ソラミミの神さまと きこえない笛
――ふしぎな夏休みの童話――
序詩 犬笛のように
犬笛のように
人間には
聞こえない音がある
紫外線や
赤外線のように
人間の目には
見えない光もある
聞こえないから
ないのだろうか
見えないから
そこには何もないのだろうか
もしかしたら
世界はわたしたちが
思っているよりも
ずっと広いのかもしれない
そして
届かないと思っていた声が
いつか
どこかの心に届くことがあっても
不思議ではないのかもしれない
強い願いは
ときに
思いもよらない奇跡を生む
科学が教えてくれる世界と
科学だけでは語りきれない世界
その境目に
小さな笛が
ひとつあった
これは
聞こえない声を届けたかった
ひとりの少女と
一匹の老犬と
ちょっと変わった神さまの
ふしぎな夏休みの物語である
一章 おじいちゃんの物置
夏休みの始まりの日のことです。
ミオは電車とバスを乗り継いで、山のふもとの小さな町へやってきました。
ここには、おじいちゃんが住んでいます。
お父さんもお母さんも仕事が忙しいので、夏休みのあいだ、ミオはおじいちゃんの家で過ごすことになったのです。
バスを降りると、むっとした草の匂いがしました。
空からは、セミの声がシャワーのように降ってきます。
「ミオ、よく来たなあ!」
門のところで、おじいちゃんが手を振っていました。
白い眉毛がぴんと跳ね上がり、日に焼けた顔が、くしゃっと笑っています。
その隣で、のっそりと立ち上がった生きものがいました。
茶色い毛をした、おじいさん犬のムギです。
ムギは、ミオが生まれるよりも前から、この家にいる犬でした。
もう十六歳。
人間でいえば、おじいちゃんよりも、ずっと年上なのだそうです。
「ムギ、ひさしぶり!」
ミオがしゃがんで手を差し出すと、ムギは白く濁った目で、ゆっくりとミオを見上げました。
それから、しっぽをぱたん、ぱたんと、二回だけ振りました。
けれど、ミオはすぐに気がつきました。
去年の夏は、「ムギ!」と呼ぶと、耳をぴんと立てて、走ってきてくれたのです。
ところが今年は、何度名前を呼んでも、ぼんやりと別の方を見ています。
「ムギはな、耳が遠くなっちまったんだ」
おじいちゃんが、ムギの頭をなでながら言いました。
「年を取ると、聞こえない音が増えてくるんだよ。おじいちゃんだって、このごろはテレビの音が小さく聞こえる」
「ムギ、もう、わたしの声が聞こえないの?」
「全部が聞こえないわけじゃないさ。でもな、ミオの声も、前みたいには届かなくなっているかもしれんなあ」
ミオは、胸のあたりが、きゅっと縮むのを感じました。
ムギは大切な家族でした。
ひざの上で眠ったこと。
一緒に散歩をしたこと。
転んで泣いたとき、何も言わずにそばにいてくれたこと。
たくさん、たくさん、覚えています。
そのムギに、自分の声が届かなくなってしまうなんて。
ミオは、なんだか急に、夏休みが寂しいものになったような気がしました。
その日の夕ごはんは、おじいちゃんの畑で採れたトマトとキュウリでした。
いつもなら大好きなトマトも、今日はあまりおいしく感じられません。
ムギが玄関のたたきで、ひとり丸くなっているのが、気になって仕方なかったからです。
「ミオ、元気がないなあ」
おじいちゃんは、お茶をすすりながら言いました。
「そうだ。明日は雨になるそうだから、物置の掃除でも手伝ってくれんか。古いものがいっぱいあって、おもしろいぞ。宝探しみたいにな」
「宝探し?」
「ああ。おじいちゃんも、何がしまってあるのか、全部は覚えとらんのだ」
翌朝は、おじいちゃんの言ったとおり、雨になりました。
庭の隅にある物置は、木と埃の匂いがしました。
薄暗い中には、錆びた自転車や、壊れたラジオや、古い座布団が山のように積まれています。
ミオは埃を払いながら、一つずつ箱を開けていきました。
ネジ。
釘。
古い手ぬぐい。
おばあちゃんが使っていたという、縫い針のセット。
そして、一番下の箱の、そのまた底から、小さなものが出てきました。
銀色の、細長い笛です。
鎖がついていて、ペンダントのように首から下げられるようになっています。
表面は曇っていましたが、手ぬぐいでこすると、淡い光がぼうっと浮かび上がりました。
「おじいちゃん、これ、なあに?」
ミオが笛を持っていくと、おじいちゃんは目を丸くしました。
「おお、これは……ずいぶん懐かしいものを見つけたなあ。それは犬笛だよ」
「犬笛?」
「ああ。吹いても、人間には、ほとんど音が聞こえない笛さ。犬には聞こえるんだ。犬の耳は、人間よりずっと高い音まで聞き取れるからな」
ミオは首をかしげました。
「人間には聞こえないの?」
「ほとんどな。音には、人間の耳で聞き取れる範囲と、そうでない範囲があるんだ」
ミオは、手のひらの上の笛を見つめました。
聞こえない音。
人間の耳には届かない音。
そのとき、笛の先に、ごく小さな文字が刻まれているのに気がつきました。
――ならせば、きっと、だれかが、きいている。
「おじいちゃん、これ、なんて書いてあるの?」
「ん? どれどれ」
おじいちゃんは眼鏡をかけ直し、笛をのぞき込みました。
「……はて。そんな文字、あったかなあ。おじいちゃんは、覚えがないぞ」
雨が物置の屋根をたたいています。
ミオは犬笛を、ぎゅっと握りしめました。
なんだか、笛の中で、小さな何かが、とくん、とくんと動いているような気がしたのです。
二章 聞こえない音
雨が上がった夕方、ミオは犬笛を首から下げて庭に出ました。
空は、洗いたての洗濯物のように、すっきりと青くなっています。
草の先には、雨粒が光っていました。
ムギは縁側のそばで、のんびり日なたぼっこをしていました。
「ムギ」
ミオは、小さな声で呼びました。
ムギは動きません。
「ムギ。ムギってば」
今度は少し大きな声で呼びました。
ムギの耳の先が、ほんの少しだけ、ぴくっと動きました。
でも、それだけでした。
ミオは犬笛を口に当てました。
すうっと息を吸い、そっと吹きます。
……しーん。
何も聞こえません。
笛が鳴ったのかどうかさえ、よくわかりません。
もう一度、今度は少し力を込めて吹いてみました。
やはり何も聞こえません。
ただ、自分の息が、ひゅうっと笛を抜けていくだけです。
ムギを見ると、さっきと変わらず、目を細めてうとうとしています。
「……やっぱり、聞こえないんだ」
ミオは笛を下ろしました。
ムギが若かったころには、きっと聞こえたのでしょう。
でも、今のムギには、もう、この音も届かないのかもしれません。
目の奥が、じわっと熱くなりました。
「ムギのばか」
そう言いかけて、ミオは慌てて唇をかみました。
ムギは何も悪くありません。
ただ、年を取っただけなのです。
そのときでした。
――ぴい。
どこかで、細く澄んだ音がしたような気がしました。
ミオは、はっとして辺りを見回しました。
庭には誰もいません。
ムギは相変わらず眠っています。
風が、物干し竿の洗濯物を揺らしているだけでした。
「……今の、なに?」
ミオは耳を澄ましました。
そして、気がつきました。
音が聞こえたのは、耳の中ではありません。
もっと奥の方。
胸の真ん中あたりだったのです。
「空耳かな」
ひとりごとを言って、ミオはもう一度、笛を吹きました。
すると今度は、はっきりと聞こえました。
――ぴい。ぴい。ぴゅうい。
それは、温かいスープに透明な鈴を沈めたような、不思議な音でした。
耳で聞くというより、体じゅうの皮膚が、ふるふると震えるような感じです。
「だ、だれ?」
ミオは笛を握ったまま、後ずさりました。
すると、庭の隅の、薄青い夕暮れの中から、のんびりとした声がしました。
「おや。おやおや。ほんとうに聞こえているのかい?」
ミオは、ぴたりと動けなくなりました。
声のした方には、ほおずきの葉っぱが茂っています。
その葉の陰で、何かが、ゆっくりと動きました。
三章 ソラミミの神さま
ほおずきの葉っぱの陰に、小さな小さな何かがいました。
大きさは、ちょうど子猫くらい。
体は透き通っていて、向こう側の赤い実が、ぼんやり透けて見えます。
頭には犬のような大きな三角の耳がついていました。
ところが、その耳は左右で色が違うのです。
右の耳は、朝焼けのような橙色。
左の耳は、夜明け前の空のような、すみれ色。
瞳は、見るたびに色を変えました。
赤になったり、青になったり、ミオが見たこともない色になったりします。
「だ、だれですか?」
ミオがおそるおそる尋ねると、小さなその人は、えへん、と胸を張りました。
「わたしかい? わたしは、ソラミミの神さまさ」
「ソラミミの、神さま?」
「そうとも。人間たちが『あれ、今、何か聞こえたかな。……気のせいか』と思うことがあるだろう?」
「うん」
「あれを空耳という。そのとき、気のせいで片づけられてしまう世界の隅っこを、わたしは受け持っているのさ」
神さまは、橙色の耳を、ぱたぱたと揺らしました。
「人間の耳には聞こえない音がある。人間の目には見えない光もある。でもね、聞こえないことと、存在しないことは、同じじゃないんだよ」
ミオは目をぱちぱちさせました。
「どうして、わたしには神さまが見えるの?」
「その犬笛を吹いたからさ」
神さまは、ミオの胸元を指さしました。
「その笛は、ただの犬笛ではない。人間の耳に届かない音の向こう側へ、呼びかけを運ぶ笛なんだ。さっき、わたしのところまで、ぴゅうっと届いたのさ」
「わたしの声が?」
「そう。いや、声というより、願いかな」
神さまは、ふふっと笑いました。
「笛の文字を読んだだろう?」
ミオは笛をひっくり返しました。
――ならせば、きっと、だれかが、きいている。
「その『だれか』が、わたしさ。……いや、わたしだけではないかもしれないけれどね」
ミオは、ごくんと唾をのみ込みました。
そして、いちばん知りたかったことを尋ねました。
「あの、神さま。ムギは、この笛の音が聞こえていないんです。耳が遠くなっちゃって。それでも、ムギには届いていますか?」
神さまは、縁側のムギを見ました。
ムギは、すうすうと寝息を立てています。
神さまの瞳が、ほんの少し青くなりました。
「ミオ、というんだね。きみの名前は」
「どうして知ってるの?」
「さっきから、胸の中で、何度も『ムギ、ムギ』と呼んでいたじゃないか。わたしは、聞こえない音の神さまだ。口に出さない声まで、時々、拾ってしまうんだよ」
ミオは、かあっと赤くなりました。
「ごめんなさい」
「あやまることはないさ。いい声だった。きみの『ムギ』は、とても温かい音だよ」
神さまは、ふわりと浮かび、ミオの肩の高さまで上がってきました。
「さて、ミオ。きみは、ムギに声を届けたいんだね?」
「……うん」
「それなら、明日から、わたしと一緒に遊んでみないか」
「あそぶ?」
「ああ。人間の目と耳の、ほんの少し外側にある世界を見にいくんだ。きっと面白いぞ。それにね」
神さまは、片方の目をぱちっとつぶりました。
「願いごとというものは、聞こえない音の中で、ときどき、とんでもなく大きく響くものなのさ」
夕焼けの空が、ゆっくりと茜色に変わっていきます。
ミオの胸の中で、小さな犬笛が、温かく、とくん、と鳴りました。
こうして、ミオとソラミミの神さまの、ふしぎな夏休みが始まったのです。
四章 見えなかった色
次の朝、ミオが目を覚ますと、枕元に神さまがちょこんと座っていました。
「おはよう、ミオ。いい天気だよ」
「ほんとうにいた……。夢じゃなかったんだ」
「夢かどうかは、これから確かめればいいさ。さあ、庭に出よう。まずは、見えない色の探検だ」
ミオは急いで着替え、庭に飛び出しました。
朝の光が、きらきらと輝いています。
庭の隅には、おじいちゃんが育てているヒマワリが、ずらりと並んでいました。
「ミオ、ヒマワリをよく見てごらん」
「黄色くて、丸くて、大きい」
「そうだね。でも、ミツバチの目には、少し違って見えているんだ」
「ミツバチ?」
「ちょうど来たよ」
ぶうん、と一匹のミツバチが、ヒマワリに止まりました。
神さまは、ミオのまぶたに、ひんやりした指を当てました。
「いち、に、さん。……はい、目を開けてごらん」
ミオは、そっと目を開けました。
そして、思わず叫びました。
「わあっ!」
ヒマワリが、違う花になっていたのです。
花びらの根元には、淡い光の筋が何本も走っています。
花の真ん中には、目には見えなかった模様が、くっきりと浮かび上がっていました。
まるで、花の中心へ続く、小さな道しるべのようです。
「これは、なに?」
「紫外線の模様さ。ミツバチは人間には見えない紫外線を感じ取ることができる。花の種類によっては、その光の模様が、蜜のある場所を見つける手がかりになるんだ」
ミツバチは、花の真ん中へまっすぐ降りていき、蜜を吸い始めました。
「花は、ミツバチにだけわかる合図を出しているの?」
「そういうことさ。人間には見えなくても、花とミツバチのあいだでは、ちゃんと役に立っているんだよ」
ミオは庭じゅうを見回しました。
朝顔も、ほおずきも、まだ開きかけの花も、それぞれ違った模様を浮かべています。
同じ庭なのに、まるで別の世界に迷い込んだようでした。
「きれい……。こんな世界が、ずっとあったんだね」
「そう。人間が知らなかっただけさ」
神さまは得意そうに胸を張りました。
「世界は、人間の目に合わせてできているわけじゃないからね」
それから、神さまは縁側のムギを指さしました。
「今度は、あの子を見てごらん」
ミオが目を凝らすと、ムギの体の周りに、ぼんやりとした色が浮かびました。
おなかのあたりは、赤や橙色。
背中は少し淡く、鼻先からは、温かさがゆらゆらと立ち上っているように見えます。
「ムギが光ってる!」
「それは、赤外線の世界をまねて見せているんだよ。体の温かさは、赤外線と深く関係している。特別なカメラを使えば、温度の違いを色で表すこともできるんだ」
ミオは、そっとムギのおなかに手を置きました。
じわあっと、温かさが手のひらに伝わってきます。
いつもなら、ただ「温かいな」と思うだけでした。
けれど今は、その温かさが、ムギの体の中から、ゆっくりと広がっているように感じられました。
「ムギは、生きているんだね」
ミオは、ぽつりと言いました。
「当たり前のことなのに、なんだか、初めてわかった気がする」
「そう。それが、見えなかったものを見る、いいところさ」
神さまの瞳が、やさしい金色になりました。
「見えなかったものが見えると、当たり前だったものが、当たり前じゃなくなる。そして、当たり前じゃなくなったものは、とても大切に思えてくるんだ」
そのとき、ムギが、ふわっと目を開けました。
濁った目が、ミオをゆっくりと見つめます。
それから、鼻をひくひくさせ、ミオの手を、ぺろりとなめました。
ミオは、胸がいっぱいになりました。
声が届かなくても。
音が聞こえなくても。
ムギは、ちゃんとここにいて、ミオを感じてくれているのです。
「でもね、神さま。それでも、わたし、もう一度、ムギに声を届けたいの」
「うん。知っているよ」
神さまは、しっぽをひと振りしました。
「だから次は、聞こえない音の探検に行こう。夜になったら、丘に登るよ」
五章 夜の丘のおんがく
その夜、ミオはおじいちゃんにわけを話して、ムギと一緒に、家の裏の丘へ登りました。
「遠くへ行くんじゃないぞ。ムギが疲れたら、すぐに戻るんだ」
おじいちゃんは、小さな電気ランタンを持たせてくれました。
ムギは、ゆっくり、ゆっくりと、ミオの横を歩いてきます。
昔は、ミオが走っても、あっという間に追い抜いてしまったのに。
今は、一歩ずつ、確かめるように土を踏んでいました。
丘のてっぺんには、大きなクスノキが一本、立っていました。
ミオは、その根元に座りました。
ムギは、ミオのひざに、ちょこんと頭を乗せました。
夜の静けさが、二人を包みます。
「ミオ、目を閉じてごらん。そして、耳の後ろに手を当てて」
ランタンのそばで、神さまがふわりと浮かびました。
ミオは、言われたとおりにしました。
耳の後ろに手を当てると、虫の声が少し大きく聞こえます。
リーン、リーンというスズムシの声。
コロコロ、コロロというコオロギの声。
「いつもの音だね」
「そうだね。では、ここからが特別だ」
神さまは、橙色の耳を、ぱたぱたと振りました。
すると、ミオの耳の奥で、何かが、ぱちんと切り替わりました。
虫の声の向こうから、もっと細くて、もっと高い音が、すうっと浮かび上がってきたのです。
――ちち、ちち、ちりちり。
――きい、きい、きいん。
星のかけらがぶつかり合い、小さな音を立てているようでした。
「なに、これ?」
「人間には聞こえにくい、高い音の世界さ。ほら、頭の上を見てごらん」
ミオは目を開け、空を見上げました。
月明かりの中を、小さな黒い影が、ひらり、ひらりと飛んでいます。
「コウモリ!」
「そう。コウモリの多くは、人間には聞こえないほど高い声を出して、その跳ね返りから、周りの様子を知るんだ。声のこだまで、世界を探っているのさ」
ミオの耳には、コウモリたちの声が、小さな花火のように、ぱちぱちとはじけて聞こえました。
「真っ暗でも、虫を見つけられるの?」
「そう。声を出して、その声が虫や木に当たって戻ってくる。それを手がかりにしているんだよ」
「声が、戻ってくるのを待っている……」
ミオは、その言葉を胸の中で繰り返しました。
「ほら、足元にもいるよ」
神さまが指さしたのは、クスノキの根元の草むらでした。
そこから、もっと小さな、ちりちりという音が聞こえてきます。
小さな野ネズミが、仲間を呼んでいるのでした。
「ネズミも、おしゃべりするの?」
「するとも。人間には聞き取れない高い声で、仲間や子どもを呼ぶこともあるんだ」
ミオは、胸がじんわりしてきました。
今まで、ただ静かな夜だと思っていた丘が、実は、たくさんの声で満ちていたのです。
聞こえなかっただけ。
気づかなかっただけ。
そのとき、神さまがそっと言いました。
「ミオ。ひざの上を見てごらん」
ムギが頭を持ち上げていました。
濁った目は、夜空の方を向いています。
そして、おじいさんの耳が、ほんの少し、ぴくん、ぴくんと動いていました。
「ムギ、聞こえてるの?」
「ミオと同じものを聞いているわけじゃないよ。ムギは、ムギの聞こえ方で夜を感じているんだ」
神さまは、ムギの鼻先に、ふわりと降りました。
「年を取ると、聞き取りにくくなる音もある。でも、耳だけが、すべてじゃない。匂いも、触れた感じも、相手の動きも、犬にとっては大切な手がかりなんだ」
ミオは、そっとムギの背中をなでました。
ムギは、ミオの手に鼻先を押しつけました。
その温かさが、手のひらから胸の奥まで、ゆっくり広がっていきます。
ミオは、自分の目から、ぽろぽろと涙がこぼれていることに気がつきました。
「神さま。どうして、涙が出るんだろう」
「どうしてだろうね」
神さまは、少し考えてから言いました。
「うれしいことと、悲しいことは、ときどき、同じ場所から生まれるんだよ。大切だから、うれしい。大切だから、失うのが怖い。どちらも、きみがムギを好きだということの、別々の音なのさ」
丘の上を、夜風が吹き抜けていきました。
クスノキの葉が、さわさわと鳴りました。
星が一つ、また一つと増えていきます。
ミオは、ひざの上のムギの温もりを、いつまでも、いつまでも、感じていました。
六章 ふたつのおはじき
それから何日か、ミオと神さまは、毎日のように遊びました。
朝は、花の見えない色を探しました。
昼は、川辺で水の流れを観察しました。
夕方には、セミの声の向こうにある、さまざまな音に耳を澄ませました。
ミオの目と耳は、少しずつ、不思議な世界に慣れていきました。
けれど、いちばん知りたいことだけは、まだわからないままでした。
どうしたら、ムギに自分の声を届けられるのだろう。
ある日の午後、ミオは縁側で麦茶を飲みながら、神さまに尋ねました。
「ねえ、神さま。ムギに声を届ける方法は、ないの?」
神さまは、ゆっくりと耳をたたみ、考え込みました。
しばらくのあいだ、風鈴の音だけが、ちりん、ちりんと響いていました。
「あるといえば、ある。ないといえば、ない」
「どっちなの?」
「まずは、ふたつのものが、つながるという話をしようか」
神さまは、ミオのひざに、ちょこんと座りました。
「この世界には、遠く離れていても、不思議な関係を持ち続けるものがある。科学の世界では、量子もつれという現象が知られているんだ」
「りょうし、もつれ?」
「うん。とても小さな粒の世界で起こる、不思議なつながりさ。離れた粒どうしのあいだに、ふつうの感覚では説明しにくい関係が生まれることがある」
「遠くにいても、つながっているの?」
「そう。ただし、何でも好きなように、遠くへ伝えられるわけじゃない。量子もつれだけで、思いどおりの言葉や気持ちを送れるわけではないんだよ」
神さまは、少しだけ真面目な顔になりました。
「でもね、ミオ。科学が見つけた不思議を、想像の入り口にすることはできる。科学が説明してくれることと、物語の中で生まれる奇跡は、同じものではないけれどね」
ミオは、じっと神さまを見つめました。
「ムギと、わたしも、つながっているのかな」
神さまは、少し驚いた顔をしてから、ふっと笑いました。
「どうだろうね。それは、ミオがいちばんよく知っているんじゃないかな」
「わたしが?」
「ムギが小さな子犬だったころ、ミオは、まだ赤ちゃんだった」
「うん。お母さんが言ってた」
「初めて会ったとき、ムギはミオの顔をぺろぺろとなめたそうじゃないか。ミオはびっくりして泣いたけれど、すぐに笑ったそうだね」
ミオは、頬が熱くなりました。
それは、お母さんから何度も聞かされた話でした。
「それから十年。ムギとミオは、ずっと一緒に過ごしてきた。呼びかけて、振り向いてもらって。転んで、慰めてもらって。笑って、眠って。そんな毎日を、たくさん重ねてきた」
神さまは、ミオの胸を、そっと指さしました。
「科学でいう量子もつれと、きみたちの心のつながりは、同じものではないよ。でも、長い時間を一緒に過ごして生まれた絆なら、たしかにある。目に見えないからといって、なくなるものではないんだ」
ミオは、うなずきました。
「わたし、ムギのこと、ずっと覚えていたい」
「うん。だから、これをあげよう」
神さまの両手の中に、ぽうっと小さな光が生まれました。
光は、ゆっくりと固まり、二つの丸いものになりました。
ガラスのおはじきです。
一つは、ミオの目と同じ、薄い蜂蜜色。
もう一つは、ムギの毛と同じ、温かい茶色。
どちらのおはじきにも、小さな星が一つずつ、ゆらゆらと浮かんでいました。
「これは、ふたつのおはじき。ひとつの光から、ふたつに分かれて生まれたんだ」
神さまは、蜂蜜色のおはじきを、ミオの手のひらに乗せました。
「こっちは、ミオが持ちなさい」
そして、茶色のおはじきを、ムギの首輪の小さな飾りに結びつけました。
ムギは、くすぐったそうに鼻を鳴らしました。
「このおはじきは、魔法の道具だ。ミオがムギを思い出すと、温かくなることがある。ムギのそばで、きみの気持ちが強く響くと、光ることもある」
ミオは、蜂蜜色のおはじきを、光にかざしました。
夕日が通り抜け、手のひらに小さな金色のひだまりを作ります。
「でも、神さま。これで声が届くの?」
「ううん。まだ、足りない」
神さまは、まじめな顔になりました。
「つながりがあることと、言葉が届くことは、別の話だからね。ミオは、ムギに、ほんとうは何を伝えたいんだい?」
ミオは、答えられませんでした。
ただ、おはじきを握りしめ、縁側で眠るムギを見つめていました。
風鈴が、ちりん、と鳴りました。
七章 願いの重さ
夏休みも、半分が過ぎました。
ミオは夜になると、蜂蜜色のおはじきを枕元に置いて眠るようになりました。
おはじきは、いつも、ほんのり温かく感じられます。
手のひらに握ると、ムギの毛の柔らかさや、縁側の日なたの匂いまで、思い出せるような気がしました。
それでも、ミオは神さまの質問に答えられずにいました。
わたしは、ムギに、何を届けたいのだろう。
ある夜、ミオは、ふと目を覚ましました。
窓の外が、ぼうっと明るいのです。
カーテンの隙間からのぞくと、庭の真ん中で、神さまが月を見上げていました。
ミオは、そっと縁側に降りました。
「神さま。眠れないの?」
「ミオこそ。ほら、こっちへおいで」
神さまは、隣の石を、ぽんぽんとたたきました。
ミオが座ると、二人のあいだを、涼しい風が吹き抜けました。
「ねえ、神さま。もし、わたしが『ムギを若返らせてください』って願ったら、かなえてくれる?」
神さまは、ゆっくりとミオを見ました。
瞳は、とても深い青でした。
「ミオは、そう願いたいのかい?」
「……うん。ちょっとだけ、思ったの」
ミオは、膝を抱えました。
「ムギが、また子犬のころみたいに走って、わたしが名前を呼んだら、耳をぴんと立てて、かけてきてくれたらいいなって」
「そうか」
神さまは、しばらく黙っていました。
それから、ぽつりぽつりと話し始めました。
「ミオ。わたしは、聞こえない音と、見えない色の神さまだ。でも、ひとつだけ、わたしにもできないことがある」
「できないこと?」
「時間を戻すことだよ」
神さまは、夜空を見上げました。
「時間は、川のようなものなんだ。流れを止めることも、昨日に戻って、もう一度やり直すことも、わたしにはできない」
ミオは、小石を拾いました。
「そっか……」
「がっかりしたかい?」
「ううん。なんとなく、わかってた」
ミオは、小石を握りしめました。
「でも、お願いしたかったの。ムギがいなくなっちゃうのが、こわいから」
言ってしまうと、胸の中の固いかたまりが、少しだけ溶けました。
「ムギは、もう十六歳でしょう。いつか、いなくなっちゃう。わたしが大人になるまで、ずっと一緒にはいられない。ムギがいなくなったら、わたし、どうやってムギを呼べばいいのかわからないの」
神さまは、ミオの膝に、そっと手を置きました。
「ミオ。今、とても大事なことを言ったよ」
「え?」
「きみは、ムギを若返らせたいだけじゃないんだね。ムギと、もう一度、呼び合いたいんだ」
ミオは、ぱちぱちと瞬きをしました。
「ミオが『ムギ』と呼ぶ。ムギが『ここだよ』と答える。その声のやりとりを、もう一度、感じたいんだね」
ミオは、ゆっくりとうなずきました。
ほんとうに、そうでした。
ムギが元気だったころ、ミオが「ムギー!」と呼ぶと、ムギは「ワン!」と答えてくれました。
たった、それだけ。
でも、そのやりとりが、ミオには何よりうれしかったのです。
「わたし、もう一度、ムギとお話がしたい」
ミオの声は震えていました。
「たった一言でいいの。わたしが『ムギ』って呼んで、ムギが『ここだよ』って答えてくれたら、それだけでいい」
その瞬間、ミオのおはじきが、ぼうっと光りました。
神さまの瞳も、金色に輝きました。
「よし。きみの願いが、やっと、はっきりしたね」
神さまは、すくっと立ち上がりました。
「ただし、ひとつだけ、約束してほしい」
「うん」
「その一言を聞くために、ミオは、ひとつだけ、大切な気持ちを手放さなくちゃならない」
ミオは、どきっとしました。
「大切な気持ち?」
「ムギに、ずっといてほしいという気持ちさ」
ミオは、唇をかみました。
「それを、なくさなくちゃいけないの?」
「なくさなくていい。大好きな気持ちは、なくさなくていいんだ。ただね、『ずっといてほしい』という願いで、ムギをぎゅっと縛らないことさ」
神さまは、ミオの手を取り、握りしめていた指を、ゆっくりと開きました。
「願いは、強ければ強いほどいいとは限らない。握りしめた手には、何も受け取れないことがある。少しだけ手を開くと、風が入ってくるんだよ」
ミオは、目を伏せました。
ムギに、ずっといてほしい。
その気持ちを、手放す。
それは、とても難しいことに思えました。
「お別れが来ても、ムギを好きだった時間まで、なくなるわけじゃない。きみが一緒に過ごした日々は、きみの中に残るんだ」
ミオは、長いあいだ考えました。
やがて、小さくうなずきました。
「やってみる。ムギと、ほんとうにお話しできるなら」
「ありがとう、ミオ」
神さまは、にっこり笑いました。
「それでは、夏の終わりのある朝に。夜明けの丘で、一緒に笛を吹こう」
月が薄い雲に隠れ、庭が少し暗くなりました。
ミオの手のひらで、蜂蜜色のおはじきが、小さな心臓のように、とくん、とくんと光っていました。
八章 いちばん高い音
八月の最後の日。
まだ夜が明けないうちに、ミオは、そっと布団を抜け出しました。
ムギは、玄関で待っていました。
まるで、ミオが来るのを知っていたかのように、頭を上げてこちらを見ています。
首輪の茶色いおはじきが、ほのかに光っていました。
「ムギ。一緒に行こう」
ミオが優しく言うと、ムギはゆっくりと立ち上がりました。
丘までの道は、いつもより長く感じられました。
空は濃い紺色で、星がたくさん散らばっています。
ミオの手の中のおはじきだけが、小さな月のように、ぽうっと光っていました。
丘のてっぺんのクスノキの下には、もう神さまが待っていました。
神さまの体は、いつもよりずっと薄く、透き通っていました。
夜明けの空に、溶けてしまいそうです。
「ミオ。ムギ。よく来たね」
ミオは、クスノキの根元に座りました。
ムギも、その隣に、ぺたんと伏せました。
東の空が、ほんの少し明るくなり始めています。
「いいかい、ミオ。夜が朝に変わる、その境目。世界の色が、ゆっくり変わっていく時間だ。そのときに、笛を吹こう」
「うん」
「願いごとを、何度も唱えなくていい。ただ、ムギのことを思ってごらん。きみが一番好きなムギをね」
ミオは目を閉じました。
ムギの、ふかふかのおなか。
こげ茶色の、優しい目。
子犬だったころの、小さな足跡。
初めて会った日。
一緒に滑って転んだ、冬の雪の日。
ミオが泣いたとき、黙ってそばに来て、頭を膝に乗せてくれた夜。
一つひとつの思い出が、温かい光になって、胸の中を巡っていきました。
そのとき、ミオは気がつきました。
ああ、そうか。
わたし、ムギに会えて、ほんとうに幸せだったんだ。
ムギに、ずっといてほしい。
その気持ちは、まだ胸の中にありました。
けれど、それは、さっきまでのような、固くて冷たいかたまりではなくなっていました。
温かくて、柔らかな、小さな灯りになっていたのです。
いなくなっても、きっと、ムギを好きな気持ちは消えない。
一緒に過ごした日々まで、なくなるわけじゃない。
ミオは、ゆっくりと目を開けました。
東の空が、薄桃色に染まっています。
夜と朝が、静かに交代する時間でした。
「今だよ、ミオ」
神さまがささやきました。
ミオは、犬笛を唇に当てました。
すうっと息を吸い込み、ふうっと優しく吹きました。
――ぴゅう。
音は、聞こえませんでした。
けれど、ミオにはわかりました。
笛の先から、金色の風のような光が、すうっと広がっていくのが見えたのです。
光は丘を包み、野原を包み、おじいちゃんの家の屋根を越え、町の向こうまで広がっていきました。
草の葉が、一枚ずつ小さな鈴のように震えました。
眠っていた鳥たちが、羽を動かしました。
クスノキの葉が、さわさわと鳴りました。
まるで、大きな生きものが、ゆっくり息を吸っているようでした。
そのとき、ムギの耳が、ぴんと立ちました。
ミオは、息をのみました。
ムギの濁った目が、朝の光を受けて、きらりと輝きました。
首輪の茶色いおはじきと、ミオの蜂蜜色のおはじきが、同じリズムで、とくん、とくん、と光っています。
「……ムギ?」
ミオは、小さく呼びました。
ムギは、ゆっくりとミオの方を向きました。
そして、ミオの目を、まっすぐに見つめました。
ミオは、はっきりと聞いたのです。
耳の中ではありません。
胸の、いちばん奥で。
優しいおじいさんの声のような、温かい声を。
――ミオ。ここだよ。
「ムギ!」
ミオは、ムギの首に抱きつきました。
涙が止まりませんでした。
「ムギ、わたし、ずっと呼びたかったの。ずっと、呼んでいたの」
――知ってるよ。ずっと、そばにいたから。
ムギの声は、古い毛布のように柔らかく、ミオを包みました。
――きみが生まれた日から、ずっと。きみの声は、ぼくの大切な音だったよ。
「ムギ……」
――高い音は、もう、あまり聞こえない。でも、きみがそばに来てくれることは、わかるんだ。匂いも、手の温かさも、きみがぼくを好きでいてくれることも。
ミオは、ムギを、ぎゅっと抱きしめました。
「わたし、ムギが大好き」
――うん。ぼくも、ミオが大好きだよ。
神さまは、少し離れたところで、そっと目を細めていました。
その瞳は、優しいすみれ色に揺れていました。
東の空が、みるみる金色に染まりました。
お日さまが、山の向こうから顔を出します。
その光の中で、ムギは、しっぽを、ぱたん、ぱたん、ぱたんと、三回振りました。
ミオは、その音を、胸の奥にしまいました。
いつか思い出す日のために。
九章 雪の朝
夏休みが終わり、ミオは、お父さんとお母さんの待つ家へ帰りました。
毎晩、蜂蜜色のおはじきを枕元に置いて眠りました。
おはじきは、いつも、ほんのり温かく感じられました。
その温かさの向こうに、山のふもとの家で眠るムギの息づかいが、あるような気がしたのです。
秋が過ぎ、冬が来ました。
ある、しんしんと冷える十二月の朝。
ミオは、ふと目を覚ましました。
枕元のおはじきが、いつもよりずっとゆっくり光っていたのです。
とくん。
……とくん。
……とくん。
まるで、眠そうな小さな心臓のようでした。
ミオは、おはじきを両手で包み込みました。
そして、なぜだかわからないけれど、胸の奥が、きゅっと痛くなりました。
そのとき、電話が鳴りました。
お母さんが受話器を取り、少し話してから、静かにミオのところへ来ました。
「ミオ。おじいちゃんから。ムギがね、少し弱ってきたんですって」
ミオは、うなずきました。
「うん。会いに行きたい。お願い」
その日のうちに、ミオはお母さんと一緒に、電車とバスを乗り継いで、あの町へ向かいました。
雪がちらちらと降り始めていました。
おじいちゃんの家の庭は、真っ白でした。
夏にヒマワリが咲いていた場所にも、ほおずきの茂っていた場所にも、ふわふわの雪が積もっています。
ミオは雪を踏み分け、縁側へ走りました。
ムギは、温かい毛布の上で眠っていました。
少し痩せて、小さくなったように見えました。
けれど、ミオの気配に気づくと、ゆっくりと頭を上げました。
そして、しっぽを、ぱたん、と一度だけ振りました。
「ムギ」
ミオは、そばに膝をつきました。
――ミオ。来てくれたね。
ムギの声は、夏の日よりも、ずっと小さくなっていました。
それでも、胸の奥では、温かく聞こえました。
「うん。来たよ。ここにいるよ」
ミオは、自分のおはじきを取り出し、ムギの首輪の茶色いおはじきに、そっと重ねました。
二つの光が溶け合い、柔らかな金色になりました。
庭の木の陰に、神さまが、ひっそりと立っていました。
神さまの体は、ほとんど透き通っていて、雪明かりの中に溶けてしまいそうでした。
「神さま」
ミオが呼ぶと、神さまは、ゆっくり近づいてきました。
「ミオ。よく来たね」
「神さま。ムギを助けて。お願い」
言ってしまってから、ミオは唇をかみました。
夏のあの夜、神さまが話してくれたことを思い出したのです。
時間を戻すことはできない。
神さまは、静かに首を横に振りました。
「ミオ。わたしにも、時間の川を止めることはできない。それは、きみもわかっているね」
「……うん」
「でも、ひとつだけ、伝えたいことがあるんだ」
神さまは、ムギの枕元に、ふわりと降りました。
「ムギは、きみと過ごした時間を、ちゃんと持っている。きみがそばに来てくれたこと。なでてくれたこと。名前を呼んでくれたこと。その一つひとつが、ムギにとって大切なものだったんだ」
ミオは、ムギの顔に、自分の顔をそっと寄せました。
――ミオ。ありがとう。
「ムギ……」
――ぼくは、とても幸せな犬だったよ。
ミオの目から、涙がこぼれました。
「わたしも。ムギ。わたしも、ありがとう」
――泣かないで。
「ごめんね。ごめんね、ムギ。ちょっとだけ、泣いてもいい?」
――いいよ。ミオの涙も、ぼくは好きだから。
ミオは、ムギの頭を抱きしめて、少しだけ泣きました。
それは、夏の日の、あの怖くて固い涙ではありませんでした。
温かくて、柔らかい、雨のような涙でした。
外では、雪が静かに降り続いていました。
その夜、ムギは、ミオの手の中で、眠るように息を引き取りました。
ムギの首輪の茶色いおはじきが、最後に、ぽうっと大きく光りました。
そして、すうっと光をおさめました。
ミオは、おはじきを握りしめました。
ムギがいなくなったら、おはじきも冷たくなると思っていました。
けれど、そうではありませんでした。
ミオの蜂蜜色のおはじきは、ほんのり温かいままでした。
まるで、ムギの温もりが、そこへ引っ越してきたみたいに。
「ミオ」
神さまの声が、かすかに聞こえました。
振り向くと、神さまの姿は、雪明かりの中に溶けかけていました。
「神さま、行っちゃうの?」
「行かないよ。ただ、きみの目と耳が、少しずつ、いつもの世界に戻ってきただけさ」
「もう、神さまは見えないの?」
「見える日もあれば、見えない日もある。聞こえる日もあれば、聞こえない日もある。それでいいんだよ」
神さまは、優しく笑いました。
「忘れないで。見えないことと、なくなってしまうことは、同じじゃないからね」
ミオは、犬笛をぎゅっと握りしめました。
「さびしくなったら、笛を吹いてごらん。ならせば、きっと、だれかが聞いているからね」
神さまの声は、雪のひとひらのように、柔らかく消えていきました。
ミオは、いつまでも、いつまでも、ムギの体をなでていました。
窓の外では、雪が降り続いていました。
白い世界の中で、ミオは初めて、別れというものの静けさを知りました。
そして、その静けさの中にも、ムギと過ごした時間が、確かに残っていることを感じていました。
十章 春の犬笛
次の年の春。
おじいちゃんの庭にも、柔らかな日差しが戻ってきました。
ミオは、一人で、あの町へやってきました。
おじいちゃんが、「ムギのお墓に花を供えにおいで」と呼んでくれたのです。
ムギのお墓は、丘のてっぺんのクスノキの根元にありました。
小さな石が一つ。
その前には、おじいちゃんが供えた黄色いタンポポが、風に揺れています。
ミオは、その前にしゃがみ、手を合わせました。
「ムギ。こんにちは」
風が、さわさわと吹き抜けました。
返事はありません。
けれど、ミオは、もう寂しくありませんでした。
ミオは首から犬笛を外しました。
銀色の笛は、冬のいくつもの夜を越えて、前よりもきれいに光っていました。
そっと唇に当てます。
すうっと息を吸い、ふうっと吹きました。
……しーん。
やはり、人間の耳には、何も聞こえません。
けれど、ミオは目を閉じ、ゆっくりと感じました。
手のひらの蜂蜜色のおはじきが、ぽっと温かくなりました。
クスノキの葉が、さらさらと揺れました。
タンポポの綿毛が一つ、ふわりと空へ上っていきました。
そのとき、ミオは聞いたのです。
耳ではなく、胸の奥で。
――ぴい。
あの夏の日の、細く澄んだ音でした。
ミオは、ゆっくりと目を開けました。
クスノキの枝の上に、小さな透き通った影が、ちょこんと座っています。
右の耳は橙色。
左の耳は、すみれ色。
瞳は、赤になったり、青になったり、見たこともない色になったりしています。
「やあ、ミオ」
「……神さま!」
ミオは、ぱっと立ち上がりました。
「ひさしぶりだね。ずいぶん大きくなったじゃないか」
「神さまは、ちっとも変わらない」
「神さまは、変わらないのが仕事だからね」
神さまは枝から、ふわりと降りてきて、ミオの肩にちょこんと乗りました。
「どうして、また会えたの? わたし、もう見えなくなったと思っていたのに」
「ミオが笛を吹いたからさ。そして、きみの胸の中で、願いが響いていたから」
「わたしの願い?」
「そう。きみは今、何を願っていたんだい?」
ミオは、少し考えました。
それから、にっこりと笑いました。
「ありがとうって、伝えたかったの。ムギに。それから、神さまにも」
神さまは、ぱたぱたと橙色の耳を振りました。
「どういたしまして。でもね、ミオ。ひとつだけ、教えてあげよう」
「なあに?」
「ムギは、きみがありがとうと言う前から、きみと過ごした時間を持っていたんだよ」
神さまは、ミオのおはじきを、ちょんとつつきました。
「ほら。温かいだろう?」
ミオは、おはじきを頬に当てました。
じんわりと、優しい温もり。
それは、縁側の日なたの匂いを思い出させました。
「ほんとうだ」
ミオは、うなずきました。
「わたし、わかった気がする。聞こえなくなっても、見えなくなっても、一緒にいたことまで、なくなるわけじゃないんだね」
「そういうことさ」
神さまは、ふわふわと浮かび上がりました。
「人間には聞こえない音がある。見えない色もある。でも、それは、ないということじゃない」
「うん」
「それに、ある日、ふと気づくこともある。ずっとそこにあったものが、ようやく、きみのところまで届いたように感じる日がね」
ミオは、丘の上から町を見下ろしました。
ふもとには、おじいちゃんの家の赤い屋根。
畑の向こうには、川がきらきら光っています。
木々も、草も、空も、いつもの景色です。
けれど、ミオには、そのすべてが、少しだけ違って見えました。
「神さま。ムギは、今も、わたしのことを覚えているかな」
神さまは、すぐには答えませんでした。
やがて、優しく笑いました。
「それは、わたしにもわからない。でもね、きみがムギと過ごした時間は、確かにあった。きみがムギを好きだったことも、ムギがきみのそばにいたことも、消えたりしないんだよ」
ミオは、胸の中のおはじきを握りました。
「うん。ありがとう、神さま」
「どういたしまして」
神さまは、風の中に溶けるように、少しずつ薄くなっていきました。
最後に残ったのは、あの細く澄んだ、優しい音でした。
――ならせば、きっと、だれかが、きいている。
ミオは、犬笛を、もう一度首にかけました。
「ムギ。また来るね」
風が、ふわりとミオの背中を押しました。
丘を下りていくミオの足元から、小さな、小さな、ちりんという音がついてきました。
それは、人間の耳には聞こえない音でした。
けれどミオは、もう、聞こえないことを怖がりませんでした。
世界には、自分の知らない音がある。
自分の知らない色がある。
そして、言葉にできなくても、大切に思う気持ちがある。
ミオは、空を見上げました。
青い空の向こうに、何があるのかはわかりません。
けれど、わからないものがあるということは、世界がまだ、たくさんの不思議を残してくれているということです。
ミオは、少しだけ笑いました。
「またね、ムギ」
風が、もう一度、優しく吹きました。
その風の中に、あの夏の朝の温もりが、ほんの少しだけ混じっているような気がしました。
そして、どこか遠くで。
あるいは、ミオの胸の奥で。
――ぴい。
小さな笛の音が、鳴りました。
おしまい
あまぞん きんどる
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あとがき
この童話は、「犬笛のように、人間には聞こえない周波数がある」という一編の詩から生まれました。
世界には、わたしたちの耳にも目にも届かない、さまざまな音や光があります。
ミツバチが感じ取る紫外線の模様。
コウモリが声の反響から知る、暗闇の中の世界。
人間の感覚だけでは捉えきれないものが、自然界にはたくさん存在しています。
それらは、人間が気づく前から、ずっとそこにありました。
けれど、わたしたちは、ときどき、気づかないものを、ないもののように考えてしまいます。
声が聞こえない。
姿が見えない。
返事がない。
それだけで、何も届いていないと思ってしまうことがあります。
ミオは、老犬ムギに声を届けたいと願いました。
その願いの先にあったのは、時間を戻すことでも、別れをなくすことでもありませんでした。
ただ、もう一度、名前を呼び、呼び返してもらいたい。
その小さな願いに気づくまで、ミオは、たくさんの不思議に出会いました。
科学の世界にある量子もつれは、離れた相手に自由に言葉や気持ちを送る仕組みではありません。それでも、目に見えない関係について想像することは、物語の大切な出発点になります。
科学が明らかにしてくれる世界と、物語が思い描く世界。
その二つのあいだに、ソラミミの神さまがいてくれたら。
そんな思いを込めて、この物語を書きました。
大切な誰かと過ごした時間は、永遠には続かないかもしれません。
けれど、一緒に笑ったこと。
触れた手の温かさ。
名前を呼んだときの、あの小さな返事。
そうした記憶は、別れのあとにも、わたしたちの中に残ります。
それは、失ったものを元どおりにする魔法ではありません。
悲しみを、なかったことにする魔法でもありません。
ただ、悲しみの中に、温かいものが残っていると気づかせてくれる、小さな光なのだと思います。
もし、あなたにも、届けたい声があるのなら。
もう会えなくなった誰かに、伝えたい言葉があるのなら。
どうか、心の中で呼びかけてみてください。
返事が聞こえなくても、その時間まで、なくなるわけではありません。
そして、静かな夜に、ふと何かが聞こえたような気がしたら。
それは、ソラミミの神さまが、そっと、あいさつをしてくれたのかもしれません。

