メビウスの輪
――過去と未来をつなぐ、時間の旅――
まえがき
宇宙で死ぬ時、音はするのだろうか。
そんなことを、考えたことがあります。
空気のない宇宙では、爆発も、衝突も、誰かの叫び声も、地上のようには響きません。
ただ、静かな闇がある。
その闇の中で、人は何を思うのでしょう。
家族のことかもしれません。
故郷のことかもしれません。
あるいは、もっと単純なこと――
「あの時、ああしておけばよかった」
そんな、人生の小さな後悔なのかもしれません。
この物語の主人公、宇津見航(うつみ・こう)は、宇宙で命を失いかけます。
しかし彼がたどり着いたのは、死後の世界ではありませんでした。
そこには、滅びた地球がありました。
地底で暮らす人々がいました。
そして、過去と未来を行き来する、不思議な時間の輪がありました。
そこで彼は、自分たちが何を残してきたのかを知ります。
戦争。
破壊。
無関心。
けれど、それだけではありません。
花を守る人。
子供に青空を語る人。
誰かのために頭を下げる人。
そして、もう一度やり直そうとする人。
人間は、同じ過ちを繰り返す生き物なのかもしれません。
けれど、まったく同じ場所を回っているわけでもない。
ほんの少しずつ。
ほんのわずかに。
一人の選択によって、輪の位置がずれていく。
それが、この物語で描きたかった「メビウスの輪」です。
もし人生が、始まりと終わりを持つ一本の直線ではなく、どこかでつながった一本の帯なのだとしたら。
過去にしたことは、未来へ何を残すのでしょう。
段々と遠ざかる過去と、これから訪れる未来。その狭間で、私たちは一体何者なのでしょう。
どうぞ、宇津見航と一緒に、その輪の上を歩いてみてください。
もしかすると、あなた自身の人生のどこかにも、小さな輪が見つかるかもしれません。
第一章 漂流
音がなかった。
正確に言えば、自分の呼吸と心臓の音だけが、ヘルメットの中で嫌になるほど大きく響いていた。
それ以外は、完全な無音だった。
私の名は、宇津見航。
国際宇宙ステーションの後継として建造された小型軌道施設「ミズホ」で、保守作業を担当する技術者だ。
この日も、いつもと変わらない船外活動のはずだった。
太陽電池パネルの接続部を点検し、ボルトを締め、ステーションへ戻る。
それだけの作業だった。
宇宙での仕事は危険だ。
だが、危険だからといって、毎回死を意識しているわけではない。
むしろ慣れてしまえば、地上の高所作業と同じような感覚になる。
だから、あの瞬間も、私は油断していたのかもしれない。
カチリ。
小さな感触があった。
「あれ?」
そう思った時には、足元にあるはずの白い船体が、静かに、だが確実に遠ざかっていた。
安全ワイヤーが外れていた。
手を伸ばした。
届かない。
もう一度、伸ばした。
やはり届かない。
私は反射的にスラスターを操作した。
しかし、表示は無情だった。
推進剤残量、ゼロ。
さっきの作業で使い切っていたのだ。
「ミズホ、応答願います。こちら宇津見。ワイヤーが外れました。繰り返す、ワイヤーが――」
返事はなかった。
通信機は、ざあ、という小さな雑音を返すだけだった。
ミズホが、少しずつ小さくなっていく。
それは、驚くほど静かな別れだった。
悲鳴もない。
衝撃もない。
ただ、離れていく。
酸素残量は、四時間を少し切っていた。
私は身体をゆっくり回転させた。
目の前に、地球があった。
青かった。
雲の渦が、白い指紋のように見えた。
あの中のどこかに、私の生まれた町がある。
実家がある。
そして、去年亡くなった母の墓がある。
「母さん……」
声に出していた。
母には、最後に会えなかった。
私が宇宙にいる間に亡くなったのだ。
通信で知らされた時、私は何もできなかった。
地上へ戻った時には、葬儀も終わっていた。
墓の前に立っても、何を言えばいいのか分からなかった。
結局、何も言えなかった。
「もはや、これまでか」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
恐怖は、ある一線を越えると、かえって静かになるものらしい。
私は目を閉じた。
その時だった。
瞼の裏が、ふいに明るくなった。
目を開ける。
光があった。
最初は、星だと思った。
だが、その光は近づいてきた。
みるみる大きくなる。
やがて輪郭が現れた。
船だった。
見たことのない宇宙船。
継ぎ目がない。
卵のように滑らかで、全体が淡い金色に発光している。
エンジンの噴射もない。
アンテナもない。
窓すらない。
それなのに、船は私の目の前まで来ると、ぴたりと停止した。
船体の一部が、水面のように揺れた。
そこに四角い開口部が生まれた。
ドアだった。
内側から、柔らかな光が流れ出した。
そして通信機のざわめきの向こうから、声が聞こえた。
「お待ちしておりました」
男とも女ともつかない声だった。
若くも、老いてもいない。
けれど私は、その声をどこかで聞いたことがあるような気がした。
「……誰だ」
「どうぞ、お入りください」
声が続いた。
「時間がございません」
疑うべきだった。
逃げるべきだったのかもしれない。
だが、酸素は減っていた。
ミズホは遠ざかっている。
私は最後に地球を見た。
「助かった……」
そう呟いて、光の中へ身体を滑り込ませた。
「ありがとう。本当に、ありがとう」
背後で、ドアが閉じた。
その瞬間、私はまだ知らなかった。
その扉が、私の知っている時間には、二度と続いていないことを。
第二章 トンネル
そこは、宇宙船ではなかった。
正確には、船の中へ入ったはずだった。
だが、ドアの向こうに広がっていたのは、操縦席でも客室でもなかった。
一本の、果てしなく長いトンネルだった。
壁は黒とも紺ともつかない色をしていた。
天井は高く、足元には一本の帯状の床が、まっすぐ奥へ伸びている。
そして、その床が動いていた。
空港の動く歩道のようだった。
私が足を乗せると、床は静かに動き始めた。
私は、暗闇の奥へ運ばれていった。
「おい。誰かいないのか」
声は壁に吸い込まれ、反響すらしなかった。
しばらくして、私はヘルメットのバイザーを上げた。
酸素表示を見る。
満タンだった。
「……どういうことだ」
空気がある。
しかも、冷たく、少し甘い匂いがした。
雨上がりの土のような、妙に懐かしい匂いだった。
腕時計を見る。
秒針が止まった。
次の瞬間、猛烈な勢いで逆回転し始めた。
私は時計を外した。
もう時間というものが、ここでは意味を持っていないのだと思った。
やがて、壁に何かが流れていることに気づいた。
文字のように見えた。
目を凝らす。
だが、それは文字ではなかった。
景色だった。
赤ん坊が泣いている。
子供が走っている。
若者が笑っている。
老人が眠っている。
見知らぬ人々の人生が、壁を流れていた。
それは一本の映像ではなかった。
無数の人生だった。
何億。
何十億。
いや、それ以上。
「人の一生……?」
呟いた。
動く歩道は止まらない。
やがて、暗闇の向こうに小さな光が見えた。
出口だと思った。
私は光へ近づいていった。
しかし、光が視界いっぱいに広がった瞬間――
床が消えた。
身体が浮いた。
上下も左右も分からなくなった。
私は強い流れに巻き込まれ、何度も回転した。
叫んだ。
声は出なかった。
最後に見えたのは、母の顔だった。
幼い私の額に手を当てていた、あの時の顔。
そして、世界が暗くなった。
第三章 母の声
気がつくと、また動く歩道の上にいた。
壁には、無数の人生が流れている。
その中に、見覚えのある景色があった。
古い木造の家。
縁側。
庭の柿の木。
私は思わず立ち止まろうとした。
だが、床は止まらない。
景色の中に、小学三年生の私がいた。
その隣には、若い母がいた。
「航、何を作っているの?」
「分かんない。ただの輪っか」
母は笑った。
そして私の手から細長い紙を取り上げた。
くるりと一ひねりして、両端を糊で貼る。
「はい」
「普通の輪じゃん」
「じゃあ、線を引いてみて」
言われた通り、鉛筆で線を引いた。
輪の表を一周するつもりだった。
ところが線は、いつの間にか裏側へ出ていた。
「おかしい」
「もう一周してごらん」
一周。
さらに一周。
すると、線は最初の場所へ戻ってきた。
「どうして?」
幼い私は聞いた。
母は紙の輪を指で撫でた。
「表も裏も、ないんだって」
「ほんと?」
「メビウスの輪っていうの」
母は笑った。
「どこまで歩いても行き止まりがなくて、気がついたら反対側に来ているの」
「変なの」
「人生も、こんなふうかもしれないわね」
「じんせい?」
「そのうち分かるわ」
母は私の頭を、くしゃりと撫でた。
映像が流れていく。
私は壁に手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、景色が水面のように揺れた。
「母さん」
声が聞こえた。
「航」
私は息を止めた。
母の声だった。
「大丈夫よ」
「母さん?」
「怖がらなくていい」
涙が頬を伝った。
「最後まで、話せなかった」
声が震えた。
「ごめん……」
母は答えなかった。
ただ、あの時と同じ声で言った。
「線を、引き続けて」
「え?」
「止めないで」
声が遠ざかる。
「いつか、必ず、出発した場所に戻れるから」
私は叫んだ。
「母さん!」
だが、もう声は聞こえなかった。
壁の景色は、次の人生へ流れていった。
私は頬を拭いた。
そして、小さく呟いた。
「線を、引き続ける」
その意味は、まだ分からなかった。
第四章 三つの太陽
次に目を覚ました時、私は土の上に横たわっていた。
土の匂いがした。
空気がある。
重力もある。
そして、空を見上げた私は、息をのんだ。
星が多すぎた。
空一面が星だった。
天の川が白い大河のように空を横切っている。
私は、しばらく言葉を失った。
やがて東の空が明るくなった。
太陽が昇った。
赤い太陽だった。
巨大な赤い恒星が、猛烈な速度で空を横切っていく。
昇ったと思った瞬間には、もう沈み始めている。
そして夜。
再び東が明るくなった。
今度は黄色い太陽。
地球の太陽によく似ていた。
それもまた、短い時間で空を渡った。
そして三度目。
青い太陽だった。
冷たい青い光が大地を染める。
私は呆然とした。
赤。
黄。
青。
三つの太陽が、順番に空を巡っている。
「ここは……どこだ」
その時、足元が揺れた。
地面に丸い穴が開いた。
穴の中から、小さな生き物が顔を出した。
半透明の身体。
大きな目。
「地上は危険です」
私は後ずさった。
「君は……」
「早く、中へ」
その生き物は言った。
「青い光が強くなります」
私は空を見上げた。
青い太陽が、まぶしいほど輝いていた。
「地上の者は、焼かれます」
私は穴へ飛び込んだ。
第五章 地底の民
穴の中は、巨大な地下空間になっていた。
天井には青白く光る苔。
透明な水路。
そして、半透明の人々。
私を案内してくれた生き物は言った。
「私はミオです」
「ここは、どこなんだ」
ミオは、静かに答えた。
「地球です」
私は笑いそうになった。
「地球に太陽は三つもない」
「昔は、一つでした」
ミオは言った。
「昔は、あなたたちと同じ地上の人間が暮らしていました」
「あなたたちと同じ?」
「私たちは、その子孫です」
ミオは地下の街を見渡した。
「地上が変わったので、私たちも変わりました」
その言葉の意味を、私はまだ理解できなかった。
だが、やがて歴史を描いた壁画を見せられた。
そこには、青い地球。
都市。
宇宙船。
そして、炎。
「三つの太陽は、自然に生まれたものではありません」
ミオは言った。
「人間が地球を変えすぎた結果です」
私は、壁画を見つめた。
地球の大気。
軌道上の巨大施設。
人工的に制御された恒星。
気候を操作しようとした技術。
人間は、自然を支配しようとしていた。
そして、その結果、空は三つの光に支配された。
「赤は苛烈な熱を」
ミオが言った。
「青は生命を蝕む放射線を。そして黄色は、時間を」
「時間?」
「黄色い光は命の時計を暴走させます。浴び続ければ、身体の時間が一瞬で老いへと進んでしまうのです」
私は自分の手を見た。
「だから、あなたたちは地下に?」
「はい」
その時、私は初めて気づいた。
この地下の街は、単なる一時的な避難所ではない。
ここは、何世代にもわたって人々が生き延びてきた歴史そのものなのだ。
第六章 責任
街の中心には、大きな広間があった。
壁一面に歴史が描かれていた。
文明。
戦争。
核。
環境破壊。
そして、世界の崩壊。
「すべては、お前たちの責任だ」
誰かが言った。
私は黙っていた。
「地上の人間が選んだんだ」
別の声が続いた。
「火を使うことを」
「敵を憎むことを」
「今日の欲を、明日の安全より優先することを」
私は言い返そうとした。
私は兵士ではない。
政治家でもない。
核のボタンを押したこともない。
だが、言葉が出なかった。
ニュースを見て。
ため息をついて。
遠い国の戦争を眺めて。
自分には関係ないと思って。
私は、何もしてこなかった。
「……すまない」
口から出た。
「本当に、すまなかった」
私は頭を下げた。
広間が静かになった。
ミオが近づいてきた。
「頭を上げてください」
私は顔を上げた。
「あなたは、あの日、どこにいましたか?」
「あの日?」
「世界が滅びた日です」
私は答えた。
「宇宙にいた」
ミオが目を見開いた。
「宇宙に?」
「ステーションで仕事をしていた。ワイヤーが外れて……」
ミオはしばらく私を見つめた。
そして言った。
「そういうことでしたか」
「何が?」
「あなたは、まだ地上にいなかった」
私は息をのんだ。
「では……」
「あなたは、過去から来たのです」
第七章 最後の日の記録
その夜、私はミオの部屋に招かれた。
壁には無数の記録が刻まれていた。
「これは、最後の日の記録です」
ミオが言った。
私は壁に手を触れた。
文字が頭の中へ流れ込んできた。
――その朝も、普通の朝だった。
母親が朝食を作る。
娘が寝癖のまま食卓につく。
テレビでは世界情勢が流れている。
「大丈夫よ」
母親は言った。
「偉い人たちが話し合ってるから」
本当は、彼女自身も不安だった。
けれど、朝食を食べる。
学校へ行く。
仕事へ行く。
明日が来ると思っている。
それが、人間の日常だった。
昼過ぎ。
サイレンが鳴った。
人々が空を見上げる。
白い光が走った。
娘が母親の手を握る。
「お母さん、あれ、なに?」
母親は答える。
「大丈夫よ」
そして――
世界が白くなった。
記録は、そこで途切れていた。
私は長い間、動けなかった。
「この親子は?」
「分かりません」
ミオが言った。
「ただ、生き延びた誰かが記録したのでしょう」
「どうして……」
「誰も、世界が終わると思っていなかったのです」
ミオは言った。
「ほとんどの人は、悪人ではありませんでした」
その言葉が、胸に刺さった。
「ただ、何も起こらないと思っていた」
ミオは続けた。
「だから、知ってほしいのです」
壁の記録に手を添える。
「ここには、確かに暮らしがあったということを」
味噌汁の湯気。
寝癖の娘。
朝の食卓。
それは、私の知っている日常と何も変わらなかった。
第八章 地底の一夜
地底の生活は、不思議なほど穏やかだった。
食事は光る茸のスープ。
水路には透明な魚。
子供たちは走り回っていた。
その中に、ソラという男の子がいた。
「ねえ、地上の人」
ソラが聞いた。
「青って、なあに?」
「青?」
「おじいちゃんのおじいちゃんが言ってた」
ソラは天井を見上げた。
「空は、青かったって」
私は答えた。
「夏の朝に、窓を開けるんだ」
「うん」
「冷たい空気が入ってくる」
「うん」
「それで空を見ると、頭の上いっぱいに青がある」
「どんな青?」
私は少し考えた。
「海より深くて、でも海より遠い」
ソラは目を輝かせた。
「見てみたい」
私は笑った。
「いつか見せてやる」
「ほんとう?」
「ああ」
その瞬間、私は気づいた。
これは約束だ。
第九章 黄色い光
夜が明ける前だった。
ソラがいない。
ミオが駆けてきた。
「地上への穴が開いています!」
私は走った。
地上へ出る。
そこは黄色い光で満たされていた。
時間を食いつぶす、黄色い太陽。
その下に、ソラが立っていた。
「すごい」
ソラは空を見上げていた。
「青じゃないけど、きれい」
私は叫んだ。
「ソラ!」
振り向いた少年の顔には、すでに無数の皺が刻まれていた。
黒かった髪が、急速に白くなっていく。
命の時間が、引きちぎられるように進んでいた。
私は全力で走った。
ソラを抱き上げる。
「帰るぞ!」
「いやだ。もう少し見る」
「青を見せてやる!」
「ほんとう?」
「ああ。約束する!」
私は少年を抱えたまま、穴へ向けて必死に足を動かした。
自分の皮膚にも皺が浮かび、腕の筋肉が衰えていくのが分かった。
膝が激しく震える。
それでも止めなかった。
穴へ飛び込み、地下へ戻る。
青白い苔の光の下で、ソラの身体がゆっくりと元へ戻っていった。
私は自分の手を見た。
皮膚の皺は引いていたが、右手の甲に一本だけ、消えない白い光の筋が残っていた。
削られた時間の痕跡だった。
「命を奪われましたね」
ミオが言った。
「構わない」
私は答えた。
「約束が、一つ増えただけだ」
ソラが私の指を弱々しく握った。
「ぼく、青、待ってる」
私は、その手を強く握り返した。
第十章 時間差
私は、ミオに尋ねた。
「あの船は何なんだ?」
「時間を越える船です」
「誰が作った?」
「分かりません」
「誰が私を選んだ?」
ミオは答えなかった。
「あなたには、過去と未来を選ぶ権利があります」
「過去へ戻れる?」
「はい」
「未来へも?」
「はい」
私は考えた。
過去へ戻れば、世界が滅びる前に警告できるかもしれない。
だが、ミオは静かに首を振った。
「近い過去へ戻っても、あなたは歴史を変えられません」
「なぜ?」
「歴史は、一本の大きな川だからです」
ミオは言った。
「投げ込まれた一つの小さな石では、流れそのものを変えることはできない」
「なら、未来へ行けば?」
「あなたの目で確かめてください」
私は決めた。
「未来へ行く」
ミオは頷いた。
「では、最後に一つだけ」
彼女が白い部屋へ私を連れていった。
そこには、一輪の花があった。
半透明の白い花。
「地上には、もう花がありません」
ミオが言った。
「これが、最後の一輪です」
私は花を受け取った。
「未来へ持っていってください」
「どこへ?」
「花が咲く場所へ」
私は頷いた。
「必ず」
第十一章 選択
「なぜ、私なんだ」
私はミオに聞いた。
「分かりません」
彼女は答えた。
「でも、私には一つだけ思い当たることがあります」
「何?」
「あなたは、謝った」
私は黙った。
「あなたは、自分だけの責任ではないことについて、頭を下げました」
「それだけで?」
「それだけではありません」
ミオは微笑んだ。
「責任を、自分とは無関係なものにしなかった」
私は手の中の花を見つめた。
「それが、選ばれた理由なのか」
「私には、そう思えます」
その時、天井が光った。
金色の船が降りてきた。
「行ってください」
ミオが言った。
「そして、忘れないで」
「何を?」
「時代は繰り返します」
船のドアが開く。
私は振り返った。
「ミオ」
「はい」
「また会える?」
ミオは微笑んだ。
「あなたが忘れなければ」
私は頷いた。
そして船へ乗り込んだ。
第十二章 三億年
船内には、一脚の椅子しかなかった。
私は腰を下ろした。
「行き先は?」
あの声が聞こえた。
「未来」
私は答えた。
「平和な時代へ」
「かしこまりました」
声が言った。
「では、三億年ほど先へ」
「三億年?」
「それくらい経てば、人の世も、少しは落ち着くでしょう」
私は笑った。
「ずいぶん長いな」
「ご心配なく」
船が動いた。
いや、動いたという感覚すらなかった。
目の前に巨大な数字が現れた。
一千年。
一万年。
百万年。
一億年。
数字が高速で流れていく。
私は尋ねた。
「あなたは誰だ?」
しばらく沈黙があった。
そして声が答えた。
「あなたが、一番よくご存じの方です」
「どういう意味だ」
「もうすぐ分かります」
私は花を見た。
三億年。
そんな未来に、本当に花が残るのだろうか。
数字が止まった。
「到着です」
ドアが開いた。
第十三章 現代の日本
外へ出た。
太陽は一つだった。
空は青かった。
そして、そこには街があった。
信号。
横断歩道。
自動販売機。
コンビニ。
電線。
犬を連れた老人。
ベビーカーを押す母親。
制服姿の学生。
私は混乱した。
「三億年後……?」
そこは、どう見ても現代の日本だった。
船は消えていた。
代わりに小さな公園があった。
桜が満開だった。
ベンチに老人が座っていた。
「おや」
老人が私を見る。
「ずいぶん遅い到着でしたな」
その顔を見て、私は息をのんだ。
私だった。
正確には、年老いた私だった。
「あなたは……」
老人は笑った。
「まあ、座りなさい」
私は隣に座った。
「あなたが、船の声を?」
「そうかもしれません」
「未来の私なのか?」
老人は答えなかった。
ただ、私の腕の中の花を見た。
「持ってきたのですね」
「どこへ?」
老人は桜の根元を指した。
「そこへ」
私は土を掘った。
花を置く。
すると花は、土の中へ溶けていった。
次の瞬間。
桜の根元から、淡い光があふれた。
第十四章 老人の家
老人の家は、公園の裏にあった。
古い木造の平屋だった。
縁側。
座布団。
湯呑み。
そのすべてが、なぜか懐かしかった。
老人がお茶を淹れた。
「あなたも、あの地下へ行ったのか?」
私は聞いた。
「ええ」
「ミオに会った?」
「もちろん」
「ソラにも?」
老人は笑った。
「あなたは、まだソラに会ったばかりですね」
私は息をのんだ。
「では、あなたは……」
「何度も、この輪を歩いてきました」
老人は静かに言った。
「最初の私は、謝りませんでした」
「最初?」
「自分には関係ない、と言った」
老人は湯呑みを置いた。
「その時は、輪を抜けられなかった」
「輪を?」
「同じ場所へ戻ったのです」
私は理解できなかった。
老人は続けた。
「二度目の私は、頭を下げました」
「そして?」
「花を託された」
老人は私を見た。
「あなたと同じです」
私は立ち上がりそうになった。
「つまり……」
「あなたが未来で私になる」
老人は言った。
「そして、やがてあなたは、あの船に乗って、若い自分を迎えに行く」
胸が締めつけられた。
「じゃあ、あの声は……」
「あなたの声です」
すべてがつながった。
船。
声。
未来の老人。
そして、私自身。
「始まりは、どこなんだ?」
老人は笑った。
「ありません」
「ない?」
「メビウスの輪には、始まりも終わりもない」
私は黙った。
「だから、あなたが私であり、私はあなたでもある」
庭を風が吹き抜けた。
桜の花びらが舞った。
老人が立ち上がる。
「そろそろです」
「何が?」
「あなたが、戻る時間です」
第十五章 メビウスの輪
空を見上げた。
そこに巨大な光の輪が浮かんでいた。
透明な帯がねじれ、ひとつにつながっている。
「これが……」
「メビウスの輪です」
老人が言った。
「時間も、人の歴史も、これに似ています」
私は輪を見つめた。
「同じ場所へ戻ってくる」
「ええ」
「では、人間は何度も同じ過ちを?」
「そうかもしれません」
老人は答えた。
「けれど、完全に同じではない」
「なぜ?」
「あなたが、ミオに謝った」
「それが?」
「ソラを助けた」
「それが?」
「花を運んだ」
老人は桜の根元を指した。
そこから、小さな白い芽が出ていた。
「一周して戻ってきても、ほんの少しだけ違う」
私は芽を見つめた。
「それで、いつか世界を変えられる?」
老人は首を振った。
「分かりません」
そして笑った。
「でも、選ぶことはできます」
私は、母の言葉を思い出した。
――線を、引き続けて。
「そうか」
私は呟いた。
「線は、途中で止めなければいいんだ」
老人が頷いた。
「その通りです」
光の輪が、ゆっくり近づいてきた。
第十六章 始まりの場所へ
光の輪が、私を包んだ。
熱くも冷たくもない。
桜の花びらが舞っている。
「さようなら」
老人の声が聞こえた。
「また会いましょう」
「また?」
「あなたが、私になる時に」
光が強くなる。
私は目を閉じた。
気がつくと、あのトンネルにいた。
今度は歩道が逆向きに動いていた。
壁には、無数の人生が流れている。
赤ん坊。
子供。
若者。
老人。
そのの中に、ミオがいた。
地底の街。
ミオは子供たちに何かを話している。
その中に、ソラがいた。
少し大きくなっている。
ミオが言った。
「地上には、花が咲いたそうですよ」
子供たちが歓声を上げた。
「青い空も、あったそうです」
私は立ち止まりたかった。
けれど歩道は止まらない。
私は笑った。
約束は、果たされたのだ。
いや。
これから果たされるのかもしれない。
過去と未来がつながっているのなら、どちらでも同じだった。
壁の景色が変わる。
暗い宇宙。
一人の宇宙飛行士。
ワイヤーが外れる。
私だった。
いや。
これから私になる。
その少し離れたところに、金色の船が浮かんでいる。
船内には、一人の老人がいる。
私だ。
老人が微笑んだ。
そして言った。
「お待ちしておりました」
私は微笑み返した。
「今度は、私が言う番だ」
光が近づいてくる。
私は、母を思った。
「母さん」
小さく呟く。
「線は、引き続けたよ」
光が、すべてを包んだ。
第十七章 目覚め
「宇津見さん」
誰かの声がした。
「宇津見さん、聞こえますか?」
目を開ける。
白い天井。
蛍光灯。
私はミズホの医務室にいた。
「気がつきましたか」
医師が覗き込んでいる。
「船外活動中にワイヤーが外れたんです。救助艇が、ぎりぎりで回収しました」
「どのくらい?」
「三時間ほどです」
三時間。
私は天井を見つめた。
夢だったのだろうか。
三つの太陽。
ミオ。
ソラ。
老人。
そして、三億年。
すべて、酸素不足による幻覚だったのかもしかもしれない。
医師が部屋を出た。
私は一人になった。
ぼんやりと自分の手を見る。
右の手のひらに、何かがあった。
指でつまむ。
それは、一枚の花びらだった。
半透明の白い花びら。
光にかざすと、虹色に輝いた。
私は息を止めた。
その時だった。
どこからか、声が聞こえた。
あの声。
男とも女ともつかない。
若くも老いてもいない。
懐かしい声。
「航」
私は目を閉じた。
「まだ、間に合います」
声が続いた。
「輪は、回っています」
私は花びらを握った。
窓の外を見る。
そこには、青い地球があった。
雲が白い指紋のように浮かんでいる。
あの地球は、まだ青い。
まだ、花が咲く場所がある。
まだ、誰かが誰かの手を握ることができる。
私はベッドからゆっくり身体を起こした。
そして窓辺へ歩いた。
地球が、静かに回っている。
その姿を見ながら、私は思った。
人間は、何度でも同じ場所へ戻ってくるのかもしれない。
けれど――
まったく同じ場所ではない。
ほんの少し。
ほんのわずか。
一人の選択によって、線はずれる。
だから、まだ終わっていない。
私は、花びらをそっと胸ポケットにしまった。
「線を、引き続けよう」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
窓の向こうで、地球が青く輝いている。
まるで、もう一度だけ、
私たちに時間をくれるように。
そして私は、歩き出した。
――輪は、まだ回っている。
(了)
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あとがき
宇宙でワイヤーが切れた一人の男が、時間の輪の中を旅する。
最初に思いついたのは、それだけでした。
そこから、地底の人々が生まれました。
三つの太陽が生まれました。
ミオが生まれ、ソラが生まれ、そして未来の老人が生まれました。
書いているうちに、物語は私の手を離れて、勝手に歩き始めました。
特に、ソラが「青を見たい」と言う場面は、この物語を書きながら、何度も考えさせられた場面です。
私たちにとって青い空は、あまりにも当たり前です。
朝になれば空があり、雲があり、太陽があります。
子供たちは、それを教えられなくても知っています。
けれど、それを失った人々にとっては、「青」という色さえ、誰かから聞かなければ分からないものになる。
そう考えると、普段当たり前だと思っているものの中には、実は、とても大切なものがたくさんあるのだと思います。
家族。
故郷。
青い空。
花。
そして、明日が来ると信じられること。
この物語では、人類が一度、大きな過ちを犯します。
しかし、それだけで終わらせたくありませんでした。
人間は過ちを繰り返す。
それは確かに悲しいことです。
けれど、人間にはもう一つの性質があります。
誰かを助けること。
謝ること。
約束を守ろうとすること。
花を次の時代へ渡すこと。
それらもまた、繰り返されます。
だから、この物語の輪は、完全な円ではありません。
一周して同じ場所へ戻ったように見えても、ほんの少しだけ違う。
昨日より今日。
今日より明日。
その小さな違いが積み重なれば、いつか大きな未来になるのかもしれません。
メビウスの輪には、表も裏もありません。
始まりも終わりもありません。
けれど、一本の線を引けば、その線は必ずどこかへ続いていきます。
人生も、そうなのかもしれません。
私たちは、自分がどこへ向かっているのか分からないまま、線を引いています。
途中で間違えることもあります。
立ち止まることもあります。
後悔することもあります。
それでも、もう一度線を引く。
その線が、誰かの未来につながることを願って。
この物語を最後まで読んでくださったあなたへ。
もし今、あなたの人生の中に「もう遅い」と思っていることがあるなら、ほんの少しだけ、考えてみてください。
本当に、もう遅いのでしょうか。
輪は、まだ回っています。
線は、まだ続いています。
そして、もしかすると――
次に線を引くのは、あなたなのかもしれません。
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紹介文
宇宙で、ワイヤーが切れた。
国際軌道施設「ミズホ」で船外作業をしていた技術者・宇津見航は、漆黒の宇宙空間へ放り出される。
酸素は、あと数時間。
通信はつながらない。
地球は、静かに遠ざかっていく。
死を覚悟した航の前に現れたのは、金色に輝く、見たこともない宇宙船だった。
「お待ちしておりました」
謎の声に導かれ、船内へ入った航を待っていたのは、宇宙船ではなく、果てしなく続く時間のトンネルだった。
そこには、無数の人間の人生が流れていた。
そして航は、母の声を聞く。
「線を、引き続けて」
やがてたどり着いたのは、三つの太陽が巡る、荒廃した地球。
地下には、半透明の身体を持つ人々が暮らしていた。
彼らは、航に告げる。
――地上の人間は、世界を滅ぼした。
航は、彼らの怒りと向き合う。
そして、一人の少年ソラと出会う。
「青って、なあに?」
地上を知らない少年が、そう尋ねた。
航は約束する。
「いつか、本物の青い空を見せてやる」
その約束が、やがて航を過去と未来をつなぐ、巨大な時間の輪へと導いていく。
三億年後。
桜の咲く日本。
そこで航を待っていたのは、年老いた自分自身だった。
「あなたが、私になる」
過去と未来。
母と息子。
滅びと再生。
一人の人間の選択。
すべてが一本の線でつながっていく。
これは、宇宙を舞台にしたSFでありながら、最後に残るのは「人は何を未来へ残せるのか」という、小さな問いの物語です。
人間は、同じ過ちを繰り返す。
けれど、まったく同じ場所へ戻ってくるわけではない。
誰かを助けたこと。
誰かに謝ったこと。
誰かと交わした約束。
一輪の花。
その小さな違いが、未来をほんの少しだけ変えていく。
――輪は、まだ回っている。
――そして、線はまだ続いている。
不思議で少し切なく、最後に静かな希望が残る、時間SF小説。

