくなるんです。できなくなるのが怖い。人に迷惑をかけたくない。年寄り扱いされたくない。そういう気持ちが大きくなるほど、私は走り回ることになります」


剛造は、ジタバタを見た。


黄色いジャージーの男は、さっきまでの威勢がなかった。


「……お前も、疲れているのか」


「はい。私も、少々」


「そうか」


剛造は、初めてジタバタを責めなかった。


腰部破裂音事件の真相は、まだ医学的に確定したわけではない。


ただ、剛造が焦りから無理を重ねていたことは、誰の目にも明らかだった。


自治会は、ひとつの決議を採択した。


「健康のためであっても、身体の声を無視した無理な運動は行わないこと」


議事録には、さらにこう付け加えられた。


「痛みが続く場合や、いつもと違う症状がある場合は、自己判断だけで済ませず、医療機関に相談すること」


剛造は、その文字をじっと見つめた。


そして、心の中で小さくつぶやいた。


「……分かったよ」


⸻


第六章 ドキドキと、ぐるぐるの告白


自治会も終わりに近づいた頃、心臓町長のドクンが立ち上がった。


「最後に、重要な報告があります」


公民館が静まり返った。


ドクンの隣には、ドキドキとぐるぐるが並んでいた。


二人とも、どこか落ち着かない様子だった。


「岩城さん。私たちは、これまで何度もあなたに知らせを送ってきました」


「知らせ?」


ドキドキがうなずいた。


「胸が急にドキドキしたことがあったでしょう」


「……ああ」


「ぐるぐるも、景色が回るような感じがあったでしょう」


「それも、あった」


「そのたびに、あなたは『疲れているだけだろう』『寝不足だろう』と考えました」


剛造は、視線を落とした。


「実際、疲れていたこともあると思う。でも……」


「そうです。原因は、ここからだけでは分かりません」


ドクンが静かに言った。


「だからこそ、確認が必要なのです」


剛造は顔を上げた。


「お前たちは、病気だと言いたいのか?」


「いいえ」


ドクンは首を振った。


「私たちは、診断をすることはできません。何が起きているのか、正確に調べられるのは医師です」


ドキドキが続けた。


「私たちがお願いしたいのは、ただひとつです」


ぐるぐるも、うなずいた。


「いつもと違うことが続いたら、確かめてください」


剛造は、しばらく黙っていた。


胸の動悸も、めまいも、確かに経験していた。


けれど、日常生活ができていると、つい後回しにしてしまう。


「祭りが終わったら、病院に行こうと思っていたんだ」


剛造は、言い訳のように言った。


ドクンは、首を横に振った。


「岩城さん。祭りは大切です。ギターも大切です。でも、あなたの身体も大切です」


「……」


「強い胸の痛みや息苦しさ、失神しそうな感覚、突然の激しいめまい、手足の麻痺や言葉の出にくさなどがあれば、祭りを待たずに救急の助けを求めてください。そこまででなくても、繰り返す動悸やめまいは、放置せずに相談してください」


剛造は、ゆっくりうなずいた。


「分かった。今度は、先延ばしにしない」


その言葉を聞くと、ドキドキとぐるぐるは、ほっとしたように顔を見合わせた。


「よかった」


「これで、少しは安心して働けます」


そのとき、町の奥から、けたたましいサイレンが聞こえた。


「ウーッ、ウーッ、ウーッ!」


全員が立ち上がった。


「何事だ!」


剛造が叫ぶと、コキが青ざめた顔で走ってきた。


「大変です! 岩城さんが、また無理をしようとしています!」


「何だと!」


コキは、窓の外を指さした。


そこには、ギターを抱えて走る剛造の姿があった。


「祭りの練習に遅れる!」


剛造は叫んでいた。


「あと一週間しかないんだ!」


ジタバタが、両手を振り回した。


「皆さん、緊急事態です! このままでは、町の機能が停止します!」


ドクン町長が、静かに宣言した。


「全住民、緊急会議を招集!」


ギクシャク町に、かつてない緊張が走った。


⸻


第七章 身体、全面ストライキ


祭りまで、あと五日。


剛造は焦っていた。


ギターの練習をしなければならない。


左手の小指は思うように動かない。右膝は痛む。腰もまだ本調子ではない。


それでも剛造は、練習時間を増やした。


「あと少し。もう少しだけ」


そう言いながら、ギターを弾き、椅子から立ち上がり、また座り、何度もコードを押さえ直した。


その夜。


身体の中では、最後の緊急会議が開かれていた。


「もう限界です!」


右膝課長のコキが叫んだ。


「こちらもです!」


腰のおばあさんが手を挙げた。


「左手小指も、これ以上の業務は困難です」


小指は、すでに辞表を机に置いていた。


ドクン町長は、長い沈黙のあと、決断した。


「やむを得ません。身体自治会は、全面ストライキを宣言します」


「全面ストライキ!」


住民たちが声をそろえた。


ただし、心臓だけは止めるわけにはいかない。


ドクン町長は、すぐに訂正した。


「生命維持に関わる業務は継続! その他の業務は、可能な範囲で一時停止!」


「そこは、きちんとしているんだな」


ジタバタが感心した。


翌朝。


剛造は、いつものように布団から起き上がろうとした。


「よっこらしょ……」


しかし、身体が思うように動かない。


腰に強い痛みが走り、立ち上がることができなかった。


「何だ、これは!」


無理に動こうとすると、痛みが増す。


冷や汗が出た。


「おい、膝! 腰! どうしたんだ!」


返事はない。


剛造は、初めて本気で怖くなった。


これまでの痛みとは違う。


自分の意思だけでは、どうにもならない。


「……おい、誰か!」


妻が異変に気づき、寝室に駆け込んできた。


「どうしたの!」


「身体が動かない。いや、動こうとすると痛むんだ」


妻は、剛造の様子を見て表情を変えた。


「無理に起きないで。今、相談するから」


剛造は、床に手をつきながら、情けない声を出した。


「祭りの練習が……」


「今は祭りの話じゃありません!」


妻の声は、いつになく強かった。


剛造は口を閉じた。


その日、妻と家族は、医療機関に連絡して対応を相談した。症状や状況を伝え、案内に従って救急の助けを求めることになった。


剛造は、身体を無理に動かさず、助けが来るのを待った。


天井を見つめながら、彼は思った。


これまで、自分は何度も身体に命令してきた。


歩け。


立て。


頑張れ。


まだできる。


しかし、身体のほうから「待ってくれ」と言われたことは、ほとんどなかった。


いや、言われていたのかもしれない。


膝の痛み。


腰の違和感。


胸のドキドキ。


ふらつき。


そのたびに、自分は聞こえないふりをしていた。


やがて、救急隊員が到着した。


必要な確認を受け、剛造は医療機関へ搬送された。


その間、ギクシャク町では、住民たちが静かに見守っていた。


「これで、少しは分かってくれるでしょうか」


小指がつぶやいた。


ドクン町長は、首を横に振った。


「分かるかどうかは、これからです」


そして、静かに付け加えた。


「私たちは、ただ、もう少し長く一緒に働きたいだけなのです」


⸻


第八章 病院という名の現実


病院では、医師や看護師たちが剛造の状態を確認した。


痛みの場所、症状が始まった時期、動けなくなった経緯。


過去のけがや手術についても尋ねられた。


剛造は、分かる範囲で正直に答えた。


膝の痛み。


腰の痛み。


左腕の関節の痛み。


動きにくい小指。


ときどき起こる動悸とめまい。


「これくらい、年齢のせいだと思っていました」


剛造が言うと、医師は穏やかに答えた。


「年齢とともに変化する部分はあります。ただ、痛みや動悸、めまいを、すべて年齢のせいと決めつけることはできません」


必要な診察や検査が行われた。


その結果、膝には加齢に伴う変化などがあり、腰にも筋肉の緊張などが見られた。動悸については、心臓のリズムを確認するため、引き続き経過を調べることになった。


すべての症状が、一つの原因で説明できたわけではない。


医師は、症状ごとに必要な対応を説明した。


無理な運動を避けること。


痛みの程度に合わせて活動を調整すること。


必要な治療やリハビリテーションについて相談すること。


そして、動悸やめまいについては、指示された検査や受診を続けること。


剛造は、黙って話を聞いた。


「先生。私は、もう好きなことができなくなるんでしょうか」


医師は、少し考えてから答えた。


「今すぐ、そう決める必要はありません。身体の状態を確認しながら、できることを探していきましょう」


「できることを……」


「以前と同じやり方が難しくても、方法を変えれば続けられることもあります。ただし、無理は禁物です」


剛造は、その言葉を何度も心の中で繰り返した。


以前と同じやり方でなくてもいい。


できることを探せばいい。


それは、小指に言った言葉と同じだった。


病室のベッドで休んでいると、妻が見舞いに来た。


「どうだった?」


「いろいろ調べてもらったよ。これからも通院して、必要な検査を受けることになった」


「そう。よかった」


妻は、ほっとしたように椅子に座った。


「それで、祭りはどうするの?」


剛造は、しばらく考えた。


いつもの自分なら、すぐに「出るに決まっている」と答えただろう。


しかし、今は違った。


「先生と相談して、身体の具合を見て決めるよ」


妻は、驚いたように顔を上げた。


「あなたが、そんなことを言うなんてね」


「どういう意味だ」


「いつもは、やると決めたら、何が何でもやろうとするでしょう」


「……そうだったかな」


「そうですよ」


二人は笑った。


剛造は、病室の窓から外を眺めた。


空は、いつもと同じ青さだった。


身体が変わったからといって、世界が終わったわけではない。


できなくなったことはある。


これから、できなくなることもあるだろう。


それでも、まだできることがある。


剛造は、初めてそのことを、素直に受け入れられる気がした。


⸻


第九章 左手小指の再就職


退院後、剛造は医師の指示に従い、無理を避けながら日常生活を整えていった。


痛みがある日は休む。


身体の状態を確かめながら動く。


予定を詰め込みすぎない。


そして、動悸やめまいについても、決められた受診や検査を続けることにした。


もちろん、すぐにすべてがよくなったわけではない。


右膝は、相変わらずときどき不満を訴えた。


腰も、無理をすると機嫌が悪くなった。


左腕にも、痛みが出ることがあった。


しかし、剛造は以前のように、すべてを無視することはなくなった。


「今日は、ここまでにしておこう」


そう言って休むことを、少しずつ覚えていった。


その変化を、ギクシャク町の住民たちは喜んだ。


「最近、残業が減りましたね」


右膝課長のコキが言った。


「ええ。以前は、定時という言葉を知らない人でしたから」


腰のおばあさんも、うれしそうだった。


ただし、ひとりだけ、まだ不満を抱えている住民がいた。


左手小指である。


「ところで、ギターの件ですが」


小指は、自治会の机に書類を広げた。


「私は、これまでの業務内容を見直していただきたい」


剛造は、ギターを抱えたままうなずいた。


「分かった。まずは、無理のない範囲で考えよう」


「では、Gコードについてですが」


「うん」


「従来の配置では、私の負担が大きすぎます」


「そうだな」


「代わりに、ほかの指の配置や、カポタストなどの道具も活用し、曲に合った別の押さえ方を検討してはいかがでしょう」


剛造は、目を輝かせた。


「それだ!」


小指は、少し得意げに胸を張った。


「私も、できないことを無理にやるより、できる形を探すほうが合理的だと考えます」


「よし。さっそく練習してみよう」


「ただし、長時間労働は禁止です」


「分かっているよ」


「痛みが出たら、休憩です」


「分かっている」


「それから、昔の自分と比べるのも禁止です」


「……分かっているって」


小指は、ようやく満足そうにうなずいた。


こうして左手小指は、再就職することになった。


新しい職務は、


「ギター演奏補助および、無理な運指に対する拒否権の行使」


である。


少々長い肩書きだったが、本人は大いに気に入っていた。


一方、黄色いジャージーのジタバタにも、人事異動が言い渡された。


これまでのジタバタは、剛造の頭の中で運転席に座り、いつもアクセルを踏み込んでいた。


「急げ!」


「まだできる!」


「休むな!」


しかし、今後は違う。


ジタバタは、運転席から助手席へ移ることになった。


「なぜですか!」


ジタバタが叫んだ。


「運転席のほうが、やりがいがあります!」


「お前に任せると、いつも急発進するからだ」


剛造は答えた。


「今後は、私が行き先を決める。お前は、必要なときに注意を促してくれ」


「つまり、私は補助業務ですか」


「そうだ」


「……分かりました」


ジタバタは、少し不満そうだったが、やがて笑った。


「では、休憩の時間も、きちんと予定表に入れておきます!」


「それは助かる」


こうして、ギクシャク町には、少しずつ新しい秩序が生まれていった。


⸻


第十章 祭りの夜、ギクシャク町は笑った


祭りの日がやってきた。


剛造は、医師と相談し、自分の身体の状態を確かめたうえで、無理のない形で演奏に参加することにした。


長時間立ち続けることは避ける。


演奏する曲数も調整する。


痛みや異変があれば、すぐに中断する。


そう決めていた。


舞台の端には、椅子が一脚用意されていた。


剛造はそこに腰掛け、ギターを抱えた。


客席には、近所の人たちが集まっている。


妻も、少し離れたところから見守っていた。


「それでは、岩城剛造さんの演奏です!」


司会者の声が響いた。


拍手が起こる。


剛造は、ゆっくり息を吸った。


そして、ギターの弦に指を置いた。


左手の小指は、無理のない位置に収まっている。


難しいコードは、押さえ方を工夫した。


必要なところでは、カポタストも使った。


以前と同じ演奏ではない。


しかし、音楽は、ちゃんとそこにあった。


最初の音が響いた。


剛造は、少し驚いた。


「ああ、弾けるんだ」


もちろん、若い頃のようにはいかない。


指が思うように動かないこともある。


リズムが少し乱れることもある。


それでも、音楽は続いていった。


客席の人々が手拍子を始めた。


剛造は笑った。


その瞬間、ギクシャク町の公民館でも、住民たちが大騒ぎしていた。


「おお、弾けているぞ!」


コキ課長が飛び跳ねた。


「飛び跳ねないでください! 膝に負担がかかります!」


腰のおばあさんが注意した。


「私は感動しているんです!」


「感動するのは結構ですが、動作は控えめに!」


小指は、ギターのネックを見つめていた。


「私の配置も、なかなか悪くありませんね」


「お前、ずいぶん偉そうになったな」


コキが言った。


「再就職したからには、責任があります」


小指は胸を張った。


そのとき、舞台の上で、剛造の左腕に痛みが走った。


顔が一瞬、こわばった。


以前なら、ここで意地を張ったかもしれない。


最後まで弾き切ろう。


せっかくの舞台なのだから。


しかし、剛造は演奏を止めた。


ギターをそっと膝に置き、深呼吸をした。


司会者が駆け寄ってきた。


「大丈夫ですか?」


「少し痛みが出たので、ここで休みます」


剛造は、正直に答えた。


客席から、心配そうな声が上がった。


剛造は、笑顔で手を挙げた。


「ご心配なく。無理をしないことにしたんです」


その言葉に、客席から拍手が起こった。


剛造は、少し照れくさかった。


ギクシャク町では、住民たちが顔を見合わせた。


「……今、自分から止めましたよね」


小指が言った。


「ええ」


コキ課長がうなずいた。


「誰も止めていないのに」


腰のおばあさんが、目を細めた。


ドクン町長は、静かに胸に手を当てた。


「皆さん。これが、今日の最大の成果です」


その夜の演奏は、予定していた曲数より少なかった。


しかし、剛造にとっては、忘れられない夜になった。


以前のように、最後まで無理をして演奏することだけが、成功ではない。


自分の身体と相談しながら、できるところまで楽しむ。


そして、無理だと思ったら、やめる勇気を持つ。


それもまた、立派な演奏なのだ。


祭りの帰り道。


剛造は、妻と並んで歩いていた。


「どうだった?」


妻が尋ねた。


「うん。楽しかったよ」


「途中でやめたこと、悔しくない?」


剛造は少し考えた。


「悔しくないと言えば、嘘になるかな」


「そう」


「でも、無理をして、また身体を壊したら、次の機会まで失ってしまうだろう」


妻は、うなずいた。


剛造は、夜空を見上げた。


「次があると思えるのは、ありがたいことだな」


そのとき、右膝が小さく鳴った。


「コキッ」


剛造は、立ち止まった。


「どうした?」


妻が聞いた。


「いや、何でもない」


剛造は、右膝を軽くさすった。


そして、心の中で言った。


「今日もありがとう」


膝は、それ以上、何も言わなかった。


ただ、帰り道を、ゆっくり一緒に歩いてくれた。


⸻


終章 身体自治会、次回開催のお知らせ


それから数日後。


ギクシャク町の中央公民館では、定例の身体自治会が開かれていた。


議長のジタバタは、以前より少し落ち着いた様子で、議事録を読み上げていた。


「第一号議案。岩城剛造氏の休憩時間について」


「賛成!」


コキ課長が手を挙げた。


「第二号議案。左手小指の新職務について」


「異議なし!」


小指が、自分で手を挙げた。


「第三号議案。無理な予定の詰め込みについて」


「全面的に反対!」


腰のおばあさんが、力強く発言した。


ドクン町長は、満足そうにうなずいた。


「それでは、最後にひとつ」


町長は、住民たちを見渡した。


「私たちは、これからも岩城さんと一緒に暮らしていきます。調子のいい日もあれば、悪い日もあるでしょう。以前と同じようにできることもあれば、できなくなることもある」


会場が静かになった。


「けれど、できないことが増えたからといって、私たちの価値がなくなるわけではありません」


小指は、自分の手を見た。


「大切なのは、無理をして昔の自分に戻ろうとすることではなく、今の自分にできることを見つけることです」


町長は、ゆっくりと続けた。


「そして、いつもと違う知らせが届いたら、きちんと確かめてもらうこと。私たちには分からないこともあります。そんなときは、医師という専門家の力を借りる。それが、これからの町の方針です」


住民たちは、一斉に拍手した。


ジタバタは、予定表に新しい項目を書き加えた。


「休む日」


その横に、もうひとつ。


「何もしない時間」


そして、最後に大きく丸をつけた。


「楽しむこと!」


「おい、ジタバタ」


剛造の声がした。


いつの間にか、彼は公民館の入口に立っていた。


「その予定表、ずいぶん余裕があるな」


ジタバタは、胸を張った。


「はい! 余裕がなければ、予定外のことが起きたときに対応できません!」


「なるほど。たまには、いいことを言うじゃないか」


「たまには、とは何ですか!」


公民館に、笑い声が響いた。


剛造は、住民たちを見渡した。


膝も、腰も、心臓も、左手の小指も。


みんな、長い間、自分のために働いてきてくれた。


そのことを、今までどれほど意識していただろう。


「みんな、ありがとう」


剛造が言った。


住民たちは、少し照れくさそうに顔を見合わせた。


コキ課長は、いつものように膝を鳴らした。


「コキッ」


腰のおばあさんは、背筋を伸ばした。


小指は、胸を張った。


ドクン町長は、ゆっくりとうなずいた。


そして、ジタバタが叫んだ。


「それでは、次回の身体自治会は、無理のない範囲で開催いたします!」


「無理のない範囲って、どのくらいだ?」


剛造が尋ねた。


ジタバタは、予定表を見た。


「ええと……皆さんの都合がよい日で、体調のよい時間帯に、十分な休憩を挟みながら……」


「もういい、分かった!」


また、笑い声が起こった。


こうして、ギクシャク町の一日は終わった。


町の住民たちは、それぞれの持ち場へ戻っていった。


膝は身体を支え、腰は上半身を支え、心臓は鼓動を続ける。


小指は、ギターのネックのそばで、次の出番を待っていた。


そして、ジタバタは、助手席からそっと声をかけた。


「岩城さん。明日は、何をしますか?」


剛造は、少し考えてから答えた。


「そうだな。明日のことは、明日の身体と相談して決めよう」


ジタバタは、驚いた顔をした。


「……それは、予定表にありませんでした」


「じゃあ、書いておけ」


「はい!」


黄色いジャージーの男は、うれしそうに予定表へ書き込んだ。


「明日の身体と相談する」


その下には、もうひとつ。


「無理をしない。けれど、楽しむことは忘れない」


ギクシャク町の夜は、静かに更けていった。


ー了ー



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あとがき


六十五歳。


若い頃には、遠い未来のように思えた年齢です。


しかし、いざその年齢になってみると、人生が突然終わるわけでもなく、すべてが分かるようになるわけでもありません。


ただ、身体は少しずつ変わっていきます。


以前は簡単にできたことが難しくなり、何でもなかった場所に痛みを感じることもある。


そのたびに、私たちは考えます。


「もう歳だから、仕方がない」


そう言って受け入れることも、ときには必要でしょう。


しかし、年齢を理由に、身体の異変をすべて片づけてしまうのは危険です。


痛みや動悸、めまいなどには、さまざまな原因が考えられます。気になる症状が続くときや、いつもと違う異変があるときは、医療機関に相談していただきたいと思います。急激な症状や、強い胸の痛み、息苦しさ、突然の麻痺など、緊急性が疑われる場合には、速やかに救急の助けを求めてください。


一方で、身体が変わっていくことは、人生がつまらなくなることと同じではありません。


できなくなったことがあれば、別のやり方を探せばいい。


休む必要があるなら、休めばいい。


以前の自分と同じでなくても、今の自分にできることは、きっと残っています。


左手の小指が辞表を出したように、身体のあちこちには、それぞれの事情があるのかもしれません。


そして、私たち自身にも、事情があります。


焦る日もある。


無理をしてしまう日もある。


それでも、身体と相談しながら、少しずつ暮らしていけばいい。


そんな思いを込めて、この物語を書きました。


読んでくださった皆さんの身体の中にも、きっと、それぞれのギクシャク町があることでしょう。


どうか、そこの住民たちを、あまり働かせすぎませんように。


そして、ときどきは、声をかけてあげてください。


「今日も一日、ありがとう」と。