ハチ公とまち星
― 待ち合わせの駅の、不思議な一日 ―
六十五歳のケンさんと、待つ犬のSF童話
まえがき
人は、人生の中で、いったいどれくらいの時間を「待つ」のでしょう。
電車を待つ。
誰かを待つ。
返事を待つ。
約束の日を待つ。
そして、ときには、もう会えない人を待つ。
待っているあいだ、時間はゆっくり進んでいるように感じます。
けれど、その時間は、本当に消えてしまうのでしょうか。
待ち合わせに相手が来なかったとき。
自分だけが取り残されたような気持ちになることがあります。
「あの人は、来なかった」
そう思って、その日のことを忘れようとする。
けれど、もしかすると――。
相手もまた、どこかで待っていたのかもしれません。
ただ、二人の立っていた場所が、ほんの少し違っていただけなのかもしれません。
スマートフォンも携帯電話もなかった時代なら、そんなことは、決して珍しくありませんでした。
この物語の主人公、六十五歳のケンさんも、若いころに一度だけ、そんな待ち合わせをしました。
そして四十五年後。
友人との待ち合わせに現れなかったケンさんは、上野の博物館で、一匹の犬と再会します。
その犬の名前は、ハチ。
ずっと誰かを待ち続けた犬です。
ハチはケンさんに教えてくれます。
「待った時間は、なくならないよ」
人が待った時間。
犬が待った時間。
誰かを思いながら過ごした時間。
それらは、どこかに小さな光として残っているのだと。
これは、そんな「待つ時間」をめぐる、不思議な一日の物語です。
少しだけSFで。
少しだけ滑稽で。
売切れるほど切ない。
もしあなたにも、長いあいだ心の片隅に残っている「待ち合わせ」があるのなら。
この物語のどこかで、あなた自身の小さな「まち星」に出会っていただけたらと思います。
一 六十五歳は、無料の国の住人
六十五歳になると、世の中が少しだけ変わって見える。
ケンさんは、最近そう思うようになった。
正確には、世の中が変わったのではない。
自分を見る世の中の目が、少し変わったのである。
電車に乗れば、席を譲られることがある。
店では、
「お客様、シニア料金になります」
と言われる。
博物館や美術館では、
「六十五歳以上の方は無料です」
という文字が目につくようになった。
ケンさんは、そのたびに思う。
――六十五歳。
なるほど。
いつの間にか、無料の国の住人になったらしい。
「でもなあ」
ケンさんは、鏡に映った自分を見ながら言った。
「頭の中は、まだ二十歳なんだけどな」
鏡の中の男は、もちろん何も答えなかった。
白髪は増えた。
顔には、それなりの皺もある。
腹も少し出てきた。
けれど、気持ちだけは、昔とそれほど変わっていない。
少なくとも本人は、そう思っている。
その日、ケンさんは朝から上野へ出かけた。
国立西洋美術館を見て、それから神田へ行く予定だった。
神田には、友人の笑太が出演する落語会がある。
笑太は、ケンさんより少し若い。
二人は、ときどき酒を飲む仲だった。
「今日は笑太の落語を聞いて、帰りに一杯だな」
ケンさんは、それだけを楽しみに家を出た。
美術館では、外国人観光客に囲まれながら、ゆっくり絵を見た。
若いころなら、もっと早く歩いていただろう。
今は違う。
一枚の絵の前で、何分でも立っていられる。
「時間だけは、あるからな」
そう言って、ケンさんは笑った。
六十五歳。
急ぐ理由が、少しずつ減っていく年齢なのかもしれない。
美術館を出ると、神田へ向かった。
途中で立ち食いそばを食べた。
天ぷらそば。
昔から好きだった。
そして、笑太の落語会へ。
ところが――。
会場に着いてみると、入口に小さな紙が貼られていた。
《本日、笑太は急遽、代演となりました》
「え?」
ケンさんは、しばらく紙を見つめた。
笑太は出ない。
連絡もない。
スマートフォンを取り出した。
メッセージを送る。
《どうした?》
返事はない。
電話をかけようかと思ったが、やめた。
何となく嫌な予感がした。
しかし、深刻なものとも思えない。
「まあ、いいか」
ケンさんは踵を返した。
せっかく神田まで来たのだから、もう少し何か見て帰ろう。
そう思った。
そして、なぜかもう一度、上野へ戻ることにした。
そのときのケンさんは、まだ知らなかった。
この日、自分が「待つ側」の人間になることを。
二 ざわめきの博物館
上野へ戻ったケンさんは、今度は国立科学博物館へ入った。
ここも六十五歳以上なら無料だった。
「ありがたいねえ」
受付を通るとき、ケンさんは小さく頭を下げた。
館内は、学校の団体客でにぎわっていた。
子どもたちの声が響いている。
「先生、これ何?」
「触っちゃダメ!」
「恐竜でかい!」
ケンさんは笑いながら、人の流れを避けて歩いた。
そして、いつもの場所へ向かった。
忠犬ハチ公。
その剥製は、ガラスケースの向こうに静かに座っている。
ケンさんは、ここへ何度も来ていた。
理由は特にない。
ただ、ハチを見るのが好きだった。
「よう、ハチ」
今日も声をかけた。
もちろん返事はない。
ガラスケースの向こうで、ハチはいつものように前を見ている。
「お前は、ずっと待ったんだよな」
ケンさんは言った。
「俺も昔、待ったことがあるよ」
渋谷駅前。
ハチ公像。
若かったころの自分。
そんな記憶が、ふっと浮かんだ。
「まあ、俺の場合は犬ほど長くなかったけどな」
ケンさんは笑った。
そのときだった。
キーン。
どこからともなく、高い音が聞こえた。
ケンさんは顔を上げた。
館内を見回す。
誰も気にしていない。
子どもたちも、先生も、外国人観光客も、何も変わらない。
けれど――。
ハチの目が、ほんの少し光った。
「……え?」
ケンさんは近づいた。
ハチの目の奥に、小さな星のような光が見える。
そして。
「ひさしぶりだね、ケンさん」
犬が、そう言った。
三 ハチの声
ケンさんは、固まった。
「……今、しゃべった?」
「うん」
ハチは普通に答えた。
「お前が?」
「そうだよ」
「ハチが?」
「そう」
「犬なのに?」
「犬だからだよ」
ケンさんは頭を抱えた。
「意味が分からん」
ハチは少し笑ったように見えた。
「ケンさん。今日は、待ったね」
その言葉に、ケンさんは黙った。
笑太のことだ。
自分が待った。
来なかった。
連絡もなかった。
「まあな」
「待つ時間は、消えないんだよ」
「……どういう意味だ?」
ハチは、ガラスケースの中からケンさんを見た。
「人は、待った時間を忘れたと思っている。でも、本当はどこかに残っている」
「どこに?」
「星になるんだ」
「星?」
「うん。ぼくたちは、それを『まち星』って呼んでる」
ケンさんは笑った。
「ずいぶんファンタジーだな」
「SFだよ」
「犬が言うと、何でもSFになるな」
ハチは気にしていない。
「ぼくがご主人さまを待った時間も、たくさんの星になった」
その瞬間、ケンさんには、ハチの背後に無数の光が見えた気がした。
小さな光。
大きな光。
青い光。
白い光。
そして、金色の光。
「これは……?」
「待った時間」
ハチは言った。
「待ち合わせで待った時間。帰りを待った時間。手術が終わるのを待った時間。好きな人を待った時間」
「そんなものまで?」
「うん」
「じゃあ、俺のもあるのか?」
「あるよ」
「どこに?」
「見に行く?」
ケンさんは少し考えた。
普通なら断る。
しかし今日は、どうせ暇だ。
六十五歳。
時間だけはある。
「行ってみるか」
ハチが笑った。
「じゃあ、三つ数えるよ」
「どうやって?」
「目を閉じて」
ケンさんは目を閉じた。
「いち」
世界が静かになった。
「に」
足元がなくなった。
「さん」
その瞬間、ケンさんは――。
四 待ち合わせの駅
深い青色の空間に立っていた。
空には星が浮かんでいる。
しかし、普通の星ではない。
ひとつひとつが、かすかに呼吸するように明滅していた。
目の前には、古い木造の駅舎。
駅名は書かれていない。
ホームには、一両だけの古い電車が止まっている。
「ここは?」
「待ち合わせの駅」
ハチが答えた。
「待ち合わせ?」
「そう。待った時間が集まるところ」
ハチは、いつの間にか四本の足で立っていた。
剥製ではなく、生きている普通の犬の姿だった。
けれど、どこか誇らしげだった。
「ケンさん、こっち」
駅舎の中には、鳩が一羽いた。
丸々とした鳩だった。
「こんにちは」
鳩が言った。
「しゃべった……」
「ここでは普通ですよ」
鳩は胸を張った。
「ポッポと申します。駅長です」
「駅長?」
「はい」
「鳩が?」
「鳩だからです」
ケンさんは、もう驚くのをやめた。
「よろしく」
「こちらこそ」
ポッポ駅長は羽を広げた。
「人間の待ち合わせは、本当に面白い」
「面白い?」
「ええ。早く来すぎる人。遅れてくる人。来たのに場所を間違える人。待っていることを忘れる人。そして――」
ポッポはケンさんを見た。
「ずっと待っていたことを、何十年も覚えている人」
ケンさんは苦笑した。
「俺のことか」
「そうです」
壁には、たくさんの時計が並んでいた。
どれも止まっている。
「止まってるじゃないか」
「待ち合わせが終わった時間で止まっているのです」
ケンさんは、一つの時計の前で立ち止まった。
そこには文字があった。
《昭和五十六年十一月 渋谷駅前 ハチ公像》
「……これ」
ケンさんの胸が、少しだけざわついた。
「あなたの時計です」
ハチが言った。
「四十五年前の、待ち時間」
ケンさんは、ゆっくり時計に触れた。
すると――。
時計の向こうに、景色が現れた。
渋谷。
若い人たち。
車の音。
駅前の人混み。
そして。
二十歳の自分。
五 まち星行きの電車
「まず、少し見て回ろう」
ハチが言った。
「俺の時計は?」
「逃げないよ」
二人はホームへ向かった。
古い木造電車が、静かに動き始める。
車内には、月の形をした吊り革が並んでいた。
「変な電車だな」
「待った時間を運ぶ電車だからね」
窓の外を、無数の星が流れていく。
よく見ると、その一つ一つに小さな光景が映っていた。
母親が玄関で息子を待っている。
高校生の女の子が、約束よりずっと早く駅に来ている。
病院の廊下で、手術室の扉を見つめている人がいる。
「みんな、待ってるんだな」
ケンさんが言った。
「うん」
「大変だな」
「でも、待つことには意味があるよ」
ハチは窓の外を見た。
反対側から、別の電車が走ってきた。
その電車には、犬や猫、ウサギなどが乗っている。
「動物の電車?」
「そう」
ハチは嬉しそうにした。
「ご主人さまを待った動物たち」
犬が犬を待つ。
猫が家族を待つ。
帰りを待つ。
その姿が星になっている。
「動物も同じなんだな」
「うん」
ハチは言った。
「待った時間は、種族には関係ないから」
やがて電車は駅へ戻った。
ポッポ駅長が時計を見ている。
「そろそろです」
「何が?」
「ケンさんの時間です」
六 ポッポ駅長の時計室
時計室には、数えきれないほどの時計があった。
壁にも。
床にも。
天井にも。
小さな時計。
大きな時計。
古い懐中時計。
壊れた腕時計。
砂時計。
すべてが、ある時間で止まっている。
ポッポ駅長は、一つずつ時計を磨いていた。
「そんなことをする必要があるのか?」
ケンさんが聞いた。
「忘れられた待ち時間は、少しずつ光を失います」
「忘れられると?」
「でも、誰かが思い出すと、また光ります」
ケンさんは、ハチを見た。
「じゃあ、お前は?」
「ぼく?」
「ずっと忘れられなかっただろ」
ハチは少し考えた。
「だから、星がたくさんあるんだと思う」
ケンさんは、自分の胸が少し温かくなるのを感じた。
そういえば。
自分は何度もハチを見に来ていた。
そのたびに、
「元気か?」
と声をかけていた。
「俺が来るたびに、お前の星は少し光ったのか?」
「うん」
ハチは答えた。
「だから、ケンさんはご同輩だよ」
「ご同輩?」
「待つことを知っている人」
そのとき、ハチが一つの小さな懐中時計を見つめた。
古い時計だった。
裏側には、文字が刻まれている。
《ごしゅじんさま まってます》
ケンさんは何も言えなかった。
ハチも何も言わなかった。
しばらくして、ポッポ駅長が言った。
「では、ケンさんの時計を」
ケンさんは頷いた。
七 二十歳のぼく
時計の針が動いた。
そして、四十五年前の渋谷が現れた。
昭和五十六年。
二十歳のケンさんが、ハチ公像の前に立っている。
手には映画のチケットが二枚。
待ち合わせ相手は、ミチさん。
大学で知り合った女の子だった。
「映画、行かない?」
そう誘った。
彼女は笑って、
「いいよ」
と言った。
それだけで、二十歳のケンさんは嬉しかった。
午後三時。
待つ。
三時半。
まだ来ない。
四時。
来ない。
四時半。
それでも来ない。
ケンさんは何度も駅の方向を見た。
人が来るたびに顔を上げる。
けれど、ミチさんではない。
そして。
やがて、若いケンさんは俯いた。
「……来ないんだ」
小さく呟いた。
「俺、何かしたかな」
ケンさんは、今の自分の隣で、その姿を見ていた。
二十歳の自分が、泣いている。
六十五歳のケンさんは、何も言えなかった。
「俺、こんなに泣いてたのか」
「うん」
ハチが答えた。
「ぼくは、ずっと見てた」
「お前が?」
「うん」
ハチは静かに言った。
「かわいそうだと思った」
「……そうか」
「でも、ぼくには何もできなかった」
しばらくして、ハチが言った。
「ケンさん」
「ん?」
「ほんとうのことを、知りたい?」
ケンさんは顔を上げた。
「ほんとうのこと?」
ハチは頷いた。
八 もうひとつの待ち合わせ
「待つ人がいれば、待たせる人がいる」
ハチは言った。
「でもね」
ポッポ駅長が続けた。
「待たせた人が、待っていなかったとは限らない」
「……どういうことだ?」
駅長は、別の時計を指した。
そこには、
《渋谷駅前 モヤイ像》
と書かれていた。
ケンさんの顔が変わった。
「モヤイ像?」
時計が開いた。
そこには、若いミチさんがいた。
当時はまだ、新島からやってきて間もない出来たばかりの大きな石像。その前で、手には映画のチケットを持ち、何度も腕時計を見る。
駅を見る。
人の流れを見る。
そして、ため息をつく。
「来ない……」
ミチさんも、待っていた。
ハチが言った。
「二人は、同じ渋谷にいた」
「でも……」
「待ち合わせ場所を、間違えたんだよ」
ハチの言葉が、胸に刺さった。
ケンさんは映像を見る。
ハチ公像。
そして、少し離れた南口にあるモヤイ像。
当時は携帯電話もない。
連絡することもできない。
どちらも、自分が正しいと思っている。
だから、会えなかった。
ただ、それだけだった。
「……そうだったのか」
ケンさんは呟いた。
四十五年間。
ずっと思っていた。
自分は振られた。
嫌われた。
何か間違ったことをした。
けれど――。
違った。
彼女も待っていた。
自分と同じように。
映画のチケットを持って。
同じ時間を。
同じような寂しさの中で。
「……なんだよ」
ケンさんは笑った。
「二人とも、馬鹿じゃないか」
ハチも笑った。
二つの星が、並んで光っていた。
九 酔っぱらいと、犬
「もう一つ、見てみる?」
ハチが言った。
「何を?」
「その日の夜」
時計が回った。
若いケンさんが、友人と歩いている。
どうやら酒を飲んだらしい。
顔は真っ赤。
足元も少しふらついている。
「俺は、あの夜……」
ケンさんは頭を抱えた。
「見るのやめようか?」
「いや」
ハチは笑った。
若いケンさんは、駅前の銅像――ハチ公像の前に立っていた。
そして――。
なんと、銅像に登った。
「おい!」
六十五歳のケンさんが叫ぶ。
「やめろ、俺!」
若いケンさんは、銅像のハチ公の背中にまたがった。
「ハチ!」
酔っぱらった声で叫ぶ。
「お前だけは、俺を待ってくれるよな!」
友人が大笑いしている。
若いケンさんは泣いていた。
笑っていた。
そして銅像のハチ公の頭を撫でながら、
「ありがとな」
と言っている。
六十五歳のケンさんは、顔を覆った。
「……最悪だ」
ハチは楽しそうだった。
「ぼくは、嫌じゃなかったよ」
「嘘つけ」
「本当だよ」
「犬だから分からんだろ」
「犬だから分かるんだよ」
ハチは静かに言った。
「人は、忘れたいことほど、強く覚えているから」
ケンさんは黙った。
あの夜を、できれば忘れたかった。
恥ずかしかった。
情けなかった。
けれど――。
ハチから見れば、それはただの一人の人間だった。
失恋して。
酔っぱらって。
泣いて。
それでも誰かに、
「ありがとう」
と言っていた。
「忘れることって、悪いことじゃないんだよ」
ハチが言った。
「きつく結びすぎた光を、少しほどいて、空に返すことだから」
「……お前、犬なのに、たまにいいこと言うな」
「犬だからね」
ハチは胸を張った。
「待つことは、忘れない」
十 笑太くんの待ち時間
時計室へ戻ると、見慣れない時計が一つ増えていた。
《本日 午前 笑太》
「笑太?」
ケンさんは時計に近づいた。
そこに映ったのは、病院だった。
ベッドの上に、笑太がいる。
隣には、落語の師匠らしき男性。
どうやら駅の階段で足を滑らせ、足首を痛めたらしい。
「大丈夫かな」
ケンさんが言った。
笑太はスマートフォンを手にしている。
何度も画面を見る。
「ケンさん、怒ってるかな」
そう呟いている。
「連絡したかったんですけど、師匠を病院に連れてきて……」
笑太は困った顔をしていた。
ケンさんは、しばらく黙っていた。
そして、笑った。
「なんだよ」
ハチが見上げる。
「どうしたの?」
「俺、勝手に怒ってた」
「うん」
「笑太も、待ってたんだな」
「そうだね」
「待つ側と、待たせる側って、案外近いんだな」
ハチは尻尾を振った。
「だから、待ち合わせは面白いんだよ」
ケンさんは笑った。
「帰ったら、あいつに一杯おごらせよう」
「ケンさんがおごるんじゃないの?」
「今日は特別だ」
十一 ミチさんの星
「ケンさん」
ハチが言った。
「もう一つ、やってみる?」
「何を?」
「声を届けること」
「誰に?」
ハチは、一つの星を見た。
ミチさんの星だった。
「ここからなら、ほんの少しだけ声を送れる」
ケンさんは黙った。
四十五年ぶり。
何を言えばいいのか分からない。
やがて、星に向かって話した。
「ミチさん」
声が震えた。
「俺、六十五歳になったよ」
星が小さく光った。
「たぶん、君も年を取ったよな」
ケンさんは笑った。
「俺だけ年取ってるわけじゃないもんな」
少し間を置いた。
「ずっと、俺が嫌われたんだと思ってた」
星が揺れた。
「でも、違ったんだな」
ケンさんは、あの日の映画のことを思い出した。
本当は映画を見たかっただけではない。
映画を見ながら、ミチさんが笑うところを見たかった。
それを言えなかった。
二十歳だったから。
「俺、あの日、映画を見たかったんじゃない」
ケンさんは言った。
「君と一緒にいたかったんだ」
星が強く光った。
「……四十五年もかかったけどな」
ケンさんは笑った。
「ありがとう」
そして、最後に言った。
「また、どこかで」
二つの星が重なった。
その瞬間。
遠い場所で、一人の女性が台所に立っていた。
湯飲みにお茶を注いでいる。
ふと手を止める。
何かを思い出した。
四十五年前。
駅前。
映画のチケット。
待っていた時間。
女性は、ほんの少し笑った。
頬に、小さなえくぼが浮かんだ。
そして――。
「……元気なのね」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
待ち合わせの駅で、星がまた一つ光った。
「うん」
ハチが言った。
「とどいたよ、ケンさん」
十二 まち星のかけら
「そろそろ帰る時間だよ」
ポッポ駅長が言った。
ケンさんは時計を見た。
「もう?」
「時間は、こちらでも流れます」
ハチが近づいてきた。
口に何かをくわえている。
透明な、小さな粒だった。
金色の光が、その中で揺れている。
「これ、何だ?」
「ケンさんのまち星のかけら」
「もらっていいのか?」
「うん」
ケンさんが手を伸ばすと、粒は掌の中で温かくなった。
「待つと、どうなる?」
「少し光る」
「待たないと?」
「ただの小さな石みたいになる」
ケンさんは笑った。
「じゃあ、俺はこれからも待たなきゃいけないな」
「そうだね」
「笑太を待つ」
「うん」
「ミチさんのことも、ときどき思い出す」
「うん」
「ハチにも会いに来る」
ハチは尻尾を振った。
「待ってるよ」
「来月くらいに来る」
「うん」
「いや、再来月かも」
「うん」
「そのうち酒も飲もう」
ハチが首を傾げた。
「ぼく、犬だから飲めないよ」
「そうだったな」
二人は笑った。
ポッポ駅長が言った。
「帰る時間です」
ハチがケンさんを見た。
「またね」
「またな」
「三つ数えるよ」
ケンさんは目を閉じた。
「いち」
駅の音が遠ざかる。
「に」
星の光が薄くなる。
「さん」
そして――。
十三 四年半あとの、約束
気がつくと、ケンさんは博物館の前に立っていた。
子どもたちの声が聞こえる。
さっきと何も変わっていない。
けれど、手の中には小さな光があった。
透明な粒。
まち星のかけら。
ケンさんは、それをポケットに入れた。
そのとき、スマートフォンが鳴った。
笑太からだった。
《ごめん。師匠が駅の階段で足を滑らせて、病院に連れてきてた。連絡できなかった》
ケンさんは笑った。
《了解。今度、一杯おごれ》
すぐに返事が来た。
《もちろん》
ケンさんはスマートフォンをしまった。
「待つのも、悪くないな」
そう呟いた。
博物館を出ようとしたとき、入口近くの案内が目に入った。
東京国立博物館の案内だった。
その中に、
《70歳以上――》
という文字が見えた。
ケンさんは足を止めた。
「七十か」
六十五歳。
あと四年半。
「まだ先だな」
けれど、以前なら遠いと思った四年半が、今は少し違って見える。
四十五年が過ぎた。
それに比べれば、四年半なんて、たいした時間ではない。
「じゃあ、七十になったら、また来るか」
誰に言うでもなく、そう言った。
外へ出る。
夕方の上野は、少しずつ色を変えていた。
ケンさんは歩きながら、ふと振り返った。
博物館の窓。
その向こう。
ハチのいる方向。
一瞬だけ。
犬の尻尾が動いたように見えた。
「……またな、ハチ」
ケンさんは手を振った。
終章 待っている友だち
それから四年半が過ぎた。
七十歳の誕生日。
朝。
ケンさんは鏡の前に立った。
髪はさらに白くなった。
顔の皺も増えた。
けれど、笑う顔は昔と変わらない。
テーブルの上には、小さな透明な粒がある。
あの日から、ずっと持っていた。
まち星のかけら。
ケンさんはそれをポケットに入れた。
「さて」
外は晴れていた。
「行くか」
どこへ行くのか。
誰に会うのか。
それは、まだ決めていない。
ただ、待っている友だちがいる。
ハチ。
笑太。
そして――。
もしかしたら、まだどこかで待っている誰か。
ケンさんは玄関を出た。
空を見上げる。
小さな白い雲が流れている。
「待つのも、悪くないや」
そう言って、歩き出した。
そのポケットの中で。
小さな星が、ほんの少しだけ光った。
ーおしまいー
あとがき
ハチ公は、長いあいだ、渋谷駅前で主人を待ち続けました。
その姿は、今も多くの人に知られています。
けれど、この物語を書きながら、私はふと考えました。
待つということは、ただ時間を過ごすことなのだろうか。
待っているあいだ、人は何を思っているのだろう。
そして、待たせてしまった側には、どんな時間が流れているのだろう。
もしかすると、待つ人と、待たせる人の間には、目には見えない一本の糸があるのかもしれません。
会えなかった。
連絡が取れなかった。
約束を間違えた。
そんな小さなすれ違いが、人生にはあります。
そのときは、それが取り返しのつかないことのように思える。
けれど、何十年も経ってから振り返ると、
「あれは、ただのすれ違いだったのかもしれない」
と思えることもある。
本当は、相手も待っていたのかもしれない。
本当は、相手も同じように寂しかったのかもしれない。
そう思えるだけで、過去の景色が少し違って見えることがあります。
この物語の「まち星」は、そんな気持ちから生まれました。
人が誰かを待った時間。
誰かを思った時間。
会えなくても、忘れられなかった時間。
それらが全部、どこかに小さな光として残っていたらいい。
そんな願いを込めています。
そして、ハチ公という存在には、不思議な力があります。
ただ待っているだけなのに、人の心を動かす。
何も話さないのに、何かを語っているように見える。
だから、この物語では、ハチに少しだけ話をしてもらいました。
犬だからこそ言えることがある。
犬だからこそ分かる「待つ」ということがある。
そんな気がしたからです。
もしあなたにも、
「今でも、あの人はどうしているだろう」
と思う人がいるなら。
もし、昔の待ち合わせを一つだけ思い出せるなら。
その時間は、もしかすると消えてはいないのかもしれません。
あなたの心のどこかで。
小さな星になって、まだ光っているのかもしれません。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
自由と、あなたの「待っている時間」にも、いつか小さな光が届きますように。
紹介文
六十五歳になったケンさんは、ある日、友人との待ち合わせに一人取り残される。
落語会に出演するはずだった友人は、なぜか現れない。
仕方なく上野へ戻ったケンさんは、国立科学博物館で、何度も見てきた一匹の犬の前に立つ。
忠犬ハチ公。
すると――。
ガラスケースの中から、犬の声が聞こえた。
「ひさしぶりだね、ケンさん」
ハチが語ったのは、人が誰かを待った時間は決して消えないという、不思議な話だった。
待った時間は「まち星」と呼ばれる小さな星になり、どこかに残っている。
そしてケンさんは、ハチに導かれて「待ち合わせの駅」へ向かう。
そこには、人生の中で誰かを待った人々の時計が、無数に並んでいた。
その中にあったのは、四十五年前の自分の時計。
二十歳だったケンさんは、渋谷で一人の女の子を待っていた。
彼女は来なかった。
だからケンさんは、ずっと思っていた。
――自分は嫌われたのだ、と。
しかし、ハチが見せてくれた「もう一つの待ち合わせ」には、思いもよらない真実が残されていた。
彼女もまた、待っていたのだ。
ただ、二人の立っていた場所が、少し違っていただけだった。
待つ人。
待たせる人。
会えなかった人。
忘れたと思っていた人。
そのすべての時間が、小さな星になって残っている。
これは、そんな「待つこと」をめぐる、不思議で少し可笑しく、そして少し切ないSF童話です。
人生は、ときどき待ち合わせを間違えます。
けれど――。
待った時間まで、なくなるわけではありません。
六十五歳のケンさんと、ずっと待っていた犬・ハチが出会った、不思議な一日の物語。
大人になったあなたの心にも、きっと一つくらいあるはずの「まち星」をめぐる物語です。

