知らない町にて
――奈良、すれ違う時間の物語――
まえがき
知らない町を歩くとき、人はなぜか少しだけ素直になれる気がします。
日々の忙しさの中で通り過ぎていた風の音や、道端の小石、見知らぬ誰かの言葉が、静かに心に染み込ん でくるからです。
この物語は、古い歴史と静寂が息づく奈良の町を舞台に、ひとりの旅人が織りなす「すれ違い」の時間を描いた短編です。
旅の途中で出会う人々。
彼らと交わす何気ない言葉の中に、どこか懐かしい響きを感じたことはないでしょうか。
もしかすると、旅先で出会う誰かは、いつかの自分自身なのかもしれません。
どうぞ、奈良の静かな空気感を思い浮かべながら、ゆったりとした時間の中でお楽しみください。
一、鹿と老人
奈良に着いたのは、朝の九時を少し過ぎた頃だった。
近鉄奈良駅の改札を出ると、曇り空の下、いつもより人が少ない気がした。
少ないのではなく、自分が急いでいないだけなのかもしれない。
ひとり旅というのは不思議なもので、時間の流れ方まで違って感じられる。
奈良公園へ向かう道すがら、鹿が歩道の脇でゆっくりと草を食んでいた。
その少し先、木陰のベンチに麦わら帽子をかぶった老人が座っていた。
膝の上には鹿せんべいの袋が置かれている。老人はせんべいを与えるでもなく、ただじっと鹿を眺めていた。
すれ違いざま、なぜか足が止まった。
「暑いですね」
思わず声をかけたのは、老人の額に浮かんだ汗が、やけに自分のものと重なって見えたからかもしれない。
老人はゆっくりこちらを向いた。少し驚いたような、それでいてどこか懐かしむような目だった。
「ああ、暑い。今日みたいな日は、昔もよく歩いたもんです」
「昔、というと?」
「若い頃、ひとりでよくこの辺りを歩いてね。何をするでもなく、ただ歩いて、誰かと少し話して。それだけで満足していた時期があった」
老人は鹿のほうへ視線を戻し、静かに続けた。
「あなたも、そういう感じですか」
図星だった。何と答えていいかわからず、曖昧に頷いた。老人はふっと笑った。
「急がなくていい。急いでいた頃のほうが、案外、何も覚えていないもんです。今のこの、何でもない時間のほうが、あとになって思い出すんですよ」
老人は鹿せんべいを一枚取り出し、近づいてきた鹿にそっと差し出した。
「それじゃあ」
老人に会釈をして、再び歩き出した。
数歩進んでから振り返ると、老人はもうこちらを見ていなかった。
ただ鹿と向き合う横顔を見つめていると、ベンチの端に小さな傷があることに気づいた。
その傷を、自分は以前どこかで見たことがあるような気がした。けれど、それがいつだったのかは、どうしても思い出せなかった。
二、道を尋ねる声
東大寺の方角へ向かう途中、細い路地でひとりの女性に呼び止められた。
二十代前半くらいだろうか。スマートフォンを片手に、少し困った顔をしている。
「すみません。依水園って、この道で合ってますか?」
「ええ。そのまま真っ直ぐ行って、二つ目の角を右です」
「ありがとうございます」
女性は画面を確認し、少しためらってから言った。
「あの……変なこと聞きますけど、ひとりで知らない町を歩くのって、怖くないですか? わたし、今日が初めてのひとり旅なんです」
彼女は照れくさそうに笑った。その言葉を聞いた瞬間、かつての自分の声を聞いた気がした。何もかもが手探りで、誰かに正解を求めていた頃の自分だ。
「最初は、間違った方向に進んでる気がして落ち着かないかもしれません」
少し考えてから続けた。
「でも、間違えても案外どうにかなる。むしろ、間違えた場所に思いがけないものがあったりするんですよ」
女性はふっと目を細めた。
「なんだか……前にも、その言葉を聞いたことがある気がします」
「え?」
「いえ、気のせいです。ありがとうございました」
彼女は深く頭を下げ、路地の先へ歩いていった。
風に揺れる髪を耳にかける仕草。その少しぎこちない歩き方。
どこかで知っているような妙な感覚が残り、一瞬、追いかけて言葉を足そうかと思った。
人生ではこういうことに気をつけたほうがいい、と。
けれど、やめた。あの頃の自分が知りたかったのは、正しい答えではなく、「大丈夫」という響きだけだったのだから。
三、茶屋の老女
昼を過ぎると、少し足に疲れを覚えた。
公園の外れにある小さな茶屋に入る。古びた木の戸を開けると、涼やかな風鈴の音が響いた。
奈良漬けと抹茶のセットを頼む。
店番をしていた老女が、湯呑みを置きながら静かにこちらを見た。
「ひとりで来られる方は、大抵、何かを探しに来てはるんですよ」
「探し物、ですか?」
「ええ。名前のつかへんものをね」
老女は優しく目を細めた。
「忘れ物でも、忘れられへんもんでもいい。ここに来るとね、人と人をつなぐ細い糸が、ふっと見えることがあるんです。すれ違うだけの人にも、実は糸が伸びている。たいていの人は気づかんまま通り過ぎるんやけど、たまに立ち止まる人がいてはる。あなたみたいにね」
胸の奥が、わずかにざわついた。
「その糸は、どこにつながっているんでしょう」
「さあ」
老女は抹茶を一口すすり、静かに言った。
「それは時間やったり、人やったり、自分自身やったり。大事にしといたら、いつか思わぬところでふっとつながる。今日出会うた人が明日のあなたを作ることもあるし……昔のあなたが、今日また会いに来ることもある」
その瞬間、風鈴がチリンと一度だけ鳴った。
「昔の私、ですか……」
「抹茶、冷めてまうよ」
老女はそれ以上答えず、ただ懐かしそうに微笑んだ。
茶屋を出るとき、「また、いつか」と声をかけられた。約束ではない、ただの挨拶。けれどその声は、いつまでも耳に残った。
四、夕暮れの回廊
夕方、二月堂への石段を上っていると、途中で若い男が座り込み、スケッチブックに鉛筆を走らせていた。
「すみません、通り道塞いでます?」
「いえ、大丈夫です。何を描いておられるんですか?」
「今日一日で、すれ違った人の顔です」
青年がページをめくると、麦わら帽子の老人、路地で出会った女性、そして茶屋の老女が描かれていた。簡潔な線なのに、どれも驚くほど生き生きとしている。
「でも変なんですよ。描いてるうちに、どの顔も自分に似てくるんです」
青年が照れくさそうに笑った。
口元を少し右に上げ、目を細める癖。
鏡の中で、自分が何千回と見てきた笑い方そのものだった。
「……あなた」
思わず声が出たが、それ以上は言葉にならなかった。青年は気に留める様子もなく、スケッチブックに向き直った。
「あなたも描いていいですか? もう描き始めてますけど」
紙の上を跳ねる鉛筆の音を聞きながら、胸の奥から深い懐かしさがこみ上げてきた。ずっと昔、若かった頃の自分も、こうして誰かの顔を描こうとしていた気がする。
石段を上りきり、二月堂の回廊から見下ろすと、奈良の街並みが茜色に染まっていた。
今日出会った人々の顔が、順番に脳裏をよぎる。
どの顔にも、どこか自分自身の面影があった。
いや、自分の顔のほうが、あの人たちの記憶を少しずつ借りて形作られてきたのかもしれない。
夕陽が、ゆっくりと生駒の山の向こうへ沈んでいった。
五、また会う約束もなく
宿に戻る道すがら、ふと足を止めて振り返った。
通りに人の姿はまばらで、道路脇に立った一頭の鹿が、じっとこちらを見つめていた。
今日一日、知らない町で知らない人たちと話し、すれ違った。ただそれだけのことだ。
けれど、思い返すと誰もが愛おしく、懐かしかった。
過去の自分だったのか、未来の自分だったのか、あるいはただの偶然だったのか。
きっと、どれでもいいのだろう。
すれ違うということは、別れることではない。時間のどこかで、ほんの少し心が触れ合うことなのだ。それを「縁」と呼ぶのなら、静かに大切に抱えて生きていきたい。
明日、また違う町を歩けば、知らない誰かとすれ違う。
その誰かもまた、いつかの自分かもしれないのだから、また会う約束なんていらない。
ただ、どこかでまた会えることを、ほんの少し願えばいい。
宿の灯りが見えてきた。空はすっかり深い夜の色に変わっている。
玄関の前でもう一度振り返ったが、そこには誰もいなかった。ただ遠くで、かすかに風鈴の音が聞こえた気がした。
その夜、眠りにつく直前、今日出会った人々の顔が浮かんでは消えた。
最後に見えたのは、照れくさそうに笑う若い頃の自分の顔だった。
「また、いつか」
そう聞こえた気がして、私はそっと目を閉じた。
奈良の夜は、どこまでも静かだった。
(了)
Amazon Kindle
あとがき
人は生きている中で、幾度となく「選択」をし、別の可能性を選ばなかった自分を後ろ振り返ることがあります。「あの時、違う道を選んでいたらどうなっていただろう」と。
この物語に登場する旅人は、奈良の街でさまざまな世代の人々と出会います。彼らが本当に時空を超えた同一人物なのか、あるいは旅が見せる幻想なのかは、書き手である私にもわかりません。けれど、人が過去の自分を赦し、未来の自分をそっと受け入れる瞬間を描きたいと思い、このペンをとりました。
もしあなたが旅先でふと足を止め、見知らぬ誰かと視線が合ったとき、この物語の風鈴の音を少しでも思い出していただけたなら、とても嬉しく思います。

