ベルの塔
――名もなき者たちの、最後の石――
まえがき
ある夜、暗い水の底から呼びかけられるような、不思議な夢を見ました。
地球の長い歴史の中で、幾多の生き物が枝分かれし、環境の変化によって折れ、消えていきました。
もし、そのすべてを「記録」しようとする存在があったなら。
そして、その記録を未来へ届けるために、何度も世界を建て直してきたのだとしたら――。
そんな問いから、この物語は始まりました。
遠い砂漠の風。
巨大な石を運ぶ人々の歌。
夜空に浮かぶ、名もなき星々。
そして、誰かの記憶の中にだけ残されている、失われた手の温もり。
形あるものは、いつか崩れます。
けれど、誰かが覚えている限り、それは本当に消えてしまったことになるのでしょうか。
そんなことを考えながら、お読みいただければ幸いです。
プロローグ 問い
夢の中で、誰かが僕に訊いた。
声の主は見えなかった。
暗い水の底から響いてくるようでもあり、頭蓋の内側で誰かが囁いているようでもあった。
「人間は、何度目だと思う?」
僕は答えられなかった。
「人間になる前にも、おまえたちの祖先に似た、名もなき生き物たちがいた」
声は静かだった。
責めるでもなく、嘆くでもない。
ただ、遠い昔から知っている事実を読み上げるような声だった。
「生命は枝分かれした。いくつにも、いくつにも分かれていった」
暗闇の中に、一本の枝が浮かんだ。
そこから新しい枝が伸びる。
さらに枝が分かれ、その先に無数の小さな枝が生まれていく。
「けれど、ほとんどの枝は折れた」
枝が次々と消えていった。
寒さで。
熱で。
海の変化で。
空から落ちてきた石で。
そして、人間自身が生み出したものによって。
「おまえたちは、折れなかった最後の枝だと思っているのか」
僕は何かを答えようとした。
けれど声が出なかった。
そのとき、足元に冷たい水の感触があった。
次の瞬間――
熱かった。
足の裏が焼けるように熱かった。
僕は目を開けた。
いや。
目を開けたはずなのに、そこには朝の部屋はなかった。
足元には砂があった。
どこまでも続く砂。
そして、その彼方に――
巨大な塔が立っていた。
第一章 石を運ぶ人々
砂漠だった。
いや、砂漠と呼ぶには、あまりにも広すぎた。
地平線のどちらを向いても、空と大地が同じ薄い金色に溶け合っている。
世界の端がどこにあるのか分からない。
その世界の中央に、それはあった。
巨大な塔。
底辺は広く、幾重にも段が重なっている。
その段は螺旋を描きながら天へ伸び、上へ行くほど細くなっていた。
幾千、幾万という石が積まれている。
その石の一つ一つが、家ほどもあった。
僕は塔を見上げた。
「……塔だ」
なぜか、その形を知っていた。
初めて見るはずなのに、遠い昔から知っているような気がした。
「設計士さま!」
振り返ると、少年が立っていた。
十二、三歳くらいだろうか。
日に焼けた肌。
腰に巻いた麻布。
手には木の板。
板には炭で細かな線が引かれていた。
「今日の割り当て表です」
少年は板を差し出した。
「西の石切り場から三十。東から二十八。昨日より、東が二つ少ないです」
僕は板を受け取った。
不思議だった。
そこに書かれた線の意味が、自然に分かった。
「……トゥ」
少年の名が口から出た。
トゥは嬉しそうに笑った。
「はい、設計士さま」
僕は、少年の名前を知っていた。
石の数え方も。
塔の高さも。
どの石をどこへ運ぶべきかも。
知っている。
けれど、なぜ知っているのかは分からない。
僕はこの塔を作っている。
そして――
どうやら、ずっと昔から、この塔を作り続けている。
地平線の彼方から、人々がやってきた。
西から。
東から。
巨大な石を丸太の上に載せ、縄で引いている。
百人。
二百人。
時には、それ以上。
人々は声を合わせていた。
「オー、ヘイ」
「オー、ヘイ」
意味のない言葉だった。
けれど、その声には不思議な力があった。
低い声が砂漠を震わせ、石を引く足を前へ進ませていく。
僕は塔の根元に立ち、声を張った。
「その石は西へ!」
「西の第三階へ!」
「あちらは東へ回せ!」
人々は僕の指示に従った。
誰も理由を訊かない。
一度だけ、年老いた女が訊ねたことがあった。
「設計士さま」
女は小柄だった。
背中は曲がっている。
それでも、長い年月を生きてきたことが分かる顔だった。
「どうして西と東に分けるのでしょう」
「……」
「同じ石なら、同じところへ積んだほうが早いのではありませんか?」
女の名はミナ。
五十年以上、石を運んでいるという。
僕は答えようとした。
けれど、答えが出てこなかった。
「それは……」
ミナは小さく笑った。
「ベルさまのお考えですものね」
その名前を聞いた瞬間、人々の背筋がわずかに伸びた。
ベル。
塔の中心に、その男はいた。
石を丸く刳り抜いて作った簡素な玉座。
そこに一人の男が座っている。
三十代にも見える。
六十代にも見える。
年齢の分からない顔だった。
白とも灰ともつかない布をまとい、少し猫背になって座っている。
人々は彼を「神」と呼んだ。
けれど、ベルは神らしくなかった。
石が運ばれてくると、ゆっくり目を開く。
そして――
指を一本、動かす。
それだけだった。
何百トンもある石が、地面から音もなく浮かび上がった。
縄を引いていた人々の身体が、突然、軽くなる。
石は空へ昇っていく。
僕が指示した階へ。
西へ。
東へ。
人々は手を合わせた。
僕は違った。
ただ、石を見上げていた。
(これは、何の力なんだろう)
奇跡にしては、あまりに規則正しい。
祈りにしては、あまりに無感情だった。
ベルは石を浮かせながら、退屈そうに瞬きをするだけだった。
その夜。
僕は塔の影に座って星を見ていた。
見知らぬ星空だった。
けれど、どこか懐かしい。
まるで、遠い昔に誰かと一緒に見上げた空のようだった。
「眠れないのですか」
振り返ると、ミナがいた。
手には木の椀。
湯気が立っている。
「麦のお茶です」
「ありがとう」
僕は椀を受け取った。
ミナは隣に座った。
しばらく、二人で星を見た。
「設計士さま」
「何です?」
「わたしは、ときどきおかしなことを考えるのです」
「どんなこと?」
「この塔は、いつから建っているのでしょう」
僕は黙った。
「わたしが子どもの頃にもありました。母が子どもの頃にもあったそうです。母の母も……」
ミナは塔を見上げた。
「いつも完成していないのです」
「……」
「それなのに、ときどき思うのです」
ミナは小さく声を落とした。
「昔、この塔は一度、崩れたのではないかと」
風が吹いた。
「崩れて、また最初から積み直しているのではないかと」
「なぜ、そう思う?」
「夢を見るのです」
ミナは笑った。
「塔が崩れる夢を」
僕は何も言わなかった。
僕もまた、同じ夢を見ていたからだ。
そのとき、頭の奥で声がした。
『人間は、何度目だと思う?』
僕は椀を強く握った。
塔の頂には――
まだ石が足りなかった。
第二章 壁の文字
塔の昼は長い。
太陽が真上に来ると、砂漠は音を失う。
人々は石の影に身を寄せ、水を回し飲みする。
僕はその時間が好きだった。
塔の北側の影に座る。
トゥが干し果実を持ってくる。
「設計士さまは、いつも空を見ていますね」
「そうか?」
「何が見えるんです?」
「……何も。ただ見ているだけだ」
トゥは少し考えてから言った。
「ぼく、母に言われたことがあります」
「何を?」
「空を見すぎる人は、空に連れていかれるって」
「お母さんは?」
トゥは答えるまで少し間を置いた。
「いません」
「……」
「ぼくが小さい頃、石に挟まれて死にました」
少年は淡々と言った。
「でも、ミナばあさんが育ててくれました」
「そうか」
僕はトゥの頭に手を置いた。
「いい人に拾われたな」
トゥは笑った。
そのときだった。
少年の背後にある壁に、奇妙な線が見えた。
僕は立ち上がった。
石の継ぎ目に沿って、文字が刻まれている。
膝をつき、顔を近づけた。
そこには――
僕の知らない文字が並んでいた。
いや。
知らないはずなのに、読めた。
最初の一行。
『カイへ』
心臓が跳ねた。
『これを読んでいるなら、おまえはまた忘れている』
息が止まった。
続きを読む。
『おまえはこの塔の設計士だ』
『人々を導き、石を積ませる者だ』
『そして、おまえは何度でも疑問を抱く』
『それは正しい』
『疑うことは、おまえの仕事の半分だ』
僕は壁に手をついた。
さらに文字が続いていた。
『疑うな。おまえが疑えば、人々が不安になる』
その下に、
『疑え。疑わなければ、また同じことを繰り返す』
さらに、
『ミナを守れ』
そのすぐ下には、
『ミナを守れなかったとしても、自分を責めるな』
そして、
『ガルドを信じるな』
その横には、
『ガルドを信じろ』
矛盾だらけだった。
最後に、少し離れた場所に、
『ベルを責めるな』
そして、
『ベルを責めろ』
とあった。
僕は長い間、その文字を見つめていた。
やがて気づいた。
これは誰かが書いた記録ではない。
僕自身が――
過去の自分に宛てて残したものだ。
壁の下には、小さな刻みが並んでいた。
五本ずつ束になっている。
僕は数えた。
五本の束が九つ。
そして二本。
四十七。
四十七回。
この塔は崩れた。
四十七回。
僕はここへ戻ってきた。
その夜、僕はミナの小屋を訪ねた。
「夢の話をしてください」
ミナは火を見つめた。
「塔が崩れる夢です」
しばらく黙っていたが、やがて静かに話し始めた。
「夢の中で、わたしは若いのです」
黒い髪。
まっすぐな背中。
「誰かの手を握っています」
ミナの声が少し震えた。
「とても大きくて、温かい手です」
僕の胸が痛んだ。
「塔が崩れると、その手が離れるのです」
ミナは目を閉じた。
「わたしは叫びます。『行かないで』と」
「……」
「でも、その人は振り返って笑うのです」
ミナは僕を見た。
「『大丈夫。今度こそうまくやる』と」
僕は椀を持つ手に力を込めた。
「昨日、設計士さまが星を見ておられる横顔を見て……」
ミナは微笑んだ。
「夢の中の人に、少し似ていると思いました」
僕は答えられなかった。
「だから」
ミナは僕の手を握った。
「今度こそ、うまくやってくださいね」
その手は、驚くほど温かかった。
第三章 ベルの目
翌朝、僕は持ち場を離れた。
トゥに板の読み方を教えた。
「今日から、君が指示を出してくれ」
「ぼくが?」
「できる」
トゥは胸を張った。
僕は塔の中心へ向かった。
玉座へ続く石段を登る。
人々が決して近づかない場所だった。
最上部には屋根がなかった。
空が丸く切り取られている。
中央にベルが座っていた。
「来たか」
「ベル」
「その呼び方をするのも久しぶりだな」
「僕は、以前にもここへ来た?」
「何度も」
「四十七回?」
ベルは答えなかった。
「この塔は何のためにある?」
僕が訊くと、ベルは静かに僕を見た。
「やはり、その問いか」
「答えてください」
ベルは指を上げた。
空気が揺れた。
世界が、薄い膜のように剥がれた。
床が透明になる。
その下に、巨大な空間が現れた。
幾重もの光の円環。
回転する構造体。
その中心に、小さな青い点。
地球。
「この塔は記録装置だ」
ベルが言った。
「私は、その記録を保存するために作られた」
「誰に?」
「分からない」
「誰があなたを作った?」
「分からない」
「では、あなたは何なのですか?」
ベルは少し笑った。
「記録する者だ」
その声には、長い孤独があった。
「海に最初の生命が生まれた頃から、私は記録してきた」
海。
細胞。
枝分かれ。
進化。
そして絶滅。
「生命は増えた」
ベルは言った。
「だが、そのたびに枝は折れた」
巨大な光の映像が広がった。
「私は記録し続けた」
「何のために?」
ベルは黙った。
やがて言った。
「最初は、命令されたからだ」
「では、今は?」
「分からない」
その言葉だけが、妙に重かった。
「私は、いつしか記録することそのものに意味を求めるようになった」
「そして塔を?」
「そうだ」
ベルは塔を見上げた。
「空へ記録を送るために」
「なぜ、人間の手で建てる必要がある?」
「それが条件だからだ」
「誰が決めた?」
「分からない」
また同じ答えだった。
ベルは少しだけ目を伏せた。
「だが、ひとつだけ分かっていることがある」
「何です?」
「この塔は、完成したときに最も大きな力を使う」
「……どんな力を?」
ベルは答えなかった。
ただ、空を見上げた。
その横顔には――
悲しみがあった。
第四章 西と東
翌日。
トゥが走ってきた。
「設計士さま!」
「どうした?」
「西の石切り場で、変なものが出ました」
現場へ向かった。
赤茶けた岩の割れ目から、白いものが突き出ている。
骨だった。
僕は息を呑んだ。
「……恐竜」
なぜ、その言葉を知っているのか。
分からない。
さらに掘ると、貝殻が出た。
小さな頭骨。
羽根の跡。
見たことのない生き物の骨。
一方、東の石切り場からは、別のものが出ていた。
石の表面に、人間の文字らしきものが刻まれている。
古い。
僕たちのものより、はるかに古い。
「これは……」
ガルドが呟いた。
「前の人間たちじゃないのか?」
ミナが石に触れた。
「西は、名もなき生き物たち」
「東は?」
「かつての人間たち」
ミナは静かに言った。
「この塔は、全部を積んでいるのかもしれません」
「全部?」
「生きたものも」
「死んだものも」
「忘れられたものも」
ミナは塔を見上げた。
「ここにいたという証を」
僕はベルのところへ向かった。
「最後の石には、何が刻まれる?」
ベルはしばらく黙っていた。
「今の人間たちだ」
「僕たち自身?」
「そうだ」
「それが置かれれば、塔は完成する」
「そして?」
ベルは目を閉じた。
「塔は崩れる」
「人々は?」
「死ぬ」
その言葉は、あまりにも静かだった。
「なぜ?」
「送信のためだ」
ベルは言った。
「記録を空へ放つためには、すべての力が必要になる」
「それを使えば?」
「ここにいる者たちは耐えられない」
僕はベルを睨んだ。
「あなたは、それを四十七回繰り返したのか」
ベルは答えなかった。
灰色の目から、一筋の涙が落ちた。
第五章 名もなき者たち
「最初から見せてください」
僕は言った。
「あなたが、何を見てきたのか」
ベルは僕の額に指を触れた。
「目を閉じなさい」
光が広がった。
緑色の浅い海。
小さな命。
名前さえない。
ただ、生きる。
増える。
分かれる。
やがて海が変わった。
命が沈んでいく。
「最初の絶滅」
ベルの声。
次の世界。
巨大な森。
巨大な生き物。
そして、空から落ちてくる光。
大地が燃える。
「二度目」
氷。
海。
火。
毒。
「三度目」
「四度目」
「五度目……」
世界が何度も変わった。
そのたびに、枝が折れる。
それでも――
残った小さな枝から、新しい命が生まれた。
やがて、小さな毛むくじゃらの生き物が現れた。
巨大な生き物の影に隠れて、夜を生きている。
「これがおまえたちの祖先だ」
ベルの声がした。
「名前さえ持たなかった」
だからこそ、生き延びた。
やがて二本足で歩くものが現れた。
火を囲む。
石を削る。
空を見る。
洞窟の中で、一人の若い女がベルを見た。
「あなたは、誰?」
「私は記録する者だ」
「何を記録するの?」
「あなたたちを」
女は笑った。
「じゃあ、わたしたちのことも覚えていてくれる?」
ベルは答えた。
「覚えていよう」
女は嬉しそうに笑った。
「ありがとう」
映像が消えた。
僕は目を開けた。
頬が濡れていた。
「彼女は?」
「消えた」
「いつ?」
「氷の時代に」
僕は拳を握った。
「それでも、記録を続けたのか」
「約束したからだ」
「だから人間を殺すのか!」
初めて、ベルが声を荒らげた。
「違う!」
その声が砂漠に響いた。
「私も、それを望んでいるわけではない!」
ベルの目から涙が落ちた。
「だから、おまえを作った」
「僕を?」
「おまえは、私が作った設計士だ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが崩れた。
第六章 崩落の設計
「僕は、人間なのか?」
「そうだ」
ベルは答えた。
「魂を持った人間だ」
「なら、なぜ僕を作ったと言う?」
「おまえは最初の塔で、私に問い続けた」
ベルは僕を見た。
「なぜ、記録するだけなのか」
「……」
「なぜ、死んでいく者を見ているだけなのか」
「……」
「そして、おまえは言った」
ベルの声が遠くなる。
『もう一度やらせてくれ』
僕の頭の中に、何かが浮かび始めた。
「おまえは塔が崩れるたびに、私に同じことを頼んだ」
「記憶を消してくれ」
「もう一度、最初からやらせてくれ」
「今度こそ、誰も死なせない」
僕は壁の文字を思い出した。
四十七本の刻み。
「僕が望んだのか……」
「そうだ」
ベルは静かに言った。
「私は、おまえを閉じ込めていたのではない」
「……」
「おまえ自身が、ここへ戻ってきた」
僕は長い間、何も言えなかった。
「では、どうすればいい?」
ベルは答えた。
「ひとつだけ方法がある」
「何?」
「記録を、光として送らない」
「では?」
「人間の中へ残す」
ベルは塔を見上げた。
「石に刻まれた記憶を、人々自身が受け継ぐ」
「それなら、塔は?」
「崩れる」
「人々は?」
「死なない」
僕は息を呑んだ。
「では、なぜ今まで……」
「誰も、そこへ辿り着かなかった」
「何が必要なんだ?」
ベルは言った。
「塔が完成する瞬間、制御核を地上向けに切り替える」
「誰が?」
「地下へ降りる人間が」
「それで?」
「切り替えには、ひとつだけ条件がある」
「何だ?」
「その人間が、最後まで自分だけで記憶を背負わないこと」
僕は意味を理解するまで時間がかかった。
「つまり……」
「人々に、真実を伝えるのだ」
ベルは言った。
「記憶を、一人から皆へ渡す」
僕は立ち上がった。
「それをやります」
ベルが目を見開いた。
「本当に?」
「はい」
「過去のおまえは、すべて拒んだ」
「今回は違います」
僕は塔を見上げた。
「僕ひとりで救おうとするのを、やめます」
第七章 最初の設計士
石段を下りる途中だった。
突然、頭の中に映像が溢れた。
砂漠ではない。
ガラスと鋼の塔。
濁った空。
温度の上がった海。
遠くで鳴る警報。
僕の隣に、一人の女性がいた。
黒い髪。
作業着の袖をまくっている。
「カイ、また徹夜?」
「もう少しで計算が終わる」
「身体を壊すよ」
「分かってる」
彼女は笑った。
「分かってない顔だけど」
名前が浮かんだ。
エナ。
僕の妻。
あの夜、ベルが現れた。
『おまえたちの記録を残したい』
そう言った。
僕は最初、断った。
けれどベルが見せた。
消えていった生命たち。
誰にも知られず消えた命。
名前すら残らなかった人々。
その孤独を見て、僕は塔を作ることを決めた。
そして――
最後の石が置かれた。
光が空を覆った。
人々が歓声を上げた。
次の瞬間、塔が崩れた。
「逃げろ、エナ!」
「カイ!」
僕は彼女の手を握った。
強く。
必死に。
しかし、二人の間に巨大な石が落ちた。
指が離れる。
「エナ――!」
彼女の手が伸びる。
僕の手も伸びる。
あと少しだった。
あと少しで届いた。
それなのに。
白い光がすべてを呑み込んだ。
闇の中で、ベルの声がした。
『エナは消えた』
僕は叫んだ。
『もう一度やらせてくれ!』
『今度こそうまくやる!』
『みんなを助ける!』
その瞬間、僕は理解した。
四十七回。
僕はエナを失った場所へ戻り続けた。
そして毎回、自分ひとりで世界を救おうとしていた。
僕は石段に座り込んだ。
涙が止まらなかった。
「……ミナ」
あの温かい手。
あの笑顔。
もしかすると、僕はずっと同じものを探していたのだ。
失った手の温度を。
第八章 分かたれる者たち
翌日。
僕はガルドにすべてを話した。
最初、彼は笑った。
「何を言っている」
「本当のことだ」
「塔が完成したら、俺たちは死ぬ?」
「違う」
「なら、何なんだ!」
「方法がある」
僕は話した。
過去の塔。
ベル。
記録。
四十七回の崩壊。
そして最後の選択。
ガルドは拳を握った。
「そんな話、信じられるか!」
「なら聞いてくれ」
僕は彼の娘の名前を言った。
ガルドの顔が変わった。
「……なぜ、その名を知っている」
「塔は記録している」
「誰が覚えている?」
「僕が」
ガルドは僕を睨んだ。
そして、砂の上に膝をついた。
「……あの子を、覚えている人間はもういないと思っていた」
僕は何も言えなかった。
その夜、噂を聞いた男たちが暴動を起こした。
「完成したら俺たちは殺される!」
縄に火が放たれた。
人々が叫ぶ。
そのとき、ガルドが前に出た。
「やめろ!」
「ガルド!」
「この人は嘘をついていない!」
男たちが黙る。
「この塔には、俺たちの死んだ者たちもいる」
ガルドの声が震えていた。
「名前を忘れられた者たちがいる」
火が小さくなった。
「なら、俺は運ぶ」
ガルドは言った。
「最後の石を」
一人が縄を拾った。
もう一人が続いた。
やがて、火は消えた。
星空の下で、人々は黙って立っていた。
第九章 降下前夜
夜。
僕は塔の北側に座っていた。
壁には四十七本の刻み。
その横に、小さな石を置いた。
ミナが来た。
「お茶ですよ」
「ありがとう」
ミナは壁を見た。
そして、笑った。
「ずいぶんたくさん書きましたね」
「全部、僕です」
「でしょうね」
ミナは不思議そうに言った。
「夢の中の人も、いつも何かを書いていました」
僕はミナを見る。
「ミナ」
「はい」
「僕は……あなたを守れなかったことがあるのか?」
ミナは少し考えた。
「何度もあるのでしょうね」
そして、僕の手を握った。
「でも、今度は違います」
「なぜ?」
「今度は、わたしも覚えていますから」
僕は泣きそうになった。
「夢の中で握っていた手の人」
ミナは言った。
「あなたでしょう?」
僕は答えなかった。
「大丈夫です」
ミナは笑った。
「もう、自分ひとりで背負わなくていいのですよ」
僕は壁に最後の言葉を刻んだ。
『忘れても、誰かが覚えている』
その文字を見ながら、僕は思った。
記憶とは、一人で抱えるものではない。
誰かから誰かへ。
手から手へ。
言葉から言葉へ。
そうやって残っていくものなのだ。
第十章 最後の石
翌朝。
広場には、何千人もの人々が集まった。
僕は台の上に立った。
ベルのこと。
塔のこと。
過去の崩壊。
そして、これから起きること。
すべてを話した。
誰も叫ばなかった。
誰も逃げなかった。
最後に僕は言った。
「この塔は、名もなき者たちのために作られた」
「だから、僕たちも誰かに覚えてもらうために、石を積むのではない」
「僕たち自身が、覚えていくんだ」
ミナが前に出た。
「運びましょう」
誰かが縄を取った。
ガルドが続いた。
トゥも手を伸ばした。
「ぼくも」
僕は笑った。
「もちろんだ」
西と東。
二つの地層が交わる場所から掘り出された石。
最後の石。
何千人もの手が縄を引く。
「オー、ヘイ」
「オー、ヘイ」
歌声が広がった。
ベルが玉座から立ち上がった。
指を一本、上げる。
石が浮いた。
空へ。
ゆっくりと。
塔の頂へ。
そして――
最後の場所に収まった。
塔が完成した。
その瞬間、地下から轟音が響いた。
僕は走った。
地下へ。
螺旋階段を下りる。
トゥが追いかけてきた。
「設計士さま!」
僕は振り返った。
少年の頭を撫でた。
「ここから先は、君たちの仕事だ」
「でも……」
「大丈夫」
僕は笑った。
「僕は、忘れられないから」
「え?」
「みんなが覚えていてくれるから」
僕は地下へ降りた。
円環の中心に、青白い制御核があった。
回路図に手を置く。
空へ向いていた光の経路。
それを地上へ。
海へ。
大地へ。
人々へ。
すべての生命へ。
書き換える。
塔が震えた。
光が膨らむ。
その中で、ベルの声がした。
「カイ」
「何?」
「ひとつだけ、聞きたい」
「何を?」
「おまえは、まだエナを探しているのか?」
僕は目を閉じた。
「……探していた」
「今は?」
僕は静かに笑った。
「もう、探さない」
「なぜ?」
「忘れていないから」
光が強くなった。
「ベル」
「何だ?」
「あなたは、一度でも僕たちを憎んだことがある?」
長い沈黙。
そして――
「ああ」
ベルは答えた。
「一度もない」
光が爆ぜた。
第十一章 光の底
身体がほどけていく。
手も。
足も。
声も。
何もかもが光の中へ溶けていく。
けれど、不思議と怖くなかった。
足の裏に、砂を感じた。
目を開ける。
夜の砂漠。
頭上には、無数の光が走っていた。
星と星の間を縫うように。
地球の上を包むように。
僕は焚き火を見つけた。
その傍に、小さな女が座っている。
粗い毛皮をまとっている。
僕を見ると、彼女は笑った。
「遅かったね」
僕は息を呑んだ。
どこかで会ったことがある。
けれど、名前は知らない。
「あなたは……」
女は首を振った。
「名前はないの」
そう言って笑った。
「でも、覚えていてくれる?」
僕は頷いた。
「あなたがここにいたことを」
遠くを見る。
地平線まで、人影が続いていた。
海の底で消えた命。
太古の森で消えた命。
氷の中へ消えた命。
そして、名前を残せなかった人々。
無数の命。
無数の記憶。
僕は深く頭を下げた。
「覚えています」
風が吹いた。
「あなたたちが、ここに生きていたことを」
「僕は忘れません」
すると、遠くから声がした。
一つではない。
二つでもない。
何億もの声だった。
『ありがとう』
光が近づいてきた。
ベルだった。
けれど、いつもの姿ではない。
光そのものになっていた。
「終わったのか?」
僕が訊く。
ベルは笑った。
「終わったのではない」
「では?」
「始まったのだ」
その言葉とともに、ベルの身体が光の粒へ変わった。
空へ昇っていく。
僕は手を伸ばした。
「ベル!」
光の中から、声が返った。
『今度は、おまえが記録する番だ』
光が消えた。
僕は空を見上げた。
どこか遠くで、エナの声がした気がした。
『カイ』
僕は目を閉じた。
「うん」
『もう、行っていいよ』
僕は泣いた。
それは悲しい涙ではなかった。
長い旅が終わったときに流れる涙だった。
第十二章 そののち
それから六十年が過ぎた。
塔は崩れた。
けれど、人々は生きていた。
光は空へ飛び去る代わりに、大地へ染み込んだ。
海へ。
森へ。
人々の胸へ。
その日、多くの人が不思議な夢を見た。
知らない海。
知らない森。
知らない生き物。
知らない人々。
そして――
なぜか、涙を流した。
それ以来、人々は語り始めた。
名もなき生き物たちのことを。
忘れられた人々のことを。
自分たちが知らなかった遠い歴史のことを。
そして、設計士のことを。
老いたトゥは、崩れた塔の跡地で子どもたちに話をしていた。
「設計士さまは、最後にこう言ったんだ」
子どもたちが顔を上げる。
「何て言ったの?」
トゥは小さな石を撫でた。
そこには、あの言葉が刻まれている。
『忘れても、誰かが覚えている』
「じゃあ、設計士さまは死んだの?」
一人の子どもが訊いた。
トゥは空を見た。
「分からない」
「じゃあ、どこにいるの?」
「きっと――」
トゥは笑った。
「誰かの記憶の中だよ」
風が吹いた。
遠くから歌声が聞こえた。
「オー、ヘイ」
「オー、ヘイ」
トゥは目を細めた。
「石を運ぶのは、一人じゃない」
子どもたちは意味が分からないまま笑った。
そして、一人が小さな石を拾った。
「これも運ぶ?」
「もちろん」
トゥは頷いた。
「どこへ?」
「未来へだよ」
子どもたちは笑いながら走っていった。
エピローグ 夢の続き
目を覚ました。
見知らぬ布団の中だった。
朝の光がカーテンの隙間から差し込んでいる。
胸の奥が、じんわりと温かい。
掌には、誰かの手を握っていたような感触が残っていた。
「……夢か」
スマートフォンを見る。
いつもの朝。
外から車の音。
鳥の声。
遠くで誰かがドアを閉める音。
あまりにも普通の朝だった。
僕はベッドの縁に腰を下ろした。
塔。
砂漠。
石。
ベル。
ミナ。
トゥ。
エナ。
そして、あの名もなき女。
すべてが夢だったのだろう。
そう思った。
けれど――
なぜか、胸の奥に一つだけ残っている。
あの問い。
『人間は、何度目だと思う?』
僕は小さく笑った。
「何度目だって、いいじゃないか」
カーテンを開ける。
朝日を浴びた街が広がっている。
ビル。
道路。
電車。
人々。
誰もが、それぞれの生活を抱えて歩いている。
誰もが、自分だけの石を運んでいる。
ふと、遠い空を見た。
一点だけ。
細く、鋭い光が走ったように見えた。
僕は目を細めた。
瞬きをすると、消えていた。
「……覚えているよ」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
そのとき――
どこからか、低い歌声が聞こえた気がした。
「オー、ヘイ」
「オー、ヘイ」
僕は微笑んだ。
そして、新しい朝の支度を始めた。
今日も人間は、
何度目かの朝を重ねながら、
石を運んでいく。
その石は、
いつか誰かの手に渡り、
誰かの記憶になり、
そして――
未来へ運ばれていく。
(了)
あとがき
この物語を書きながら、何度も考えたことがあります。
人は、いつまで生きれば「生きた」と言えるのだろう。
名前が残ればいいのでしょうか。
写真が残ればいいのでしょうか。
歴史に記録されればいいのでしょうか。
けれど、名前さえ残らなかった人々もいます。
誰にも知られないまま生き、誰にも知られないまま亡くなった人。
そして、人間に知られることさえなかった、無数の生き物たち。
それでも、彼らが確かに生きていた時間が消えるわけではありません。
カイは最初、それを「記録」という形で残そうとしました。
しかし最後に気づきます。
記録は、誰かが読むことで初めて生きる。
記憶は、誰かから誰かへ渡されることで、未来へ進んでいく。
だから、最後に必要だったのは、一人の英雄ではありませんでした。
一人で世界を背負うことをやめ、みんなで記憶を受け渡していくことでした。
「忘れても、誰かが覚えている」
この言葉は、この物語を書き終えた今も、私の中に残っています。
私たちが生きている今日も、いつかは過去になります。
けれど、誰かに手渡した言葉や、誰かと過ごした時間や、ふとした優しさは、思いがけないところで残っているのかもしれません。
形あるものは、いつか崩れます。
塔も。
石も。
身体も。
けれど、誰かが誰かを覚えている限り、完全な消滅はないのかもしれません。
この物語が、読んでくださった方の心に、小さな「記憶の種」を残すことができたなら、とても嬉しく思います。
作品紹介
「人間は、何度目だと思う?」
広大な砂漠の中央に、終わりの見えない巨大な塔がそびえていた。
人々は歌を口ずさみながら、巨大な石を運んでいる。
塔の中心に座る「ベル」と呼ばれる男は、指一本で何百トンもの石を空へ浮かべる。
そして、その塔には一人の設計士がいた。
名は、カイ。
彼はなぜ自分がこの塔を建てているのかを知らない。
ただ、不思議なことに、すべての仕事を知っている。
そしてある日、塔の壁に刻まれた文字を見つける。
そこには――
「カイへ」
と書かれていた。
それは、過去の自分が未来の自分へ残したメッセージだった。
四十七回。
塔は崩れていた。
四十七回。
カイは記憶を失い、同じ場所へ戻ってきていた。
なぜ塔は何度も建てられるのか。
ベルとは何者なのか。
西から運ばれる石に刻まれた、名もなき生命たちは何なのか。
そして、塔の最後の石が置かれたとき、何が起こるのか。
やがてカイは知る。
この塔は、地球上で生まれ、消えていった無数の生命の「記録」を未来へ届けるために作られたものだった。
しかし、そのためには人々の命を犠牲にしなければならない。
カイは、四十七回繰り返してきた「やり直し」の果てに、ある決断をする。
もう、自分ひとりで背負うのをやめよう。
忘れられた生命の声を、みんなで受け継ごう。
そして、最後の石が塔の頂に置かれる。
これは、
「忘れられた者たちを、誰が覚えているのか」
をめぐる物語。
生命。
記憶。
約束。
そして、何度でも朝を迎える人間たち。
壮大なSF的世界観の中に、名もなき生命たちへの祈りと、一人の男が失った愛の記憶を描いた、不思議で切ないSF寓話。
最後の石が意味するものを、どうぞ見届けてください。
――忘れても、誰かが覚えている。

