六十五の窓
―― 一茶の土蔵にて ――
まえがき
信州柏原の地で、俳人・小林一茶は六十五年の生涯を閉じた。
人が六十五という年齢を迎えたとき、生と死、かつて語られなかった言葉の行き交う境界に、静かにひとつだけ「窓」が開くという。
本作は、亡き祖父と同じ六十五歳を迎えた一人の男が、信州の秋深い風土の中で「言葉にならなかった思い」と巡り逢い、静かな救いと再生を見出す物語です。
第一章 墓前
八月も終わりに近い朝、僕は母方の墓の前に立っていた。
蝉の声はもう盛りを過ぎて、ところどころで力なく途切れる。線香の煙が、風のない墓地をまっすぐに昇っていった。
六十五歳になった。
誕生日が来てから、ひと月ほどになる。還暦のときには何の感慨もなかった。赤いちゃんちゃんこを着せられることもなく、昔の仲間と蕎麦を食べて終わった。それなのに、六十五という数字だけは、どういうわけか胸のどこかに引っ掛かって離れなかった。
理由ははっきりしている。母方の祖父が、六十五で死んだのだ。
僕が小学四年生の冬だった。祖父は田んぼの畦道で、いつものように鍬を杖にして休んでいて、そのまま動かなくなったのだという。大人たちは「大往生だった」と口を揃えた。けれど子どもの目には、あれが大往生などではないように思えた。湯呑みに残された飲みかけの茶、縁側に広げられたままの新聞。当時の僕には、それが祖父のやり残した無念の形に見えていた。
墓石の「清造」という二文字を、僕は水で洗い、布で拭った。冷たい石の肌が、指先にじかに伝わってくる。
「おじいちゃん。僕も、同じ齢になったよ」
声に出してみると、あまりに間の抜けた言葉で、自分で少し笑ってしまった。
隣には父の墓がある。父は七十八で逝った。こちらは病院のベッドで、家族に見守られての最期だった。父もまた、祖父の前では何度も黙って手を合わせていた人だ。いつだったか、その背中に「何を考えてるの」と尋ねたことがある。父は振り返らず、ただ「さあな」とだけ答えた。
僕はいま、その父と同じ場所に立って、同じ問いを抱えている。
この齢だったのか。この齢で、だったのか。
祖父は、最後に何を思ったのか。何をやり残したのか。何を、誰に言いそびれたのか。
墓前に立つ者は、誰でも一度は同じことを問うのだろう。そして誰もが、同じ答えを受け取る。
何も戻ってこない。
線香の煙が途中で折れ、細い糸になって散っていった。それだけだった。墓石は黙って、夏の終わりの日を吸い込んでいる。
「また来るよ」
そう告げて桶を片付け、石段を降りかけたとき、不思議なことに気づいた。足元の影が、いつもより濃かった。まるで影のほうが、僕より少しだけ先に歩き出そうとしているように、わずかに前へ伸びていたのだ。
気のせいだと思った。思おうとした。
家に戻ってから、妻に墓参りの様子を話した。妻は洗濯物をたたみながら「六十五っていうのはね、体のあちこちが言うことをきかなくなる年よ」と笑った。その何でもない言い方に、僕は救われたような気がして、同時に、どこか取り残されたような気もした。
その夜、手帳を開いて、来月の予定を確かめた。
九月の頭に、長野の斑尾高原でシンポジウムがある。山間部の暮らしと森の再生について、パネルの一人として話してほしいと頼まれていた。そして十月には、黒姫のアファンの森を訪ねる約束がある。
どちらも信州の北だ。
手帳の余白に、僕はなぜか「六十五」と書いた。書いてから、それを丸で囲んだ。ペン先が紙の上でわずかに震えたのは、年のせいだと思うことにした。
第二章 斑尾へ
シンポジウムの朝は、まだ暗いうちに始まった。
着慣れないスーツに腕を通す。何年ぶりだろう。肩のあたりが妙に窮屈で、鏡の中の自分が借り物の人間のように見えた。ネクタイを結ぶ指は、結び方を忘れかけていた。
「いってらっしゃい。遅刻しないでね」
妻に見送られ、始発に近い電車に乗った。北陸新幹線で長野まで行き、そこから車に乗り換えて北上する手はずだった。窓の外では、夜の底から山の稜線がゆっくりと浮かび上がってくる。
長野駅で借りた車に乗って、国道を北へ走った。
信濃町に入るころ、空はすっかり明るくなっていた。稲穂が黄色みを帯びはじめ、田んぼの畦には彼岸花の蕾が、赤い針のように並んでいた。
予定より早く着きそうだった。
黒姫のあたりに差しかかったとき、道沿いに古びた木の看板が目についた。
「一茶旧宅」
通り過ぎてしまった。
ハンドルを握ったまま、僕は小さく息を呑んだ。名前が悪かったわけではない。ただ、通り過ぎた瞬間、背中のどこかを指先で軽く叩かれたような気がしたのだ。
時計を見る。シンポジウムまでは、まだ一時間半ある。
「……行ってみるか」
誰にともなく呟いて、車を転回させた。
一茶という俳人について、僕が知っていることはほとんどない。雀の子、蛙、痩せた馬。小さな生きものに優しい句を詠む人。五十を過ぎて故郷に戻り、遅い結婚をして、何人も子を亡くした人。そのくらいだ。学校で習った程度の、薄い知識だった。
駐車場には、車が一台もなかった。
観光客どころか、案内の人の姿さえ見えない。朝の空気はきりりと冷たく、山から降りてくる風が、杉の梢をさらさらと鳴らしている。
入口の脇に、説明板が立っていた。
文政十年。一茶は柏原の地で、焼け残った土蔵に移り住んでいた。この土蔵で、六十五年の生涯を閉じた。
僕は、その文字から目を離せなくなった。
六十五。
声に出して読み返す。喉の奥が、ひとりでに乾いた。
偶然だ、と思った。人は誰でもいつかは死ぬ。いつかの誰かが六十五歳で死んだとしても、何の不思議もない。世の中には、六十五で死んだ人が山ほどいる。
それなのに、足の裏から這い上がってくる震えは止まらなかった。
呼ばれたかな。
ふと、そんな言葉が頭に浮かんだ。誰かに呼ばれたような、とは違う。もっと柔らかく、もっと近いところで、「よく来たね」と言われたような感触だった。
気づけば僕は、砂利を踏んで、旧宅の敷地の奥へ歩きはじめていた。
見学の人が一人もいないのが、ありがたかった。あるいは、ありがたいとかそういう問題ではなく、人が一人もいないことが当然のように思えた。まるでこの場所が、僕ひとりのためにあらかじめ空けられていたかのように。
母屋の脇の細い道を抜けると、その先に、小さな土蔵が建っていた。
白かったはずの漆喰は、長い歳月に洗われて、薄い灰色になっている。屋根の瓦は黒ずみ、軒下には蜘蛛の巣が一つ、朝露を宿して光っていた。扉は開かれ、中の暗がりへ、やわらかい光が細く射し込んでいる。
二百年前、ここで一人の老人が死んだ。
そう思うと、足が止まった。止まったのに、体のどこかは前へ進みたがっている。こんな感覚は、生まれてはじめてだった。
深呼吸を一つして、僕は敷居をまたいだ。
第三章 土蔵
中は、思っていたよりも狭かった。
四畳ほどの土間に、わずかな板の間。壁は厚く、外の音はたちまち遠のいて、自分の呼吸だけが耳に残った。ひやりとした空気に、古い土と藁と、かすかな墨の匂いが混じっている。
最初、僕は何も見えなかった。
暗さに目が慣れるのを待ちながら、壁際に立ち尽くした。すると、視界の端で、何かがゆらりと動いた。
蛍かと思った。
けれど、季節は九月の初めで、しかも朝だ。蛍がいるはずがない。
目を凝らすと、それは小さな光の粒だった。ぼんやりとした白い球が、空中に浮かんでいる。大きさは手毬ほど、輪郭は溶けかけた氷のように曖昧で、中心にだけ淡い青みがあった。
一つ、二つ、三つ。
数えようとして、やめた。数が増えていくのだ。僕が見つめるたびに、暗がりの奥から、同じような光の球が、ひとつずつ形を結んで現れてくる。
オーブ、という言葉が不意に浮かんだ。心霊の話になると出てくる、写真に写る丸い光だ。埃が反射しただけだと笑っていた技術者の友人の顔が思い出される。けれど、これは決して埃などではない。
球は、ゆっくりと上下しながら漂っている。まるで水の中のクラゲのように、あるいは、誰かが吐き出した言葉が、まだ宙に残っているかのように。僕のすぐ目の前を、一つの球がすうっと通り過ぎた。そのとき、頬に、人の体温ほどの温みが触れた。
声が出そうになった。出なかった。
恐ろしくはなかった。不思議なほど、恐ろしくなかった。むしろ、見たことのない郷里の景色に、ようやく足を踏み入れたような、懐かしさに近い気持ちが胸にあふれた。
還暦を越えてからのことだ。
それまで見えなかったものが、見えはじめた。道端の木の洞に宿る気配。夕暮れの路地で、ふいに立ち止まって振り返る猫の目の奥に、一瞬だけ映る別の景色。誰もいない部屋の隅の、空気の濃さ。人に話せば笑われるだろうと思って、誰にも言わずにきた。
特に、ひとりでいるときによく見えた。人がそばにいると、それらはすっと身を引く。まるで遠慮するように。だから、こうしてたった一人で立っているいまが、それらにとっては語りかけるのに一番よい時なのだろう。
僕は、手を合わせた。
土蔵の真ん中に向かって、静かに頭を下げる。何に向かって祈っているのか、自分でも分からなかった。一茶に対してなのか、ここに浮かぶ光たちに対してなのか。それとも、遠い墓の下で眠る祖父に対してなのか。
目を閉じると、まぶたの裏にも、光の球が浮かんでいた。
どれくらいそうしていただろう。
腕時計を見て、はっとした。針は、さっき確かめたときから、ほとんど動いていなかった。いや、動いてはいたのだ。ただ、秒針だけが、ひどくゆっくりと、一目盛りごとにためらうように進んでいる。
時間が、ここだけ薄く引き延ばされている。
そう気づいたとき、土蔵の奥の、一番暗い隅で、ひとつだけ他より大きな光が揺れているのが見えた。
近づいてはいけない、という感じはしなかった。近づいたほうがいい、という感じもしなかった。ただ、そこにあるものを、そこにあるままに受け取ろうと思った。
球に、顔を寄せる。
その中に、何かが映っていた。
畦道だった。
細い、緑の畦道。両側に稲が揺れ、遠くに山の青い影が重なっている。その道を、鍬を杖にして休む一人の老人の背中が、小さく見えていた。
「おじいちゃん」
唇だけが動いた。
光は答えず、ただ、ぼうっと明るさを増して、そして、潮が引くようにすっと消えた。
僕は長いあいだ、動けなかった。
外へ出たとき、朝の光が信じられないくらいまぶしかった。杉の梢を渡る風の音が、ひどく新しいものに聞こえた。僕は説明板をもう一度読んだ。「六十五年の生涯を閉じた」。文字は、さっきと少しも変わっていない。
駅の近くに、確か記念館があったはずだ。
時計を確かめる。今度の針は、ちゃんと一秒ずつ、普通に進んでいた。シンポジウムまでの時間には、あと少し余裕がある。
急ぎ足で車に戻りながら、僕は小さく呟いた。
「また、来ます」
誰に言ったのかは、やはり分からなかった。
第四章 記念館
黒姫駅の近くの記念館は、土蔵から車で数分の場所にあった。
小ぢんまりとした、木の香りのする建物だ。受付の脇には、小さな靴箱と、スリッパの列。入ってすぐの壁に、一茶の肖像が掛かっていた。細い顎、深い皺、どこか困ったように笑う目元。
先客が数名いた。初老の夫婦と、若い男性が二人。それぞれ展示ケースの前で、小声で言葉を交わしている。僕は軽く会釈をして、順路に沿って歩きだした。
奇妙なことが起きたのは、それからすぐだった。
先客が、一人、また一人と、思い出したように出口へ向かった。「時間だ」「次があるから」そんな言葉を交わして、ほんの数分のうちに、全員が館を出ていった。
受付の係員の姿も、いつの間にか見えなくなっていた。
静まり返った展示室に、僕だけが残った。
「……貸切だな」
冗談めかして口にしたけれど、笑いは続かなかった。僕が来るのを知っていて、誰かが人払いをしたような気がしたのだ。そんなことがあるはずはない。あるはずはないと思いながら、胸のどこかが、ひどく静かに、それを受け入れていた。
残念ながら、じっくり見て回る時間はなかった。
さあっと、順路を一巡りする。自筆の句帖、手紙、農具、杖。江戸の言葉で書かれた細い文字が、黄ばんだ紙の上で、まだ息をしているように見えた。「雀の子そこのけそこのけお馬が通る」。そんな有名な句の脇に、無名の、けれども妙に心に刺さる句がいくつも並べられている。
展示ケースの前を通り過ぎるたびに、何かが目に付いた。
筆の払い。紙の染み。ある一行の、読み取れない墨の滲み。
そのたびに、頭の奥のほうで、誰かの声が、水のようにするりと流れ込んでくる。
――またゆっくり、いらっしゃい。
僕は、立ち止まった。
声、と言うには、あまりにも音がなかった。耳ではなく、頭蓋の内側に直接、言葉だけが置かれたようだった。年老いた男の、乾いた、少し嗄れた、けれど温かい響きだった。
「……なるほど。そうですか」
自分の声が、ひどく遠くから聞こえた。
僕は展示ケースのガラスに、うっすらと映る自分の顔を見た。スーツ姿の、少し白髪の増えた、六十五歳の男。その向こうに、もう一つの顔が重なっている気がした。
「では、また来月には、アファンの森に来ますので」
口をついて出たのは、そんな言葉だった。
「その時にでも、寄らせてもらいます」
静寂が、一秒、二秒、続いた。そして。
――そうして下さい。
今度ははっきり聞こえた。いや、「聞こえた気がした」と言うべきだろうか。声なのか、思い込みなのか、区別をつけようという気持ちが、もう薄れていた。
最後の展示ケースの前で、ふいに足が止まった。
古い懐中時計が、ひとつ置かれていた。解説によれば、後世に寄贈された一茶ゆかりとされる品で、時代考証上は真偽不明と小さく添え書きされていた。
文字盤には12の数字ではなく、1から65までの目盛りが細かく刻まれていた。針は一本。その針が、65のところで、ぴたりと止まっている。
僕は、ガラス越しにそれを見つめた。
背筋を冷たいものが職い、そして、不思議な納得が、ゆっくりと胸の底に落ちていった。
六十五は、特別な数字なのだ。
この人にとっても。祖父にとっても。そして、いま、ここに立っている僕にとっても。
出口の戸を開けると、外では何事もなかったように、秋の入口の風が吹いていた。
受付の係員が、いつの間にか席に戻っていて、ごく普通の顔で「ありがとうございました」と頭を下げた。
僕は黙って会釈を返し、車に乗った。シンポジウムの会場である斑尾高原へ向かう坂道を、ゆっくりとのぼっていく。ミラー越しに、黒姫の山が、静かに遠ざかっていった。
ハンドルを握る手が、まだ微かに震えていた。けれどそれは、恐怖のせいではなかった。
第五章 シンポジウム
斑尾高原のホテルの会議室は、すでに人でいっぱいだった。
壇上には長机と、五つの椅子。僕の名札は、一番端に置かれていた。ネクタイを直しながら席につくと、司会の女性が小さく会釈をしてくれた。
テーマは「森と、人の記憶」。
集まった顔ぶれは、森林組合の人、農家、大学の研究者、移住してきた若い夫婦。みな日に焼けた顔をしていて、話し方に飾りがなかった。
最初に登壇した研究者が、年輪の話をした。
「樹木は、毎年ひとつずつ輪を重ねます。けれど、本当に面白いのは、輪と輪のあいだなんです。厳しい冬の年は薄く、恵みの多かった年は厚く。そこには、その年の天気も、虫も、山火事も、全部記録されている。木は、黙って、全部覚えているんですよ」
会場から、感心したような小さなため息が漏れた。
別の登壇者は、この地に江戸の頃からあった「雪の暮らし」について話した。雪に閉ざされる半年間、人々は炉端で語り、句を詠み、歌い、そうして長い冬を越えた。
「その冬を、一茶もこの土地で、何度も過ごしました」
その名前が出たとき、僕の背中が、わずかに強張った。
「晩年、江戸から戻ってきた一茶は、豊かだったとはとても言えません。けれど、ここで生きて、ここで死んだ。それはこの土地にとって、何か大きな意味があったのだと、私は思います」
壇上のあちこちで、一茶の名前が飛び交った。
どの発言も、土蔵で見たあの光の球と、不思議に響き合っているように聞こえた。まるで今日この会場の全員が、同じ大きな夢の、別々の断片を語っているかのようだった。
僕の番が来た。
用意してきた原稿は、森と暮らしの再生に関するものだった。けれど、マイクを前にした僕の口から、最初に出たのは、予定になかった言葉だった。
「今朝、ここへ来る途中、一茶の旧宅に立ち寄りました」
会場がふっと静まった。
「そこで、六十五歳で亡くなったと知りました。私も今年、六十五になります。祖父も、六十五で亡くなりました」
どうして、こんなことを話しているのだろう。
そう思いながら、言葉は止まらなかった。
「六十五歳というのは、不思議な年齢のようです。体も、考え方も、ひとつの峠にさしかかる。その峠で、人は、今まで見えなかったものを、見はじめるのかもしれません。森も、きっと同じです。長い時間をかけて、ようやく見えてくる姿がある」
何人かが、深くうなずいた。
席に戻って、水を飲んだ。そのときだった。
会場の最後列、壁際の席に、一人の男が座っているのが目に入った。
灰色の、古風な羽織のようなものを着ている。いや、背広だろうか。見ているうちに、輪郭が揺れて、どちらとも言えなくなる。顔は、ここからはよく見えなかった。ただ、目元に、見覚えのある皺が刻まれている気がした。
男は、こちらを見て、小さく、ほんの少しだけ頷いた。
僕は思わず立ち上がりそうになった。隣の研究者が、不思議そうに僕の顔を覗き込む。
「どうかされましたか」
「いえ、すみません。何でもありません」
もう一度、後ろを見ると、男の席は空いていた。ただ、椅子の上に、乾いた藁屑が一本だけ、落ちているのが見えた。
閉会後の懇親会で、僕は何人もの人と名刺を交換した。そのどれもが、頭の中を素通りしていった。
帰り際、ホテルの玄関で、年配の女性に声をかけられた。この土地で長く暮らしている、小柄な人だった。
「あんた、あの土蔵に入りなさったな」
少し訛りのある温かな声だった。僕は驚いてその顔を見た。
「ええ。……どうして」
「匂いがするんだよ。あそこに入った人はみんな、ほんの少しだけ、藁の匂いがする」
女性は、にっこり笑った。
「怖がらなくていいよ。あそこはね、言いそびれたことを預かってくれる場所なんだから」
「言いそびれたこと」
「そうさ。人はみな、生きているあいだに、言いそびれたことを一つや二つ、持っているだろう」
そう言い残して、彼女は夕暮れの駐車場へ歩いていくだった。僕は、その背中が見えなくなるまで、玄関に立ち尽くしていた。
第六章 窓
その夜、僕は信濃町の小さな宿に泊まった。
ひとりで夕飯を食べ、風呂につかり、布団に入った。窓の外では、虫の声が途切れず続いている。目を閉じても、昼間の光景が、まぶたの裏で、ゆっくりと回っていた。
どれくらい眠っただろう。
気づくと、僕は立っていた。
見覚えのある場所だった。薄暗く、ひやりとして、土と藁と墨の匂いがする。あの土蔵だ。ただ、夢の中のそれは、昼間よりもずっと広かった。壁は遠く、天井は闇に溶け、足元には、無数の光の球が、星のように散らばっている。
「よう来なすった」
声がした。
振り返ると、一人の老人が、板の間に座っていた。
小柄で、痩せている。着古した着物の襟元から、鎖骨が浮き出ている。顔には、深い皺。そして、どこか困ったように笑う目元。
記念館の肖像画と同じ顔だった。
「一茶、さん」
「さんは、いらぬ」
老人は、ひょいと手を振った。
「おまえさん、驚かんのだな」
「驚いています。ただ、驚き方が分からなくて」
「それでええ」
老人は、からからと笑った。その笑い声は、驚くほど若々しかった。
「ここは、窓だ」
「窓」
「人が六十五になると、窓が一つ開く。ほとんどの者は気づかず、気づいても、ただの老いの気の迷いだと片付ける。だが、窓は確かに開く。向こうとこちらのあいだにな」
老人は、周りに浮かぶ光の球を、指先で示した。
「これらは、言いそびれたことだ。生きているうちに、口に出せんかった言葉。伝えそびれた感謝。謝れなかった詫び。飲み込んだ恨み。それらが、行き場をなくして、ここに溜まる」
「全部、ですか」
「全部ではない。窓の近くまで流れ着くのは、ほんの一握りだ。残りは、風に散る。それはそれで、よいことだと思うておる」
僕は、足元の光を見つめた。それぞれの球の中に、小さな風景が揺れている。台所の湯気。駅のホーム。病室の窓。畦道。
「祖父の、あの光も」
「おまえさんが昼に見たものか」
老人は、少し目を細めた。
「あれは、おまえさんの祖父が、最後に言いそびれた言葉の影だ。まだ、言葉の形にはなっておらん。受け取る者が、窓の前に立たねば、言葉にはならんのだ」
「どうすれば、受け取れますか」
「六十五を、丁寧に生きることだ」
老人は、静かに言った。
「あと半年ほど。窓は、おまえさんの齢の、六十五歳が終わるまでは開いておる。その間に、おまえさんが、自分の言いそびれを一つ、拾い上げることだ。そうすれば、向こうからも、言葉が届く」
「自分の、言いそびれ」
「あるだろう」
そう言われて、僕は黙った。
あった。たくさん、あった。
父が病院のベッドで、最後に手を伸ばしたとき、握り返すことしかできなかったこと。母が台所で何度も言いかけたことを、忙しさを理由に聞かなかったこと。妻に、ありがとうと、ちゃんと言えた日がどれだけあったか。
「そうだ」と老人は言った。
「六十五までに、人は、数えきれないほどの言葉を飲み込む。それが悪いわけではない。けれど、窓の前に立てば、その言葉が、ようやく息をつける」
遠くで、鶏の声がした。
土蔵の壁が、少しずつ薄くなっていく。光の球が、ひとつ、またひとつと、夜明けの空に溶けていく。
「待ってください。まだ聞きたいことが」
「来月、森でな」
老人は、片手を上げた。
「木は、全部覚えておる。おまえさんの祖父のこともな」
目が覚めたとき、窓の外はもう白んでいた。
枕元の腕時計を見る。針は、正確に、五時十二分を指している。ふと、手首の内側が気になって、袖をまくった。
そこに、藁屑が一本、貼りついていた。
第七章 ひと月
家に戻ってからの一ヶ月は、不思議と静かだった。
何かが起こったわけではない。仕事はいつも通りに回り、庭の柿は色づき、妻はテレビを見ながら、毎晩のように同じ連続ドラマに文句を言っていた。
けれど、世界のほうが少しだけ違って見えた。
朝、台所に立つと、湯気の向こうに、小さな光が揺れていることがあった。電車の窓に映る人々の背中に、薄い影が重なっていることがあった。見ようとすれば消え、ふっと力を抜けば、またそこにある。
僕はもう、それを怖いとは思わなかった。
数字も、よく目についた。
エレベーターの階数表示が、ちょうど六十五を指して止まる。古い領収書の端に、見覚えのない六十五円の文字。散歩の途中で、誰かの家の表札を見れば、六十五番地。
そのたびに、僕は小さく頷いた。
あれは偶然ではなく、窓が、静かに、こちらを覗いている合図なのだと思った。
九月の終わりに、妻と二人で夕飯を食べているときだった。
「あなた、最近、変ね」
妻が、箸を止めて言った。
「変かな」
「悪い意味じゃないの。なんていうか、前より、人の話を聞くようになった」
「そうかな」
「そうよ。昔は、私が話している途中で、よく携帯を見ていたもの」
胸の奥を、小さな針で突かれたような気がした。
――窓の前に立てば、言葉が息をつける。
あの老人の声が、静かに響いた。
「……あのさ」
僕は、箸を置いた。
「長いこと、言えてなかったことがある」
「あら、なあに。改まって」
妻は、少し笑って、それから僕の顔を見て、真顔になった。
「ありがとう」
自分の声が、ひどくかすれて聞こえた。
「長いあいだ、ずっと、ありがとう。いろんなことを、当たり前みたいにして、ちゃんと言ってこなかった」
しばらく、台所に沈黙が降りた。
冷蔵庫のモーター音だけが、低く唸っている。妻はうつむいて、味噌汁の椀の縁を、指先でゆっくりとなぞっていた。
やがて、顔を上げた。目が、少し赤くなっていた。
「……やっと言ったわね」
「うん」
「三十年、待ったわよ」
「ごめん」
「いいの」
妻は、涙を笑いに変えるように、ふふっと息を漏らした。
「いいの。ちゃんと、届いたから」
その夜、僕は眠る前に、窓の外を見た。
月が、細い鎌のように、薄雲の隙間にかかっていた。庭の柿の木の影が、青白く、地面に伸びている。その影の中に、ほんの一瞬、小さな光の粒が、ふわりと浮かんで、そして消えた。
あれは、父だったのか。それとも、ただの目の錯覚か。
もう、どちらでもよかった。
窓が、確かに開いている。それだけで、十分だった。
十月の初め、手帳の予定を確かめた。
アファンの森への訪問は、来週の水曜日。黒姫の山の懐にある、あの広い森だ。長いあいだ荒れていた里山を、一人の男が、少しずつ、丁寧に手を入れて、蘇らせたのだという。
僕は、予定の欄に、小さく書き添えた。
「一茶と、会う」
手帳を閉じ、ペンを置いた。
第八章 父の家
アファンの森へ行く前の週末、僕は実家へ向かった。
父が亡くなってから、家は空き家のままになっている。妹が月に一度、風を通しに来てくれているが、僕自身は、葬儀の片付け以来、足を向けていなかった。鍵を回すと、玄関の戸が、古い蝶番を軋ませて開いた。
家の中は、薄い埃の匂いがした。
居間の座布団。壁掛けの時計。台所の隅の、父専用だった大きな急須。どれも、父が出ていったあとの時間を、そのまま抱え込むようにして、じっと待っていた。
父は、時計の修理屋だった。
商店街の端に小さな店を構え、七十を過ぎても、ルーペを片目に当てて、一日中、細かなぜんまいを覗いていた。庭の離れが仕事場で、僕が子どもの頃は、そこが世界で一番静かな場所だった。
離れの引き戸を開ける。
作業台の上に、ピンセットと、小さな螺子の入った皿と、分解されたままの腕時計が、そのまま残っていた。ルーペは、台の端に置かれている。まるで、父がちょっとお茶を淹れに母屋へ戻っただけのように。
「……お父さん」
呼んでみた。当然、返事はない。
けれど、耳を澄ますと、かすかな音がした。
こつ、こつ、こつ。
規則正しい、小さな音。時計の秒針の音とは違う。もっと不揃いで、人の指が机を叩くような音。それが、作業台の、ちょうど父が座っていた椅子のあたりから聞こえてくる。
見ると、椅子の背に、淡い光が揺れていた。
手毬ほどの、青みを帯びた球。あの土蔵で見たものと、同じだった。
僕は、ゆっくりと近づいた。球は、僕が一歩近づくごとに、ほんの少しだけ輝きを増し、そして、こつ、こつ、と三つ、また鳴った。
光の中を覗き込む。
何も映っていなかった。ただ、白い霧が渦を巻いているだけだった。祖父の光とは違う。まだ、言葉の形になる前の、ざらざらした何かが、中で息をしている。
「……まだ、なんですか」
僕は、光に向かって言った。
「まだ、聞けないんですか」
こつ、こつ、こつ。
三つの音が、肯定とも否定ともつかない調子で、静かに響いた。
引き出しを開けたのは、ほとんど衝動的だった。
作業台の一番下の引き出しに、古い大学ノートが一冊、油紙に包まれて入っていた。表紙には何も書かれていない。ただ、折り目の跡だけが、何度も開かれたことを物語っていた。
ページをめくる。
仕事の覚え書きだと思っていた。部品の寸法、修理の日付、客の名前。そうした記録が、途中までは続いていた。ところが、あるページから、急に文章の調子が変わっていた。
『九月十日。黒姫へ行く。六十五になった。理由は分からない。ただ、足が向いた。
一茶の旧宅に寄る。土蔵に入る。光る球が、たくさん浮いている。夢か、と思った。夢ではなかった。
老人に会った。一茶、と名乗った。冗談かと思ったが、笑えなかった。窓、という言葉を聞いた。言いそびれたことを預かる場所だと。
清造さんの光があった。義父の。畦道の背中が見えた。近づこうとしたが、近づけなかった。老人は言った。「婿には、窓が開かぬ。血の者の窓でなければ、言葉は通らぬ」』
指が、紙の上で震えた。
『悔しかった。三十年近く、義父には、何も言えずじまいだった。世話になった礼も、娘を嫁にくれた礼も。それが、あそこに、預かられているというのに、手を伸ばしても届かない。
あいつは、いつか六十五になる。そのとき、行くだろうか。行ってほしい、と思う。しかし、行けと言うのは、違う。窓は、自分で開けた者にしか、開かない』
そこで父は、僕の名前を書いていた。
宗一。
親にしか呼ばれたことのない、あの名を。
『墓前で、あいつが私に尋ねた。何を考えてるの、と。さあな、としか言えなかった。本当は、言いたいことが山ほどあった。けれど、言葉にすれば、あいつの窓を、私が先に曇らせてしまう気がした』
ノートの最後のページは、白かった。
その右下に、鉛筆で、小さく、一行だけ書かれていた。
『おまえが読む日が来たなら、順番にな。清造さんの次は、私だ』
僕は、ノートを胸に抱いた。
背後で、また、こつ、こつ、こつ、と音がした。
振り返ると、光は、さっきよりも、少しだけ明るくなっていた。僕は、その前に立って、深く、頭を下げた。
「順番に、行きます」
そう言うと、光が、一度だけ、ふわりと膨らんだ。
それは、父が、ルーペ越しに、嬉しそうに目を細めるときの、あの顔に、よく似ていた。
第九章 窓守
実家から戻った翌日、僕は、またあの町へ向かった。
シンポジウムの主催者に電話をして、あの小柄な女性の名前を尋ねた。「ああ、瀬川さんですね。町の外れで、小さな文庫をやっておられる」。そう言って、教えてくれた住所は、一茶旧宅から、歩いて十分ほどの場所だった。
文庫と呼ばれる家は、古い養蚕農家を改造した、二階建てだった。
引き戸を開けると、本の匂いがした。壁一面に、背表紙の色褪せた本がぎっしりと並んでいる。奥の畳の間に、瀬川さんが、湯気を立てる急須を前に座っていた。
「いらっしゃい。来ると思っていましたよ」
そう言って、彼女は、にっこり笑った。
「今日は、藁の匂いが、少し濃いわね」
「やはり、ご存知なんですね」
「ええ。私も、昔、窓を開けた者ですから」
瀬川さんは、七十八だった。かつて、近くの中学校で、理科を教えていたのだという。窓が閉じてから、もう十三年になる、と静かに言った。
「いまは、手伝いをしています。窓守の、手伝いをね」
「窓守とは、一茶のことですか」
「そう呼んでいます。本人は、番人と言うけれど」
彼女は、茶を注いでくれた。熱い湯呑みを手のひらで包むと、土蔵の冷たさが、ようやく、体から抜けていく気がした。
「理科の先生だったからかしらね。自分なりに、考えてみたんです。あの窓が、何なのか」
瀬川さんは、傍らの箱から、薄い木の円盤を取り出した。
楢の木を、輪切りにしたものだった。中心から外へ、細い輪が、何十と重なっている。
「時間というものは、一本の川のように流れている、と、たいていの人は思っているでしょう。でも、私には、これのように見える」
指先が、輪の上をなぞった。
「一つ一つの年が、輪になって、重なっていく。普段は、隣りあう輪と輪は、触れあわない。けれど、人の命が、ある厚みに達したとき、その人の輪と、ほかの輪とが、膜一枚のところまで、近づくの」
「それが、六十五」
「ええ。なぜ六十五なのかは、分かりません。人間の体が、輪の厚みに耐えられる、ぎりぎりの年なのかもしれない。昔の人が、六十五を、ひとつの峠と呼んだのは、偶然ではないと思う」
彼女は、円盤を、卓の上に置いた。
「膜が薄くなれば、向こうの輪の気配が、こちらへ滲んでくる。それが、あの光。生きているあいだに、言葉にならなかったもの。膜の向こうに、取り残されたもの」
僕は、円盤を、しばらく見つめていた。
SFのようだ、と思った。けれど、信じたくないとも、疑いたいとも思わなかった。ただ、あの土蔵で見た光と、この輪の重なりが、静かに、胸の内で、噛み合った。
「受け取れる言葉は、一度に、一つだけ」
瀬川さんが、少し声を落とした。
「窓の向こうは、無限ではないの。こちらから手を伸ばせるのは、一度に、一つ。そして、受け取った言葉は、受け取った人の輪の中に、混じってしまう」
「混じる」
「ええ。残りの時間が、ほんの少し、濃くなる」
彼女は、微笑んだ。
「だから、慎重にね。何を受け取るか、選ばなくちゃいけない」
「父の、ノートを読みました」
僕は、思い切って切り出した。
「六十五の年に、父も、土蔵へ行っていたようです。義父の、つまり、祖父の光に、触れられなかったと」
「ええ、覚えています。お父さまは、いらっしゃいましたよ」
瀬川さんは、懐かしそうに、窓の外を見た。
「畦道の光に、何度も手を伸ばして、そのたびに、静かに引き下がって。最後は、土蔵の前で、深く頭を下げて、帰っていった。立派な方でした。窓が閉じる前に、息子さんの分まで、道を整えておくのだと言って」
「道を」
「ええ。窓の前に立つ人は、何も用意しなくていい。ただ、拾う。その代わり、あなたより前に立った人たちが、道を、少しずつ、均してくれている」
胸が、熱くなった。
父は、僕に何も言わなかった。さあな、と答えただけだった。けれど、その沈黙の裏に、そんなにも多くの手が、差し出されていたのだ。
別れ際、瀬川さんは、小さな藁の束を、僕の手に握らせた。
「お守りよ。窓の前で、迷ったら、握りなさい」
「ありがとうございます」
「いいのよ。それから」
彼女は、引き戸のところで、ふっと、真面目な顔になった。
「選ぶときは、頭ではなく、いちばん素直に、聞きたいと思うほうを選びなさい。後悔しない言葉は、たいてい、そういう言葉だから」
僕は、深く、頷いた。
帰りの電車の窓に、夕日が、赤く映っていた。膝の上に、藁の束を乗せ、その温もりを、手のひらで確かめた。
選ぶ。
祖父か。父か。母か。
そのときは、まだ、答えが出なかった。
ただ、水曜日には、アファンの森に入る。そこで、きっと、何かが決まる。そんな予感だけが、胸の底に、静かに、灯っていた。
第十章 アファンの森
十月の黒姫は、秋が深まっていた。
車を降りた瞬間に、冷たい空気が、鼻の奥を洗った。朝の光が、背の高いミズナラの梢を透かして、地面にまだらの影を落としている。足元では、落ち葉が小さく軋んだ。
ガイドの青年が、入口で説明してくれた。
「ここは、もともと荒れ果てていた森でした。手入れをされなくなって、暗く、湿って、鳥も虫も寄りつかない場所になっていたんです。それを少しずつ、間伐して、水の流れを整えて、光を入れて」
青年は、森の奥を指さした。
「いま、ご覧の通りです」
目の前に広がる森は、驚くほど明るかった。
木々のあいだを縫う小径は、柔らかい土の匂いがした。苔むした倒木には、小さな茸が並んでいる。小川の水面には、紅葉が一枚、また一枚と、くるくる回りながら流れていく。
「ゆっくり歩いてください。一時間ほどで、一周できます」
青年はそう言って、ほかの来訪者のほうへ向かっていった。
僕は、一人で歩きだした。
森は、静かだった。静かというのは、音がないという意味ではない。鳥の声、枝の揺れる音、遠い水の音。そういうものが、全部、同じ呼吸の中に収まっている。
ある地点で、僕は足を止めた。
小径の脇に、一本の古い楢の木が立っていた。幹は二抱えもあり、樹皮は深い溝を刻んでいる。見上げると、その枝のあいだから、細い光が、斜めに降りていた。
――おう、来たか。
声は、頭のうしろ側から、聞こえた。
振り返ると、楢の木の根元に、あの老人が座っていた。着古した着物。皺だらけの顔。困ったように笑う目。
「また、会えましたね」
「約束じゃからな」
老人は、からからと笑った。そして、手のひらで、隣の地面をぽんぽんと叩いた。座れ、ということらしかった。僕は、黙って、その隣に腰を下ろした。落ち葉が、ふかふかと沈む。
「いい森ですね」
「ああ、ええ森だ」
老人は、遠くを見るように目を細めた。
「わしは、ここを歩いたことはない。時代が違うでな。だが、この森の木々は、わしの知っとる森と、よく似た息をしておる」
「息」
「手を入れた者が、木を、森を、愛しておるのだろう。そういう場所は、窓が、開きやすい」
老人は、楢の幹に、そっと手を当てた。
「木は、全部覚えておる。そう言うたな」
「はい」
「見せてやろう」
老人が、幹をとん、と軽く叩いた。
その瞬間、周りの空気が、ゆらりと揺れた。落ち葉の音が止み、鳥の声が止み、水の音が止んだ。世界が、薄いガラスの向こうに退いていくように、遠のいた。
目の前の楢の幹に、光が浮かびはじめた。
最初は、小さな点だった。それが次第に広がって、一つの大きな球になり、その中に、風景が現れた。
畦道だった。
あの朝、土蔵の中で見たのと、同じ畦道。稲が揺れ、山が青く霞み、小さな蜻蛉が、風にあおられて飛んでいく。
その道の端に、一人の老人が座っていた。
鍬を杖にして、背を丸め、遠くの山を眺めている。
「……おじいちゃん」
僕は、息を呑んだ。
老人は、振り返らなかった。ただ、湯呑みを両手で包み、ゆっくりと、茶をすすった。その横顔は、記憶の中の祖父と、寸分違わなかった。
隣で、一茶が、静かに言った。
「六十五の窓が開いた者にだけ、見える。おまえさんの祖父が、あの日、最後に思っておったことだ」
「最後に、思っていたこと」
「聞くか」
僕は、膝の上で、拳を握りしめた。
三十年以上、問い続けてきた。墓前で、仏壇の前で、夜中に目が覚めたときに。祖父は、何を思って逝ったのか。何を、やり残したのか。
答えを聞くのが、怖かった。
それでも。
「聞きます」
僕は、はっきり言った。
「聞かせてください」
一茶は、頷いた。
そして、畦道の祖父の背中が、ゆっくりと、こちらを向いた。
第十一章 祖父の言葉
祖父は、笑っていた。
皺の深い顔に、日に焼けた肌。口元には、茶を一口すすったあとの、満ち足りたような小さな笑みがあった。僕が覚えているよりも、ずっと穏やかな顔だった。
光の中の祖父は、僕を見た。
いや、正確には、僕の向こう側を見ていたのかもしれない。それでも、確かに目が合ったように思えた。祖父は、湯呑みをそっと地面に置いて、ゆっくりと口を開いた。
声は、聞こえなかった。
けれど、言葉は、胸に直接、置かれた。
――米が、うまくなったなあ。
僕は、瞬きをした。
――今年の米は、うまくなった。水が、よかったんだな。山の雪が、ええ具合に解けてなあ。
それだけだった。
祖父は、遠くの稲田に目をやり、満足そうに、小さく頷いている。湯呑みから、細い湯気が立ちのぼる。蜻蛉が一匹、祖父の肩にとまって、また飛び去った。
「……それだけ、ですか」
僕は、思わず、一茶に尋ねた。
「それだけ、ですか。三十年以上、僕は、もっと大きな何かが、あると」
「あると思うたか」
老人は、否定も肯定もしなかった。
「遺言か。やり残した大仕事か。誰かへの恨みか。許しか。そういうものが、あると思うたか」
「……はい」
「人は、そう思いたがる。死ぬ間際には、何か特別な言葉があるはずだと」
老人は、静かに笑った。
「だが、実際は、ほとんど、これだ。今日の飯がうまかった。今日の空が、きれいだった。そういうことを、最後まで、ただ思うておる」
胸の奥で、何かが、ほどけた。
じわじわと、ゆっくりと、冷たかったものが、温かい水に溶けていくように。
あの日、祖父の湯呑みには、飲みかけの茶が残っていた。縁側には、読みかけの新聞が広げられていた。僕はそれを、「まだ何かをするつもりだった」無念の痕跡だと思っていた。
違った。
あれは、ただの、日々だったのだ。
茶を飲み、新聞を読み、米の出来を喜び、また明日も同じように、畦道に出るつもりだった。そういう、何でもない一日の、ただの途中だったのだ。
何もない。
けれど、何でもある。
涙が、頬を、熱く伝った。声は出なかった。肩だけが、ひとりでに震えた。老人は何も言わず、僕の背に、乾いた手のひらを、そっと当てていた。
しばらくして、光の中の祖父が、もう一度、こちらに顔を向けた。
――おまえも、ええ年になったなあ。
その言葉が、はっきりと、僕の胸に届いた。
――ゆっくりでええ。ゆっくり、歩けや。
「うん」
僕は、涙を拭いもせず、答えた。
「うん。ゆっくり、歩くよ。おじいちゃん」
祖父は、にっこりと笑った。そして、湯呑みを、もう一度手に取り、湯気の向こうに、ゆるやかに溶けていった。
畦道の風景が、水に落とした墨のように、薄く広がって、やがて、すっと消えた。
森の音が、戻ってきた。
鳥の声。枝の揺れる音。小川のせせらぎ。落ち葉の上を渡る、微かな風の足音。
隣を見ると、一茶は、まだそこに座っていた。着物の袖が、風にひらひらと揺れている。
「ありがとうございました」
僕は、深く頭を下げた。
「礼など、いらぬ」
老人は、手を振った。
「わしは、窓の番をしておるだけだ。言いそびれた者と、聞きそびれた者を、つなぐ。それだけのことよ」
「ずっと、ですか。二百年も」
「二百年か。ほんの、ひと呼吸のようなものだ」
老人は、からからと笑った。
「わしも、言いそびれたことが、山ほどあってな。子らに、言うてやりたかったことが。あの世で会うたら、言うつもりでおったが、どうも、こちらの番人になってしもうた」
その笑顔の奥に、一瞬、かすかな影が、よぎった。
幼くして亡くなった、いくつもの子らの顔が、そこに映っていたのかもしれない。僕は、何も言えなかった。ただ、老人の隣で、黙って、森の木漏れ日を見ていた。
「蛙の句があるだろう」
老人が、ぽつりと言った。
「やせ蛙、負けるな一茶、これにあり」
「ええ。知っています」
「あれはな、蛙に、言うておるのではない」
老人は、片方の目を、少しだけ細めた。
「自分に、言うておったのだ。負けるな、とな。年を取っても、貧しくても、悲しくても、それでも、ここにおる、とな」
僕は、頷いた。
何かが、すとんと、腑に落ちた。
あの句は、六十五を越えようとする、僕のための句でもあったのだ。
「峠を、越えなさい」
老人は、立ち上がった。
「窓は、おまえさんの六十五が終わるまで、開いておる。父の言葉も、母の言葉も、おまえさんの輪が厚くなれば、また届く。急ぐな。順番にな。それは、おまえさんにしか、受け取れん」
「また、お会いできますか」
「さあな」
老人は、ふっと笑った。
「窓が閉じれば、わしは見えんようになる。だが、居らんようになるわけではない。木が、土が、風が、ずっと、ここにあるようにな」
その輪郭が、木漏れ日の中に、静かにほどけていった。
最後に、声だけが、残った。
――ゆっくり、歩けや。
第十二章 六十六
アファンの森を出たとき、日は、すでに傾きかけていた。
車の中で、僕はしばらく、ハンドルに額を預けていた。涙は、とうに止まっていた。胸の中は、不思議なほど軽く、静かだった。
黒姫の駅の近くを通りかかった。
あの記念館の前で、車を止めた。扉には、「本日は終了しました」の札が、小さく掛けられていた。僕は、窓越しに、薄暗い館内を見つめた。
ガラスの向こうの展示ケースに、あの懐中時計が、ぼんやりと光っているのが見えた。
針は、65のところに、止まっている。
けれど、見ているうちに、気づいた。
針が、ほんの少しだけ、66のほうへ、動いている。
僕は、息を呑んだ。精神を集中させて見つめ、ゆっくりと、微笑んだ。
深く、一礼した。
それから、家へと向かった。
家に着いたのは、夜だった。玄関の灯りの下に、妻が立っていた。
「おかえりなさい。遅かったわね」
「うん。ごめん」
「ごはん、できてるわよ」
玄関を上がると、台所から、湯気の匂いがした。味噌汁と、焼き魚と、炊きたての米の匂い。
食卓の前に座ると、湯呑みが、目の前に置かれた。熱い茶が、ゆらゆらと、細い湯気を立てている。
僕は、その湯気を、じっと見つめた。
その向こうに、淡い光が、一つ、ゆれていた。
小さく、丸く、青みを帯びた、手毬ほどの光。
「あら」
妻が、僕の視線の先を追った。
「どうしたの」
「いや。何でもない」
僕は、笑った。
「ただ、米が、うまそうだなと思って」
「あら、そう。今年の新米よ」
妻は、茶碗によそった白い飯を、僕の前に差し出した。
一口、噛みしめる。
甘かった。ほんのりと、山の雪解け水の味がした。
「……うまい」
「でしょう」
妻は、満足そうに頷いた。
その夜、僕は、父のノートを机の上に置き、その隣で、手帳を開いた。
父の次の順番が、いつか、来るだろう。急がなくていい。窓は、まだ、開いている。
九月のはじめに書いた「六十五」の文字が、まだ丸で囲まれたまま、そこにあった。僕は、その隣に、ゆっくりと、ペンを走らせた。
『ここから先も、歩く。』
そして、その下に、短く書き添えた。
『何もないが、何でもある。』
ペンを置いて、窓を見た。
外では、秋の虫が、静かに鳴いている。月は、細く、柿の木の梢にかかっている。その影の中で、小さな光が、一つ、また一つと、ふわりと浮かんでは、夜に溶けていった。
僕は、もう、それを数えなかった。
数えなくても、ここにあると、分かっていたからだ。
窓は、いつか閉じる。
六十五は、いつか終わる。
けれど、それは、終わりではない。ただ、また一つ、輪が重なるだけのことだ。木が、毎年、一つずつ輪を刻むように。厳しい冬の年は薄く、恵みの多かった年は厚く。そして、そのすべてを、黙って、覚えている。
僕の中にも、いまも、年輪が、静かに増えつづけている。
祖父の輪。父の輪。母の輪。妻の輪。
商いと暮らしの輪。そして、あの土蔵の、藁の匂いのする輪。
目を閉じると、遠くで、あの老人の、からからという笑い声が、聞こえた気がした。
やせ蛙、負けるな。
ここにあり。
僕は、小さく呟いて、手帳を閉じた。
明かりを落とし、布団にもぐりこむと、庭の柿の木が、夜風に、さわさわと、葉を鳴らしていた。
その音は、どこか、誰かの、優しい寝息に似ていた。
第十三章 墓前、ふたたび
翌年の八月、僕は、また墓の前に立っていた。
六十六歳になった。
誕生日の朝、目が覚めると、世界が、ほんの少しだけ、普通になっていた。台所の湯気の向こうに揺れていた光は、もうなかった。電車の窓に重なる薄い影も、夕暮れの路地の気配も、静かに、どこかへ退いていた。
窓が、閉じたのだ。
不思議と、寂しくはなかった。夏の終わりに、蝉の声がふっと途切れる、あの感じに似ていた。ひとつの季節が、役目を終えて、静かに次の季節へ席を譲っていく。
墓地には、去年と同じように、風がなかった。
石段を登り、清造の墓の前に桶を置く。水をかけ、布で拭う。冷たい石の肌が、指先に、じかに伝わってくる。去年と、何も変わらない。
けれど、僕の中では、すべてが違っていた。
「おじいちゃん。米、うまかったよ」
声に出して言うと、今度は、少しも間抜けに聞こえなかった。
「去年の新米。ちゃんと、山の雪解けの味がした」
線香に火をつける。煙が、まっすぐに昇っていく。去年は途中で折れて、細い糸になって散ったのに、今年は、青い空の高いところまで、一筋の線のまま、伸びていった。
隣の父の墓にも、水をかけた。
「お父さん。ノート、読んだよ」
石は、黙っている。それでいい、と思った。
あの頃の僕は、墓石が答えないことを嘆いていた。何も戻らない、と。けれど、本当は、戻っていたのだ。ただ、僕が受け取る準備を、していなかっただけのことだった。窓が開いていようと閉じていようと、言葉は、いつも、すぐそばに置かれていた。
茶を飲んだこと。米をほめたこと。三度、コツコツと机を叩いたこと。
そういう、何でもないことの中に、人は、自分の一生分の思いを、そっと忍ばせて逝くのだ。
僕は、手を合わせた。
長いこと、そうしていた。
ふと目を開けて、清造の墓石の上に、何かが乗っているのに気づいた。
乾いた、一本の藁屑だった。
墓地に稲田はない。風もない。どこから来たのか、見当もつかなかった。僕は、それを指先でつまみ上げようとして、やめた。
そのまま、置いておくことにした。
石段を降りかけたとき、足元の影が、目に入った。
去年は、僕より少し先へ伸びていた影が、今年は、きちんと、僕の足元に、寄り添っていた。
そして、その影の肩のあたりに、ほんの一瞬だけ、小さな光の粒が、ふわりと灯って、消えた。
僕は、立ち止まって、笑った。
「また来ますよ」
誰に言ったのかは、今度は、はっきり分かっていた。
帰り道、黒姫の方角の空を見上げた。
白い雲が、ゆっくりと、山の向こうへ流れていく。その輪郭が、一瞬、年輪の輪のように見えた。重なって、広がって、やがて、空に溶けていく。
蛙の句を、口の中で転がしてみる。
やせ蛙、負けるな一茶、これにあり。
そうだ。まだ、ここにいる。
何もないが、何でもあるこの世界の、小さな、確かな一点に、僕は、いま、立っている。
(了)
あとがき
本作は、信州信濃町の風土と、小林一茶が晩年を過ごした旧宅の土蔵、そして黒姫のアファンの森に漂う澄んだ時間を想いながら執筆いたしました。
人生には、若さの熱情でも老いの諦念でもない、ふっと立ち止まって過去と未来の結び目を見つめ直す特異な時節が存在します。作中で「六十五の窓」と表現したその境界は、単なる生と死の境目ではなく、私たちが日々の忙しさの中で飲み込み、通り過ぎてしまった「ささやかで尊い言葉」をすくい上げるための時間でもあります。
語られなかった思いは消えてなくなるのではなく、土や木、風の匂いとなり、あるいは新米の味となって、生き続ける者の輪の中に静かに溶け込んでいきます。読者の皆様の胸の中にも、優しく柔らかな風が吹き抜けることを願ってやみません。


