お食事会は午後五時から
― 十七時に始まり、二十一時に終わる夜の記録 ―


まえがき
この物語は、午後五時に始まります。
居酒屋の暖簾が出るのと、ほぼ同時に。
そして、午後九時には、きっちり終わります。
帰って風呂に入って、十時には寝る。そういう、お年寄りの、律儀な時間です。
「お食事会」と書いて、「呑み会」と読む。
そんな、奥さんたちへの、ちょっとした優しい嘘から、この話は始まりました。
不思議で、滑稽で、でも、どこか胸の奥がじんわりと温かくなる。
そんな夜の記録です。
どうぞ、どこかで生ビールを一杯、傾けながらお読みください。




序章
セミリタイアをして三か月ほど経った、初夏の夕方のことだった。
玄関のチャイムが鳴って、カミさんが出ていった。しばらくすると、玄関先から笑い声が聞こえてきた。うちのカミさんの声と、野太い男の声と、それからもうひとつ、ひどくしゃがれた男の声。
「あなた、お食事会のお誘いですって」
居間に戻ってきたカミさんは、やけに丁寧な口調で言った。
「お食事会?」
「ご近所の吉岡さんたち。毎月やっているんですって。あなたもぜひ、って」
玄関をのぞくと、三人の老紳士が、町内の回覧板でも届けに来たような顔で並んでいた。
真ん中の細身で眼鏡の人が吉岡さん。七十七歳。元信用金庫の支店長で、背筋だけは今も銀行員だ。右の大柄で赤ら顔の人が大石さん。七十八歳。元不動産屋で、声が大きい。左の小柄で、いつも内緒話をするように喋る人が久保田さん。七十六歳。元商社マンで、なぜかいつもポケットに飴を入れている。
団塊の世代。僕より、ちょうどひと回り上の方々である。
「やあ、航ちゃん。お食事会にどうだい。うまいものを食べながら、ゆっくり話をしよう」
吉岡さんが、ひどく真面目な顔で言った。ところが、そのレンズの奥の目が、僕にだけ分かるように、ほんの少し泳いだ。右の大石さんは、あからさまにジョッキを持ち上げる仕草をしかけて、久保田さんに肘で突かれた。
なるほど。
お食事会とは、つまり呑み会である。居酒屋で、日頃の憂さを晴らしたいのである。そして、奥さんたちには「お食事会」と言わないと、角が立つのである。
僕は、こみ上げる笑いを飲み込んで答えた。
「それは、ありがたい。ぜひ、ご一緒させてください」
「そうかい! 来月の第三木曜、十七時に、駅前の『とりまる』だ」
「十七時、ですか」
「ああ。十七時だ」
三人は満足そうにうなずいて、帰っていった。夕焼けの中を、三つの背中が並んで遠ざかる。まるで遠足の下見に来た小学生のようだった。
僕は居間に戻った。カミさんは、台所で、笑いをこらえて肩を震わせていた。
「……お食事会、行ってらっしゃいな」
「なんで笑ってるの」
「笑ってません」
笑っていた。
この時の僕は、まだ知らなかった。この「お食事会」が、三十年以上も封印されてきた、とんでもない大事件の入り口だったことを。そして、その大事件を知らなかったのは、どうやら、この僕だけだったということを。



一章 十七時の乾杯
居酒屋「とりまる」は、十七時に暖簾が出る。
僕が五分前に着くと、もう店の前に三人が立っていた。吉岡さん、大石さん、久保田さん。誰がどう見ても、暖簾の出る瞬間を待ち構えている人たちだった。
「おお、航ちゃん、早いね」
「皆さんこそ」
「若いうちは、遅く来るもんだ。年を取ると、人生の残り時間が惜しくなる。だから早い」
大石さんが豪快に笑う。暖簾が出た。大将が、三人に向かって軽く会釈した。
「いらっしゃい。いつもの奥ですね」
奥の座敷には、「予約席」と書かれた小さな札が立っていた。札の端は、長年の使用で茶色くくたびれている。常連というより、もはや住人の扱いである。
乾杯は、生ビール。
「それじゃあ、新しい仲間に。そして、我々の日頃の……えー、食事会に」
「かんぱーい」
そこから始まったのは、愚痴の洪水だった。
膝が痛い。腰が痛い。病院の待合室で顔見知りができた。診察室から出てくる時の薬の袋が、いつの間にか年々重くなっている。孫が来るのは嬉しいが、帰ってくれる時は、もっと嬉しい。町内会の会長が、また変わった。年金の額が、また気に入らない。
「うちのカミさんなんかね、俺が定年になった途端に、急に冷たくなってね」
「おたくだけじゃないよ。家に居場所がない。庭の隅の物置が、俺の書斎だ」
「物置でも書斎があるだけ、まだいい。俺なんか、トイレが書斎だ」
どっと笑いが起きる。
僕は、ひたすら相づちを打った。
「それは大変ですね」
「いやあ、分かります」
「そうですか、そんなことが」
否定はしない。反論もしない。ただ、肯定しながら、聞き役に回る。これは、長年、会社勤めで鍛えた僕の特技だった。
三杯目のビールで、愚痴が一巡した。すると、先輩たちの顔つきが、ふっと変わった。目が、遠くを見はじめる。
「……あの頃はなあ」
そう、この「あの頃は」が、始まりの合図なのだった。
僕は、箸を置いて、姿勢を正した。
「その頃のお話、ぜひ聞きたいです」
三人は、にんまりと顔を見合わせた。待っていました、と言わんばかりに。
気がつくと、窓の外は暗くなっていた。壁の時計を見ると、二十時五十五分。僕は、あまりの早さに驚いた。
「あれ、もうこんな時間ですか。まだ宵の口ですよね」
その瞬間、吉岡さんが、ぴしゃりと言った。
「撤収だ」
「え」
「二十一時撤収。これが我々の鉄則だ」
三人は、驚くほどの手際で立ち上がった。大石さんは財布から、きっちり割り勘の金額を出し、久保田さんは、僕の分の飴をそっと机に置いた。会計は、三分で終わった。
「帰って風呂に入って、二十二時には寝る。そして朝は、四時に目が覚める」
「それは、もう、体がそうなってるんですね」
「そうだ。年寄りの体は、律儀なんだよ」
こうして、僕の初めての「お食事会」は、二十一時十分に終わった。居酒屋の外では、駅前の若者たちが、これから夜が始まるといった顔で歩いている。その人混みの中を、僕と三人の先輩は、逆流する鮭のように、家路についた。
帰宅したのは二十一時半。
「あら、お早いお帰り」
カミさんが、居間から顔を出した。
「お食事会、おいしかった?」
「……うん。おいしかった」
「それはよかった」
カミさんは、目だけで笑って、テレビに視線を戻した。
その目の奥に、何か、ものすごく深いものが沈んでいる気がしたが、僕はその夜は、深く考えずに風呂に入った。



二章 ここだけの話
二回目、三回目と通ううち、先輩たちの口は、どんどん軽くなっていった。
特に、バブル期の話である。
僕は、この話を聞くのが、楽しくて、そして少し羨ましくて仕方がなかった。
久保田さんが語る。
「商社にいた頃はね、深夜のタクシーなんて、止まりゃしないんだ。そこでどうするかというと、一万円札を、こう、指に挟んで、ひらひら振る。すると、反対車線のタクシーまで、Uターンして来る」
「本当ですか」
「本当だ。しかも、乗って行き先を告げると、運転手が言うんだよ。お客さん、お釣りは要りませんかって。俺は、いいって言った。すると運転手が泣くんだ。ありがとうございますって」
「泣いたんですか、運転手さん」
「いや、俺が泣いた。翌朝、財布が空っぽだったから」
大石さんが、負けじと身を乗り出す。
「俺はね、電話一本で一億動かした。朝に買った土地を、昼に売って、夕方には別の土地を買う。夜には、それを祝って飲む。一日のうちに、三回儲けるんだ」
「三回も。すごいですね」
「だがな、航ちゃん。一回も、土地を見たことがない」
「えっ」
「図面だけだ。現場を見に行く暇がない。後になって、あの土地は、田んぼのど真ん中だったと知った。俺は、田んぼを売って、田んぼを買っていたんだ」
「それはもう、農家ですね」
「そうなんだよ。しかも、一度も稲を刈ってない」
先輩たちは、腹を抱えて笑った。僕も笑った。
「それから、それから?」
と僕は促す。この「それから」が、僕の秘密兵器だった。先輩たちの話の、そのまた先の、言うに言えない部分を、無理に聞き出すのである。
すると、大石さんが、急に声を落とした。
「……実はな。これは墓場まで持って行くつもりだったんだが」
「はい」
「銀座のクラブで、ある晩、えらく酔っ払ってね。隣の席のおじさんの会計を、間違えて、全部払っちまったんだ」
「それは、お気の毒に」
「いや、問題はそこじゃない。そのおじさんは、俺の会社の、取引先の社長だった。そして、後日、先方から、丁寧なお礼状が届いた。『先日は、過分なご接待をありがとうございました』。それを見た俺の上司が、俺を取引先に大抜擢したんだ」
「えっ。じゃあ、間違いのおかげで出世を」
「そうだ。俺の出世は、泥酔した間違いの上に立っている」
僕は、箸を置いて、深く頭を下げた。
「それは、大事件ですね。絶対、ナイショですね!」
「頼むよ、航ちゃん」
その「ナイショ」を、僕は、胸のいちばん奥の引き出しにしまった。しまったが、引き出しは、毎回、いっぱいになっていった。
久保田さんの墓場まで持って行く話は、ホステスさんに、会社の机の鍵を預けたまま、三日間連絡が取れなくなった話だった。
吉岡さんの話は、いつもいちばん控えめだった。信用金庫は地味だから、と、笑って言う。
「我々は、堅実が売りだ。派手なことは、あまりなかったよ」
「でも、バブルの頃は、融資の担当というのは、神様みたいな存在だったと聞きます」
「神様か。まあ、頭を下げてくる人は、多かったな」
吉岡さんは、少し遠い目をした。その目の奥に、何かが、ちらりと光った。僕は、あれ、と思った。大石さんと久保田さんも、一瞬、吉岡さんの方を見て、すぐに視線を外した。
三人だけが知っていて、僕にはまだ見えない何かが、その座敷の空気の中に、うっすらと漂っている。
けれど、その日は、そこで二十一時になった。
「撤収!」
「はい、撤収です」
僕も、すっかり、この号令に慣れてきていた。



三章 針の上の領収書
その晩は、十月の第三木曜日だった。
先輩たちの話を聞きながら、僕は、自分の若い頃を思い出していた。そして、つい、口を開いてしまった。
「実は僕らの世代はですね、バブルの恩恵なんて、ほとんど受けていないんです」
「ほう」
「ちょうど社会に出たばかりの、修行中の身でして。毎日毎日、仕事に追われて、一週間くらい家に帰れないこともありました。近くのサウナで寝泊まりして」
「サウナで?」
「ええ。そこから出勤するんです」
僕は、当時勤めていた会社のことを話した。広告や、小さな企画の仕事をする会社で、名前を「大黒企画」といった。社長の名前も大黒。名前は福の神なのに、顔は、福々しいというより、なんというか、掴みどころのない、のっぺりとした人だった。
「その社長がですね。毎朝、僕らが徹夜明けの顔で出勤すると、先に来て、机に座っているんです。それで、決まって、こう微笑む」
僕は、こめかみを押さえて、情けない顔を作ってみせた。
「いやあ、昨日は、飲み過ぎたよ。二日酔いだ」
先輩たちが、くすっと笑った。
「そして、いつの間にか、社長の机の上に、針が立っているんです。レシートを刺す、あの針ですよ。銀色の、台座のついた。そこに、何枚も、何枚も、スナックの領収書が刺さっている」
「あったなあ、あの針」
「毎朝、そのスナックの領収書が、増えている。僕は、ある日、気になって、経理のオバさんに聞いたんです。社長は、一晩で、いくらくらい使うんですかって」
当時の経理には、トメさんという、小柄なおばさんがいた。いつも、そろばんと電卓を両方使う人で、社内でいちばん長くいて、社内のことは、何でも知っていた。
「トメさんは、僕の顔を、じっと見て。それから、クスッと笑って、こう言ったんです。『それは、知らない方が良いわよ』」
僕は、そこで、ビールを一口飲んだ。
「多分、僕らの給料の数倍だったんでしょうね。いつか見てろよ、と思いました。それで頑張ってみたら、僕らの時代には、もうバブルは終わっていた。それからは、一度も、美味しい思いをしないまま、細々と、真面目にやってきて。……そんな時間も、もう、終わってしまいました」
しんみりした空気が流れた。
大石さんが、僕の肩を叩こうと手を伸ばしかけた。その時である。
カラン、と音がした。
吉岡さんの箸が、皿の上に落ちたのだった。
「……航ちゃん」
「はい」
「今、その会社の名前は、大黒企画と言ったかい」
「そうです」
「社長は、大黒、……大黒茂さん?」
「えっ。ご存じなんですか」
吉岡さんは、返事をしなかった。ゆっくりとジョッキを持ち上げて、残りのビールを、一気に飲み干した。その喉の動きが、ひどく大きく見えた。
大石さんと久保田さんも、黙って顔を見合わせている。
「あの針に、スナックの領収書が、刺さっていた、というんだね」
「ええ、毎朝」
「社長は、毎朝、二日酔いだと、微笑んでいた」
「はい」
吉岡さんは、眼鏡を外して、ハンカチで拭いた。そして、もう一度かけた。そのしぐさを、三回繰り返した。
そして、ぽつりと言った。
「世間は、狭いなあ」
「あの、吉岡さん?」
「航ちゃん。その話は、来月まで、ここに置いておいてくれないか。来月の第三木曜に、全部話す」
「全部……」
「そうだ。全部、だ」
吉岡さんの背筋が、普段にも増して、ぴんと伸びていた。
時計を見ると、二十時五十八分だった。吉岡さんは、立ち上がった。
「撤収だ」
その声が、初めて少しだけ、震えていた。



四章 消えた伝説の方々
次の一か月は、とにかく長かった。
僕は、毎日、散歩の途中で、吉岡さんの家の前を通った。門の前を通るたびに、表札をちらりと見る。「吉岡」。何も変わらない、ただの表札である。
しかし、いったい、僕の上司だった大黒社長と、吉岡さんの間に、何があったのか。
ひとつだけ、僕には思い当たることがあった。
僕は、先月、居酒屋で、こんなことを言った。
――あの頃、やり過ぎた方々は、早々と失踪して、もう一人も残っていない。
そう言ったとき、あの三人は、確かに、同時に黙った。
僕は、翌週、大石さんが朝の散歩をしているところを、たまたま装って、捕まえた。
「大石さん、おはようございます」
「お、航ちゃん。早いな」
「あの、以前、居酒屋で、ちらっと話したでしょう。バブルの頃にやり過ぎた人たちが、みんな、いなくなったという話」
「ああ、あれか」
大石さんは、足を止めた。
「実際、本当に、いなくなったんだよ。この辺りだけでも、四人ほどな。派手だったなあ、あの連中は」
そして、指を折りはじめた。
「まず、黒田。銀座の黒田と呼ばれた不動産屋で、金の腕時計を、左右の腕に、ひとつずつしていた。『時間は二つないと足りない』が口癖だった」
「左右に、ですか」
「次が、三宅。証券会社の営業だ。ピンクのシャツしか着ない男だった。『ピンクは上がる色だ』と言って」
「上がる色」
「それから、白井。ゴルフ場を開発していた男でな。帽子がいつも、でかい。ゴルフ場を作るのに、山を一つ、丸ごと買った。そして、買った山を、一度も登っていない」
「大石さんと、同じですね」
「うるさい。最後が、沼田。リゾート会員権の沼田だ。『沼田に任せろ』と言われて、任せた人間は、全員、沼に沈んだ」
「名前の通りに」
「そうなんだよ。……この四人が、一九九二年から九四年の間に、順番に、ぱったり、消えた」
僕は、少しぞくっとした。
「消えたって、どうやって」
「どうやってもこうやっても、朝、事務所に行くと、鍵が開いていて、中が空っぽだ。机の上に、飲みかけの缶コーヒーだけが残っていた」
「それは、……夜逃げですか」
「当時は、そう言われた。だが、噂は、噂を呼んでな」
大石さんは、まるで怪談話をするように、声をひそめた。
「黒田は、南米で、現地の王様になったと言う者がいた。三宅は、ピンクのシャツのまま、海に飛び込んで、人魚に連れて行かれた、と言う者がいた。白井は、山に登って、そのまま、仙人になった、と」
「仙人は、さすがに」
「沼田は、沼に沈んだ、と」
「それは、そのまんまですね」
僕は、思わず吹き出した。大石さんも、釣られて笑った。しかし、すぐに、笑いを引っ込めた。
「ただな、航ちゃん。あの頃は、本当に、笑えない時代でもあったんだ」
「……」
「バブルが弾けて、借金だけが残った。毎日、誰かが、青い顔をしていた。もっと悪いことを考える人間が出ても、不思議じゃない空気だった。そんな時に、四人とも、消えた。死んではいない。もし、死んだなら、噂が残る。だが、消えただけなんだ」
大石さんは、そこで、はっと口を閉じた。
「……いや、俺は、何も知らん。吉岡に聞いてくれ。来月、話すと言っていただろう。あいつが、全部知っている」
そう言って、大石さんは、そそくさと散歩の続きに戻っていった。いつもより、明らかに早足だった。
僕は、その背中を見送りながら、思った。
失踪したのは、四人。
そして、その四人の「失踪」の裏には、吉岡さんがいる。
その夜、台所で、お茶を淹れているカミさんに、何気なく聞いてみた。
「ねえ。昔、この辺で、不動産屋の黒田さんとか、証券会社の三宅さんとかいう人が、いなくなったって話、知ってる?」
カミさんは、急須のお湯を、ぴたりと止めた。
「……さあ。知らないわねえ」
「そう」
「早く、お茶、飲みなさい」
目を合わせずに、茶碗を差し出す。その手が、ほんの少しだけ、笑いをこらえているように見えた。
まさか、な。
僕は、その疑念を、湯気と一緒に、ふっと吹き消した。



五章 墓場まで持って行く話
十一月の第三木曜日は、冷たい雨だった。
ところが、あまりに冷たい雨で、翌朝の天気予報では、たぶん雪になる、と言っていた。ということは、その夜の居酒屋は、いつもより、ほんの少し温かく感じられるはずだった。
十七時。暖簾が出る。
席に着くと、吉岡さんは、いつもと違っていた。まず、乾杯の前に、一枚の紙を、机の上に置いた。
「何ですか、これは」
「当時の資料だ。最初に、見てほしい」
それは、古い、茶色く変色したコピー用紙で、細かい数字がびっしりと並んでいた。
「この数字は」
「大黒茂社長の、スナックの領収書の、金額だ」
僕は、息を呑んだ。そこには、確かに、僕が針の上で毎朝見ていた、あのスナックの名前があった。「スナック みどり」。
「あの、吉岡さん。どうして、これを」
「当時、俺は、大黒社長の、担当だった。信用金庫の、若手の融資係としてな。毎晩のように、社長の飲み歩きに、お供させられた」
「お供」
「そうだ。スナック『みどり』には、二日に一度は、行った」
そこで、吉岡さんは、周囲を、じろりと見回した。大将が遠くで包丁を握っている。他の客は、いない。
そして、一気に、告白した。
「航ちゃん。落ち着いて聞いてくれ。大黒社長は、な」
「はい」
「一滴も、飲めなかったんだ」
僕は、持っていた箸を、落とした。
「えっ」
「下戸だ。奈良漬けを食べても、顔が赤くなる人だった。『みどり』のカウンターで、毎晩、ウーロン茶を、三杯、飲んでいた」
「でも、毎朝、二日酔いだって」
「あれは、演技だ」
僕は、こめかみを押さえて微笑んでいた社長の顔を、思い出した。あの、少し困ったような、情けなく見える笑顔。あれが、演技だったとは。しかも、あまりに堂に入っていた。
「社長は、毎朝、社員の前で、二日酔いの顔を、練習していたよ。鏡の前で。トメさんが、『社長、今朝のは、頭の右側が痛い感じでしたね』と、ダメ出しをしていた」
「トメさんも、知ってたんですか」
「知っているどころか、彼女が、全部取り仕切っていた」
吉岡さんは、そこで、日本酒を一口含んだ。
「では、なぜ、そんな領収書を、あれほど溜め込む必要があったのか。それは、航ちゃん。当時、ママの『みどり』さんと社長が、ある取り決めをしていたからなんだ」
「取り決め」
「スナックで使った、ということにして、領収書をもらう。その金額に見合う現金を、ママが、社長に戻す。もちろん、そのまま現金化すれば、まずい。ただし、ここからは時効だと、俺は信じているが」
「……はい」
「その現金で、社長は、困っている人間を、助けていたんだ」
僕は、言葉を失った。
「バブルが弾けて、借金で首が回らなくなった者が、ごろごろいた。銀行は、貸し剥がしで容赦ない。信用金庫も、同じだ。俺は、その最前線にいた。ある日、四人の名前が、俺の担当リストに並んだ。黒田、三宅、白井、沼田だ」
「あの、四人が」
「そうだ。彼らは、もう、どうにもならない状態だった。このままでは、本当に、取り返しのつかない悪い結果になる。そんな、顔をしていた」
吉岡さんの声が、低くなった。
「俺は、大黒社長に、相談した。社長は、少し黙って、こう言った。『逃がしてやろう。人間は、生きてさえいれば、何とかなる』」
「逃がす」
「ああ。借金は、いずれ、少しずつ返せばいい。しかし、まずは、全員が、人知れず、別の暮らしを始めること。名前を変えるわけじゃない。ただ、居場所を消す。社長が、新しい住み処と、当座の資金を、用意した。そして俺が、……書類のいくつかを、うっかり、紛失した」
「紛失」
「そうだ。信用金庫員としては、完全に、あってはならないことだ」
吉岡さんは、苦笑した。
「これが、俺の、墓場まで持って行くつもりだった話だ。四人は、失踪したんじゃない。俺たちが、逃がしたんだ」
僕の頭の中で、毎朝のスナックの領収書の山が、ぐるぐると回った。
社長は、飲んでいなかった。毎晩、ウーロン茶を飲みながら、人の命を、救っていたのだった。
「社長は……」
「十二年前に、亡くなった。肺の病気だった。最後まで、一滴も、飲まなかったよ。葬式の時に、トメさんが、棺の中に、ウーロン茶を、そっと入れていた」
胸が、じんわり、熱くなった。
「絶対、ナイショですね」
僕は、かろうじて、そう言った。声が、少し震えていた。
「ああ、頼む。ただな、航ちゃん」
吉岡さんは、そこで、急に、にやりとした。
「実は、話は、これで終わりじゃない」
「えっ」
「本当の大事件は、これからだ。……大石、久保田。あれを」
大石さんが、懐から、一枚のはがきを取り出した。差出人の欄には、「黒田」と書かれている。
「毎年、十二月に、四人から、生存確認のはがきが届く。社長との、約束だった。今年のはがきには、こう書いてある」
僕は、はがきを覗き込んだ。そこには、太い、不器用な字で、一行だけ、書かれていた。
『そろそろ、帰りたい。 黒田』
「……帰ってくるんですか」
「来月の、忘年会だ。十三日に。この店に、四人とも、来る」
吉岡さんは、そこで時計を見た。
二十時五十八分。
「撤収だ」



六章 喫茶みどり
忘年会まで、あと六日。
僕は、居ても立ってもいられなくなって、ある場所に足を運んだ。
駅の裏通りの、さらに裏。昔はスナックが並んでいたというその一角に、今は一軒だけ、小さな喫茶店が残っている。
看板には、ひらがなで、こう書かれていた。
『喫茶 みどり』
吉岡さんから、それとなく聞き出した場所だった。スナック「みどり」のママは、店を畳んでから、同じ場所で、喫茶店を続けているという。
ドアを開けると、からん、と鈴が鳴った。カウンターの向こうで、白い髪をきれいにまとめた小柄な女性が、グラスを拭いていた。七十九歳。それでも、背筋が、すっと伸びている。ひと目で、かつて夜の街を仕切っていた人だと分かった。
「いらっしゃい。お一人?」
「はい。あの、ブレンドを」
「かしこまりました」
湯気の立つコーヒーが、静かに置かれた。僕は、一口飲んでから、思い切って切り出した。
「あの、僕、三十年ほど前に、大黒企画にいた者で」
グラスを拭く手が、ぴたりと止まった。
「……大黒、の」
「はい。社長の、領収書の針を、毎朝、睨んでいた若造です」
ママは、僕の顔を、まじまじと見つめた。それから、ふっと、肩の力を抜いた。
「ああ。あなたが、サウナの子ね」
「どうして、それを」
「社長が、いつも、言っていたわよ。うちの若いのは、サウナで寝ながら、よく頑張る。いつか、いい男になる、って」
胸の奥が、ぎゅっとなった。
「社長が、そんなことを」
「毎晩ね、ウーロン茶を飲みながら、会社の自慢話をするの。あなたたちの話、いっぱい聞いたわ。誰が、徹夜明けに、寝言で、クライアントの名前を叫んだとか」
「それは、……僕かもしれません」
「ふふふ。やっぱり」
ママは、カウンターの下から、小さな缶を取り出した。蓋を開けると、中に入っていたのは、コースターの束だった。どれも、くたびれた紙製で、「スナック みどり」と、赤い字で印刷されている。
「社長は、毎晩、これに、何か書いてたの。ウーロン茶のグラスの下に敷いて。私が、洗い物の時に拾い集めたのよ」
差し出された一枚を、僕は、そっと手に取った。
そこには、鉛筆で、細かい文字が、並んでいた。
『黒田 今月分 足りず』
『三宅の子、進学。祝い金』
『沼田、まだ連絡なし』
『白井、元気そう。安心』
たったそれだけ。でも、僕には、それが、世界でいちばん、重たい言葉に見えた。
「社長は、毎晩、これを書きながら、四人の様子を、心配していたの。お酒は、飲まないのに、いちばん、酔っているような顔をしていた」
「……」
「それからね、社長は、歌が、ものすごく下手だったのよ」
「え?」
「音痴。それも、ただの音痴じゃないの。伴奏と、まったく関係のない音程で、堂々と歌う。それを、毎晩、一曲ずつ。お客さんが、みんな、笑い転げて。そうするとね、社長、いつも、満足そうに言うの」
ママは、いたずらっぽく笑って、声色を作った。
「『ほら、今夜も、みんな、笑って帰った。これで、いい』」
僕は、ふいに、目の奥が、熱くなって、慌てて、コーヒーカップを持ち上げた。
「社長は、わざと、下手に歌っていたんですか」
「どうかしらね。半分は、本気で下手だったと思うわ」
「半分は」
「ええ。でもね、航さん。あの人は、人を笑わせることで、自分の秘密を、守っていたのよ。滑稽な人だと思われているうちは、誰も、本当のことを、探そうとしないでしょう」
僕は、ようやく、分かった気がした。
不思議で、滑稽で、大事件。
それは、一人の下戸の社長が、三十年かけて、誰にも気づかれずに、仕掛け続けた、巨大な、優しい、いたずらだった。
「ママさん。十三日の夜、駅前の『とりまる』で、再会の会をします。いらっしゃいませんか」
ママは、首を、ゆっくりと、横に振った。
「ありがとう。でも、私は、行かない」
「どうして」
「だって、私は、お店で、待っている側の人間だもの。みんなが、帰ってきた時に、ここで、コーヒーを淹れて、おかえりと言うのが、私の役目なの」
そう言うと、ママは、棚から、新しい缶を取り出した。
「でも、これを、四人に、渡してくれる?」
缶の中には、手作りの、小さな、焼き菓子が入っていた。
「ウーロン茶で乾杯の席に、甘いものが、あった方が、いいでしょう」
「……ご存じなんですか。ウーロン茶で乾杯するって」
「そりゃあ、分かるわよ。だって、私が、三十年、社長と、そうやって、乾杯してきたんだから」
店を出ると、通りの向こうに、冬の夕日が沈んでいくところだった。
僕は、缶を胸に抱えて、駅へ向かって歩いた。
その背中に、ママの声が、追いかけてきた。
「航さん!」
「はい」
「社長はね、あなたの二日酔いの顔、よく、真似してたのよ。……あなたの方が、ずっと、下手だったけど」
「それは、どういう」
「サウナ明けの、あなたの顔。いつも、本物の二日酔いみたいだった、って」
僕は、笑いながら、泣いていた。



七章 トメさんのそろばん
忘年会まで、あと三日になった。
僕は、迷わなかった。行く先は、決まっていた。
トメさんの家である。
吉岡さんから、住所を聞いた。駅から、バスで二十分。小さな団地の、二階だった。ドアをノックすると、現れたのは、かつての小柄なおばさんを、そのまま、ひとまわり縮めたような、八十三歳のおばあさんだった。
「あらあ。どちら様?」
「大黒企画で、三十年ほど前に、お世話になった、航です。覚えていらっしゃいますか」
トメさんは、しばらく僕の顔を眺めて、それから、顔をほころばせた。
「ああ、あの、サウナの子」
「サウナの子、です」
「そうそう、一週間、帰らなかった子。上がんなさい」
部屋に入ると、居間の隅に、小さな仏壇があった。そこに、大黒社長の写真が飾られている。写真の隣に、ウーロン茶の缶が、一つ、供えてあった。
僕は、線香をあげて、手を合わせた。それから、トメさんに、これまでのことを、正直に話した。居酒屋の先輩のこと。吉岡さんのこと。四人の失踪のこと。社長が、一滴も飲めなかったこと。
トメさんは、静かに、聞いていた。
「吉岡さんが、話したのね」
「はい」
「あの人は、昔から、口が堅いふりをして、案外、柔らかいのよ」
「トメさんは、全部ご存じだったんですよね。あの時、僕が、社長は、一晩でいくら使うのか、と聞いた時」
「ええ」
「『それは、知らない方が良いわよ』と」
「言ったわねえ」
トメさんは、くつくつと笑った。
「あなたは、真面目な子だった。真面目な子は、知ってしまうと、顔に出るのよ。それで、社長の身に危険が及んだら、困るでしょう。だから、知らない方が良い。あれは、あなたを守る言葉でもあったのよ」
僕は、ぐっと、こみ上げるものを、飲み込んだ。
「あの……ひとつだけ、聞きたいんです。針のことです」
「針?」
「社長の机の、領収書の針です。毎朝、あれが、増えていた。あれは、見せるために、刺していたんですか」
トメさんの目が、きらりと光った。
「あなた、いい線を突くわね」
彼女は、よっこらしょ、と立ち上がって、押し入れの奥から、何かを取り出した。
それは、古い、錆びた、銀色の台座のついた針だった。
「これは……」
「あの針よ。社長が亡くなる時に、私が貰ったの。大事なものだから、と言って」
トメさんは、その針を、そっと、僕の手のひらに載せた。ずしりと重い。
「あのね。社長は、領収書を、わざと、毎朝、見えるところに刺していたの。社員に、見せつけるためだった」
「見せつける、ために」
「そう。『うちの社長は、遊び人で、どうしようもない』と、みんなに、思わせるため。そうすれば、誰も、領収書の本当の意味を、探ろうとしない。社長は、悪者になることを、選んだのよ」
僕は、手の中の針を、じっと見つめた。
毎朝、「いつか見てろよ」と、心の中で、社長を睨んでいた、若い自分のことを思い出した。
「僕は、社長のことを、ずっと、誤解していました」
「みんな、そうだったわよ。それでいいの。それが、社長の、作戦だったんだから」
トメさんは、そこで、ふっと真顔になった。
「でもね、航さん。私は、もう、八十三。墓場まで、持って行くつもりだったけど、……ほら、もう、墓場が近いでしょう」
「そんな」
「だから、時々、誰かに話したくなるのよ。ほほほ」
僕は、吹き出した。
トメさんも、笑った。二人で、しばらく、笑っていた。
笑い終わると、僕は、居住まいを正した。
「トメさん。十三日の夜、十七時に、駅前の『とりまる』に、来ていただけませんか。黒田さんたちが、帰ってきます」
トメさんは、目を丸くした。
「あの四人が? もう、三十年になるのね」
「そうです」
「……行くわ。そろばんを、持って」
「そろばん?」
「ええ。利息の計算があるの」
僕は、その意味が分からなかったが、トメさんは、ただ、にんまりと笑っただけだった。



八章 前夜の作戦会議
十二月十二日の夜、吉岡さんの家で、緊急の「お食事会」が開かれた。
もちろん、お食事会である。奥さんたちには、そう伝えてある。ただし、場所は居酒屋ではなく、吉岡さんの家の、応接間だった。
集まったのは、四人。吉岡さん、大石さん、久保田さん、そして、僕。議題は、ただひとつ。
「明日、どんな顔で、会えばいいのか」
吉岡さんは、座布団の上に、きちんと正座をして、腕を組んでいた。
「三十年ぶりだ。何を言えばいい」
「普通に、久しぶり、でいいんじゃないですか」
僕が言うと、三人が、同時に、首を振った。
「いや、航ちゃん。三十年ぶりの『久しぶり』が、普通のはずがない」
「そうだ。もっと、こう、劇的な何かが、必要だ」
「例えば」
大石さんが、立ち上がった。そして、両手を、ばっと広げて、天井を見上げた。
「おお、黒田よ! 生きていたか!」
シーン。
「……どうだ」
「大げさすぎます」
「そうか。じゃあ、これは」
大石さんは、今度は、胸に手を当てて、うつむいた。
「待っていたぞ。三十年、お前たちを、待っていた」
「それは、いいですね。ただ、大石さん」
「何だ」
「もう、泣いてますよ」
大石さんの頬を、大粒の涙が、ぽろぽろと伝っていた。
「うるさい。練習の段階で、泣いてしまうのが、俺の、悪いところなんだ」
久保田さんが、横から、飴を差し出した。
「舐めろ。落ち着くぞ」
「ありがとう」
大石さんは、飴を口に入れて、ずびずび、鼻をすすった。
それから、僕は、気になっていたことを、聞いてみた。
「久保田さん。いつも、ポケットに飴を入れていますよね。あれは、何か、理由が」
久保田さんは、ぽっと顔を赤らめた。
「……実はな。商社時代、俺は、一日に、煙草を、六十本吸っていた」
「六十本」
「それで、四十の時に、医者に、止められた。禁煙するために、飴を、舐めはじめたんだ。それが、三十五年、続いている」
「三十五年」
「飴の方が、よっぽど、体に悪いかもしれん。毎日、二十個は食べるから」
「それは、虫歯が」
「差し歯だ」
その場の全員が、しんみりと、うなずいた。
話が、一段落して、僕らは、翌日の服装を、真剣に話し合いはじめた。
「大石、お前は、ネクタイを、するのか」
「するとも。黒田には、一番、立派な俺を、見せたい」
「お前、結べるのか」
「結べる。……はずだ」
「はずって、何だ」
「三十年、結んでいないから、ちょっと、不安なんだ」
「やってみろ」
大石さんが、ネクタイを持ち出して、首に巻いた。ぐるぐると結んで、鏡を見る。
見事に、曲がっていた。
「どうだ」
「……曲がっています」
「直せ」
「直せません。僕も、結ぶのは、苦手で」
結局、三人がかりで、五回、結び直した。それでも、曲がっていた。
「もういい。曲がったままで、行く」
「それが、大石らしくて、いい」
吉岡さんが、ようやく、少しだけ、笑った。
そこへ、ふすまが、すっと開いた。
吉岡さんの奥さんだった。お盆に、おにぎりと、味噌汁を載せている。
「お食事会、お疲れ様です。夜食に、どうぞ」
「ああ、ありがとう」
奥さんは、僕らの顔を、ぐるりと、見回した。そして、にっこりと、笑った。
「明日、楽しみですね」
「え」
「お食事会、でしょう? いいわねえ。楽しんでらっしゃい」
その笑顔の、あまりの穏やかさに、僕は、一瞬、背筋が、ぞくっとした。
吉岡さんは、おにぎりを、ほおばりながら、何も気づかない顔で言った。
「ああ、ただの、お食事会だよ」
「そうですか。そうですよね」
奥さんは、ゆっくりとふすまを閉めた。閉まる直前、僕と目が合った。その目が、ちらりと、いたずらっぽく、細められた気がした。
廊下の向こうで、くすくす、と、かすかに、笑い声がした。
「……今、何か、聞こえませんでした?」
「何も、聞こえんぞ」
「そうですか」
僕は、おにぎりを、一口かじった。梅干しが、入っていた。ものすごく、しょっぱかった。
その、しょっぱさの奥に、何かが、ほんのりと、温かかった。



九章 十二月十三日、午後五時
その日は、予報通り、朝から雪だった。
十七時。僕は、「とりまる」の暖簾の前に、立っていた。吉岡さんたち三人は、もう、先に来ていた。三人とも、いつもより、ずっと身なりを整えている。大石さんは、ネクタイを締めていた。しかも、曲がっていた。
「緊張するなあ」
「何年ぶりだ」
「三十年だよ」
「顔、分かるかな」
「分かるさ。ピンクのシャツを探せ」
暖簾が出た。大将が、気づいて、笑顔になる。
「あ、今夜は、奥の座敷を、広めにしておきました。団体さんですってね」
「団体、というほどじゃないが。まあ、よろしく頼む」
全員が席に着くと、時計は、十七時十五分を回った。
その時だった。
ガラガラ、と、入り口の引き戸が、豪快に開いた。
「どーもー! 遅くなりました!」
雪まみれで、そこに立っていたのは、まるまると太った、日焼けした男だった。毛皮の帽子をかぶり、全身から、うっすらと羊の匂いがする。
「く、黒田!」
「吉岡さん!」
ふたりは、がしっと抱き合った。黒田さんは、泣いていた。
「北海道で、羊を、飼っていたんだ。もう、二十八年になる。羊と、毎日、話をしていると、時計が、ひとつで足りることに気づいた」
「左右に、ひとつずつ、しなくなったのか」
「ああ。今は、羊の時間で、生きている」
そこへ、もう一つ、人影が現れた。
白装束に、笠をかぶり、金剛杖をついた、痩せた男が、静かに立っていた。
「み、三宅……」
「ご無沙汰しています」
三宅さんは、深々と頭を下げた。白い装束が、雪で、さらに白かった。
「四国で、遍路宿を、営んでいます。ピンクのシャツは、とうとう、脱ぎました」
「お、おお……」
「その代わり、毎日、白を着ています」
「ピンクの方が、上がる色だったんじゃないのか」
「今は、下がることを、大切にしています」
その言葉に、全員が、ほろりとした。
続いて、三人目。真っ黒に日焼けした、がっしりした男が、大きな帽子を押さえて入ってきた。
「白井!」
「やあ、みなさん。離島で、灯台の近くに、民宿を開いています。山は、もう、買いません」
「海は」
「海は、買えませんでした」
「どうして」
「大きすぎて」
そして、最後に。
ガラ、ガラ、ガラ。重い音とともに、四人目が入ってきた。両手に、でかい寸胴鍋を持った男だった。鍋からは、ほかほかの、出汁の香りが立ちのぼる。
「ぬ、沼田!」
「お待たせ。博多で、屋台のおでん屋を、やっております。手土産に、これを。大根が、いちばんうまいところです」
「鍋ごと、持ってきたのか」
「冷めないように」
店の大将が、じっと、その鍋を見つめている。
「……お客さん。うちは、居酒屋で、おでんも、置いておりますが」
「いや、これは、同業の礼儀で」
「あ、それなら」
大将は、何かを察して、静かに引き下がった。
四人が揃った。三十年ぶりの、再会だった。
僕は、預かってきた缶を、そっと机に置いた。
「喫茶みどりの、ママさんからです。『おかえりなさい』と」
座敷が、しんと静まった。黒田さんが、蓋を開ける。小さな焼き菓子が、ぎっしり並んでいた。
「……ママ、まだ、元気なのか」
「はい。お店で、待っていらっしゃいます」
「そうか。そうか……」
三宅さんは、白装束の袖で、顔を覆った。
座敷の中で、抱き合って、笑って、泣いて、また笑った。僕は、その光景を、隅の方で、ただ、眺めていた。
その時、またもや、入り口の戸が開いた。
小柄なおばあさんが、ゆっくり、入ってきた。
トメさんだった。
一瞬、座敷が、しんと静まり返った。
四人は、まるで教師に呼ばれた生徒のように、そろって、直立した。
「と、トメさん」
「お久しぶり。皆さん、元気そうね」
トメさんは、持参した風呂敷包みを、机の上に、どん、と置いた。
「社長の写真と、ウーロン茶を、持ってきたわ。今日は、社長も、お連れしないと」
写真が置かれる。その前に、ウーロン茶の缶が置かれた。それを見て、黒田さんが、わあっと声を上げて、泣き出した。
「社長……社長……」
四人の男が、写真の前で、声を上げて泣いた。僕も、いつの間にか、目頭が、熱くなっていた。
「さて」
トメさんが、風呂敷から、もう一つ、取り出した。
そろばんだった。
「皆さん、そろそろ、お話ししなくちゃね。大黒ノートの、最後の頁を」
「大黒ノート?」
「社長が、貸したお金の記録よ。社長は、貸すと言わなかった。あげる、とも言わなかった。ただ、ノートに、書いていたの。『いつか、元気になったら、返してね』と」
トメさんは、パチパチパチ、と、そろばんを弾いた。
「あなたたちは、毎年、少しずつ、私の口座に、お金を送ってきたでしょう。名前を書かずに」
「あ、……」
「全部、きちんと、貯めてあるわ。元金と、利息と、それから、ほんの少しの、おまけ」
トメさんは、そろばんを置いて、にっこりと、笑った。
「完済です。おめでとう」
沈黙。
そして、次の瞬間、座敷は、爆発した。
「やったぞ!」
「完済だ!」
「三十年かかった!」
大石さんが立ち上がって、万歳をした。久保田さんが、ポケットから、飴を、全員に配りはじめた。吉岡さんは、ハンカチで、眼鏡を拭いた。三回、拭いた。
乾杯は、全員、ウーロン茶だった。
「社長に、乾杯!」
「大黒社長に、乾杯!」
ウーロン茶で乾杯をする、七人の老人と、一人の若造。
それは、世界一、素晴らしい、居酒屋の光景だった。
おでんは、どんどん減り、羊の話で盛り上がり、お遍路の話で盛り上がり、灯台の話で盛り上がり、気がつくと、時計が、二十時五十五分を指していた。
僕と、吉岡さんたちは、同時に、時計を見た。
黒田さんが、言った。
「いやあ、楽しい。夜は、まだこれからだ。皆さん、二次会といきませんか」
沈黙。
「……」
「……あの」
「どうしました?」
吉岡さんが、すっと立ち上がった。
「すまん、黒田。我々は、二十一時撤収なんだ」
「えっ」
「帰って風呂に入って、二十二時には、寝る」
「三十年ぶりの再会ですよ?」
「そうなんだが、体が、そうなっている」
黒田さんは、しばらく、ぽかんとしていた。それから、羊のような顔で、笑い出した。
「あははは。分かりました、分かりましたよ。バブルの帝王たちが、揃って、二十一時就寝。なんと、平和な世の中になったことか!」
「ああ。楽々、だ」
「楽々、ですか」
「そうだ」
全員が、笑い転げた。トメさんも、笑った。大黒社長の写真も、どこか、笑っているように見えた。



十章 カミさんの一言
二十一時半、僕は、雪の中を、帰宅した。
玄関で、雪を払っていると、カミさんが、顔を出した。
「お帰りなさい」
「ただいま」
「お食事会、どうだった?」
僕は、玄関に腰を下ろして、ふーっと、ため息をついた。
「……大事件だった」
「あら」
「本当に、とんでもない大事件で。三十年越しの、ものすごい話で。人の命が、救われて、四人が、失踪して、生きていて、羊で、遍路で、灯台で、おでんで、完済で」
「落ち着きなさい」
「でも、絶対に、ナイショなんだ。誰にも言っちゃいけない。墓場まで、持って行く話だって」
僕は、カミさんの顔を、見上げた。
カミさんは、にっこりと、笑った。
「分かってるわ。ナイショね」
「うん」
「ちゃんと、ナイショにしてあげる」
「……」
僕は、そこで、あることに、気づいた。
カミさんは、ちっとも、驚いていないのである。
「あの。まさか」
「なあに」
「……知ってた、とか」
カミさんは、ゆっくりと、一回、まばたきをした。
「航さん。吉岡さんの奥さんと、大石さんの奥さんと、久保田さんの奥さんと、私は、毎月、本当のお食事会を、やっているのよ」
「本当の」
「ランチよ。駅前の、喫茶店で。もう、半年になるかしら」
「半年……」
「それで、全部、聞いたの。黒田さんも、三宅さんも、白井さんも、沼田さんも。毎年、はがきが届いていたことも。大黒社長のことも。吉岡さんが、寝言で、うなされていたことも」
「寝言で、うなされていた?」
「ええ。『書類を、紛失しました』って。三十年、毎週」
僕は、玄関に、がくりと、膝をついた。
「じゃ、じゃあ。先輩たちの、墓場まで持って行く話は」
「奥さんたちは、全員、とっくに、知っているわ」
「ええええ」
「でもね、航さん。男の人は、秘密にしているつもりでいる時が、いちばん、可愛いのよ。だから、みんな、黙って、知らんぷりをしてあげているの」
「それは、……」
「ほら。『お食事会』って、言うでしょう。あれは、うちの奥さんたちの、優しさなのよ」
僕は、呆然とした。
「あの、最初に、チャイムが鳴った時。吉岡さんたちが、お食事会と言って、来た時。……」
「ええ。あの時、笑いをこらえるのに、必死だったわ」
「肩が震えていたのは」
「そうよ」
カミさんは、ふふふ、と笑って、エプロンの端で、口元を押さえた。
「だって、あなたに、教えたかったのよ。でも、先輩たちが、あなたに、自分の口で、話したがっていたでしょう。だから、待っていたの」
僕は、玄関で、しばらく、動けなかった。
世の中の、いちばん大きな大事件は、実は、奥さんたちの、静かな、優しい、微笑みの中に、ひっそりと、あったのかもしれない。
「さ、お風呂が沸いてるわよ」
「……うん」
「それから、航さん」
「はい」
「トメさんの、そろばん。完済、おめでとう」
「そこまで、知ってるのかよ」
「ふふふ。トメさんの娘さんが、私の、お友達なの」
世間は、狭いなあ。
僕は、風呂に、ゆっくりと、浸かった。湯の中で、こめかみを、そっと押さえて、二日酔いの顔を、してみた。
……全然、似ていなかった。



終章 二十一時撤収
年が明けた。
一月の、第三木曜日。十七時。
居酒屋「とりまる」の暖簾の前に、四人の男が、並んで、立っていた。
吉岡さん。大石さん。久保田さん。そして、僕。
「やあ、航ちゃん。あけましておめでとう」
「おめでとうございます」
「いつもの、奥でいいかい」
暖簾が出た。大将が、にっこり笑って、頭を下げる。
「いらっしゃい。いつもの、奥ですね」
奥の座敷には、「予約席」の札が、立っている。端が、茶色くくたびれた札だった。その隣に、新しい札が、もう一枚、増えていた。
『大黒様 御席』
大将が、気を利かせたのである。
座敷の隅に、小さな座布団が、ひとつ置かれ、その上に、ウーロン茶の缶が、そっと、置かれていた。
僕らは、席に着いた。
「それじゃあ」
吉岡さんが、ジョッキを持ち上げた。
「新しい年に。そして、我々の日頃の……えー、食事会に」
「かんぱーい」
愚痴が、始まった。膝が痛い。腰が痛い。孫が来た。孫が帰った。町内会の会長が、また変わった。
僕は、いつものように、相づちを打った。
「それは大変ですね」
「いやあ、分かります」
「そうですか、そんなことが」
否定はしない。ただ、肯定しながら、聞き役に回る。
やがて、窓の外が暗くなり、先輩たちの目が、遠くを見はじめた。
「……あの頃はなあ」
僕は、ジョッキを置いて、にっこりと、笑った。
「それから、それから?」
三人が、にんまりと、笑った。
その夜、聞いた話は、またしても、とんでもなかった。大石さんが、一度だけ、本物のヤクザに間違われて、組長の席に座らされた話。久保田さんが、シンガポールで、象に追いかけられた話。そして、吉岡さんが、新婚旅行の途中で、取引先から電話を受け、そのまま、新妻を空港に置き去りにした話。
「それは、大事件ですね!」
「だろう」
「奥さんは、お怒りにならなかったんですか」
吉岡さんは、少し遠くを見た。
「怒ったさ。三年間、口をきいてくれなかった」
「それで、その後は」
「ある日、突然、笑って、許してくれた。理由は、いまだに、分からない」
僕は、心の中で、思った。
きっと、吉岡さんの奥さんも、他の奥さんたちも、みんな、どこかのお店で、同じ時間に、ふふふ、と笑っているに違いない。
ちらりと、壁の時計を見た。
二十時五十八分。
三人が、同時に、立ち上がる。
「撤収だ」
「撤収!」
僕も、立ち上がった。割り勘の財布を出す。久保田さんが、今日も、僕の机の上に、飴を、そっと置いていく。
店を出ると、駅前の若者たちが、これから始まる夜の顔で、笑っていた。
その人混みを、僕らは、逆流する鮭のように、歩く。
「航ちゃん。来月も、頼むよ」
「はい。もちろんです」
「だが、次は、どんな話を、聞きたい」
僕は、少し考えた。
不思議で、滑稽で、そして、とびきり大きな、事件。それを、この人たちは、あと何本、胸の奥に、隠しているのだろう。
「そうですね。……墓場まで、持って行くつもりだったお話を」
吉岡さんは、にやりと笑った。
「それは、あと、三十本はあるぞ」
「ありがたいです」
「足りるかな、航ちゃんの、時間が」
「足りますよ」
僕は、夜空を見上げた。星が、ちらちら、光っていた。
世の中は、バイオリズムのように、上がったり、下がったりするらしい。もう、二度と上がって来ないと思っていたけれど、案外、そうでもないのかもしれない。
少なくとも、この、六十五歳の若造の人生には、今、ちょうど、穏やかな上り坂が、来ているような気がする。
十七時に始まって、二十一時に終わる、ささやかな夜。
だから、ね。
楽々…… 笑

(おわり)




あとがき
この物語を書き終えて、ふと、自分の机の引き出しを覗いてみました。
そこには、若い頃の名刺や、使わなくなった手帳や、どこで貰ったか分からないコースターが、埃をかぶって入っています。
僕らの世代は、バブルの坂を駆け上がる先輩たちの背中を、サウナの仮眠室あたりから、ぼんやりと眺めていた世代でした。「いつか見てろよ」と思いながら、結局、美味しい思いも、大失敗もしないまま、ここまで来てしまった。
だから、吉岡さんや大石さん、久保田さんのような方々が、昔話を「墓場まで持って行くつもりだった」と笑いながら話してくれる時間が、たまらなく愛おしかったのです。
世の中は、上がったり下がったりします。
もう上がらないと思っていたら、意外なところで、また、ゆるやかな上り坂が来ることもある。
もし、この物語を読んで、明日、誰かに「それから、それから?」と、少しだけ身を乗り出して聞いてみたくなったら。作者として、これ以上の喜びはありません。
最後に、この物語に登場する「とりまる」の大将のように、いつも温かい場所を用意してくれる、すべての奥さんたちに、心からの感謝を込めて。
楽々…… 笑


アマゾン キンドル



紹介文
お食事会は午後五時から始まる。そして二十一時には、きっちり撤収する。
セミリタイアした「僕」が誘われたのは、ご近所の老人三人による、毎月第三木曜の「お食事会」だった。
膝が痛い、薬の袋が重い、孫は帰る時がいちばん嬉しい――。
愚痴の果てに始まる「あの頃はなあ」という、バブルの武勇伝。
ところが、毎朝、机の上で増えていたスナックの領収書の謎から、物語は思わぬ方向へ動き出す。
かつて町で「失踪した」と噂された四人の伝説の男たち。
一滴も飲めなかった、謎の社長の秘密。
そして三十年間、誰も知らなかった「大黒ノート」の存在。
十二月十三日、雪の降る夜。駅前の居酒屋「とりまる」に、彼らは帰ってくる。
不思議で、滑稽で、ちょっと泣ける。
十七時に始まり、二十一時に終わる、ささやかな夜の大事件。
すべての「若造」だった人と、今を生きる「若造」たちへ贈る、温かい一冊です。


※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・出来事は、すべて架空のものです。