黄昏病棟
――僕は死んだ――
まえがき
人は、自分がいつ死ぬのかを知りません。
明日かもしれない。
十年後かもしれない。
あるいは、ほんの三十二秒だけ、すでに死んでいるのかもしれません。
この物語の主人公、加藤は、手術中に三十二秒間、心臓を止めます。
医師にとっては、心室細動。
妻にとっては、「生きていて良かった」という出来事。
けれど本人にとっては、その三十二秒が、その後の人生を少しだけ変えてしまいました。
入院した八階の病棟には、記録と記憶が一致しない患者がいる。
夜になると、廊下が長くなる。
病棟の奥には、全面ガラス張りの部屋がある。
そこでは、家族が最後に言うべき言葉を言い終えるまで、時間がほんの少しだけ遠回りする。
そして、そこには一人の看護師がいます。
名前は、静。
彼女は七年前、この病棟で亡くなっていました。
それでも彼女は、誰かが最後の言葉を言い終えるまで、この世とあの世の境目に留まり続けています。
時間を延ばすのではない。
時間を増やすのでもない。
ただ、今日終わるはずだった時間を、ほんの少しだけ遠回りさせる。
その間に、人は言えなかった言葉を言う。
「ありがとう」
「ごめんなさい」
「愛している」
抗うためではなく。
そして時には、
「もう一度、一緒に生きたい」
もし人生に、ほんの少しだけ「迂回する時間」が与えられたなら。
あなたなら、その時間に何を伝えますか。
これは、死を迎えるための物語ではありません。
一度、死の側へ足を踏み入れた男が、
残された人生を、もう一度生き始める物語です。
序章 三十二秒の欠落
僕は死んだことを覚えている。
正確には、
死んでいた時間を、あとから知らされた。
手術室。
天井には無影灯が四つ並んでいた。
白い。
ただ、白い。
その白さだけが、妙に鮮明に記憶に残っている。
「じゃあ、ゆっくり深呼吸してくださいね」
麻酔科医の低い声。
鼻と口を覆うマスクから、少し焦げたゴムのような匂いがした。
僕は目を閉じた。
自由な意識が途切れた。
次に目を開けた時、胸の上に鉄の塊を乗せられたような重圧があった。
けたたましいアラーム。
心電図モニターの連続音。
「戻った!」
「洞調律、戻りました!」
「血圧、七十の四十!」
白い天井が明滅している。
誰かが僕の胸を押している。
痛いはずなのに、不思議と遠い。
僕は妙に冷静だった。
――ああ。
――死ぬって、こんな感じなのか。
そう思った。
あとで聞いた話だ。
麻酔導入の直後、僕は心室細動を起こした。
心臓が正常に血液を送り出せなくなり、心停止状態になった。
その時間は、
三十二秒。
術後、執刀医はカルテを閉じながら言った。
「びっくりさせないでくださいよ、加藤さん」
苦笑いだった。
「麻酔導入直後の心室細動です。三十二秒ほど心停止しました。でも、すぐに蘇生できたので、幸い大きな後遺症もありません」
そして、
「まあ……強運でしたね」
と付け加えた。
三十二秒。
医者は「運が良かった」と言った。
妻は涙をぬぐいながら、
「生きていてくれて、本当に良かった」
と言った。
僕も笑った。
その時は、それだけのことだと思っていた。
病名は、腹壁瘢痕ヘルニア。
二十代の頃、盲腸の手術でできた古い傷跡だった。
とっくに塞がったと思っていた傷の奥が、三十年という時間を経て弱くなり、再び開いてしまったのだという。
昔の傷が、もう一度開く。
それだけなら、たいした話ではなかった。
根治手術で入院する予定は十日間。
退院したら、予定していたセミリタイアを半年ほど早めるつもりだった。
五十一歳。
会社員として過ごしてきた時間を少しだけ繰り上げ、自分の人生を静かに棚卸しする。
その程度のつもりだった。
ところが、その十日間で僕は知ることになる。
人生には、自分では数えていない時間がある。
そして――
一度、死の側へこぼれ落ちた時間にも、意味がある。
手術から数日後。
僕は同じ夢を見るようになった。
真っ白な廊下。
どこまでもまっすぐに続いている。
匂いもない。
音もない。
ただ遠くから、誰かが僕の名前を呼んでいる。
「加藤さん」
振り返ろうとすると、胸が大きく跳ねる。
そこで必ず目が覚めた。
そして目覚めた瞬間、胸の中に一つの言葉が落ちてくる。
――まだ、言っていない。
誰に。
何を。
それだけが、どうしても分からなかった。
第一章 八階
手術を終え、集中治療室から八階の一般病棟へ移ったのは、術後二日目のことだった。
エレベーターの扉が開いた瞬間、季節だけを地上に置いてきたような錯覚を覚えた。
窓の外は四月。
桜が舞っている。
なのに、八階の空気はひんやりと澄んでいた。
僕にあてがわれたのは四人部屋の窓側だった。
向かいのベッドには、七十二歳の佐竹さん。
前立腺の手術を終えたばかりで、誰にともなく孫の話をする人だった。
「来週、小学校の入学式なんだよ」
隣のベッドの二十四歳の健太くんに話しかける。
健太くんはバイク事故で脾臓を痛めていた。
スマホから目を離さず、
「へえ。いいですね」
とだけ答える。
入口側が僕。
加藤、五十一歳。
退院したら、無職になる予定の男。
入院した日の夜だった。
消灯を過ぎてしばらくした頃、暗闇の中で佐竹さんがぽつりと言った。
「加藤さん」
「はい」
「ここ、夜になると廊下が伸びるんだよ」
「伸びる?」
「昼間はナースステーションを一周するのに百歩なんだ」
佐竹さんは真顔だった。
「でも夜は百五十歩かかる」
僕は笑った。
「そんな馬鹿な」
「いや、本当だよ」
少し間を置いてから、佐竹さんは言った。
「昔、ここで歩数を測っていた看護師さんがいたんだ」
「看護師さん?」
「うん。変わった子だった」
佐竹さんは天井を見上げた。
「でも、怖くはないよ」
「どうしてです?」
「そのぶん、長生きできてる気がするだろ」
僕は笑った。
佐竹さんも笑った。
その夜は、それで終わった。
翌日からリハビリが始まった。
点滴スタンドを相棒に、ナースステーションを中心にしたドーナツ型の廊下を歩く。
一周で息が上がる。
二周で腹の傷が痛む。
三周で汗が出る。
そして四周目の夜だった。
傷の痛みで眠れず、僕はベッドを抜け出した。
消灯後の病棟は、昼間の慌ただしさが嘘のようだった。
非常灯の緑色だけが、リノリウムの床に細い影を落としている。
ナースステーションには誰もいない。
その時だった。
僕は、ステーションの向かいにある部屋の前で足を止めた。
一つだけ、他の部屋とは明らかに違う場所があった。
壁一面がガラス張りになっている。
中には、六十代と思われる女性が横たわっていた。
酸素マスク。
痩せた腕。
ベッドの周囲には、家族らしい人たちが集まっている。
十人近くいた。
小さな男の子もいる。
「ばあば」
その声が聞こえた。
家族は誰も泣いていなかった。
いや。
泣かないように耐えているのだ。
「お母さん」
息子らしい男性が、女性の手を握っていた。
「来年、みんなで温泉に行こうって言ってたでしょ」
女性がゆっくり目を開ける。
「だから、ちゃんと治してね」
女性は小さく頷いた。
僕は、その場を離れた。
翌朝。
リハビリの途中で、同じ場所を通った。
ガラス張りの部屋は、がらんとしていた。
ベッドはない。
シーツもない。
僕はナースステーションの若い看護師に尋ねた。
「あのガラスの部屋の方、退院されたんですか?」
看護師は端末を確認した。
「ああ、山田さんですね」
「はい」
「三日前に退院されています」
僕は黙った。
「……三日前?」
「はい」
看護師は何でもないことのように答えた。
僕があの部屋を見たのは、間違いなく昨夜だった。
十一時を過ぎていた。
家族もいた。
男の子もいた。
僕は、確かに見た。
けれど記録には、
最初から「三日前に退院」としか残っていなかった。
その時はまだ知らなかった。
あの病棟では、
記録よりも記憶のほうが、ときどき正しいことを。
第二章 静
彼女と初めて言葉を交わしたのは、その日の夕方だった。
廊下の突き当たりにある窓の前に、一人の看護師が立っていた。
白い制服。
長い髪。
胸元の名札には苗字がなかった。
ただ、ひとつ、
「静」
とだけ書かれていた。
僕は思わず声をかけた。
「静さん」
彼女はすぐには振り返らなかった。
外を見たまま言った。
「夕暮れって、とても長いと思いませんか?」
「え?」
「この病棟の夕暮れは、ほかの階より少しだけ長いんです」
「どれくらい?」
「十七分くらい」
僕は笑った。
「夕日が十七分も長くなるなんて」
その時、静さんが振り返った。
三十歳前後に見えた。
けれど、目だけが不思議だった。
若い顔には似合わない、深い静けさがあった。
「ここ、時計が嘘をつくんです」
「時計が?」
「特に、あのガラスの部屋の前では」
僕はガラスの部屋を見た。
「昨日、あそこに患者さんがいました」
「ええ」
「でも、三日前に退院したことになっていた」
静さんは否定しなかった。
ただ、静かに言った。
「そういうこともあります」
それから僕は、リハビリのたびに静さんと会うようになった。
話す内容は、たいしたことではない。
天気の話。
桜の話。
病院食の話。
歩く距離の話。
それでも、僕は静さんと話すのが嫌いではなかった。
恋愛ではない。
そんなものではなかった。
一度、死の側へ足を踏み入れた自分の命が、死の匂いを知っている誰かに引き寄せられている。
そんな感覚だった。
ある夜、僕は思い切って尋ねた。
「静さん」
「はい」
「どうして夜のこの病棟に、ずっといるんですか?」
静さんは窓の外を見た。
夕暮れの名残が、遠くの空に残っていた。
長い沈黙のあと、
「七年前」
と彼女は言った。
「私は、あの部屋で死にました」
第三章 七年前の患者
七年前。
静さんは二十三歳だった。
病名は急性骨髄性白血病。
最後の時間を、あのガラス張りの部屋で迎えていた。
家族がいた。
父。
母。
兄。
そして、まだ生まれていない姪。
兄の妻は、その頃、静の姪になる子を身ごもっていた。
家族は泣いていた。
静さんも泣いていた。
けれど、どうしても言えなかった。
ありがとう。
ごめんなさい。
大好き。
言葉にしてしまえば、本当に最後になってしまう気がした。
それが怖かった。
自分が死ぬことよりも、
残された家族が悲しみで壊れてしまうことのほうが怖かった。
だから静さんは、何も言わなかった。
その夜。
見知らぬ老看護師が、枕元に立った。
そして耳元で囁いた。
「まだ、こちら側に留まることもできますよ」
「留まる?」
「誰かの最後の時間を見届ける役目です」
静さんは、その意味を理解できなかった。
それでも尋ねた。
「それを選べば、家族と別れなくて済むんですか?」
老看護師は少しだけ微笑んだ。
「別れなくて済むわけではありません」
「……」
「別れ方を、選べます」
その夜、静さんは亡くなった。
そして――
病棟に残った。
「だから私は、ここにいるんです」
「じゃあ……静さんは死者なんですか?」
「たぶん」
「それとも、生きている?」
「たぶん」
静さんは微笑んだ。
「どちらでもないのでしょうね」
「……」
「誰かが最後の言葉を言い終えるまで、時間を少しだけ迂回させる。それが私の仕事です」
「時間を、迂回させる?」
「延ばすのではありません」
静さんは言った。
「時間そのものは増えないんです」
「では、何が変わるんです?」
「今日終わるはずだった時間が、少しだけ遠回りするんです」
静さんは窓の外を見た。
「その間に、言えなかった言葉を言う」
「それが終わったら?」
「時間は元の道に戻ります」
「そして、その人は……」
僕は言葉を止めた。
静さんは頷いた。
「その人が行くべき場所へ行きます」
僕はしばらく黙っていた。
探るように尋ねた。
「代償は?」
静さんは僕を見た。
「必ずあります」
「誰が払うんです?」
静さんは答えなかった。
その代わり、僕の胸元を見た。
「あなたも、三十二秒を失っていますね」
その瞬間だった。
廊下の時計の秒針が止まった。
カチッ。
空気が冷たくなる。
僕は息を呑んだ。
「三十二秒って……」
「あなたが死の側にいた時間です」
「それが、どうしてここに?」
「時間は、消えないんです」
静さんは静かに言った。
「人が死の側へ落とした時間は、どこかに残ります」
「残る?」
「だから、時々こうして戻ってくるんです」
その時だった。
ガラス張りの部屋からナースコールが響いた。
甲高い音だった。
僕と静さんは、同時に振り返った。
部屋の中にいたのは――
佐竹さんだった。
昼間まで笑っていた佐竹さんが、ベッドの上で激しく肩を上下させている。
その手には、孫の入学式の写真が握られていた。
「佐竹さん!」
僕が駆け出そうとすると、静さんが僕の腕を掴んだ。
「行かないでください」
「でも!」
「もう、迂回が始まっています」
その直後、廊下の奥から人の声がした。
息子。
嫁。
そして――
新品のランドセルを背負った小さな男の子。
「じいちゃん!」
男の子が泣きながら駆け寄った。
佐竹さんが目を開ける。
「ランドセル、見て!」
男の子はランドセルを背負ったまま、佐竹さんの前で一回転した。
「じいちゃんが買ってくれたやつだよ!」
佐竹さんは震える手を伸ばした。
そして、男の子の頭を撫でた。
「そうか……」
かすかな声。
「かっこいいぞ」
男の子が泣いた。
佐竹さんも笑った。
その瞬間――
止まっていた時計の秒針が動いた。
カチッ。
心電図の波形がゆっくりと平らになる。
静さんは目を閉じた。
そして、深く頭を下げた。
第四章 帳尻
翌朝。
佐竹さんのベッドは、きれいに片付いていた。
僕はナースステーションへ行った。
「佐竹さんは?」
若い看護師が端末を見る。
「ああ、佐竹さんなら先週、退院されています」
まただ。
先週。
僕は背筋が寒くなった。
「昨日、ここにいました」
看護師は不思議そうな顔をした。
「昨日ですか?」
「はい」
けれど、それ以上は言わなかった。
カルテには、退院日が先週と記録されている。
死亡記録はない。
僕は他の患者にも聞いてみた。
「あのガラスの部屋に入った人って、どうなるんですか?」
ある患者は笑った。
「なぜか、みんな最後はいい顔をするんだよ」
別の患者は言った。
「家族が来ると、何かを話してるみたいだ」
「何か?」
「さあ。そこまでは聞こえない」
誰も死んだとは言わなかった。
誰も、退院したとも言い切れなかった。
ただ、
「あそこでは時間が変になる」
そう言った。
その頃から、静さんの顔色が少しずつ悪くなっていった。
廊下ですれ違うたびに、以前より透明になっているように見える。
名札の「静」の文字が、少しだけ透けて見える気がした。
「静さん」
「はい」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
笑う。
けれど、その笑顔は弱かった。
僕は気づいていた。
時間の迂回には、帳尻がある。
誰かに与えた時間が、どこかから消える。
静さんは、その帳尻を自分の時間で払い続けている。
術後五日目。
僕は突然、高熱を出した。
四十度近い熱。
腹の傷が化膿した。
意識が朦朧とする。
また、あの夢を見た。
真っ白な廊下。
その向こうに静さんが立っている。
そして、背後から妻の声が聞こえる。
「あなた」
僕は振り返ろうとした。
その瞬間、冷たい感触が額に触れた。
目を開ける。
静さんが濡れタオルを当てていた。
「戻ってきてはいけない方へ、行きかけていましたよ」
僕はかすれた声で言った。
「僕の三十二秒は……」
静さんは黙っていた。
「静さんが使ったんですか?」
長い沈黙のあと、彼女は答えた。
「いいえ」
「じゃあ、誰が?」
「誰か一人ではありません」
静さんは僕を見た。
「あなたが死の側に置かれていた三十二秒は、あなたをあちらへ連れて行くためのものではなく、あなたをこちらへ引き戻すために使われた時間です」
「意味が分かりません」
「分からなくてもいいんです」
「でも……」
「大切なのは、その三十二秒が、もう一度あなたに返されたことです」
僕は黙った。
静さんは続けた。
「だから、あなたにはまだ時間がある」
その言葉を聞いた瞬間、
胸の奥に、妻の顔が浮かんだ。
僕には、妻に言えていないことがあった。
セミリタイアを半年早めたい。
そう話した時、妻は笑って、
「あなたらしいわね」
と言ってくれた。
商社で多忙を極めた三十年。
でも、本当はそれだけではなかった。
僕は、楽になりたかったのだ。
仕事からではない。
時間に追われる生き方から。
二十代の頃。
お金のなかったアパート。
くだらないことで喧嘩した日々。
それでも、一緒に笑い転げた夜。
何も持っていなかったけれど、
何でも持っているような気がしていた。
あの頃の情熱。
あの頃の愛おしさ。
それを、もう一度取り戻したかった。
でも、
「もう一度、最初からやり直したい」
なんて、
五十を過ぎた男が言うのは、あまりに恥ずかしかった。
静さんは、そんな僕を見つめていた。
「言葉にしなければ」
彼女は静かに言った。
「あなたの時間も、いつか行き場をなくします」
「行き場をなくす?」
「言えなかった言葉は、時間の中に残ります」
静さんは少し笑った。
「だから、言えるうちに言ってください」
第五章 最後の夜
退院を翌日に控えた夜。
僕は最後の歩行訓練をしていた。
十周。
二十周。
足は棒のようになった。
腹の傷がズキズキする。
それでも歩いた。
その時だった。
ガラス張りの部屋に明かりが点いた。
中にいたのは、若い夫婦だった。
妻はベッドに横たわっている。
夫が、その手を必死に握っている。
そして――
大きく膨らんだ腹。
臨月だった。
本来なら、この病棟にいるはずのない人だった。
なのに、その夜だけは、そこにいた。
「頼む!」
夫が泣いていた。
「行かないでくれ!」
妻は苦しそうに微笑んだ。
「まだ……名前も決めてないじゃない」
「決めるから!」
「そうじゃなくて……」
妻は夫の手を握った。
「女の子だったら……」
そこで言葉が止まった。
そして、小さく息を吸った。
「静って……」
僕の隣にいた静さんの身体が震えた。
「……え?」
静さんはガラスの向こうを見つめていた。
「あの子……」
「知っているんですか?」
「私の姪です」
静さんの声が震えた。
「七年前……私が亡くなった夜に生まれた子」
「じゃあ……」
「兄の娘です」
静さんは笑った。
泣いているようにも見えた。
「兄は、私が死んだことを受け入れられなかった」
「……」
「でも、その夜に娘が生まれた」
静さんはガラス越しに母親を見つめた。
「兄は、その子に私の名前をつけたんです」
その瞬間だった。
病室の時計が止まった。
病棟中の照明が明滅する。
ナースコールが、一斉に鳴り始めた。
静さんが胸を押さえた。
「……だめ」
「静さん?」
「今夜は、重すぎる」
「何が?」
「私がここに留まっていた七年間と……」
静さんは苦しそうに息をした。
「これまで迂回させてきた、たくさんの時間が……」
そして僕を見た。
「あなたの三十二秒まで、全部ここへ戻ってきた」
「ここへ?」
「帳尻を合わせる時が来たんです」
「どうすればいいんです?」
「何もしないでください」
「でも!」
「あなたは、生きる側の人です」
静さんは僕を見た。
「こちら側に来てはいけない」
その時、ガラスの向こうから声がした。
「あなた……」
女性が夫を見ていた。
「聞いて」
「何?」
「怖いけど……言っておきたい」
夫が泣きながら頷いた。
妻はゆっくり息を吸った。
「あなたは、絶対にいいお父さんになる」
「無理だよ……」
「無理じゃない」
妻は微笑んだ。
「だって、私が世界で一番好きになった人だもの」
夫の顔が歪んだ。
「ありがとう」
そして、
「愛してる」
と言った。
時計の針が動いた。
カチッ。
心電図の波形がゆっくりと平らになっていく。
その直後だった。
別のモニターから、力強い音が響いた。
ドクン。
ドクン。
そして――
産声。
病室に、新しい命の声が響き渡った。
僕は動けなかった。
静さんも動かなかった。
ただ、静さんの目から涙が流れていた。
「静……」
彼女は、その名前を聞いた。
生まれたばかりの赤ん坊が、母親の胸元で泣いている。
そして静さんは、初めて僕に向かって微笑んだ。
「これで……いいんです」
「何が?」
「私は、もう……」
静さんの身体が、淡い光の中で薄くなっていく。
「七年前に言えなかったんです」
「何を?」
「ありがとう」
静さんは、ガラスの向こうを見た。
「お父さん」
「お母さん」
「お兄ちゃん」
そして、
「生まれてきてくれて、ありがとう」
と呟いた。
僕は言葉を失った。
静さんの姿が消えていく。
「静さん!」
「加藤さん」
「はい!」
「あなたも、言ってください」
「何を?」
「一番大切な人に」
静さんは笑った。
「ちゃんと、言葉にしてください」
そして――
消えた。
その瞬間、
僕の胸の奥にあった三十二秒の欠落が、
あたたかな光で満たされた。
真っ白な廊下が、
遠くへ、
深く、
消えていった。
第六章 目覚め
退院の朝。
荷物をまとめ、ナースステーションへ立ち寄った。
「お世話になりました」
僕は頭を下げた。
そして、
「静さんにも、よろしくお伝えください」
と言った。
若い看護師が首を傾げた。
「静さん?」
「はい」
「……うちの病棟に、そんな名前の看護師はいませんよ」
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
「昔の勤務記録を見てもらえませんか」
看護師は不思議そうな顔をしながら端末を操作した。
しばらくして、手が止まった。
「……これかな」
画面を僕に見せた。
七年前。
そこに一人の名前があった。
――佐藤 静。
二十三歳。
急性骨髄性白血病。
死亡。
僕は何も言わなかった。
ただ、深く頭を下げた。
そして病院を出た。
外へ出ると、春の陽光が眩しかった。
車の排気ガスの匂い。
信号機の電子音。
遠くの工事の音。
風の音。
そのすべてが愛おしかった。
生きている。
ただ、それだけのことが、奇跡のように思えた。
僕は自宅ではなく、妻の職場へ向かった。
昼休み。
建物から出てきた妻が、僕を見つけた。
「どうしたの?」
驚いた顔をしている。
「退院は午後からじゃなかった?」
僕は妻の前に立った。
そして深く頭を下げた。
「もう一度、僕と結婚してください」
妻は固まった。
「二十代の、あのお金もなかった頃に戻って、最初から生き直したいんだ」
「くだらないことで喧嘩してもいい」
「年を取ってもいい」
「病気になってもいい」
「それでも……」
僕は顔を上げた。
「もう一度、お前と生きたい」
妻はしばらく何も言わなかった。
そして、
大きな涙をこぼした。
「馬鹿ね」
そう言って笑った。
僕も泣いた。
人目なんて、どうでもよかった。
その日の夕方。
僕は自宅の庭に出た。
西の空が、あの病棟の窓から見えたのと同じ、切ないオレンジ色に染まっていた。
長い夕暮れだった。
僕は空を見上げた。
「静さん」
声に出してみた。
「聞こえますか」
風が吹いた。
「僕は、ちゃんと言えましたよ」
しばらくして、
庭の隅に小さな白い花が咲いているのに気づいた。
昨日までは、なかったはずの花。
名前は知らない。
僕はしゃがみ込み、その花に水をやった。
確かに、そこに生きている。
腹の傷は、まだ少し突っ張っていた。
昔、閉じたはずの傷が、また開いた。
でも今は、その痛みさえ愛おしかった。
傷は、閉じたから終わりではない。
時々、開く。
そして、その開いた場所から、
もう一度未来を縫い直していく。
黄昏は長い。
けれど、永遠ではない。
夜は必ず明ける。
朝は必ず来る。
僕は今日という日を生きようと思う。
全力で。
いつか帳尻が巡ってくる、その日まで。
そして、いつの日か。
僕にも最後の夜が訪れたなら。
その時は、僕があの長い廊下に立とうと思う。
誰かが最後の言葉を言えるように。
誰かが、
「ありがとう」
と言えるように。
誰かが、
「愛している」
と言えるように。
誰かが、
「もう一度、生きたい」
と言えるように。
夕陽はしばらくの間、
病院の八階の窓だけを赤く照らしていた。
誰かの帰り道を優しく照らす、
小さな灯台のように。
三十二秒。
たった三十二秒の欠落。
けれど、その時間があったからこそ、
僕は今、新しい人生を生きている。
僕は死んだ。
そして――
もう一度、生き直した。
――了――
あとがき
病院という場所には、
時間の流れを少しだけ変えてしまうような、不思議な気配があります。
検査結果を待つ時間。
手術が終わるのを待つ時間。
家族が駆けつけるのを待つ時間。
退院を待つ時間。
同じ時計の針が刻む一時間でも、
患者にとっての一時間と、
家族にとっての一時間と、
医療者にとっての一時間は、
決して同じではありません。
病院では、時間そのものが少し違って感じられることがあります。
だから私は、物語の中だけでも、
「普通の時計では測れない時間」
が存在していいのではないかと思いました。
それが、本作の「時間を迂回させる」という考えです。
時間を増やすのではない。
時間を止めるのでもない。
ただ、少しだけ遠回りさせる。
その間に、人は言えなかった言葉を言う。
「ありがとう」
「ごめんなさい」
「愛している」
言葉は不思議です。
言ったところで病気が治るわけではありません。
亡くなった人が戻ってくるわけでもありません。
過去が変わるわけでもありません。
それでも、言葉にすることで、残された人の未来が少しだけ変わることがあります。
主人公の加藤が患った腹壁瘢痕ヘルニアは、過去の手術でできた傷が、年月を経て弱くなり、再び開いてしまう病気です。
私はそこに、人生そのものを重ねました。
体は、本人より先に過去を覚えている。
昔の傷は、消えたように見えても、なくなったわけではない。
人生も同じなのかもしれません。
忘れたつもりだった言葉。
終わったと思っていた後悔。
若い頃に置いてきた夢。
大切だった人との時間。
それらは消えたのではなく、どこかに残っている。
そして、何かをきっかけに、もう一度開く。
けれど、
傷が開くことは、必ずしも悪いことではありません。
開いたからこそ、その場所をもう一度見つめることができる。
そして今日からの未来を、もう一度縫い直すことができる。
静が最後に救われたのかどうか。
作者である私にも、はっきりした答えはありません。
ただ、新しい命の産声を聞き、
自分が言えなかった「ありがとう」を口にした時、
七年間止まっていた彼女の時間も、
ようやく前へ進み始めたのだと思っています。
そして加藤もまた、
三十二秒の欠落をきっかけに、自分の人生を見つめ直しました。
死の側を一度見たから、生きることが分かった。
失いかけたから、大切なものが見えた。
言えなかったから、言葉にすることを覚えた。
もしこの物語を読み終えた時、
あなたの心の中に、誰か一人の顔が浮かんだのなら。
どうか、その人に言葉を伝えてみてください。
「ありがとう」
でもいい。
「ごめんなさい」
でもいい。
「元気でね」
でもいい。
もちろん、
「愛している」
でもいい。
言葉にできるうちに。
会えるうちに。
まだ間に合ううちに。
黄昏は長く続きます。
けれど、永遠ではありません。
だからこそ、今日という一日が愛おしい。
そして、生きているということは、
それだけで、
まだ間に合うということなのだと思います。

