2/2 共時の海で、もう一度
ーー時空をこえる恋の物語ーー
十二 帰還
最初に戻ってきたのは、音だった。
雨の音。
屋根を叩く、細かな雨粒の音が、遠くから、少しずつ近づいてくる。
澪は、ゆっくりと、目を開けた。
見慣れた、けれど、さっきより少し古びた天井。壁際に積まれた機材。配線だらけの棚。床に這う、太いケーブル。
夕凪岬の観測所の、中だ。
床に、座り込んでいた。
目の前の円環は、もう、回っていなかった。金属の輪は静かに床に降り、内側の光の膜は消えて、ただの、錆びかけた機械の残骸に戻っている。
壁の時計を見る。
二十三時十二分。
たった一分。
あの、長い長い夜は、この世界では、たった一分の出来事だったのだ。
「……朔」
呼んでみる。
返事は、ない。
澪は、立ち上がろうとして、膝が笑っているのに気づいた。壁に手をついて、ゆっくりと体を起こす。
首に、まだ、灰色のマフラーが巻かれていた。
それを、両手で、ぎゅっと握る。毛糸の先に、潮の匂いが、かすかに混じっていた。
夢では、なかった。
装置の土台に、澪は、近づいた。
円環を支える、三本の金属の足。そのうちの、右の足。
膝をついて、根元を覗き込む。
コンクリートの台座と、金属の脚のあいだに、小さな隙間があった。指を差し入れると、何か、紙のようなものに触れた。
ゆっくりと、引き出す。
薄い、茶色の封筒だった。
長い年月を経て、端が黄ばんでいる。表に、見慣れた字で、こう書かれていた。
〈二〇二六年九月二十九日の、澪へ〉
澪の手が、ふるえた。
若い朔が、あの夜、書いたものだ。七年前、星空の下で、約束したもの。
封を、丁寧に開ける。
中から出てきたのは、便箋が三枚。
インクの色は、少しにじんでいた。
〈澪さんへ。
この手紙を読んでいるあなたは、たぶん、少し泣いた顔をしているんじゃないかと思います。
あなたに名前を聞かなかったのは、聞いたら、あなたが去ってしまう気がしたからです。でも、本当は、聞かなくても、わかっていました。
あなたは、僕が、これから好きになる人です。
そして、これから、あなたを、悲しませてしまう人です。
どうしてそう思うのかは、わかりません。ただ、あなたの目を見たとき、そう感じました。あなたの目には、長い時間、誰かを待っていた人の光がありました。
僕は、待たせてしまうのでしょう。
それでも、僕は、たぶん、同じことを、もう一度やります。
あなたを好きになる。あなたを、笑わせる。あなたに、怒られる。あなたと、けんかをする。
全部、やります。何度でも。
もし、僕が、あなたを傷つける結末を知っていたとしても。
なぜなら、その結末は、僕にとって、あなたに出会えたことの、代金ではなく、贈り物だからです。
偶然は、まだ名前をもらっていない必然。
あなたに出会えた、この夜の偶然の名前を、僕は、決めました。
愛、と呼びます。
どうか、もう、自分を責めないでください。
あなたが、あの人にかけた、最後の言葉が、なんであっても、その人は、あなたの気持ちを、ちゃんとわかっていたはずです。
だって、僕なら、わかるから。
二〇一九年八月十七日 桐生 朔〉
澪は、便箋を胸に抱いて、床に座り込んだ。
声を殺して、けれど、こらえきれずに、泣いた。
三年間、澪の胸の奥に、固く握りしめられていたものが、ゆっくりと、指の力をほどいていくような気がした。
雨が、屋根を、やさしく叩いている。
窓の外、暗い海の上に、小さな光が、いくつも、静かに浮かんでいた。
白くやわらかい、丸い光。
「……ありがとう」
澪は、その光に、微笑みかけた。
「ちゃんと、届いたよ」
光の粒は、窓のすき間から、ふわりと入りこんで、澪の肩に、そっと触れた。
そして、ぬくもりだけを残して、闇の中に溶けていった。
終 共時の海
翌朝、澪は、雨上がりの、まぶしい光で目を覚ました。
自分の部屋の、自分のベッドの上だった。
昨夜、どうやって帰ってきたのか、ほとんど覚えていない。観測所を出たあと、通りかかったタクシーを拾って、運転手に住所を告げた気がする。あの運転手が、最初のタクシーと同じ人だったのかどうかは、もう、わからない。
けれど、枕元には、あの茶色の封筒が置かれていた。
首には、灰色のマフラー。
すべて、現実だった。
澪は、起き上がって、窓を開けた。
朝の空気は、澄んでいて、冷たくて、少しだけ、秋の匂いがした。
窓辺のかすみ草が、朝日の中で、白く光っている。
「おはよう」
そう、声に出して言ってみた。
いつもの、返事のない朝の儀式。
けれど、今朝は、不思議と、部屋の空気が、あたたかかった。
その日の午後、澪は、ひさしぶりに、仕事場を開けた。
作業机の前に座り、モニターを起動する。
あの写真が、まだ、画面に開いたままだった。
夕暮れの海。白い壁。怒った横顔の自分。
頬のそばの、光の粒。
澪は、その粒を、ゆっくりと、見つめた。
昨日までは、埃かもしれない、と思っていた。
でも、今は、はっきりとわかる。
これは、朔だ。
この写真を撮った瞬間、二〇二三年九月二十九日の夕方、あの光は、すでに、澪のそばにいたのだ。事故に遭うより、何時間も前に。
きっと、あのとき、朔の想いは、すでに、澪のもとへ向かっていたのだろう。
時間の順番よりも、ずっと早く。
「ばか。最初から、そばにいたんじゃない」
澪は、笑って、鼻をすすった。
それから、写真を、ゆっくりと、プリントした。
大きめの紙に、丁寧に、色を整えて。光の粒は、消さずに、そのまま残して。
出来上がった写真を、額に入れる。
作業室の、いちばん目立つ壁にかけた。
光が、ちょうど、窓からの陽射しを受けて、きらりと輝いた。
夕方、電話が鳴った。
見知らぬ番号だった。
「はい。澪標写真修復室です」
『……あの、水野澪さん、でしょうか』
年配の女性の声だった。少し、かすれている。
『朔の、母です』
澪は、受話器を持つ手に、力を込めた。
「お義母さん」
『ごめんなさいね、突然。あの、なんだか、今日、急に、あなたのことが気になって。今日は、あの子の命日だったでしょう。昨日、だったかしら』
「いえ。昨日でした。あの、お墓には」
『行ってきたのよ。ゆうべの夜、なんだか、胸騒ぎがして、眠れなくて。朝になってから、あの子の荷物を、もう一度、見てみたの』
母の声が、少し詰まった。
『そうしたら、あの子の鞄の、いちばん奥の底に、封筒が出てきて。あなた宛てだったの。ずっと、開けられなくて、しまい込んでいたのに。見落としてたのね。三年も』
澪は、目を閉じた。
〈鞄の底に、封筒を入れてある〉
夜明け前の、朔の声が、耳の奥に蘇った。
「お義母さん、今から、伺っても、いいですか」
『もちろん。もちろんよ。お茶を、用意して待ってるわ』
電話が切れたあと、澪は、しばらく、動けなかった。
窓の外を見る。
夕暮れの空。
雲の切れ間から、金色の光が差していた。
その光の中に、小さな粒が、一つ、ふわりと、舞っていた。
朔の実家の、居間のテーブルの上に、その封筒は置かれていた。
小さな、白い封筒。宛名は〈澪へ〉。
朔の母は、お茶を淹れると、そっと席を外してくれた。
澪は、ひとりになって、封を切った。
中には、カードが一枚と、小さな箱が入っていた。
カードには、ボールペンで、短い言葉が書かれていた。
〈澪へ。
勝手に決めてごめん。今度は、ちゃんと聞くよ。
君は、どこへ行きたい?
どこでもいい。一緒に行こう。
?
日付は、二〇二三年九月二十九日。
事故の、当日。
澪は、震える手で、小さな箱を開けた。
中には、指輪が入っていた。
細い銀の輪の内側に、小さく、文字が刻まれている。
〈偶然に、名前を〉
「……ばか」
澪は、笑いながら、泣いた。
「ばか。ばかだよ、朔。こんなの、反則」
窓の外は、すっかり夕暮れになっていた。
台所から、朔の母が、鼻をすする音が、かすかに聞こえた。
澪は、指輪を、左手の薬指に、ゆっくりと、はめた。
サイズは、驚くほど、ぴったりだった。
彼は、いつ、測ったのだろう。眠っている間に、そっと、糸でも巻いたのかもしれない。そういう、人だった。
指輪が、夕陽を受けて、きらりと光った。
そのすぐそばに、白い粒が、ひとつ、浮かんでいた。
帰りぎわ、玄関で靴をはいていると、朔の母が、澪を呼び止めた。
「あのね、澪さん。ひとつだけ、話しておきたいことがあるの」
「はい」
「あなたと付き合いはじめたころ、あの子が、実家に帰ってきてね。突然、こんなことを言ったの」
朔の母は、遠くを見るような目をした。
「『母さん、澪標って、知ってる?』って。船が迷わないように、海に立てておく杭のことでしょう、って私が答えたら、あの子、嬉しそうに笑ってね」
澪は、息をのんだ。
「『その名前の人が、いるんだ。迷ったときの、目印みたいな人。僕にとっても、そうなる気がする』って」
「……朔が」
「あの子は、迷いやすい子だったから。星ばかり見て、足元を見ないで。でもね、あなたと出会ってから、いつも、行き先を、ちゃんと知っている顔をしてた」
朔の母は、澪の手を、両手で包んだ。
「ありがとうね。あの子を、迷わせないでくれて」
澪は、何も言えなかった。ただ、深く、頭を下げた。
顔を上げたとき、玄関の白い灯りの下で、小さな光の粒が、ふたりのあいだを、ふわりと横切った気がした。
朔の母は、それには気づかなかったようだった。けれど、ふっと、やわらかく、目を細めた。
「今夜は、なんだか、あたたかいわね」
夜、家に戻ってから、澪は、ベランダに出た。
秋の澄んだ空に、星が、ぽつりぽつりと、瞬いている。
昨夜の夜空とは、違う星座。違う季節。
けれど、そのどれもが、昨夜の、あの星たちの、続きのような気がした。
「ねえ、朔」
澪は、空に向かって、呼びかけた。
「私ね、また、仕事を、がんばるよ。たくさんの人の、大事な写真を、光に戻す仕事」
風が、やさしく、頬を撫でた。
「あなたが、言ってくれたから。あなたの写真は、いつか、たくさんの人の、大切なものを守るって」
いや、それを言ったのは、自分だった。
あの夜の岩場で、若い自分に向かって。
けれど、澪は、思った。
それは、もしかしたら、朔の言葉だったのかもしれない。彼が、遠い時間の向こうから、自分の口を借りて、言わせたのかもしかもしれない。
どちらでも、いい。
因果の鎖のどこから始まったのか、もうわからなくても、意味だけは、確かに、ここにある。
澪は、指輪に、そっと唇を寄せた。
「これからも、ときどき、思うね」
彼女は、微笑んだ。
「あなたのこと。夢にも、見るね。そのたびに、誰かから、連絡が来たら、あなただと思うことにする」
そのとき、澪の胸ポケットで、スマートフォンが、短く震えた。
画面を見る。
差出人は、〈朔〉ではなかった。
商店街の花屋の、店主からだった。
〈澪さん、こんばんは。今日、あなたが以前ほしいと言っていた、白い花の名前を、思い出しました。かすみ草ではなくて、「ハクチョウソウ」という花でした。今度、お店で見せますね〉
「……ふふ」
澪は、思わず、吹き出した。
名前を、忘れていた花。
朔が好きだと言っていた、名前も知らない花。
それが、ちょうど、今、この夜に、名前を教えてもらえた。
偶然だろうか。それとも。
「そうだね」
澪は、夜空に向かって、そっと言った。
「あなたなら、こう言うよね。『偶然は、まだ名前をもらっていない必然だよ』って」
風が、ふわりと、澪の髪を揺らした。
その風の中に、微かに、笑い声が混じった気がした。
銀河の、遠い遠い向こうから、届いた光のように。
澪は、目を閉じて、しばらく、そのぬくもりの中に、立っていた。
そして、静かに目を開けると、夜空を見上げて、言った。
「ありがとう。おやすみ、朔」
流れ星が、ひとつ、空を渡っていった。
その光は、何万年も前に生まれ、今夜、ようやく、澪の目に届いた。
人の一生は、偶然の一致だらけで、そのすべてに、意味がある。
そして、強い想いは、ときどき、届くことがある。
夜の海のように深く、星の光のようにやさしく。
後日譚 二〇二七年、八月十七日
一年後の夏、澪は、ふたたび、夕凪岬を訪れた。
観測所は、この一年のあいだに、少し、姿を変えていた。
朔の同僚たちが、研究所と掛け合って、この場所を、小さな公開天文台として残すことにしたのだという。円環の装置は、慎重に解体され、その部品の一部が、入口の展示ケースに、静かに収められていた。
ケースのそばには、朔の写真と、彼が書いたノートの複製が、飾られている。
〈偶然は、まだ名前をもらっていない必然〉
その一行だけが、大きく、壁に書かれていた。
澪は、その前で、しばらく、立ち止まった。
夜。
前庭には、小さな望遠鏡が、いくつも並んでいた。
ペルセウス座流星群の、極大の夜。近所の子どもたちや、家族連れが、毛布を敷いて、空を見上げている。
澪は、三脚を立てて、カメラを構えた。
シャッターを切る。
露光は、少し、短めに。あの人が、教えてくれた通りに。
「お姉さん、何を撮ってるの?」
ふいに、小さな声がした。
振り返ると、十歳くらいの女の子が、毛布にくるまって、こちらを見ていた。
「星、だよ」
「うまく、撮れた?」
「うん。今夜は、ちょっとだけ、上手に撮れてる」
澪が笑うと、女の子は、少し、首をかしげた。
「あのね」
「なあに?」
「お姉さんと、初めて会った気がしないの。どうしてかな」
澪は、はっとした。
女の子は、無邪気に、続けた。
「夢で、会ったのかな。首に、灰色のマフラーを巻いてた」
夏の夜だというのに、澪の首には、朔のマフラーが、ゆるく、巻かれていた。
「……そうなんだ」
澪は、静かに、女の子の隣に、しゃがんだ。
「ねえ。いいこと、教えてあげる」
「なに?」
「人の一生は、偶然の一致だらけでね。そのすべてに、意味があるの」
女の子は、目を丸くした。
「強い想いは、ときどき、届くことがある。あの人のことを考えたり、夢に見たりした直後に、連絡が来たことって、ない?」
「あるよ! この前、おばあちゃんのこと考えてたら、電話が来た」
「でしょう」
澪は、微笑んだ。
「それはね、もしかすると、光の粒が、運んでくれたのかもしれない」
「光の粒?」
「うん。とっても小さくて、あたたかい光。写真に、ときどき、写るの」
女の子は、しばらく、考えてから、にっこり笑った。
「じゃあ、私、探してみる」
「うん。見つかったら、教えてね」
澪は、女の子の頭を、そっと撫でた。
その夜、遅く。
澪は、撮り終えた写真を、カメラの液晶で、ひとつずつ、確認していた。
満天の星。流れる白い軌跡。それから、前庭で笑う、子どもたちの横顔。
その中の、一枚の端に。
小さな、白い光の粒が、ふたつ、寄りそうように、浮かんでいた。
ひとつは、少し大きく、あたたかい色で。
もうひとつは、その隣で、少し遠慮がちに、瞬いている。
「……ふたり、いるじゃない」
澪は、笑った。
写真の中の二つの光に、そっと指で触れる。
――朔。
――私、ちゃんと、今日を生きてるよ。
その瞬間、頬を、あたたかい風が、そっと撫でた。
夏の夜の空に、流れ星が、また、ひとつ、静かに落ちていった。
ー了ー
あとがき
この物語は、「共時性(シンクロニシティ)」という言葉から生まれました。
心理学者のカール・グスタフ・ユングと、物理学者のヴォルフガング・パウリが、心と物質の世界をつなぐ「意味のある偶然の一致」について、共に考えたことは、実際の歴史です。
作中に登場する「量子もつれ」や「時間を越える窓」は、物語のための空想であり、現実の科学では、遠く離れた人に想いを伝えたり、過去へ移動したりすることはできません。写真に写る光の粒(オーブ)の多くも、舞う埃や水滴が光を反射したものと考えられています。
それでも、大切な人のことを思った直後に、その人から連絡が来た。そんな不思議な体験を、誰もが一度は持っているのではないでしょうか。
科学が説明できない場所に、人は、意味を見つけようとします。そのやさしさを、私は、信じてみたいと思いました。
完全なものよりも、ほんの少し傷を抱えたものに愛おしさを感じるように。形あるものは消えてしまっても、想いが残した波紋は、時間を越えて誰かの心を温め続けます。
この本を開いてくださったあなたに、今夜、ほんの小さな、幸せな偶然が訪れますように。
あらすじ
古い写真を修復する仕事をする水野澪には、どうしても消せない写真がある。3年前の9月29日、恋人の桐生朔が事故で亡くなる直前に撮影した自分自身の写真。そこには、彼女の頬のそばに浮く、不思議な白くやわらかな「光の粒」が写っていた。
朔の命日である2026年9月29日の夜。失意のまま過ごす澪のもとに、解約されているはずの朔のスマートフォンから一通のメッセージが届く。
「今夜十一時十一分、夕凪岬の観測所へ来てほしい。渡したいものがある」
雨の中、導かれるように向かった観測所で澪が目にしたのは、朔が遺した時空を越える装置〈共時窓〉だった。光の中に足を踏み入れた澪が辿り着いたのは、二人が初めて出会った「2019年8月17日」の夜——。
原因と結果ではなく「意味」でつながる時空の海で、解き明かされるいくつもの必然。切なくも美しい、時を越える愛の物語。

