百年目のオーブ
― 時をめぐる光の物語 ―
まえがき
人が生きる時間には、かぎりがあります。
およそ百年も経てば、今この地球上で笑い、悩み、懸命に生きている人間たちのほとんどは、新しい誰かと入れ替わっています。
その事実を思ったとき、私たちは少しだけ寂しさを覚えるかもしれません。
けれど、自分が去ったあとの世界にも、同じように陽が昇り、風が吹き、誰かが大切な人と出会い、今日という一日を慈しんでいるのだとしたら——それは決して切ないことばかりではないはずです。
この物語は、山の上の静かな電波観測所で暮らす一人の男性と、百年の未来からやってきた一人の女性の、小さな出会いから始まります。
「何が出来るかではなく、何も邪魔をしないこと」
忙しない日々の中で、私たちが誰かの時間を、そして自分自身の時間をそっと大切に思えるような、静かで温かな風をお届けできれば幸いです。
一筆を置くにあたり、どうぞ山の上の静寂と、夜空に舞う柔らかな光の物語を、ゆっくりとお楽しみください。
序章 百年
わずか百年で、この世界の人間たちは、ほぼすべてが入れ替わる。
そう気づいたのは、三十を過ぎた頃だった。駅のホームで、産院の帰りらしい若い夫婦とすれ違ったときのことだ。母親の腕の中に、蜜柑ほどの小さな顔をした赤ん坊がいた。
あの子も、百年後にはもういない。
そう思った瞬間、足もとの床が薄い氷に変わったような気がした。けれど怖くはなかった。ただ、ひどく静かな気持ちになった。
僕らの持ち時間は、思っているよりずっと短い。だとすれば、何が出来るかを数えるより、何も邪魔をしないことのほうが大切なのかもしれない。
僕はその夜、手帳にそんなことを書きつけた。詩とも呼べない、ただの独り言だった。
まさかその独り言が、百年の向こう側まで届くことになるなんて、そのときの僕は知る由もなかった。
第一章 プラーナの見える朝
岬遼(みさき りょう)、三十八歳。職業は、山の上の古い電波観測所の保守技師。
八ヶ峰(やつがみね)電波観測所は、標高千九百メートルの尾根にある。かつては宇宙の彼方から届く微かな電波を拾い、銀河の地図を描いていた場所だ。いまは新しい観測網に役目を譲り、巨大なパラボラアンテナが一基、空を見上げたまま錆びていくのを、僕が世話をしている。
所員は僕ひとり。以前は所長の志村さんがいたが、三年前に定年を迎えて山を下りた。別れ際に、彼はこう言った。
「岬くん、あのアンテナはね、もう何も聴いてないように見えるだろう。でも、耳だけは閉じてないんだよ」
意味はよく分からなかった。ただ、その言葉が、なぜかずっと胸に残っていた。
それからの三年、僕は、たった一人の山の暮らしを、それなりに気に入っていた。朝はアンテナの関節にグリースを差し、昼は配電盤を点検し、夜は薪ストーブの前で手帳を開く。仕事の合間に思いついた言葉を、気まぐれに書きつける。誰に見せるわけでもない。ごくたまに、下の町のネットカフェから匿名の投稿サイトに載せてみることもあったが、読む人などいなかった。
それでよかった。言葉は、書きとめた瞬間に、半分、役目を終えているのだと、僕は思っていた。
その朝、最初に異変に気づいたのは、コーヒーを淹れているときだった。
湯気の向こうで、何かが揺れていた。
細い、細い、透きとおった糸のようなもの。それが窓から入り込み、台所を斜めに横切って、壁へと抜けていく。糸は一本ではなかった。よく見ると、部屋じゅうに、数えきれないほどの淡い光の筋が流れている。まるで目に見えない川が、この山小屋を丸ごと貫いているようだった。
僕は目をこすった。寝不足かと思った。だが、糸は消えなかった。
恐る恐る手を伸ばしてみる。指先に触れたはずの光は、なんの手ごたえもなく、僕の手のひらを通り抜けていった。ほんの少し、冬の朝の空気のような冷たさと、遠い誰かの体温のような温かさが同時に肌をなでた。
「……なんだ、これ」
声に出してみても、答えは返ってこない。ネットで調べると、こういうものを、ある人たちは「プラーナ」と呼ぶらしかった。生命のエネルギー。宇宙に満ちる気。眉唾ものの記事ばかりだったけれど、僕が見ているものの描写とは、不思議とよく似ていた。
それが見え始めたのは、この日からだ。
朝も昼も夜も、光の糸は、ただ静かに世界を流れていた。木々を抜け、岩を抜け、僕の身体を抜けていく。それは恐ろしいというより、むしろ懐かしい感触だった。
けれど、一週間ほど経った頃、僕はもうひとつの奇妙なことに気づく。
丸い光の玉が、ふわりふわりと漂っているのだ。
写真を撮ると白い斑点として写る、あの「オーブ」だ。心霊写真の類いだと、世間では笑い話にされている。だが僕の目には、それは埃でも水滴でもなく、ちゃんと意志を持って動くものに見えた。
そしてその玉は、なぜか、決まって僕を避けた。
第二章 避けていくオーブ
ためしに、オーブに近づいてみた。
尾根の遊歩道で、直径二十センチほどの白い光がゆらゆらと浮いている。僕がそっと歩み寄ると、光は、ちょうど同じ距離だけ、すうっと後ろへ下がった。
もう一歩。また一歩。
追いかけっこのようになった。僕が右へ回れば光は左へ逃げ、僕が立ち止まれば、光も動きを止める。やがて僕がしゃがみこんで、何もしないでじっとしていると、光はゆっくりと近づき、僕の周りをぐるりと一周した。
けれど、決して触れなかった。数センチ手前で、必ず、身をかわす。
面白いのは、糸のほうだ。プラーナは僕の身体を平然と通り抜けるのに、オーブは、かならず避けて通る。同じ光なのに、扱いがまるで違う。
「さあ、益々、分からない」
僕は独りごとを言って、笑った。
その夜、手帳に書きとめておこうと思った。この不思議を、忘れないように。ペンを持ったまま、しばらく窓の外を眺めていた。
星が、いつもよりずっと近くにあった。
数日後、山に大雨が降った。
雷を伴う嵐で、観測所の電源は何度も落ちた。僕は懐中電灯を片手に、配電盤の点検をして回っていた。そのとき、ふと、玄関の呼び鈴が鳴ったのだ。
一番近い民家まで、歩いて二時間はかかる山の上で、である。
僕は息を止めた。もう一度、鳴った。
おそるおそる扉を開けると、そこに、ずぶ濡れの女性が立っていた。
年は僕と同じくらい。長い黒髪が頬に貼りつき、薄手の見慣れない素材のコートが雨を吸って重たげに揺れている。手には何も持っていない。荷物も、傘も、携帯電話すらも。
彼女は僕を見て、ほっとしたような、泣き出しそうな、不思議な顔をした。
「……岬遼さん、ですね」
「はい、あの……」
「よかった。本当に、いた」
そう言って、彼女は、糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。
僕は慌てて彼女を抱きとめた。その身体は、驚くほど軽かった。そして抱きとめた瞬間、僕には、はっきりと見えた。
彼女の身体を、オーブが、幾つも幾つも取り巻いていた。
まるで、迷い子を見守る蛍の群れのように。
第三章 澪
彼女は、天城澪(あまぎ みお)と名乗った。
暖炉に薪をくべ、毛布とホットミルクを渡すと、彼女はようやく頬に血の気を取り戻した。僕は、聞きたいことが山ほどあった。どうして僕の名を知っているのか。この山の上まで、どうやって来たのか。けれど、言葉が喉につかえてうまく出てこない。
先に口を開いたのは、澪のほうだった。
「岬さん。あなたは、ここ最近、光の糸が見えていませんか。それから、丸い光の玉が、あなたを避けるのも」
僕は、マグカップを取り落としそうになった。
「……どうして、それを」
「私たちが、そうなるように調整したからです。いえ、正確には、調整したのは私たちの先輩たちですけれど」
私たち。先輩たち。彼女の言葉はいちいち、輪郭のぼやけた響きをしていた。
「順を追って話します。信じなくてもいい。でも、最後まで聞いてください」
彼女は膝の上で両手を握り、深く息を吸った。
「私は、あなたより、ずっと先の時代から来ました」
僕は、笑おうとした。うまく笑えなかった。彼女の目が、あまりに真剣だったからだ。
「どのくらい、先ですか」
「ちょうど、百年」
暖炉の薪が、ぱち、と爆ぜた。
澪の話は、こうだった。
百年後の世界では、時間の流れを観測する技術が確立されている。時間は、川のようなものなのだという。上流が未来で、下流が過去。僕らが「プラーナ」と呼んだ光の糸は、その川の水そのもの、つまり、未来から過去へと流れ落ちる時間の粒子だった。
そして、オーブは、その川を遡ってくる観測者だった。
「未来の私たちは、過去を見に来ているんです。決して干渉しないという、たったひとつの約束を守って」
「見に来る……何のために」
「学ぶために。そして、感謝するために」
澪は少し笑った。その笑みが、僕には、ひどく遠い場所から届く灯りのように見えた。
「私たちの時代は、長く生きられます。……不老不死に、近いんです。病気も、老いも、ほとんど克服しました。けれど、それを手に入れた人類は、ある大きな問いにぶつかったの」
「問い?」
「私たちは、なぜここまで来られたのか。何を間違えずに来られたのか」
彼女は、僕をまっすぐに見た。
「その答えの根っこに、一篇の詩があります。作者の名前は、岬遼」
僕は、思わず声を上げた。
「詩なんて、僕は、そんな」
「『何が出来るかではなく、何も邪魔をするな、なのかもしれない』」
暖炉の火の中で、ちょうど薪がふたつに割れた。
それは、僕が手帳に書いた、あの独り言の一行だった。誰にも見せたことはない。ただ、ずいぶん前に、ほんの気まぐれで、匿名の投稿サイトの片隅に載せた覚えはあった。誰にも読まれず、すぐに埋もれたと思っていた。
「あの一行を、私たちの時代は『観測憲章』の第一条に置いています。過去に干渉してはならない。未来の誰かの、持ち時間を邪魔してはならない。……あなたの言葉が、私たちの世界の、いちばん深いところに、刻まれているんです」
信じられなかった。信じられるはずがなかった。けれど、目の前の女性が嘘をついているようには、どうしても見えなかった。
「じゃあ、オーブが僕を避けるのは」
「敬意です」
澪は静かに答えた。
「あなたに触れてはいけない。あなたの時間を、決して乱してはいけない。観測者は皆、そう教えられて育ちます。だから、あなたの周りだけは、オーブが必ず距離を置く」
そして、彼女は、ほんの少し声を落とした。
「でも私は、その約束を、破ってしまいました」
「破った?」
「どうしても、会いたかったんです。詩の作者に。それだけの理由で、私は規則を破って、川を遡り、あなたの扉を叩いた。……ごめなさい」
彼女の睫毛が、微かに震えていた。
僕は、何を言えばいいのか分からなかった。けれど、気づくと、こう口にしていた。
「謝ることじゃ、ないと思います」
「え」
「遠いところから、会いに来てくれたんでしょう。寒かったでしょう。……とにかく、今夜は休んでください」
澪は、小さく目を見開き、それから、ふっと肩の力を抜いた。
「……やっぱり、そういう人なんですね。あなたは」
その夜、僕は暖炉のそばの床に毛布を敷いて眠り、彼女は簡易ベッドで眠った。窓の外では、無数のオーブがふわふわと浮かび、山小屋を静かに見守っていた。
第四章 三日間
澪が山小屋に来て、最初の朝。
僕が目を覚ますと、彼女はもう起きていて、窓辺に立っていた。朝日が彼女の輪郭を淡く縁取り、その周りを、オーブがちいさな星のように漂っていた。
「おはようございます」
「……おはよう」
「岬さん、あれは何ですか。台所で、白いものが、ぷくぷくしています」
「ああ、それは、パン種です。昨日の夜から寝かせておいた」
「生きているんですか?」
「ええ、まあ、酵母は生きていますね」
澪は、ボウルの中のパン種を、まるで宝物でも見るように、覗き込んだ。百年後の食事は、栄養も味も、すべて調整されたものらしい。だから、こうして「膨らんでしまう」食べ物が、驚くほど不思議に映るのだと、彼女は言った。
「私たちの時代には、失敗がないんです。失敗しないように、ぜんぶ、作られているから。……こうして、勝手に膨らんだり、しぼんだりするのを見ていると、なんだか、生きものと暮らしているみたい」
その日の朝、僕が焼いたパンは、案の定、少し焦げて、少し固かった。それでも澪は、一口かじって、目を丸くした。
「おいしい」
「そんなに?」
「あたたかい。……なんて言えばいいのかな。ちゃんと、誰かの手の味がします」
僕は、照れくさくなって、コーヒーを啜った。
二日目は、山を下りて、麓の町へ行った。
澪には、着替えも靴も、財布もない。とりあえず、必要なものを買い揃えなければならなかった。僕の古い軽トラックの助手席で、彼女は終始、窓に額をくっつけていた。
「木が、こんなに、動いてる」
「風ですよ」
「風、って、こんなふうに見えるんですね。私たちの時代は、街の風は、計算されて吹いているから」
町の商店街で、僕らは、たくさんの寄り道をした。
コンビニの自動ドアの前で、彼女は三回、行ったり来たりして、ドアを開け閉めした。硬貨を渡すと、「これは、なんの、お守りですか」と真顔で訊いた。古本屋の棚の前では、一時間近く動かなくなった。町の図書館では、迷子になった。司書の女性に、優しく声をかけられて、真っ赤になって戻ってきた。
「岬さん、私、ここで、働きたい」
「図書館で?」
「本が、こんなに、たくさん、紙のまま、置いてある。……最高です」
そう言って笑った顔が、あまりにも無邪気で、僕は、返事をするのを忘れた。
その帰りに、麓の町はずれの介護つき住宅に、志村さんを訪ねた。
窓辺の車椅子に座った志村さんは、僕の顔を見るなり、皺だらけの目を細めた。そして、僕の後ろに立つ澪を見て、ゆっくりと、二度、頷いた。
「やっと、来たか」
「志村さん、あの、この人は」
「言わなくていい、言わなくていい」
志村さんは、手を振った。
「岬くん。君が、光の糸を見るようになったんだろう。そうじゃないかと思っていたんだ。あれは、心の澄んだ人にだけ、見えるものでね」
「所長も、見えていたんですか」
「四十年、見ていたよ。誰にも言わなかった。言ったところで、笑われるだけだし、それに」
彼は、窓の外の、遠い山並みを眺めた。
「あの光たちは、そっとしておいてほしそうだった。だから、私は、そっとしておいた。それが、私にできた、たった一つのことだ」
そう言うと、彼は、膝の上の古びた鍵を、僕の手に握らせた。
「アンテナの下の、ケーブルトンネルの鍵だ。もし、何か困ったことが起きたら、あそこへ行きなさい。私の道具箱が、置いてある」
「困ったこと、ですか」
「起きるさ。何かをそっとしておくには、それを、そっとしておかない人たちから、守らなきゃならん」
志村さんは、澪に向かって、深々と頭を下げた。
「遠いところから、よく来てくれたね。……岬くんを、よろしく」
澪は、目に涙を溜めて、同じくらい深く、頭を下げ返した。
帰り際、商店街の隅にある、小さな中古レコード店の前で、澪が足を止めた。
「岬さん。これが、レコード、ですか」
ガラス越しに、黒くて丸い円盤が、ずらりと並んでいた。詩の中で、僕が「CDになり、そのCDすら終えようとしている」と書いた、あのレコードだ。
「百年の間に、消えたものの、ひとつです」
澪は、囁くように言った。
「私の時代では、こういうものは、博物館にしかありません。でも、あなたの詩を読んだとき、私は、ずっと、その音を聴いてみたかった」
僕は、財布の中身を、そっと数えた。
その夜、山小屋の暖炉のそばで、僕らは、一枚のレコードを聴いていた。
店の主人に無理を言って、古い小さなプレーヤーごと安く譲ってもらったのだ。針が盤面に落ちるとき、ぷつ、ぷつ、と、小さな雑音が混じる。その先から、遠い昔の、誰かの歌声が、ゆらゆらと立ちのぼった。
「……雨みたい」
「雑音が?」
「ううん、全部。この音、ぜんぶ」
澪は、目を閉じて、ゆっくりと身体を揺らした。
僕は、しばらく、その横顔を見つめていた。暖炉の火が、彼女の頬に、あたたかな影を落としている。オーブたちが、部屋の隅で、遠慮がちに、ふわふわと明滅していた。
やがて、彼女が、目を開けた。
「岬さん。踊りませんか」
「僕は、ダンスなんて」
「私も、知りません。でも、いいんです。決まりなんて、ないから」
彼女が差し出した手を、僕は、取った。
ぎこちなく、ゆっくり、揺れる。狭い山小屋の床で、二人の影が、暖炉の炎の中で、寄り添ったり、離れたりした。針が盤面の最後の溝を擦る頃、僕らは、どちらからともなく、足を止めていた。
沈黙が、心地よかった。
「……ずっと、こうしていられたら、いいのに」
澪が、独り言のように、つぶやいた。
僕は、何も答えなかった。答えられなかった。彼女が「帰る人」であることを、僕は、痛いほど知っていたから。
三日目の夜、屋根の上で、僕らは星を見た。
毛布にくるまって、並んで寝そべる。天の川が、夜空を斜めに横切っていた。
「あの光は、何年前のものですか」
「あの星なら、たぶん、数百年前かな」
「じゃあ、私たちは、いつも、過去を見ているんですね」
「そうなりますね」
「不思議。私は、未来から来て、過去を見ていて。あなたは、過去の光を見ながら、未来を想像している」
「……なんだか、こんがらがりますね」
「ふふ。でも、それが、たぶん、生きてるっていうことなんですよ」
そのとき、僕の耳の奥に、遠くから、低いエンジン音が聞こえた。
僕はまだ、それが、この穏やかな日々の終わりを告げる音だとは、知らなかった。
第五章 追跡者
異変が起きたのは、その翌日の午後だった。
澪は、すっかり山の暮らしに馴染んでいた。薪を割る僕を眺め、洗濯物を干し、朝になれば、窓辺で光の粒と挨拶を交わした。百年後の空には、星がまるで違って見えるのだと、彼女は昨夜も言っていた。
「星座の形は、あまり変わらないの。でもね、空にある光の数が、ずっと多いんです。人の作ったものが、いっぱい浮かんでいるから」
「にぎやかですか」
「にぎやか。でも、少し、さみしい」
そう言って笑う横顔に、僕は、いつの間にか目を奪われるようになっていた。
けれど、その穏やかな日々は、唐突に途切れた。
黒い四輪駆動車が、観測所の私道を上がってきたのだ。
山の上まで来る車は少ない。物資を運ぶ業者と、ごく稀な見学者くらいだ。だが、その車には、そのどちらの気配もなかった。ナンバープレートの下に、小さな銀色の徽章が光っている。
車から降りてきたのは、背の高い三人の男だった。先頭の男は、五十歳前後。灰色のスーツにコートを羽織り、革靴を泥に汚しながら、あくまで丁寧な口調で言った。
「岬遼さんですね。私、先端計測開発機構の久我(くが)と申します。少し、お時間をいただけませんか」
久我は名刺を差し出した。肩書きは、特別調査官。
「先日から、この一帯で、原因不明の電磁的擾乱が観測されているんです。八ヶ峰の上空に、通常では考えられない量の、微粒子反応が」
僕は、内心の動揺を隠しながら答えた。
「さあ、僕には分かりません。古い機械ばかりですから」
「そうですか」
久我は、あっさりと頷いた。だが、その目は、僕の背後、山小屋の窓辺に向けられていた。
そこに、澪が立っていた。
一瞬、彼女の周りで、オーブがぱっと散った。
久我の口元が、静かに、ほんのわずかに、歪んだ。
「……なるほど。そちらの方が、『客人』というわけですか」
僕は本能的に、澪の前に立ち塞がった。
「お引き取りください。ここは私有地ではありませんが、あなた方に用はない」
「岬さん。私たちは、争うつもりはないのですよ」
久我は柔らかく言った。
「ただ、ひとつだけ、お願いしたいだけです。あの光の球体を、私どもの研究のために、一つだけ、ご提供いただきたい」
「提供?」
「ええ。たとえば、その方が、あれを呼び寄せてくださるなら」
そのとき、僕は理解した。
この男は、知っているのだ。オーブが、ただの現象ではないことを。そして、未来から来た者が、それを呼べるということを。
久我は、笑みを崩さずに続けた。
「未来の技術。時間を遡る仕組み。それがどれほどの価値を持つか、あなたなら、お分かりでしょう。私どもは、それを、正しく、活かしたいと思っているのですよ」
「正しく?」
僕は、乾いた声で笑った。
「未来のものを、今のために使うことが、正しいんですか」
「それが、進歩というものでしょう」
「違う」
自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。
「先の人が、後の人の時間を、勝手に使っちゃいけない。逆もそうだ。今の僕らが、未来の持ち時間を、横から奪っちゃいけない。……何も、邪魔をするな。それだけなんです」
久我の目から、笑みが消えた。
「残念ですね」
彼が、右手を軽く挙げる。背後の二人が、一歩前へ出た。
「では、力ずくで」
その瞬間、澪が僕の腕を掴んだ。
「岬さん、走って!」
僕らは、山小屋の裏口から飛び出した。
第六章 森を抜ける
雨上がりの森は、足もとがぬかるんでいた。
背後から、男たちの声と、枝を踏み折る音が追ってくる。僕は澪の手を引き、勝手知ったる山道を、尾根に向かって駆けた。肺が焼けるように熱い。それでも、握った彼女の手だけは、不思議とひんやりと落ち着いていた。
「岬さん、どこへ」
「アンテナの下に、古い保守用のトンネルがあるんです。ケーブルを通すための。あそこなら、しばらく隠れられる」
「距離は」
「尾根を回りこんで、谷を一つ越えます。……走れますか」
「私の時代の人間は、運動が苦手だと思っていました?」
彼女は、汗の光る顔で、にやりと笑った。「これでも、脚力補正を、まだ切っていませんから」
その言葉どおり、澪の足取りは軽かった。僕のほうが、先に息を切らしていた。
しかし、追手も、ただの人間ではなかった。
頭上で、ぶうん、と、虫の羽音に似た低い唸りがした。
見上げると、木々の隙間から、掌ほどの黒い機械が、こちらを覗いていた。小型の無人機だ。赤い小さなランプが、規則正しく明滅している。
「見つかった!」
「違う、あれは、私を追っているんです」
澪は、コートの胸元を、乱暴に探った。小さな銀色のボタンを、ちぎり取る。
「これ。観測用の記録端末。川を遡るとき、痕跡を残すのは、これのせいです。あの機械は、これの信号を、辿っている」
「捨てましょう」
「でも、これがなければ、私が……」
「帰る扉は、これがなくても開くんでしょう?」
澪は、一瞬、目を見張り、それから、頷いた。
「はい。扉を開くのは、オーブたちです。これは、ただの、私の、日記帳みたいなもの」
「なら、いい」
僕らは、谷底を流れる小さな沢まで駆け下りた。雨で増水した水が、白い泡を立てて岩を洗っている。僕は、流れの縁に落ちていた朽ち木を引き寄せ、そこへ、銀のボタンをそっと括りつけた。
木を、流れの中央へ押し出す。
朽ち木は、ゆっくりと回りながら、下流へと運ばれていった。上空の無人機が、その方向へ、すうっと、向きを変える。
「うまくいった……」
「行きましょう。長くは、もちません」
沢を渡るには、古い吊り橋を使うしかなかった。かつて、観測所の職員が、谷の向こうの資材置き場へ行くために架けたものだ。ワイヤーは錆びて、踏み板は、ところどころ腐っている。
「私が先に行きます。踏み板が、抜けそうなところを、教えるから」
僕が一歩目を踏み出した途端、橋全体が、ぎいい、と悲鳴を上げた。
「……ゆっくりね」
「分かってます」
十歩ほど進んだときだった。
足もとの踏み板が、ばきり、と音を立てて割れた。
「あっ」
「澪さん!」
僕の目の前で、澪の身体が、傾いた。
僕は、咄嗟に手を伸ばした。彼女の手首を、掴む。全体重が、腕にのしかかる。谷底で、増水した沢が、獣のように唸っている。
「離さないで!」
「離しません」
言葉と同時に、僕の足も、踏み板から外れた。
二人の身体が、橋のワイヤーにぶら下がる。腕が、みしみしと軋んだ。
「岬さん、もう、いい。私を離せば、あなたは」
「そんなこと、するわけがないでしょう!」
自分でも驚くほど、大きな声が出た。
「あなたは、遠いところから、僕に会いに来てくれた。それを、こんなところで、落とすなんて、そんな邪魔は、僕は、絶対に、しない」
そのとき、橋の周りに、ふわりと光が浮かんだ。
オーブだ。数十、いや、数百もの光の玉が、谷の暗がりを満たしていく。彼らは、僕らに触れなかった。ただ、ワイヤーと踏み板の周りを、ゆるやかに巡り、闇を払った。
光に照らされて、対岸の崖に張り付いた、太い鉄の梯子が見えた。ずっと昔に使われていた、非常用の設備だ。
「あそこ! あそこなら、届く!」
僕は、ワイヤーを蹴って、身体を振った。一度、二度。三度目で、澪の手が、梯子の一段を掴んだ。
僕らは、なんとか、岸に這い上がった。
しばらく、二人とも、ぜいぜいと肩で息をしていた。
やがて、澪が、ぽつりと言った。
「……さっき、私を離さないって、言いましたね」
「言いましたね」
「本当に、離さなかった」
「当たり前です」
澪は、泥だらけの顔で、ふっと笑った。それから、僕の手を、ぎゅっと握りしめた。
その先に、僕の目指す場所があった。
第七章 電波観測所の夜
トンネルの入口は、笹に埋もれた鉄の扉だった。志村さんから預かった鍵を、錆びた錠に差し込む。硬く、ぎしりと軋んで、それでも、錠は開いた。二人で身を滑り込ませる。扉を閉めると、闇と、湿った土の匂いが、僕らを包んだ。
懐中電灯の丸い光の中で、澪が肩で息をしている。
「……久我という人は、どうして、私たちのことを」
「分かりません。でも、あの人は、オーブが何なのかを、はじめから知っていた」
澪は唇を噛んだ。
「たぶん、私のせいです。私が川を遡ったとき、痕跡が、強く残りすぎた。観測者は本来、痕跡を残さないように来るのに、私は、急ぎすぎて」
「澪さん」
「私は、規則を破りました。そのせいで、あなたに、危険を」
「それは、もう言わなくていいです」
僕は、彼女の言葉を遮った。
「あなたが来なければ、僕は、光の糸の正体も、ずっと知らないままだった。……あんなきれいなものを見せてくれた人を、責める理由なんて、ないですよ」
暗がりの中で、澪が、ゆっくりと僕を見上げた。
トンネルの壁に、埃をかぶった木箱が置かれているのに、僕は気づいた。志村さんの古い道具箱だ。蓋を開けると、使い込まれた一冊のノートが出てきた。表紙には、几帳面な字で「観測日誌」とある。
ページをめくった僕は、息を呑んだ。
そこには、毎晩の日付とともに、こう書かれていた。
〈今夜も、丸い光が来た。挨拶をした。返事はないが、たぶん聞こえている〉
〈アンテナの向きを、ほんの少し、あの光のほうへ合わせておく。邪魔にならない程度に〉
〈岬くんは、まだ気づいていない。あの子は、きっと、いつか見える人になる〉
「……志村さん」
声が震えた。所長は、僕よりずっと前から、彼らを見ていたのだ。何十年も。そして、ただ静かに、耳を閉じずにいた。
「あのアンテナは、単なる観測機器じゃなかったんですね」
澪が、日誌を覗き込んでつぶやいた。
「この場所は、川の流れが、ちょうど集まる場所。何十年も、あの人が、そっと整えてくれていたんだわ。……だから私は、迷わず、ここに来られた」
「じゃあ、帰るときも」
「はい。今夜、日付が変わる頃に、扉が開きます。一度きり。それを逃したら、私は、二度と帰れません」
僕の胸の奥で、何かが、小さく軋んだ。
分かっていたことだった。彼女は未来の人だ。いつか、帰る人だ。それなのに、その日が今夜だと聞かされた途端、足もとの地面が、すとんと抜けたように感じた。
僕は、何か言おうとして、言えなかった。
代わりに、澪のほうから、静かに言った。
「岬さん。怖くないですか」
「怖い、ですよ。追われているし」
「そうじゃなくて」
彼女は、小さく笑った。
「百年後には、あなたも、いないでしょう。私は、それを知っている。あなたが、いつ、どんなふうに生きて、いつ眠りにつくのかを、記録で読んだ。……それでも、あなたは、ずっと穏やかなんですね」
「そう、なのかな」
「詩の中で、あなたは書いていた。『残念ながら、僕たちはそれを、見ることは出来ないけれど、それを、想像することは出来る』って」
澪は、僕の手を、そっと両手で包んだ。
「私、あの一行に、救われたんです。終わりのない時間を生きる私たちは、ずっと、何かを見失っていた。でも、あなたは、終わりがあるからこそ、今日を、想像し大切にできるんだって、教えてくれた」
その手は、あたたかかった。プラーナの糸が、僕ら二人の身体を、同じようにすうっと通り抜けていく。
トンネルの外で、男たちの足音が、遠くを通り過ぎていった。
第八章 久我の夜
久我は、谷を見下ろす林道に、車を停めていた。
運転席の窓を少し開けると、湿った夜の空気が、車内に流れ込んでくる。彼は、ダッシュボードの上に置いた、一枚の古い写真を、指先でなぞった。
写真の中で、六歳の少年が、麦わら帽子を被って笑っていた。
蒼(あおい)。久我の、ひとり息子だった。
九歳の冬に、亡くなった。原因不明の、進行の早い病だった。あらゆる病院を回り、あらゆる名医を訪ねたが、間に合わなかった。医者は、口を揃えて、こう言った。
「あと十年、研究が進んでいれば」
あと十年。たった十年。
それ以来、久我の人生は、その十年を手繰り寄せるためだけに、費やされてきた。
三年前、彼のもとに、一通の報告書が届いた。八ヶ峰周辺で、未知の粒子反応が観測されている。その挙動は、時間の流れと相関があるように見える。もし、あれが、本当に、未来から来たものだとしたら。
──あの子の病を治す方法が、あの先に、ある。
その考えに取り憑かれたとき、久我は、もう、後戻りできなくなっていた。
助手席に置いたタブレットには、観測所の様子が映っていた。無人機のカメラが捉えた映像。谷の上を、数えきれない光の玉が、集まっていく。
久我は、その光景を、息をするのも忘れて、見つめていた。
そして、思い出した。
蒼が、亡くなる前の晩のことだ。病室の窓から、彼は、外を眺めていた。窓の向こうに、雪が降っていた。
「お父さん」
「なんだい」
「雪って、空から、来てるんだよね」
「そうだよ」
「じゃあ、僕も、いつか、空のほうへ、行くのかな」
久我は、答えられなかった。ただ、蒼の小さな手を、握りしめていた。
蒼は、微笑んで、言った。
「大丈夫だよ。雪は、こわくないから」
あの夜、久我は、泣かなかった。泣けなかった。泣いてしまえば、息子の死を、認めてしまう気がしたからだ。
そして、それ以来、彼は、一度も泣いていない。
「……岬遼」
久我は、独りごちた。
先ほどの若者の言葉が、耳の奥で、何度も響く。
──先の人が、後の人の時間を、勝手に使っちゃいけない。
──何も、邪魔をするな。
それは、彼が、ずっと、拒み続けてきた言葉だった。それを認めてしまえば、息子の持ち時間が、あの短さだったことを、認めなければならなくなる。
タブレットの画面で、光の玉たちが、天へと昇る雪のように、瞬いている。
久我は、車のドアを開けた。
夜の冷気が、頬を刺す。彼は、胸ポケットに写真を差し込むと、ゆっくりと、尾根へ向かって、歩き出した。
自分が、何をしようとしているのか、まだ、はっきりとは、分かっていなかった。ただ、あの光を、もう一度、この目で、間近に見なければならない気がしたのだ。
亡き息子が、そこにいるかもしれないという、愚かで、切実な、祈りを抱いて。
第九章 扉
真夜中まで、あと一時間。
僕らは、トンネルの出口から、観測所の中央広場へ向かった。巨大なパラボラアンテナが、月明かりの中に、黒々と浮かび上がっている。
その足もとに、すでに久我たちの姿があった。
彼らはアンテナの基部に、見慣れない機械を据えつけていた。銀色の筒状の装置から、何本ものケーブルが、観測所の配電盤へと伸びている。
「あれが、彼らの『捕獲装置』です」
澪が、物陰で囁いた。
「オーブを引き寄せて、閉じ込める。観測者の通り道ごと、こちらの世界に固定してしまう。もしそんなことをされたら、川の流れは乱れて、扉は、二度と開かなくなる」
「開かなくなる?」
「そして、それだけじゃない。過去を乱せば、未来も乱れる。私たちの世界が、どうなるか、誰にも分からない」
僕は、装置と、そこへ繋がれた電線を睨んだ。
配電盤。あれは、この山の電力のすべてを握る、古い分電設備だ。設計図は頭に入っている。ここで八年、毎日触ってきた場所なのだから。
「……澪さん。オーブが、扉を開けるのに、電気は必要ですか」
「いいえ。私たちの仕組みは、この時代の電力を、一切使わない。ただ……」
「ただ?」
「静かで、いること。周りが、乱れていないこと。それが、扉の条件です」
僕は、うなずいた。
「分かりました。ひとつ、試したいことがあります」
僕が物陰から飛び出すと、久我が、待っていたようにこちらを振り返った。
「ああ、来ましたか、岬さん。あなたなら、必ず戻ってくると思っていましたよ」
「久我さん。最後に、もう一度だけ言います。その装置を、止めてください」
「お断りします」
「なら、僕も、止めさせてもらう」
久我の部下たちが、左右から僕に迫る。一人が、僕の腕を掴もうとした。
そのときだった。
僕の足もとを、無数の光の糸が、渦を巻いて流れ始めた。
プラーナ。時間の川の水。それが、僕を守るように、僕の周囲を、ゆっくりと巡りはじめたのだ。男たちの指は、糸に触れる前に、ためらうように止まった。
「な、なんだ」
その隙に、僕は走った。目指すのは、配電盤。分電設備の、赤い大きなレバー。
「岬さん、やめろ!」
久我が叫んだ。
僕は、レバーに全体重をかけて、引き下ろした。
バチッ、と強いスパークが走り、観測所じゅうの明かりが一斉に消え去った。山頂を覆っていた機械の重苦しい低音や電磁波の唸りが、一瞬で途絶える。
人工の波が途絶えたことで、捕獲装置の駆動音もふっと消え、山は静寂に包まれた。
久我の悲鳴に近い声が響く。
「馬鹿な。これでは、装置が動かん……!」
闇の中で、僕は、静かに、天を仰いだ。
そして、息を呑んだ。
空が、光っていた。
数えきれないほどの、白い光の玉が、夜空から、静かに降りてくる。ひとつ、またひとつ。まるで雪のように。ふわり、ふわりと、アンテナの周りに集まってくる。それは、これまで僕が見てきたどんな光景よりも、清らかで、静かだった。
パラボラアンテナの皿の中心に、光が、集まり、ほどけ、重なり、一つの大きな円をつくった。
その円の向こうに、白い朝焼けのような、淡い空が見えた。
「……扉、だ」
澪が、僕の隣で、かすれた声を漏らした。
久我は、装置の前に立ちすくんでいた。彼の目にも、それは、はっきりと映っているのだろう。手を伸ばしようとして、しかし、伸ばせずにいる。
「これが、未来……」
「久我さん」
僕は、静かに言った。
「触れたくなる気持ちは、分かります。僕だって、そうだ。でも、これは、僕らのものじゃない」
久我は、しばらく、その光の円を見つめていた。胸ポケットの写真に、指先が触れる。やがて、彼の肩から、ふっと力が抜けた。
「……私は、ずっと、この先へ手を伸ばすことが、正しいと信じてきた。先を目指すのが、人間なのだと」
「先を目指すことと、奪うことは、違うと思います」
久我は、目を閉じ、それから、小さく息を吐いた。
そのとき、一粒の光が、久我の肩のすぐ上で、雪のように、ふっと静止した。触れはしなかった。けれど、たしかに、そこにいた。
久我の頬を、一筋の涙が伝った。二十年ぶりの涙だった。
「撤収だ」
部下たちが、戸惑った顔で装置を片づけはじめる。
黒い車が山を下りていくのを、僕は、見送りもせず、ただ、光の円を見上げていた。
第十章 百年の向こう
扉は、静かに、そこに開いていた。
アンテナの皿の中心に浮かぶ、光の円。その向こう側には、あたたかな空気が流れているように見えた。近づくと、風が、ほんの少し、甘い花の香りを運んでくる。
「あと、十五分です」
澪が、言った。
「扉が開いていられるのは、日付が変わる、その前後の、ほんの短い間だけ」
僕らは、光の円の前に並んで立った。向こう側の景色が、少しずつ、はっきりしてくる。
丘の上だった。
眼下には、緑に覆われた街が広がっていて、その空を、小さな、丸みを帯びた乗り物が、静かに行き交っている。車は、本当に、空を飛んでいた。街の中央には、透明な塔がそびえ、夜明けの光を、宝石のように跳ね返していた。
「……本当に、飛んでる」
僕は、思わず笑った。ドラえもんの、あの絵だった。子どもの頃、教科書の余白に描いた、あの未来の街が、そこにあった。
「澪さん、聞いてもいいですか」
「なんでも」
「国境は、あるんですか」
「あります。自由に行き来できるようになって、名前だけが残っているの。方言みたいなものかな」
「地球は、無事ですか」
「無事。傷跡はあるけれど、ちゃんと、緑が戻ってきた。あなたたちが、少しずつ、邪魔をしないやり方を、選んでくれたから」
僕は、胸の奥が、じんわりと熱くなるのを感じた。
「それぞれの国の、その……バカな大将たちは」
澪は、吹き出した。
「いますよ。どの時代にも。それは、たぶん、百年経っても、変わらない」
「そうか。それは、安心した」
二人で、声を合わせて笑った。笑い声が、光の円の向こうへ吸い込まれていく。
「……テレビは?」
「もう、ないですね。CDも、レコードも、博物館の中」
「ですよね」
「最後にもうひとつ、聞いてもいいですか」
「はい」
「不老不死は」
澪は、しばらく黙っていた。円の向こうの朝焼けが、彼女の横顔を、金色に縁取っている。
「……あります。ほとんどの人は、もう、百五十年、二百年と生きる。でもね、岬さん」
彼女は、僕のほうを向いた。
「終わりのない物語は、始まりのない物語と、同じなんです。何があっても、いつかでいい、と思ってしまう。誰かに、今日会わなくてもいい、と思ってしまう」
その瞳が、少し、潤んでいた。
「私は、それが、ずっと、さみしかった。だから、あなたの詩を読んだとき、羨ましかったの。限りがあるからこそ、今日を、大切にできる、あなたたちが」
光の円が、細く、震えはじめた。
残された時間が、もう、ほとんどない。
「澪さん。……帰ってください」
自分の口から出た言葉に、僕は、自分で驚いた。
「あなたの世界は、あそこにある。あなたの家族も、友人も、待っているでしょう。僕は、ここで、あなたが元気で生きていてくれると、そう想像できるだけで、十分です」
「岬さん」
「だって、そうでしょう」
僕は、無理に笑った。
「先へ行く人の邪魔を、しちゃいけない。それが、僕の、たったひとつの信条だ」
澪は、首を振った。何度も、何度も。
そして、僕の胸に、そっと額を預けた。
「……あなたって、ほんとうに、ずるい人ですね」
「え」
「そんなふうに言われたら、余計、帰れなくなる」
第十一章 持ち時間
光の円が、消えかけている。
澪は、顔を上げて、僕を見つめた。彼女の頬を、涙が伝っていた。
「聞いてください。もう、時間がないから、ひとつだけ。……私は、一度、こちらへ来たら、簡単には戻れない。それは、事実です。でも、戻れないだけじゃない」
「じゃない?」
「こちらの世界に留まると、私の身体は、この時代の時間の流れに、馴染んでしまう。老いや、病気から守っていた仕組みが、少しずつ、ほどけていく。私は、あなたたちと、同じ速さで、歳をとることになる」
僕は、言葉を失った。
「つまり、私は、もう、二百年は生きられなくなる。あなたと同じ、たかだか八十年か、九十年。……それでも、私は」
澪は、僕の両手を、強く握った。
「あなたのそばで、その八十年を、生きたい」
夜の風が、山頂を吹き抜けていく。オーブが、ふわふわと二人を取り囲んだ。まるで、その決断を、固唾をのんで見守っているかのように。
僕は、しばらく、何も言えなかった。
言えるはずがなかった。彼女は、二百年を捨てようとしているのだ。あの、空飛ぶ車が行き交う、宝石のような街を。
「……いいんですか」
やっと絞り出した声は、掠れていた。
「後悔、しませんか」
「するかもしれません。でも」
澪は、光の円を、一度だけ、振り返った。
「あの街には、明日も、明後日も、あります。いつでも、行ける。でも、あなたの明日は、限りがある。……私、ずっと、無限の時間の中で、迷子でした。限りある時間を選ぶことのほうが、ずっと、勇気がいる。だから、それを、選びたい」
彼女は、微笑んだ。
「これが、私の、持ち時間の使い方」
光の円が、しずかに、ほどけはじめた。
扉の向こうの街並みが、朝もやの中に、溶けていく。丘の上に、小さな人影がひとつ、立っているのが見えた。子どもだった。まだ、七つか、八つくらいの、男の子。
その子は、こちらへ向かって、大きく手を振っていた。
僕も、思わず、手を振り返した。
男の子の口が、動いた。声は聞こえなかったが、唇の形で、分かった。
〈あ り が と う〉
僕は、鼻の奥が、つんと痛くなるのを感じた。
光は、静かに、細く、小さくなって、最後の一粒が、夜空に、すうっと消えた。
あとに残ったのは、いつもの山の頂と、錆びかけたアンテナと、満天の星。
そして、僕の手を握ったまま、まだ震えている、一人の女性だった。
「……ほんとに、行っちゃった」
澪は、小さく笑って、それから、ぽろぽろと泣いた。僕は、ためらいながら、その肩を、そっと抱いた。触れても、彼女は、どこにも逃げなかった。
オーブのように、避けなかった。
プラーナのように、通り抜けもしなかった。
彼女は、ちゃんと、そこにいた。
それから、僕らは、しばらく、黙って星を見ていた。空を、光の糸が、ゆっくりと、流れていく。
「澪さん」
「はい」
「明日、朝になったら、パンを焼きます。今度は、もう少し、うまく」
「楽しみにしています」
僕らは、笑った。
明日がある、ということが、こんなにも、ありがたいことだとは、知らなかった。
翌朝、僕は、パンの焼ける匂いで、目を覚ました。
台所では、澪が、袖をまくって、ボウルの中身と格闘していた。粉が、頬にも、髪にも、ついている。
「おはようございます。……見てください、岬さん」
彼女が指さしたオーブンの中では、二つの丸いパンが、ぷっくりと膨らんでいた。ひとつは、少し焦げていた。もうひとつは、なんだか、歪んでいた。
「失敗、ですね」
「はい。……でも、うれしい」
澪は、粉だらけの手で、目尻を拭った。
「私の時代には、なかった。失敗して、笑って、それでも、おいしいって、思えること」
僕らは、焦げたほうと、歪んだほうを、半分ずつ食べた。少し苦くて、少し固くて、それでも、たしかに、おいしかった。
食事のあと、澪は、窓辺に立って、ふと首を傾げた。
「岬さん。オーブが、いませんね」
言われて、僕も窓の外を見た。たしかに、あれほど山小屋の周りを漂っていた光の玉は、一つも見当たらなかった。
「帰ったのかな」
「たぶん。……私は、もう、観測される側になったから」
澪は、少し、さびしそうに、微笑んだ。
「もう、あの人たちの仲間じゃない。ちょっと、寂しいけれど」
「でも」
僕は、彼女の隣に立った。
「どこかで、見ていてくれるんじゃないですか。……それに、あの子たちは、あなたを、見送ってくれたんだ。ずっと、ありがとうって、言ってたじゃないですか」
澪は、こくりと頷き、それから、僕の肩に、そっと頭を預けた。
窓の外では、朝の光が、山の稜線を、金色に染めていた。プラーナの糸が、その光の中を、ゆるやかに流れていく。
僕らの身体を、ふたりぶん、通り抜けて。
終章 わずか百年、されど百年
あれから、四年が経つ。
八ヶ峰電波観測所は、相変わらず、山の上で空を見上げている。僕は、ここで保守技師を続けながら、夜は、手帳に、思いつくままの言葉を書いている。
澪は、麓の町の小さな図書館で、司書として働きはじめた。未来の知識は、誰にも話さない。ただ、子どもたちに、古い星座の話を聞かせるのが、彼女の得意になった。
久我は、あの夜のあと、機構を辞めたと、風の噂に聞いた。いまは、故郷の田舎で、畑をやっているらしい。一度だけ、葉書が届いた。「あれから、毎晩、空を見ています」とだけ、書いてあった。
そして、先月。
僕らのあいだに、赤ん坊が生まれた。
小さな、小さな女の子だ。蜜柑ほどの顔で、僕の指を、きゅっと握る。
あの日、駅のホームですれ違った赤ん坊も、いつか、老いて、眠りにつくのだろう。そして、この子も。僕も、澪も。
わずか百年で、今この世界にいる人間たちは、ほぼすべてが入れ替わる。
それでも、僕は、もう、怖くない。
窓の外に、ふわりと、白い光が浮かんでいた。オーブだ。彼らは、今夜も、静かに、僕らを見守っている。
赤ん坊が、光のほうへ、小さな手を伸ばす。
光は、あの日から変わらぬ距離を保ちながら、ふわふわと、揺れていた。それは、少し、笑っているようにも見えた。
たぶん、あの光の向こうでは、いつかの誰かが、この子の百年を、そっと、見つめているのだろう。
僕は、赤ん坊を抱いたまま、窓辺に立つ。澪が、隣に来て、寄り添った。
何が出来るかではなく、何も邪魔をしないこと。
そして、ただ、今日を、大切に。
僕らは、明日を、想像する。見ることは出来なくても。
わずか百年、されど百年。
その百年の真ん中で、僕らは、今日も、生きている。
その夜、赤ん坊が眠ったあと、僕は、久しぶりに、手帳を開いた。
窓の外では、星が、いつもより近かった。オーブが、ふわりと、机の上を横切っていく。僕は、ペンを持ったまま、しばらく考え、それから、ゆっくりと、書きはじめた。
〈百年後の、きみへ〉
〈僕は、きみを見ることは出来ないけれど〉
〈きみが、そこにいることを、想像することは出来る〉
〈空は、飛べているかい〉
〈国境は、低くなったかい〉
〈きみの隣に、大切な人は、いるかい〉
〈もし、いま、この言葉を読んでいるなら〉
〈これだけ、覚えていてほしい〉
〈何が出来るかではなく、何も邪魔をしないことが、大事だったりする〉
〈そして、きみの持ち時間を、きみのやり方で、めいっぱい、使ってほしい〉
書き終えて、顔を上げると、澪が、戸口に立っていた。
「読んでも、いいですか」
「どうぞ」
彼女は、手帳を受け取り、しばらく、黙って読んだ。そして、ふっと笑った。
「……これ、届きますよ」
「届く?」
「だって、あなたの詩は、もう一度、私の時代に届いたんだもの。今度は、この子の時代に、届くかもしれない」
彼女は、そっと、眠る赤ん坊の頬に触れた。
僕は、その小さな寝顔を見ながら、思った。
百年後の誰かが、この言葉を読む。その人もまた、誰かの邪魔をしないように、そっと、手を伸ばす。そうして、時間の川は、途切れることなく、過去から未来へ、未来から過去へと、めぐっていく。
それはきっと、とても静かで、とても、あたたかなリレーなのだ。
(了)
あとがき
この物語は、「人の持ち時間」というものに対する小さな感慨から生まれました。
振り返れば、私たちが日々過ごしている時間は、あまりにも速いスピードで過ぎ去っていきます。効率や成果を求められる現代において、私たちは時として「何が出来るか」「何を残せるか」ばかりを考えてしまいがちです。
けれど、本当に大切なのは何かを成し遂げることだけではなく、自分や他人の「持ち時間」を尊重し、ただ静かに寄り添い、邪魔をせずに温かく見守ることなのではないか——そんな思いを込めて言葉を紡ぎました。
八ヶ峰の静かな空気や、朝の光に舞うプラーナ、そして温かな焼きたてのパンの匂いを、読者の皆様にも一緒に感じていただけたなら、とても嬉しく思います。
もし読み終えたあと、夜空を見上げたり、ご自身の「今日」という時間を少しだけ愛おしく感じていただけたなら幸いです。

