続 極楽確約システム
繁盛と帰郷
〜ご同輩、善光寺で会いましょう〜


まえがき
ご同輩。前巻で生まれた反省温泉は、潰れずに済みました。
それどころか、少しだけ繁盛してしまいました。地獄の鬼が、初めて「ありがとう」と言われるようになった頃の話です。




第一章 開業初日の珍客たち
反省温泉の暖簾をくぐった最初の客は、小学生の男の子だった。ランドセルは大きく、本人は小さい。
「あの、友達の消しゴム、隠しちゃった。返せない」
受付の園児帽の鬼、赤沢がしゃがんで目線を合わせた。赤沢は昔、針の山の担当だった。針で刺すより、しゃがむ方が難しいと最近気づいた。
「そっか。大変だったね。返せないって思うと、胸がキュッとするよね。夜、眠れないよね」
男の子はこくんと頷いて、泣いた。泣き終わると「明日、謝る」と言って、背中を少しだけ大きくして帰っていった。ランドセルが揺れた。
二人目は、七十代の女性。椅子に座るなり言った。
「三十年前、主人の弁当に、わざと梅干しを入れなかったことがあるんです。喧嘩してて。主人は何も言わずに持って行ったけど、今思うと……」
鬼頭剛がお茶を出した。湯呑みには「地獄観光庁 創立八百年記念」とある。
「梅干し、一個のことで、三十年も。ご同輩ですね」
女性は笑った。「ご同輩って、いい言葉ね。みんな、同じなのね」
彼女は帰り際に言った。「今夜、梅干し二つ入れてみます」
午後、三人組の旧友が来た。七十前後のハイキング姿で、手には善光寺のお守り袋。善光寺の仲見世で買った七味の袋も持っている。
「わしら、若いころ、戒壇巡りで……」
三人はもじもじしながら白状した。若気の至りで、暗闇で女性のお尻に触ってしまったという。
鬼頭は三人をそれぞれ別の反省の間へ。三時間後、三人は目を真っ赤にして出てきた。
「鬼さんが『大変、つらかったですね。言えずに四十年抱えてきたんですね。触られた方の痛みを、四十年も自分で抱えてきたんですね』と言ってくれた」
三人は仲見世の七味屋で七味を買って帰った。帰り道、ずっと黙っていたそうだ。
その日の夜、反省温泉の日報にはこう書かれた。
『入湯者十二名。うち反省三名、足湯のみ九名。タオル忘れ多数。猫同伴可は好評』


第二章 反省の間だより
反省温泉の横に「反省の間」という小さな部屋ができた。誰でも自由に、手紙を書いて置いていける部屋だ。宛名はなくてもいい。壁一面が手紙で埋まっていった。誰も剥がそうとしなかった。
六十過ぎの元公務員が正座して言った。
「三十年前にスーパーでレジ袋を一枚、ポケットに入れて帰ったのです。当時三円の。袋が有料化される前の、まだ無料だった頃の、予備の袋です」
赤沢が聞く。「それで?」
「それ以来、店員さんの目が怖くて遠回りして別のスーパーへ行くようになりました。ガソリン代で三万円損しています。妻には言えません」
赤沢は湯呑みを持ったまま固まった。地獄の閻魔帳には「レジ袋窃盗、懲役三年」とか書くべきなのか。いや違う。
「それは大変重い罪ですね。でも今日ここで話してくれた。それだけで三万円分は返されましたよ。よく話してくれました」
男は声をあげて泣いた。帰り際に赤沢が言った。「そのスーパー、今度一緒に行きませんか。私が袋、買いますから」
骨が一本折れた傘を差したまま入ってきた六十代。傘はビニール傘だが、持ち手が木製の、少し良い傘だ。
「三十年前、会社の傘立てから誰かの傘を。雨でどうしても帰らなきゃいけなくて。次の日にこっそり返したけど、持ち主はもう別の傘を買ってて、私の返した傘は捨てられたんです。だからこの傘を捨てられないんです。誰かの傘だったかもしれないって思うと」
鬼頭は言った。「その傘、ここに置いて行きませんか。反省の間の、忘れ物として。誰かが、また使ってくれるかもしれない」
男は少し迷ってから、傘を置いていった。骨の折れた傘は、反省の間の隅で、誰かを待つように立っていた。翌週、年賀状の女がその傘を借りて帰った。雨だったのだ。
毎年同じ中学の同級生に年賀状を出し続けている五十代。もう会うこともない、喧嘩別れした同級生に。
「喧嘩したまま卒業しちゃったんです。私が彼女の悪口を言ったんです。陰で。そしたらそれがバレて。返事は来ません。でも出さないと、もっと会えなくなる気がして。住所ももう変わってるかもしれないのに」
彼女は反省の間で、今年の年賀状を書いた。宛名はいつもの名前。裏には『今年もあなたの幸せを祈っています。もし迷惑だったら言ってください。でももう少しだけ出させてください』と書いた。
その年賀状は投函されずに壁に貼られた。誰かが横に小さく書いた。『大丈夫。届いてるよ。きっと』
彼女は翌年から、年賀状の代わりに反省の間に手紙を貼るようになった。相手はもう読まないかもしれないが、書くことで自分が救われるからだ。
椅子に座るなり「私は反省なんてしません。だって悪いことなんてしてないから」と言った建設会社の元社長、熊田。従業員を怒鳴りつけ、取引先を踏みつけにしてきた自負がある。
園児帽の鬼が困っていると、奥からごくらくがやってきた。黒猫のごくらくは、男の膝に乗るとゴロゴロと喉を鳴らした。男は最初は嫌がったが、だんだん猫の温かさに負けてきた。
「昔、飼ってた猫を捨てたことがあるんです。引っ越しで、連れて行けなくて。段ボールに入れて河原に置いてきたんです」
男は小さな声で言った。「反省してないなんて嘘です。本当は毎日思い出してます。あの猫のゴロゴロって音を」
ごくらくはそのまま男の膝で寝てしまった。男は猫を起こさないように、じっとしていた。足が痺れても動かなかった。
「ここ、また来てもいいですか。猫に会いに」
今では常連で、毎回猫のごはんを持って来る。ごくらくの次に来たぱらいそにも、もくもくにも、同じようにごはんを持って来る。熊田の会社は今、保護猫の譲渡会の会場を無償で貸している。
反省の間は、いつしか「ありがとうの間」と呼ばれるようになった。


第三章 鬼頭課長の休日
地獄観光庁にも働き方改革の波が来て、週休二日制ができた。鬼頭剛は日曜の朝、善光寺の屋根の雪下ろしを手伝うため人間界へ。理由は「善光寺の屋根が潰れたら閻魔様の甘酒屋台も潰れるから」という、よくわからないものだった。
善治も付いて行った。善光寺の屋根は想像以上に急で、高かった。下から見上げるのと、上から見下ろすのとでは全く景色が違う。
屋根の上から長野市が一望できた。遠くに新幹線が小さく光って走っていくのが見えた。風が冷たかったが、気持ちよかった。
「ご同輩、見てごらん。あの遠くの山、あれが君のバアちゃんの家の近くの山だよ」
課長が指差した。確かに、あの稜線は見覚えがあった。小さい頃、縁側から見ていた山だ。
「課長は、どうして地獄で働いてるんですか」
鬼頭はヘルメットを脱いだ。角の先が少し欠けているのが見えた。昔、麻雀で負けて机にぶつけた跡だ。
「私かい?私はね、昔、人間だったんだよ。江戸の小さな米屋の番頭でね。店の金をほんの少し使い込んでしまった。病気の母の薬代でした。ほんの少しです。今の金にすれば五千円くらい。すぐに返すつもりだった。でも言い出せなくて、そのまま雪の日に行き倒れて死んで、地獄に落ちて雇われたんです。もう三百年くらいかな」
三百年という言葉があまりにも軽く出てきたので、私は笑ってしまった。
「笑うだろう。でもここでの三百年は人間界の三日くらいなんだ。だからそんなに辛くないよ。むしろ君みたいなご同輩に会えるから、楽しいくらいさ」
善治は思った。この人もまた、五千円のことで三百年悩んでいたのか。
屋根の雪を下ろし終えた後、二人で甘酒を飲んだ。閻魔大王の甘酒は少しだけ焦げ臭かったが、温かかった。
「休日って、いいね」と課長は言った。「反省も、休み休みやらないとね」
その夜、善治は夢を見た。江戸の小さな米屋で、若い番頭が母の薬袋を握りしめて泣いている夢だった。目が覚めると、隣でぱらいそが寝ていた。


第四章 石川五郎の来訪
最後の客は派手なシャツを着た男だった。仕立ての良いスーツに、高そうな腕時計。だが靴は泥だらけだった。善光寺の参道を走ってきたのだろう。
「石川五右衛門の末裔です。地獄を買いに来ました」
地獄観光庁の職員が一斉にざわついた。釜茹では地獄の名物だが、最近は観光客から評判が悪い。熱すぎる、というのだ。
名刺には『石川五郎 土地開発・リゾート再生事業』とある。
「ここ、かなり広いでしょう?立地も面白い。温泉もある。これはいけます。高級会員制地獄リゾート、年会費五千万円。夜は鬼のショー。閻魔大王の説教ライブ」
鬼頭の顔から笑顔が消えた。閻魔大王は先週も辞表を出していた。『一身上の都合により甘酒屋を開業したく』という辞表だ。誰も受理しない。代わりがいないからだ。
その夜、開発資料を小脇に抱えた五郎は、ひとり薬草足湯のフチに腰掛けていた。赤い湯気をぼんやり見つめながら、仕立てのいいズボンを膝まで捲り上げ、お湯に足を浸している。昼間の高圧的な勢いはどこへやら、その背中は小さく丸まっていた。
「石川さん」
善治が隣に腰を下ろすと、五郎はビクッと肩を揺らし、苦笑いを浮かべた。
「いいお湯ですね、ここ」
「そうでしょう。血の池だった頃より評判がいい」
「私、昔からこういう温かい湯に入ると余計なことばかり思い出すんです。母親のことです。若い頃から金儲けばかりでね。どこに投資すれば勝てるか、それしか考えていなかった。母親が病気で倒れたときも、大事な買収案件があるからって病院に行かなかったんです」
善治は静かに耳を傾けた。
「最後に電話が来ました。『五郎、たまには帰っておいで。柿が美味しくなったよ』って。でも私は『今忙しいんだ!』って怒鳴って切ってしまった。その三日後に亡くなったのは。私は結局、母に謝ることも感謝を伝えることもできなかった。だから自分を誤魔化すために、もっと大きなビジネスをして、もっと金を稼ごうとしたのかもしれません」
足湯の温もりが、頑なだった男の心をゆっくりと解かしていく。
五郎は深いため息をつき、膝の上の開発計画書をくしゃりと丸めた。
「やめます。こんな買い叩くような真似、母が見たら悲しむから」
後ろでじっと聞いていた鬼頭がゆっくりと歩み寄ってきた。
「五郎さん」
「鬼頭課長……申し訳ない。失礼な提案ばかりして」
「いいえ。よろしければ、あの反省の間で、お母様への思いをゆっくり聴かせていただけませんか?」
五郎は目を丸くし、やがてハンカチで目元を拭った。
「ありがとうございます。それと……もし経営費で困っているなら、まっとうな出資なら喜んで協力しますから。私は金儲けは下手じゃないんです」
鬼頭の目が輝いた。「本当ですか!?」
こうして地獄の反省温泉は、元・買収者の出資で「日本秘湯の会」に加盟することになる。血の池は正式に薬草足湯として登録され、針の山は反省鍼灸処として、煮えたぎる釜は地熱温泉として生まれ変わった。鬼たちは失業せずに済んだ。
そして五郎は懐から金色の桐の箱を取り出した。弁当箱くらいの大きさで、表面には細かい傷がたくさんある。誰かが何度も開けようとして失敗した跡のように見えた。
「これは善光寺の床下に昔からあると言われてる箱です。開けると、その人が一番許されたいものの答えが入ってるって」
その言葉を聞いた途端、ごくらくが耳をピンと立てた。
閻魔大王が甘酒をかき混ぜながら言った。
「あの箱ならわしが預かっておる。ただし開けるのはご同輩だけじゃ。時が来たらな」
箱は「危険物」として鍵のかかる引き出しに仕舞われた。引き出しには付箋が貼られた。『開封はご同輩の時が来てから。焦らず』
――繋ぎ――
宴のあと、反省温泉の暖簾を下ろした。鬼たちはビールを飲み、赤沢はレジ袋の男のモノマネで優勝していた。園児帽の鬼たちは輪になって、今日来た客の話をしていた。「あの傘の男、また来たよ」「年賀状の女は今日も手紙貼ってったよ」
私はその騒ぎの真ん中で、ふと庭の隅を思い出した。
四十年前、青い柿を一つ、土に埋めた場所を。
みんなが笑っているのに、自分だけがまだ土の中に何かを残してきた気がした。バアちゃんの梅干しの匂いが、どこからかした。
そうだ、あの柿を、掘り返しに行こう。いや、掘り返すのではない。謝りに行こう。
翌朝、私はスコップを借りて、バアちゃんの家の庭へ向かった。鬼頭が言った。「ご同輩、行っておいで。ここは私たちに任せて」


第五章 柿泥棒の夏・完全版
バアちゃんの家は空き家で、庭は草ぼうぼうだった。でも柿の木だけは以前と変わらずそこにあった。枝は昔より太く、空に向かって伸びている。
小学校三年生の夏、私は祖母の家に預けられた。両親が共働きで夏休みの間だけという約束だった。裏には大きな柿の木があった。隣の家のものだったが、枝がこちらの庭にまで伸びていて、秋になると鈴なりに実がなった。
ある日、祖母が昼寝をしている間に、私はその柿を一つもいでしまった。まだ青くて固い柿だった。塀をよじ登って手を伸ばして。取った瞬間、隣のおじさんに見つかった。おじさんは怒らなかった。「まだ渋いぞ」とだけ言って笑った。私は恥ずかしくて、その柿を庭の隅に埋めた。誰にも言えなかった。
埋めた柿はたぶんそのまま土に還ったのだと思う。でも私の中ではずっと青いまま残っていた。四十年も。
久しぶりに来たバアちゃんの家。縁側は板が少し腐っていたが、座ることはできた。遠くの山はあのときと同じだった。夏の蝉の声だけがうるさい。
勇気を出して隣家のインターホンを押した。手が震えた。
「あの、四十年前、柿を盗んだ者です」
インターホンから若い男の声。「え?柿?」
事情を話すと、男は笑って出てきた。私と同い年くらいの、少し日焼けした男だった。
「ああ、父から聞いたことあるよ。青い柿を盗んだ子がいたって。父、嬉しかったんだってさ。誰かがうちの柿に興味持ってくれたのが」
私は絶句した。怒られると思っていたのに。
「父はね、こう言ってたよ。『柿泥棒が来るってことは、その木が元気な証拠だ』って。だから君が盗んでくれて、木も喜んでたと思うよ」
男は柿の木を見上げた。「今年もたくさんなってるよ。よかったら持って行く?」
私は一つだけもらった。青くはない、ちゃんと熟した橙色の柿だった。
その柿を持って、バアちゃんの縁側に座った。縁側は少しだけ温かかった。遠くの山はあのときと同じだった。
柿をかじった。甘かった。あの夏の青い渋さとは全然違う、ちゃんとした甘さだった。
そのとき風が吹いて、柿の葉が一枚、私の膝に落ちた。誰かが許してくれたような気がした。いや、最初から怒られてなどいなかったのかもしれない。
私は柿の種を庭に埋めた。バアちゃんの梅干しの種の横に。今度は隠すためではなく、来年のために。


第六章 金色の箱の中身
善光寺に戻ると、反省温泉は大繁盛で、行列が本堂の外まで伸びていた。皆、自分の胸の棘を抱えてやって来るのだ。鬼頭は嬉しそうに言った。「ご同輩、見てごらん。みんな許されたいんだよ。許したいんだよ、自分のことを」
閻魔大王の部屋に呼ばれた。座卓の上に、あの金色の箱が置かれていた。弁当箱くらいの大きさ。表面には細かい傷がたくさんある。
「開けてごらん。ご同輩なら開くじゃろう」
私は手を伸ばした。箱は思ったより軽かった。蓋に手をかけるとスッと開いた。中には油紙に包まれたものが一つ入っていた。
油紙を開くと、中には梅干しが一つ入っていた。しわしわの少し白い粉が吹いた、昔ながらの梅干しだった。バアちゃんの梅干しだ。縁側で干されていたあの梅干しだ。
「君のバアちゃんの梅干しじゃよ」
私はその梅干しを見て、思い出した。祖母は毎年梅干しを作っていた。そして私が東京に帰るとき、いつも小さな瓶に入れて持たせてくれた。
「バアちゃんはね、こう言っておったよ。『失敗しても、酸っぱくても、それが味なんだよ。梅干しも、人間もね』って」
私はその梅干しを口に入れた。酸っぱかった。ものすごく酸っぱかった。でもその酸っぱさの奥に少しだけ甘さがあった。縁側の日向の匂いがした。昭和の台所の匂いがした。
涙が出た。柿のときには出なかった涙が、今度は止まらなかった。
隣で石川五郎も箱を開けていた。五郎の箱にも同じものが入っていた。小学校の運動会の日に母がランドセルに入れてくれた最後の手紙と、カピカピの梅干しが。五郎はそれを見て泣いた。
「燃やさなくて良かった。母の日の手紙、燃やそうと思ってたんです。恥ずかしくて」
バアちゃんが襖の向こうで笑った。
「あんた、その梅干しまだ持ってたのかい。お母さんが善光寺で『息子が悪いことをしませんように』って願掛けしたんだよ。あんたが盗んだ柿の木の下でね」
箱の底には小さな紙切れが入っていた。祖母の字でこう書いてあった。
『ご同輩、たまには顔を見せてね。梅干し、また漬けたよ』
私はその紙切れを大事にポケットに入れた。五郎も紙切れをポケットに入れた。そこには『五郎、柿が美味しくなったよ』と書いてあった。母の最後の電話と同じ言葉だった。
こうして箱は「燃やす前に確かめる箱」になった。誰かが怒りに任せて何かを燃やそうとすると鬼頭が言う。
「ちょっと待ってください。中身を確かめましたか。もしかしたら梅干しが入っているかもしれませんよ」


第七章 お血脈の真実
善光寺に戻ると、反省温泉は行列が本堂の外まで伸びていた。私は極楽の受付に行った。光の女性は以前と変わらずそこにいた。
「お血脈って、本当に極楽に行けるんですか」
そこへ年老いた職人が来た。善光寺の裏で千年印を彫っている職人だ。手のひらに小さな桜の木の判子。職人は八十過ぎで、背中が曲がっているが、目だけは子供のように澄んでいる。
「この判子には、なんの力もない。ただの桜の木じゃ。長野の山で採れた桜を削って彫っただけじゃ。インクは胡桃の皮から作った。昔からそうやって彫っておる」
「ではこの十年間は?」
職人はにっこり笑った。
「人は確かに変わったであろう。善治、お前、十年前にここへ来たときは怯えた顔をしておった。いつも怒っておった。今は少し優しい顔をしておる。財布の中に印があるからではない。印を信じて、自分を許そうと思ったからじゃ」
ゴクラクさんの画面が頷いた。
『印そのものが確約なのではなく、印によって生まれる「許された」という感覚が確約なのです。データ上はそうなっております。本日の許容枠、残り無限件です』
電光掲示板は「本日の許容枠 残り無限件」になっていた。いつの間にか文字が変わっていた。
「今日は無限なんですか」
「ええ。みんなが許し合えば枠なんてなくなるんです。最初からなかったんですけどね」
バアちゃんが後ろから言った。
「安心のためのお守りだよ。持っていれば心が軽くなる。心が軽くなれば人は優しくなる。優しくなれば結局極楽に来られる。そういう仕組みなのさ。難しいことはないよ」
私はカウンターの上に梅干しの包み紙を置いた。祖母の字で書かれた紙切れと一緒に。
「これ、ここに貼ってもいいですか。反省の間に」
「もちろん。ご同輩の大事な御守りとして」


第八章 ご同輩、微笑んでいてね
それから十年。私は七十八歳になった。
最初の猫のごくらくは二年前に静かに息を引き取った。縁側で日向ぼっこをしながら、すーっと息をしなくなった。寂しさに沈む私の家へ、近所の縁でやってきたのが二代目の猫だった。
名前はぱらいそ。「ごくらくの次だからパラダイス、いやぱらいそだな」と呟くと、猫は返事もせずひだまりの中で大きなあくびをした。
反省温泉はすっかり有名になっていた。人間界からもときどき相談者がやってくる。鬼頭は相変わらず課長だった。
「もう課長、長いですね」
「昇進すると現場に出られなくなりますから」
鬼頭は笑った。
そんな穏やかな日々が過ぎ、やがてぱらいそも眠るように去っていった。私は庭の隅に二つ並んだ小さな墓を撫でながら、ぽつりと独りごちた。「また先にいっちゃったな」
そして八十代半ばを過ぎた頃、三匹目の猫がやって来た。白と灰色の毛をした、どこか呆けたような顔の小さな猫だった。
「ごくらく、ぱらいそと来て、もう言葉が出んな。お前はただ黙々ともくもくと生きてくれりゃいい」
そう言って名付けたもくもくは、私の膝の上がお気に入りだった。
「もくもく。人間ってのはな、歳をとると謝りたいことより『ありがとう』と言いたいことの方が増えるんだよ」
猫の背中を撫でながら、善治は遠い目をした。
朝起きる。血圧を測る。薬を飲む。猫に餌をやる。そしてときどき昔のことを思い出す。バアちゃんのおにぎり。一個の柿。昔の友人。一人の鬼が抱えていた後悔。
人生には忘れられないことがいくつもある。けれど全部を後悔する必要はない。全部を抱え込んでおく必要もない。ただありがとうと言えるものにはありがとうと言っておく。ごめんなさいと言えるものにはごめんなさいと言っておく。それだけで人間の心には小さな極楽が灯る。
善治はそう思うようになっていた。
そして二十年という約束の期限がゆっくりと近づいてきた。


終章 あちらからのお迎え
それからさらに歳月が過ぎた。善治は九十四歳になっていた。
秋晴れの朝。善治は縁側に座っていた。膝の上にはすっかり老猫になったもくもく。庭にはやわらかな風が吹き抜けている。善治は空を見上げた。
「長かったなあ」
もくもくがニャーと弱々しく鳴いた。
「そうだな。十分生きたよな」
そのとき玄関のほうから懐かしい声がした。
「善治さん」
善治はゆっくり振り返った。そこに鬼頭が立っていた。昔と同じ黒い背広。昔と同じ赤いネクタイ。そして昔と同じ二本の角。ただし角には少しだけ白いものが混じっていた。
「鬼頭さん?」
「ご無沙汰しております」
「久しぶりですね」
「はい」
鬼頭は深々と頭を下げた。
「お迎えに参りました」
善治はしばらく黙っていた。そして穏やかに笑った。
「とうとう来ましたか」
「はい」
「二十年って言ってましたよね」
「そうです。反省温泉の生前予約札にそう書きましたから」
善治はポケットから古びた財布を取り出した。中には小さな紙切れが入っている。二十六年前に反省温泉でもらったものだった。
善治はそれを鬼頭に見せた。
「まだ持ってたんですか」
「ずっと宝物でしたよ」
鬼頭は札を見つめ、静かに微笑んだ。
「では」
「はい」
「約束の期限です」
善治は庭を見た。もくもくが膝の上で目を細めている。
「もくもく」
「ニャー」
「お前はもう少しここで日向ぼっこしてな」
猫の頭を優しく撫で、善治はゆっくりと立ち上がった。少しだけ膝がふらつく。鬼頭がそっと手を差し出した。善治はその温かい手をしっかりと握った。
玄関へ向かって歩き出す。そのとき光の差す土間の向こうからあの懐かしい声が響いた。
「善治」
善治が顔を上げる。
そこにバアちゃんが立っていた。その隣には柿を手にした権蔵さんもいる。権蔵さんの籠には真っ赤な柿が山盛りだ。
善治は目を細めた。
「バアちゃん」
祖母は嬉しそうに笑った。
「遅かったねえ」
「うん」
「ずいぶん待たされたよ」
「ごめんごめん」
「何を言ってるんだい」
祖母は温かい目で善治を見た。
「ちゃんと最後まで生きてきたじゃないか」
善治の目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。権蔵も白い歯を見せて笑っている。
「善治、柿まだ食いたいか?」
善治は泣きながら笑った。
「食べたい。今度は堂々と食うよ」
「おう、好きなだけ食え」
鬼頭が静かに促した。
「善治さん」
「はい」
「行きましょうか」
善治は最後にもう一度だけ我が家の庭を振り返った。
九十四年間。いろいろなことがあった。笑った。怒った。泣いた。後悔した。謝った。ありがとうと言った。そして心から愛した人たちと、もう一度巡り合えた。
善治は光の中へ一歩を踏み出した。鬼頭と並んで歩く。その先でバアちゃんが手を差し伸べている。
善治は笑った。
「ただいま」
バアちゃんが答えた。
「おかえり、善治」
善治はもう一度力強く言った。
「ただいま、バアちゃん」
空はどこまでも青く澄み渡っていた。
そしてその日の午後、善治の家には静かで穏やかな時間だけが残された。縁側ではもくもくが丸くなって気持ちよさそうに眠っている。その隣には使い込まれた古い財布が置かれていた。中には一枚の古びた札。
そこには柔らかな筆文字でこう書かれていた。
『極楽は、待っている場所ではありません。誰かを思いながら、今日を生きていく場所です。』
風が吹き抜け、札の端がほんの少しだけ揺れた。もくもくが片目を開け、長なあくびをした。そして何事もなかったかのように、また幸せそうに目を閉じたのだった。


番外編 猫たちの極楽会議
出席:ごくらく、ぱらいそ、もくもく、オブザーバーとして鬼頭課長
議題:にんげんの「許されたい」について
ごくらく:にんげんはむずかしい。かきをぬすんだくらいでよんじゅうねんもなやむ。ぼくならごじゅっぷんでわすれる。
ぱらいそ:でもだからにんげんはかわいいんだよ。ちいさいことをたいせつにするから。ぼくたちのごはんもわすれないし。
もくもく:ゆるすってなんだろうね。ぼくはにんげんがかえってくると、いつもゆるしてる。というかおこってない。だってかえってきてくれるだけでうれしいから。
ごくらく:そうだね。にんげんもそうしたらいいのに。じぶんがかえってきたことをよろこんだらいいのに。きょうもいきてかえってきたえらいって。
鬼頭課長:いいこと言うね、君たち。じゃあ決議しようか。『にんげんは、もっと自分を褒めていい。特に柿泥棒の件は、もう十分反省したので、これにて許す』ってことでどう?
全員一致で可決。にゃあ、と鳴く。


追記:会議後、梅干しが一個机の上に置いてあった。誰が置いたのかは不明。ごくらくが匂いを嗅いで「バアちゃんの匂いがする」と言った。美味しくいただきました。

了


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あとがき
前作を書き終えたとき、私は少しだけ怖くなりました。
地獄の鬼を優しくしすぎたのではないか、と。
でも読んでくださった方から、こんな感想をいただいたのです。
「私にも、レジ袋の話があります」
「私も、青い柿を埋めたままです」
ああ、みんな同じなんだ、と思いました。
だから続編では、思い切って人間界に帰ってみることにしました。
この物語に出てくる善光寺の屋根の雪下ろしも、反省の間の壁一面の手紙も、骨が一本折れたビニール傘も、モデルは私の身近にあった小さな出来事です。
人は、失敗しても、酸っぱくても、それが味なんだよ。
バアちゃんの言葉は、私が作ったものではありません。祖母が本当に言っていたことです。
もしあなたの胸にも、まだ土の中に埋まったままの青い柿があるのなら。
焦らず、で大丈夫です。時が来たら、そっと掘り返しに行けばいい。
きっと隣のおじさんは「柿泥棒が来るってことは、その木が元気な証拠だ」と笑ってくれるはずです。
善光寺の仲見世で、七味を買うついでにでも、思い出していただければ幸いです。
最後に、この本を最後まで見守ってくれた三匹の猫たちに、ありがとうを。