もつれた糸の先で
――二つの地球と、ひとつの恋の物語――


まえがき
人生には失うことが付きまつわります。愛する人を失ったあとに残る時間は、とても静かで、とても長いものです。朝のコーヒーは一人分になり、テレビの音は少し大きくなり、誰にも向けられない言葉が喉の奥に溜まっていきます。
そんな日々の中で、ふと誰かのことを思い出した瞬間に、その人から連絡が来る。そんな経験はありませんか。
科学はそれを「偶然」と呼びます。けれど、その偶然に意味を見出そうとする心の動きこそ、人間が持つ最も美しい力ではないかと僕は思うのです。
量子もつれという不思議な物理現象を借りて、見えない糸で結ばれた二つの世界を描きました。証明はできません。ただ一度だけ、すべてを肯定してみてください。世界が少しだけ優しく見えるはずです。




序 偶然について
人の一生は、偶然の一致だらけだ。
たまたま乗った電車。たまたま隣に座った人。たまたま開いた本の、たまたま目に入った一行。そのひとつでも欠けていたら、今の僕はここにいない。
六十五年生きてみて、僕はようやくそのことを頭ではなく身体で理解した。
理解したのは、妻の薫が死んでから十二年が経った、去年の秋のことだった。
そしてその秋から、光の玉たちは僕の目の前に現れるようになったのだ。


一章 二十四時間目の前で
最初の一つを見たのは、台所だった。
朝の七時、湯を沸かしていたときだ。やかんの口から立ちのぼる湯気の向こうで、白く丸いものがふわりと浮いていた。ちょうど大きめのシャボン玉くらい。しかし虹色ではなく、内側から静かに灯るようなやわらかい乳白色をしていた。
僕は目をこすった。
物理教師を四十年近く勤めた人間の最初の反応は決まっている。まず疑う。自分の目を、自分の脳を、自分の年齢を疑う。
飛蚊症だろう、と僕は思った。実際、五十代の終わりから視界の隅を糸くずのようなものが泳ぐことはあった。
けれど、その光は糸くずとは違った。目を動かしても視線を追ってこない。かといってその場に固定されているわけでもない。やかんの湯気が揺れるたびに、それに合わせてゆっくりと上下する。
手を伸ばしてみた。指先は何にも触れずに空を切った。ただほんのわずかに、指先が温かくなった気がした。
それが始まりだった。
一週間もすると、光の玉は一つではなくなった。居間に二つ、寝室に一つ、玄関の靴箱の上に一つ。次第に数は増え、目を覚ましたときには必ず枕元のあたりで静かに浮かんでいる。
スマートフォンで写真を撮ると、白い点のようなものが写った。ネットで調べれば「オーブ」という名前がすぐに出てきた。そしてその説明のほとんどが、埃や水滴が光を反射しているだけだ、と書いていた。
理屈としてはそのとおりなのだろう。僕自身、教壇で何度もそう説明してきた。
けれど僕の家の玉は、フラッシュなしでも見える。夜の暗闇でも昼の日差しの中でも、二十四時間、休みなくそこにいる。
眼科にも行った。検査の結果は年相応の軽い白内障と、ごく普通の飛蚊症。「網膜に問題はありませんよ」と若い医者は言った。
「では、この光の玉は何ですか」
「うーん」医者は困ったように笑った。「ストレスや、寂しさが、見え方に影響することもありますから」
寂しさ。
その言葉を、僕は帰りのバスの中でずっと考えていた。
窓の外を街路樹の黄色い葉が流れていく。座席の斜め前の空間で、光の玉がひとつバスの揺れにあわせて揺れていた。誰にも見えていないのだろう。隣の席の女性はスマートフォンを見たまま、少しも顔を上げなかった。
薫が死んで十二年。子どもには恵まれなかったから家には僕ひとりが残った。朝のコーヒーは一杯分。テレビの音量は以前よりずっと大きくなった。
だから光の玉が現れたのも、そんな孤独が見せる幻のようなものかもしれない。
そう考えて家に帰った。玄関のドアを開けると、靴箱の上の玉がまるで「おかえり」とでも言うように、ふわりと上下した。
僕は笑ってしまった。
「ただいま」
十二年ぶりに、家の中で誰かに向かって「ただいま」と言った。
その夜、奇妙なことが起きた。
夕食を済ませ、風呂に入り、寝る前に本を読んでいたとき、ふと一人の女性のことを思い出した。三浦千早。十年ほど前に僕が担任を持った、物理部の教え子だ。
聡明で少し変わった子だった。文化祭の展示で誰も見向きもしない「二重スリット実験」の装置を、ひとりで黙々と作っていた。
「先生、量子ってね、見られていないときは波みたいに広がっているんです」
彼女はそう言って目を輝かせていた。
その千早が今どうしているだろう。大学院に進んだと風の便りに聞いた。
そう思った、まさにその瞬間だった。
スマートフォンが机の上で震えた。
画面には見知らぬ番号。おそるおそる出ると、聞き覚えのある少し低くて落ち着いた声が言った。
「榊原先生ですか。三浦です。三浦千早です。突然すみません」
僕はしばらく言葉が出なかった。
「……今、君のことを考えていたところだよ」
「本当ですか」電話の向こうで彼女は小さく笑った。「実は私、この一週間ずっと先生のことを思い出していたんです」
偶然だろう、と僕は思った。
忘れた偶然の数百回は記憶に残らず、当たった一回だけが強く残る。そんな説明を僕は生徒たちに何度も語ってきた。
けれどその夜の僕は、その説明をどこか遠くのものに感じていた。なぜなら電話が鳴る直前、僕の枕元にいた光の玉たちが一斉にぶるりと震えたのを見てしまったからだ。
「先生」千早の声が少しだけ真剣になった。「変なことを聞きます。……最近、何か見えませんか。光の、丸いものが」
僕は息を止めた。
「……見えるよ。二十四時間、ずっと」
電話の向こうで、千早が深く息を吐いた。
「よかった。やっぱり、先生にも届いていたんですね」


二章 三浦千早の測定器
三日後の土曜日、千早は僕の家にやってきた。
十年ぶりに見る彼女は髪を短く切り、黒いリュックを背負っていた。玄関で靴を脱ぎながら、彼女は「わあ」と小さく声を上げた。
「本当にいっぱいいますね」
「君にも見えるのか」
「見えます。駅のホームでも見えていました。でもここは特別。密度がぜんぜん違う」
彼女はリュックから奇妙な機械を取り出した。銀色の小さな箱に、細い光ファイバーが何本も繋がっている。ノートパソコンと繋ぐと、画面に緑色の波形が現れた。
「単一光子検出器です。研究室のものをこっそり借りてきました」
「それはそうだろう」
「私、去年からオーブの研究をしているんです。もちろん論文にはできません」
彼女はパソコンの画面を僕に向けた。
「一年前、私の研究室で光子のペアを作る実験をしていました。ある夜、装置の電源を切ったあとも検出器だけが反応し続けていたんです。誰もいない暗室で、光子が一つ、また一つと」
「光源がないのに、光子が来ていたと」
「そうです。そしてその到着の仕方が普通じゃなかった。いつも二つずつペアで来るんです。時間的にも偏光的にも、完璧に相関して」
彼女は顔を上げ、言葉を選び直すように言った。
「もつれた光子のペアです。ミクロな量子効果が、どういうわけかマクロなスケールで可視化されている……その暗室で、白い小さな玉が浮いているのに気づいたのは、それから二週間後でした」
僕は部屋の中を見回した。乳白色の玉が静かに浮かんでいる。
「先生。ここからは私の仮説です。オーブは、もつれた状態が目に見える形になったもの。二つの離れた場所を繋ぐ糸の、結び目のようなものだと思うんです」
「結び目」
「はい。ここにいる一つ一つに、必ずどこか遠くで対になっている相方がいる」
千早はノートパソコンを操作しはじめた。
「先生、あの玉のどれか一つをじっと見ながら、何か強く思い浮かべてみてもらえますか」
僕は半信半疑のまま、目の前の玉を見つめた。
頭の中に浮かんだのは、薫の横顔だった。
薫はいつも台所の窓際に立って、庭の柿の木を眺めながらゆっくりとお茶を飲んでいた。
「先生」
千早の声で、僕は我に返った。頬が濡れていた。
千早は何も言わずに画面を僕に見せた。緑の波形は、僕が薫のことを思い浮かべ始めた瞬間から急激に大きく揺れていた。
「先生が強く誰かを想った時間と、完全に一致しています。しかも同じタイミングで、同じ形の波がもうひとつ別の測定チャンネルに現れています」
「……つまり」
「先生の想いに反応してこの玉は動いた。そしてその玉の相方は、どこか別の場所で同じ動きをした。オーブは、たぶん想いに反応します」
その日の夕方、千早が帰ったあと、僕は台所の椅子に座って窓の外を眺めていた。
庭の柿の木はすっかり葉を落としていた。枝の先に熟れすぎた実が一つだけ残って、夕日に染まっていた。
そんなことを思っていたら、目の前に浮かんでいた玉のひとつがゆっくりと僕の膝の上に降りてきた。
温かい。ほんの少しだけ、誰かの手のひらがそっと乗せられたような温度だった。
僕は声を出さずに泣いた。
この光が薫のいる場所と僕を繋いでくれているのだとしたら。
窓の外で最後の柿が、枝から音もなく落ちた。


三章 もうひとつの地球
それから二か月、千早は毎週末僕の家に通ってきた。
十二月の初め、雪の降りそうな冷たい夜だった。
いつものように測定をしていた千早が、突然椅子から立ち上がった。
「先生、来てください」
パソコンの画面には、これまで見たことのない模様が映っていた。波形が規則正しく脈を打っている。
「ノイズじゃありません。パターンです。音にしてみます」
千早がキーを叩くと、スピーカーから低いやわらかな音が流れはじめた。
ぽー、ぽ、ぽー。
それはどこかで聞いたことのあるメロディだった。
「……これは」
「先生、知っているんですか」
「『埴生の宿』だ。薫が台所仕事をしながらいつも口ずさんでいた」
僕は震える手で近くの玉に触れた。
すると玉の表面に、ゆらりと何かが映った。
それは僕の家の台所にとてもよく似た場所だった。窓の外には柿の木が見える。
その窓辺にひとりの女性が背を向けて立っていた。白髪の混じった短い髪。手には湯気の立つ湯のみを持っている。
僕は息もできなかった。
「薫」
女性がゆっくりとこちらを振り向いた。
その顔を、僕は見間違えるはずがなかった。
六十五歳の薫だった。死んだとき彼女は五十三歳だった。だから僕は彼女が年を取った姿を知らない。その知らないはずの顔が、確かにそこにあった。
「……遼一さん?」
映像の中の薫が口を動かした。音は聞こえなかった。けれど唇の形がはっきりと僕の名前を呼んでいた。
僕は何度も何度もうなずいた。
「いるよ。ここにいる」
薫は湯のみを持った手で口元を押さえて、声もなく泣きながら笑っていた。
そして映像はふっと途切れた。
気がつくと、千早が僕の隣に座っていた。彼女もまた目を真っ赤にしていた。
「見えました。私にも、全部」
「千早くん。ひとつ、可能性を思いついています」
千早はゆっくりと言葉を選んだ。
「量子力学の解釈のひとつに多世界解釈があります。もしこの玉が、二つの世界の間に張られた量子もつれの糸の結び目だとしたら。先生とあちら側の薫さんは、お互いに鏡のような存在なんじゃないでしょうか」
「鏡」
「あちらの世界では先生が先に亡くなって、薫さんがひとりで残された。こちらの世界では逆」
僕は目を閉じた。
あちらの薫も、僕と同じ十二年をひとりで過ごしたのだ。
「同じだけ老いて、同じだけ悩んでいる」
僕は思わずつぶやいた。
窓の外では雪が降りはじめていた。
そして部屋に浮かぶ何十もの玉たちはその夜、まるで安堵したようにいつもより少しだけ明るく輝いていた。


四章 偶然という名の手紙
あの夜から、僕たちの日々は変わった。
言葉はあちらとこちらの間を直接には通らなかった。だから僕ともうひとりの薫は、別の方法で言葉を交わすようになった。
それが偶然だった。
ある朝、僕は書斎の本棚からなんとなく一冊の本を抜き出した。ジャン=ジャック・ルソーの『孤独な散歩者の夢想』。
ぱらりと開いたページの行頭に、こう書いてあった。
――わたしは、いまや、この地上でただひとりである。
僕はその一行をしばらく見つめていた。それからぴんときて千早に電話をかけた。
「この本の一文は、あちらの薫が僕に宛てた言葉かもしれない」
「……それは、答えですね」
僕たちはその日からノートをつけはじめた。夢の中身、ふと口をついた歌、たまたま開いた本のたまたま目に留まった一行。その全部を日付と一緒に記録した。
「共時性ですね」千早は言った。「ユングは『意味のある偶然』と呼びました」
ノートが十冊目になったころ、僕たちはあちらの薫についての輪郭をつかみはじめていた。
あちらの僕は、五十四歳のとき脳出血で突然亡くなったのだ。
あちらの薫は「ちゃんと見送れなかった」と悔やむ。
こちらの僕は「もっと早く気づいてあげられなかった」と悔やむ。
お互いに失ったものは同じで、後悔の形だけが違っている。
「オーブが結び目なら」と、ある日千早は画面を見つめたまま言った。「その糸は空間だけでなく、時間にも伸びているのかもしれません。空間を越えられるなら、時間も……」
「無茶を言う」
「無茶なことを言いはじめたのは、先生のほうですよ。『世界の見え方を変えるのが物理学だ』って」
僕は返す言葉を失った。
その晩、僕は眠りにつく前、部屋の玉たちにこう話しかけた。
「もし君たちが二つの世界の間を運んでくる誰かの手なら、僕を連れていってくれないか」
返事はなかった。
ただ窓の外で、風が一度だけ強く鳴った。
そして僕は眠りに落ちた。夢の中で、若い日の薫が本屋の棚の前でこちらを振り返った。


五章 アインシュタインの手紙
年が明けて、一月の終わり。
千早は大きな鞄いっぱいに古い本とコピーの束を持ってきた。
「アインシュタインの最後の手紙のひとつです」
「ベッソの家族に宛てた、あの手紙か」
「ご存じですか」
「もちろんだ。ミケーレ・ベッソはアインシュタインの生涯の親友だった」
千早はコピーの一枚を僕に差し出した。
――ミケーレは、この奇妙な世界を私より少し先に去っていきました。それは何ということもありません。私たちのように物理学を信じている者にとって、過去、現在、未来の区別は、どれほど頑固であってもただの幻想にすぎないのです。
僕はその文章を声に出さずに何度も読んだ。
「時間は流れるものではなく、あらかじめすべてが並んで存在している。これを『ブロック宇宙』と呼ぶ人もいます」
僕は目を閉じた。
薫が生きていた三十二年間は、過ぎ去って消えてしまったのではない。すべて時空の織物のどこかに今も確かに在る。
「千早くん。それは慰めではなく、物理学として正しいのか」
「正しいかどうかはまだ誰にも分かりません。でもアインシュタインの方程式は、少なくともその解釈を許しています」
彼女はそこで声を落とした。
「ただ、そこにはパラドックスがあります」
「祖父殺しのパラドックスだね」
「解決の仕方は大きく分けて二つある。一つは世界が枝分かれするという考え方。もう一つは自己無矛盾の原理。過去に戻って何をしても、その結果はすでに歴史の一部として織り込まれている」
「先生はどちらだと思いますか」
僕は少し考えてから答えた。
「僕は後者のほうが好きだな。詩的だからだよ」
千早は笑った。
そのとき、千早がぽつりと言った。
「先生。実はもうひとつご報告があります。昨日の夜、私の測定器がそれまでに見たことのない信号を捉えたんです」
画面に映っていたのは地図だった。日本列島のある一点に赤い印がついている。
東京、神保町。
僕は息を飲んだ。
そこは僕が薫と初めて出会った古書店のあった場所だった。
「オーブたちが、先生にあちらの薫さんとの記憶のいちばん強い部分を指し示しているんです。そしてその時間は、二つの世界がまだ分かれていない最後の日」
千早は僕の目をまっすぐに見つめた。
「先生、オーブが私たちを招いています」
その夜、僕は書斎のいちばん奥の引き出しを開けた。
そこには古い文庫本が一冊しまってあった。
『アインシュタイン 相対性理論の世界』。
一九八二年四月、神保町の古書店の棚の前。二十一歳の僕はこの本に手を伸ばし、その瞬間に横から伸びてきたもう一人の手と触れ合った。
それが薫との最初の会話だった。
そしてあの日、僕はその手を離してしまうところだったのだ。
人見知りだった僕は頭を下げてその場を立ち去ろうとした。そのとき後ろから誰かが僕の背中に声をかけた。
「話しかけてみたら、いいんじゃないかな」
振り返ると、そこにいたのは白髪の見知らぬ老人だった。
僕は書斎の壁にかかった小さな鏡の前に立った。
鏡の中には六十五歳の、白髪の僕がいた。


六章 一九八二年の春
三月二十一日、春分の日。
その朝、目を覚ますと、家じゅうの玉が居間の中央に向かってゆっくりと集まってきていた。
千早はすでに僕の家に来ていた。
「先生、今日です。数値がこれまでの十倍を超えています」
僕はあの擦り切れた文庫本を胸のポケットに入れた。薫の写真は持たなかった。若い薫の前で老いた彼女の写真を見せるのが、なぜか躊躇われたのだ。
「先生」
千早が僕の腕をそっとつかんだ。
「怖くないんですか」
「怖いよ。もう戻ってこられないかもしれない。それでも行かなければならない気がする」
千早は鞄から小さなお守りを取り出して僕の手のひらに乗せた。
「持っていってください。帰ってくるときの目印になります」
僕は居間の中央に立った。
玉たちが僕を静かに取り囲んだ。
「先生、いってらっしゃい」
「ただいま、って言いに帰ってきてくださいね」
視界が真っ白になった。
最初に感じたのは匂いだった。
古い紙の乾いた匂い。
目を開けると、そこは神保町だった。
しかし僕の知っている神保町とはまるで違っていた。看板の文字が古い。行き交う人々の服装がどこか垢抜けない。
僕は路地のガラスに映った自分を見て息を飲んだ。
白髪の六十五歳の老人がそこに立っていた。
僕はあの古書店に向かって歩き出した。
角を曲がると、あの店があった。
『かもめ堂』。
そしてその戸の前にひとりの青年が立っていた。
痩せて、長髪で、少し猫背の二十一歳の僕が。
やがて青年は意を決したように店の戸を開けた。
僕は少しだけ待ってからあとを追って店に入った。
奥の棚の前に若い僕が立っている。そしてその隣にもうひとり、小柄な女の子がいた。
薫だった。
二十歳の薫は肩まである黒髪をリボンで束ねていた。
彼女は棚に手を伸ばす。同時に若い僕も同じ棚に手を伸ばした。
二人の指が触れた。
『アインシュタイン 相対性理論の世界』。
「すみません」
「いえ、こちらこそ」
若い僕は真っ赤になって頭を下げ、そのまま逃げるように店の出口に向かって歩き出した。
僕は思わず若い僕の前に立ちふさがった。
「話しかけてみたら、いいんじゃないかな」
若い僕は驚いて顔を上げた。
彼は僕の顔をまじまじと見つめた。
生真面目な顔のままくるりと振り返ると、薫はまだそこに立っていた。
若い僕は深く息を吸い込んで言った。
「あの……その本、お好きなんですか」
薫がぱっと笑った。
僕は二人の背中を見送った。
僕が今やったことは何だ。過去を変えたのか、それとも最初からこうなっていたのか。
けれど、ひとつだけはっきりしたことがあった。
あの日の白髪の老人は、間違いなく僕だったのだ。


七章 パラドックスの入口
その後の数週間を、僕は一九八二年の東京で過ごした。
若い僕と若い薫を見守りたかったからだ。二人はあの日の古書店から少しずつ近づいていった。僕は遠くからそっとその様子を眺めた。
そしてある日、僕はあの恐ろしい考えにたどり着いてしまったのだ。
薫の病気を知っている。五十一歳の腹部の違和感から亡くなるまでの経緯を、僕はすべて知っている。
なら今、彼女に伝えられる。若い今のうちから定期的に検診を受けなさい、と。
その夜、僕は旅館の部屋でひとりノートを広げた。千早が持たせてくれた小さなノートだ。
――もしパラドックスに出会ったら、まず落ち着いて整理してみてください。
千早の筆跡を確かめ、僕はペンを取って書き出した。
もし僕が若い薫に未来の病気を警告したとする。彼女は検診を受け、病気は早期に発見され生き延びる。
すると、どうなる。
薫は死なない。僕は十二年間の孤独を経験しない。オーブを見なければ千早と再会することも、時間を遡ることもない。
つまり、僕は今ここにいない。
堂々巡りだ。祖父殺しのパラドックスの恋愛版だった。
そのとき部屋の隅にぼんやりと光が灯った。玉だった。
「……君も、来たのか」
玉はゆらゆらと僕の顔の前に近づいてきた。そしてそこに映像が浮かんだ。
窓際にあちらの薫が立っていた。今度はほんのかすかに声が聞こえた。
「遼一さん」
「薫」
「聞こえるわ。あなた、どこにいるの」
「一九八年だ。君と僕が出会った年にいる」
映像の中の薫は驚いた顔をして、それからゆっくりと微笑んだ。
「そう。やっぱり、あなたも行ったのね。私もずっとあの日のことを考えていたの。あなたが店を出ていこうとして、そのとき白髪のおじいさんがあなたに何か言ったのを」
僕の背筋を冷たいものが走った。
「あちらの世界にも、いたのか。白髪の老人が」
「ええ。あなたが私に話しかけたのはあのおじいさんのおかげ」
薫は涙を浮かべた。
「遼一さん。あれはあなただったのね」
そうか。二つの世界のどちらにも、あの白髪の老人はいたのだ。
「薫。もしかして君の世界の僕も同じ場所にいる」
「ええ、たぶん。そして二人とも同じ恐ろしい考えを抱えているはず」
「病気の警告」
「そう。あちらのあなたは、たぶんこう考えているはず。今自分が死ぬ運命を変えれば、私をひとりにしないで済むって。……遼一さん、私、思うの。それはしてはいけないことなんじゃないかって」
「どうして」
「だって、私たちがこうして出会えたのは失ったからでしょう。失わなければ、私たちは二つの世界に分かれることはなかった」
薫はそう言って僕に微笑みかけた。
「だから、失ったことをなかったことにしないで。あなたが私を想ってここまで来てくれたこと。それが私には何よりの答えなの」
映像は静かに消えていった。
窓の外で春の雨がしとしとと降りはじめていた。


八章 川べりの一言
雨は三日間降りつづいた。
四日目の朝、雨が上がった。
僕は決めた。もう二人の邪魔はしない。病気のことも何も言わない。
この時代の空気を心ゆくまで味わって、そして帰ろう。
僕は最後に神田川のほとりへ向かった。
川べりのベンチには先客がいた。薫だった。
彼女はひとりで膝の上に本を開いていた。『アインシュタイン 相対性理論の世界』。
僕は引き返そうとした。
「あの」薫が顔を上げた。「いつも私たちを見ていらっしゃいましたよね」
「……すみません」
「いえ、責めているんじゃないんです。あなた、遠くからとても優しい目で見ているから」
彼女は自分の隣をぽんぽんと叩いた。
「よかったら座りませんか」
僕はベンチの端に腰を下ろした。
「遼一くんのこと、ご存じなんですか」
「……まあ、少し」
「あの人、不器用でしょう。でも話していると、とてもまっすぐな人だって分かるんです」
薫はふと僕の顔をじっと見つめた。
「あなた、どこか遼一くんに似ていますね。目元が。笑うと目がなくなるところが」
僕は思わず笑った。すると薫は優しく微笑んだ。
「ほら、やっぱり」
風が吹いた。桜の花びらがはらはらと二人の膝に降りかかる。
けれど、言葉はこぼれてしまった。
「薫さん」
「はい」
「体を大事にしてください。これから先、どんなに大丈夫だと思っても、年に一度は必ず検診に行ってください」
薫は目を丸くした。
「……変なことを言ってすみません」
僕は慌てて立ち上がった。
「待って」
薫が僕の袖をつかんだ。
「あなたは私の未来を知っているの?」
その問いに、僕は答えられなかった。
しばらくの沈黙のあとで、薫は静かに手を離した。
「分かりました」
「え」
「約束します。毎年ちゃんと検診に行きます。あなたがそんなに真剣な顔で言ってくれたから」
僕の目から涙がこぼれ落ちた。薫は何も言わずにハンカチを差し出した。
白い綿のハンカチ。すみっこに小さく「か」と刺繍がしてあった。
「泣いていたから」と薫は小さく微笑んだ。
その夜、僕は旅館の部屋で頭を抱えていた。なんてことをしてしまったんだ。
けれどそのうちに、ふと一つの小さな疑問が浮かんだ。
僕はなぜ薫のあのハンカチを持っていたのだろう。
あのハンカチは僕が若いころ薫からもらったものだ。「昔、泣いていた人にあげたから手元にない」と彼女は笑っていた。僕はずっと、若い僕が何かの拍子に泣いてしまった日のことだと思っていた。
けれど違ったのだ。あのとき泣いていたのは、白髪の老人の僕だった。
つまりハンカチはもともと世界に一つしかなかった。終わりのない環だった。
僕は少し笑った。どこにも矛盾はなかった。すべては最初から決まっていたのだ。
窓の外で玉たちがふたたび僕の周りに集まりはじめていた。
「そうか。帰る時間か」
僕は目を閉じた。
間章 千早の七日間
先生が居間から消えた瞬間のことを、私――三浦千早は、一生忘れないと思う。
居間の中央に立った先生の周りで光の玉たちがゆっくりと渦を巻いた。やがて白い光の柱のようになった。
次に目を開けたとき、そこには誰もいなかった。畳の上に先生のスリッパだけが揃えて置かれていた。
一日目、私は先生の家に泊まりこんだ。
二日目、玉たちはほとんど動かなかった。
三日目、母から電話があった。「もし大切な人が遠い場所に行ってしまって、いつ帰ってくるか分からないとしたら、お母さんならどうする」
母は少し黙ってから言った。「待つわよ。ご飯を炊いて」
私は電話を切ったあと、米を研いだ。
四日目、五日目。私は毎晩ご飯を炊いて味噌汁を作った。誰も食べないのに二人分。
六日目の夜、私はついに泣いた。そのとき私の膝の上にふわりと玉が降りてきた。温かかった。
七日目の夕方。
居間で大きな風のような音がした。
駆けつけると、そこに先生が立っていた。
白髪で、少し痩せて、右手に白いハンカチを握りしめて。
私はその場にへたり込んだ。
「よかった……本当に、よかった」
そして台所から湯気の立つ味噌汁をふたつ運んできた。待っていてよかった、と心から思った。


九章 薫の日記
目を開けると、そこは僕の家の居間だった。
夕暮れの光がカーテンの隙間から細く差し込んでいる。千早が台所から駆けてきた。彼女の目は真っ赤だった。
僕は右手に握りしめていたものを見た。
白い綿のハンカチ。すみっこに「か」の刺繍。
「……薫からもらった。二十歳の薫さんから」
そして僕はポケットに入れていたお守りを千早に返した。
「ありがとう。これのおかげで帰ってこられた」
食事が終わってから、僕は千早にすべてを話した。千早は静かに聞いていた。そして話が終わると、ぽつりと言った。
「先生、ひとつ確かめたいことがあります。薫さんの遺品はまだお家にありますか。日記とか、手帳とか」
僕ははっとした。
薫は日記をつけていた。毎晩寝る前に小さなノートにその日のことを書きこんでいた。
「寝室のたんすのいちばん下の引き出しだ」
引き出しの中にはノートがぎっしりと並んでいた。一九八四年から二〇一四年まで、三十一冊。
僕はその中から一九九〇年のノートを取り出した。
――三月十四日。晴れ。今日は遼一さんに内緒で病院に行ってきた。年に一度の検診。これだけは絶対に欠かさないと決めている。
僕はその一行を何度も読み返した。
――先生に「もう少し遅かったら危なかったですよ」と言われた。小さなポリープが見つかったの。
三十歳。薫は三十歳のときに病気を見つけていたのだ。
そしてそのページの最後にはこう書かれていた。
――怖かった。でも思い出したの。二十歳のときに神田川のほとりで会った、あの白髪のおじいさんのこと。あのおじいさんは誰だったんだろう。あの人があの日私に「体を大事に。年に一度は必ず検診に」と言ってくれなかったら、私は今日病院には行かなかった。
僕は声を上げて泣いた。
「あのとき僕が言ったことは、彼女を救っていたのか」
「はい」千早は静かにうなずいた。「先生は薫さんの運命を変えたんじゃありません。もともとその言葉があった上で、薫さんの人生は成り立っていたんです」
僕はページをさらにめくった。
――今日、またあの日の白髪のおじいさんのことを思い出した。あの人は今どこで何をしているんだろう。幸せに暮らしていればいいな。
僕はその一行を指でなぞった。
「幸せに暮らしているよ」小さな声で僕は言った。「薫、君のおかげで僕はこんなにも幸せだった」
窓の外はすっかり暗くなっていた。
そして部屋いっぱいに浮かぶ玉たちはそのとき、これまでにないまぶしいほどに輝いていた。


十章 二つの窓辺
薫の日記を読み終えるのに三週間かかった。
その間に、家の中の光の玉は少しずつ数を減らしはじめていた。
「たぶん役目を終えつつあるんだと思います。二つの世界が結ばれる必要がなくなってきたから」
千早は寂しそうに笑った。
「先生、私、論文を書こうと思っています。量子もつれと人間の想いの相関について。もちろん査読には通らないでしょうけど」
「通らなくてもいい」
「はい。通らなくても書いておきたいんです」
六月の晴れた日曜日、僕は千早と一緒に薫の墓を訪ねた。十二年ぶりの墓参りだった。
「薫、君の日記を全部読んだよ。ありがとう、二十三年間僕と一緒にいてくれて」
そのときだった。
一羽の白い蝶がふわりと僕の肩に留まった。そしてその羽の上にほんの一瞬、乳白色の玉と同じ色の光が灯った。
「……薫?」
蝶はしばらくのあいだ僕の肩で静かに羽を休めたあと、ふわりと空へ舞い上がっていった。
偶然だ、と物理の教師の僕は言う。けれどそれが偶然であっても構わない。意味のある偶然なのだから。
その晩、最後の交信があった。
千早が帰ったあとの静かな居間。窓際のいちばん大きな玉がゆっくりと僕の前に降りてきた。
そこに映ったのはあちらの薫だった。隣に若い女性が立っている。
「私の教え子だった子。三浦千早さん」
僕は目を見張った。
「ええ、あちらの千早さんもオーブの研究をしていたの。……遼一さん、私、あなたの日記を読んだわ。あなたが亡くなったあとに見つけたの」
彼女はそっと微笑んだ。
「私たち、鏡ね。あなたは私の日記を読んで泣いた。私はあなたの日記を読んで泣いた。私たちの世界はこれからまた離れていく。でも悲しまないで。私たちはもう繋がっているから。一度もつれた糸は、どれだけ離れても決してほどけないもの」
薫は窓の外を指さした。
「毎年柿の実が赤く熟れる頃、二人で庭に出ましょう。あなたはそちらの庭で、私はこちらの庭で、同じ柿の木を見上げるの。そうすれば私たちは、ずっと一緒よ」
僕の頬を涙が静かに伝った。
「約束する」
薫の像はゆっくりと薄くなっていく。
「遼一さん。ありがとう。あなたを好きになってよかった」
それが最後の言葉だった。
終章 柿の実の熟れるころ
それから季節はゆっくりと巡った。
玉の数は日を追うごとに少しずつ減っていった。七月には十個、八月には五個、九月には二個。
千早は相変わらず週末に僕の家に来た。けれど装置を持ってくることはなくなった。代わりに大学の帰りに買った和菓子の箱を提げてきた。
僕たちは縁側に座ってお茶を飲んだ。庭の柿の木には青い実がぎっしりとついていた。
十月の終わり、庭の柿がようやく赤く色づいた。
僕は縁側に出て柿の木を見上げた。
「薫、今年も実ったよ」
答えはなかった。けれど僕には分かっていた。今この瞬間、遠い遠い場所でもうひとりの薫が同じ木を見上げている。
僕は脚立を庭に運んだ。
「君はいつも言っていたな。あなたは高いところが怖いくせにって。でも今年は僕が取るよ。君の分まで」
そう言って一段、また一段と上っていった。
そのとき、ふと視界の端に白いものが映った。
脚立のいちばん上の段に、乳白色の光がひとつ浮かんでいた。最後の玉だった。
玉は僕の目の前までゆっくりと降りてきて、そこで静かに揺れていた。
そしてその中にぼんやりと映るものがあった。あちらの庭で同じように柿の木を見上げている薫。
彼女は微笑んでいた。そして手を大きく振った。
僕も手を振った。
僕はいちばん熟れた実をそっともぎ取った。それを玉の前にかざした。
「見えるか。今年いちばんの柿だ」
玉の中の薫はうなずいた。そして両手を口元に当てて何かを叫んだ。
音は聞こえなかった。けれど僕にははっきり分かった。
――ありがとう。
僕も叫んだ。
「こちらこそ!」
その瞬間、玉が一度だけまばゆく輝いた。光はやがて静かに薄れていった。
玉はもうどこにもいなかった。けれど不思議と寂しくはなかった。僕の胸の奥には確かにあの光が灯っていた。
もつれた糸はほどけない。どれだけ離れていても、どれだけ時が流れても。
そのとき、家の中から電話の鳴る音が聞こえた。
受話器を取ると、聞き慣れた声が言った。
「先生、三浦です。今、先生のことを考えていたんです」
僕は思わず笑った。
「奇遇だね。先生、今日、柿は熟れましたか」
「ああ、とびきりのものがひとつ取れた。よかったら取りに来ないか。一緒に食べよう」
「はい、すぐに伺います」
電話を切って僕は縁側に座った。
手のひらの中の柿はほんのり温かかった。まるで誰かの手のひらのように。
人の一生は偶然の一致だらけで、そのすべてに意味がある。
証明はできない。ただの想像かもしれない。
けれど僕は強く思ってみる。
あの日あの本屋で二つの手が触れ合ったこと。
あの春、川べりでひとつの言葉が交わされたこと。
あの秋、二つの庭で同じ木が見上げられたこと。
そのすべてが見えない糸で繋がって、いまも僕を包んでいるのだ。


ー了ー



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あとがき
この物語の主人公である榊原遼一は、六十五歳の元物理教師です。モデルになった特定人物はいません。ただ、僕の周りにいた口数の少ない、でも目だけはよく笑う、そんな恩師たちの面影を重ねました。
三浦千早は、僕がずっと書きたかった研究者の姿です。「分からない」を素直に受け入れ、探究心を糧に一歩ずつ確かめていく姿勢が、途切れてしまった物語をふたたび動かす原動力になってくれました。
作中に登場するアインシュタインの手紙の一節は、彼が親友の死に際して実際に遺した言葉です。「過去、現在、未来の区別は、ただの頑固な幻想にすぎない」。冷酷にも思えるこの物理の法則に、僕は深く救われました。
失ったものは消えてしまうのではない。時空の織物のどこかに、今も確かに在り続けている。そう捉え直すことで、残された日々は少しだけ温かさを取り戻します。
あなたの大切な人との間にも、きっと、ほどけない糸が伸びているはずです。