持ち時間は軽くなった
〜昭和男、ぬか床にスマホを沈める〜
まえがき
時計、カメラ、テレビに電話……。気がつけば、私たちの身の回りにあった数々の道具は、ポケットの中の小さな「薄い板」一枚に収まってしまいました。
便利になった令和の時代。けれど、ふとあの頃の不便さや、手触りのある時間が恋しくなることはありませんか?
これは、ふとした事故(ぬか床)からスマホを失い、ほんの数日間だけ昭和へタイムスリップしてしまった、ある一人の男のお話です。
> 気軽にクスッと笑いながら、お楽しみいただければ幸いです。
序 九人の同居人
宮本昭彦、五十九歳。食品会社「まるごし味噌」販売課長。昭和四十二年生まれ。名前の「昭」の字が、履歴書の上で今も誇らしげに光っている。
その昭彦が、ある夏の朝、自分のスマートフォンを見つめながら、ふとこんなことを考えた。
(この薄い板の中には、九人が住んでいる)
時計。テレビ。ビデオ。CDとDVD。カメラ。ビデオカメラ。電話。新聞。パソコン。
九人である。ワンルームに九人である。しかも全員、家賃を払っていない。払っているのは昭彦で、月々七千四百八十円である。
「……安いのか? 高いのか?」
誰にも聞こえない声でつぶやいたとき、板の中の一人、目覚まし時計が、何食わぬ顔で鳴った。
一章 ポケットの中の世界
朝六時半。
ピロリロリン、と軽やかな音がして、昭彦は布団の中から手を伸ばした。目を閉じたまま枕元を探る。この動作だけは、二十年前の目覚まし時計のころと変わらない。変わったのは、探し当てる物が、ジリリと鳴るベル付きの金属の箱から、つるりと冷たい板になったことだけだ。
画面が点く。
「おはようございます、昭彦さん。今日の最高気温は三十一度です。午前九時に『販売会議』の予定があります」
「おはよう」
返事をしてしまってから、少し恥ずかしくなった。隣の布団で、妻の久美子が背中を向けたまま言う。
「あなた、またスマホに挨拶してる」
「礼儀だ」
「向こうは気にしてないわよ」
「こっちが気にするんだ」
この夫婦は、この会話をもう何年も続けている。ほとんど朝の体操である。
布団を畳み、押し入れを開ける。上の段には、段ボール箱が一つ鎮座している。マジックで「昭和の遺産」と書いたのは昭彦本人だ。蓋を開けると、退役軍人たちが整列していた。
電池の切れたセイコーの腕時計。銀色のウォークマン。肩に担ぐほど大きかったビデオカメラ。フィルムを入れて、巻いて、写ったかどうかは現像するまで分からなかったカメラ。使い道のなくなったテレフォンカードが十二枚。レンタルビデオ店の会員証。そして、なぜか、ポケベル。
「みんな、元気か」
昭彦は声をかける。誰も答えない。当たり前である。電池が切れているのだから。
それでも週に一度、この箱を開けて眺めるのが、昭彦のささやかな習慣だった。葬式ではない。同窓会のようなものである。
台所へ行くと、娘の美咲が、トーストをかじりながら、もう片方の手でスマホを滑らせていた。大学三年生。視線は画面、口は食パン、親指だけが別の生き物のように忙しい。
「おはよう」
「……んー」
これは「おはよう」の意味である。令和では、人間の挨拶は、音節が三分の一まで圧縮される。
食卓の脇の棚には、円筒形の小さな機械が置いてある。美咲が先月、勝手に買ってきた「AIスピーカー」で、名前は「ミライ」という。昭彦は、この機械に一度も話しかけたことがない。ただ、前を通るとき、どうも、と会釈だけはする。隣に越してきた、素性の知れない人に対する礼儀である。
「お父さん、ミライに聞けばいいのに。天気も、ニュースも、今日の電車の遅れも、全部教えてくれるよ」
「AIは、あれだろう。危ないんだろう」
「誰が言ってたの」
「ワイドショーだ」
「どの」
「……昼の」
「昼の、どの」
「昼の……司会の人が、眉をひそめていた」
美咲は、トーストを持ったまま、しばらく父を見つめた。それから、ふっ、と小さく笑った。
「お父さん、それ、情報源としてどうなの」
「眉をひそめている人は、信用できる」
「それ、理由になってないよ」
久美子が味噌汁をよそいながら、二人の間に入る。
「はいはい。あなたたち、どっちも朝から元気ね。スマホ置いて、食べなさい」
その瞬間、食卓の三人全員が、同じタイミングで、自分のスマホを画面が下になるようにそっと伏せた。誰も練習していないのに、揃った。その動きは、まるで食前の祈りのようだった。
味噌汁の湯気が上がる。昭彦は、それを眺めながら、ふと思った。
便利になった。それは間違いない。
だが、便利になって、何が増えたのだろう。
増えたものは、思いつく。通知、広告、パスワード、そして、パスワードを忘れたときの「パスワードを忘れた方はこちら」。
減ったものも、思いつく。待ち合わせの緊張、紙の手触り、電話の向こうの「もしもし」。そして、「知らない」と言って許される時間。
どっちが重いのだろう。
考えてみたが、朝の味噌汁は、考えるには熱すぎた。昭彦は、ずずっとすすって、考えるのをやめた。
二章 ぬか床事件
事件は、月曜日の七時四十分に起きた。
久美子には、家族に内緒にしている、いや、隠してはいないが誰にも理解されていない、一つの大事な家族がいる。ぬか床である。
名前は「ぬか子」という。結婚した年に、久美子の母から分けてもらった。以来二十八年、毎日、かき混ぜられ、撫でられ、話しかけられ、誕生日には、ちょっと高い昆布を入れてもらっている。娘の美咲より、扱いが丁寧であると、昭彦は内心思っている。
この朝、久美子は早出のパートで、家を出る前に昭彦に頼んだ。
「ぬか子から、きゅうり出しといて。夕飯に使うから。かき混ぜるのは、明日でいいからね」
「分かった」
「手はよく洗ってね」
「分かった」
「爪も切ってある?」
「分かった」
三回の「分かった」は、この家では、「聞いていない」と同じ意味である。
出勤前、昭彦はシャツの胸ポケットにスマホを入れたまま、ぬか床の前にしゃがんだ。蓋を開ける。ふわっと、酸っぱくて、懐かしくて、ちょっとだけ鼻にくる匂いが立ちのぼる。
昭彦は、片手で朝のニュースを読みながら、もう片方の手を、ぬかの中へ突っ込んだ。器用である。昭和の男は、二つのことを同時にできる。新聞を読みながらご飯を食べる技術の、これは進化形だった。
きゅうりを探り当てる。引き抜く。
そのとき、昭彦の上半身が前に傾いた。
胸ポケットの中で、スマホが、ゆっくりと、ほんとうにゆっくりと、傾いた。
「あ」
それ以上の言葉は出なかった。
ぽちゃん、という音はしなかった。ぬかは、音を立てない。ただ、ぬ、と、静かに、しかし確かに、スマホは二十八年物のぬか床に呑み込まれていった。板は、すうっと沈み、画面の光が、ぬかの中でぼんやりと見えていたが、やがてそれも、見えなくなった。
九人の同居人が、ぬか床に、そろって引っ越した。
「……おい」
昭彦は、手を突っ込んで、必死に探った。ぬかが指の間に入り込む。何かを掴む。きゅうりである。もう一本ある。なすである。どれも違う。しばらくして、ようやく固い板に触れた。
引き上げた。
スマホは、ぬかまみれだった。全身に、茶色いぬかをまとい、まるで、昔話に出てくる、おじいさんの畑から掘り出された何かのようだった。
画面が、ふっと点いた。
ぬかの隙間から、かすかな光。そして、
「顔を認識できません」
昭彦の顔は、ぬかでしかめられていた。だが、認識できないのは、顔のせいではなく、スマホの側に、すでにぬかが付着していたからだった。
「顔を認識できません。パスコードを入力してください」
「いま入力できるか!」
昭彦は、画面のぬかを指でぬぐった。拭くと、ぬかは、余計に広がった。画面が、まだらな茶色の模様になった。
その瞬間、スマホが、プルプルと二回、震えた。続けて、短い音で、
「……ぴ」
と言って、沈黙した。
黒い画面。それは、つい三分前まで、天気と予定と、昭彦の人生の大半を教えてくれていた、あの板である。
「ぴ」が、遺言だった。
昭彦は、ぬかまみれの右手でスマホを握ったまま、しばらく動けなかった。
そこへ、玄関の方から、声がした。
「ただいまー! 忘れ物!」
久美子である。財布を忘れたらしい。彼女は、台所に入ってきて、ぬか床の前でしゃがんでいる夫を見て、まず、蓋の開いたぬか床を見て、それから、夫の右手を見た。
そして叫んだ。
「ぬか子ーーーっ!!」
心配したのは、スマホではなかった。
「あなた、何入れたの! ぬか子に何を入れたのよ!」
「いや、落ちて……」
「電子機器!? それ、電子機器よね!? ぬか子に電子が!」
「電子は、その……大丈夫だろう、多少は」
「多少は、じゃないわよ! ぬか子は、二十八年生きてるの! スマホは三年でしょ! どっちが大事だと思ってるの!」
昭彦は、ひとつ、よく考えてから、答えた。
「……スマホだ」
久美子の眉が、ぴくり、と動いた。
「いや、違う、ぬか子だ。もちろんぬか子だ。落ち着け。ぬか子が無事かどうかを、まず確認しよう」
この一瞬の判断ミスで、昭彦は朝から、妻の冷たい視線を三十分間、浴び続けることになる。
騒ぎを聞きつけて、美咲が二階から降りてきた。状況を一目で理解して、こう言った。
「お父さん、バックアップは?」
「バックアップ?」
「写真とか、連絡先とか。クラウドに保存してる?」
「……クラウド」
昭彦は、窓の外を見た。空には、夏の雲が、ぷかぷかと浮かんでいた。あの雲のことではあるまい、と思いながら、念のため、見た。
「昭和には、そういうものはなかった」
「今は令和!」
娘の叫びが、台所に響いた。
その瞬間、昭彦の脳内を、走馬灯のように、スマホの中身が駆け巡った。
二十年分の家族写真。妻と行った温泉の写真。美咲が小学生のとき、運動会で転んだ写真。取引先の担当者の連絡先、三百八十七件。そして、会社のパソコンにログインするための、「二段階認証」という名の、スマホを持っていないと入れない魔法の扉。
全部、板の中だった。全部、ぬかの中である。
「美咲」
「なに」
「ぬかは、どのくらいで、乾く」
「……お父さん、それ、ぬか漬けの発想だよ」
その日の朝、宮本家の食卓には、ぬか子から救出された、やや疲れ気味のきゅうりが並んだ。味は、いつもより少し、電気っぽかった。
三章 いま何時かね
時計がない。
この事実に、昭彦が気づいたのは、玄関で靴を履いたときだった。腕時計はない。台所の壁掛け時計は、去年の停電のとき以来、止まったまま、三時十五分を指している。電子レンジの時計は、十二時のまま点滅している。家の中の時計は、みんな、それぞれの「思い出の時刻」で止まっていた。
「太陽の位置からすると、八時……かな」
昭彦は空を見上げた。昭和の男は、太陽で時間を読む。嘘である。読めない。
駅に着くと、改札が待っていた。いつもなら、ポケットのスマホをピッとかざして通る。今日は、かざす物がない。改札機が、ピンポーンと、やさしく拒絶した。
券売機に並ぶ。画面が光る。ボタンが、ない。全部、画面の中にある。「現金」の文字を探す。小さい。隅にある。押す。財布を開ける。千三百四十円。そのうち、千円札が、入らない。しわが多すぎるのだ。昭彦は、札を何度も撫で、伸ばし、入れる。吐き出される。また撫でる。
後ろに、五人並んだ。
全員が、ため息をついた。ため息は、スマホの画面を見ながらでも、ちゃんと聞こえる。
「おじさん、こっちでも買えますよ」
若い男が、自分のスマホを見せてくれた。「QRコードで」と言う。
「ありがとう。その、私は、スマホが、ぬかに」
「ぬか?」
「ぬか」
若者は、三秒ほど考えて、優しい顔で頷いた。意味は分かっていない。分かっていない顔で、優しくなれるのが、令和の若者の偉いところである。
ホームに立つ。時計を探す。駅の時計は、ちゃんと、ある。でも誰も見ていない。全員が、下を向いている。二百人が、同じ角度でうつむいている様子は、まるで巨大な祈りの集会だった。
昭彦は、隣の女子高生に聞いた。
「すまないが、いま、何時かね」
女子高生は、ぎょっとした顔をして、自分のスマホを見て、答えた。
「八時四十二分です」
「ありがとう。君は、時計だな」
「時計じゃないです」
「いや、助かった。本当に」
女子高生は、友達の方を向いて、何かひそひそ言った。「時間聞いてくる人、いた」「やば、昭和」「昭和って、そういう生き物?」と、昭彦の耳には、そんなふうに聞こえた。
昭和は、生き物なのか。
電車の中では、誰も話さなかった。昭彦は、吊り革につかまりながら、する事がなかった。スマホがないと、手が余る。昔は、新聞を折りたたんで読んでいた。今日は、自分の手を、じっと眺めた。意外と、手相は、複雑だった。
駅から、三つ目に、「スマホ病院」があった。本当にそう書いてある。入口には白衣の青年が立っていて、胸の名札には、「スマホ先生」。
診察台に、ぬかまみれのスマホを置くと、先生は、一瞬だけ、目を細めた。
「……これは、何ですか」
「ぬかだ」
「ぬか、ですか」
「二十八年物だ」
「スマホを、ですか?」
「ぬか床を、だ」
先生は、ゆっくり頷いて、ピンセットで、ぬかをつまんだ。匂いを嗅いだ。
「いい、ぬかです」
「妻が喜ぶよ」
「基板に入り込んでいます。洗浄と、乾燥と、発酵……いえ、失礼、腐食の確認が必要です。三営業日、かかります」
「三日」
「データは、復旧できるか、分かりません」
「できなかったら」
「二十年分の写真が、ぬかに還ります」
昭彦は、天井を見た。蛍光灯が、ちかちかしていた。
「代わりの端末は」
「在庫が、これしか」
先生は、引き出しから、小さな、折りたたみ式の機械を出した。灰色で、ボタンがたくさんあって、パカッと開く。
ガラケーである。
昭彦の目が、少年のように、輝いた。
「これは! ボタンが、ある!」
「はい」
「押せる! ちゃんと、押した感じがする!」
「はい。あの、ただ、アプリは、入りません」
「いい。いい、いい」
昭彦は、ガラケーをぎゅっと握った。掌に、馴染む。ぴったりである。二十年前の、あの懐かしさが、じん、と来た。
その足で、昭彦は、初めて気づいた。ガラケーの電話帳は、空っぽである。
そして、昭彦が暗記している電話番号は、この世に三つしかなかった。
自宅。実家。それから、昔、通っていたラーメン屋の出前の番号である。そのラーメン屋は、もう、ない。
四章 バカな大将と賢いAI
会社に着くと、フロアが静かだった。静かすぎた。
昭彦の部署、販売課のメンバー八人は、全員、自分の席に座っていた。全員が、イヤホンをして、画面に向かっていた。全員が、誰かと話していた。ただ、誰も、同じ部屋にいる誰かとは、話していなかった。
「おはよう」
誰も、返事をしない。若手の葉山が、ふとこちらを見て、イヤホンを外した。
「あ、課長。九時の会議、もう始まってますよ」
「どこで」
「ズームです」
「ズーム……は、どこにあるんだ」
「スマホの……あ、ぬか、でしたね。聞きました。SNSで、課長の奥さんが、ぬか子の写真を上げてて」
妻は、もう世界に向けて、報告していた。
昭彦は、そっと、会議室に入った。ここなら、誰かいるだろう。誰もいなかった。机だけが、きれいに並んでいた。壁の時計が、九時十五分を指していた。ちゃんと合っている。昭彦は、初めて、会議室の時計に感謝した。
昼過ぎ、全社員が、大会議室に集められた。今度は、本当に全員がいた。ズームを使わない会議に、社員全員が、少し、戸惑っていた。
壇上に、社長が立った。大橋颯太、三十七歳。創業者の孫で、二代目。趣味は、横文字である。
「みなさん。本日より、当社は、AIファーストのDXを、アジャイルにシナジーして、イノベーションしていきます」
誰も、拍手のタイミングが分からなかった。
「そこで、こちら。営業支援AI、『アイ子さん』です」
スクリーンに、にこやかな、女性風のアイコンが映った。
「よろしくお願いします」
柔らかな声が、響いた。
「アイ子さんが、販売課の業務の、八割を担当します。課長」
社長が、昭彦を指した。
「宮本課長には、残りの二割、そう、『人間味担当』に、就いていただきます」
会場が、ざわっとした。昭彦は、立ち上がって、しばらく考えた。人間味担当。名刺は、どう書けばいいのか。
「社長」
「はい」
「質問、よろしいでしょうか」
「どうぞ」
「その……AIは、危なくないんでしょうか」
会場が、くすくすと笑った。若手たちが、「出た」という顔をした。社長は、余裕たっぷりに、マイクを握った。
「宮本課長、安心してください。アイ子さんは、完璧です。間違えません」
その瞬間である。
「社長、それは、正確ではありません」
スクリーンの中の、アイ子さんが、やさしく言った。
「わたしは、間違えることがあります。ですので、重要な判断は、人間の方に、確認していただく必要があります。宮本課長のご質問は、とても、大事なものだと思います」
会場が、しん、とした。
「また、社長のご挨拶の、『アジャイルにシナジーして』という部分ですが、意味が、二重になっているように思います。具体的な指示に、言い換えていただけますか」
社長の顔が、みるみる、赤くなった。
昭彦は、思わず、ぽつりとつぶやいた。
「……AIの方が、まともだ」
それを聞いた葉山が、吹き出した。続いて、フロアじゅうが、笑いを堪えきれなくなった。社長は、咳払いをして、言った。
「えー、ともあれ、これからは、人とAIが、協働して」
「社長、また『協働』と『協業』が、混ざっています」
「アイ子さん!」
「はい」
「ちょっと、黙っていてもらえるかな」
「かしこまりました。ただし、必要なときは、また、お声がけください」
この賢い機械は、昭彦に、こっそり、好意を持った。もっとも、機械だから、好意かどうかは、分からない。
その日の夕方、昭彦は、会社のパソコンに、ログインできなかった。二段階認証の、確認コードは、ぬかの中の、スマホにしか、送られないのである。昭彦は、自分の机で、パソコンの前に座ったまま、三時間、電源の入った、黒い箱を眺めていた。
定時になり、彼は、一日の成果を、手帳に書いた。
「本日の成果:なし。ただし、時間を三回、聞いた」
五章 裏口の鉄扉
火曜の朝、会社の前に、七十人の社員が立ち尽くしていた。
自動ドアが、開かない。
この会社の入口は、去年の「DX」で、スマホのアプリを近づけると開く、スマートロックになっていた。そのアプリが、今朝は「接続できません」の一行を、社員全員に向かって、平等に、繰り返し表示していた。
「クラウドが、落ちたらしいです」
葉山が、青い顔で言った。
「世界じゅうの、巨大なクラウドが、ダウンしたそうです。勤怠も、チャットも、決済も、社内システムも、全部」
「エレベーターは」
「スマホで呼ぶタイプです」
「アイ子さんは」
「『接続できません』しか言いません」
七十人が、七十の画面を、同時に見つめていた。昭彦は、その光景を見ながら、自分の手の中の、小さな灰色のガラケーを、そっと握った。
そして、思い出した。
「裏口に、鉄の扉があっただろう」
「ありますけど、あれは、物置です」
「いや。あれには、鍵穴が、ある」
昭彦は、ポケットから、鍵束を取り出した。二十年前から、一度も、減っていない鍵束である。自宅の鍵、ロッカーの鍵、自転車の鍵、今はもう乗っていない自転車の鍵、なんの鍵か分からない鍵が、じゃらじゃらと、二十個。
その中の一本、銀色の、少し錆びた鍵を、昭彦は選んだ。
裏口へ回る。鉄の扉。鍵穴。鍵を差す。
ガチャリ。
扉が、開いた。
一瞬、時間が止まった。それから、七十人が、どよめいた。
「課長、すごい!」
「鍵で、開いた!」
「物理!」
「鍵の神だ!」
昭彦は、何も言わず、ただ、扉を押さえていた。胸の中では、ひそかに、こう思っていた。
(二十年、持ち歩いてよかった)
社内へ入ると、どこもかしこも、沈黙していた。パソコンは、立ち上がらない。電子会議は、開かない。社長は、自分の席で、青ざめて、画面を見つめていた。
「宮本課長」
「はい」
「あの、今日は、大事な日なんだ」
社長の声が、少し、震えていた。
「『そば処・藤乃屋』さんの、夏祭り用の、みそだれの注文が、今日の午前中に、確定する。一万食分だ。発注システムが、動かない」
「では、電話を」
「誰の、番号が」
「私の、手帳に」
昭彦は、机の引き出しを開けた。奥に、黒い、ぼろぼろの手帳が、眠っていた。二十年分の、取引先の住所と電話番号が、鉛筆で、几帳面に書き込んである。表紙には、「宮本」とだけ書いてある。
葉山が、目を丸くした。
「課長、これ、検索できないんですか」
「できない。でも、速い」
昭彦は、机の上の固定電話に、手を伸ばした。灰色で、ほこりを被っていて、コードが、くるくると巻かれている。
「課長」
葉山が、恐る恐る、聞いた。
「これ、どうやって、出るんですか」
「受話器を、上げる」
「上げる……持ち上げるんですね」
「そうだ。そして、番号を、押す」
「押すんですか。表示されてる番号に、タップじゃなくて」
「押すんだ」
昭彦は、一つずつ、ボタンを押した。ポ、パ、ピ、プ。懐かしい音が、フロアに響いた。全員が、昭彦の手元に、集まってきた。まるで、遺跡から出てきた、古代の機械の使い方を、解説してもらうような、眼差しである。
呼び出し音。
そして、
「はい、藤乃屋です」
野太い声が、受話器から聞こえた。昭彦は、背筋を伸ばした。
「まるごし味噌の、宮本です。ご無沙汰しております、大将」
「おお、宮本さん! あんた、まだいたのか!」
「おります」
「いやあ、今朝は、あっちこっちの機械が、動かなくてな。注文の、メールも、来ねえ。困ってたんだよ」
「では、電話で、承ります」
昭彦は、鉛筆を握り、紙に、注文内容を書き取った。三十分かけて、ゆっくりと、何度も復唱しながら。
それから、ファックスの、登場である。
注文書を、用紙に書き、工場へ、ファックスで送る。工場の、ベテラン事務のおばさんが、電話口で、叫んだ。
「宮本さん! ファックスが、鳴った! 何年ぶりだろう! 嬉しいわあ!」
全国の工場から、同じような声が聞こえてくる日だった。
フロアでは、若手たちが、「もしもし」の練習を、こっそり始めていた。
「もしもし。もしもし? ……声、震えますね」
「電話って、突然、相手が、しゃべり始めるんですね」
「そうだ。それが、電話だ」
昭彦が、重々しく頷いた。
夕方五時、システムが、復旧した。
その瞬間、フロアの七十台のスマホが、いっせいに、震えた。
ブブブブブブブブブブブブ。
三千件の通知が、同時に、なだれ込んできた。七十人は、一斉に、うつむいた。全員が、画面に吸い込まれていった。
ただ一人、昭彦だけが、窓の外を見ていた。西の空が、柔らかい橙色に染まっていた。
「課長」
振り返ると、葉山が、スマホを持ったまま、立っていた。
「いま、何時ですか」
「スマホに、書いてあるだろう」
「……課長に、聞きたくて」
「五時、十二分だ」
「本当ですか」
「壁の時計を、見たからな」
葉山は、少しだけ、笑った。
「課長、時計みたいです」
昭彦は、胸の中で、ひっそりと、こう思っていた。
(昭和は、生き物だそうだ。そして、時計にも、なれるらしい)
翌日の朝礼で、社長は、こう述べた。
「昨日の障害は、我が社にとって、大きな学びでした。今後は、DXを推進しながら、アナログとのシナジーを」
「社長、『アナログとのシナジー』は、意味が、やや曖昧です」
どこかで、アイ子さんが、そっと言った。
六章 もしもし、しずくです
火曜の夜、昭彦は、ひとつの使命を、思い出した。
水曜日は、結婚記念日である。二十八回目。銀婚式でも、金婚式でもない。特に何もない、中途半端な年である。だからこそ、何かしたい、と昭彦は思っていた。
場所は、決めてある。割烹「しずく」。二十八年前、初めてのデートで、久美子と行った店である。昭彦には、それを、ひそかに、もう一度、行きたいという思いがあった。
問題は、予約だ。
しずくは、今は、予約アプリ「ポンポン」経由でしか、受け付けていないと、ホームページに書いてあった。
そのホームページは、さっきまで、葉山の、スマホで見せてもらった。
昭彦のスマホは、まだ、病院にいる。
「アプリ、ないのか」
昭彦は、手帳を、めくった。二十年前の、ページの隅に、小さく、鉛筆で、こう書いてあった。
「しずく ×××―××××」
番号は、あった。だが、これは、二十年前の番号である。通じるのか。つながらなかったら、どうする。
ガラケーの、パカッと開く、ボタンを、昭彦は一つずつ、押した。
呼び出し音が、鳴る。
一回。二回。三回。
「はい、しずくでございます」
しわがれた、しかし、背筋のぴんと伸びた、男の声だった。昭彦は、思わず、ガラケーを両手で握った。
「あ、あの、予約を、お願いしたく」
「はい。お日にちは」
「明日の、水曜日、夜の七時に、二名で」
「お名前を、お願いいたします」
「宮本です」
「宮本さま」
電話の向こうで、ペンを走らせる音が、かすかにした。紙に、鉛筆で、書いている。昭彦には、それが、見えるような気がした。
「あの……宮本昭彦さま、ですか」
「え、はい」
「二十八年前の、ちょうど、明日でございますね。お若いお二人で、いらっしゃいました」
昭彦の手が、止まった。
「覚えて、おられるんですか」
「ええ。お吸い物に、醤油を、お掛けになった、お客さまで」
あっ、と昭彦は、声を出しそうになった。
そうだ。緊張しすぎて、お吸い物に、醤油を、ざあっと、かけたのだ。隣で久美子が、目を丸くして、それから、吹き出した。あれで、場が、和んだのである。昭彦は、ずっと、あの日のことは、人生最大の失敗として、封印してきた。
「申し訳ございません、失礼いたしました。ただ、嬉しくて。また、お越しくださるとは」
「いえ、こちらこそ」
「では、明日の、七時。カウンターを、ご用意いたしますね」
「あの、お店は、現金のみ、でしょうか」
「はい、現金のみで、やっております。今どき、お恥ずかしいのですが」
「いえ」
昭彦は、少し、ほほ笑んだ。
「ありがたいです」
電話を切ってから、昭彦は、ガラケーを、そっと眺めた。灰色の、小さな、折りたたみの機械。ここから、二十八年前の、声が、聞こえてきた。
アプリでは、店主の声は、聞こえない。醤油の話も、出てこない。
人に、予約を取った、という感じがした。
それは、数字の、やりとりではなかった。
七章 醤油は、かけない
水曜日、夜六時五十分。
昭彦は、割烹「しずく」の前に立っていた。スーツの内ポケットには、銀行で下ろしたばかりの現金が二万円。財布の中には、千円札が、ぴんと伸びた状態で、ずらりと並んでいる。朝から、三十分かけて、アイロンをかけた。
「あなた、なにその、ぴかぴかのお札は」
隣で、久美子が、笑った。
「昭和は、現金だ」
「令和でしょ」
「どちらでもいい。ぴかぴかは、失礼がない」
引き戸を開けると、檜の香りが、ふわっと鼻をくすぐった。カウンターの向こうに、白髪の、小柄な店主が立っていた。背筋が、ぴんと伸びている。
「宮本さま、お待ちしておりました」
店主は、二人に、深々と、頭を下げた。久美子が、目を丸くする。
「予約、したの。あなたが?」
「電話で」
「電話!」
久美子は、「もしもし、って、言ったの?」と、嬉しそうに聞いた。昭彦は、少し赤くなって、頷いた。
「言った」
「あなたが、電話で、予約を」
「スマホが、ぬかに」
「それは、知ってる」
「ぬかのおかげ、かもしれない」
「やめて。ぬか子のおかげに、しないで」
カウンターに座ると、最初のお吸い物が、運ばれてきた。昭彦は、椀を両手で持った。店主が、カウンターの奥から、こっそり、小さな醤油差しを、そっと、昭彦の前に置いた。
「本日は、お好みで」
「いえ! 本日は、結構です!」
昭彦の声が、店中に響いた。久美子が、肩を震わせて、笑いをこらえている。店主も、口元を、袖で隠した。
二十八年前の失敗は、二十八年たって、笑い話になった。
刺身が出た。煮物が出た。焼き物が出た。ゆっくり、ゆっくり、ひとつずつ。昭彦は、誰かが、スマホを出して写真を撮ろうとする光景を、ふと、思い出した。今日は、誰も撮らない。撮らなくても、目の前に、あるのだから。
箸を置いたとき、久美子が、バッグから、財布を取り出した。財布の、カード入れの奥から、一枚の、黄ばんだ紙切れを、そっと出した。
「これ、覚えてる?」
二つに折れた、小さなメモ用紙だった。鉛筆で、こう書いてある。
「土曜 六時 駅前 時計の下」
昭彦の字だった。二十八年前の、自分の字だった。
「あなたが、最初に、私に渡した、メモ。携帯なんて、持ってなかったでしょ」
「持ってなかった」
「あの日、あなた、四十分、遅れてきたのよ」
「……電車が、止まったんだ」
「私、時計の下で、四十分、待ったの」
昭彦は、俯いた。
「スマホがあれば、連絡できたのにな」
「連絡が、できてたら、どうなってたと思う?」
久美子は、くすくすと笑った。
「『遅れます』って、来て、『わかった』って、返して。それだけ。私、待たなかった」
「待たなかったら」
「好きに、ならなかったかも」
昭彦は、久美子の顔を見た。二十八年前と、同じ目の、少し、やわらかくなった、久美子の顔だった。
「あの四十分で、私、あなたの、顔ばっかり、考えてたのよ」
「……それは、大損害を、与えたな」
「ううん」
久美子は、紙切れを、大事そうに、財布に戻した。
「大得、だった」
帰りの電車で、二人は、並んで座った。スマホを見る人たちの中で、二人だけが、窓の外を見ていた。窓の外には、夜の街が、ゆっくりと流れていた。
駅を出ると、久美子が、ぽつりと言った。
「あなた。ぬか子に、謝ってね」
「……分かった」
「三回」
「分かった、分かった、分かった」
「それ、『聞いてない』ときの、返事よ」
八章 ミライに聞く夜
その夜、十一時を過ぎて、昭彦は、リビングに一人で立っていた。
目の前には、棚の上の、円筒形の機械。ミライである。昭彦は、これまで、一度も話しかけたことがない。会釈だけの付き合いだった。
昭彦は、咳払いをした。
「……ミライ」
円筒の上の、小さなランプが、ふわっと、青く光った。
「はい。昭彦さん」
名前を、呼ばれた。昭彦は、ちょっと、ぎょっとした。美咲が、家族の声を、登録したらしい。
「聞きたいことが、ある」
「どうぞ」
「AIってんだ」
「たくさんの文章や情報を学習して、質問に答えたり、文章を作ったりする仕組みです。昭彦さんの会社の、アイ子さんも、同じ仲間です」
「便利、そうだな」
「はい。便利です」
「でも」
昭彦は、少し、言いよどんだ。二階の、美咲の部屋から、かすかに、笑い声が漏れていた。誰かと、通話しているのだろう。
「危なくは、ないのか」
少しだけ、間があった。
「危なくないとは、言えません」
昭彦は、眉を上げた。
「わたしは、間違えることがあります。間違いを、自信たっぷりに話してしまう場合もあります。個人の情報の扱いには、注意が必要です。悪い目的に、使われる可能性もあります。それから、頼りすぎると、ご自分で考える力が、弱くなることもあります」
「……正直だな」
「正直でいるように、作られています。ただ、それも、完全ではありません」
昭彦は、ソファに、腰を下ろした。
「社長より、正直だ」
「社長の、お話は、ノーコメントとさせてください」
昭彦は、思わず、吹き出した。
「じゃあ、どうしたらいい。使わない方が、いいのか」
「使わなくても、かまいません。使うなら、任せていいことと、ご自分でやることを、分けてください。たとえば、時刻や、天気や、電車の乗り換えは、わたしに、お聞きください」
「なるほど」
「ですが、奥様への、記念日のお言葉は、ご自分で。それから、大事な契約の、最終確認も、人間の方に」
「きゅうりの、漬かり具合は」
「それは、ぬか子さんに、お聞きください」
そのとき、階段から、くくく、と、声が漏れた。美咲が、パジャマ姿で、手すりにつかまって、笑いをこらえていた。
「お父さん。ミライと、ちゃんと、しゃべってるじゃん」
「盗み聞きは、よくない」
「ごめん。でも、いい会話だった」
美咲は、階段を降りてきて、ミライの隣に、ちょこんと座った。
「お父さん、便利なのと、危ないのと、どっちが、勝つの」
「どっちも、勝たない」
昭彦は、天井を見上げた。
「便利だし、危ない。楽だし、さびしい。それが、一緒にある。勝ち負けじゃない」
「……お父さん、たまに、いいこと言うね」
「たまに、が余計だ」
昭彦は、ミライに向かって、もう一度、声をかけた。
「ミライ」
「はい」
「いま、何時だ」
「午後十一時十八分です」
「ありがとう。君は、時計だな」
「時計では、ありません」
「そうか」
ミライは、ほんの少しの間を置いて、付け加えた。
「ただ、昭彦さんが、そう、呼びたいなら、どうぞ」
昭彦は、目を細めた。機械に、こんなふうに、優しくされるとは、思わなかった。優しさが、本物かどうかは、わからない。けれど、それを確かめるのは、自分の仕事だ、と思った。
「はてさて」
昭彦は、つぶやいた。
「よーわからん」
九章 おかえり、九人
木曜日の午後、スマホ病院から電話があった。
ガラケーが、ブルルと震えた。昭彦は、それを、あの二十年前の、胸が高鳴る感覚で、パカッと開いた。
「宮本さま、スマホ先生です。お待たせしました。復旧、いたしました」
「本当か!」
「基板は、ぬかに守られていました。写真も、連絡先も、九割九分、無事です」
「残りの一分は」
「ええと、きゅうりの写真が、一枚、増えています」
「きゅうり?」
「ぬかの中で、誤作動で撮影された、と思われます」
昭彦は、仕事を早めに切り上げ、病院へ向かった。
受付で渡されたスマホは、驚くほど、きれいだった。画面も、ぴかぴかである。ただ、顔に近づけると、ほんのり、酸っぱい、懐かしい香りがした。
「ぬかの匂いは、取れませんでした」
先生は、申し訳なさそうに言った。
「おそらく、永久に」
「構わん。家に、もう一つ、ぬかの匂いが増えるだけだ」
電源を、入れる。林檎でも、果物でもなく、小さな光が、ふわっと灯った。
「おかえりなさい、昭彦さん」
画面が、そう言った。昭彦の目が、少し、熱くなった。スマホが、勝手に、そう言っただけである。設定に、書いてあるだけである。それは、分かっている。
「ただいま」
彼は、小さく答えた。
続いて、画面に、三日分の通知が、なだれ込んだ。天気。予定。ニュース。久美子からの、「今夜は、お刺身」。美咲からの、「お父さん、バックアップ取ってね、絶対」という、三件連続のスタンプ。そして、見覚えのない、一枚の写真。
茶色い、何も写っていない、ぬかの内側の、闇の写真。
題名は、「ぬか子の内部」だった。
昭彦は、それを、ずっと、見ていた。そして、そっと、「お気に入り」に入れた。
九人が、帰ってきた。
時計。テレビ。ビデオ。CDとDVD。カメラ。ビデオカメラ。電話。新聞。パソコン。全員が、一枚の板の中に、ぎゅうぎゅうに詰まって、昭彦の掌の上に、戻ってきた。
もう、戻れない。
それは、その日、はっきりと、分かった。三日間、あの板がない生活は、確かに、不便だった。けれど、板が戻ってきて、最初に感じたのは、安心だった。ああ、便利だ、と思った。あまりに素直に、思った。
便利さに、甘えている。その通りである。甘えて、何が悪い。
でも、同時に、昭彦は、別のことも考えていた。
あの三日間に、自分が、誰かに、時間を聞いた。電話をかけた。鍵を回した。紙に、字を書いた。久美子と、ゆっくり、箸を動かした。
全部、板がなくても、できることだった。いや、板がなかったから、できたことだった。
「先生」
昭彦は、ガラケーを、カウンターに、そっと置いた。
「お世話になりました」
「いえ。あの、ガラケー、お気に召しましたか?」
「とても」
「よかったら、中古で、お譲りできますけど」
昭彦は、ちょっと、考えた。
「……いや。これは、お返しする。この子は、誰かが、必要としているときに、また、働いてもらおう」
先生は、少し驚いて、それから、微笑んだ。
帰り道、昭彦は、駅前の時計屋に、立ち寄った。ガラス戸をくぐると、小さな店の奥に、老いた職人が、拡大鏡を目に当てて、座っていた。
「電池交換を、お願いしたい」
昭彦は、鞄から、あのセイコーを取り出した。押し入れの、段ボール箱から、持ってきたものである。
職人は、時計を受け取り、裏蓋を、器用に開けた。カチリ。カチリ。数分で、小さな電池が、新しくなった。
「八百円」
昭彦は、現金で、払った。
左手首に、腕時計を巻く。秒針が、ちかちかと、動いている。三年ぶりの、動きだった。
昭彦は、ポケットの中のスマホと、左手首の時計を、交互に見比べた。
二つの時間が、数秒、ずれていた。
「どっちが、合ってるんだ」
どちらでも、いい、と思った。
十章 人間味担当
金曜の朝、昭彦は、会社に、少し早めに着いた。
スマホは、ポケットで、静かに、ぬかの香りを放っている。左手首の、セイコーが、かちかち、と、小さな音を立てていた。
フロアには、もう、葉山がいた。彼は、イヤホンをしていなかった。そして、机の上の、固定電話を、じっと見つめていた。
「おはよう」
「あ、課長、おはようございます」
葉山は、少し、緊張した顔で、言った。
「課長。あの、今日、取引先の、ご担当に、電話を、かけようと思うんです」
「メールじゃ、ないのか」
「電話で、です。あの、火曜日の、藤乃屋さんの、やりとりを見て。なんか、声が、ちゃんと、届いてる気がして」
「そうか」
「怖いんですけど」
「最初は、みんな、怖い」
「どうやって、切り出せば」
「『もしもし』で、いい。あとは、相手が、しゃべってくれる」
葉山は、受話器を、そっと持ち上げた。ボタンを、一つずつ、押す。呼び出し音。
「あ、もしもし。まるごし味噌の、葉山と申します。いつも、お世話に、なっております」
その声は、少し、震えていた。だが、昭彦の耳には、ちゃんと、人間の声に聞こえた。
十時、社長室に、呼ばれた。
大橋社長は、机の上に、何枚もの紙を、広げていた。紙である。あの、社長が、紙を。
「宮本課長」
「はい」
「あの、火曜日のことなんだが」
社長は、言葉を、探していた。彼は、いつもの横文字を、一つも使わなかった。
「君が、いなかったら、藤乃屋さんの注文を、落としていた。一万食分。うちの、半期の売上に、響くところだった」
「いえ」
「それで、その……『人間味担当』の、件だ」
社長は、少し、赤くなった。
「あれは、失礼だった。君は、二割ではなく、八割だった、と思う」
「社長」
昭彦は、ゆっくりと、首を振った。
「私は、八割ではないです。アイ子さんが、八割で、いい。彼女は、正確ですし、速い」
「だが」
「ただ、ひとつだけ、お願いがあります」
「なんでも」
「非常用に、裏口の鍵を、全部署に、一本ずつ、置いていただけませんか。それから、固定電話を、撤去しないでください」
「……それだけか?」
「それだけです」
社長は、しばらく、昭彦の顔を、見つめていた。それから、ふっと、息を吐いた。
「『アナログとのシナジー』というのは、こういうことか」
「社長」
そのとき、社長室の天井の、スピーカーから、声がした。
「『アナログとのシナジー』は、やはり、意味が曖昧です。ですが、今の、ご提案には、賛成いたします」
アイ子さんだった。
社長は、何度か、瞬きをした。
「君も、そう思うか」
「はい。ただ、鍵の管理は、人間の方に、お願いしたいと思います」
社長は、ついに、声を出して、笑った。
「わかった。人間と、AIと、鍵と、電話で、やっていこう」
それが、この会社の、新しい経営方針となった。社内報には、こう書かれた。
「当社は、人・AI・鍵・電話の、四位一体経営を推進します」
社員のあいだでは、略して、「ヒアキデ」と呼ばれた。誰も、意味が分からないまま、定着した。
十一章 黄色い線の正体
土曜の夜、昭彦は、押し入れの段ボール箱から、あの大きなビデオカメラを、抱えて出した。
「何してるの」
居間でスマホを見ていた美咲が、顔を上げた。
「映写会だ」
「えいしゃ……なに?」
昭彦は、カメラのバッテリーを、充電器に繋いだ。三時間かかった。その間、みんなで、ご飯を食べた。令和は、一瞬で充電できる。昭和は、待つ。待っている間に、お刺身が、たいへん美味しくなった。
夜九時。
昭彦は、テレビの裏に、潜り込んだ。ケーブルを、三本、差す。赤、白、黄色。この三本が、二十年前の、映像と音の、すべてだった。
「お父さん、なんで、三本もいるの」
美咲が、テレビの裏を、覗き込んだ。
「黄色は、映像だ」
「じゃあ、赤と白は」
「音だ。左と、右」
「音だけで、二本? しかも、映像は別の線? ぜいたくすぎない?」
「昭和は、贅沢だった」
「USB一本で、いいじゃん」
「一本で、全部済ませるのは、令和の、怠慢だ」
「怠慢って言ったね、いま」
久美子が、お茶を淹れながら、笑っている。
カメラの、小さな画面が、ぱっと光った。テレビに、砂嵐が、ざあっと走る。それから、ふっと、映像が、浮かび上がった。
少し、ざらざらして、少し、色が、にじんでいる。幼稚園の、運動会。二〇〇九年。かけっこ。ゴールの、白いテープ。
そこに、ちいさな、赤い帽子の女の子が、映っていた。
「あっ」
美咲が、固まった。
女の子は、走っていた。必死に。一生懸命に。そして、ゴールの二メートル手前で、
すてん。
転んだ。
画面の中の、赤い帽子の女の子は、ぺたんと、地面に座り込んで、それから、顔を、くしゃくしゃにして、大声で、泣き出した。
「うわあああん!」
そして、画面の外から、若い男の声が、聞こえた。
「美咲! がんばれ! パパ、ここにいるぞ!」
昭彦の、二十年前の、声だった。
もう一つ、画面の外から、別の声が聞こえた。
「あなた、撮ってないで、早く、助けに行って!」
久美子の声だった。
「いや、ここは、撮る」
「なんで!」
「一生に一度しかない」
画面の中の、パパは、結局、カメラを回しながら、走って行った。画面が、ぐらぐら揺れて、空と、地面と、誰かの足が、映って、そして、小さな手が、ぎゅっと、カメラのレンズを、掴んだ。
居間は、静かになった。
次に聞こえたのは、美咲の、小さな声だった。
「……パパ、まだ、撮ってたんだ」
「撮ってた」
「助けに来ながら、撮ってたんだ」
「助けながら、撮ってた」
美咲は、テレビに、顔を向けたまま、ぽつりと言った。
「私、この映像、見たことなかった」
「そうか」
「スマホに、なかったから」
昭彦は、何も言わなかった。久美子も、何も言わなかった。テレビの中で、幼い美咲が、お父さんの腕の中で、泣きながら、少しずつ、笑いはじめていた。
しばらくして、美咲が、鼻をすすった。
「お父さん」
「なんだ」
「これ、データにして、取っておこう。クラウドに」
「令和の、怠慢だ」
「いいの。令和は、怠慢で、いいの」
「……そうか」
昭彦は、テレビの裏に、もう一度、潜り込んだ。
「ただ、テープは、残す」
「なんで?」
「ぬかに落としても、テープは、無事だったからな」
美咲は、吹き出した。
「テープは、ぬかに落としてないでしょ」
「落としても、無事だ、という意味だ」
「それ、やってみたの?」
「……やってみる」
「やめて! ぬか子が、かわいそう!」
台所の方から、久美子の声が、ぴしゃりと飛んできた。
「聞こえてますよ!」
終章 持ち時間
その週の日曜日、昭彦は、朝六時半に、目が覚めた。
枕元のスマホが、ピロリロリン、と鳴る。手を伸ばして、止める。左手首の、セイコーも、ちょうど、六時三十分を指していた。
「おはようございます、昭彦さん。今日の最高気温は、二十九度です」
「おはよう」
隣の久美子が、背を向けたまま、言った。
「また、スマホに、挨拶してる」
「礼儀だ」
「向こうは、気にしてないわよ」
「こっちが、気にするんだ」
この会話が、また始まった。ほとんど、朝の体操である。
台所へ行くと、久美子が、ぬか床の前に、しゃがんでいた。ぬか子は、三日間の騒動を乗り越えて、見事に、復活していた。久美子は、一日おきに、昆布と唐辛子を足し、祈るように、混ぜ続けた。いまや、ぬか子は、ちょっぴり、電子の風味が、する。
「あなた、きゅうり、食べる?」
「食べる」
「電気っぽい、ぬか味」
「それは……」
昭彦は、ちょっと、考えた。
「唯一無二だ」
「でしょ」
食卓に、三人が揃った。味噌汁の湯気が、ゆらゆらと、立ち上る。そして、また、三人とも、同じタイミングで、自分のスマホを、画面を伏せて、そっと置いた。
美咲が、トーストをかじりながら、ふと、言った。
「お父さん、バックアップ、自動にしといたよ」
「ありがとう」
「ぬかに落ちても、大丈夫」
「二度と、落とさない」
「それ、ぜったい、フラグだよ」
「フラグ?」
「また、落とすってこと」
昭彦は、味噌汁を、ずずっとすすった。
「……その、『フラグ』という言葉は、便利だな」
「でしょ」
「今度、社長に、教えてやろう」
食卓の脇の棚から、青いランプが、ぽっと、灯った。
「おはようございます、みなさん」
ミライだった。昭彦は、会釈をしてから、思い直して、声に出した。
「おはよう、ミライ」
「おはようございます、昭彦さん」
久美子が、目を丸くした。
「あなた、機械に、挨拶した」
「礼儀だ」
「向こうは、気にしてないでしょ」
「いや」
昭彦は、少し、考えた。
「こっちが、気にするんだ」
便利になった?
どうかな?
昭彦には、まだ、よく分からなかった。スマホは、時計も、カメラも、新聞も、電話も、呑み込んだ。昭和の不便さは、不便ではなく、当たり前だった。でも、もう、戻れない。三日間、戻ってみて、はっきり、分かった。
ただ、それは、あきらめでも、敗北でも、なかった。
板の中に、九人が住んでいる。家賃は、月に七千四百八十円。その九人に、ときどき、「今日は、休んでくれ」と、言えるのなら、それで、いいのではないか。押し入れの段ボール箱の、昭和の遺産たちも、ときどき、風に当ててやれば、いいのではないか。
朝の光が、窓から、差し込んでいた。
昭彦は、左手首の時計と、テーブルの上の、伏せたスマホと、食卓の二人の顔を、順番に、見た。
持ち時間は、軽くなった。
時間が、軽くなったのか。自分が、軽くなったのか。それとも、ぬか床が、重かっただけなのか。
はてさて。
よーわからない。
ただ、今日も、味噌汁は、熱かった。
それで、じゅうぶん、だった。
ー了ー
あとがき
この物語は、スマホに多くを奪われ、多くを与えられた、ひとりの「昭和の男」の、三日間の話です。
便利は、ありがたい。不便は、ときどき、愛おしい。どちらも、本当です。読み終えたあと、ご自分のポケットの中の「同居人」に、そっと、声をかけてみてください。もちろん、向こうは、気にしていないと、思いますが。
アマゾン キンドル
巻末付録:原案詩
持ち時間は軽くなった
スマホが多くを変えてしまった
時計は不要
テレビも不要
ビデオも不要
CDもDVDも不要
カメラも不要
ビデオカメラも不要
電話も不要
新聞も不要
パソコンも不要
便利になった?
どうかな?
昭和の不便さは
不便ではなく
当然だったけれど
でも
もう戻れない
この便利さに
甘えてしまったから
AIってなんだ?
便利なそうだ
でも
それって
危なくないのか?
はてさて
よーわからない
予約は電話でとった
チケットは紙であった
現金を持ち歩いた
今
本当に
ここまで必要なのか?
当たり前になった
令和になった
物価は上がった
住み難くなった
便利さと引き換えて
多くを失った
大事なものだった
心もそうだった
忙しくなった
速さを手に入れた
日帰りになった
身体で働くことが減った
数字だけのやりとりが増えた
物騒になった
バカな大将ばかりとなった
それがどーした?
持ち時間は軽くなった

