志賀高原 時間割れ事件


【まえがき】
若い頃の失敗談というのは、歳を取るほど味わい深い酒の肴になるものです。
「あの時はバカだったな」「若気の至りだったな」と笑い飛ばすことで、私たちは少しずつ大人になり、過去の自分と折り合いをつけてきたのかもしれません。
しかし、もしもその「笑い話」の裏に、ずっと見ないふりをしてきた本当の気持ちや、置き去りにされた情熱が眠っていたとしたら――?
本作は、六十五歳になった男たちが、四十年前の青春の「未完のオチ」を回収するために奮闘する物語です。
昭和のスキーブームを経験された方にはどこか懐かしく、そうでない方にもどこか温かくクスッと笑っていただけるような作品を目指しました。
どうぞ、あたたかい飲み物でも片手に、志賀高原の銀世界へお付き合いください。




第一章 雪のない巨人
志賀高原を通れば、懐かしい場所を探してしまう。
夏の思い出はない。冬ばかりだ。
だから、雪のない志賀高原を走るのは、これが初めてだった。
一昨日、僕は草津に泊まった。温泉でゆったりして、早朝から白根を抜け、志賀高原へと降りる最短の道に入った。ここ数年、白根の火山活動で閉鎖されていた道が、全面開通になったのだ。本当に大丈夫なのか、とわずかに疑いながらも、菅平まで降りるよりずっと近いので、アクセルを踏んでいた。
六十五歳、高木賢一。独り身ではないが、今日はひとり旅。誰にも断らなくいいし、誰にも急かされない。回り道をする時間だけは、たっぷりある。
雪のない斜面を、左右に見る。
ここでは、あれがあった。そこでは、あれが起きた。あそこでは、あいつが泣いた。
思い出すのは決まって「事件」ばかりだ。時間が経って笑い話になった事件ばかりが、順番に窓の外へ並んでいく。上手くいった話など一つもない。失敗と、怪我と、それから女がらみのフラれ話。
ふと、道端に標識が見えた。
〈ジャイアント〉
ならば寄らねばなるまい。僕はハンドルを切った。
雪のない志賀高原は、記憶の中とは位置がズレていた。こんなに奥だったかな、と首をかしげながら、人影のない山道を進む。周囲の宿の駐車場には数台の車が止まっているが、人の姿はない。きっとシーズンに備えての準備中なのだろう。
突風が吹いた。小雨が、フロントガラスを斜めに叩く。
車を降りると、目の前に、それはあった。
さすがにジャイアント。名前の通りの、巨大なゲレンデだ。夏草に覆われた斜面が、空へ向かってどこまでも伸びている。
僕は下から上を見上げた。
あそこだ。
すぐに分かった。四十年前、僕が転んだ場所。
そう、いい気になって、木っ端微塵。腰を痛めて応急センターに担ぎ込まれた、あの苦い思い出の場所だ。
「まだ、あるんだなあ」
独り言をこぼし、傘もささずに斜面を登りはじめた。膝が、すでに笑っている。四十年前も笑っていたが、今の笑いは種類が違う。
十分ほど登っただろうか。息が切れて、立ち止まった。
顔を上げて、僕は固まった。
斜面の中腹、地面から三メートルほどの空中に、何かが浮いている。
人だ。
赤と黒のつなぎのスキーウェア。当時流行った、肩に蛍光の線が入ったやつ。両手を万歳の形に広げ、板をバラバラの方向に突き出し、口を大きく開けた若い男が、空中でぴたりと止まっていた。
雨粒が、その人物の周りだけ、落ちずに宙で止まっている。
僕は目をこすった。もう一度見た。
その若い男の顔は、風呂場の鏡で毎朝見る顔を、四十年前に巻き戻したものだった。
「……僕だ」
空中の僕は、「ポン!」の瞬間のまま、四十年間、そこで固まっていたのである。


第二章 空中に止まった男
まず考えたのは、熱中症ではなく低体温症だった。気温は九度。小雨。幻覚が出るにはちょうどいい。
次に考えたのは、草津の温泉に入りすぎた可能性だ。
そのどちらでもなさそうだったので、僕は仕方なく、空中の自分に話しかけた。
「おい」
返事はない。当たり前だ。口は「ポン!」の形のまま止まっている。
「おい、僕。聞こえるか。僕だ。四十年後の僕だ」
自分で言っていて、悲しくなるほど間が抜けている。
近づいて、よく見た。鼻の頭のニキビ、ゴーグルの曇り、ウェアの袖のほつれ。思い出した。このウェアは先輩から譲り受けたものだ。袖のほつれは、この日の朝、リフトの手すりに引っかけたせいだった。
そっと手を伸ばして、足首の辺りに触れてみた。
冷たくもなく、温かくもない。ただ、押しても動かない。空気そのものが固まったような感触で、触れた指先がかすかに痺れた。
その時、背後で声がした。
「触らないでください。割れますから」
振り返ると、数メートル後ろの草むらに、作業服の男が立っていた。
小柄で、年齢は不詳。四十にも八十にも見える。ヘルメットに、反射テープのついたベスト。胸には名札があり、こう書いてあった。
〈余剰時間回収局 志賀出張所 主任 ミロク〉
「……は?」
「ですから、割れます。時間が。そこは今、非常に薄くなっておりまして」
ミロクと名乗る男は、タブレットらしき板を見ながら言った。画面に、斜面の断面図のような図が映っていて、僕のいる辺りが赤く点滅している。
「高木賢一さんですね。六十五歳、男性。昭和の終わり頃、このコースで転倒、腰部を負傷。応急センターへ搬送。間違いありませんか」
「間違いありませんが、あなたは誰ですか」
「先ほど名乗りました」
「役所の人?」
「似たようなものです。ただし管轄が宇宙規模なので、お役所仕事のスケールが違います」
僕は黙った。こういう時は、黙るに限る。四十年間、いろいろ失敗してきて、学んだことの一つだ。
ミロクは咳払いをして、説明を始めた。
「簡単に申しますと。人間は、失敗した時、その時間に『悔い』という熱を残します。ところが、その失敗を後に誰かと笑い話にしますと、その熱がきれいに抜けて、時間が軽くなる。我々はこれを『笑い抜き』と呼んでおります。軽くなった時間は、回収局が引き取って、宇宙の運行燃料にさせてもらう。そういう仕組みでして」
「はあ」
「ところがあなたの場合、この転倒を笑い話にしすぎました」
「しすぎた?」
「四十年間、同じ話を、同じ仲間と、呑むたびに。『お前さ、あの女医さん、なんとかなると思ったの?』『ああ、転んだらタダでは起きないからな』。この会話、何回やりました」
「……数えたことはないですが、三百回は」
「三百十二回です」
記録が取ってあるのか。
「つまり、この場所の時間は、笑いで擦り切れて、薄くなりすぎたんです。紙を消しゴムで何度もこすれば、穴があく。それと同じ原理です」
ミロクはそこで、空中の若い僕を指した。
「穴があいたせいで、あなたの『ポン!』が、時間から抜け落ちて、そこに引っ掛かってしまった。今も落下の途中なのに、落ちられないんです」
僕は、空中の自分を見上げた。
四十年間、落ちられずにいたのか。それは、腰も痛くなるはずだ。いや、痛いのは今の腰なのだが。
「それで、どうなるんですか」
「このまま放置しますと、穴が広がります。この志賀高原で、昭和から平成にかけて起きた事件が、片っ端から時間の外へこぼれ落ちて、重なって、現在に出てきます」
「出てきたら、どうなる」
「大事件です」
ミロクは、真顔で言った。
「ひとことで言うと、志賀高原が、全盛期の人口で、全員の『あの頃』を、同時に再演します」


第三章 無線機が鳴る
僕は、ミロクを車の助手席に乗せた。他にどうしようもなかったのである。
車内でも彼は、タブレットから目を離さなかった。
「現在、穴の拡大速度は毎時二パーセント。夜までに六十パーセントを超えるでしょう。そうなると、もう私の権限では止められません」
「権限があったんですか」
「ありますとも。この名札が証拠です」
名札は、どう見ても手書きだった。
「止める方法はあるんですか」
「あります。ひとつだけ」
ミロクは、指を一本立てた。
「あなたの『ポン!』を、着地させることです。そして、四十年間未完だった、この転倒事件の『オチ』を、完成させる」
「オチ?」
「笑い話には、オチがあるでしょう。あなた方の話は、実は、オチが欠けているんです」
僕は笑ってしまった。
「いや、オチはありますよ。『転んだらタダでは起きない』」
「それはオチではありません。強がりです」
刺さった。深々と。
「本当のオチは、まだ起きていない。あなた方がずっと、笑い話に変えながら、実際には『完了していない』ことが一つある。それを、今日完了させなければならない。ただし、一人では不可能です。この事件は、当時の仲間全員の記憶に分散して保存されている。つまり」
「全員、集めろ、と」
「そうです」
「六十五歳のおじさんを? 今日中に? みんな、日本中に散らばってるんですよ?」
「手段はあります。あなた、車の中に何か、古いものを積んでいませんか」
僕は、はっとした。
後部座席の足元に、箱がある。草津に泊まる前、実家に寄った時に、押し入れから出してきて、懐かしくなって積んできたものだ。
開けると、中に黒い無線機が三台、入っていた。
あの頃、携帯電話がなかった僕らが、ゲレンデで使っていた、アマチュア無線機だ。電池はとうに切れているはずだった。
その時である。
ジジッ、という音がして、無線機のランプが、赤く灯った。
〈……こちら、通信兵。……こちら、通信兵。……ケンさん、聞こえるか〉
僕は、箱を取り落としそうになった。
通信兵。三枝のことだ。当時、無線機に異様な情熱を燃やしていた男で、リフト待ちの女性に「そこの彼女、隣りの男、ひとりもんで」と話しかける、あの伝説の仲人無線は、彼の発明だった。
〈ケンさん、今、長野の自宅にいるんだが、うちの押し入れの無線機が、勝手に鳴ってな。孫が、泣いてる。どうなってるんだ、これ〉
「三枝! 今すぐ、志賀高原のジャイアントに来い!」
〈無理だ、俺は今、ぎっくり腰で――〉
「それは、全員だ!」
ミロクが、横から小声で言った。
「無線機は、時間の穴を通って、当時の周波数に繋がっています。ここから、記憶を共有している全員に、呼びかけが届きます。ただし、使えるのは一台につき一回だけ。慎重に」
「慎重にって」
「どうぞ」
僕は、息を吸った。そして、四十年ぶりに、あの口調で言った。
「全員、聞こえるか。こちら、ケン。ジャイアントの斜面に、集合だ。理由は、行けば分かる。……いや、行っても、たぶん分からん」
無線機の向こうで、複数の声がざわついた。
〈ケン? あのケンか〉
〈ゴリだ。今、定年後のパートで、スーパーの駐車場にいる〉
〈カッパです。入れ歯が合わなくて、今、歯医者に〉
どいつも、こいつも。
僕は思わず、笑っていた。そして、笑いながら、ふと思った。
こういう時に笑ってしまうのが、もしかして、穴の原因ではないのか。


第四章 渋峠の霧
待っている間に、ミロクが、より詳しい話を聞かせてくれた。
志賀高原というのは、宇宙的にも特別な場所なのだそうだ。
十八のスキー場。八十四のコース。五十一基のゴンドラとリフト。全長十六キロ。人間が作った、巨大な施設に見えるが、実は、その設計思想には、とある古い宇宙文明の、時間貯蔵槽の仕様書が、うっすら混ざっているらしい。
「つまり、設計者のうちの一人は?」
「はい。我々の先輩です。昭和三十年代に、出張でこちらに来て、気に入って、居ついてしまいました」
「仕事しろよ」
「おっしゃる通りです。ただ、彼のおかげで、日本のスキー場の標準が決まったと、我々の間では伝わっています」
にわかには信じがたかったが、四十年前の僕が空中に止まっているのを見てしまった以上、否定する材料もない。
その時、ミロクのタブレットが、けたたましく鳴った。
画面が、真っ赤になっている。
「まずい」
「何ですか」
「渋峠の方角から、霧が来ています。あれは、ただの霧ではありません。過去の過去の、さらにその過去の霧です」
空を見上げると、峰の向こうから、白い壁のようなものが、ゆっくり、こちらへ降りてきていた。
風が、ぴたりと止んだ。
小雨の音が消え、鳥の声も消えた。そして、霧の向こうから、遠くリフトの動く音と、スピーカーから流れる、当時の流行歌が聞こえてきた。
ミロクが、小さくうめいた。
「始まりました。時間の穴から、全盛期の志賀高原が、漏れ出てきています」
霧が斜面を覆い、夏草がみるみる白く変わった。
雪だ。
十月なのに、雪が、斜面にしんしんと積もっていく。視界の端で、リフトの鉄塔が、ひとりでに立ち上がっていく。ゴンドラの小屋が、むくむくと建つ。宿の看板が、点灯する。
そして、斜面のあちこちに、人が現れはじめた。
蛍光色のウェア。大きなゴーグル。細い板。
ざっと見て、数百人。若い男女が、笑いながら、滑っている。
「昭和の終わりの、ある土曜日です。ちょうど、あなたが転倒した日の午後です。この日の志賀高原が、今、まるごと再演されています」
僕は、胸が熱くなるのを感じた。
懐かしい。あまりに、懐かしい。
ただし、懐かしがっている場合ではなかった。
その若者たちの間に、不穏なものが、混じっていたからだ。
六十五歳の、おじさんたちが。
あちこちの斜面に、ぽつり、ぽつりと、立っていたのである。


第五章 六十五歳たちの集結
最初に到着したのは、ゴリだった。
本名、剛田。通称ゴリ。現役時代は、本当にゴリラのような体格だったが、今はスーパーの駐車場整理で鍛えた、中肉中背のおじさんである。作業用のベストを着たまま、赤い誘導棒を握っていた。
「ケン! どうなってるんだ、これ!」
「俺にも、分からん」
「駐車場にいたと思ったら、車で来たはずなのに、気づいたらここにいて、周りが全員、昭和なんだよ!」
「昭和だ」
「昭和だな!」
僕らは、四十年ぶりに、がっちりと肩を組んだ。互いに少し、肉がついていた。
続いて現れたのは、カッパ。当時、頭頂部が薄かった男だが、今は、むしろ全体的に落ち着いている。歯医者から直行したらしく、口の中にまだ、ガーゼが詰まっていた。
「ふぁあ、けんふぁん」
「何言ってるか分からん」
「ふぁっふぁい、ふぁいふぇふふぁ」
「ガーゼを取れ」
さらに、車が三台、坂を登ってきた。
通信兵、三枝は、ぎっくり腰で、孫に支えられながら、杖をついて現れた。
「ケンさん、孫が、どうしてもついて行くと」
十二歳くらいの少年が、きらきらした目で、周囲を見渡している。
「じいちゃん、これ、VR?」
「違う。昔だ」
「昔って、すごい!」
少年は、昭和の志賀高原に、いたく感動していた。
他にも、メガネ、トモ、リーダー、おっさんと呼ばれていた男、サブ、そして、当時ほんの少し付き合ってすぐに別れた女性の兄、という、よく分からない人物まで集まった。呼んでもいないのに。
全員で十一人。そして、全員が、六十五歳。
全員の目の前で、斜面の中腹に、「ポン!」の形で固まった若い僕が、静かに浮いていた。
ゴリが、口をあんぐりと開けた。
「あれ、お前か」
「俺だ」
「ああ、あの日の、お前だ」
「そうだ」
「いや、あの日のお前は、もっと、体にキレがあった」
「うるさい」
皆が、思わず笑った。
その瞬間、空気が、ぐらりと揺れた。
ミロクが、悲鳴に近い声を上げた。
「笑わないでください! 笑うと、薄くなる!」
「いや、笑うなって」
「なるべく、真面目に! 深刻に! お願いします!」
六十五歳のおじさん十一人(とガーゼを咥えたカッパ)が、顔を引き締めて、直立した。
真顔のおじさん十一人が、雪の斜面に並ぶ光景は、あまりに滑稽で、全員が、同時に噴き出しそうになり、全員が、歯を食いしばった。
三枝の孫だけが、不思議そうに、言った。
「じいちゃんたち、何してるの?」
「事件の、完了を、待っている」
「事件って?」
「…………」
誰も、答えられなかった。
なぜなら、僕らは、この事件の何が未完なのか、誰も、まだ知らなかったからだ。


第六章 無線仲人、再び
作戦会議の最中に、問題が起きた。
若い方のトモが、いなくなったのである。
いや、正確に言うと、昭和の方のトモだ。今の六十五歳のトモは、隣で、ミロクの説明を、真剣に聞いていた。ところが、霧の向こうでは、若い方のトモが、リフト乗り場の前で、昭和の女性グループに、話しかけられていたのだ。
「あれ、まずくないか」
ゴリが、遠くを指さした。
「若いトモが、デレデレしてる」
「あいつは、昔から、押しに弱かった」
「いや、押しに弱いんじゃない。引きに、もっと弱い」
その時、六十五歳のトモが、突然、うめいた。
「やめろ。それは、俺の、最悪の初恋だ」
「初恋?」
「あの子、赤いウェアの子。あの子に、俺は、リフトの上で、いきなり、自作の詩を、朗読したんだ」
「詩?」
「『雪よ、君は白い。僕の心は、もっと白い。つまり、何も考えていない』」
「最悪だな」
「ああ、最悪だ。その後、リフトが止まって、三分間、その子と、ふたりで、宙吊りになった」
「地獄だ」
「地獄だ。しかも、降りてから、その子は、友達に、言ったんだ。『あの人、何も考えてないんだって』」
「本人が言ってたからな」
皆が、声を殺して笑った。
ミロクが、慌てて両手を上げた。
「笑わないで。いや、笑いたいのは分かりますが。今、事件が、増殖しています。若い方のトモさんが、あの日と同じ行動を、取ろうとしている。この再演が、完了してしまうと、穴は、さらに広がります」
「止めに行くしかないな」
「ええ。ただし、直接接触は、危険です。過去の人間に触れると、時間が、割れます」
「割れる」
「はい」
「じゃあ、どうやって」
ミロクが、黙って、三枝を見た。
三枝は、首から下げた無線機を、握りしめた。
「……まさか」
「そうです。あなたの、無線仲人です」
三枝の目が、四十年ぶりに、ぎらりと光った。
「やっていいのか」
「お願いします。ただし、今回は、仲人ではなく、妨害です」
「妨害!」
三枝は、無線機を、口元に当てた。
「あー、あー。こちら、通信兵。昭和六十三年の、リフト乗り場の、赤いウェアの、お嬢さんへ。聞こえますか」
霧の向こうで、赤いウェアの女の子が、振り返った。
腰のあたりで、無線機の受信ランプが、点滅していた。当時の彼女も、友達の遊びで、無線機を借りていたのだ。
〈……はい?〉
「そちらの隣の、男性、トモ。悪い男では、ありません。ただ」
〈ただ?〉
「詩の才能は、ありません」
〈……そうなんですか〉
「はい。ですので、詩を朗読し始めたら、すぐ、リフトを降りてください。降りて、ホットココアを、飲んで、帰ってください」
霧の向こうで、赤い女の子が、くすりと笑った。
若いトモは、キョトンとしている。
〈わかりました。ありがとうございます、通信兵さん〉
「いえいえ。それが、私の、仕事です」
三枝が、無線機を下ろした。
全員が、固唾をのんで、見守った。
若いトモと、赤い女の子が、リフトに乗った。
一分後。
リフトの上で、若いトモが、口を開く気配があった。
が、その瞬間、女の子が、にこやかに言った。
「あの、詩は、いりません。ココア、飲みに行きませんか」
若いトモは、目をまん丸にした。
それから、おずおずと、頷いた。
六十五歳のトモは、膝から崩れ落ちた。
「……俺の、四十年間の、トラウマが」
「解消したな」
「いや、待て。俺、ココアに誘われたことなんか、一度もなかった」
「今、できたんだ」
「ずるい」
「ずるくない。上書きされたんだ」
ミロクが、タブレットを見て、頷いた。
「穴の拡大、一時停止。素晴らしい、無線仲人です」
三枝は、胸を張った。
「俺はな、四十年前から、こうなると思ってたんだ」
「嘘つけ」
三枝の孫が、尊敬の眼差しで、祖父を見上げていた。
こうして、僕らは、思いがけず、四十年前の青春の、いくつかを、書き換えることになった。
ただ、それは、まだ、序の口だった。


第七章 十八のスキー場
ミロクが、咳払いをして、作戦を発表した。
「時間の穴を塞ぐには、あなた方の記憶の中の『未完の部分』を、実際に、現在の志賀高原で、やり直していただく必要があります」
「やり直す?」
「あの日の、あなた方の行動を、一から、全部です」
僕らは、顔を見合わせた。
あの日。
それは、ある日の朝、僕らが、宿を出る時、決意したことから始まる。
ジャイアントを含む、志賀高原の全スキー場、全コースを、一日で周りきれば、記念バッジと賞品がもらえる。そう聞いて、朝一番から、急ぎ足で滑りはじめた。
十八のスキー場。八十四のコース。五十一基のリフト。距離にして十六キロ。
不可能とも言われた挑戦。
そして、あの日、僕は、途中で、転んだのだ。
賞品は、もらえなかった。
ミロクは、静かに言った。
「あの日の挑戦が、未完のまま、時間に残りました。それが、穴の本当の原因です。あなた方は、あの転倒を笑い話にして、本当は、完了していない挑戦を、見ないふりをしてきたんです」
誰も、何も、言わなかった。
あまりに、図星だったからだ。
最初に口を開いたのは、ゴリだった。
「……やるのか。今から」
「六十五歳だぞ」
「膝が」
「腰が」
「入れ歯が」
「ふぁいふぁふぇふふぁ(俺もやる)」
カッパは、少し静かにしていてほしい。
その時、斜面の上から、若い声が降ってきた。
「あ、おじさんたち、あの日の人たちだ!」
見上げると、昭和の若者の集団の中から、一人の青年が、こちらに手を振っていた。僕らと、同じ顔をしていた。
四十年前の、ゴリだった。
そして、その隣に、四十年前の、カッパ。通信兵。メガネ。トモ。みんな、いた。
若い僕らが、今の僕らを、見つけたのだ。
「おじさんたち、俺らに似てるなあ! 親戚?」
そう言って、若い僕らは、げらげらと笑った。
老いた僕らは、顔を見合わせた。
一瞬の静けさのあと、ゴリが、ぼそりと言った。
「……俺ら、あんなに、バカだったか」
「ああ。あんなにバカだった」
「そして、あんなに、元気だった」
「そうだな」
その言葉で、何かが決まった。
全員が、板を取りに、車へ走った。走ったと言っても、小走りだった。
ミロクが、慌てた。
「あの、本当にやるんですか。体は、六十五歳のままですよ」
「だが」
ゴリが、誘導棒を、雪に突き刺した。
「あの時の俺たちには、できなかった」
「当たり前です。不可能と言われていましたから」
「だったら、今の俺たちが、やる。今の俺たちには、時間がない。体力もない。だから、大凡を数えて、言う。そろそろ、行かねば、やらねば、と思っていたところだ」
僕は、息を呑んだ。
それは、トモのあの詩の、まさかの原形(まともなバージョン)だったからだ。
残りの持ち時間。残りの体力。
僕らは、もう、そのことを、うすうす分かっていた。
そして今日、それが、動き出す理由に、変わったのだ。


第八章 全コース、一日で
スタートは、午後二時だった。
六十五歳が、昭和の志賀高原を、日没までに全部滑りきる。普通に考えて、無理がある。
だが、ミロクが、一つだけ、局の権限で特別ルールを適用してくれた。
「時間の穴の影響で、隣接するコース同士が短縮接続されています。さらに回収局の特権により、ゴンドラとリフトの待ち時間はゼロ、移動速度は三倍とします」
「お、SFお役所仕事、助かる!」
「ただし、設備自体は全て昭和の仕様ですので」
「昭和の仕様?」
その意味は、すぐに分かった。
第一リフトに乗る。
ガタン。
途中で、止まる。
速度が三倍になろうと、途中で三分止まる仕様までそのまま再現されていた。
風が冷たい。昭和のリフトは、ベンチに安全バーがない。落ちたら、落ちるだけだ。
「うわあああ、思い出した、この恐怖!」
「トモ、お前、あの時も、泣いてたな」
「泣いてない!」
「泣いてた」
泣き笑いしながら、一本目のコースを降りた。
二本目。三本目。
短縮されたコースを次々と滑るうち、むくむくと記憶が蘇ってきた。体が、覚えているのだ。ターンの感覚。膝の沈み込み。板の鳴る音。
不思議なことに、膝が、笑わなくなってきた。
笑うのは、顔だけだった。
十本目のコースで、メガネが、遅れはじめた。
「悪い、先に行ってくれ」
「馬鹿言うな」
ゴリが、メガネの腕を取った。
「お前をおいて行って、あとで、呑んで、何て話すんだ。『あの日、メガネは途中でリタイアした』って、笑い話にするのか」
「……」
「そんな話は、嫌なんだよ。今度のは、全員で完走した、って話にしたいんだ」
メガネが、涙目になった。
皆が、無言で、メガネを囲んだ。
ミロクが、離れたところで、鼻をすすっていた。
「失礼。目に、雪が」
「宇宙人が、泣くな」
そこへ、三枝の孫が、駆けてきた。
「じいちゃん! 僕、無線機の係をやる!」
見ると、少年の首に、あの黒い無線機が、ぶら下がっていた。十二歳の少年が、昭和の無線機を、きらきらした目でいじっている。
〈こちら、孫通信兵。ケンさんたち、次は、第八コース。急な斜面だよ。気をつけてね〉
「孫の無線、頼もしいな」
「だろ。血だ」
三枝が、杖をつきながら、誇らしげに頷いた。
十二本目。十八本目。二十五本目。
時間が圧縮されているとはいえ、確実に日が傾いてきた。
霧の向こうの空が、夕焼けの色に染まる。
それでも、僕らは、滑り続けた。
そして、四十六本目の、コブだらけの急斜面で、ゴリが、叫んだ。
「ケン! 見ろ!」
指さす先に、見覚えのある、小さなコブがあった。
あの日、僕を空中へ弾き飛ばした、あの、ちっぽけなコブだ。
そして、斜面の上には、二人の僕がいた。
空中に止まった、若い僕。
そして、その手前に、息を切らして、膝に手をつく、老いた僕。
夕焼けが、二人の間を、赤く染めていた。


第九章 渋峠、濃霧区間
四十六本目を目前にして、最大の難所が、現れた。
渋峠の、濃霧区間だ。
志賀高原の、最も奥の、標高の高い区間。ここの霧は、昭和の頃から有名で、「前の人の背中が見えない」「自分の板の先が見えない」「実はみんな、同じコースをぐるぐる回っている」と、噂されていた。
霧の中に入った途端、ミロクが、真剣な顔で言った。
「ここからは、時間の穴の、いちばん深いところです。昭和だけでなく、平成も、令和も、全部、混ざっています」
「混ざってる?」
「はい。たとえば」
ミロクが、指をさした。
霧の向こうから、スノーボードを抱えた、金髪の若者が、ふらふらと歩いてきた。ヘッドホンをして、スマホを見ながら、鼻歌を歌っている。
「あれは、平成の、末期ですね」
「スノーボード、ってやつか。当時は、まだ、珍しかったな」
その後ろから、今度は、紙の地図を広げた、昭和初期らしき男。
その後ろから、全身タイツに、ヘルメットをつけた、近未来風の誰か。
「あれは?」
「令和の、さらに先の、おそらく、二千何十年かの」
「未来まで、混ざってるのか!」
全員が、あんぐりと口を開けた。
近未来のスキーヤーが、浮遊するスキー板に乗って、すっと僕らの横を通り過ぎていった。
すれ違いざま、彼は、僕に向かって、手を挙げた。
「やあ。いい板だね」
「ど、どうも」
「昭和の、木の板? 本物? すごいなあ。博物館でしか見たことない」
返事をする前に、彼は、霧の中へ消えていった。
僕は、自分の板を、まじまじと見た。
確かに、年季が入っている。
「俺たち、もう、博物館なんだな」
「展示物だ」
「『触れないでください』って札が、立つな」
「ふぁいふぁふぇ(お触り厳禁だ)」
カッパは、まだ、ガーゼを、取っていなかった。
霧は、さらに濃くなった。
隣の人の顔すら、見えない。ゴリの赤い誘導棒だけが、ぼんやり光っていた。
「みんな、はぐれるな。無線で、声を掛け合おう」
三枝の孫が、無線機に向かって、叫んだ。
〈こちら、孫通信兵。全員、点呼します。ケンさん〉
「はい」
〈ゴリさん〉
「はい」
〈カッパさん〉
「ふぁい」
〈メガネさん〉
「はい」
〈トモさん……は、今、昭和でココアを飲んでるから、パス。サブさん〉
「はい」
〈リーダーさん〉
「はい」
〈おっさんさん〉
「おっさんさん、って、何だ」
〈ええと、おっさん、さん〉
「略すな、略すな」
〈……じいちゃん〉
「はいはい」
〈知らない、女性の兄さん〉
「え、俺も、点呼に入ってるの」
全員が、揃ったところで、僕らは、再び、前に進んだ。
霧の中を歩きながら、僕は、ふと、気づいた。
四十年前も、この霧の中で、僕らは、こうやって、声を掛け合っていた。
寒くて、前が見えなくて、疲れ果てて。それでも、声だけは、絶やさなかった。
それが、こんなに温かいことだったと、今になって、初めて、分かった。
若い頃は、それが、当たり前だと思っていたのだ。
霧の向こうで、ゴリの誘導棒が、ぼんやりと光る。
その後ろを、僕らは、ひとりずつ、ついていった。


第十章 監査官、来たる
山小屋を出ようとしたところで、ミロクのタブレットが、ピロリロ、と、間の抜けた音を立てた。
画面を見たミロクの顔が、みるみる青ざめていく。
「まずい」
「また、まずいんですか」
「本局から、監査が来ます」
「監査?」
「はい。穴の拡大は、重大事案です。現場の判断で処理した場合、事後報告書と、始末書と、再発防止策と、関係者全員の署名が必要になります」
「宇宙規模なのに、書類仕事なんですか」
「宇宙規模だからこそ、書類仕事なんです」
言い終わらないうちに、山小屋の扉が、バン、と開いた。
入ってきたのは、スーツ姿の、小柄な女性だった。
ヒールで雪を踏んで、書類カバンを抱え、眼鏡をきらりと光らせている。胸の名札には、〈本局 監査課 課長 ヨシノ〉とあった。
「ミロク主任」
「は、はい」
「状況を、五分で、説明してください」
ミロクは、直立不動で、しどろもどろに説明した。
ヨシノ課長は、すべて聞き終えると、ペンを走らせながら、冷たく言った。
「つまり、あなたは、地球人の、六十五歳十一名に、時間の穴の修復を、依頼したと」
「は、はい」
「その、誰かの承認は」
「いえ、事後承認の予定で」
「前例は」
「ありません」
「ありません、で済むと思いますか」
僕らは、固唾を呑んで、見守った。
宇宙人が、お役所に怒られている。
しかも、その怒られ方が、定年前の、うちの会社の上司の怒られ方と、そっくりだった。
「あの」
僕は、おそるおそる、口を挟んだ。
「課長さん。僕らが、勝手に、お願いされたんです。ミロクさんは、悪くありません」
「あなたは」
「高木です。六十五歳。腰が、痛いです」
ヨシノ課長は、眼鏡を、くいと上げた。
「腰が、痛いのは、規定で、治せません」
「そこは、いいんです。治さなくて」
「では、何がお望みですか」
「時間の穴を、塞がせてください。今日、今から」
ヨシノ課長は、しばらく、僕の顔を見つめた。
それから、書類カバンから、一枚の紙を、取り出した。
「では、こちらに、署名を」
「あ、はい」
紙には、びっしりと、小さな字が並んでいた。
僕は、読むのを、諦めた。
老眼が、限界だったのだ。
「じゃ、ここに」
署名しようとした瞬間、ゴリが、僕の手を止めた。
「待て、ケン。そういう時は、必ず、全部、読め」
「老眼で」
「俺が読む」
ゴリが、紙を受け取り、目を細めて、読んだ。
消えそうな字を指でなぞり、三秒で、顔色が変わった。
「ケン。これ、署名したら、俺たち、来世も、ここで、働くことになる」
「え」
「第十七条。『本契約に署名した者は、次回以降の人生においても、志賀出張所の臨時職員として、勤務するものとする』」
「詐欺じゃないか!」
ヨシノ課長は、しれっと、答えた。
「規定です」
「規定でも、詐欺は、詐欺だ」
ミロクが、頭を抱えた。
「課長、それは、さすがに」
「あなた、黙って」
「はい」
その時、圧雪車が、ブォォォ、と、重く鳴いた。
「ヨシノ」
「はい、先輩」
「その条項、六十年前に、私が、サインさせられたやつだな」
「…………」
「いまだに、更新されてないのか」
「…………」
「改正しなさい。さもなくば」
圧雪車の、巨大な無限軌道が、ヨシノ課長の、書類カバンの上に、ゆっくりと、乗った。
カバンが、ギシ、と鳴った。
ヨシノ課長は、一瞬で、ビジネス用の笑顔になった。
「そうですね。時代に即して、改正を、検討いたします」
「いつまでに」
「え、ええと、来年度中に」
「今、この場で」
「…………では、第十七条を、削除、ということで」
僕らは、拍手した。
宇宙のお役所仕事が、圧雪車によって、即座に改正された瞬間だった。
その後、まともな契約書に署名を終え、僕らは、山小屋を出た。
ヨシノ課長は、ぷいっと横を向いたまま、小さな声で、言った。
「……ご協力、感謝します」
「いえいえ」
「あと、腰、お大事に」
「ありがとうございます」
ツンとした彼女の、耳が、わずかに赤かった。


第十一章 圧雪車は語る
四十五本目と、四十六本目の間に、休憩所があった。
昭和の、小さな山小屋だ。薪ストーブの上に、やかんが、しゅんしゅんと音を立てている。
僕らは、冷えた体を温めようと、中へ入った。
ところが、先客がいた。
一台の、圧雪車だった。
赤い、巨大な、無限軌道の車が、山小屋の中に、堂々と鎮座していたのだ。
「……これ、入れるのか」
「入ってるな」
ミロクが、軽く頭を下げた。
「ご無沙汰しております、先輩」
「先輩?」
僕らが、ぎょっとして、圧雪車を見ると、運転席の窓が、ゆっくり開いた。
中には、誰もいない。ただ、スピーカーから、渋い、低い声が聞こえてきた。
「おう、ミロクか。ずいぶん、手こずってるな」
「申し訳ありません。大事件になってしまいまして」
「だろうな。穴が、開きすぎだ」
圧雪車は、のそのそと、こちらに向き直った。
ミロクが、僕らに耳打ちした。
「あの方こそが、昭和三十年代に、こちらに出張してきて、居ついてしまった、設計者の先輩です」
「あの、仕事しなかった?」
「ええ。ただ、今は、圧雪車として、斜面を整えています。本人は、天職だと」
圧雪車は、僕を、見た。
目はないのに、見られている感覚があった。
「お前が、高木賢一か」
「は、はい」
「四十年、同じ話を、繰り返したな」
「面目ない」
「いや、責めてるんじゃない。私も、同じだ」
「え?」
「私も、この斜面を、毎晩、同じように、整えてきた。四十年どころか、六十年だ。そのたびに、思う。今日も、同じ雪だな、と。でも、毎朝、違う人間が、同じ雪を、滑っていく」
圧雪車は、のそり、と、前へ出た。
「同じ話を、何度もする。それは、悪いことじゃない。同じ斜面を、何度も整えるのと、同じだ」
「でも、そのせいで、穴が」
「そう、穴が、あいた。だが、穴は、塞げる。塞げば、また、整えられる」
圧雪車は、そこで、少し、黙った。
「ひとつ、頼みがある」
「何でしょう」
「四十六本目の、コブ。あれを、整えてやってくれ」
「整える?」
「あの日、お前を弾いたコブは、誰かが、整えなかったから、できたものだ。誰かの、不注意だ。それが、私の、四十年前の、ミスだ」
僕は、息を呑んだ。
「圧雪車の運転手が、居眠りした、あの晩の」
「そうだ。私が、あの夜、眠ってしまった。だから、コブが、残った。お前が、跳ぶことになった」
しばらく、誰も、口を開かなかった。
やがて、ゴリが、ぽつりと言った。
「つまり、全ての元凶は」
「圧雪車だったのか」
「圧雪車だった」
圧雪車は、悲しそうに、ブオ、と鳴いた。
「すまなかった」
「いえ」
僕は、首を横に振った。
「でも、あのコブがなければ、俺は、あの女医さんに、会えなかった。今日、この日にも、辿り着けなかった」
「……そうか」
「ありがとうございます。圧雪車さん」
圧雪車は、しばらく、動かなかった。
やがて、スピーカーから、小さな嗚咽が、聞こえてきた。
「……うう」
「ど、どうしました」
「いや、すまん。六十年間、誰にも、礼を言われたことがなくてな」
僕らは、全員で、圧雪車の、ボディを、撫でた。
冷たい鉄の、温かい感触が、手のひらに残った。


第十二章 ポン!
残りは、コース三十八本。
いや、実際には、あと一本で全部だった。時間の圧縮と仲間たちの協力で、僕らはほぼ全てのコースを駆け抜けていた。あの日の僕らが、転倒して、四十六本目で止まってしまったから、「四十六本目の、そのコブから先」が、ずっと、未完だったのだ。
ミロクが、説明した。
「あなたの『ポン!』が、着地して、そこから、残りのコースを、完走する。それが、四十年越しの、オチです」
「つまり」
「あなたが、今日の若い自分の代わりに、あのコブを、跳んでください」
「六十五歳で?」
「はい」
「腰が」
「はい」
「普通に、危なくないですか」
「危ないです」
ミロクは、きっぱりと言った。
「ですが、他に方法がありません」
僕は、ゴーグルを下げた。
若い僕の、止まった顔を、もう一度見た。
口が、「ポン!」の形のまま、開いている。
その顔は、驚いているように見えたが、よく見ると、全身で風を切って笑っていた。
あの時の僕は、転ぶ瞬間まで、夢中で、楽しかったのだ。
それに気がついた時、僕の中で何かがほどけていくのを感じた。
失敗した。怪我をした。ダサかった。格好悪かった。
だから四十年間、仲間と呑むたびに「バカな失敗談」として笑い飛ばし、あの日の自分の情けなさを、恥ずかしさで塗りつぶしてきた。
でも、本当は違った。
あの日の僕は、ただ必死に、滑ることが楽しくて、仲間と笑い合っている時間が愛おしかったのだ。失敗を笑う必要なんて、最初からなかった。一生懸命だったあの日の自分を、認めてやればよかったのだ。
「行ってくる」
そう言って、僕は、コブへ向かって、滑り出した。
背後で、全員が、息を呑む気配がした。
「ケーン!」
「頑張れー!」
「腰ー!」
「ふぁいふぁふぇー(怪我すんなよー)!」
風が、耳元で激しく鳴る。
雪面が、足元を走る。
コブが、近づく。
あの日と、同じ角度で。
あの日と、同じ速度で。
体は、全てを覚えていた。
そして、僕は、跳んだ。
ポン!
空が、ひらけた。
視界いっぱいに、夕焼けと、雪と、下で見守る愛すべき仲間たちが、見えた。
そして、すぐ目の前に、止まっていた若い僕が、いた。
一瞬、空中ですれ違った。
若い僕が、動いた。
口が、「ポン!」の形から、にやりと、ほころんだ。
若い僕と、老いた僕が、空中で、しっかりと目を合わせた。
若い僕が、言った。
「おじさん、ありがとう。続き、頼んだ」
その声は、確かに、四十年ぶん若い、僕の声だった。
次の瞬間、若い僕は、眩しい光になって消えた。
残された僕は、そのまま、重力に従って、落ちた。
着地は――見事だった。
いや、嘘だ。見事なわけがない。
派手に尻から、いった。
ボフッ、と雪に埋まった僕の周りを、仲間たちが、笑いながら囲んだ。
「生きてるか」
「生きてる」
「腰は」
「完全に、死んだ」
「お前、転んでも、タダでは起きんな」
「……起きるよ、タダで」
大爆笑が、夕焼けのゲレンデに響き渡った。
その瞬間、僕は、ミロクを見た。ミロクは、慌てて首を横に振った。
「だめです! 笑っては――」
しかし、タブレットを見たミロクの手が止まった。画面の赤い点滅が、静かに鮮やかな青に変わっていく。
「あ……」
「ミロクさん、穴は?」
「塞がりつつあります。今の笑いは、『未練』や『悔い』ではなく、『やり遂げた達成感』の笑いですから……時間が削れません」
周囲を見渡すと、斜面に積もった雪が、少しずつ、解けはじめていた。昭和の若者たちが、薄れていく。笑顔のまま、僕らに手を振りながら。
四十年前のゴリが、こちらに、親指を立てた。
僕らは、胸を張って、手を振り返した。
夕暮れの風とともに、霧が、綺麗に晴れていく。


第十三章 応急センター
全てが消えた後、残っていたのは、夏草の斜面と、小雨と、夕暮れと、十一人の六十五歳と、一人の宇宙人と、一人の孫だった。
僕は、尻を雪の代わりに、濡れた草の上に落としたまま、動けなかった。
腰が、本格的に、やられていたのだ。
「担架!」
誰かが叫んだ。
すると、ジャイアントの麓の、ひっそりした建物から、白衣を着た誰かが、駆けてきた。
応急センターだ。
四十年前から、あの場所に、ずっとあったのだが、今日は誰も、気づいていなかった。
駆けてきたのは、一人の女性だった。
白髪まじりの髪を、後ろでまとめている。ざっと見て、六十代の半ば。凛とした目つき。
彼女は、僕の前にしゃがみ込み、腰を、ぎゅっと押した。
「ここ、痛い?」
「ぎゃあ」
「ここは?」
「ひぎい」
「典型的な、ぎっくり腰ね。昔と、全く同じ場所」
「昔と、同じ?」
僕は、彼女の顔を見た。
そして、思わず、声を上げた。
「……先生?」
彼女は、くすりと笑った。
「やっと気づいた。四十年ぶりね、高木さん」
応急センターの、あの、綺麗な女医さん。
僕らが、四十年間、呑むたびに、話題にしてきた、あの女医さん。
なんとかしたいが、なんともならなかった、あの人が、今、僕の目の前にいる。
「どうして、ここに」
「私、先月、定年したの。で、せっかくだから、最後に、ここに戻ってきたのよ。もう、スキー場は閉鎖されたはずなんだけど、何かしら、呼ばれた気がして」
彼女は、ミロクを一瞥した。
「あなたでしょう。局の、出張所の」
「お久しぶりです、白石先生」
「知り合い?」
僕らが、驚いて尋ねると、白石先生は、あっさり答えた。
「ええ。私、回収局の、地球駐在医よ。もう、四十年来の」
僕らは、息を止めた。
ゴリが、うめいた。
「つまり、お前、あの時、なんとかなると思ってた女医さんは」
「そう、宇宙人だった」
「宇宙人……」
「正確には、地球生まれの、地球育ち。ただ、局に、籍を置いてるだけ。まあ、アルバイトみたいなものね」
「アルバイト……」
ゴリは、遠い目をした。
「俺は、宇宙人に、ナンパしようとしてたのか」
「しようとしてたの?」
「……少し」
「かなり」
先生は、愉快そうに笑った。
「あの時、私、ちゃんと気づいてたわよ。担ぎ込まれた若い高木さんが、腰が痛いのに、診察台の上から、電話番号を聞こうとしてたの」
「そ、そんなことまで、覚えてるんですか」
「お仕事柄ね。時間の記録は、全部残ってるから」
彼女は、白衣のポケットから、小さなメモ用紙を、取り出した。
紙は、四十年分、黄ばんでいた。
そこには、見覚えのある、乱暴な数字が書かれていた。
僕の、若い頃の、電話番号だった。
「これね、あなたが、あの時、渡してくれたの。覚えてる?」
「……覚えてます」
「私も、ずっと、取っておいたのよ。あなたが書いて、渡して、私が受け取って、ここまで。でも」
彼女は、少し間を置いた。
「連絡は、しなかった」
「……どうして」
「だって、あなた、そのあと応急センターを出てすぐに、友達と『あの女医さん、脈なさそうだからダメならあっちの子にするか』って笑い合ってたでしょう。で、その後の失敗も、別の女の子にフラれた話も、全部笑い話にして、呑み屋でネタにしてた。その時、思ったの。ああ、この人は、自分の失敗も、大切な気持ちも、全部笑い話にしてごまかしちゃう人なんだなって」
「それは……」
「そういう人と付き合うのは、少し怖かったのよ。私の存在や失敗まで、呑み屋の軽い笑い話にされそうで」
僕は、何も言えなかった。
なんとかしたいが、なんともならない。
その理由が、四十年越しに、判明した。
そして、それは、他でもない、カッコつけてばかりいた僕自身のせいだったのだ。
先生は、優しく微笑んで言った。
「でも、今日の高木さんは、違ったわね。笑い話にごまかさないで、ちゃんと跳んだ。ちゃんと落ちた」
「尻から、ですけど」
「そこも、ちゃんと含めて」
先生は、僕の腰に、湿布を貼ってくれた。
冷たかった。そして、少し、温かかった。


第十四章 六十五歳
その夜、僕らは、麓の宿で呑んだ。
不思議なことに、宿は、開いていた。昭和の宿が、まるごと、そのまま、復活していたのである。ミロクによれば、「サービス」だそうだ。
呑みはじめて、一時間もしないうちに、ゴリが、言い出した。
「なあ、あの日の話、今、しようぜ」
「あの日?」
「転んだ日」
僕らは、一瞬、黙った。
今まで、何百回と話してきた話だ。
ただ、今日は、少し違う。
誰かが、言った。
「でも、笑っていいのか」
「笑ったらまた、穴があくんじゃないか」
皆が、ミロクを見た。
ミロクは、焼酎のお湯割りを、ちびちびと飲みながら、静かに言った。
「穴は、塞がりました。もう、笑っても、大丈夫です」
「本当か」
「ええ。ただし」
「ただし?」
「笑い話の最後に、必ず、一言、付け加えてください」
「何を」
ミロクは、グラスを、置いた。
「『でも、あの時、楽しかった』と」
皆が、黙り込んだ。
それは、たった、七文字の言葉だった。
でも、その七文字を、僕らは、四十年間、一度も言ってこなかった。
笑い話の最後に、僕らが言ってきたのは、「バカだったな」「しょうがねえな」「若かったな」。
一度も、「楽しかった」とは、言わなかった。
恥ずかしかったのだ。
男は、いつまで経っても、そういう生き物だ。
僕が、先に、口を開いた。
「あの日の、転倒の話をする」
「おう」
「あの日、俺は、ジャイアントで、いい気になって、コブに引っ掛かって、ポン!と空を舞った」
「ああ」
「ポールは、どこ?板は、どこ?身体は、ここ。そう言いながら、止まることなく、下へ流れ落ちた」
「おお」
「担ぎ込まれた応急センターには、綺麗な女医さんがいて」
「出た」
「なんとかしたいが、なんともならなかった」
「出た出た」
「そんなバカな思い出ばかりだ」
皆が、笑った。
僕は、一呼吸おいて、言った。
「でも、あの時、楽しかった」
その瞬間。
宿の中が、しん、と静まった。
誰も、笑わなかった。
ゴリが、天井を見上げて、鼻をすすった。
メガネが、眼鏡を外して、拭いた。
カッパが、ガーゼを、取った。
「……楽しかったなあ」
そのひと言が、部屋に、ぽつんと、落ちた。
三枝の孫が、不思議そうに、言った。
「じいちゃんたち、また、変な顔してる」
「大人はな、たまに、変な顔になるんだ」
「どうして?」
「年を取ると、昔のことを、思い出す時に、顔が、勝手に動くんだ」
孫は、少し考えてから、言った。
「いいなあ。僕も、大人になったら、そんな顔、したい」
それを聞いて、また、誰かが、鼻をすすった。
白石先生が、僕の隣に、座った。
彼女は、グラスを、軽く掲げた。
「高木さん」
「はい」
「来月から、時間、あるのよ」
「……はい」
「志賀高原、また、来ない? 今度は、雪の季節に」
僕は、一瞬、言葉に詰まった。
腰は、痛い。膝は、笑っている。持ち時間も、体力も、先が見えている。
でも。
「行きます。ただ」
「ただ?」
「次は、ゆっくり、滑ります」
「それが、いいわ」
先生は、微笑んだ。
その時、窓の外で、何かが、きらりと光った。
見ると、霧が晴れた夜空に、星が、一つ、流れた。
ミロクが、小さく、敬礼した。
「本日の回収量は、過去最高でした。本当に、ありがとうございました」
「何に使うんですか、その、回収した時間」
「宇宙の運行燃料に、なります。ただし、ごく一部ですが」
「残りは?」
「残りは」
ミロクは、少し、照れたように、笑った。
「あなた方に、お返しします。今日の、六十五歳たちの、残りの持ち時間に、少しだけ、足しておきました」
「……足した?」
「ええ。五年ほど」
「五年!」
全員が、立ち上がった。
「ただし、腰は、治りません」
「そこは治せよ!」
「規定により」
笑い声が、再び、宿に響いた。
今度は、穴は、あかなかった。
翌朝、僕は、ひとりで、ジャイアントの斜面を、見上げた。
夏草の斜面に、雪は、なかった。
空中にも、何も、いなかった。
ただ、風が吹いて、遠くに、山の稜線が、くっきりと見えた。
渋峠の方から、冷たい空気が、降りてくる。日中は九度。夜は三度。志賀高原は、足早に、スキー場へと、変わりはじめている。
もうすぐ、若者たちが、今年もまた、やってくる。
それぞれが、それぞれの想いを、残していく。
そして彼らも、いつか、六十五になった頃、こうして、懐かしくも、振り返るのだろう。
上手くいった話など、ほとんどなく、失敗と、怪我と、フラれた話ばかりを。
僕は、斜面に向かって、ひとこと、言った。
「でも、楽しかったぞ」
風が、ふっと、強くなった。
その風の中に、若い声が、混じっていた気がした。
――おじさん、続き、頼んだ。
僕は、頷いた。
「ああ。続きは、冬にやる」
腰に貼られた湿布が、朝の冷気で、ひんやりと冷たかった。
そして、それは、少しだけ、温かかった。


終章 冬
そして、冬が来た。
僕らは、本当に、志賀高原に集まった。
十一人の六十五歳と、ヨシノ課長(なぜか、正式な有給休暇で参加)と、ミロクと、三枝の孫と、元・女性の兄と、白石先生。
圧雪車は、夜のうちに、完璧に、斜面を整えてくれていた。
ジャイアントのゲレンデは、まっさらな新雪で、朝日を受けて、きらきらと光っていた。
四十六本目のコブは、きれいに、均されていた。
「あれ、ない」
「ない」
「寂しいな」
「少し」
ゴリが、ぽつりと言った。
「あのコブ、ちょっとだけ、残しておいてくれても、よかったのにな」
その時、圧雪車の、スピーカーから、声が聞こえた。
「残してある」
「え」
「ほら、そこ」
見ると、斜面の端に、小さな、ほんの、五センチほどの、盛り上がりが、あった。
「それが、あのコブの、記念だ。誰も、転ばない大きさにしておいた」
「…………」
「ただし、これを、跳べるのは、お前たちだけだ」
僕らは、顔を見合わせて、笑った。
誰かが、言った。
「じゃ、みんなで、跳ぶか」
「いいね」
「ポン! って」
「いや、ポン、は、もう、勘弁してくれ」
十一人の六十五歳が、一列に並んで、その五センチを、順番に、跳んだ。
ぴょん。
ぴょん。
ぴょん。
誰も、飛ばなかった。
誰も、転ばなかった。
ただ、全員が、ぴょん、と、ほんの少し、浮いただけだった。
それが、おかしくて、そして、嬉しくて、僕らは、腹を抱えて、笑った。
笑い話のあとに、僕らは、みんなで、声を合わせた。
「でも、楽しかった!」
その声は、新雪の斜面に、どこまでも、響いていった。
麓のリフトが、動きはじめた。
若者たちの、にぎやかな声が、近づいてくる。
僕は、白石先生と、並んで、ゆっくり、滑り出した。
彼女は、年のわりに、ずっと上手かった。
「高木さん、遅い」
「ゆっくり、って約束です」
「それは、ゆっくりすぎ」
「腰が」
「それは、規定で、治せません」
「ひどい」
彼女が、笑った。
その笑顔は、四十年前に、見たものと、全く、同じだった。
いや、少し、違った。
目尻の皺が、増えていた。そして、その分だけ、ずっと温かかった。
冷たい風が、顔に当たる。
雪面が、足元を走る。
僕は、少しだけ、速度を上げた。
ほんの、少しだけ。
もう、ポン、とは、跳ばない。
その代わり、先生のとなりを、同じ速さで、滑る。
そして、僕は、心の中で、そっと、つぶやいた。
――続きは、まだ、これからだ。
志賀高原の空は、どこまでも青く、高かった。
(了)

アマゾン キンドル

アマゾン キンドル

アマゾン キンドル



【あとがき】
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
歳を重ねるにつれ、「昔はよかった」「若い頃に戻りたい」と思う瞬間があるかもしれません。ですが、どんなに格好悪く失敗した過去であっても、一生懸命に生きていたその瞬間は確かに「楽しかった」のだと認めてあげることで、今の自分をも愛せるようになるのではないか――そんな想いを込めて書き上げた作品です。
作中に登場したジャイアントコースや渋峠など、志賀高原の美しい風景が、読者の皆様の心に少しでも残れば幸いです。
またどこかの雪山、あるいは居酒屋の片隅で、彼らのような愉快で愛おしいおじさんたちが出会えますように。