1/2   共時の海で、もう一度

ーー時空をこえる恋の物語ーー



まえがき
月は、夜ごとにその姿を変える。
満ちる夜もあれば、欠ける夜もある。まんまるの満月は美しいが、その一日あとの、ほんの少しだけ欠けた月──十六夜の月に、なぜか心を惹かれることがある。
完全なものより、少し傷を抱えたもののほうが、長く記憶に残ることがある。老いも、過去の後悔も、会えないままの誰かのことも。
写真の修復をしていると、消してしまえる傷と、消してはいけない傷があることに気づかされる。
これは、時の波にさらわれそうになりながらも、消えずに残り続けた、ひとつの「光」の物語。




序 光の粒
写真には、ときどき、写ってはいけないものが写る。
水野澪(みずの みお)は、それを知っている。古い写真を修復することを仕事にして、もう十年になるからだ。
黄ばんだ紙、割れた乳剤、カビ、指紋、色あせた空。澪はそれらを一枚ずつ、拡大して、丁寧に消していく。消してはいけないものだけを残して。
けれど、消していいのか迷うものが、ひとつだけある。
光の粒だ。
フラッシュに舞う埃だと、人は言う。水滴や、レンズの汚れだと。たしかに、ほとんどはそうなのだろう。澪自身、科学の言葉で説明されたら、素直にうなずく。
それでも、一枚の写真だけは、どうしても消せずにいる。
三年前の九月二十九日。海辺の旧い観測所の前で、桐生朔(きりゅう さく)が最後に撮った、澪の写真。
夕暮れの光のなかで、澪は少し怒った顔をして、横を向いている。その頬のすぐそばに、白くやわらかい光の粒がひとつ、浮かんでいる。
まるで、誰かが、そっと触れようとしているみたいに。
朔はよく言っていた。
「偶然はね、まだ名前をもらっていない必然なんだよ」
その言葉の続きを、澪はまだ、聞いていない。



一 命日
二〇二六年九月二十九日。火曜日。
朝から、空は水を含んだような灰色をしていた。
澪は目を覚ますと、しばらく天井を見つめていた。カーテンの隙間から入る光が、床に細い線を引いている。枕元のスマートフォンが、六時四十分を表示していた。
今日が、何の日か。
考えなくても、体が知っている。三年に一度どころか、毎年、この日の朝は胸の奥がほんの少し重い。重さは年ごとに形を変えて、鋭さが丸くなって、それでも消えはしなかった。
「……おはよう」
誰もいない部屋に、澪は声を出してみた。返事がないことを確かめるための、朝の儀式のようなものだった。
澪の仕事場は、古い商店街の外れにある。
祖母が営んでいた写真館を継ぐかたちで、小さな作業室を構えた。看板には〈澪標(みおつくし)写真修復室〉とある。祖母がつけた名前だ。澪標とは、昔、船が迷わないように海に立てた杭のことだという。
「あんたの名前も、そこからもらったんだよ。人が迷ったときに、ここだよって知らせる杭さ」
祖母はそう言って笑った。その祖母も、もういない。
この日、澪は午前中に一件の依頼を終わらせ、昼過ぎには予定をすべて空にした。毎年そうしている。今日は仕事をしない。そう決めていた。
けれど、作業机の前に座ってしまうのも、毎年のことだった。
モニターに、あの写真を呼び出す。
夕暮れの海。錆びた観測所の白い壁。怒った横顔の自分。そして、頬のそばの光の粒。
澪は、拡大した。三百パーセント、五百パーセント。粒の縁が、ぼんやりとほどけていく。
「やっぱり、ただの埃、かな」
つぶやいてから、首を振る。
埃にしては、輪郭がきれいすぎるのだ。中心がわずかに明るく、まわりに淡い輪がある。輪の内側に、細かい模様のようなものが見える気もする。ずっと見ていると、それが文字にも、波の形にも思えてきて、澪は目をそらした。
あの日、自分は怒っていた。
理由は、些細なことだった。朔が海外の研究所への異動を、澪に相談もなく、ほとんど決めかけていたのだ。
「君と行きたいんだ。でも、君の仕事もあるし、言い出せなくて」
朔はそう言い訳した。澪は、そういうことじゃない、と言った。相談してほしかったのだ。悩んでいる姿を、隣で見ていたかったのだ。
「勝手にすれば」
それが、あの日、彼に向けた最後の言葉になった。
写真を撮られたのは、その少し前だ。怒ったまま、横を向いたところを、朔が笑って撮った。
「その顔も好きだよ」
そう言われて、余計に腹が立った。
その夜、朔は観測所からの帰り道に、海沿いの道で事故に遭った。
雨で濡れた路面。スリップしたトラック。即死だった、と聞いた。
澪は、通夜でも、葬儀でも、泣けなかった。泣けたのは、それから一か月も過ぎたある朝、彼の歯ブラシがまだ洗面所に立っているのを見たときだった。
夕方になって、雨が降りはじめた。
澪は商店街の花屋で、白い小さな花を買った。朔が好きだった、名前も知らない花だ。店の人は「かすみ草ですよ」と教えてくれたが、次の日には忘れてしまう。
墓参りは、昼間のうちに済ませてある。
小さな霊園は、海の見える丘の上にあった。雨の気配を含んだ風が、線香の煙を、細く、斜めに流していた。
〈桐生家之墓〉と刻まれた石の前に、澪は、しばらく、ただ立っていた。
供えられた花は、まだ新しかった。朔の母が、朝のうちに来たのだろう。
「来たよ」
澪は、しゃがんで、手を合わせた。
話したいことは、たくさんあったはずなのに、いざ石の前に立つと、何も出てこない。毎年、そうだった。三年経っても、話せる言葉は、増えなかった。
「今年も、ごめんね。何も、持ってこなくて」
かすみ草を持ってこなかったのは、夜に、窓辺に飾るつもりだったからだ。そう言い訳をしてから、澪は、自分で、少しだけ、笑った。
墓石の隅に、小さな水滴が、ひとつ、宿っていた。
その水滴が、雲の切れ間の光を受けて、一瞬、白く、きらりと光った。
澪は、目を細めた。
けれど、次の瞬間には、それは、ただの水滴に戻っていた。
部屋に戻って、花を窓辺に飾り、簡単な夕食をとった。テレビはつけなかった。雨の音と、時計の秒針の音だけが、部屋を満たしていた。
夜の十時を過ぎたころ、澪は、なんとなくスマートフォンを手に取った。
朔の連絡先は、まだ消していない。名前は〈朔〉のまま。最後のやり取りは、事故の日の午後三時。
〈今日、夕方に観測所で撮影するから、あとで写真送るね〉
その下に、澪は、返信を打っていなかった。怒っていたから。
三年間、その画面を開くたびに、澪はその空白を見つめてきた。あのとき「うん」の一言でも返していたら、何かが変わっただろうか。変わらなかっただろう。頭ではわかっている。それでも、心は、何度でも同じ場所に戻ってしまう。
「ねえ、朔」
小さく呼んでみる。
「あなたのこと、今、考えてる」
窓の外で、雨が少し強くなった。
「思ったら、届くのかな。あなたが言ってたみたいに」
朔は、量子情報の研究者だった。二つの粒子が、どれほど離れていても、互いに結びついたように振る舞うこと。その不思議さを、朔は子どものように目を輝かせて話した。
もっとも、澪には、半分も理解できなかった。それでも聞くのは好きだった。彼の声で語られると、世界は、まだ誰も名前を知らない場所に満ちているような気がしたから。
「共時性、って言葉があるんだ」
いつだったか、朔は言った。
「ユングが考えた。意味のある偶然の一致。原因と結果じゃなくて、意味でつながる出来事のこと」
「あの人のことを思っていたら、その人から電話が来る、みたいな?」
「そう。それ。ばかばかしいと思うだろ。でも、パウリっていう物理学者は、それを真剣に、ユングと二人で考えたんだよ。世界には、時間の順番だけじゃなくて、意味の順番もあるんじゃないかって」
そのとき澪は、笑った。
「じゃあ私が今、あなたのこと考えてるのも、意味の順番?」
「うん。たぶん」
朔は、まじめな顔で、そう答えたのだった。



二 十一時十一分の手紙
その通知が届いたのは、二十二時五十八分だった。
澪は、ちょうど湯を沸かしにキッチンへ向かうところで、机の上のスマートフォンが短く震えたのを、最初は気にも留めなかった。
戻ってきて、何気なく画面を見て――息が止まった。
〈朔〉
ロック画面に、その一文字だけが表示されていた。
〈メッセージ 1件〉
心臓が、耳の奥で鳴っている。
いたずらだ、と澪はまず思った。誰かが、朔の番号を引き継いだのかもしれない。解約された番号が、別人に割り当てられることだってある。
けれど、それなら名前は表示されない。この連絡先を登録しているのは、澪だけだ。
震える指で、通知を開く。
〈澪へ。
 これを読んでいるなら、きっと、雨の夜だと思う。
 今夜十一時十一分、夕凪岬(ゆうなぎみさき)の観測所へ来てほしい。
 渡したいものがある。
 光を、追いかけて。
                朔〉
澪は、その文面を、何度も読んだ。
最後まで読んで、最初に戻り、また最後まで読んだ。
送信日時の欄を見る。そこには、二〇二三年九月二十九日、十四時三十分、とあった。
事故の当日。彼が亡くなる、七時間ほど前。
「……予約送信?」
声が、かすれた。
アプリの仕様上、三年もの予約送信ができるはずがない。そもそも、こんなメッセージが届く直前まで、この画面には何もなかった。朔とのやり取りの一番下は、あの日の午後三時、〈あとで写真送るね〉のままだ。
その下に、新しいメッセージだけが、まるで初めからそこにあったような顔で、並んでいる。
澪は立ち上がって、部屋のなかを何度か往復した。
夕凪岬の観測所。
あの場所は、事故のあと、閉鎖されたと聞いた。朔が個人的に借りていた旧海軍の観測施設で、研究の実験装置が置かれていたはずだ。ご家族が片付けたのか、今もそのままなのか、澪は知らない。怖くて、行けなかったのだ。
窓の外を見る。雨。
時計は、二十三時ちょうど前を指そうとしていた。
「今夜、十一時十一分」
夕凪岬までは、電車と徒歩で、一時間半かかる。タクシーを使っても、四十分。すでに、間に合わない。
――行かなければ、後悔する。
それだけは、はっきりとわかった。
理屈ではなかった。もしこれが誰かの悪意でも、幻でも、精神の疲れが見せた錯覚でも、構わなかった。三年間、澪は、彼からの言葉を待っていたのだ。
たとえ、どんな形でも。
澪はコートをつかみ、ハンガーにかかっていた朔の遺品である灰色のマフラーを咄嗟にポケットに押し込んで、部屋を飛び出した。
雨の路地を走る。傘は、途中で忘れたことに気づいた。商店街のアーケードを抜け、大通りに出ると、運よく一台のタクシーが停まっていた。
「夕凪岬まで。お願いします」
「今からかい。雨だよ」
運転手の言葉に、澪は「急いでいるんです」とだけ答えた。
車が走りだす。ワイパーが、規則的に雨を払う。ラジオは、深夜のクラシックを小さく流している。
窓ガラスに、街の灯がにじんで流れていく。その光の粒を見ながら、澪は、あの写真の白い粒を思い出していた。
「お客さん、ずいぶん濡れてますね。これ、使って」
運転手が、後ろ手にタオルを差し出した。
「ありがとうございます」
受け取って、顔を拭く。ふと、時計を見ると、二十三時八分。
まだ、二十分以上かかる。間に合わない。
そう思ったとき、車が、急に静かになった。
エンジン音が、遠のく。ラジオの音が、水の底に沈んだように、ぼやけていく。
「……運転手さん?」
返事がない。バックミラーを見ると、運転手の目は、まっすぐ前を見つめたまま、動かなかった。
ワイパーも、止まっている。
雨粒が、フロントガラスの上で、宙に浮いたように静止していた。
澪は、ゆっくりと、窓の外を見た。
道路の先に、光が、いくつも浮かんでいた。
白くやわらかい、丸い光。ちょうどあの写真に写っていたのと同じ、輪郭のきれいな粒たち。それが、雨の中に、星のように、点々と並んでいる。
光は、道しるべのように、海のほうへと続いていた。
澪は、ドアに手をかけた。鍵は、かかっていなかった。
雨の中に降り立つと、雨粒は、彼女の体をすり抜けるように、静止したまま宙に浮いている。手で触れようとすると、水滴は、ガラス玉のように冷たく硬い。
世界が、止まっている。
自分の足音だけが、濡れた路面に、小さく響いた。
「……朔」
光の粒が、一つ、ふわりと澪の肩に近づいた。
そして、道の向こうへ、ゆっくり離れていく。
「追いかけて、って、こと?」
澪は、走り出した。



三 灯台の光
光の粒は、澪が追いつこうとすると、少しだけ先へ進み、立ち止まると、待つように揺れた。
止まった世界を、二人きりで歩いているようだった。
雨粒は、空中に無数の透明な点となって浮かんでいる。街灯の光がその一つひとつに宿り、まるで、夜空が地上に降りてきたかのようだ。澪は、そのなかを、息を切らして走った。
海沿いの道に出る。
三年前、朔が最後に走った道。
足がすくみそうになった。この先のカーブで、彼は、命を落としたのだ。澪は、そこに来るのを、三年間、避けてきた。
けれど、光の粒は、迷いなくそのカーブへ向かっていく。
「……わかった。行くよ」
自分に言い聞かせて、足を踏み出す。
カーブのところに、白い花束が置かれていた。雨に打たれ、しおれかけている。誰かが、ここに花を供えてくれているのだ。朔の母だろうか。それとも、同僚の誰かだろうか。
澪は、花の前で足を止め、小さく手を合わせた。
「ごめんね。ずっと、来られなくて」
光の粒が、彼女の周りを、ゆっくりと一周した。まるで「大丈夫だよ」と言うみたいに。
夕凪岬の観測所は、岬の突端に、静かに建っていた。
白い壁は、記憶にあるより、ずっと小さく見えた。錆びた鉄の扉。屋根の上には、円筒形の小さなドーム。昔は、海を見張るための灯台だったと、朔が話していた。その一部を、天体観測所に改造したのだという。
扉は、少しだけ開いていた。
中から、青白い光が漏れている。
澪は、息を整えて、扉を押した。
中は、想像していたよりも広かった。
天井の高い円形の部屋。壁際には、古い機材や、書類の束や、配線だらけの棚が並んでいる。床には、ぶ厚い電源ケーブルが蛇のように這っている。
その中央に、それはあった。
巨大な、円環。
直径は、三メートルほどあるだろうか。金属とガラスでできた輪が、床から少し浮いたまま、静かに回転している。輪の内側には、水面のような、揺れる光の膜が張られていた。
「これが……朔の、装置」
澪は、机の上のノートに気づいた。
表紙に、見慣れた朔の字で〈共時窓 観測記録〉とある。ページをめくると、細かい数式と、走り書きが、ぎっしりと並んでいる。
〈もつれた二つの状態のうち、片方を過去に固定できたら〉 〈情報は運べない。でも、意味は運べるかもしれない〉 〈想いの強さは、変数になりうるか?〉
その文字を、澪は、指でなぞった。
彼は、本気で、これを研究していたのだ。ずっと、澪の知らないところで。
最後のページに、こう書かれていた。
〈九月二十九日。二十三時十一分。窓が開く。
 開く先は、僕がはじめて君を見た夜。
 二〇一九年、八月十七日。
 もし君が来てくれたなら、ひとつだけ、お願いがある。
 あの夜の僕に、会ってやってくれ〉
澪の手が、止まった。
「……はじめて、私を見た夜?」
二〇一九年八月十七日。ペルセウス座流星群の極大日。澪は、その夜、写真の仕事で、この夕凪岬に来ていた。旧い灯台の写真を撮るために。
そして、そこで、朔に出会った。
はじめて会ったのは、その夜だと、澪はずっと思っていた。
壁の時計が、二十三時十分を示した。
円環の内側の光の膜が、ゆっくりと、波打ちはじめる。
肩のあたりで、さっきの光の粒が、ふるふると震えた。
「もしかして、あなたも、朔なの?」
問いかけると、光は答えるように、澪の頬に、そっと触れた。
あたたかかった。
三年前の、あの写真のなかで感じられなかったぬくもりが、確かに、そこにあった。
「私ね、あなたに、言ってないことが、たくさんあるの」
澪は、光に向かって話しかけた。涙が、頬を伝った。
「あのとき、本当は、行かないでって言いたかったの。でも、意地張っちゃって。ううん、違う。あなたと離れるのが怖かったの。怖かったのに、怒ったふりをして、それで……」
言葉は、そこで途切れた。
光の粒が、ふわりと、円環のほうへ飛んでいく。
澪は、ノートを胸に抱きしめて、その後を追った。
二十三時十一分。
円環の光の膜が、まぶしく、白く、弾けた。
澪の体は、光の中へ、静かに吸い込まれていった。



四 二〇一九年、八月十七日
最初に感じたのは、風の匂いだった。
湿った潮の香りと、夏草の匂い。そこに、昼の熱が残った石の匂いが混じっている。雨の匂いは、どこにもなかった。
澪は、ゆっくりと目を開けた。
満天の星。
見上げた空は、息をのむほどの数の星で埋め尽くされていた。その中を、白い線が、音もなく走っていく。
流れ星。
一つ、二つ、三つ。
「……本当に、来ちゃったんだ」
澪は、観測所の裏の、草むらに立っていた。足元の草が、夜露に濡れている。
建物を見上げる。白い壁は、さっきより、ずっと新しい。錆も少ない。玄関脇には、まだ、朔の手書きの札はかかっていなかった。
腕時計を見ると、針は止まっていた。スマートフォンも、圏外だ。日付は、真っ暗な画面のまま、何も教えてくれない。
けれど、澪には、わかった。
ここは、あの夜だ。
七年前の、八月十七日。
その事実が、胸の奥まで落ちてきたとき、澪はふいに、膝に力が入らなくなった。
彼が、ここにいる。
生きている、朔が。
草むらから、そっと表の道へ回る。
観測所の前庭に、二つの人影が見えた。
一人は、三脚を立て、カメラを空に向けている、若い女性。ジーンズに、白いシャツ。髪を、後ろで無造作に結んでいる。真剣な顔で、ファインダーを覗き込んでいる。
澪は、自分の手で口を押さえた。
それは、二十五歳の、自分だった。
写真の仕事に就いて三年目。まだ、修復ではなく、撮影の下請けをしていた。この夜、澪は、旧い灯台の建築写真を頼まれて、ここに来たのだ。
ペルセウス座流星群が見える晴れの夜。せっかく来たのだから、と、仕事のあとに、星の写真も撮ろうとしていた。
そして、もう一人。
前庭の隅の、望遠鏡のそばに、背の高い男が立っていた。
白衣ではなく、しわのあるグレーのシャツ。伸びかけの髪。銀縁の眼鏡。手には、ノートと、ペンライト。
星空ではなく、澪のほうを見ていた。
朔だった。
二十九歳の、桐生朔。
澪の視界が、ぐにゃりと歪んだ。涙が溢れて、止まらなくなったのだ。
思わず、建物の影に身を隠す。
彼は、生きている。
声も、姿も、あの頃のままで。
写真のなかにしかいなかった人が、目の前で、まばたきをして、呼吸をしている。
「もう……だめ、こんなの……」
澪は、唇を噛んで、声を殺した。
若い澪が、カメラから顔を上げた。
「あの、すみません」
彼女が、朔に声をかけた。
「この観測所の方ですか? 撮影の許可をいただいたのは、管理会社なんですけど、近くの星の撮影も、していいですか?」
「あ、どうぞ。ぜんぜん」
朔は、少し慌てたように答えた。
「むしろ、こっちこそ、邪魔してなかったですか。さっきから、じろじろ見ちゃってて」
「え?」
「いや、その」
朔は、頭をかいた。
「なんていうか、あなたを見た瞬間、初めて会った気がしなくて。どこかで、会いましたっけ?」
若い澪は、きょとんとした。
「いえ、たぶん、初めてだと思います」
「ですよね。すみません。変なこと言って」
二人は、顔を見合わせて、気まずそうに笑った。
その光景を、影から見つめながら、澪は、胸がしめつけられるように痛んだ。
そうだった。
この夜、彼は、そう言ったのだ。
「初めて会った気がしなくて」
あのとき、自分は、それをよくある口説き文句だと思って、笑った。けれど、何度思い返しても、その言い方は、ナンパのそれではなかった。まるで、遠い昔に失くしたものを、見つけたような目をしていた。
「もしかして」
澪は、つぶやいた。
「あなたが、そう感じたのは……私が、ここにいたから?」
答えは、すぐにはわからなかった。
けれど、頭の隅で、小さな光が、ぽっと灯った。
朔がノートに書いていた言葉。
〈開く先は、僕がはじめて君を見た夜〉
彼が「はじめて見た」のは、二十五歳の澪ではないのかもしれない。
この夜、ここに、もう一人の澪が、いたのだ。
そのとき、後ろで、草を踏む音がした。
「……あなたは」
振り返ると、朔が立っていた。
いつのまに、こちらへ来ていたのだろう。前庭の二人は、まだ、望遠鏡のそばで、星の話をしているのに。
その朔とは、少し違って見えた。髪が短い。眼鏡がない。目の下に、深い隈がある。
いや、違う。
同じ朔だ。ただ、この夜の朔より、少しだけ年を取っているように見えた。
「あなたは、もしかして」
彼は、静かに口を開いた。
「僕が、待っていた人ですか」
澪は、言葉を失った。
彼が、何を言っているのか、わからなかった。この朔は、誰なのだろう。二十九歳の彼が、あそこにいるのに。
「驚かせて、ごめん」
彼は、やわらかく笑った。
「僕は、この夜の僕じゃない。四年後の……いや、あなたにとっては、ここから見て、七年後の朔、なのかな。二〇二三年の九月二十九日から、来たんだ」
澪は、口をぱくぱくさせた。
「え……? だって、あなたは、あの日……」
「うん。事故の日だ」
彼は、あっさりと言った。
「あの日の夜、僕は、あの窓を通ったんだよ。この夜に、来るために」



五 偶然の名前
観測所の裏の、石段に、二人は並んで腰かけた。
「混乱するよね」
朔は、少し困った顔で言った。
「順番に話すよ。時間はまだ、少しある。夜が明けるまでは」
澪は、うなずくだけで精一杯だった。
彼の声は、たしかに、澪の知っている声だった。少し低くて、やわらかくて、語尾が、ほんの少しだけ上がる。
でも、この人は、あの日死んだはずの人だ。三年間、写真の中にしかいなかった人だ。
「触っても、いい?」
思わず、澪は言っていた。
朔は、目を丸くして、それから、笑った。
「いいよ」
澪は、そっと、彼の手に触れた。
あたたかい。指の関節の形も、爪の形も、右手の親指のすぐ下の小さなほくろも、全部、そのままだった。
その手を、両手で包んで、澪は、額に押し当てた。
「……ばか」
声が、震えた。
「ばか。ばか、ばか。三年も、どうして」
「ごめん」
朔は、澪の頭に、もう片方の手を置いた。
「本当に、ごめん」
しばらくして、澪の涙が落ち着いたころ、朔は、星空を見上げながら、ぽつりぽつりと語りはじめた。
「二〇一九年のこの夜、僕は、はじめて、奇妙な体験をしたんだ」
「奇妙な体験?」
「ここに、あの窓の原型が、あっただろう。当時は、もっと小さな実験装置だったけど。量子もつれの、位相を測る装置だった」
朔は、指で、空中に円を描いた。
「その夜、装置が突然、誤作動を起こした。ありえない値が出た。まるで、装置の中から、誰かがこっちを見ているみたいな、そんな数値だった」
「誰かが……」
「そう。そして、装置の光の中に、人影が見えたんだ。一瞬だけ」
朔は、澪のほうを見た。
「女の人だった。泣いていた。泣きながら、笑っていた。僕は、その顔を、ずっと忘れられなかった」
澪は、息をのんだ。
「それは……」
「君だよ」
朔は、静かに言った。
「今夜の君だ。二〇二六年の、三十二歳の、澪だ」
風が、草を鳴らした。
「あのとき僕は、装置の向こうにいる女の人が、誰なのか、わからなかった。ただ、ひどく懐かしいと思った。会いたいと、思った」
「会いたい、って」
「うん。そして、その直後に、前庭にいる、二十五歳の澪を見つけたんだ。同じ顔だった。少し若い、同じ顔の人が、カメラを構えて、星を撮っていた」
朔は、苦笑した。
「そりゃ、『初めて会った気がしない』って、言うよね。僕は、その前に、君を、見ていたんだから」
「じゃあ……朔が、私を好きになったのは」
澪は、声を絞り出した。
「未来から来た、私を見たから?」
「ちがうよ」
朔は、首を振った。
「順番は、そうだけど。でも、ちがう。あの夜、僕は、二十五歳の君に、恋をしたんだ。ちゃんと。装置の中で見た君じゃなくて、カメラを構えて、真剣に星を見ていた君に。星の写真が撮れなくて、悔しそうに唇を噛んでいた、あの君に」
澪の胸の奥で、何かが、ほどけた。
そうだった。
あの夜、自分は、どうしても星がうまく撮れなくて、悔しかったのだ。そのとき、後ろから、声をかけてくれたのが、朔だった。
「露光を、二秒短くしたほうがいいですよ。そこの月が、明るすぎる」
そう言って、笑った。
「だから、僕は思ったんだ」
朔は、続けた。
「偶然って、なんだろうって。装置の光の中に、君が現れなかったら、僕は、あの夜、君に声をかけていなかったかもしれない。君が来なかったら、そもそも僕は、この研究を、ここまで続けていなかったかもしれない」
「……それって」
「そう。輪になってるんだ」
朔は、両手で、大きな円を作った。
「君が、七年後から来たから、僕は、君に出会った。僕が君に出会ったから、僕は、四年後に、君を呼ぶ窓を作った。どっちが先なのか、もう、わからない」
「そんなの、変だよ」
「変だよね」
朔は、うれしそうに笑った。
「でも、ユングが言ってたのは、たぶん、こういうことなんだと思う。世の中には、原因と結果の鎖で説明できない、でも、確かに意味でつながっている出来事がある。始まりも終わりもない輪みたいに」
彼は、空を見上げた。
「僕は、あの夜、はじめて、偶然に、名前をつけたくなられたんだ」
澪は、思い出した。
「偶然は、まだ名前をもらっていない必然だ、って」
「そう。それ」
朔は、澪の顔を覗き込んだ。
「あの続き、聞いてないよね」
澪は、うなずいた。三年間、ずっと、それを知りたかった。
朔は、少しだけ、照れたように笑って、言った。
「――その名前を、僕は、愛って呼ぶことにしたんだ」
澪の頬を、涙がまた、伝った。
流れ星が、ひとつ、空を横切った。



六 四年間の断片
「少し、話をしようか」
朔は、石段に座ったまま、星空を見上げていた。
「若い君が、機材を持って岩場へ行くまで、あと十五分くらいある。それまで、僕たちの話を」
「僕たちの、話?」
「うん。君が、忘れてしまう前に。……ああ、違うか。君は、忘れないんだったね」
朔は、自分の言い間違いに、ひとりで笑った。
澪も、つられて笑った。笑いながら、頬に、まだ乾ききらない涙の跡が、ひりひりと痛んだ。
「じゃあ、最初のデートから」
「あれは、ひどかった」
澪は、即座に言った。
「三十分、遅刻したよね」
「宇宙が膨張してたんだよ」
「それ、今でも言うの?」
「今でも、僕は、そう信じてる」
朔は、まじめな顔で言った。
澪は、その横顔を見て、思い出していた。
二〇一九年、九月の初め。
夕凪岬で会った二週間後、朔は、澪標写真修復室のドアを、おそるおそる開けた。
手には、古い、焼けた写真を一枚、持っていた。
「あの、修復を、お願いしたくて」
差し出されたのは、亡くなった父親が撮った、星空の写真だった。
紙は、端が茶色く変色して、真ん中に、大きな折れ目が走っている。星の光が、ところどころ、剥がれ落ちていた。
「この星が、見えなくなってしまうのが、どうしても、いやで」
彼は、そう言った。
澪は、何日もかけて、その写真を、修復した。
折れ目を消し、剥がれた星を、一つずつ、光の点として描き足して。
「できました」
受け取りに来た朔は、写真を見つめたまま、しばらく、何も言わなかった。
「……ありがとう」
やがて、彼は、ぽつりと言った。
「父の星が、帰ってきた」
その一言に、澪は、胸を打たれた。
「お礼に、食事でも、どうですか」
そう誘ったのは、朔のほうだった。
それが、最初のデートだった。
彼は、待ち合わせの店に、三十分遅れて現れた。
「ごめん。宇宙が、膨張してて」
「はい?」
「いや、その、電車が、遅れて」
「今の、言い直し、いらなかったですよ」
澪は、笑ってしまった。
笑いながら、ああ、この人と、ずっと、こういう会話を、していくんだろうな、と思った。
「雨の日のことも、覚えてる?」
朔が、聞いた。
「電車が、止まった日でしょう」
「そう。東京駅で。君は、荷物を持ったまま、一時間半、ホームで立ってた」
「あなたは、靴下を、片方脱いで」
「量子もつれを、説明したんだよね」
「そう。靴下を、片方ずつ、二つの箱に入れて」
澪は、吹き出した。
「『片方を見た瞬間、もう片方が、右か左か、決まる』って。私、最後まで、わからなかった」
「今でも、わかってない?」
「今でも、わかってない」
「それでいいんだ」
朔は、笑った。
「わかろうとしてくれたことが、嬉しかった」
風が、二人のあいだを、通り過ぎた。
「祖母が、亡くなった夜のことも、覚えてる」
澪は、静かに言った。
二〇二一年の冬。祖母は、八十九歳で、亡くなった。
葬儀が終わったあと、澪は、ひとりで、写真館の作業室に閉じこもった。祖母が最後に撮った、一枚のフィルムを、現像するために。
何時間も、暗室にいた。誰とも話したくなかった。
その夜、朔は、何も言わずに、暗室のドアの前に、座っていた。
ドアを開けたとき、彼は、膝を抱えて、うたた寝をしていた。
「……何してるの」
「あ。ごめん」
朔は、目をこすった。
「入っちゃ、だめかなと思って。でも、帰るのも、なんか、違う気がして」
その不器用さに、澪は、初めて、声をあげて泣いた。
朔は、慌てて立ち上がって、澪を抱きしめた。
「ここに、いるから」
そう言って、朝まで、ずっと、そうしていてくれた。
出来上がった祖母の最後の写真は、庭の、白い花の写真だった。
その花の名前を、澪は、いまだに、知らない。
「あの花のこと、僕は、ずっと、気になってたんだ」
朔が、言った。
「名前を、調べようと思ってたのに、結局、忘れちゃって」
「私も、忘れちゃった」
「名前のない花のままでも、いいかな」
「いいと思う」
いつのまにか、東の空の低いところが、うっすらと、灰色を帯びていた。
朔は、ふと、立ち上がった。
「毎朝、『おはよう』って言うの、僕が言い出したんだっけ」
「うん」
「なんでだっけ」
「あなたが、言ったんだよ。『毎日の最初の言葉を、同じにしたい。そしたら、どんな日でも、同じ場所から始められる気がする』って」
「ああ」
朔は、照れたように、頭をかいた。
「言いそうだな、僕」
「言いそうだよ」
二人は、しばらく、黙って、空を見上げていた。
やがて、朔が、そっと、手を差し出した。
「さあ。行こうか」
「どこへ?」
「あの子のところへ」
澪は、その手を、しっかりと握った。
けれど、その手が、さっきよりも、ほんの少しだけ、軽くなっている気がして、澪は、何も言わずに、目をそらした。



七 夢の女
「あの夜の僕に、会ってやってくれ」
朔は、ノートに書いたのと同じ言葉を、口にした。
「でもその前に、もうひとつ、頼みたいことがある」
「なに?」
「二十五歳の君に、会ってほしい」
澪は、目を見開いた。
「自分自身に、会うの?」
「うん。危ないことだとは、わかってる。でも、必要なんだ」
朔は、遠くの岩場を、指さした。
「さっき、二十五歳の君は、露光の設定に苦戦して、少し離れた岩場に、機材を持って移動した。今、ひとりでいる。しばらく、ひとりだ」
澪は、その岩場を見つめた。
月明かりの下、小さな人影が、カメラを覗き込んでいる。
「私は、何を言えばいいの?」
「それは、君が決めることだよ。ただ」
朔は、少し考えるように、言葉を選んだ。
「この夜、二十五歳の君は、ほんとうは、少し不安だったはずなんだ。仕事で、うまくいかないことが続いていて。誰かに認められたいのに、誰にも言えなくて」
澪は、はっとした。
そうだった。あの頃の自分は、写真という仕事を選んだことに、まだ自信が持てずにいた。祖母の写真館を継ぐべきか、外の世界で勝負するべきか、迷っていた。
「君に、その子へ、何か言ってやってほしい。それが、きっと、あの子の一生を、静かに支える」
澪は、朔の顔を見た。
「どうして、そんなことがわかるの?」
「僕には、わからないよ」
朔は、笑った。
「でも、あの夜、この岩場で、二十五歳の君は、誰かに会ったと言っていた。あとで、僕にだけ、こっそり」
澪の背中に、冷たいものが走った。
「……誰かに、会った?」
「夢だったのかもしれない、って。灰色のマフラーの女の人が、暗がりから現れて、大事なことを言って、消えたって。四年後、僕にそう話してくれたんだ」
その瞬間、澪の脳裏に、遠い記憶が、ふっと蘇った。
 ――あれは、夢だったのだろうか。
 二十五歳の夏の夜。岩場で、星の写真がうまく撮れなくて、疲れて、少しうとうとしてしまった。
 目を開けると、灰色のマフラーを巻いた女の人が、暗がりに立っていた。
 顔は、よく見えなかった。ただ、声だけが、不思議と懐かしかった。
 あの声を、ずっと、夢のなかの声だと思ってきた。
 でも、あれは。
 あの声は、今の、自分の声だ。
「私だったんだ」
澪は、呆然と、つぶやいた。
「あの夢の女の人は、私だった」
「うん」
朔は、やさしく笑った。
「だから、行っておいで。君は、もう、言うことを知ってるはずだよ」
澪は、コートのポケットから、出がけに押し込んできた灰色のマフラーを取り出した。
朔が、いつも巻いていたマフラー。事故の後、遺品として、澪が譲り受けたものだ。
それを、首に巻く。
毛糸に、まだ、微かに朔の匂いが残っていた。
岩場へ続く小道は、月明かりで、白く光っていた。
一歩ずつ、近づく。
潮騒が、耳に近くなる。
波の音のなかに、小さく、シャッターの音が混じった。
二十五歳の自分が、そこにいた。
岩の上にしゃがんで、カメラを構えている。眉間に、小さくしわを寄せて。星を睨みつけるように。
ああ、こんな顔をしていたんだ、と澪は思った。
若い。
自分は、こんなに、若かったのだ。頬の丸みも、指の細さも、まなざしの強さも、今の自分には、もう、ないもの。
そして、このころの自分は、これから先に待つものを、何も知らない。
朔との出会いも。四年間という幸福な日々も。そして、その先に待つ、長い喪失も。
「……あの」
澪は、声をかけた。
若い澪が、びくっとして、振り返る。
暗がりの中、灰色のマフラーで顔の半分を隠した、見知らぬ女が立っている。
「すみません。驚かせました」
「い、いえ。あの、こんな時間に、人がいるとは思わなくて」
若い澪は、警戒するように、カメラを胸に抱いた。
澪は、その姿を、いとおしく思った。
抱きしめたい、と思った。
けれど、そうはしなかった。
代わりに、静かに、そばの岩に腰を下ろした。
「星、きれいですね」
「……はい」
「うまく撮れましたか?」
若い澪は、少し、ためらった。
「いえ、あんまり。私、こういうの、向いてないのかもしれなくて」
その言葉を、澪は、痛いほどよく知っていた。
「向いてないなんて、ことはないですよ」
「え?」
「あなたが撮る写真は、いつか、たくさんの人の大切なものを、守るようになる」
「私の、写真が?」
「うん。撮るだけじゃなくて、残すことも、あなたの仕事になる。焼けて、色あせて、なくなってしまいそうな思い出を、もう一度、光に戻す仕事」
若い澪は、目を丸くして、澪を見つめた。
その目の中に、月の光が、二つ、小さく映っている。
「あなたは、誰、ですか」
「通りすがりの、人」
澪は、少し笑った。
「でも、あなたのことを、よく知っている人」
風が、二人のあいだを抜けた。
「もうすぐ、あの丘の上で、背の高い、眼鏡の人があなたに声をかけます」
「え……」
「その人は、変わった人です。星の話をしだしたら、止まらない。デートの約束に三十分遅れて、それを、宇宙の膨張のせいにする」
若い澪が、思わず、ふっと吹き出した。
「何それ」
「本当のことですよ」
澪は、目を伏せた。
喉の奥が、熱くなる。
「その人を」
言葉が、出てこない。
言わなければならないことが、あまりにも多すぎて、けれど、ひとつに絞られていく。
四年間という満ち足りた時間。すれ違いの喧嘩。別れの朝の、冷たい言葉。ぜんぶ、ひっくるめて。
「その人を、最後まで、好きでいてね」
若い澪は、じっと、彼女を見た。
「最後まで……?」
「うん。どんな終わりが来ても。それが、どれだけ悲しいものでも、それは、間違いじゃないから」
自分でも、驚くほど、声が震えていた。
「たとえ、ぜんぶ失うことになっても、あなたは、その人を好きになって、よかった。私が、保証する」
言い終えたとき、頬が濡れていることに、気づいた。
若い澪は、何も言わなかった。
ただ、じっと、澪を見つめていた。まるで、その顔を、心の奥に焼きつけようとするかのように。
「……あなた」
若い澪が、小さく口を開いた。
「もしかして、泣いて、ますか」
「ううん」
澪は、首を振った。
「星が、まぶしいだけ」
そう言って、立ち上がる。
「ごめんなさいね。変なことを言って。忘れていいから」
「待って」
若い澪の声が、追いかけてきた。
「あの、私、あなたを、どこかで」
澪は、振り返らなかった。
灰色のマフラーを、ぎゅっと握りしめて、暗い小道を歩き出す。
背中に、視線を感じていた。
振り返ったら、たぶん、二度と、歩けなくなる。
小道の途中で、足が止まった。
そして、ようやく、声をあげて泣いた。
岩の上で、若い澪は、うとうとと、目を閉じていた。
まるで、すべてを、夢だったと思うことで、守ろうとするかのように。



八 窓のなかの女
小道の先で、朔が待っていた。
もう一人の朔。二〇二三年から来た、あの人だ。
彼は、何も言わずに、澪の肩を抱いた。
澪は、その胸に、顔をうずめた。
「よく、言えたね」
「……全然、うまく言えなかった」
「ううん。あの子には、ちゃんと届いたよ。夢の中でも、届いたんだ」
朔の手が、ゆっくりと、澪の背中をさすった。
しばらくの間、二人は、そうしていた。
波の音が、遠く近く、寄せては返す。
「さあ、次は、若い僕だ」
朔は、少し照れたように言った。
「あいつ、ずっと、あの窓の中の女の人を探してるんだよ。天体望遠鏡のそばで、うろうろしてる。会ってやってくれ」
「でも、私、何を言えば」
「なんでもいいよ。あいつは、君と話せるだけで、たぶん、嬉しくてたまらない」
朔は、澪の頬の涙を、親指で拭った。
「それに、僕も、見ていたいんだ。若い僕が、君と話しているのを」
「自分が、自分を見てるの? 変なの」
「変だね」
二人は、笑った。
その笑い声は、三年ぶりに、澪の口から出たものだった。
前庭の望遠鏡のそばに、二十九歳の朔が、ひとりで座っていた。
さっきまで、若い澪と話していたのに、彼女が岩場へ移動してから、ずっと、落ち着かない様子で、夜空を見上げている。
澪は、足音を立てないように近づいた。
「こんばんは」
朔が、はっと振り返った。
そして、そのまま、固まった。
眼鏡の奥の目が、大きく見開かれる。
「あ……」
言葉を、探している。
その不器用さが、たまらなく愛おしかった。
「あなたは」
朔は、立ち上がった。
「さっき、装置の中に、見えた人だ」
「……覚えていてくれたんだ」
「忘れるわけ、ないです」
朔は、早口で言った。
「三十分前、僕の実験装置に、あなたが映ったんです。ほんの二秒、三秒くらい。泣いていて、笑っていて、それから、消えた。ずっと、あなたを探していた。装置が壊れたのか、僕の頭がおかしくなったのか、わからなくて」
「頭は、おかしくなってないですよ」
澪は、微笑んだ。
「少なくとも、その件に関しては」
朔は、しばらく澪を見つめてから、ふと、肩の力を抜いた。
「よかった」
「え?」
「本当に、いた」
彼は、心底、ほっとしたように、笑った。
その笑顔は、澪の記憶の中の、あの笑顔と、寸分たがわなかった。
二人は、石垣に並んで座って、流星を数えた。
「あなたは、どこから来たんですか」
朔が尋ねた。
「未来から」
澪は、正直に答えた。
「七年後の、あなたのいる場所。ううん、あなたが、いなくなった場所から」
朔は、その言葉の意味を、すぐには理解できなかったようだった。
けれど、少し考えてから、静かに、うなずいた。
「そうですか」
それ以上、何も聞かなかった。
「聞かないの?」
「聞いたら、あなたが、泣いてしまいそうだから」
澪は、笑ってしまった。
「そういうところは、変わらないんだね」
「変わらない?」
「ううん、なんでもない」
流れ星が、二つ、続けて空を横切った。
「願い事、しました?」
朔が、聞いた。
「しなかった。三つ目まで、待ってるの」
「三つ目?」
「うん。三度目の偶然に、お願いするつもりなの。偶然は、三度重なると、必然になるって、昔、誰かが言ってた」
朔は、目を見開いた。
「それ、僕が、学生のときに、思いついた言葉です」
「そうなんだ。知ってる」
「ずるいな」
朔は、頭をかいた。
「あなた、僕の何を、知ってるんですか」
「たくさん」
澪は、星空を見上げたまま、答えた。
「あなたが、コーヒーに砂糖を三つ入れること。寝ぐせを、絶対に直さないこと。落ち込んだときだけ、無口になって、天井を見ること。それから」
言葉が、途切れた。
「それから?」
「私、世界一怒っているときに、世界一やさしい声で、私の名前を呼ぶこと」
朔は、しばらく黙っていた。
「その人は、幸せでしたか」
「え?」
「僕に、名前を呼ばれた人は、幸せでしたか」
澪は、ゆっくりと、朔のほうを向いた。
二十九歳の朔の顔は、真剣だった。
不安そうで、期待していて、そして、どこか、怯えていた。
澪は、彼の手を取った。
「とても」
声が、かすれた。
「とても、幸せでした。世界でいちばん」
朔の目から、ぽろりと、涙がこぼれた。
彼は、慌てて、それを手の甲で拭った。
「すみません。なんで、泣いてるんだろう」
「泣いていいよ」
「でも」
「泣いていい。私も、泣いてるから」
二人は、顔を見合わせた。
どちらの頬にも、光るものが、流れていた。
星の光が、それを、細かく砕いて映していた。
朔は、ふと、空を見上げて言った。
「僕、あなたに、渡したいものがあるんです」
「渡したいもの?」
「今は、まだ、何もないけど。でも、書きます。あなたに」
「書く?」
「手紙を。あなたの時間に、届くように」
澪は、目を見開いた。
「僕、この観測所の壁の中に、隠します。装置の土台の、右の足のところ。四年後か、七年後か、いつか、あなたが来る日まで」
「七年後でも、いいの?」
「僕は、待つのが得意なんです」
朔は、照れたように笑った。
「星の光は、何万年もかけて、届くでしょう。それに比べたら、七年なんて、ほんの一瞬だ」
澪は、笑いながら、うなずいた。
「ありがとう」
そのとき、遠くの岩場から、若い澪が、こちらへ戻ってくる気配がした。
「そろそろ、行かなきゃ」
澪は、立ち上がった。
「あの人と、もっと、話したいんじゃないですか」
「うん。でも、あなたたちは、これから、ちゃんと話すから」
澪は、朔の目を、まっすぐに見た。
「あなたは、あの子を、大切にしてあげてね」
「あなたのことも」
朔は、言った。
「大切にします。何年かかっても、あなたに、会えるようになるまで」
澪は、言葉を失って、ただ、深く、うなずいた。



九 時間という海
若い朔と別れたあと、澪は、砂浜へ降りていった。
夜明けまで、あと四十分ほど。
空の東の端が、すこしずつ、明るさを増している。海は、墨を溶かしたように深く、波打ち際だけが、白く、細く、光っていた。
先に来ていた朔が、波の近くに、立っていた。
その姿が、月の光の中で、さっきよりも、ずっと透きとおって見えた。
「来たね」
彼は、振り返って、笑った。
「若い僕との話は、どうだった?」
「ずるかった」
澪は、靴を脱いで、砂の上に立った。
「あんなふうに、まっすぐに聞かれたら、うそなんて、つけない」
「あいつは、そういう奴だよ」
朔は、うれしそうだった。
冷たい波が、澪のつま先を、洗った。
「ねえ、朔」
「うん」
「あなたは、今、どこにいるの」
朔は、少し考えるように、水平線を見つめた。
「うまく、説明できないな。でも、やってみるよ」
彼は、波打ち際に、しゃがみこんで、指で、砂に、線を描いた。
「僕たちは、時間は、川みたいに、上流から下流へ流れるものだと思ってる。過去から、未来へ。でも、事故の瞬間から、僕には、ちがう景色が見えるようになった」
「ちがう景色?」
「時間は、川じゃなくて、海だったんだ」
朔は、砂に描いた線を、ぐるりと、円にした。
「すべての瞬間が、同じ水の上に、浮かんでるんだよ。君と初めて会った夜も、君が僕の寝ぐせを笑った朝も、君が、今日みたいに、僕の墓の前で、花を置いてくれた日も。全部が、同じ海の、別々の波として、そこにある」
「同時に?」
「うん。同時に。ただ、そこを、行ったり来たりできるのは、想いの強い波だけだ」
朔は、笑った。
「科学者としては、認めなきゃいけないね。これは、僕にも、説明できない」
「説明できないのに、装置は、作ったの?」
「作ったんじゃない。見つけたんだ。窓は、もともと、そこにあった。僕は、そこに、枠をつけただけ」
澪は、その言葉に、祖母の口癖を思い出した。
 ――道は、作るものじゃないよ。もともとあったものを、見つけるだけさ。
「ねえ」
澪は、小さく聞いた。
「そこは、さびしくない?」
朔は、しばらく、黙っていた。
「さびしくない、と言ったら、うそになる」
彼は、正直に言った。
「でもね。君が、僕のことを思い出してくれるたびに、そこに、灯りがともるんだ」
「灯り?」
「うん。真っ暗な海の、ずっと遠くに、ぽっと、ひとつ。それが、君の想いだ。それを頼りに、僕は、泳いでる」
澪は、涙を、こらえられなかった。
「毎年、命日に、あの写真を、拡大してたよね」
「……見えてたの?」
「うん。君が、僕を見つめてる、その顔が、光の中に、映ってた」
澪は、両手で、顔をおおった。
三年間、誰にも見せなかった、あの顔を。
一年に一度、こっそり、ひとりで、写真の中の彼に会いに行っていた、あの時間を。
彼は、ずっと、見ていたのだ。
朔は、澪の隣に、立ち上がった。
二人は、並んで、海を見た。
水平線の上に、細い、薄桃色の帯が、生まれはじめている。
「どうして、今日だったの?」
澪は、聞いた。
「窓が、今夜、開いた理由」
「ああ」
朔は、うなずいた。
「僕の、仮説だけど。窓が開くのは、二つの場所に、同じ想いの波が、同時に満ちたときだけなんだ」
「二つの場所?」
「一つは、二〇一九年八月十七日の、この岬。僕が、はじめて君を見て、心を動かされた夜。もう一つは」
朔は、澪を、見た。
「君が、僕を、いちばん強く思う夜。この三年間で、いちばん」
「……命日」
「うん。でも、一年目でも、二年目でも、開かなかった。三年目の今日、ようやく、潮が満ちた」
彼は、笑った。
「三度目の偶然は、必然になる。そう言うだろ」
澪は、笑いながら、涙をぬぐった。
「ずるい。自分の言葉を、使い回して」
「いい言葉は、何度使っても、いいんだよ」
朔は、目を細めた。
波が、二人の足元を、繰り返し、洗っていた。
その波の一つひとつに、小さな光の粒が、ちらちらと、宿っていた。
まるで、海全体が、無数の、想いの粒で、満たされているように。
「きれい」
澪は、つぶやいた。
「うん」
朔は、言った。
「これが、僕が見ている景色だよ。君に、見せたかった」
二人は、しばらく、何も言わずに、その光を、見つめていた。
夜明けが、すぐそこまで、来ていた。



十 屋上の朝
観測所の裏手に、屋上へ続く、鉄の階段があった。
錆びた手すりに、夜露が、びっしりと宿っている。一段ずつ昇るたびに、靴の底が、こつん、こつん、と小さな音を立てた。
途中の踊り場で、朔が、立ち止まった。
「ここから、前庭が見える」
彼は、声をひそめて、下を指さした。
澪は、手すりから、そっと身を乗り出した。
前庭の石垣に、二人の人影が、並んで座っていた。
若い澪と、若い朔だった。
二人のあいだには、こぶし二つぶんくらいの、まだ遠慮のある距離があった。若い澪は、膝を抱えて、少し、ぼんやりしている。若い朔は、その隣で、何かを言い出そうとして、何度も、やめていた。
「あいつ、緊張してる」
朔が、小さく笑った。
「見ればわかるよ。ペンライトを、さっきから、五回は、持ち替えてる」
「ほんとだ」
澪も、笑った。
夜明け前の静けさのなかで、下の声は、思いのほか、はっきりと聞こえた。
「あの」
先に口を開いたのは、若い澪だった。
「変なことを、言ってもいいですか」
「はい。どうぞ」
「さっき、岩場で、少し、眠っちゃったんです。そうしたら、夢を見て」
「夢?」
「知らない女の人が、出てきて。灰色のマフラーを巻いていて、顔は、よく見えなくて」
若い朔の背中が、ぴくりと、動いた。
「その人が、私に、いろいろ言ったんです。私の仕事のこととか、これからのこととか。……変ですよね。夢なのに、全部、ほんとうのことみたいに、聞こえて」
「その人は」
若い朔は、ゆっくりと、言った。
「なんて言ってました」
若い澪は、少し、ためらった。
それから、小さな声で、言った。
「『その人を、最後まで、好きでいてね』って」
「その人?」
「あの……」
若い澪の耳が、みるみる、赤くなった。
「背の高い、眼鏡の人、って」
夜明け前の空気が、しん、と静まりかえった。
若い朔は、顔を、真っ赤にして、何か言おうとして、言葉に詰まった。
「それは、その」
「夢の話です。夢の話ですから」
「うん。夢の話」
「はい」
「でも」
若い朔は、勇気を出すように、息を吸った。
「僕も、実は、その人に、会ったかもしれない」
「え」
「ほんの、数秒だけ。装置の中で。泣きながら、笑っていた人で。……あなたと、どこか、似ていて」
若い澪は、目を丸くした。
「私に、似てる?」
「うん。でも、少し、年上で。もっと、やさしい顔をしてた」
「それ、褒めてるんですか」
「たぶん、褒めてます」
二人は、顔を見合わせた。
そして、同時に、吹き出した。
階段の上で、澪は、口を押さえて、笑いをこらえていた。
隣の朔も、肩をふるわせている。
「あいつ、下手だなあ」
「あなたが、でしょう」
「ほんとだね」
朔は、目尻の涙を、指でぬぐった。それが笑いの涙なのか、別のものなのか、澪には、わからなかった。
「あの言葉、あいつ、四年間、ずっと、覚えてたよ」
朔が、ぽつりと言った。
「あの言葉?」
「『最後まで、好きでいてね』。君が、夢の中で言われたっていう」
「え……」
「僕は、聞いてたんだ。この夜、君から。そのあと、何度も、君は、その話をしてくれた」
朔は、遠くを見るような目をした。
「君が怒って、口をきいてくれなくなった日もね。僕は、あの言葉を、思い出してた。あの人が、最後まで好きでいてって言ったのは、きっと、僕のことも、君のことも、ちゃんと、見てくれていた人なんだ、って」
「……そんな」
「だから、僕たち、けんかしても、仲直りが、早かったのかもしれない」
澪は、胸の奥が、じん、と熱くなった。
言葉は、時間を、越える。
自分が、あの夜、岩場で言ったことは、若い自分だけでなく、若い朔の中にも、ずっと、灯りをともし続けていたのだ。
「ねえ、朔」
「うん」
「私、余計なことを、しなかったかな」
「余計なこと?」
「未来のことを、言ってしまって」
朔は、静かに、首を振った。
「君は、何も、言ってない。あの子に、『好きでいて』って言っただけだ。それは、未来の情報じゃない。ただの、祈りだよ」
「祈り」
「うん。祈りは、時間のルールに、引っかからない」
朔は、笑った。
「たぶんね」
下のほうから、若い澪の、明るい声が聞こえてきた。
「あの、星の名前、教えてください。あれは、なんていう星ですか」
「あれは、ペルセウス座のアルゴル。悪魔の星、って呼ばれてる。明るさが、変わるんです」
「悪魔の星なのに、きれいですね」
「そうなんですよ。きれいなものには、ときどき、ちょっと怖い名前がつくんだ」
二人の声が、夜明けの空気の中で、やわらかく重なっている。
その声に耳を澄ませたまま、澪は、朔の手を、握った。
「行こう」
朔は、言った。
「屋上から、日の出を、見よう。……最後の、日の出を」
その言葉の、「最後」という響きが、澪の心に、静かに、沈んだ。
二人は、残りの階段を、ゆっくりと、昇っていった。



十一 夜明け前
夜が、少しずつ、薄くなっていた。
東の空が、ほんのりと、藍色から、紫色へと変わりはじめている。
屋上には、澪と、もう一人の朔のほかに、誰もいなかった。
若い二人は、前庭で、夜が明けるのを待っている。楽しそうに、星の話をしている。遠くから見ると、まるで、ずっと昔から、そうしていたかのように。
「ここは、僕が、いちばん好きな場所なんだ」
屋上の手すりに、朔はもたれかかった。
「海が、全部見える。日の出の、最初の光が」
「知ってる」
澪は、隣に立った。
「三年前の今日、私、この景色を、写真で見た」
「うん」
朔は、遠くを、見つめた。
その横顔が、朝の光の予感に、淡く縁取られている。
そのとき、澪は、気づいた。
朔の手が、薄くなっていた。
指の先から、向こうの景色が、透けて見えている。
「……朔」
声が、震えた。
「手が」
「うん」
朔は、自分の手を、他人事のように見つめた。
「そろそろ、時間みたいだ」
「どういう、こと?」
「僕は、この夜のための、残響なんだよ」
朔は、静かに言った。
「あの日、事故に遭った、その瞬間。僕の体は、この世界から、なくなった。でも、君のことを思う気持ちだけが、窓を通って、この夜に、落ちてきた。それが、今の僕だ」
澪は、首を振った。
「そんなの、いや」
「ごめん」
「いやだ、いやだよ、朔」
彼女は、朔の腕にしがみついた。けれど、その腕は、もう、触れているのか触れていないのか、わからないほど、淡くなっていた。
「私、まだ、言ってないことがある」
「うん」
「あの日、勝手にすれば、って、言ったこと」
澪は、泣きながら言った。
「ごめんなさい。ごめんなさい、本当は、行かないでって、言いたかったの。あなたが遠くに行ってしまうのが、怖かったの」
「知ってた」
朔は、微笑んだ。
「君が、そう言った瞬間に、わかったよ。ああ、この人は、怖がってるんだって」
「なのに、どうして、私を、放っておいたの」
「放っておいたわけじゃない」
朔は、澪の顔を、両手で包んだ。触れているのに、彼の手は、ほとんど、温度だけの存在になっていた。
「あの日の夜、僕は、君に、会いに行こうとしてたんだ。研究所には、断りの返事を出した。君と一緒にいられないなら、どこにも行かないって、決めた」
「え……」
「そのことを、伝えたかった。帰り道、急いでいたのは、それが理由だ」
澪の口から、声にならない声が、漏れた。
「メッセージの、渡したいものって」
「うん。あれは、指輪じゃない。まだ、買ってなかったから。ただの、言葉だよ」
朔は、笑った。
「でも、その言葉は、ちゃんと、君の時間に、届けるように、準備してある。鞄の底に、封筒を入れてある。僕がいなくなったあと、母さんが、きっと見つけてくれる」
「……お母さんに?」
「うん。ただ、見つけるまでに、時間がかかるかもしれない。母さんも、整理がつかなくて、そっとしておくかも。でも、必ず、出てくるよ。君が、僕を思い出したときに」
澪は、その言葉に、あの写真の光の粒を、重ねた。
思ったら、届く。
三年間、澪が、ずっと信じられなかったこと。
「ねえ、朔」
澪は、涙の向こうで、彼を見た。
「私、あなたを、助けたい」
朔は、目を伏せた。
「若い僕に、言いたいんだろう。九月二十九日の夜、あの道を通るなって」
「……うん」
「言いたいよね。僕だって、君の立場なら、言うと思う」
「だったら」
「でも」
朔は、澪の肩に、手を置いた。
「お願いだから、言わないでほしい」
澪は、息を止めた。
「どうして」
「僕は、若い僕を、知っているからだ」
朔は、遠くの、前庭を見た。
若い朔が、若い澪と、望遠鏡を覗いて、はしゃいでいる。
「あいつは、優しいから、きっと、そのことを知ったら、四年間を、終わりまでの時間として、生きてしまう。君と過ごす一日一日を、カウントダウンにしてしまう」
澪は、言葉を失った。
「それは、いやなんだ」
朔の声が、ゆっくりと、静かになっていく。
「一日を、ほんとうに、ただの一日として生きたい。なんにも知らずに、君と、喧嘩をして、仲直りをし、くだらない話で、笑って。そういう、なんでもない毎日のために、僕は、あの四年を、使いたい」
「でも、あなたは、死んじゃうんだよ」
「うん。でも」
朔は、微笑んだ。
「人の一生は、偶然の一致だらけで、そのすべてに、意味があるって、僕は、思うんだ」
澪は、はっとした。
その言葉は、まるで、どこかで、聞いたことがあるような響きだった。
「終わりがあるから、偶然は、光るんだよ。終わらないものに、名前は、いらない」
「……ずるい」
「うん」
朔は、少しだけ、笑った。
「ずるいよね、僕は」
東の空が、金色に染まりはじめた。
水平線の上に、最初の光が、細く、まっすぐに伸びる。
「そろそろ、君も、戻る時間だ」
朔は、澪の手を取った。その手は、もう、ほとんど光でできていた。
「君は、二〇二六年の、君の世界に、帰らなきゃ」
「いやだ」
「だいじょうぶ」
朔は、そっと、澪の額に、自分の額を寄せた。
「僕は、ずっと、ここにいる。この夜のなかに。夜が終わっても、光の粒になって、君のそばに、いつも、いる」
「写真の中の、あの光」
「うん」
朔は、うなずいた。
「あれは、僕だったんだよ」
澪の頬を、涙が、静かに伝った。
「最後に、ひとつだけ、いい?」
「なに?」
「僕の、名前を、呼んで」
澪は、唇を、震わせた。
そして、この三年間、ずっと、言えずにいた言葉を、声にした。
「朔」
「うん」
「朔。朔。……大好き」
朔は、ゆっくりと、瞳を閉じた。
「僕もだよ、澪」
朝日が、水平線から顔を出した。
まぶしい光が、二人を包み込んだ。
その瞬間、朔の姿は、無数の光の粒になって、ほどけていった。
風に舞う、白い花びらのように。
澪の手の中に、ひとつだけ、光の粒が残った。
それは、彼女の手のひらで、少しだけ、瞬いてから、ふわりと、宙に浮かんだ。
「行こう」
光が、そう言った気がした。
澪の足元から、朝の光が、波のように広がり、彼女の体を、ゆっくりと、飲み込んでいった。

ーつづくー



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