あれこれと試行錯誤しながら
パソコンと格闘しながら 笑
Kindleの物語を作る過程を
四段階に表してみました
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第一軌道 月と星と女と
観測バー「みちかけ」【一稿】
まえがき
人は誰しも、自分の人生の主役として生きています。しかし時に、誰かの眩しい人生の傍らで、静かに光を反射するだけの「傍観者」のような心地になることはないでしょうか。
本作の主人公・吾朗もまた、そんな男のひとりです。
地球から遠く離れた月面都市で、夜ごとに別の「誰か」の人生を宿して現れる女。彼女たちの短い旅路を見届ける吾朗の姿を通して、「誰かの人生を見つめること」「記憶と存在」「人と人との付かず離れずの距離感」を描きたいと考えました。
月は十四日ごとに満ち欠けし、その姿を変えます。
ですが、変わり続けているのは月の方なのか、それとも見上げている私たちの方なのか。
グラスを傾けるような軽妙な語りの裏に秘められた、少し切なくて温かい「星と月の物語」を、どうぞ最後までお楽しみください。
序
男はいつも、女という月のそばで、薄っすら輝く星の如く、付かず離れずな人生を送ってきた。
——と、俺はよく酒の席で語る。ご同輩、笑ってくれて構わない。これは酔っ払いの戯言じゃない。月で実際にあった話だ。
第一夜 観測バー「みちかけ」
月面都市「凪(なぎ)」の外縁、第三居住区のドームの縁に、観測バー「みちかけ」はある。地球が見える方角にだけ張り出した窓。客はいつもまばらだ。俺、狭間吾朗、五十二歳。ステーション間の軌道整備士で、仕事が終わればここで薄いウイスキーを舐めるのが日課だった。
彼女と初めて会ったのは、月の夜が始まる日だった。月の夜は長い。地球時間で十四日間も続く。だから月では「夜が始まる日」という言い方をする。
「隣、いいかしら」
白い髪を一つに束ねた、年恰好のわからない女だった。七十にも、四十にも見えた。
「あんた、星を見る目をしてるね」
それが彼女の最初の言葉だった。彼女はその夜、俺に星の話を聞かせてくれた。プレアデスの和名、冬のダイヤモンドの見つけ方、かつて地球の大学で天文学を教えていたこと。ただし、名前を聞いても彼女は首を横に振った。
「夜が明ければ、私は私じゃなくなる。名前は要らないよ」
次に会ったのはひと月後、次の夜が始まる日だった。
同じ顔の女が、同じ席に座っていた。だが目つきが違った。二十歳そこそこの、跳ねるような目つきだった。
「あ、おじさん、あたしのこと知ってる顔してる。でもあたし、あんた知らない」
その夜の彼女は画家だった。クレヨンを持ち込んで、ナプキンに月の絵を描いた。クレーターの影の色が、昼と夜で違うのだと教えてくれた。前の夜のことは、何一つ覚えていなかった。
月が嫌いだ、と俺はかつて言っていた。夜ごと形を変えるから、と。
だが目の前には、夜ごと姿を変える女がいた。文字通りに。
第二夜 ルナ・アーカイブ
謎の種明かしは、醜いほどあっさりしていた。
通信中継棟の整備記録を調べていた俺は、凪市の港湾局から届く「特殊貨物」の受領リストに目を留めた。貨物名——「意識パケット」。送り主は地球の各国のホスピス。荷受けは凪市医療研究棟、コードネーム「ルナ・アーカイブ」。
末期患者の意識をスキャンし、月の夜の十四日間だけ、訓練された宿主(ホスト)の身体に転送する。死を目前にした人間に、最後の「旅」を提供する実験プログラム。地球の重力ではもう動けない身体の代わりに、月の六分の一の重力の中で、もう一度だけ歩かせてやる。それがルナ・アーカイブだった。
宿主は一人。意志を一時的に休眠させる契約を結んだ、一人の女。
夜ごと姿を変える女——あれは、夜ごと違う人間が、同じ身体に宿っていたのだ。
俺はあのバーで、毎夜、違う誰かと酒を飲んでいたことになる。老いた天文学者と、若い画家と、そしてこれから来る無数の「誰か」と。
ならば俺が恋をしていたのは、いったい誰だったのか。
第三夜から第七夜まで
俺は記録をつけ始めた。バーテンダーに借りた紙のノートに、夜ごとの彼女を書き留めた。
第三夜。無口な男が宿っていた。元宇宙飛行士で、古い管制信号の符丁を覚えていた。驚いたことに、若き日の俺と同じ訓練校の出身だった。男はグラスを置く手つきで、懐かしそうにこう言った。
「お前、狭間のガキじゃないか。よく生きてたな」
三十年ぶりの先輩の声が、見知らぬ女の唇から出た。俺は泣かなかった。泣く代わりに、二杯おごった。
第四夜。母親になり損ねた女。俺の手を握って、産まなかった子供の名前を一時間かけて話した。
第五夜。十七歳の少女。地球の海を一度だけ見たいと言って、窓の外の青い星を夜通し眺めていた。「あんたは幸せだね」と少女は言った。「月にいられるんだから」。幸せ、か。俺は薄っすら輝く星のように、誰かのそばを回ってるだけだ、と答えたかったが、黙っていた。
第六夜。誰も来なかった。アップロードの失敗。空白の夜に、俺は初めて気づいた。俺は「彼女たち」を愛しているんじゃない。夜ごとに零れ落ちる人生を、誰かが見届けなければならない——その「見届ける役目」に、俺は自分の寂しさを預けていたのだ。
月の満ち欠けが、誰のものでもない光であるように。あのバーの彼女は、誰のものでもない人生の通り道だった。そして俺は、そのそばを回るだけの星。付かず、離れず。
第八夜 朔(さく)
第八夜に宿ったのは、俺の知っている女だった。
「……吾朗?」
その声で、三十年が崩れた。
梓(あずさ)。かつての婚約者。俺が月行きを選んだ年に、地球に残った女。別れ際、彼女は言った。「月が嫌い。夜ごと形を変えるものを、待ってられない」。
「あんた、老けたね」梓は俺の顔を見て、昔のままの口角で笑った。「私は死ぬ前に一度、あんたの月を見ておきたかった。あんたが選んだものを、嫌いなまま死にたくなかった」
俺たちは十四日間、月の夜を過ごした。三十年分の話をした。彼女は結婚し、子を持ち、孫の写真を頭の中に持ってきていた。俺は独りのままだった。それでよかった。そう言い合えるだけの年月が、俺たちを隔てて、そして俺たちを許していた。
夜が明ける最後の地球時、梓は言った。
「吾朗。あんたは私の月じゃなかった。あんたは、いつも誰かのそばにいる星だ。それは悪いことじゃないよ。星があるから、月は自分が見えてるって分かるんだから」
夜が明けた。梓の意識パケットは、契約により完全消去された。一回限りの旅。それがルールだった。
星は、月に届かない。届いたとしても、月は夜ごとに別の月になる。ご同輩——それでも俺は、あの十四日間を、人生の中でいちばん「届いた」と思っている。
終夜 そして語りは星になる
ルナ・アーカイブは、九年目の冬、地球側の倫理審査で凍結された。「死者の意識の使い回しは尊厳に反する」——正しい議論だったと思う。正しさはいつだって、恋の邪魔をする。
最終夜。アップロード予定は「なし」。だが彼女は、バーに現れた。
宿主の、素の女。九年間、自分の身体を貸し続けていた女。名前を、梶浦ヨリノと言った。彼女は俺の差し出したノート——九十八夜分の記録——を、一晩かけて読んだ。
「私、何度も愛されてたのね」ヨリノは言った。「覚えてないのに、愛されてた」
「覚えてないのに、だよ」俺は言った。「そいつは俺の十八番だ」
ヨリノは翌週、地球に帰還した。重力圏の違う身体は、月に永住できない。俺はステーションに残った。軌道整備士は、星の仕事だ。回り続けるのが仕事だ。
結び ご同輩へ
——とまあ、そういうわけで。
夜ごと姿を変える女なんて、嫌いだと言ったこともあった。だがご同輩、よく聞きな。夜ごと姿を変える女に出会って、分かったことがある。
変わるのは月のほうじゃない。毎夜、同じ場所から月を見上げてる星のほうが、実は少しずつ、軌道を変えられてるんだ。気づいたときには、もう、元の夜空には戻れない。
いや、そんな女に出会ってみたいよな。
そして、そんな恋愛、また、してみたいよな——ご同輩。
今宵も月のそばで、薄っすら輝く星が一つ。付かず離れず、回っている。
(了)
あとがき
この物語は、「もしも死を間近に控えた人の意識が、最後の十四日間だけ月の重力の中で羽を伸ばせたら」という、ひとつの小さな空想から始まりました。
月面都市のバーで、夜ごとに違う人生を宿したひとりの女と酒を交わす。一見するとSF的な設定ですが、そこで交わされる言葉や感情は、私たちが日常で抱く「切なさ」や「懐かしさ」、そして「去りゆくものへの愛おしさ」そのものです。
第八夜で登場する旧友・梓との再会や、ラストで自分の身体を貸し続けていたヨリノとの静かな対話。誰かの記憶を背負うこと、そして忘れてしまっても確かにそこにあった愛を書く時間は、作者自身にとっても愛おしい作業でした。
「星があるから、月は自分が見えてるって分かる」
誰かの特別になれなくても、誰かの傍らで静かに照らし続ける「星」のような存在の尊さを、少しでも感じていただけたなら幸いです。
今夜、ふと夜空の月を見上げたときに、その傍らで小さく光る星のことを思い出していただけますように。
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第二軌道 月と星と女と
観測バー「みちかけ」完全版【二稿】
まえがき
ご同輩、少しだけ時間をいただけないだろうか。
グラスを傾けながら聞くような、たわいもない昔話だ。
人が年をとると故郷の話をしたがるように、俺にもひとつだけ、胸の奥から取り出しては光にかざしたくなる夜の記憶がある。
この物語は、地球を遠く離れた月面都市で起きた出来事であり、ある一人の女と、その身体を通り過ぎていった名もない人生たちの記録だ。そして何より、どこにも帰る場所のなかった俺という男が、どうにか自分の軌道を見つけるまでの話でもある。
夜空を見上げるとき、人は月ばかりを眺める。満ちては欠けるその姿に、美しさや儚さを見出すからだ。だが、そのすぐ傍らで、主張することもなく薄っすらと輝いている星の存在に気づく者は少ない。
月という天体と、その傍らで回り続けたひとつの星。
もしあなたにも、胸の奥に忘れられない「月」のような誰かがいるのなら、この夜の語りに付き合ってもらえると嬉しい。
夜は長い。酒の準備はいいだろうか。
序
男はいつも、女という月のそばで、薄っすら輝く星の如く、付かず離れずな人生を送ってきた。
——と、俺はよく酒の席で語る。ご同輩、笑ってくれて構わない。これは酔っ払いの戯言じゃない。月で実際にあった話だ。
お前たちの多くは地球で生まれて、地球で老いていく。それはそれで正しい人生だ。だが俺は、三十八歳のときに月に来て、それから一度も帰っていない。理由は簡単だ。帰る理由が、向こうにもこっちにもなかった。人間、帰る場所がないと、回る場所を探すもんだ。衛星と同じでな。
今夜もグラスを傾けながら、一つの話をしよう。夜ごと姿を変える女と、それを見届けた星の話だ。
第一夜 観測バー「みちかけ」
月面都市「凪(なぎ)」の外縁、第三居住区のドームの縁に、観測バー「みちかけ」はある。地球が見える方角にだけ張り出した窓。客はいつもまばらだ。
店主の爺さんは無口で、客が話しかけても頷くか頷かないかで返事を済ませる。だが酒の出し方だけは律儀で、グラスの縁まで正確に八分目。月の重力では液体の立ち方が地球と違う。表面張力が勝って、酒が縁に吸い付くように盛り上がる。それを計算に入れた八分目だ。爺さんは何も言わないが、ちゃんと月の酒場をやっている。
俺、狭間吾朗。軌道整備士。五十二歳。仕事は、凪と周回ステーションを結ぶ連絡艇の軌道を、毎朝コンマ何秒単位で修正することだ。言ってしまえば宇宙の交通整理だが、月の引力は地球の引力圏に揉まれて毎日微妙に癖を変える。放っておけば船は当たる。当たれば人が死ぬ。だから俺の仕事は地味だが、殺しを防ぐ仕事だった。
彼女と初めて会ったのは、月の夜が始まる日だった。
月の夜は長い。地球時間で十四日間も続く。だから月では「夜が始まる日」という言い方をする。夜が始まる日には、凪では小さな祝いがある。照明が落とされ、ドーム越しの星がいちだんと濃くなる。
「隣、いいかしら」
白い髪を一つに束ねた、年恰好のわからない女だった。七十にも、四十にも見えた。背筋が伸びていて、座る前に一度、窓の外の地球に目をやった。故郷を確かめるような、しかし懐かしむのとは少し違う、点検するような目つきだった。
「あんた、星を見る目をしてるね」
それが彼女の最初の言葉だった。
その夜、彼女は俺に星の話を聞かせてくれた。プレアデスの和名は「すばる」で、古くは「みぼしぶみ」とも書いたこと。冬のダイヤモンドは、プロキオンを頂点に据えると犬の首輪に見えること。かつて地球の大学で天文学を教えていたこと。学生には「先生の授業は、星座が親戚のおばさんの話みたいだった」と言われたこと。
「星はね、遠いから優しく見えるの。近くにあったら、どれもこれも燃えて荒れて、ひどいもんだよ」
「それでも見上げるんですか」
「見上げるさ。遠いものは遠いまま愛せる。近いものを愛すのは、もっと難しい仕事だ」
名前を聞いても、彼女は首を横に振った。
「夜が明ければ、私は私じゃなくなる。名前は要らないよ」
酔った客の戯言だと思った。月の酒場では、誰もが少しだけ詩人になる。
次に会ったのはひと月後、次の夜が始まる日だった。
同じ顔の女が、同じ席に座っていた。だが目つきが違った。二十歳そこそこの、跳ねるような目つきだった。
「あ、おじさん、あたしのこと知ってる顔してる。でもあたし、あんた知らない」
その夜の彼女は画家だった。筆記具の持ち込みが厳しいドーム内で、どこから調達したのか、赤青黄のクレヨンを三本持っていて、ナプキンに月の絵を描いた。クレーターの影の色が昼と夜で違うのだと教えてくれた。
「昼の影は黒いの。夜の影はね、青いんだよ。地球の光が染み込んでるから。アースライトって言うんだって。あたし、それが見たくて来たの」
「来た? どこから」
「あはは。秘密。言ったら怒られる契約なの」
前の夜のことを尋ねても、彼女は本気できょとんとした。演技ではない。目が澄んでいた。
月が嫌いだ、と俺はかつて言っていた。夜ごと形を変えるから、と。
だが目の前には、夜ごと姿を変える女がいた。文字通りに。
幕間一 軌道整備士の覚え書き
ここで少し、俺の仕事と月の話をしておこう。ご同輩、退屈だろうが我慢してくれ。この背景がないと、後の話の重さが伝わらない。
凪は有人月面都市としては三代目にあたる。初代は実験基地、二代目は採掘基地、そして三代目の凪は——変わり種だ。「人間が死ぬために来る街」と陰で呼ばれた。
地球の医療が行き着いた先に、こういう思想が生まれた。延命はもう限界だ。ならば、死の質を高めよう。人生最後の数週間を、苦痛の管理ではなく、体験として設計しよう。そのために月が選ばれた。重力が六分の一しかない。地球上ではもう立てない身体も、月では歩ける。跳べる。二度と泳げない海の代わりに、二度と見られないと思っていた星空の、誰よりも近くに行ける。
俺たち整備士は、そういう「最後の旅人」を運ぶ船の軌道を守っている。旅客リストを見れば年齢と疾患のコードが並んでいて、俺は数字を直しながら、知らない誰かの死に際をいつも素通りしていた。
素通りのはずだった。あのバーの女に出会うまでは。
第二夜 ルナ・アーカイブ
謎の種明かしは、醜いほどあっさりしていた。
通信中継棟の整備記録を調べていた俺は、港湾局から届く「特殊貨物」の受領リストに目を留めた。貨物名——「意識パケット」。送り主は地球の各国のホスピス。荷受けは凪市医療研究棟、コードネーム「ルナ・アーカイブ」。
仕事の延長で追うのは、整備士の悪い癖だ。軌道の数字に嘘はないが、人の作るリストにはいつも空白がある。俺はその空白を埋めるのが好きだった。
ルナ・アーカイブの仕組みはこうだ。
末期患者の意識をスキャンし、月の夜の十四日間だけ、訓練された宿主(ホスト)の身体に転送する。死を目前にした人間に、最後の「旅」を提供する。地球の重力ではもう動けない身体の代わりに、月の六分の一の重力の中で、もう一度だけ歩かせてやる。意識は往路だけ転送され、復路はない。夜が明けると同時に、パケットは契約により完全消去される。一回限りの、片道の旅。
宿主は一人。意志を一時的に休眠させる契約を結んだ、一人の女。
夜ごと姿を変える女——あれは、夜ごと違う人間が、同じ身体に宿っていたのだ。
リストを遡ると、宿主の登録名が一つだけ実名で残っていた。梶浦ヨリノ。契約期間、九年。職業欄には「月の女将候補」とあった。なんだそりゃ。
俺はあのバーで、毎夜、違う誰かと酒を飲んでいたことになる。老いた天文学者と、若い画家と、そしてこれから来る無数の「誰か」と。
ならば俺が話し相手に選んでいたのは、いったい誰だったのか。誰に話しかけていたのか。俺が夜ごと待っていたのは、女か、それとも女の中を通り過ぎていく、名もない人生の群れだったのか。
答えは出なかった。出ないまま、次の夜が始まった。
第三夜 管制信号の男
俺は記録をつけ始めた。バーテンダーの爺さんに借りた紙のノートに、夜ごとの彼女を書き留めた。爺さんは何も言わず、ノートの代金だけを正確に請求した。
第三夜に宿ったのは、無口な男だった。グラスを置く手つきが硬くて、指の第二関節が太い。機械を触ってきた人間の指だ。
「そこの窓、地球の裏側に回ると電波が届かなくなるだろ」
いきなり、そう言った。声は女の声なのに、節回しが旧式の管制官だった。
「旧月交の符丁、覚えてるか。『灯台下暗し、四号待機』」
俺は震えた。それは三十年前、俺が訓練校で教わった民間宇宙交の裏符丁だった。意味は「最も危険なのは足元、四号艇は発進を待て」。
「……先輩、ですか」
男——女の顔をした男——は、にやりと笑った。
「お前、狭間のガキじゃないか。よく生きてたな」
先輩の名は氷室と言った。訓練校時代、俺の教育係で、地球に帰ってから航路管制の責任者になった男だった。消息は知らなかった。知ろうともしなかった。
「癌だよ。見つかったときには手遅れだった。最後にもう一度だけ、管制席の気分を味わいたくてな。窓から軌道を睨む、あの気分を」
「ここは管制室じゃないですよ。バーです」
「分かってる。バーだから来たんだ。管制室に酒は持ち込めないからな」
三十年ぶりの先輩の声が、見知らぬ女の唇から出た。俺は泣かなかった。泣く代わりに、二杯おごった。
氷室は夜明け近く、窓の外の地球を指して言った。
「狭間。お前、あそこに置いてきたもんがあるだろ。取りに帰れとは言わん。だが、置きっぱなしのもんはな、こっちから見えてるぞ。月からは全部見えるんだ。逃げても見える」
その言葉の意味を、俺はずっと後になってから知ることになる。
第四夜 名づけられなかった子
第四夜の彼女は、小さな女だった。背丈はヨリノの身体のままなのに、座った途端に膝を抱えて、存在そのものが一回り縮んで見えた。
「私、話すのが仕事みたいなの。聞いてくれる?」
彼女は、産まなかった子供の話を一時間かけてした。
若い頃、病気で子宮を失った。結婚は二度した。二度とも、優しい人だった。「子供は要らない」と言ってくれた。だが彼女には分かっていた。要らないのではなく、諦めてくれたのだ。その諦めが、優しければ優しいほど、彼女の中で重くなった。
「私ね、子供の名前を、五十年間考え続けてたの。男の子なら航(わたる)。女の子なら凪(なぎ)。風のない海。静かな子。……この街に来て、吹いたわ。私の娘の名前と同じ名前の街が、月にあったのよ」
彼女は俺の手を握った。ヨリノの手なのに、握り方が母親だった。俺は母親の手を知らない。三歳で施設に入った。だからその握り方を、母親だと「知っていた」ことが、俺自身いちばん驚きだった。人間は、経験していない記憶も、どこかに持っているらしい。
「あんた、いい目をしてる。誰かの最後を、ちゃんと見られる目だ。……お願い。今夜の私を、覚えてて。覚えててくれる人が一人いれば、人は消えても消えないの」
「覚えます。ノートに書きます。名前は——」
「名無しでいいの。私はずっと、名づける側に回りたかった。名づけられる側は、今夜は要らない」
第五夜 海を見た少女
第五夜は十七歳の少女だった。
彼女はバーの窓にへばりついて、地球を夜通し眺めていた。
「あの青いの、海でしょ。あたし、海って生で見たことないの。病院の窓は中庭向きでさ。本の海と、画面の海は知ってる。でも本物は、知らないまま終わる」
「月にも海はあるぞ。名前だけだけどな」
「知ってる。静かの海、危機の海、雨の海。ロマンチックなのに全部、溶岩(ラーバ)の跡なんでしょ。詐欺だよね」
彼女は笑った。十七歳の笑い方で。病気の話は自分からは一切しなかった。ただ、夜明け近くにこう言った。
「あんたは幸せだね。月にいられるんだから」
幸せ、か。
俺は薄っすら輝く星のように、誰かのそばを回ってるだけだ、と答えたかった。だが黙っていた。十七歳の少女の「幸せ」という言葉を、おっさんの自嘲で汚すわけにはいかなかった。それが俺なりの礼儀だった。
「ねえおじさん。あたしが消えた後でさ、このバーにまた来るんでしょ。……そのとき、窓の外の地球を見て、あの青いのが海で、あたしがそれを一度だけ本気で見たって、思い出して。それであたしの人生、海ありに訂正されるから」
ノートのその頁には、俺は「海あり、訂正済み」とだけ書いた。
第六夜 空白の夜
第六夜。誰も来なかった。
アップロードの失敗。送り主のホスピスで、患者が転送の二時間前に息を引き取った。意識スキャンは生存中にしか成立しない。間に合わなかった。
空白の夜に、バーには俺と爺さんだけがいた。
「……今夜は、誰も来ないのか」
爺さんは初めて、言葉で答えた。
「来なかった夜も、夜だ」
それだけ言って、いつもの八分目を差し出した。
空白の夜に、俺は初めて気づいた。俺は「彼女たち」を愛しているんじゃない。夜ごとに零れ落ちる人生を、誰かが見届けなければならない——その「見届ける役目」に、俺は自分の寂しさを預けていたのだ。
月の満ち欠けが、誰のものでもない光であるように。あのバーの彼女は、誰のものでもない人生の通り道だった。そして俺は、そのそばを回るだけの星。付かず、離れず。
星は悲しい存在か? いや、違う。星は悲しんでいる暇があれば輝いている。それが軌道の仕事だ。俺はそう自分に言い聞かせて、グラスを空けた。
第七夜 迎えに来た男
第七夜に宿ったのは、背の高い——いや、背の高く見える男だった。
「お前のノートの話は聞いてるよ」
男は開口一番そう言った。俺はぎょっとした。
「ルナ・アーカイブの運営技師だ。……いや、『だった』、か。俺はこのプログラムのスキャン技術を作った人間だ。それで今、末期患者として、自分の作ったシステムで月に来ている。出来の悪い小説みたいだろ」
男は自嘲気味に笑って、それから真顔になった。
「一つ頼みがある。宿主の——ヨリノのことを、悪く思わないでくれ。彼女は九年間、自分の人生を棚に上げて、九十七人の他人の最後を身体で運んできた。報酬は雀の涙だ。彼女が続けているのは金のためじゃない。……彼女はね、最初に宿った人間が、自分の死んだ母親だったんだ。それ以来、やめられなくなった」
俺はノートを開いた。記録の最初の夜。白い髪の、天文学者の女。
——星は遠いから優しく見えるの。近いものを愛すのは、もっと難しい仕事だ。
あれは、ヨリノの母親が、ヨリノに向けて言っていた言葉だったのかもしれない。宿主の身体を借りて、娘の隣の客に。
「もう一つ」男は言った。「審査会が動いてる。ルナ・アーカイブはもう長くない。長くて一年。……狭間さん、あんたのノートは、この実験が『何だったのか』を証明する、唯一の民間記録だ。頼む、書き続けてくれ」
夜が明ける直前、男は窓の外に小さく手を振った。
「迎え、お疲れさん。俺は自分で帰る」
誰に言ったのか、俺には分からなかった。分からないままのほうがいいこともある。
第八夜・前編 朔(さく)
第八夜に宿ったのは、俺の知っている女だった。
「……吾朗?」
その声で、三十年が崩れた。
梓(あずさ)。かつての婚約者。俺が月行きを選んだ年に、地球に残った女。
——三十年前、横浜の埠頭だった。
「月になんか行かないで」梓は言った。「あんたはいつもそう。遠いものばっかり見て。隣にいる人間より、空っぽの軌道の数字のほうが大事なんでしょ」
「違う。軌道は空っぽじゃない。数字は人を運んでる」
「だったら私は? 私はあんたの何なの。衛星? そばを回ってるだけで、降りては来てもらえない」
「梓……」
「月が嫌い」彼女は言った。「夜ごと形を変えるものを、待ってられない。満ちては欠けて、約束が毎晩違う顔をする。そんなの、待つほうがバカだ」
別れの日、海は凪いでいた。皮肉なもんだ。そのとき俺たちは、三十年後に「凪」という名の街で、こんな形で会うとは知る由もなかった。
「あんた、老けたね」
梓は俺の顔を見て、昔のままの口角で笑った。ヨリノの顔なのに、梓だった。人間は顔じゃない。顔の奥の、光の通い方がその人なんだと、俺はそのとき悟った。
「私は死ぬ前に一度、あんたの月を見ておきたかった。あんたが選んだものを、嫌いなまま死にたくなかった」
第八夜・後編 満ちる
俺たちは十四日間、月の夜を過ごした。
三十年分の話をした。梓は結婚し、子を持ち、孫の写真を頭の中に持ってきていた。亭主は五年前に先立った。いい人だったよ、と梓は言った。ほんとうにいい人でね、と二度言った。二度目のほうが、少し私に謝ってるみたいだった、と彼女は笑った。
俺は独りのままだった。それを聞いて梓は、ほっとしたような、悲しんだような顔をした。
「吾朗、あんた、私のこと待ってたの?」
「違う。待ってたんじゃない。……回ってただけだ。軌道を外れた船は迷子になる。俺は三十年、自分の軌道を修正するタイミングを逃し続けただけだ。ただの慣性さ」
「あんたらしい言い訳だね」
凪の街を歩いた。六分の一の重力の中で、梓は少女みたいに跳んだ。静かの海の展望台で、彼女は長いこと黙っていた。
「……ごめん、吾朗。あの日、月が嫌いって言ったけど」
「いいよ、もう」
「違うの。月が嫌いだったんじゃない。月にあんたを取られるのが、嫌だったの。……月は何も悪くない。毎晩顔を変えるのは、地球から見る角度が毎晩違うから。月自身は、ずっと同じ球体のまま。……それに、三十年かけて気づいた」
夜が明ける最後の地球時、梓は言った。
「吾朗。あんたは私の月じゃなかった。あんたは、いつも誰かのそばにいる星だ。それは悪いことじゃないよ。星があるから、月は自分が見えてるって分かるんだから」
「梓。もう一度、会えるか」
彼女は首を横に振った。優しく、しかし絶対に。
「パケットは一回限り。それが私たちの契約。……でもね、聞いて。私、今夜が人生最後の夜だと思って来た。頭の中の孫の顔も、地球のベッドも、全部置いてきたつもりだった。でも違った。人生最後の夜は、来た夜じゃなくて、帰る夜だった。私はこれから地球のベッドに帰って、孫の顔を見て、それから眠るように死ぬ。……あんたのおかげで、私の人生最後の物語は『月に行った話』になった。悪くない結末だろ?」
夜が明けた。
梓の意識パケットは、契約により完全消去された。一回限りの旅。それがルールだった。
俺はバーの席に残って、窓の外の青い星を見ていた。あの星のどこかに、梓がいる。生きている梓がいる。会えないが、いる。それは三十年間も同じだったはずなのに、今夜だけは、その事実が眩しかった。
星は、月に届かない。届いたとしても、月は夜ごとに別の月になる。ご同輩——それでも俺は、あの十四日間を、人生の中でいちばん「届いた」と思っている。
幕間二 審査会記録(抜粋)
——以下は、地球圏医療倫理審査会の公開議事録からの抜粋である。俺の語りではない。事実として、ここに置いておく。
議題:ルナ・アーカイブ計画の継続審議
委員甲:「死者の意識の使い回しは尊厳に反する」という批判に対し、本計画は『使い回し』ではなく『本人の同意に基づく一回限りの体験提供』であると反論できるか。
計画側:「体験の記憶は消去後、いかなる主体にも残存しない。残るのは宿主の身体履歴のみです」
委員乙:「では、その体験は『あった』と言えるのか。誰の記憶にも残らない旅は、旅なのか」
計画側:「……傍観者の記録が一つだけ存在します。月の観測バーの常連客による、私的なノートです」
議長:「一民間人の手記に、一計画の存在証明を負わせるのか」
(沈黙)
ご同輩、重い責任を背負わされたもんだ。俺はただ、酒が飲みたかっただけなのにな。
終夜 ヨリノ
ルナ・アーカイブは、九年目の冬、地球側の倫理審査で凍結された。正しい議論だったと思う。正しさはいつだって、恋の邪魔をする。
最終夜。アップロード予定は「なし」。
だが彼女は、バーに現れた。
宿主の、素の女。九年間、自分の身体を貸し続けていた女。名前を、梶浦ヨリノと言った。素の彼女は、どの夜の誰よりも静かだった。九年分の他人の人生を通してきた身体は、歩き方がどこか「皆」の平均になっていた。
「狭間吾朗さん、ですね。審査会の議事録、読みました。……それ、私のことを書いてくれたんですか」
俺は差し出した。九十八夜分のノート。彼女は一晩かけて、それを読んだ。時々笑い、時々目を押さえ、梓の夜の頁で長く止まった。
「私、何度も愛されてたのね」ヨリノは言った。「覚えてないのに、愛されてた」
「覚えてないのに、だよ。そいつは俺の十八番だ」
「母の夜のことも、書いてありました。……ありがとう。母はね、星の人だったんです。遠いものを愛すのが上手で、近いものを愛すのが下手な人。……私はこの仕事で、母に会いに来たのかもしれません。九年かけて、やっと会えた」
ヨリノは翌週、地球に帰還した。重力圏の違う身体は、月に永住できない。埠頭で彼女は言った。
「狭間さん。ノートの続きは、地球で書いてください。今度は私が、あなたの話を聞く番です。……あなたは九十八夜、誰かの話を聞いてきた。あなた自身の夜は、まだ一度も来ていない」
俺はステーションに残った。軌道整備士は、星の仕事だ。回り続けるのが仕事だ。
ヨリノの言葉は、今も俺の中にある。俺自身の夜。それが来るのかどうかは分からない。だが星は、夜が来るのを待たない。夜が来ようと来まいと、光っているのが星の仕事だ。
結び ご同輩へ
——とまあ、そういうわけで。
夜ごと姿を変える女なんて、嫌いだと言ったこともあった。だがご同輩、よく聞きな。夜ごと姿を変える女に出会って、分かったことがある。
変わるのは月のほうじゃない。毎夜、同じ場所から月を見上げてる星のほうが、実は少しずつ、軌道を変えられてるんだ。気づいたときには、もう、元の夜空には戻れない。
月は何もしていない。ただそこにいて、満ちて、欠ける。それだけで、そばの星の一生を変えてしまう。女というのは、ずるい天体だ。
いや、そんな女に出会ってみたいよな。
そして、そんな恋愛、また、してみたいよな——ご同輩。
今宵も月のそばで、薄っすら輝く星が一つ。付かず離れず、回っている。
爺さん、もう一杯。今夜は八分目の、その上を頼むよ。
(了)
あとがき
この物語は、「人間が人生の最後に求めるものは何か」「去りゆく者の言葉を受けとめる存在とは何か」という問いから生まれました。
SFという物語の枠組みを使っていますが、描きたかったのはどこにでもある「人と人との距離感」です。遠くにいるからこそ優しくなれたり、近くにいるからこそすれ違ってしまったり。月と星という二つの天体は、そんな人間のもどかしくも愛おしい関係性を静かに象徴してくれている気がします。
語り手の狭間吾朗は、決してヒーローではありません。地球で傷つき、軌道を外れ、月という果てしない静寂の中に逃げ込んできた男です。けれど、誰かの物語をただ「見届け、ノートに書き留める」という小さな行為を通して、彼自身もまた救われていきました。
誰かの人生に深く介入することはできなくても、ただ傍らで光を放ち、記憶に刻むこと。それもまた一つの愛の形なのではないでしょうか。
もしこの物語が、あなたの忙しい日々の夜に、静かな酒場のような心地よい余韻を少しでも残せたなら、作者としてこれ以上の喜びはありません。
今夜、ふと夜空を見上げたとき、月の傍らでひそやかに輝く小さな星に目を留めていただければ幸いです。


