老いの国のラブレター
まえがき
歳をとるということは、昨日まで当たり前にできていたことが、ひとつずつ手からこぼれ落ちていく過程に似ています。
若い頃には見えなかった「老い」という国の景色。その国に足を踏み入れたとき、人は誰しも戸惑い、抗い、時には自分の情けなさに苦笑いすることになります。
この物語の主人公・渡辺一郎もまた、ボロボロになった身体と、大切な存在を失った寂しさを抱えながら、「老い」という不可避の運命に直面している一人です。
けれど、あがくこと、ジタバタすること、無駄な抵抗を続けることは、決して愚かなことではありません。負け戦と知りながらも今日を懸命に生きるその姿勢こそが、命を何よりも美しく輝かせるのではないでしょうか。
この小さな物語が、いま人生の坂道を歩んでいるあなたや、大切な誰かを想うあなたの心に、小さな灯りをともすことができたなら幸いです。
一、オジさんという名の惑星
渡辺一郎、六十五歳。
朝、布団から起き上がろうとして、まず腰が「ちょっと待った」と言う。次に膝が「俺も聞いてない」と言う。最後に肩が「会議には呼ばれてません」と抗議する。全身がバラバラの労働組合みたいに、それぞれ勝手にストライキを起こす。一郎はいつも、その交渉がまとまるまで、布団の中で天井を見上げて待つことにしていた。
「昨日までできたことが、今日できなくなる」
それが六十五歳という国の、憲法第一条らしかった。誰も可決した覚えはないのに、いつのまにか全会一致で施行されている。
若い頃は、老いというのは遠い惑星の話だと思っていた。望遠鏡でしか見えない、赤くて乾いた星。ところが気がつけば、自分がその星の住民登録をされていた。しかも転入届を出した記憶がまったくない。
「みんなオジさんになる。みんなオバさんになる」
一郎はそれを、この世のシステムの仕様書に小さく書かれた注意書きのようなものだと理解していた。読まなくても勝手に同意したことになっている、あの利用規約と同じだ。
朝の情けない交渉が終わると、一郎はどうにか布団から這い出し、ラジオ体操第一を始める。テレビの前で、腕を伸ばし、膝を曲げようとして、曲がらない。曲がらないというより、曲げた記憶を身体が拒否している感じだった。
「あ〜あ」
これが最近の一郎の、朝一番の挨拶になっていた。誰に言うでもない。強いて言うなら、部屋の隅で丸くなっていた猫のモモに言っていたのだが、モモは三年前に虹の橋とやらを渡ってしまい、今はもう挨拶を返してくれる相手がいない。
友の名は、田中哲夫。学生時代からの腐れ縁で、還暦を過ぎても月に一度は居酒屋で管を巻いていた仲だった。その哲夫も、一昨年、心筋梗塞であっけなく逝ってしまった。
「友達ロスと、ペットロスが、ここに居座ったまま出て行かない」
一郎はそれを、間借り人だと思うことにしていた。家賃も払わず、退去届も出さず、ただ心の一室にずっと居座っている、行儀の悪い間借り人。追い出そうとすると、余計にしがみついてくる。
そんなある日——それは昭和の名残がまだかすかに匂う、平成をくぐり抜け、令和というまだ慣れない看板を掲げたばかりの、四月の朝のことだった——一郎の家の呼び鈴が鳴った。
「はーい」
出ると、そこには見知らぬ女が立っていた。
歳の頃は三十代半ばに見える。だが妙に、そう見えるだけで実は何歳でもないような、不思議な質感があった。紺色のスーツを着て、手には黒い革の手帳。そして、彼女の胸のあたりに、小さなランプのようなものが埋め込まれていて、それがチカチカと、まるで信号機の途中経過のように点滅していた。
「渡辺一郎様でいらっしゃいますね」
「はあ」
「老化管理局から参りました。時世(ときよ)と申します」
一郎は、これは新手の訪問販売か、それとも認知症の始まりかと、しばらく考えた。
二、訪問者
「老化……管理局?」
「はい。皆様の加齢プロセスの進行を、適正に管理・運営する部署でございます」
時世と名乗る女は、まるで役所の人間が住民票の説明でもするような口調で言った。手帳を開くと、そこには一郎の名前、生年月日、そして——
「渡辺様の色タイマーが、本日未明より点滅を開始いたしました」
「色タイマー?」
「はい。あの、特撮のヒーローの胸についているアレです。イメージしていただければ」
一郎は思わず自分の胸を見た。何もついていない。
「ご心配なく。渡辺様の色タイマーは、渡辺様には見えません。私どもの管理端末にのみ表示されます」
「……つまり、私は、あと何分かで爆発する、と?」
「爆発ではございません。ただ、残存活動時間が一定の閾値を下回りましたので、規定に基づき、査定面談にお越しいただく必要がございます」
一郎は玄関先で立ち尽くした。詐欺だろうか。しかし、詐欺にしては彼女の胸のランプが妙に本物くさい。それに、この女、笑うと少しだけ、亡くなった哲夫に似た、困ったような笑い方をする。
「あの、それは、断れるんですか」
「制度上は、拒否権はございます。ただし——」
時世は手帳をめくった。
「拒否された方の色タイマーは、点滅速度が加速する傾向にございます」
「脅しですか」
「統計でございます」
一郎はため息をついた。六十五年生きてきて、統計に勝てたためしがない。
「わかりました。行きます」
「ありがとうございます。では、こちらへ」
時世が指を鳴らすと、一郎の玄関先の空気が、まるで古いブラウン管テレビの砂嵐のようにザラザラと揺れ、次の瞬間、二人は見たこともない場所に立っていた。
三、老化管理局
そこは、雲の上にあるビル、としか言いようのない場所だった。窓の外には青空が広がり、床は大理石のようでいて、踏むとどこか柔らかい。壁には、無数のファイリングキャビネットが宙に浮いたまま整然と並び、たまに勝手に引き出しが開いて、書類が一枚、ひらりと飛んで別のキャビネットに吸い込まれていく。
「ここは老化管理局、通称『老いの国』の第七出張所でございます」
待合室には、一郎と同じくらいの年齢の男女が何人も座っていた。皆、それぞれの胸のあたりに——一郎には見えないはずのランプが、なぜかここでは見えた——色タイマーが点滅している。あるものは速く、あるものはゆっくりと。
面白いことに、一番のんびりした顔で雑誌をめくっている、いかにも「なるようになるさ」という顔つきの老人の点滅は、ひどくゆっくりだった。逆に、隣で貧乏ゆすりをしながら「早く終わらせてくれ」と苛立っている神経質そうな男の点滅は、かなり速い。
「あの、ストレスが多いほうが、老化が早いということですか」
一郎が尋ねると、時世は少し困ったように微笑んだ。
「概ねその通りです。ただし例外もございます。渡辺様のように、抵抗される方は」
「抵抗?」
「はい。運命に対して、ジタバタとあがく方です」
時世は手帳の一郎のページを指さした。そこには、細かい折れ線グラフが描かれていて、あるところでガクンと傾斜が緩やかになっている。
「ここ、二年ほど前です。毎朝の散歩を日課にされましたね」
「膝が痛いのに、意地で歩いてます」
「その『意地』が、傾斜を緩めております。無駄な抵抗と知りながら、それでも諦めない。それが、わずかながら時間を稼ぐのです」
一郎は驚いた。ジタバタは無駄だと、自分でもわかっていた。だが無駄は、完全な無駄ではなかったらしい。
「もっとも」
時世は続けた。
「隣の、雑誌を読んでいらっしゃる田村様のように、何も気にせず飄々と生きていらっしゃる方のほうが、結果として傾斜が緩やかなケースも、実は多数ございます」
「え、じゃあ、僕の苦労は……」
「無意味というわけではございません。ただ、公平ではない、というだけでございます」
一郎はガクッと肩を落とした。この宇宙は、思っていた以上に意地悪な設計をしているらしい。
四、色タイマーの査定
面談室に通されると、そこは意外にも、昭和の喫茶店のような、レトロな内装だった。木のテーブル、格子柄のソファ、壁には古いポスター。
「ここは、渡辺様が一番落ち着く時代の様式に、自動調整しております」
「僕の記憶から、勝手に引っ張ってきてるんですか」
「はい。皆様、心地よい時代の記憶を、無意識に引きずっていらっしゃいますので」
時世はコーヒーを二つ運んできて、一つを一郎の前に置いた。
「さて、査定でございますが」
「はい」
「渡辺様の場合、今年に入ってから、できないことが急に増えました。走れない、疲れが取れない、身体が固まる。曲がらない。これらはすべて記録されております」
「知ってますよ、自分の身体なんで」
「そして今年の春には、ご入院もされました」
一郎の顔が少し曇った。手術は無事に済んだが、退院してからも、まだ体力は戻らない。まるで身体のあちこちに、以前は無かった「注意書き」が貼られたようだった。
「あの入院は、今も尾を引いております」
「傷は治ったはずなんですが」
「傷は治っても、傷を治すのに使ったエネルギーは、戻ってまいりません。それが、老いというものの、少し意地悪な仕組みでございます」
一郎はコーヒーを一口飲んだ。苦い。妙に、若い頃に哲夫と入った喫茶店の味に似ていた。
「時世さん」
「はい」
「僕は、あとどれくらい、ジタバタできますか」
時世は少し黙った。手帳を閉じ、窓の外の青空を見た。
「それは、私には——というより、誰にも、正確にはわかりません。色タイマーは目安であって、宣告ではございません」
「じゃあ、意味ないじゃないですか、その査定」
「意味は、ございます」
時世は静かに言った。
「渡辺様が、残りの時間をどう使うか。それを、渡辺様ご自身に、考えていただくための面談でございます」
一郎はしばらく黙って、コーヒーカップの中の自分の顔を見ていた。歳をとった、疲れた顔。だが、その顔の向こうに、まだ何か言いたいことがある目をしていた。
「もう一つ、伺ってもいいですか」
「はい」
「あなたは、何歳なんですか」
時世は初めて、少し驚いた顔をした。
「私は……年齢という概念の外側におります」
「つまり?」
「時間そのものの、末端の職員のようなもの、とお考えください」
五、モモとテツオ
その日から、なぜか時世は月に何度か、一郎の家を訪れるようになった。「経過観察」という名目だったが、一郎には、それが本当に業務なのか、それとも彼女なりの気まぐれなのか、よくわからなかった。
ある日、時世は妙な提案をしてきた。
「渡辺様。局には『追想課』という部署がございまして、ご希望の方には、既に他界された方や、ペットとの、限定的な再会を斡旋しております」
一郎の心臓が、ドキンと跳ねた。
「モモに……会えるんですか」
「三十分だけでございますが」
一郎は迷わず頷いた。
案内された部屋は、驚くほど質素だった。畳の部屋に、一郎の家にあったのとそっくりな座布団が一枚。そこに座ると、部屋の隅から、聞き覚えのある「ニャア」という声がした。
「モモ」
一郎の声は震えていた。三年ぶりに見る、丸々とした茶トラの猫。モモは何事もなかったかのように、一郎の膝の上に飛び乗り、丸くなった。
「お前……元気にしてたか」
モモは答えなかった。当たり前だ、猫だから。だが、その温もりと重みは、間違いなく本物だった。三十分間、一郎はただ、モモを撫で続けた。何も話さず、何も聞かず、ただ撫でた。それで十分だった。
三十分が終わると、モモはふっと霞のように消えた。一郎は畳に一人残され、しばらく、声を出さずに泣いた。
「これは……ずるいですよ、時世さん」
面談室に戻ると、一郎は目を赤くして言った。
「ずるい、とは?」
「一度会わせたら、また会いたくなるじゃないですか」
「それが、この制度の、唯一の欠陥かもしれません」
時世は珍しく、少し寂しそうな顔をした。
「渡辺様。私は、これまで多くの方の、こうした再会に立ち会ってまいりました。皆様、一様に仰います。会えてよかった、と。そして同時に、もっと早く言っておけばよかったことがある、とも」
一郎はふと、哲夫のことを思い出した。
「田中哲夫にも……会えますか」
「ご友人の方も、申請は可能でございます。ただし」
時世は言いにくそうに言葉を切った。
「田中様は、既に次の生に向けて、大部分の記憶を手放していらっしゃいます。お会いになっても、渡辺様のことを、覚えていらっしゃらない可能性が高うございます」
一郎はしばらく考えて、首を振った。
「いいです。哲夫は、僕の中で、ちゃんと生きてますから」
「よろしいのですか」
「忘れて次に進むのがあいつのジタバタなら、覚えて抱えて生きていくのが僕のジタバタだ。僕が覚えていれば、それで、どっちも損はしてない」
時世は、一郎をじっと見つめた。その目には、これまで見たことのない色が浮かんでいた。
六、冬の病床
冬が近づいたある日、一郎は再び体調を崩し、緊急入院することになった。春の手術の後遺症が、思わぬところで悪さをしたのだった。
病室のベッドで意識が朦朧とする中、一郎はふと、枕元に時世が座っているのに気づいた。
「時世さん……仕事中、ですか」
「いいえ。これは、業務ではございません」
「じゃあ、なんで」
「渡辺様の色タイマーが、久しぶりに、急な点滅をいたしましたので」
一郎は苦笑した。
「心配してくれてる、ってことですか」
時世は答えなかった。ただ、一郎の手をそっと握った。冷たくもなく、温かくもない、不思議な感触だった。
「時世さん、聞いていいですか」
「はい」
「あなたは、こういうこと、これまでにも、あったんですか。人間の、患者に、こうして付き添うこと」
長い沈黙があった。
「……ございます」
「何人?」
「数えておりません。数えると、辛くなりますので」
一郎は、天井を見上げた。
「みんな、逝ってしまうんですね。あなたが好きになった人は」
「私は、好きになってはいけない立場でございます。局の規則で」
「でも」
「でも、好きになってしまいました。何人も」
時世の声は、いつもの事務的な口調とは違って、ひどく人間くさかった。
「私は、人間の皆様の『無駄な抵抗』を、間近で見続けてまいりました。ジタバタと、諦めきれずに、それでも生きようとする姿を。それを、愚かだと思ったことは、一度もございません。むしろ——美しいと、思ってしまいました」
一郎は、麻酔の効きかけた頭で、なんとか彼女の言葉を受け止めようとした。
「それで、僕にも?」
「渡辺様は、特に」
「なんで、僕なんですか。ただの、疲れた爺さんですよ」
時世は、少し笑った。
「渡辺様は、猫のために泣き、友人のためには涙をこらえ、それでも毎朝、痛む膝で歩き続けていらっしゃいます。無駄だと知りながら」
「それの、どこが特別なんですか。みんな、そうやって生きてるでしょう」
「はい。ですから——皆様、特別なのです」
その言葉を最後に、一郎の意識は闇に沈んでいった。
七、巨大な壁
一郎が目を覚ましたのは、三日後だった。手術は成功し、命に別状はなかった。しかし、目を覚ました一郎の枕元に、時世の姿はなかった。
代わりに、見知らぬ、灰色のスーツを着た、いかにも「上司」という顔つきの男が立っていた。
「渡辺一郎様。老化管理局、監査部の者です」
「時世さんは?」
「時世は、規則違反により、現在、査問中です」
一郎は跳ね起きようとして、傷口の痛みに顔をしかめた。
「規則違反って、何をしたって言うんですか」
「担当者としての一線を越え、業務範囲外の感情的介入を行いました。具体的には、あなたの臨終間際の時間軸に、無許可で干渉し、生命維持プロセスをわずかに延長させました」
一郎は、息を呑んだ。
「時世さんが……僕を、助けたんですか」
「結果的には、そうなります。ですが、これは重大な規則違反です」
「彼女は、どうなるんですか」
「本来であれば、消去処分——存在そのものの初期化に相当します」
一郎は、ベッドから無理やり足を下ろそうとした。看護師が慌てて止めるのも構わず、彼は叫んだ。
「待ってください! それは、僕のせいです。彼女は、悪くない!」
「渡辺様、興奮なさらないでください」
「僕を、局に連れて行ってください。抗議します」
灰色のスーツの男は、一郎をしばらく見つめた後、静かに言った。
「……渡辺様は、規則というものが、どういうものかご知性ですか」
「規則は、人間が、いや——時間とかいうもんが、勝手に作ったもんでしょう。だったら、変えられないわけがない」
「規則は、巨大な壁のように、変わりません」
「壁だって、いつかは崩れる。僕の身体だって、こんなにボロボロになっても、まだ立ってる。壁も、僕と同じくらい、意地を張ってるだけかもしれない」
灰色の男の目に、わずかな動揺が走った。
「……面白い理屈です」
「僕は、六十五年間、無駄な抵抗ばかりしてきた男です。今更、諦め方を知りません」
八、点滅、あるいは灯り
一郎の「抗議」がどれほど効いたのかは、今でもよくわからない。おそらくは、局の中にも、一郎と時世のやり取りをずっと見守っていた、名もなき味方がいたのだろう。
一週間後、退院した一郎の家に、時世が現れた。以前と変わらぬ紺色のスーツ、手には黒い革の手帳。だが、胸の点滅は、以前よりずっと、ゆっくりとしていた。
「消去は、免れました」
「よかった……本当に、よかった」
「代わりに、記憶の一部を制限され、次の異動先が決まりました。もう、渡辺様の担当ではいられません」
一郎は、覚悟していたはずなのに、それでも胸が締め付けられた。
「異動先は、どこですか」
「まだ人間が生まれる前の、時間の始まりの部署です。しばらくは、地上には戻れません」
「しばらく、って?」
「渡辺様の時間で言えば……おそらく、渡辺様がこの星に住んでいる間には、戻れないかと」
一郎は、ゆっくりと頷いた。ジタバタしても、覆せないことがある。それを、彼はもう、十分に知っていた。
「時世さん」
「はい」
「僕は、令和になっても、まだ壁と格闘してます。色タイマーは点滅しっぱなしです。でも」
一郎は、庭先の、モモが好きだった日向を見た。
「あなたと会って、少しだけ、わかったことがあります。ジタバタは、無駄じゃない。無駄でも、意味がある。負けるとわかってても、あがいた分だけ、何かが、わずかに残る」
時世は、微笑んだ。人間くさい、少し困ったような、あの笑い方だった。
「渡辺様。最後に、一つだけ、規則違反をしてもよろしいでしょうか」
「もう、十分してるじゃないですか」
「もう一つだけです」
時世は、一郎の胸に手を当てた。見えないはずの色タイマーに、そっと触れるように。
「渡辺様の色タイマーは、これからも点滅を続けます。止めることは、私にもできません。ですが——」
彼女の手のひらから、淡い光が一郎の胸に染み込んでいくのがわかった。
「点滅の意味を、少しだけ変えました。これからは、警告ではなく、灯りとして、点滅します」
「灯り?」
「渡辺様が、まだ生きている、という証の灯りです。消える瞬間まで、渡辺様の隣で、静かに灯り続けます」
一郎の目から、涙がこぼれた。悲しみだけではない、何か温かいものが、その涙には混じっていた。
「ありがとう、時世さん」
「こちらこそ、ありがとうございました、渡辺様。……果てしない時間の先で、またお会いしましょう」
時世は一歩下がり、深く一礼した。そして、玄関先の空気がまた、あの古いブラウン管の砂嵐のようにザラザラと揺れ——気がつくと、一郎は一人、いつもの玄関に立っていた。
終章
それから一郎は、また一つ、歳を重ねた。
六十六になっても、身体は思うようにならない。走れないし、朝はやっぱり布団の中で、身体中の労働組合と交渉しなければならない。
それでも、ラジオ体操をしながら、一郎はふと、自分の胸のあたりに手を当てることがある。見えるはずのない色タイマーを、確かめるように。
「まだ、灯ってるかな」
答えは、いつも同じだった。灯っている。今日も、灯っている。
昭和を生き、平成を渡り、令和という手強い壁の前に立たされても、一郎は今日もジタバタと、無駄な抵抗を続けている。それが無駄であることは、もう十分に知っている。それでも、あがくだけの理由が、今の一郎には、ちゃんとある。
こんな爺さんが、ここにいた。
ただ、それだけのことだ。
だが、その「それだけのこと」の中に、確かに、誰かに愛され、誰かを愛した時間が、灯りのように、静かに残っている。
― 了 ―
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あとがき
人は齢を重ねるにつれ、失うものの多さに目を奪われがちになります。体力、若さ、そして大切な人たちとの時間。けれど、通り過ぎてきた月日や抱えてきた想い出は、消えて無くなるわけではありません。
どれほど時代の波に洗われ、身体が思うように動かなくなったとしても、私たちが今日を懸命に生き、あがいてきた証は、胸の奥で小さな「灯り」となって輝き続けています。
渡辺一郎という小さな存在を通して描いたこの物語が、日々を懸命に生きるすべての人へのささやかな応援歌となり、あなたの歩む道を少しでも温かく照らすことができたなら、とても嬉しく思います。
物語を閉じても、あなたの胸の「灯り」が、明日もどうか静かに輝き続けますように。

