『それ聞いたよ』の家
――ご同輩へ捧ぐ、少し不思議で、だいぶ滑稽な話――


【まえがき】
長年連れ添った夫婦のあいだには、無数の「それ聞いたよ」が存在します。
波風を立てないように聞き流す「はいはい」という優しさと、顔を見てほしくて何度も繰り返される同じお話。
言葉にならなかったたくさんの思いが、もしも形を持って部屋の隅に転がり出したら――。
人生の折り返しを過ぎたすべてのご同輩と、かつて誰かの話を愛おしく聞いたことのあるあなたへ贈る、ささやかな物語です。




第一章 二度目の川越
 その朝、田所源三は、味噌汁の椀を両手で包みながら、機嫌よく口を開いた。
「あのな、昭和六十二年の話なんだが」
「それ聞いたよ」
 台所の向こうから、カミさんの文子がぴしゃりと言った。振り向きもしない。納豆をかき混ぜる手も止めない。かき混ぜる音だけが、リズムを変えずに続いている。
「まだ何も言ってない」
「川越でしょ。電車に乗り遅れて、駅前で芋のアイスを食べた話でしょ」
「……そうだ」
「それ、先週も聞いたし、先々週も聞いたし、去年の暮れにも聞いた」
 源三は味噌汁をひと口すすった。豆腐が、ほんの少しだけ熱かった。
 いつものことだった。いや、いつものことになったのは、ここ一、二年のことだ。昔はこんなことは言われなかった。昔の文子は、源三が何度同じ話をしても、「あら、そうなの」と、初めて聞くような顔で聞いてくれた。あれはあれで、役者だったのだなと源三は思う。
 ただ、源三は知っている。
 文子だって、同じ話をするのだ。
 隣の奥さんの娘が、嫁ぎ先で苦労しているという話。デパートの福引で三等が当たって、洗剤の詰め合わせをもらったという話。若いころ、バスの中で見知らぬ男に「あなた、きっと長生きしますよ」と言われたという話。その男が、のちにテレビに出ていた気がするという話。
 どれも源三は、百回は聞いている。
 しかし源三は、それを口に出さない。「それ聞いたよ」とは言わない。ただ、「はいはい」と言う。「はいはい」と言って、お茶をすすり、新聞をめくり、ときどき「ほう」と相槌を打つ。それで家の中は、波風ひとつ立たない。
 男というものは、それで良いのだ。源三はそう信じていた。
「それ聞いたよ」の応酬になれば、朝の食卓が、あっという間に国境紛争になる。源三は国境紛争を好まない。若いころ、会社の労働組合の交渉でさんざん消耗して以来、争いごとの気配を感じると、胃のあたりがきゅうっと縮む。
 だから今朝も、源三は引き下がった。
「そうか。聞いたか」
「聞いた」
「じゃあ、いい」
 そう言って、源三は椀を置いた。
 そのときだった。
 ぽとり。
 何かが、ちゃぶ台の上に落ちた。
 天井からではない。窓からでもない。強いて言えば、二人の間の、何もない空気のあたりから、ぽとりと落ちたのである。
 大きさは、にぎり飯ほど。色は灰色で、表面はしっとりと湿って、少し毛羽立った感じがある。見た目は、よく濡れた綿ぼこりを、丸めて固めたものに似ていた。
「……文子」
「なに」
「何か落ちたぞ」
 文子は納豆の器を持って、ようやくこちらを向いた。修羅場をかいくぐってきた主婦の鋭い目で灰色の塊を見て、眉をひそめた。
「あら。何これ」
「わからん」
「あんた、また何か拾ってきたの」
「拾ってない。今、落ちたんだ」
「どこから」
「その、なんというか、俺とお前の間から」
 文子は無言で塊を見つめた。源三も見つめた。灰色の塊は、ちゃぶ台の上で、ほんのわずか、ぷるりと震えた。
 それから、小さな声がした。
――かわごえ。
 二人は顔を見合わせた。
「今、しゃべった?」
「しゃべった」
「川越って言ったわよね」
「言った」
 塊は、もう一度ぷるりと震え、今度はもう少し大きな声で言った。
――しょうわろくじゅうにねん。でんしゃ。おいも。あいす。
 源三は、箸を落とした。
 それは、たった今、源三が話そうとして、文子に止められた話の、筋書きそのものだった。
「……これ、俺の話か」
「そうみたいね」
「話してないのに」
「話そうとしたからでしょ。それで私が、聞いたって言ったから」
 文子は、意外なほど落ち着いていた。昔から、非常時にはこの人のほうが強いのだ。源三が台風の夜に窓を押さえて右往左往していたとき、文子は黙って懐中電灯を三本探し出し、いちばん明るいのを源三に渡した。そういう人である。
 文子は、灰色の塊をつまんで、しげしげと眺めた。
「ちょっと重いわね。湿ってるし」
「触って大丈夫か」
「大丈夫でしょ。あったかいもの」
 塊は、文子の指の間で、くすぐったそうに身をよじった。
――きいたよ、きいたよ。
 小さな声は、今度は、文子の口調によく似ていた。
「あ、私の声まねてる」
「生意気だな」
 源三がそう言うと、塊は、なぜかしゅんとして、ちゃぶ台の上でゆっくり平らになった。
 二人はそれから、しばらく黙って味噌汁を飲んだ。
 窓の外では、郵便配達のバイクが、いつもの時間に通り過ぎていった。


第二章 灰色のおにぎり
 灰色の塊は、とりあえず「かわごえ」と名づけられた。
 名づけたのは文子である。「だって他に呼びようがないでしょ」というのが理由だった。源三は「もう少し威厳のある名前を」と提案したが、「じゃああんた、威厳のあるものを産んだことがあるの」と言い返され、黙った。何の話だかよくわからないが、勝てる気がしなかった。
 かわごえは、おとなしかった。
 ちゃぶ台の上で一日じゅう平たくなっていて、ときどき、ぷるりと震える。夕方になると、茶箪笥の上の、古い電話帳の隣に自分で移動して、そこに落ち着いた。
「ねえ、これ、何を食べるのかしら」
「さあな」
「お米かしら。それとも、お煎餅」
 文子は小皿に、ごはん粒と、割った煎餅を少し置いてみた。かわごえは、まったく興味を示さなかった。
「飲み物かもしれん」
 源三はお猪口に、お茶を注いで置いてみた。やはり、見向きもしない。
 そのうち、夜になった。
 テレビでは、天気予報のあとに、どこかの温泉地の特集をやっていた。文子が、画面を見ながら言った。
「温泉と言えばねえ、あんた。二十年前、熱海に行ったでしょう。あのとき、仲居さんがね」
「はいはい」
「お布団を敷きにきて、あんたの寝間着を見て」
「はいはい」
「『まあ、立派な柄ですこと』って」
「ほう」
 源三は新聞を広げたまま、いつもの調子で相槌を打った。これも百回は聞いた話である。寝間着の柄は、緑の地に、ひまわりだった。仲居さんは、あれは褒めたのではなく、笑いをこらえていたのだと、源三は今でも思っている。
 そのとき、茶箪笥の上で、ぽとり、と音がした。
 見ると、かわごえの隣に、もうひとつ、灰色の塊が増えていた。
「あら」
 文子が立っていって、塊をそっとつまみあげた。
――あたみ。なかい。ひまわり。
「やっぱり」
 文子は、ため息をついた。
「私の話も、塊になるのね」
「みたいだな」
「二度目だから?」
「いや、お前の場合は、俺が聞いたから、だ。俺が『はいはい』って言って流したから、だと思う」
 源三は、自分でそう言ってから、ふと首をかしげた。
 かわごえは、「それ聞いたよ」と言われて、落ちた。
 一方、あたみのひまわりは、「はいはい」と言われて、落ちた。
 どちらも、話が相手の耳に届いたあとで、行き場をなくした話だった。聞いてもらえた、とは言えず、かといって、聞いてもらえなかった、とも言えない。ちょうど、受け取り印のない荷物のようなものだ。
 その荷物が、塊になって、この世に落ちてくるのである。
「ねえ、あんた」
「なんだ」
「これ、増えるんじゃないの」
「……増えるな」
 その通りだった。
 翌朝までに、塊は、二つ増えていた。
 ひとつは、源三が夜中に、トイレで独りごとのように言った「去年の秋は、柿がよくなったなあ」の塊だった。誰も聞いていなかったのに、なぜか落ちていた。独りごとも、行き場がなくなればこうなるらしい。
 もうひとつは、文子が寝言で言った何かだった。文子の寝言の塊は、ほんのり温かく、小さく鼾をかいていた。
 それから三日のうちに、茶箪笥の上は、灰色の塊でぎゅうぎゅうになった。
 塊は、日がたつにつれて、種類が分かれてきた。
 孫の運動会の話は、すずめほどの大きさの、丸い鳥のようになって、天井近くをちゅんちゅんと飛びまわり、ときどきカーテンレールの上で休んだ。
 隣の犬の話は、濡れたスリッパのかたちになって、玄関でぐったりしていた。踏むと、「わん」と鳴いた。
 文子の「デパートの福引」の話は、きらきら光る紙吹雪のようなものになって、廊下の隅で、ひとりでに舞っていた。三等の話だけあって、少し控えめな光り方だった。
「困ったわね」
 掃除機をかけながら、文子が言った。かけるそばから、塊は掃除機を避けて、ひょい、ひょいと移動する。
「あの子たち、掃除機が嫌いなのよ」
「そうか」
「それにしても、よくこんなにあったわね。私たち、同じ話ばっかりしてたのね」
「そうだな」
「……あんた、これ、全部あんたの『はいはい』のせいなんんじゃないの」
「俺のせいか」
「だって、あんたが『それ聞いたよ』って言ってくれてたら、私も、そこで話をやめたでしょう」
 源三は、とっさに反論の言葉が浮かばなかった。
 確かに、そう言われれば、そうかもしれない。
 だが、そう言えば、波風が立つではないか。
 源三は、いつもの理屈を、もう一度頭の中で組み立てて、沸き起こる言葉を飲み込んだ。何も言わないのが、いちばん波風が立たないからだ。
 その代わりに、「はいはい」と言った。
 廊下の隅で、紙吹雪が、ひときわ明るく光った。


第三章 ご同輩、金子さん
 金子さんは、源三の家から三軒隣に住んでいる。
 元は信用金庫の支店長で、今は、盆栽と、近所の見回りと、ラジオ体操の三つを生きがいとしている人物である。背が高く、声も大きい。源三より二つ年上で、源三のことは、「田所君」と呼ぶ。
 その金子さんが、四日目の午後、回覧板を持って現れた。
「やあ田所君、回覧板だ。ついでにね、ちょっと、これを見てほしくてね」
 金子さんは、上がり框に腰をおろすなり、胸ポケットから、小さなビニール袋を取り出した。袋の中には、灰色の、小指の先ほどの塊が入っていた。
 源三は、息をのんだ。
「それは」
「うちの庭に、落ちていたんだよ。つい三日前からだ。最初はひとつだったんだが、今ではね、盆栽棚の下が、灰色でいっぱいだ」
「金子さんのところにも」
「も、ということは、田所君のところにも?」
 二人は、玄関先で、無言のまま、しばらく向き合った。
 奥から文子が出てきて、お茶を出した。文子は、金子さんの顔を見るなり、「あら、お宅もですか」と言った。察しのいい人である。
 金子さんの話は、こうだった。
 金子さんには、奥さんが、もういない。三年前に亡くなった。
 亡くなってからというもの、金子さんは、独りごとが増えた。仏壇に向かって、今日あったことを報告する。庭の盆栽に向かって、昔の支店の思い出を語る。ラジオに向かって、昭和の歌謡曲の歌手の本名を、解説する。
 そうした独りごとが、誰にも聞かれることなく、庭に積もっているのだった。
「聞く人がいないとね、塊になるらしい」
 金子さんは、お茶をすすって言った。
「うちの塊はね、大きいんだよ。しかも、重いんだ。昨日は、松の鉢植えが、塊の重みで傾いてしまった」
「それは大変ですね」
「大変だよ。しかも、夜中に、うめくんだ」
「うめく」
「奥さんの名前を」
 金子さんは、そこまで言って、鼻をひとつ、ずびっとすすった。そして、取り繕うように、咳払いをした。
「まあ、それは、いいんだ」
 文子が、何も言わずに、金子さんの湯呑みにお茶を足した。源三は、金子さんの背中の、いつもよりひとまわり小さく見える肩を、見ないようにしていた。
「それで、田所君。相談なんだが」
「はい」
「この塊、どこかに引き取ってもらえないものだろうか。市役所の環境課に聞いてみたんだが、『粗大ごみでも可燃ごみでもありませんね』と言われた」
「それは、そうでしょうね」
「『ご自宅で、おしゃべりをなさるのを控えられては』と言われた」
「それは、ひどい」
「ひどいだろう。わしは、男やもめになって、ようやく独りごとが増えたというのに」
 金子さんは、悔しそうに拳を握った。
 そのとき、奥のほうで、すずめほどの鳥が、ちゅん、と鳴いた。孫の運動会の話である。金子さんは、はっとして、天井を見上げた。
「あれは、なんだ」
「うちの塊です。進化したんです」
「進化するのか」
「ええ、まあ」
 金子さんは、感心したように何度か頷いた。探偵のような目つきになり、真顔で言った。
「田所君。実はね、聞いた話なんだが」
 源三と文子は、同時に、金子さんの顔を見た。
 金子さんは、声をひそめた。
「この町には、『古話買い』が来るそうなんだ」
「ふるはなしがい」
「古い話を買い取ってくれる商売だよ。昔からいるらしい。ただ、年寄りの話しか買わない。若い者の話は、新しすぎて値がつかないんだと」
「どこで聞いたんです」
「盆栽仲間の、田端さんだ。田端さんは、去年、その古話買いに、戦争中の話を売ったらしい。いい値がついたそうだ」
 文子が、目を丸くした。
「いくらで」
「五百円」
 三人は、黙った。
 五百円。戦争中の話の値段としては、安いのか高いのか、よくわからない。ただ、塊の山を片づけてくれるなら、むしろ、ありがたい。
「で、その古話買いは、どこに来るんです」
「それが、決まっていないんだ。声が聞こえたら、呼び止めるしかない」
「声?」
「リヤカーを引いて、ね。こう、節をつけて」
 金子さんは、少し照れたように、咳払いをした。そして、小さな声で、歌いはじめた。
「ふるばなしー、ふるばなし、ありませんかー」
 その瞬間、玄関先の、傘立ての陰で、何かが、ぷるりと、震えた。
 文子の、福引の紙吹雪だった。
 紙吹雪は、一瞬ぴかりと光ると、すうっと玄関の戸の隙間から、外へ出ていった。
「……行っちゃいましたね」
「行ったな」
 三人は、なんとなく、戸の隙間を見つめた。
 外は、夕方の、少し黄色い光だった。遠くのほうで、豆腐屋のラッパが、ぷう、と鳴った。


第四章 ふるばなし、ありませんかー
 古話買いは、その晩、本当にやってきた。
 夜の九時を少しまわったころである。源三と文子が、塊の鳥に餌をやる方法を、ああでもないこうでもないと話し合っていると、表の通りから、細く、間延びした声が聞こえてきた。
「ふるばなしー、ふるばなし、ありませんかー」
 源三は、湯呑みを持ったまま、固まった。
「来た」
「来たわね」
 二人は、顔を見合わせて、転がるように玄関へ向かった。サンダルを片方ずつ間違えて履いたが、気にしている暇はない。
 門の外に、リヤカーがとまっていた。
 リヤカーを引いていたのは、小柄な男だった。年のころは、六十にも八十にも見える。つばの広い帽子をかぶり、首には手ぬぐい。顔は、皺だらけなのに、なぜか目だけが、赤ん坊のように澄んでいる。
「へい、毎度」
 男は、帽子のつばを、くいっと持ちあげた。
「古い話、ございますか。しっとりしたの、ぱさぱさしたの、どちらでも買いますよ」
「あります。たくさん」
 源三が答えると、男は、にっこり笑った。歯が、半分しかなかった。
「それはそれは。拝見しましょう」
 男は、リヤカーの荷台から、折りたたみ式の小さな机を出して、道ばたに広げた。机の上には、使いこまれた秤と、虫眼鏡と、小さな帳面が置かれている。
 源三は、家の中から、塊をいくつか運んできた。
 まずは、いちばん古い、「かわごえ」である。
 男は、虫眼鏡で、かわごえを、じっくりと見た。それから、鼻を近づけて、くん、と嗅いだ。次に、指でつついて、ぷるりと揺らし、最後に、耳をあてた。
――しょうわろくじゅうにねん。でんしゃ。おいも。あいす。
「ふむ」
 男は、深く頷いた。
「これは、いいものですな。芋のアイス。素朴だ。それに、電車に乗り遅れるという、人間の根本的な失敗が入っている。値は、そうですな、八十円」
「八十円」
「ただし」
 男は、虫眼鏡を、そっと机に置いた。
「これは、二度目ですな。二度目は、一度目の三割引きです。さらに、『聞いたよ』と言われて落ちたものは、傷んでいる。そこで、五十六円」
「細かいんですね」
「へい。商売ですから」
 男は、帳面に、さらさらと鉛筆で書きつけた。
 それから、次の塊、また次の塊と、ひとつずつ見ていった。
 あたみのひまわりは、三十円。柿の話は、十二円。孫の運動会のすずめは、思いのほか高くて、百五十円。文子の寝言は、なぜか値がつかず、「これは、ご家庭でお楽しみください」と返された。
 文子は、少し赤くなった。
 やがて、すべての査定が終わり、男は、帳面の数字を足して、算盤をはじいた。
「締めて、四百九十七円。端数は切り捨てて、四百九十円でどうでしょう」
「いや、七円くらい、いいじゃないですか」
「いやいや、これも、商売の決まりでして」
 男は、財布の代わりに、がま口を取り出した。がま口の中から、十円玉を、一枚ずつ並べはじめた。
 そのとき、男の手が、ぴたりと止まった。
 男は、源三の顔を、じっと見つめていた。いや、顔ではない。胸のあたりだった。
「旦那さん」
「はい」
「あなた、ずいぶん、お持ちですな」
「え?」
「ほら、そこ。胸の、左のほう」
 源三は、思わず、自分の胸を見おろした。
 もちろん、何も見えない。パジャマの上に羽織った、くたびれたカーディガンがあるだけである。
「何も、ありませんが」
「いや、おりますよ。ずいぶん、おとなしい子が」
 男は、虫眼鏡を取りあげて、源三のカーディガンの胸元に、そっとかざした。
「……ほう。これは、ずいぶん、育っている」
「何がです」
「『はいはい』ですよ。旦那さん。四十年分、いや、四十五年分は、おりますな」
 源三の背筋に、冷たいものが走った。
 隣で、文子が、小さく息をのんだ。
「旦那さんはね」
 男は、虫眼鏡を下ろして、静かに言った。
「今まで、奥さんの話を、はいはいと、お聞きになってきたでしょう。波風が立たないように、と」
「……はい」
「その『はいはい』はね、消えないんですよ。聞き流したつもりでも、ちゃんと、体の中に溜まっていく。溜まって、溜まって、いつしか、ひとつの生き物になる」
「生き物」
「へい。うちらの業界では、『はいはいさん』と呼んでおります」
 男は、帽子のつばを、もう一度、くいっと持ちあげた。
「旦那さん。そろそろ、出してあげたほうが、よろしいですよ」
「出す、とは」
「咳をね」
「咳」
「ひとつ、大きく」
 源三は、文子を見た。文子は、無言のまま、小さく頷いた。
 門の外の夜道には、ほかに人影がなかった。街灯が、じー、と低く鳴っていた。
 源三は、深く息を吸った。
 そして、咳をした。


第五章 はいはいさん
 ごふっ。
 源三の口から出てきたのは、思いのほか、大きかった。
 最初、白い、柔らかいものが、舌の上にのぼってきた。それが、のどを通り、唇をこえ、ぼとり、と地面に落ちた。
 落ちたものは、ちょうど、鏡餅の下の段くらいの大きさだった。
 色は、白い。表面は、つるんとして、薄く粉をふいている。目も口もないが、なんとなく、顔のようなものがある。ちょうど、十回くらい洗濯した、ふきんを丸めたような顔である。
 そして、そのものは、地面に落ちるなり、ぷるぷるっ、と一度震えて、実に、のんびりした声で言った。
――はいはい。
 文子が、一歩さがった。
 金子さんが、いつのまにか、塀の陰から顔を出していた。
「田所君、それが、おまえさんの」
「はい。そうらしいです」
 白いものは、地面の上で、ゆっくりと体を揺らした。そして、再び口を開いた。
――はいはい。はいはい。はいはい。
 そのたびに、声の調子が、少しずつ違った。ある「はいはい」は、疲れた声。ある「はいはい」は、投げやりな声。ある「はいはい」は、ずっと我慢している声。
 源三は、地面にしゃがんで、白いものを見おろした。
 見れば見るほど、自分の顔に似ている気がした。いや、顔ではなくて、いつも新聞を読んでいるときの、あの、少し丸まった背中に似ていた。
「あなた」
 文子が言った。
「こんなの、ずっと、胸に入れてたの」
「いや、入れてたつもりは」
「四十五年分」
「そうらしい」
「重かったでしょう」
 源三は、「いや、別に」と言いかけて、やめた。
 実のところ、重かった。
 それが、何の重さなのかは、わからなかった。わからないまま、ずっと、ちょうど、ズボンのポケットに小銭を入れすぎたときのような重さを、左胸のあたりに感じていたのだ。
 古話買いの男は、白いものに、虫眼鏡をかざした。
「ふうむ」
 男は、帳面を閉じた。
「これは、買えませんな」
「えっ」
「はいはいさんは、買い取りの対象外でして。ご本人にお返しするしか、ないんです」
「返す、とは」
「中身を」
 男は、白いものの背中をぽんぽんと叩いた。
「この子には、旦那さんが、四十五年間、聞き流してきた、奥さんの話が、ぜんぶ入っております。それを、ひとつひとつ、奥さんに、お返しするんです」
 その瞬間、白いものが、ぶるりと大きく震えた。
 それから、おもむろに、口を開いた。
 口といっても、顔の真ん中に、すうっと一本、線が入って、それがぱかりと開いたのである。
 そして、その口の奥から、声が出た。
 それは、文子の声だった。
――あなた、聞いてる?
 文子が、びくっとした。
――あのね、今日ね、スーパーでね、卵が、安かったの。
 源三は、思わず、笑ってしまった。
 何十年も前の、文子の声だった。若くて、少し高くて、弾んでいる。
――それでね、一パックだけ買おうと思ったのに、隣のおばさんが「二パックのほうが得よ」って言うから、結局、二パック買ってしまったの。
「はいはい」
 と、源三の口が、勝手に動いた。
 白いものも、同時に、「はいはい」と言った。ふたつの「はいはい」が、ぴったり重なった。
――あのね、それでね、うちの冷蔵庫に、入りきらなくてね。
「ほう」
――ほう、じゃなくてね。
 文子の声は、ふいに、少し悲しい調子になった。
――ほう、じゃなくて、「それは大変だったな」って、言ってほしかったの。
 源三は、息を止めた。
 白いものは、そのまま、次の声を再生しはじめた。
――あなた、聞いてる?
――昨日ね、病院で、お隣の奥さんに会ってね。
――ねえ、聞いてる?
――孫がね、言ったのよ。「おばあちゃん、おいしい」って。
――あなた。
――あなた?
 声は、次々と出てきた。早送りのように、何十年もの「あなた、聞いてる?」が、ぽろぽろ、ぽろぽろと、白い口からこぼれ落ちる。
 源三は、地面にしゃがんだまま、顔をあげられなかった。
 隣にいた文子は、しばらく黙って聞いていた。
 やがて、ぽつんと言った。
「……恥ずかしいわね」
「文子」
「若いころの私、すごくどうでもいいこと、話してる」
「いや」
「卵が安かった話なんて、まるでテレビのニュースみたいに」
 文子は、そう言って笑った。
 けれど、その笑い方は、いつもの文子の笑い方とは、少し違っていた。
 金子さんが、塀の陰で、鼻をかんだ。
 古話買いの男は、帽子のつばを、深くさげた。
 そして、誰にも聞こえないくらいの小さな声で、つぶやいた。
「これは、返すのに、時間がかかりますな」


第六章 家が浮く夜
 はいはいさんは、その夜から、田所家の一員になった。
 居間の隅に、座布団を敷いてもらい、そこにちょこんと座って、ときどき「はいはい」と言う。それだけなら、まだ可愛げがある。
 困ったのは、夜中である。
 午前二時ごろになると、はいはいさんは、決まって起きだして、四十五年分の「あなた、聞いてる?」を、順番に再生しはじめるのだった。
――あなた、聞いてる?
――ねえ、あなた。
 その声が、家じゅうに響く。二階の寝室で寝ていた源三は、そのたびに、むくりと起きあがって、「聞いてる、聞いてる」と、暗闇に向かって返事をした。
 隣の布団で、文子は、くすくす笑った。
「あなた、律儀ねえ」
「うるさいな」
「でも、四十五年分でしょう。全部返しきるのに、いつまでかかるのかしら」
「計算してみるか」
「やめて。怖いから」
 そんなことが、三晩続いた。
 四日目の夜。
 源三は、ふと、寝苦しくて目を覚ました。
 枕が、ふわふわしている。
 いや、枕だけではない。布団も、畳も、天井も、なんだか、全体がふわふわしていた。体が、普段より、少し軽い。
「文子」
「……なあに」
「起きてるか」
「起きてるわよ。さっきから、揺れてるもの」
 二人は、そっと窓のカーテンを開けた。
 そして、しばらく、言葉を失った。
 窓の外に、見慣れた電柱が見えた。ただし、いつもの高さではなかった。電柱の頭のあたりが、ちょうど、窓の真横に見えるのである。
「浮いてるわ」
「浮いてるな」
「うちの家、浮いてるわよ、あなた」
 田所家は、地面から、およそ十メートルの高さに、静かに浮かびあがっていた。
 原因は、すぐにわかった。
 一階に降りてみると、家じゅうの塊が、ぱんぱんに膨らんでいたのである。
 鳥は、ふくらんで、ハトほどの大きさになっていた。スリッパは、巨大なサンダルになって、居間の真ん中で、ぷかぷかと宙に浮いていた。紙吹雪は、いつの間にか、ふわふわの綿雲のようになって、天井の下に、びっしりと並んでいた。
 古話買いは先日、「買い取っても、行き場がありませんからな」と言って、結局ほとんどの塊を置いて帰ってしまったのだ。買い取ってもらえたのはごく一部だけで、買い手が現れずに行き場をなくした話たちは、この家に充満し、行き場を求めて外へ出ようと、パンパンに膨らんでいたのである。
 塊は、増えるのである。
 しかも、浮力を持って膨らむのである。
「ガスみたいなものかしら」
「浮力があるんだろうな。言えなかった言葉や、届かなかった話の浮力が」
「そんな浮力、聞いたことないわよ」
「俺も、ないな」
 二人は、居間に立ちつくした。
 そのとき、玄関の呼び鈴が鳴った。
 鳴るはずがない。ここは、十メートルの上空である。
 それでも、ぴんぽーん、と鳴った。
 文子が、おそるおそる戸を開けると、そこには、金子さんが立っていた。
 金子さんは、パジャマ姿で、庭用のサンダルを履いて、なぜか、盆栽の鉢を抱えていた。
「やあ、田所君。夜分、すまない」
「金子さん、どうやって」
「うちも浮いているんだ。ちょうど、君の家の隣に来たもんだから、跳んで渡ってきた」
「跳んで?」
「ほら」
 金子さんは、後ろを指さした。
 玄関の先に、金子さんの家が、ぷかぷかと浮かんでいた。二階の窓から、ほんのりと明かりがもれている。そして、通りの向こうには、また別の家が見えた。さらに向こうには、また別の家が。
「町内の、年寄りの家だけが、浮いているんだ」
 金子さんは、重々しく言った。
「わしらの家には、誰にも聞いてもらえなかった話が、溜まりすぎたんだな」
 窓の外を見ると、確かに、町のあちこちで、家がゆらゆらと浮かんでいた。月明かりに照らされて、白い屋根瓦が、ぼんやりと光っている。
 その光景は、びっくりするほどきれいだった。
「なんだか、遠足みたいね」
 文子が、のんきに言った。
「遠足って、お前」
「だって、きれいじゃない。ほら、あそこの家の上に、お月さまが乗ってる」
 源三は、窓の外の月を見た。
 確かに、とある家の屋根の上に、丸い月が、ちょこんと乗っていた。
 源三は、思わず、笑った。
 笑いながら、ふと思った。
 こんなにたくさんの年寄りが、こんなにたくさんの話を、誰にも聞いてもらえないまま、抱えているのだと。
 それは、笑えるようで、少しも笑えない話だった。


第七章 屋根の上の茶会
 家は、風に乗って、ゆっくりと町の上を流れていった。
 商店街の上を通りすぎ、小学校の校庭の上を通りすぎ、駅前のロータリーの上を通りすぎた。深夜のコンビニの看板が、真下で、青白く光っていた。
 誰も、気づかなかった。
 いや、ひとりだけ、気づいた者がいた。
 駅前の交番の巡査である。まだ二十代の、背の高い青年だった。夜勤の退屈しのぎに、ぼんやり空を見あげていた彼は、頭上を、民家が、すうっと通過していくのを見て、口を半開きにした。
 商売熱心な古話買いがリヤカーを引いて、雲の上をてくてくと歩きながら、宙に浮く家々を回っている姿も、青年の視界を横切った。
 巡査は無線機を取り出して、真顔で報告した。
「あの、本部。いま、家が、飛んでいきました。あと、リヤカーも……」
「何を言ってるんだ、お前は」
「いえ、あの、二階建ての、瓦屋根の」
「疲れてるんだ。コーヒーを飲め」
「はい」
 青年は、無線を切り、紙コップのコーヒーを、一口飲んだ。もう一度、空を見あげた。もう、何も飛んでいなかった。
 その、頭上の家の屋根の上で、源三と文子は、お茶を飲んでいた。
 屋根の上に、梯子をかけて登ったのである。金子さんも一緒だった。三人は、瓦の上に座布団を敷き、魔法瓶と湯呑みを並べて、夜風にあたっていた。
「高いところは、風が気持ちいいわね」
「落ちるなよ」
「落ちないわよ。浮いてるんだから」
「浮いてるから、落ちるんだ」
「どういう理屈よ」
 金子さんは、盆栽の鉢を膝にのせて、ふむふむと頷いていた。
「田所君の奥さんは、肝がすわっておられる」
「昔からです」
「うちの家内も、そうだった」
 金子さんは、遠くを見て、ぽつりと言った。
「家内はね、わしが何を言っても、必ず、最後まで聞いてくれたんだよ。『それ聞いたよ』と言ったことは、一度もなかった」
 源三と文子は、黙って聞いた。
「でもね、あるとき、気づいたんだ。家内が、わしの話を、聞きながら、ときどき、空を見ていることに」
「空を」
「窓の外を。雲を。ああ、聞いてないんだな、と思った。でも、それでいいんだ、とも思った。聞いてなくても、そこにいてくれるだけでね」
 金子さんは、湯呑みを、両手で包んだ。
「家内が亡くなって、いちばん困ったのはね、話を聞いてくれる人がいなくなったことじゃない。『聞いてなくても、そこにいてくれる人』が、いなくなったことなんだ」
 夜風が、屋根の上を、すうっと吹きぬけた。
 金子さんの盆栽の松が、小さく揺れた。
 文子が、そっと、金子さんの湯呑みに、お茶を注ぎ足した。
「金子さん」
「なんだい」
「今夜は、いっぱい、独りごとを言っていいですよ。私とあんたで、ここで、聞いてますから」
 金子さんは、目をぱちぱちさせて、それから、照れくさそうに笑った。
「そうかい。じゃあ、ひとつ」
「どうぞ」
「あのな、昭和四十年のことなんだが」
「はいはい」
 源三が、反射的に言った。
 金子さんが、むっとした顔をした。
「田所君。その『はいはい』は、やめたまえ」
「あ、すみません」
「ちゃんと聞いてくれるなら、『はい』は一回でいい」
「はい」
 三人は、顔を見あわせて、笑った。
 そのときだった。
 屋根の下から、ぽん、と音がした。
 見ると、屋根の端から、白いものが、ちょこんと顔を出していた。はいはいさんである。
 はいはいさんは、屋根瓦の上を、ころころと転がって、三人のそばまでやってきた。そして、源三の座布団のとなりに、ちょこんと座った。
 その表面に刻まれていた二つの「はいはい」という文字が、薄い光となって解け、ひとつの素朴な文字へと変わった。
――はい。
「お、一回になったわ」
 文子が、目を丸くした。
――はい。
 はいはいさんは、それから、金子さんのほうを向いた。
――はい。
「聞いてくれるのかね」
――はい。
 金子さんは、嬉しそうに、咳払いをひとつして、語りはじめた。
 昭和四十年の話は、長かった。支店のストーブが壊れて、支店長が、自分のコートを着たまま執務したという話だった。聞きながら、源三は、思った。
 なるほど、これは、確かに、金子さんの何十回目かの話かもしれない。しかし、不思議と、退屈ではなかった。
 話の途中で、金子さんが、ふと、声を詰まらせた。
「……家内がね、その日の晩、わしのために、おでんを作ってくれたんだ」
 はいはいさんが、すっと体を寄せた。
 屋根の上の空気が、ぬくんだ。


第八章 文子の打ち明け話
 金子さんが話し終えるころには、東の空が、うっすらと白みはじめていた。
 金子さんは、「ありがとう。実に、すっきりした」と言って、自分の家へ跳んで帰っていった。盆栽の鉢を抱えたまま、隣の屋根から屋根へ、ひょいひょいと渡っていく後ろ姿は、年齢を感じさせない身軽さだった。
 源三と文子は、屋根の上に、ふたりきりで残された。
 魔法瓶のお茶は、もう、ぬるくなっていた。
 はいはいさんは、源三の膝の上で、すうすうと寝息を立てていた。いや、寝息というより、小さな「はい、はい」である。
「ねえ、あなた」
 文子が、湯呑みを両手で持ったまま、言った。
「ひとつ、白状していいかしら」
「なんだ。改まって」
「あのね」
 文子は、しばらく、言葉を探すように黙っていた。夜明け前の風が、白髪を、ふわりと持ちあげた。
「私ね、あなたが『はいはい』って言ってるの、ずっと、知ってたの」
 源三は、湯呑みを、落としそうになった。
「え」
「もう、ずいぶん昔から。たぶん、結婚して、五年目くらいから」
「……そうか」
「だって、声が違うもの。ほんとに聞いてるときの『ほう』と、聞いてないときの『はいはい』は」
 源三は、しばらく何も言えなかった。
 四十五年。
 四十五年間、うまくやってきたつもりだった。波風を立てず、角を立てず、穏やかに。
 それが、全部、ばれていたのだ。
「じゃあ、なんで言わなかった」
「言ったら、あなた、困るでしょう」
「困るが」
「それに」
 文子は、ふふ、と笑った。
「私も、同じ話を、わざと何度もしてたのよ」
「わざと?」
「そう。わざと」
 源三は、文子の横顔を見た。
 文子は、東の空を見ていた。薄い桃色が、雲の端に、にじみはじめている。
「あなたってね、人の話を聞いてるときは、いつも、新聞か、テレビか、ごはんを見てるでしょう」
「……そうか?」
「そうよ。私の顔を、ほとんど見ないの」
 源三は、返す言葉がなかった。
「でもね、あなたが話すときは、違うの。私のほうを、ちゃんと見るのよ。川越の話をするときなんか、目がきらきらして、子どもみたいに」
「そんなことは」
「あるのよ。私、それが、好きなの」
 文子は、そこで、はじめて、源三のほうを向いた。
「だからね、私も、あなたに、私の顔を見てほしくて、何度も、同じ話をしたの。同じ話をしてたら、そのうち、あなたが、私の顔を見てくれるんじゃないかって」
 源三は、ぽかんと口を開けた。
「見なかったでしょう。結局」
「……ああ」
「でも、いいの。私も、あなたが何回同じ話をしても、毎回、ちゃんと、楽しみにしてたから。『それ聞いたよ』って言いながらね」
「楽しみに」
「そうよ。あなたが、川越の話をするときの、あの、ちょっと得意そうな顔。あれを見たいから、『それ聞いたよ』って、先に言ってみるの。そうするとね、あなた、ちょっと、むっとした顔をするでしょう。あれが、また、可愛くて」
「おい」
「ごめんなさい。でも、本当なの」
 源三は、顔が熱くなるのを感じた。
 四十五年かけて、ようやく、自分が、ずっと、手のひらの上で転がされていたことに気づいたのである。
 しかし、不思議と、腹は立たなかった。
 むしろ、体のどこかから、ほろりと、何かが、解けていくような感じがした。
「文子」
「なあに」
「実はな」
「うん」
「俺も、ひとつ、白状する」
「どうぞ」
 源三は、深く息を吸った。
「川越の話は、実は、嘘なんだ」
 文子が、目を丸くした。
「……え?」
「いや、嘘というか、ちょっと盛ってる。駅前で食べたのは、芋のアイスじゃなくて、ただの、あずきバーだ」
「あずきバー」
「しかも、電車に乗り遅れたんじゃなくて、乗る電車を、間違えただけだ」
「まあ」
「話が、あまりに地味だから、少しずつ、盛っていったんだ。そしたら、いつのまにか、芋のアイスになって、電車に乗り遅れて、それが、もう、すっかり、本当のことみたいに」
 文子は、ぽかんとした顔で、源三を見つめていた。
 それから、突然、吹き出した。
 あはははは、と、屋根の上に、文子の笑い声が響いた。
 それは、ここ数年、源三が聞いたことのないほどの、大きな笑い声だった。
「あなた、四十年も、そんな嘘を」
「嘘じゃない。盛っただけだ」
「あずきバーだなんて、ちっとも、威厳がないじゃない」
「だから、盛ったんだ」
 文子は、お腹を抱えて笑いつづけた。
 はいはいさんが、膝の上で、びくりと目を覚ました。
――はい?
「はいはいさん、聞いた? この人、あずきバーだって」
――はい。
「あずきバーって」
――はい。
 はいはいさんの「はい」が、いつもより、少しだけ、嬉しそうに聞こえた。
 夜が、明けていく。
 空が、桃色から、金色に変わっていく。
 その空の下で、二人の年寄りと、一匹の白い塊は、いつまでも、笑っていた。


第九章 お返しの時間
 笑いがおさまると、文子は、はいはいさんを抱きあげた。
「ねえ、はいはいさん。あなたのお腹の中の、四十五年分」
――はい。
「ぜんぶ、返してくれる?」
――はい。
 はいはいさんは、ぷるぷるっと体を震わせた。顔の真ん中の線が、ぱかりと開く。
 今度は、声ではなく、光が出てきた。
 淡い、薄緑色の光である。それが、ふわり、ふわりと、屋根の上に広がっていく。光の中に、小さな絵のようなものが、いくつも浮かんだ。
 文子が、若いころ、スーパーで卵を買ったときの、買い物かご。
 病院の待合室で、隣の奥さんと並んで座っている、文子の後ろ姿。
 幼い孫が、おばあちゃんの手を引いて、「おいしい」と言っているところ。
 それらが、ひとつ、またひとつと、薄緑色の光の中で、ゆっくり回りながら、消えていった。
「あら、きれい」
 文子が、うっとりと呟いた。
 源三は、ふと思った。
 これらの話は、聞き流された話ではなかったのだ。
 ちゃんと、胸のどこかに、しまわれていたのだ。ただ、取り出して、「聞いたよ」と返す方法を、知らなかっただけで。
 光の中で、ひとつの絵が、ひときわ大きく、ゆっくりと回った。
 それは、若い文子が、台所で、泣いている絵だった。
「あ」
 文子が、小さく声をあげた。
「これ、いつだったかしら」
「……三十年くらい前か」
 源三は、思いだしていた。あのとき、自分は仕事で遅くなり、くたくたで何も言わずに玄関から風呂場へ直行してしまったのだ。台所の明かりがついているのも、小さく震える背中も、見ないふりをして。
 源三は無言のまま、自分の膝の上で湯呑みを強く握りしめた。胸の奥に、苦い罪悪感がこみ上げる。
「あのとき、なんで泣いてたんだ」
「忘れたわ」
「忘れたのか」
「そうよ。でも、あなたが気づいてたのは、知ってたの」
「……すまん」
「いいのよ」
 文子は、静かに笑った。
「だって、もう、三十年も前のことだもの」
 光の中の、若い文子が、ゆっくりと、霧のように消えていった。
 それが、最後だった。
 はいはいさんの体は、少し、小さくなっていた。
 それでも、まだ、鏡餅の上の段くらいの大きさは、あった。
「まだ、ずいぶん、残ってるわね」
「そうだな」
「ねえ、あなた。残りは、これから、ゆっくり返していきましょうよ」
「どうやって」
「簡単よ」
 文子は、にっこり笑った。
「これからは、私が話すとき、あなた、ちゃんと、私の顔を見てくれればいいの」
「それだけか」
「それだけ」
「……できるかな」
「できなかったら、また、はいはいさんが、増えるだけよ」
 はいはいさんが、膝の上で、ぷるんと揺れた。
――はい。
 そのとき、空の向こうからリヤカーを引いた古話買いが通りかかった。
「へい、旦那さん。さきほど屋根の下から聞こえましたよ。あずきバーの話。あえて盛る前の真相、実にいい話です。買わせてくださいな」
「本当か」
「へい。ですが……今回は買わないでおきましょう。奥さんがもう、その話を聞いて大笑いなさいましたからね。お支払いは済みです」
 古話買いはそう言って、にいっと笑った。
 空を見渡せば、田所家だけでなく、町中の屋根の上で、年寄りたちが膝を突き合わせ、語り合っていた。金子さんの長年の独りごとも、文子の若き日の思い出も、すべて「誰かの耳」に届き、受け止められていく。
 浮力を生んでいた「誰にも届かない言葉」という重石が、次々と光となって夜空へ昇華されていった。


第十章 着地
 その日の昼前、町じゅうの家が、ゆっくりと、元の場所に降りはじめた。
 言葉たちが誰かに聞いてもらえたことで重石が消え、浮力がすうっと抜けていったからである。
 降りかたは、家によって違った。
 金子さんの家は、庭の松の上に、そっと着地した。松は、ぺしゃんこにならず、なぜか、屋根の上に乗っかって、そこで立派に枯山水のような風情を見せた。
 向かいの高橋さんの家は、犬小屋の真上に降りた。犬は、小屋の中で、きょとんとしていた。
 田所家は、いちばん静かに降りた。
 降りたというより、ぬるりと、元の場所に収まった感じである。窓の外の電柱が、少しずつ高くなり、やがて、いつもの高さに戻ったとき、二人は、ようやく、「帰ってきたな」と呟いた。
「ただいま」
 文子が、玄関に向かって言った。
 誰も、返事をしなかった。ただ、廊下の奥から、ぷるん、と何かが震える音がした。
 居間に入ると、塊たちは、すっかり、小さくなっていた。
 ハトほどにふくらんでいた鳥は、またすずめほどの大きさになり、茶箪笥の上で、ちゅん、と眠そうに鳴いた。巨大なサンダルは、普通のスリッパに戻って、玄関に、きちんと揃っていた。綿雲のような紙吹雪は、ところどころ、天井から舞いおりて、畳の上で、きらりと光ってから、溶けて消えた。
「あれ。消えちゃうの」
「消えるみたいだな」
 源三は、畳の上に落ちた、光のかけらを、指でそっとつついた。かけらは、指の先で、ぽっと温かくなって、消えた。
 文子も、しゃがんで、そっと、かけらを手のひらにのせた。
「聞いてもらえたのね」
「何を」
「話が。たぶん、あのまま、ずっと、行き場がなかったのよ。でも、昨日の夜、屋根の上で、みんなが、ちゃんと聞いたでしょう。だから、満足して、消えていくのよ」
「そういうものか」
「そういうものよ」
 文子は、手のひらの光を、ふっと吹いた。光は、窓の外へ、ふわりと流れていった。
 はいはいさんは、居間の隅の座布団の上で、小さくなっていた。
 もう、鏡餅の上の段ではない。ミカンくらいの大きさだった。
「はいはいさん」
――はい。
「ずいぶん、小さくなったな」
――はい。
「残りの分は、ゆっくり返していこう」
――はい。
 はいはいさんは、嬉しそうに、体を揺らした。
 午後になって、金子さんが、また、回覧板を持って現れた。
 金子さんは、昨日とは打って変わって、すっきりした顔をしていた。
「田所君。どうやら、町内じゅう、元通りになったようだね」
「はい。おかげさまで」
「実はね、田所君」
 金子さんは、上がり框に腰をおろして、小声で言った。
「今朝、消えた塊の中にね、家内の話があったんだよ」
「奥さんの」
「そう。わしが、仏壇に向かって、毎晩、話しかけていた内容が、ぜんぶ、塊になって、庭にたまっていたんだが」
 金子さんは、湯呑みの縁を、指でなぞった。
「それが、消えるとき、ふっと、家内の声が聞こえた気がした。『はいはい』って」
 源三と文子は、顔を見合わせた。
「……そうですか」
「いや、もちろん、気のせいかもしれん。わしの耳が、都合よく、作りあげたのかも」
「いいえ」
 文子が、静かに言った。
「きっと、ほんとに、おっしゃったんですよ」
 金子さんは、しばらく、黙っていた。
 それから、「そうか」と一言だけ言って、お茶を、ゆっくり、飲みほした。
 帰りぎわ、金子さんは、玄関先で、振りかえった。
「そうだ、田所君」
「はい」
「今度、うちに、盆栽を見に来ないか。奥さんも、一緒に」
「ええ、ぜひ」
「わしの盆栽の話は、少し、長いが」
「はいはい」
 源三は、つい、いつもの口癖で、答えてしまった。
 金子さんが、むっとした。
「田所君」
「あ、すみません」
 文子が、くすくすと笑った。
 源三は、頭をかいて、言い直した。
「はい。楽しみにしてます」
「うむ」
 金子さんは、満足そうに頷いて、帰っていった。
 夕暮れの路地を、背の高い、少し丸まった背中が、ゆっくりと遠ざかっていく。その背中は、もう、ひとまわり小さくは見えなかった。


終章 それ聞いたよ、もう一回
 それから、一か月がたった。
 田所家の朝は、相変わらずである。
 味噌汁。納豆。焼き海苔。ちゃぶ台の上には、新聞が、折りたたまれて置かれている。
 源三は、味噌汁の椀を両手で包んで、口を開いた。
「あのな、昭和六十二年の話なんだが」
「それ聞いたよ」
 文子が、台所から言った。いつもどおり、振りむかない。納豆をかきまぜる音が、リズムを変えずに続いている。
 源三は、味噌汁をひと口すすった。それから、椀を置いて、言った。
「ああ。聞いたな」
「聞いた」
「だが、もう一回、聞いてくれないか」
 納豆をかきまぜる音が、ぴたりと止まった。
 文子が、ゆっくりと振りむいた。
 その顔は、少し驚いていて、少し照れていて、それから、あきらかに、嬉しそうだった。
「しょうがないわねえ」
 文子は、納豆の器を持ったまま、ちゃぶ台に座った。
「どうぞ。ちゃんと、顔を見て、聞いてあげるから」
「いや、俺が、お前の顔を見て話すんだ」
「あら」
「そういう決まりに、した」
「誰が決めたのよ」
「俺が」
「勝手ね」
「勝手だ」
 二人は、笑った。
 茶箪笥の上で、はいはいさんが、小さく、ぷるんと揺れた。いまは、ビー玉ほどの大きさである。ときどき、「はい」と言う。「はいはい」ではなく、ちゃんと、一回だけ。
「さあ、どうぞ」
「あのな」
 源三は、文子の顔を、まっすぐに見た。
 四十五年かけて、ようやく、まっすぐに見た顔には、深い皺と、白い眉と、そして、昔と同じ、少し笑った目があった。
「昭和六十二年のことなんだが」
「うん」
「川越に行ったんだ」
「うん」
「電車に乗り遅れてな」
「うん」
「駅前で、芋のアイスを」
「あずきバーでしょ」
「……うむ」
 文子が、吹き出した。
 源三も、吹き出した。
 朝の台所に、二人の笑い声が響いた。
 窓の外では、郵便配達のバイクが、いつもの時間に、通り過ぎていった。
 その日の夕方、玄関の外で、細い声が聞こえた。
「ふるばなしー、ふるばなし、ありませんかー」
 源三が、戸を開けると、古話買いが、リヤカーを引いて、立っていた。
「毎度。今日は、何か、ございますか」
「いえ、今日は、何も」
「ほほう」
 古話買いは、玄関の奥を、のぞきこんだ。居間から、文子の笑い声が、聞こえてくる。茶箪笥の上で、小さな白いものが、ぷるりと震えた。
「いい家ですな」
「そうですか」
「話が、ちゃんと、出入りしてる」
 古話買いは、帽子のつばを、くいっと持ちあげた。
「では、また、お邪魔します。そのうち、新しい話が、たまりましたら」
「ええ。でも、その前に」
 源三は、少し考えてから、言った。
「うちに、お茶でも、飲んでいきませんか」
「いえ、あたしは、商売の途中で」
「ひとつ、聞いてほしい話があるんです」
「おや」
「昭和六十二年の話なんですが」
 古話買いは、目を丸くした。それから、歯が半分しかない口を、にいっと広げて、笑った。
「それ、聞きましたよ」
「そうですか」
「でも、もう一回、聞きましょう」
 古話買いは、リヤカーを、門の脇にとめた。
 二人は、並んで、玄関をくぐった。
 居間では、文子が、お茶の用意をして、待っていた。
 ちゃぶ台の上には、湯呑みが、三つ。
 夕焼けが、窓から差しこんで、畳の上に、あたたかい四角を、つくっていた。
――ご同輩。
 そんなことだよ。

ー了ー



アマゾン キンドル




【あとがき】
「それ聞いたよ」と言われて、はいはいと聞き返す。波風を立てないための、小さな優しさ。その裏側に、どんな気持ちが積もっているのだろう、と想像してみたのがきっかけです。
年を重ねると、同じ話を何度もしてしまいます。それを笑うのは簡単ですが、同じ話の中には、その人が本当に大事にしている思い出や「見てほしい自分」が、ちゃんと詰まっているのだと思います。
もし、あなたの隣にも、同じ話を何度もする人がいたら。
あるいは、あなた自身がそうなっていたら。
「それ聞いたよ」の後に、「もう一回」を、つけてみてください。
それで、世界はほんの少しだけ、あたたかくなります。



【原詩】

昨今

カミさんから

それ聞いたよ と

言われることばかり


そう

何度も同じことを

話すようで


これもまた

老化のようだ


でもそれって

僕だけではなく

逆にカミさんの方が多いけれども

僕は

それを言葉にせず

はいはいと

聞くことにしている


すれば

波風は立たず

その場 穏やかに過ごせるから


男は

それで良いと思っている


女はきっと

その場 

思ったことを吐き出すことで

心が楽になるのだろう


ご同輩

そんなことだよ