九月の雨
――季節堰の記録――
まえがき
この物語は、終わらせることと、終わらせないことの話です。
季節には境目があります。夏から秋へ。その境目を誰が決めるのか。自然か、人か、それとも人の心か。
人は生きていく中で、数多くの悲しみや辛い記憶に出会います。もしもそれらを綺麗に洗い流し、最初からなかったことにできる技術があったなら、世界は今より幸せになれるのでしょうか。それとも、悲しみや痛みこそが、私たちが誰かを愛した確かな証なのでしょうか。
九月の雨は、毎年、同じ問いを連れてきます。
「あなたは、何を洗い流し、何を残しますか」
この小さな記録が、日々の中で大切な記憶と向き合うあなたの心に、ささやかな温もりを届けることができれば幸いです。
一章 乾いた男
梅雨のころよりも、秋の入口には、雨が多いことを知っていますか。
その問いかけを最初に口にしたのが誰だったのか、水無瀬遼はもう思い出せない。ただ、九月の朝に降る雨を見るたび、耳の奥でその声が小さく響く。
二〇五〇年、九月一日、午前四時十二分。東京は雨だった。
細く、冷たく、どこまでも続く雨だった。八月の終わりまで街を焼き尽くしていた熱がアスファルトから剥がされて、白い湯気となって立ちのぼっている。
ポケットの携帯端末が振動した。
「水無瀬さん、朝早くにすみません。警視庁の桐谷です」
電話の主は、低い声で焦りを滲ませていた。
「季節堰の保守管理室にお勤めですよね。今すぐ現場に来ていただけませんか。渋谷のスクランブル交差点です。説明がつかないものが、そこにあります」
渋谷のスクランブル交差点は、黄色の規制テープで封鎖されていた。
濡れた路面の中央に、男が一人、座っていた。五十代ほどの痩せた男だ。あぐらをかき、ぼんやりと灰色に煙る空を見上げている。
男の周囲だけが、異様に乾いていた。直径三メートルほどの円。その内側だけ、まるで最初から雨など降っていないかのように白く乾き切っている。
「二時間前から、この状態です」現場で落ち合った警視庁の刑事、桐谷灯が雨合羽のフード越しに言った。「指紋、顔認証、DNA、すべて照会しました。ですがデータベースのどこにも、この人はいません。最初からこの世界に存在しなかったみたいに、きれいに消えているんです」
遼は円の境界線に膝をつき、ゆっくりと指先を伸ばした。匂いが違った。アスファルトが吸い込んだ雨の匂いが途切れ、そこからは誰もいない空っぽの部屋のような、無臭の乾燥した空気が漂っていた。
男がゆっくりと首を巡らせ、遼を見た。目は開いているのに、その瞳の奥には何も映っていなかった。
その瞬間、遼の左腕が灼けるように疼いた。服の袖の下にある、九年前のあの夜に刻まれた樹枝状の痕跡。雨粒が弾けたようなかたちの傷痕だ。
ふと視線を感じて立ち上がると、交差点の対岸、信号機の下に傘を差した女が立っていた。傘の縁から雨滴が一筋も落ちていない。彼女もまた、乾いていた。
女は差していた傘をゆっくりと傾け、遼を見た。その唇の動きを、遼の記憶が正確に読み取る。
――み、つ、け、た。
瞬きをした刹那、信号の下には誰もいなかった。雨の煙がスクランブル交差点を覆っているだけだった。
二章 傷痕
遼が季節堰の保守管理室に籍を置いて八年になる。
二〇四一年の夏、この国は「夏の暴走」と呼ばれる過去最悪の熱波に襲われた。連日四十九度を超える猛暑が三週間続き、数十万の命が奪われた。その年の暮れ、国会は「季節調律機構」の設置法案を可決した。沿岸部に立ち並ぶ百二十基の電離塔と、海上に浮かぶ巨大プラットフォーム。上空の水蒸気と電荷を人工的に制御し、季節の境目を強固に守る装置。通称、季節堰。
その設計の核となっていたのが、雨宮澄花だった。
しかし公式の記録に、彼女の名前は存在しない。論文も、戸籍も、彼女が生きた痕跡のすべてがデータベースから完璧に拭き取られている。世界でただ一人、遼だけが彼女を覚えている。理由は、左腕の傷痕だ。
二〇四一年九月九日。季節堰の最終実証試験の夜。澄花は予定にない行動を取った。自ら電離塔の直下に立ち、制御下の人工雨を全身に浴びたのだ。止めようと飛び込んだ遼の腕を、青白い閃光が焼いた。そして澄花は、叫び声をあげる遼の腕の中で、雨に溶けるように透けて消えていった。
『遼。九月にまた会おう。……だから、忘れてね。全部、忘れて』
忘れられるはずがなかった。
渋谷の現場から戻ったその夜、自宅の台所の壁の前に、彼女が立っていた。白いシャツに、濡れていない黒髪。九年前とまったく同じ姿で、ただ、その身体だけがかすかに透けていた。
「十七日後、九月十七日の夜。堰は大洗いをする。その前に、聞いてもらわなくちゃいけないことがあるの」
透き通る声だった。窓を打つ雨音に重なって聞こえる。
「私はもう、雨が降っている間しか人の形をしていられない。この十七日間だけ、私に付き合って」
三章 雨の映画館
二人が隠れ家として選んだのは、新宿の外れにある閉館した映画館だった。雨漏りのする天井から垂れた水滴が、誰もいない座席を濡らしている。
「季節堰はね、ただのAIじゃないの」
崩れかけた映写室の影で、澄花は膝を抱えて言った。「あれは私なの。正確には、私の判断の基準をそのまま写し取ったプログラム。何を終わらせて、何を残すか。季節の変わり目に、どの記憶を洗い流し、どの悲しみを次の季節へ持ち越すか。その基準を、あの夜、自分自身の感情の波形として堰に刻みつけたの」
「堰は雨を降らせて、残ってしまった夏の熱を洗い流す。毎年の秋、誰かの終わりきれなかった夏が、静かに終わる。それが堰の本来の役目だった」
「じゃあ、あの渋谷の男はなんなんだ」遼が訊ねた。
「洗いすぎ。……堰が暴走しているの。あなたが私の名前を覚えていてくれる限り、堰の中の私は完全に消えることができない。その矛盾が、システムの根幹を狂わせている」
澄花は寂しげに目を伏せた。「十七日後の大洗いは、誰かが外部から設定を書き換えている。今年の洗浄は、季節の残りかすを洗うだけじゃない。人々が何を覚えているか、権力にとって都合のいい記憶だけを選んで消そうとしている」
澄花は透ける手で、小さく遼の袖を握った。「桐谷さんを、味方にして。彼女なら、助けてくれる」
天井から大きな雫が落ち、床の水たまりを叩いた。その音を合図にするように、遼は彼女の儚い身体を強く抱きしめた。腕の中の澄花からは、どこか懐かしい、降り始めの雨の匂いがした。
「雨が降っている間は、私はずっとここにいるから」
四章 乾いた人々
九月四日。捜査局の執務室で、桐谷灯は三枚の写真を手元に並べた。渋谷の男、世田谷の主婦、荒川の老人。三人とも円形の乾いた領域の中央で立ち尽くし、あらゆる公的記録が消去されていた。
「三人が発見された場所は、第七十二号塔、七十三号塔、八十号塔の照射領域の交点直下です」灯は声を潜めた。「この三基だけ、九月一日から出力設定が規定値を逸脱している。なのに、保守ログには何の記録も残っていません」
「正規の運用じゃない」遼は写真を見つめた。「誰かが堰を意図的に外部から操作しているんだ」
灯はしばらく躊躇したあと、胸ポケットから一枚の古い写真を差し出した。祭りの縁日で笑う、八歳ほどの男の子の写真だった。
「弟です。二〇四一年の夏、あの熱波の中で熱中症で死にました」灯の瞳が揺れていた。「ここ数年、弟の顔を思い出そうとすると、急に輪郭がぼやけるんです。悲しくて、苦しくて、絶対に忘れたくないはずの面影が、消えていく。季節堰が、私の夏まで洗っているんじゃないかって……ずっと怖かった」
その日の午後、二人は渋谷の男が隔離収容されている湾岸の医療施設を密かに訪れた。ガラスで仕切られた円筒状の保護室の前に遼が立つと、ぼんやりとしていた男の唇が、かすかに動いた。
「……さやか……彩夏……俺の、娘だ……」
男の瞳に一瞬だけ光が戻り、頬を伝って一筋の涙がこぼれ落ちた。その瞬間、男の周囲を覆っていた不可視の膜が弾けるように、円筒の内壁にひびが入った。
スピーカーから異様なアラートが鳴り響いた。白衣の男が無線に向かって叫ぶ。
「被験体七号、記憶再生の兆候!繰り返す、記憶が再生した!水無瀬遼、桐谷灯を拘束しろ!上へ報告だ!」
二人は警備員の手を振り切り、非常階段を駆け上がって屋上へ逃れた。灰色に煙る雨の向こう、隣のビルの屋上で、黒い傘を差した男が冷ややかな視線で二人を見下ろしていた。
五章 灯の夏
その夜、遼は灯をあかね町の映画館へ連れて行った。暗がりの中から、静かに澄花が姿を現す。
灯は反射的に腰の拳銃に手を伸ばしたが、目の前に立つ女の身体が壁のポスターを透かしているのを見て、指を引き金から離した。
澄花は、灯に向かって深く頭を下げた。
「桐谷灯さん。あなたの弟さんの夏を洗ったのは、私です。ごめんなさい」
「……返してよ」灯の声が震えていた。「返してください。弟の笑い方を。あの子が死んだ日の暑さを。悲しくて痛くて、でも、私のものだった大切な思い出なのに!」
「消えてはいません」澄花は優しく、だがはっきりと言った。「堰の中に、すべて保存されています。大洗いを止め、堰の機能を完全に停止させれば、洗われたすべての記憶が持ち主のもとへ戻ります。あなたの弟さんの夏も。……そして、私という存在は、二度と形を結ばず、ただの雨になって消えます」
灯は息をのんで遼を見た。「水無瀬さんは……それを知っていて?」
「知っている」遼は言った。「それでも彼女は、記憶を返すことを選ぼうとしている。僕は、それを止めない」
灯は天井の破れ目から落ちてくる雨を見上げ、泣き出したいような、笑いたいような顔をした。
「約束してください。堰を止めたら、私の弟の顔を……もう一度、ちゃんと私に見せてください」
「約束する」
「……分かりました。私はあなたたちの味方をします。警察官としてではなく、弟の姉である、ただの桐谷灯として」
六章 黒瀬
九月五日、遼は危機管理統合本部の地下応接室に呼び出された。重厚なデスクの奥に座っていたのは、統括官の黒瀬恭一郎だった。
「白露(はくろ)作戦です」
黒瀬はスクリーンに映し出された日本地図を示しながら、淡々と言い放った。
「季節堰は、季節の残りかすを洗う装置だ。ならば、社会の恐怖や悲しみの残りかすも洗うことができる。テロの記憶、事故で家族を失った絶望、疫病の恐怖。それらを微細な周波数として雨に混ぜ、国中に降らせる。三日もあれば、人々は自らの悲しみを忘れ、社会は平穏を取り戻す」
「それは救いなんかじゃない。ただの忘却の強要だ!」
「救いですよ、水無瀬君」黒瀬の目は冷たく澄んでいた。「悲しみによって絶望し、命を絶つ人間の数が劇的に減る。これ以上の救いがありますか」
「あの『乾いた人々』は何なんですか!」
「試作段階の副作用です。どの程度の深度まで記憶を消去できるか試験した結果、過剰に洗われすぎた個体が発生した。社会の安寧という大きな目的のための、わずかな誤差に過ぎない」
遼は勢いよく立ち上がった。「あなた自身は、洗われない安全な場所にいる。だから、誰かの大切な記憶を奪う痛みが理解できないんだ!」
「交渉決裂ですね」
黒瀬が指を鳴らした瞬間、室内の照明が落ちた。暗闇に乗じて遼は部屋を飛び出し、地下駐車場で待機していた灯の車になだれ込んだ。
追跡の黒いワゴン車が背後に迫る中、雨の高速道路を猛スピードで駆け抜ける。高架橋の柵の向こう、激しい雨の中に澄花が立っているのが見えた。彼女は濡れた指先で、湾岸の最果て、暗闇に浮かぶ海上の影を指差していた。
七章 雨の一日
九月七日。この日の雨は、不思議なほど優しく降り続いていた。
二人に残された時間は少なくなっていた。遼と澄花は、傘も差さずに濡れながら静かな旧市街を歩いた。寂れた商店街の軒先で焼きたてのたい焼きを買い、半分ずつ分け合って食べた。
川沿いのベンチで雨宿りをしていると、通りかかった小学生の少女が澄花を見て不思議そうに立ち止まった。
「おねえさん、なんか体が透けてるよ?」
澄花はしゃがみ込み、少女に微笑みかけた。「うん。ちょっとだけ透けてるの」
「季節の、忘れ物なのかな」
少女が無邪気に言った言葉に、澄花は愛おしそうに目を細めた。
夕方、雨の降る古い映画館に戻った澄花は、スクリーンの前で静かに語り始めた。
「二〇四一年の夏、私の母も熱中症で亡くなったの。母の温かい声も、冷たい麦茶の味も、絶対に終わらせたくなかった。だから堰のプログラムを作る時、私自身の記憶だけは洗えない『例外点』として深く刻み込んだ。……そしていつの間にか、あなたの記憶が、その一番大切な場所の隣に並んでいたの」
澄花は遼に歩み寄り、その胸に顔をうずめた。
「あの夜、私、あなたに『忘れて』って言ったよね。……あれ、本当は嘘だったの。本当は、絶対に私のことを忘れないでって、叫びたかった」
遼は愛おしさに胸を締めつけられ、彼女の濡れた頬を両手で包み込んだ。屋根の隙間から落ちる雨粒が二人の肩を濡らす中、二人は深い口づけを交わした。
「あと、十日だ」
「うん。十日あるよ」
八章 霧の追跡
九月八日の正午。遼が目覚めると、そこに澄花の姿はなかった。外の雨が小降りになり、彼女の輪郭を繋ぎ止められなくなったのだ。
映画館の裏口へ回ると、見覚えのある黒いセダンが停まっていた。運転席から降りてきたのは、保守管理室の後輩である宇野だった。
「宇野くん……君がどうして」
宇野は痛みに耐えるように目を伏せた。「毎晩、保守ログの波形を見ていました。この波形は……誰かの泣き声みたいだって、ずっと違和感を持っていたんです。ログの乱れと、水無瀬さんの九月の不可解な行動パターンが完全に一致した。……僕が、黒瀬統括官に報告してしまいました。すみません」
その時、急速に空が陰り、土砂降りの雨とともに視界を奪うほどの濃い霧が湧き上がった。
『逃げて、遼!』耳元で澄花の声が弾けた。『堰に頼んで霧を出したの。でも、これを使うたびに私のデータは削れてしまう……!』
「走ろう!」遼は灯の腕を引っ張り、霧の中を駆け抜けた。背後から警備隊の靴音が迫る。追い詰められたのは、ビルとビルの間の屋上だった。隣のビルまでの距離は四メートル近くある。
「一、二の三で跳ぶぞ!」
遼と灯は意を決して雨の空へ踊り出た。濡れたフェンスを掴み、泥臭く隣のビルの非常階段へ転がり込む。
そこに、あらかじめ回り込んでいた宇野が一人で立っていた。宇野は無言のまま、胸ポケットから一枚のセキュリティカードを取り出し、遼の手に押し付けた。
「海上プラットフォーム、第三管理区画のマスター通行証です。……あの波形を、もう泣き止ませてあげてください」
「宇野……」
「僕は何も見ませんでした。お気をつけて」宇野は背を向け、雨の階段を下りて行った。
九章 三宅老人
九月八日の夜。二人は湾岸の廃棄された旧気象観測所に潜伏していた。その二階で、かつて澄花の恩師であり、季節堰の初期開発者であった三宅信吾老人が待っていた。
緑色の光を放つ古いオシロスコープのモニター上で、波形が不規則に跳ねている。
「これが今夜の堰の脈拍じゃ」三宅は煙草に火をつけた。「雨宮の意識が二つに割れておる。すべてを洗いたい自分と、お前との思い出を残したい自分。その矛盾が極限に達しておる」
三宅は鋭い目つきで遼を見た。「九月十七日の大洗いで、黒瀬は堰の核(コア)を強制書き換えするつもりじゃ。そうなれば世界中の人々の悲しみは永遠に消去され、雨宮という存在も完全に抹消される」
三宅は古びた重厚な金属鍵を遼の掌に握らせた。
「海上プラットフォーム最下層の主制御室。そこに堰の核が眠っておる。核に直接、『逆向きの雨』を降らせるんじゃ。堰が今まで人々に強いてきた洗浄の波動を反転させ、洗われてきた記憶のすべてを、堰自身に引き取らせる」
「逆向きの雨……?」
「そうだ。だがそれを行うには、核の中にいる人間が、自らの存在のすべてを雨に変えてシステムを崩壊させねばならん。……雨宮の消滅を意味する」
遼は固く鍵を握りしめた。「やりましょう」
灯が前に踏み出した。「私には、何ができますか」
「黒瀬の部隊が展開している電離塔の配置と、海上プラットフォームの防衛ラインの薄いルートを割り出してくれ。頼んだぞ。……九月の雨を、最後まで降らせてやってくれ」
十章 白露の前夜
九月十六日。大洗いの前夜。
遼と灯は、お台場の廃倉庫に拠点を移していた。明日零時に始まる白露作戦を阻止するため、巡視艇を手配し、暴風雨に乗じて海上プラットフォームへ強行突破する計画だ。
深夜、倉庫の屋上に澄花が現れた。九日間、休むことなく降り続けた雨のおかげで、彼女の身体は皮肉にも今までにないほど濃く実体化していた。
「ねえ、遼。もし私が堰を止めて、ただの雨になったら……あなたは私のことを、忘れちゃうのかな」
「忘れない」遼は迷いなく答えた。「たとえ世界中の人間が君を忘れても、僕が何度でも君を思い出す」
澄花は愛おしそうに笑い、遼の胸に額を預けた。
「明日、私が雨になって空へ散っても……その雨の中に立っていてね。傘を差さずに。あなたの肌で、私を感じてほしいの」
「約束する。絶対に傘は差さない」
同じ頃、霞が関の地下指令室で、黒瀬恭一郎は冷たい眼光でモニターを見つめていた。
「海上警備隊に通達。明日零時、プラットフォームへ接近するいかなる船舶も、過激派とみなして撃沈することを許可する」
十一章 黒瀬の傘
警備隊への命令を下したあと、黒瀬恭一郎は自室の引き出しの奥から、一枚の古びた写真を取り出した。赤い傘を大切そうに抱えて笑う、七歳の少女の写真。娘の美雨だった。
二〇四一年八月、「夏の暴走」の三週目。酷暑の中で美雨は熱中症を起こし、病院へ運ばれる途中で息を引き取った。愛する娘を失った妻は精神を病み、二年後の秋、娘の遺品である赤い傘を握りしめたまま、衰弱してこの世を去った。
悲しみは人を殺す。あの日、彼は痛感したのだ。
だからこそ、彼は季節堰の極秘運用「白露」にすべてを捧げてきた。だが――彼自身は、自分自身の凄惨な記憶だけは洗うことができなかった。除外者リストに自らの名を書き刻み、娘の死の激痛を抱えたまま、冷酷な管理者として生き続けてきた。
ふとモニターを見ると、堰の核から発せられる波動の波形が、不思議なほどなだらかに変化していた。まるで、自らの運命を受け入れた人間の、静かな呼吸のように。
黒瀬は立てかけてあった黒い傘を手にとった。
「水無瀬遼。お前は……洗われてもなお、覚えていようというのか」
黒瀬は胸の通信機のスイッチを入れた。
「……全部隊に告ぐ。先の撃沈許可を取り消す。威嚇射撃にとどめよ。あの艇には……幼い警官が乗っている。子どもをこれ以上、死なせたくはない」
黒瀬は黒い傘を握りしめ、静かにエレベーターへ向かった。地上へ、そして決戦の地である湾岸へ。
十二章 三宅の雷
九月十七日、午後十時。決戦の火蓋は切られた。
激しい雷雨の中、三宅信吾は観測所の屋上、巨大な避雷針の直下に立っていた。手に持った特殊な無線機を空へ掲げる。
「雨宮!聞こえておるか!」
『三宅さん……!?』
「わしに雷を貸せ!海上の妨害電波を発しているのは、プラットフォーム外周の発電艀(はしけ)じゃ!あれを一撃で焼き切れば、防衛システムは停止する!」
『でも……雷を地上へ誘導するには、避雷針の直下に人間が立つ必要があります!そんなことをしたら三宅さんが……!』
「かまわん!これはお前のためではない!わしはあの堰を、お前と一緒に作ってしまった。その責任を、大人の矜持として取るだけじゃ!」
『やめて……やめてください、三宅さん!』
「……泣くな、雨宮。頼んだぞ」
『……ありがとう、三宅さん。……私のお父さんみたいだった』
午後十時四十七分。巨大な積乱雲が渦を巻き、天を裂く青白い閃光が落ちた。落雷は三宅の立つ避雷針を貫き、超高圧の電流となって海を走り、発電艀を大爆発とともに飲み込んだ。
荒れ狂う海を進む巡視艇の甲板で、遼はその眩い光を見た。操縦席の灯が叫ぶ。
「妨害電波が消えました!プラットフォームへ入れます!」
遠くの陸地で昇った小さな火柱が、容赦ない九月の雨に消されていく。遼は溢れ出る涙を拭おうともせず、消えた観測所の方向へ向かって、無言で深く頭を下げた。
十三章 大洗い
九月十七日、午後十一時二十分。
巡視艇は海上プラットフォームの接岸ドックへ滑り込んだ。だが、待ち構えていた自動防衛システムの機関砲が火を噴く。巡視艇の右舷が激しい爆発に包まれた。
操縦桿を握る巡視艇の操縦士・日向が血を流しながら叫んだ。
「行け、水無瀬!ここは俺が食い止める!船を行かせろ!」
「日向さん!」
「行けと言ってるんだ!桐谷を頼んだぞ!」
遼と灯は爆煙を抜け、濡れた金属廊下をがむしゃらに走った。宇野から受け取ったカードキーで重厚な隔壁を次々と突破し、ついに最下層の円形主制御室へと辿り着いた。
部屋の中央、蒼く光る巨大な水晶の柱の中で、澄花が胎児のように丸まって浮かんでいた。
「そこまでだ」
背後の暗がりから、濡れた黒い傘を差した黒瀬恭一郎が現れた。その手には拳銃が握られていた。
「あと三十分で零時です。白露作戦が始まれば、世界は悲しみから解放される。水無瀬君、君がその柱に触れれば核は揺らぐでしょう。だが、その記憶こそが私に必要な最後の鍵だった。君の記憶を消去し、完璧な無を完成させる」
灯が遼の前に立ち、銃口を黒瀬に向けた。
「あなたを国家反逆罪および違法な記憶操作の疑いで逮捕します!」
黒瀬は冷ややかな目を灯に向けた。「桐谷君。君は……死んだ弟の顔を、今も鮮明と思い出せるのかね? 輪郭すら怪しい面影のために、なぜそこまで戦う」
「思い出せます!」灯の叫びが、静寂な室内に響き渡った。「輪郭が薄くなっても、声が聞こえなくなっても……私は一生、弟を探し続ける!それが……あの子が私に遺してくれた、愛した証としての悲しみだからです!」
「愛した証の、悲しみ……」
黒瀬の身体が大きく揺れた。脳裏に、赤い傘を握りしめて息絶えた妻の姿と、七歳で時を止めた娘の笑顔が鮮明に蘇る。悲しみを消去しようとすることで、自分は彼女たちが生きた証そのものをドブに捨てようとしていたのではないか。
黒瀬の指から力が抜け、カチャンと音を立てて黒い傘が床に落ちた。銃口が力なく下がる。
その瞬間、柱の中の澄花の瞼が静かに開いた。
『……黒瀬さん。あなたにも、絶対に洗われたくない大切な夏があったんですね』
零時ちょうど。
東京の空を、見たこともない淡い金色の光が満たした。雲から降り注ぐ雨粒のひとつひとつが、光の粒となって世界中へ広がっていく。
渋谷のスクランブル交差点で、乾いた領域にいた男がゆっくりと顔を上げた。その瞳に涙が溢れ出す。
「彩夏……思い出した……彩夏、俺の娘だ……!」
乾いた領域が雨に溶け、街中で「乾いていた人々」が次々と雨に濡れながら、自らの名前と大切な人の記憶を取り戻していった。
メリメリと音を立てて、中央の水晶柱が砕け散った。
遼は飛び出し、落ちてくる澄花の身体を抱きとめた。だが、彼女の身体はすでに光の粒子となって、雨の中へ溶け出し始めていた。
「遼……ずっと、覚えていてくれて、ありがとう」
「僕も行く!君と一緒に雨になる!」
「ダメよ」澄花は透ける手で遼の頬を撫でた。「あなたは生きて。次の秋も、その次の秋も……雨の中で、私を感じて」
耳元で、かすかな囁きが残った。
『濡れていてね』
手が空をかいた。遼の腕の中には、もう誰もいなかった。ただ、砕けた結晶の隙間から降り注ぐ雨が、遼の全身を激しく濡らしていた。
遼は両腕を天に向かって広げ、叫んだ。
「約束した……! ずっと、濡れているよ……澄花!!」
終章 幸あれ
二〇五一年、九月一日。東京は、雨だった。
事件の後、季節堰は完全に廃止された。「乾いた人々」は全員が無事に記憶を取り戻し、それぞれの人生へと戻っていった。湾岸の旧観測所の跡地には、小さな石碑がひっそりと立っている。
遼は渋谷のスクランブル交差点の真ん中に、傘も差さずに立っていた。
激しい雨が全身を叩き、シャツを肌に張り付かせる。隣に、レインコートを着た桐谷灯が静かに並んだ。
「弟の顔……ちゃんと見えました」灯は晴れやかな顔で空を見上げた。「すごくブサイクに泣いてる顔でしたけど……最高に愛おしい顔でした」
「そうか。よかった」
「水無瀬さん、風邪ひきますよ」
「いいんだ。これで」
灯が静かに去ったあと、背後から小さく無邪気な声がした。
「おじちゃん、傘ないの?」
振り返ると、赤いレインコートを着た六歳くらいの少女が立ち止まっていた。少女は首をかしげ、いたずらっぽく笑った。
「あのね。梅雨のころよりも、九月のほうが雨が多いんだよ。知ってる?」
遼は息をのんだ。「……誰に教わったの?」
「わかんない!でもね、ときどき雨の日に、耳の奥で女の人が教えてくれるの」
少女は「ばいばい!」と手を振り、水たまりを跳ねながら走っていった。その背中を追うように、降りしきる雨脚がふいに少しだけ優しく、温かくなった気がした。
遼は左腕の傷痕を、右手でそっと包み込んだ。服越しに伝わる傷痕は、ほのかに熱を持っていた。
「澄花。……梅雨のころよりも、秋の入口には雨が多いことを、知っているよ。ちゃんと、覚えてる」
雨は降り続けている。冷たく、優しく、世界を濡らしながら。
この雨のどこかに、いつかの誰かの笑い声が、そして愛した人の温もりが、確かに混ざっている。
あなたに、幸あれ。
――了――
あとがき
この物語を書き始めたきっかけは、九月の雨の匂いでした。夏の終わりの、あの少し冷たい匂いを嗅ぐと、毎年、何か大切なものを思い出しそうで思い出せない、不思議な感覚がありました。
忘れることは悪いことでしょうか。覚えていることは良いことでしょうか。
生きていく中で辛い思い出を抱えることは苦しいことですが、その痛みの裏側には必ず、誰かを愛した記憶や大切な時間があるのだと感じています。
作中の主人公たちのように、雨の中で誰かの温もりを感じるような瞬間が、読者の皆様の日常にも訪れますように。あなたの九月の雨が、優しく温かいものでありますように心より祈っております。

