永遠のすこし先
――ある古書店主と、境界からきた人の物語⸻
まえがき
人は、ときどき不思議な懐かしさを覚えることがあります。
初めて訪れた場所なのに、なぜか知っているような気がする。
初対面の人なのに、ずっと昔から知っているような気がする。
聴いたことのない音楽なのに、なぜか涙が出る。
それが何なのか、私たちは普段、深く考えません。
気のせいだろう。
記憶違いだろう。
歳を取ったせいだろう。
そうやって片づけてしまいます。
けれど、もし――。
この世界のすぐ隣に、私たちには見えないもうひとつの世界が重なっているとしたら。
もし、そこを行き来する人がいたとしたら。
そして、私たちが「初めて会った」と思っている誰かが、実は何度も何度も、別の時代、別の場所で、私たちの人生を訪れていたとしたら。
人生は、一度きりなのか。
死とは、終わりなのか。
出会いとは、本当に偶然なのか。
この物語に、確かな答えはありません。
ただひとつだけ。
人が誰かを大切に思う気持ちは、時間や場所を越えて残るのかもしれない。
そんなことを考えながら、この物語を書きました。
永遠は、遠くにあるのではない。
もしかすると――
私たちのすぐ隣にある。
ただ、ほんの少し先に。
序章 兆し
還暦を越えた頃から、宮下汐里には、自分でも説明のつかない変化が起きていた。
朝、庭のあじさいの青々とした葉に水をやりながら、ふいに涙がこぼれる。
悲しいわけではない。
嬉しいわけでもない。
ただ、
「ありがたいな」
と思うのだった。
朝の光。
水の冷たさ。
土の匂い。
風に揺れる葉。
蛇口をひねる、自分の指先。
そのひとつひとつが、妙に愛おしかった。
まるで、これまで当たり前だと思っていたものを、初めて見るような感覚だった。
汐里は、庭の石に目を落とした。
ただの小さな石だった。
それなのに、
「あなたも、ここにいてくれたんだね」
と、心の中でつぶやいていた。
自分でも少しおかしいと思う。
けれど、笑う気にはなれなかった。
夫を早くに亡くし、子どもはいない。
夫が亡くなってからは、小さな古書店をひとりで守ってきた。
店の名前は「灯かげ堂」。
祖父の代から続いている店だった。
古い本ばかりを扱っているせいで、商売としては決して繁盛していない。
それでも汐里は、この店を嫌いになったことがなかった。
本には、それぞれ時間がある。
誰かが買い、誰かが読み、誰かの人生を通り過ぎ、また別の誰かの手に渡っていく。
そうして、本は人間より長く生きる。
夫が亡くなったあとも、汐里は本に囲まれて暮らした。
寂しくないと言えば嘘になる。
それでも、自分の人生を恨んだことはなかった。
むしろ最近は、これまで生きてきたことそのものに、深い感謝を覚えるようになっていた。
なぜなのかは、わからない。
ただ、
――生きているというより、生かされている。
そんな気がしてならなかった。
そして、もうひとつ。
汐里には、以前は見えなかったものが見えるようになっていた。
視界の端に、透明な波紋が立つ。
空気が、ほんの少しだけ二重に見える。
夕暮れの店先。
雨上がりの道路。
水たまりに映った空。
そんな場所で、ときどき世界が薄く揺れるのだ。
最初は目の疲れだと思った。
眼科にも行った。
異常はなかった。
だから、誰にも話さなかった。
歳のせいだと笑われるのが嫌だったからではない。
それが、あまりにも懐かしかったからだ。
まるで、ずっと昔に知っていたものを、もう一度思い出しかけているような。
そんな感覚だった。
ある朝、あじさいに水をやりながら、汐里は空を見上げた。
薄い雲の向こうに、太陽があった。
その光の中に、一瞬だけ、もうひとつの空が重なったように見えた。
汐里は目を細めた。
そして、なぜか笑った。
「そのうち、わかるのかしら」
誰に言うでもなく、そうつぶやいた。
雨の季節が始まろうとしていた。
一 灯かげ堂
その男が現れたのは、雨の夕方だった。
店の中には、雨音しかなかった。
古い柱時計が六時を告げた。
その直後、
――からん。
入口の鈴が鳴った。
汐里が顔を上げる。
そこに、男が立っていた。
傘を持っていなかった。
それなのに、服はほとんど濡れていない。
三十代にも見える。
五十代にも見える。
年齢というものが、うまく当てはまらない顔だった。
男は店内を見渡した。
懐かしむように。
あるいは、確かめるように。
感情を交えずに言った。
「ここには、まだ誰も読んでいない本がありますね」
汐里は少し笑った。
「古本屋ですから。読まれていない本なら、いくらでもありますよ」
男も笑った。
「そういう意味ではありません」
「では、どういう意味ですか」
男は答えず、店の奥へ歩いていった。
汐里は呼び止めようとした。
けれど、なぜか止めなかった。
男は迷うことなく、一番奥の棚の前に立った。
そこには、何年も動かしていない本が並んでいた。
男は、その中から一冊を抜き取った。
深い藍色の布張り。
題名はない。
著者名もない。
背表紙にも、何も書かれていない。
汐里は眉をひそめた。
「そんな本、ありました?」
「ずっと、ここにありました」
「私が知らないのに?」
「知らないから、ここにいられたんです」
男は本を開いた。
白紙だった。
最初のページも。
次のページも。
最後のページまで。
「何も書いてないでしょう」
汐里が言うと、男は静かに答えた。
「今は、まだ」
その言葉に、汐里の胸がざわついた。
「あなた、お名前は?」
「瀬名です」
「瀬名さん」
「はい」
「どこかで会ったことがありますか」
瀬名は少し考えるように黙った。
そして、
「たぶん」
と答えた。
「たぶん?」
「でも、今の僕と今のあなたでは、初めてです」
意味がわからなかった。
それでも、汐里は不思議と怖くなかった。
瀬名は本を閉じた。
「これ、買えますか」
「もちろん」
汐里が値札を探そうとすると、瀬名は財布を取り出した。
中から出てきたのは、一枚の古い硬貨だった。
見たことのない文字が刻まれている。
「……これは?」
「こちらでは使えないみたいですね」
「どこから来たんですか、そのお金」
瀬名は困ったように笑った。
「それも、うまく説明できません」
汐里は硬貨を返した。
「今日はいいですよ」
「え?」
「また今度で」
瀬名は、しばらく汐里を見つめていた。
そして、ほんの少しだけ目を伏せた。
「ありがとうございます」
その声には、妙な懐かしさがあった。
瀬名は藍色の本を棚に戻した。
そして店を出ていった。
ドアの鈴が鳴った。
雨音が戻ってきた。
汐里はしばらく動けなかった。
やがて、藍色の本を見た。
さっきまで白かった表紙の隅に、
小さな水滴がひとつ付いていた。
汐里は指でそれを拭った。
その瞬間――
頭の中に、知らない景色が浮かんだ。
石畳。
高い塔。
見知らぬ文字。
そして、誰かの笑い声。
汐里は思わず目を閉じた。
「……今の、何?」
答える人はいなかった。
二 雨の日の客
瀬名は、その後も雨の日になると店へ来た。
いつも夕方だった。
いつも同じように、本を眺めた。
そして、ほとんど何も買わなかった。
「本屋さんなのに、買わないんですね」
ある日、汐里が笑うと、
「ここに来ることが目的なので」
瀬名は平然と答えた。
「それじゃあ、喫茶店と間違えてません?」
「あなたが、お茶を出してくれるなら」
「厚かましい人ね」
二人で笑った。
いつしか、それが当たり前になった。
瀬名は不思議な人だった。
滅びた国の言葉を知っていた。
まだ発明されていないような技術について話した。
見たことのない星の名前を知っていた。
けれど、自分自身のことを聞かれると、急に黙った。
「瀬名さんは、どこに住んでいるの?」
「遠いところです」
「東京より?」
「ずっと」
「外国?」
「もっと遠い」
「宇宙?」
瀬名は笑った。
「そういうことにしておきましょう」
「変な人」
「よく言われます」
そんな会話を何度も繰り返した。
ある雨の夜。
閉店後の店内で、汐里はついに聞いた。
「あなた、私のことを知っているでしょう」
瀬名は答えなかった。
「初めて会った人を見る目じゃないもの」
長い沈黙のあと、瀬名が言った。
「あなたにも見えているんでしょう?」
「何が?」
「境界です」
汐里は息を止めた。
窓の外では雨が降っていた。
街灯の光の中に、透明な波紋が揺れている。
「これ?」
「はい」
「あなたには、見えるの?」
「見えます」
「何なの?」
瀬名は、しばらく波紋を見つめていた。
「世界と世界の境目です」
「世界?」
「こちら側と、向こう側。今いる場所と、別の場所。その間にある薄い膜のようなものです」
「そんなものが、本当にあるの?」
「あります」
「あなたは……」
汐里は言葉を選んだ。
「向こう側の人?」
瀬名は少しだけ笑った。
「そうかもしれません」
「死んだ人?」
「それとも、まだ死んでいない人」
「どっちなの?」
「その境目にいる人間です」
瀬名はそう言って、汐里の手を取った。
温かかった。
確かな体温があった。
汐里は驚かなかった。
むしろ、
「ああ」
と思った。
この温度を知っている。
ずっと昔から。
「怖くないんですか」
瀬名が聞いた。
「怖くない」
「どうして?」
汐里は自分でもわからなかった。
だから、正直に答えた。
「あなたを知っている気がするから」
瀬名は、悲しそうに笑った。
三 名前のない本
ある日、汐里は藍色の本を店の机に置いた。
「これ、読めるようになるの?」
「いつか」
「いつ?」
「あなたが思い出したとき」
「何を?」
瀬名は答えなかった。
その夜、汐里は夢を見た。
見知らぬ街だった。
石畳。
高い塔。
夜空には、こちらの世界にはない星がいくつも輝いている。
自分は若かった。
今の自分より、ずっと。
誰かを待っていた。
やがて、一人の男が走ってきた。
顔は見えない。
けれど、笑い方だけはわかった。
「遅かったね」
自分が言った。
男は笑った。
「境界が、少し混み合っていたので」
汐里は目を覚ました。
枕が濡れていた。
翌日、瀬名に夢の話をした。
瀬名は黙って聞いていた。
「その街を知っているの?」
「はい」
「本当に?」
「知っています」
瀬名は藍色の本を見た。
「この本も、たぶん知っています」
「どういうこと?」
瀬名は一枚のページを開いた。
白紙だった。
「昔、この本を持っていたことがあります」
「あなたが?」
「僕と、あなたで」
汐里は息をのんだ。
瀬名はページを一枚ずつめくった。
「これは、記憶を保存する本ではありません」
「じゃあ何?」
「記憶が戻るための場所です」
「よくわからない」
「忘れていることと、消えていることは違います」
瀬名はそう言った。
「記憶は、なくなったように見えても、どこかに残ることがあります」
「どこに?」
「魂の、もっとも深いところに」
汐里は苦笑した。
「魂なんて、本当にあるのかしら」
「僕は、あると思っています」
「科学的じゃないわね」
「あなたが古本屋だから、そういう話も嫌いではないでしょう」
「それは偏見よ」
二人は笑った。
そのときだった。
白紙だったページに、一文字だけ浮かび上がった。
汐里は息を止めた。
文字は、読めなかった。
けれど、その意味だけはわかった。
――一。
四 十七の輪
その夜から、汐里は夢を見るようになった。
一つ目の夢では、海辺にいた。
漁村だった。
汐里は老女だった。
夫を海で亡くし、毎朝ひとりで浜辺に立っていた。
ある日、難破船から一人の男が流れ着いた。
その男を看病した。
男が笑った。
その笑い方を、汐里は知っていた。
二つ目の夢では、戦火の街にいた。
瓦礫の中で、誰かの名前を呼んでいた。
声が枯れても呼び続けた。
やがて誰かが抱きしめてくれた。
その腕の温度だけが、はっきり残った。
三つ目の夢では、二つの太陽がある星にいた。
研究室の窓辺で、一人の男と空を見ていた。
男が言った。
「この星が滅びる前に、あなたに伝えたいことがある」
そこで夢が終わった。
四つ目。
五つ目。
六つ目。
夢は少しずつ増えていった。
知らない言葉。
知らない街。
知らない身体。
知らない時代。
けれど、必ず誰かがいた。
笑い方だけが同じだった。
手の温度だけが同じだった。
そして、いつも最後には別れがあった。
ある夜、汐里は藍色の本を開いた。
ページには、数字が浮かんでいた。
一。
二。
三。
そして十七。
十七ページ目だけに、文章があった。
短い一文だった。
――また、会えますか。
汐里は震える手でページに触れた。
瀬名が言った。
「十七回目です」
「私たちは、十七回も?」
「はい」
「どうして覚えていないの?」
「境界を越えるとき、ほとんどの記憶は失われます」
「じゃあ、どうしてあなたは覚えているの?」
「覚えているわけではありません」
瀬名は静かに首を振った。
「残っているんです」
「何が?」
「笑い方とか、手の温度とか。声の響きとか。そういう、言葉にならないものが」
汐里は黙った。
「だから、見つけられる」
「何度生まれ変わっても?」
「何度、世界が変わっても」
「……それって、運命なの?」
瀬名は少し考えた。
「僕にはわかりません」
「じゃあ、何?」
「たぶん、癖です」
「癖?」
「あなたを探す癖」
汐里は笑った。
泣きながら。
「変な人」
「よく言われます」
五 境界の向こう
夏の終わり、汐里は倒れた。
心臓だった。
病院へ運ばれ、数時間の検査を受けた。
意識を失っていた時間は、ほんのわずかだったという。
けれど、そのあいだに汐里が見たものは、あまりにも鮮明だった。
光の回廊。
左右に並ぶ、無数の扉。
一つひとつの扉の向こうに、人生があった。
海辺。
戦火。
二つの太陽。
塔の街。
そして、まだ知らない世界。
汐里は歩いた。
怖くなかった。
どの扉も、自分の家のように感じた。
やがて、一番奥に瀬名が立っていた。
「来たんですね」
「ここは?」
「境界です」
「あなたは、ずっとここにいるの?」
「行ったり来たりしています」
「何のために?」
瀬名は少し笑った。
「迷っている人が、帰る場所を間違えないように」
「あなたは、死んでいるの?」
瀬名は答えなかった。
「じゃあ、生きているの?」
それにも答えなかった。
ただ、
「その二つを分ける必要がない場所もあるんです」
と言った。
汐里は扉を見た。
「私たちは、なぜ何度も会うの?」
瀬名はしばらく黙った。
「わかりません」
「また?」
「僕にも、わからないことはあります」
それから、少しだけ笑った。
「でも、一つだけ確かなことがあります」
「何?」
「あなたが、世界に感謝すると、僕にはわかるんです」
「どうして?」
「境界の向こうまで、響くからです」
汐里は、あじさいを思い出した。
朝の光。
水。
土。
石ころ。
すべてに感謝した、あの感覚。
「私が呼んでいたの?」
「そうです」
「知らないうちに?」
「はい」
「じゃあ、あなたは私を探していた?」
「ずっと」
汐里は笑った。
涙が流れた。
「馬鹿ね」
「そうかもしれません」
「私も馬鹿ね」
「それは、僕には否定できません」
二人は笑った。
しばらくして、瀬名が言った。
「汐里さん」
「なに?」
「まだ、ここに来るには早いです」
「わかってる」
「帰ってください」
「あなたは?」
「僕は、ここで待っています」
「寂しくない?」
瀬名は少しだけ目を伏せた。
「寂しいです」
その言葉を聞いた瞬間、汐里は初めて瀬名のことが怖くなった。
どこか浮世離れした、完璧な存在などではない。
神様でも何でもない、ただの「人」なのだと知ったからだ。
自分と同じように傷つき、別れを恐れ、寂しさを抱えて生きる一人の人間。その切なさに、胸が締めつけられるように怖かった。
汐里は手を伸ばした。
瀬名がその手を握った。
「また来る」
「はい」
「今度は、ちゃんと呼ぶ」
「待っています」
光が強くなった。
汐里は目を閉じた。
六 戻る場所
目が覚めると、病室だった。
窓の外に、夏の終わりの空があった。
ベッドの横には、瀬名が座っていた。
「あなた、病院まで来られるの?」
「境界が近かったので」
「便利ね」
「そうでもありません」
汐里は笑った。
「私、死ぬのが怖くなくなった」
瀬名は答えなかった。
「でも、生きるのはもっと大事だって思った」
「それでいいと思います」
退院したあと、汐里は以前より丁寧に暮らすようになった。
朝、あじさいに水をやる。
店を開ける。
本を並べる。
客と話す。
夕方には、窓を拭く。
夜になれば、明日のことを考える。
何も特別なことはない。
けれど、一日一日が以前とは違っていた。
生きていることが、奇跡のように思えた。
瀬名も、ときどき店へ来た。
二人は何もせずに座ることも多かった。
本を読んだ。
お茶を飲んだ。
庭を眺めた。
話さない時間さえ、二人には必要だった。
秋になった。
ある日、瀬名が言った。
「そろそろです」
汐里は驚かなかった。
「わかってた」
「いつから?」
「ずっと」
瀬名は笑った。
「あなたは、境界が見えるようになりましたね」
「あなたが教えたから」
「僕は何も教えていません」
「じゃあ、思い出したのね」
瀬名は答えなかった。
七 十八回目
満月の夜だった。
汐里は庭に出た。
空気の中に、透明な波紋が立っていた。
これまで見たものとは違う。
はっきりしていた。
境界だった。
その向こうに、瀬名が立っている。
けれど、いつもの姿ではなかった。
少年のようでもあり、
老人のようでもあり、
青年のようでもあった。
姿だけが、何度も変わって見える。
けれど、笑い方だけは同じだった。
「行くのね」
汐里が言った。
「はい」
「次は、どこ?」
「まだ決まっていません」
「私も行く?」
「いつか」
「いつ?」
「それは、僕にもわかりません」
汐里は笑った。
「じゃあ、また会える?」
瀬名は頷いた。
「十八回目に」
「約束して」
「約束します」
汐里は手を伸ばした。
境界の膜を指先が通り抜ける。
瀬名の指に触れた。
その瞬間だった。
十七の人生が、一本の糸になった。
海辺。
戦火。
二つの太陽。
塔の街。
見知らぬ星。
知らない名前。
知らない時代。
それぞれの人生で、二人は出会い、愛し、別れた。
そしてまた探した。
どの人生にも、完全な幸福などなかった。
必ず別れがあった。
けれど、どの人生にも、出会いがあった。
それだけで十分だった。
「ありがとう」
汐里が言った。
「こちらこそ」
瀬名の輪郭が薄くなる。
「さようなら」
汐里が言った。
瀬名は首を振った。
「その言葉は、まだ早いです」
そして消えた。
庭には、満月だけが残った。
汐里は空を見上げた。
不思議と寂しくなかった。
別れたのではない。
ただ、少し先へ行っただけなのだ。
終章 永遠のすこし先
それから数年が過ぎた。
汐里は、以前よりさらにゆっくりと歳を取っていった。
白髪が増えた。
皺も増えた。
階段を上るのが少し面倒になった。
重い本を運ぶと、翌日に腰が痛くなった。
それでも、毎朝、庭に出た。
あじさいに水をやった。
「今日も、ありがとう」
誰に言うでもなく、そう言った。
灯かげ堂は、相変わらず小さな古書店だった。
客は少ない。
けれど、ときどき若い人がやって来た。
古い本を探している人。
誰かへの贈り物を探している人。
理由もなく店に入ってくる人。
汐里は、その一人ひとりを大切にした。
本は、人から人へ渡っていく。
人もまた、誰かから誰かへ、何かを渡していく。
言葉。
記憶。
笑顔。
手の温度。
それらは、見えなくなっても、どこかに残る。
ある雨の日。
閉店後、汐里は店の奥へ行った。
藍色の本が、棚に置かれていた。
あの日から、一度も捨てる気にはならなかった。
汐里は本を取り出した。
表紙には、まだ何も書かれていない。
ページを開く。
一ページ目。
白紙。
二ページ目。
白紙。
三ページ目。
白紙。
十七ページ目。
そこだけには、あの日と同じ言葉があった。
――また、会えますか。
汐里は微笑んだ。
そしてページをめくった。
十八ページ目。
そこには、初めて文字が書かれていた。
汐里は息を止めた。
一行だけだった。
――次は、あなたが迎えに来てください。
その瞬間。
店の入口で、
――からん。
鈴が鳴った。
汐里は顔を上げた。
誰もいない。
けれど、店の外から雨音とは違う、小さな足音が聞こえた。
一歩。
また一歩。
そして、ドアが開いた。
そこに、一人の少年が立っていた。
十歳くらいだろうか。
濡れた髪。
少し困ったような顔。
少年は店内を見回した。
そして、汐里を見た。
「ここに、探している本がありますか」
汐里は立ち上がった。
胸の奥で、何かが静かに震えた。
「どんな本?」
少年は考えた。
「題名は、わかりません」
「著者は?」
「わかりません」
「どんな本なの?」
少年は、少し恥ずかしそうに笑った。
その笑い方を見て、汐里の目から涙がこぼれた。
「たぶん……」
少年が言った。
「ずっと昔から、僕が探していた本です」
汐里は笑った。
「そう」
指差した。
「じゃあ、一緒に探しましょう」
少年が歩いてくる。
その足音を聞きながら、汐里は思った。
永遠というものは、遠くにあるのではない。
死んだあとにだけ存在するものでもない。
今、この瞬間にもある。
誰かを想ったとき。
誰かに感謝したとき。
誰かの笑顔を、いつまでも覚えていたいと思ったとき。
そのすべてが、時間を越えて残っていく。
境界は、世界の果てにあるのではない。
すぐ隣にある。
ほんの少しだけ、向こう側に。
汐里は少年と並んで、本棚の間を歩いた。
雨は静かに降り続いていた。
藍色の本の十八ページ目には、もう一行、文字が浮かび始めていた。
――十八回目の物語は、ここから。
汐里は、その文字を見て微笑んだ。
そして、少年の手を取った。
温かかった。
どこか懐かしい温度だった。
外では、雨が上がり始めていた。
雲の切れ間から、一筋の光が差し込んだ。
その光の中に、透明な波紋がひとつだけ浮かんでいた。
汐里には、もう、それが何なのかわかっていた。
帰る場所ではない。
別れの場所でもない。
次の物語へ続く、
ほんの少し先への入口だった。
永遠は、遠くにはない。
いつだって、
この世界のすぐ隣にある。
ただ――
永遠の、すこし先に。
ー了ー
Amazon Kindle
あとがき
この物語を書きながら、何度も考えました。
人は、なぜ誰かと出会うのだろう。
なぜ、別れなければならないのだろう。
そして、なぜ別れたあとも、その人の笑顔や声や手の温度を覚えているのだろう。
人生は、一度きりなのかもしれません。
同じ人間として、同じ人生をもう一度生きることはできません。
けれど、人から受け取ったものは、一度きりでは終わらない。
優しくされた記憶。
誰かを大切にした時間。
言えなかった「ありがとう」。
別れ際に交わした笑顔。
そういうものは、本人がいなくなったあとも、別の誰かの中で生き続けます。
そう考えると、人生は一人で完結するものではないのかもしれません。
私たちは知らないうちに、誰かの人生の一部になっている。
そして、その誰かもまた、私たちの人生の一部になっている。
汐里が感じていた、
「生きているのではなく、生かされている」
という感覚も、そんなところから生まれたのかもしれません。
誰かに支えられている。
何かに守られている。
そして自分もまた、知らない誰かを支えている。
それに気づいたとき、死は少しだけ違って見えるのではないでしょうか。
もちろん、死が怖くなくなるわけではありません。
別れが寂しくなくなるわけでもありません。
それでも、
「終わりではなく、次のページなのかもしれない」
と思えるだけで、今この瞬間を少し大切にできる。
この物語が、そんな小さなきっかけになればと思っています。
もし、あなたにも、
「初めて会ったのに、なぜか懐かしい人」
がいるのなら。
もしかすると、その人とは、ずっと昔にどこかで会っていたのかもしれません。
あるいは、これから会う人なのかもしれません。
人生は、案外、不思議なものです。
そして、まだ知らない明日は、
永遠のすこし先に、
静かに待っているのかもしれません。

