極楽確約システム
〜ご同輩、善光寺で会いましょう〜
不思議で滑稽な、あの世とこの世の人情ファンタジー


まえがき
人は、いつから「死」を意識するのでしょう。
若い頃には、そんなことを考えたこともなかったのに、歳を重ねると、ふとした瞬間に「あの世」という言葉が近くに感じられることがあります。
友人の訃報を聞いたとき。
病院の待合室で、自分の名前を呼ばれるのを待っているとき。
あるいは、昔の写真を整理しているとき。
「あの人は、今どうしているんだろう」
そんなことを考える。
もし、本当に「あの世」があるのなら。
そこには、役所があるのだろうか。
受付はあるのだろうか。
順番待ちはあるのだろうか。
自由はあるのだろうか。
そして、地獄にも経営というものがあるのだろうか。
そんな馬鹿げたことを考えていたら、この物語が生まれました。
舞台は、長野の善光寺。
そこには昔から、「お血脈の御印」というものがあります。
それをいただけば、極楽へ行ける。
そんなありがたい話が、本当にあるとしたら。
もし、それを信じる人が増えすぎたら。
困るところが、ひとつあります。
そう。
地獄です。
誰も地獄に来なくなったら、鬼たちはどうなるのでしょう。
針の山は?
血の池は?
煮えたぎる釜は?
何千人もの鬼たちは、いったい何をして暮らせばいいのでしょう。
もしかすると、地獄もまた、人間の世界と同じように、経営難に陥るかもしれません。
そこで登場するのが、地獄観光庁の鬼頭剛課長です。
彼は、ある日突然、この世にやって来ます。
目的はひとつ。
「極楽へ行ける」という約束を、取り消してもらうこと。
けれど、その話を持ちかけられた男には、ひとつの事情がありました。
善治、六十八歳。
猫と暮らす、ごく普通の男です。
彼は十年前、善光寺で「お血脈の御印」をいただいていました。
それ以来、何となく心が軽くなった。
少しだけ、人に優しくなった。
昔のことを思い出しては、「あのとき、もう少し違う言葉をかけてやればよかった」と思うようになった。
そんな男です。
果たして、極楽行きの約束は、本当に必要なのでしょうか。
地獄は、本当に悪い場所なのでしょうか。
そして、人は「許された」と思うことで、少しだけ優しくなれるのでしょうか。
これは、そんなことを考えながら書いた物語です。
ご同輩。
どうぞ、肩の力を抜いてお読みください。
あの世の話ですが、怖い話ではありません。
むしろ、鬼たちが少し困っていて、仏さまが少しのんびりしていて、年寄りが昔のことを思い出し、猫が勝手に歩き回る。
そんな話です。
もし読み終えたあと、
「自分にも、ひとつくらい、ちゃんと謝っておきたいことがあるな」
と思っていただけたら。
この物語を書いた者として、とても嬉しく思います。




序章 善光寺までの道
善治は、善光寺へ向かう坂道を、ゆっくり歩いていた。
六十八歳。
昔なら、まだまだ若いと言われたかもしれない。
しかし本人にしてみれば、立派な年寄りである。
朝起きる。
顔を洗う。
血圧を測る。
薬を飲む。
朝飯を食べる。
猫に餌をやる。
そして、しばらくぼんやりする。
最近の一日は、その繰り返しだった。
「まあ、そんなもんだろう」
善治は、ひとりで呟いた。
若い頃には、一日が長かった。
今は、一年が短い。
気がつけば六十八歳。
昨日まで五十代だったような気がするのに、いつの間にか、六十代も後半になっている。
坂道の先に、善光寺の山門が見えてきた。
善治は足を止めた。
「久しぶりだな」
十年前にも、ここへ来た。
あのときは、もっと元気だった。
いや。
元気だったというより、元気なつもりだった。
病院でちょっとした検査に引っかかり、自分が思っていたよりも、自分の身体が古くなっていることを知った。
その帰りに、善光寺へ寄った。
属性など気にせず、お血脈の御印をいただいた。
「これを持っていれば、極楽へ行けるらしいですよ」
そう言われた。
善治は笑った。
「そんな都合のいい話があるんですか」
「ありますよ」
坊さんは、真顔で答えた。
「昔から、そう言われています」
善治は、その言葉を信じた。
信じたというより、信じてみることにした。
それから十年。
お血脈の御印は、ずっと財布の中に入っていた。
何か特別なことが起きたわけではない。
病気が治ったわけでもない。
宝くじが当たったわけでもない。
猫が人間の言葉を話すようになったわけでもない。
ただ。
少しだけ、生き方が変わった。
怒ることが減った。
誰かに嫌なことを言われても、
「まあ、いいか」
と思えるようになった。
昔の自分なら、絶対に許せなかったことも、
「死んだあとまで、そんなことを覚えていたくないな」
と思うようになった。
それだけだった。
けれど、それだけのことが、善治には案外大きかった。
山門の下で、善治は空を見上げた。
青い空だった。
雲がひとつ、ゆっくり流れている。
「極楽か……」
善治は笑った。
そのときだった。
背後から声がした。
「ご同輩」
善治は振り返った。
誰もいない。
「……?」
もう一度、歩き出そうとした。
すると、また声がした。
「ご同輩。ちょっと、お時間よろしいですか」
今度はいはっきり聞こえた。
善治が振り返る。
そこに、男が立っていた。
黒い背広。
赤いネクタイ。
頭には、立派な角。
そして、胸元には赤い名刺。
善治は、しばらく男を見つめた。
男も、善治を見つめた。
やがて善治が言った。
「……鬼、ですか?」
男は、にっこり笑った。
「はい」
そして、深々と頭を下げた。
「地獄観光庁、総務部、人材確保課、課長。鬼頭剛と申します」
善治は思った。
――善光寺まで来て、鬼に名刺を渡されるとは。
人生というものは、最後まで何が起こるかわからない。
そして、この日。
善治の人生は、ほんの少しだけ、あの世の都合に巻き込まれることになった。


第一章 ご同輩、ご機嫌いかが
「地獄観光庁……?」
善治は、鬼頭の名刺をもう一度見た。
赤い紙だった。
普通の名刺より、ずいぶん厚い。
しかも、妙に生暖かい。
「これ、本物ですか?」
「もちろんです」
鬼頭は胸を張った。
「地獄観光庁、総務部、人材確保課。課長の鬼頭剛です」
「人材確保課?」
「はい」
「地獄にも、人事部みたいなものがあるんですか」
「ありますとも」
鬼頭は真顔で答えた。
「地獄も組織ですから」
善治は名刺から鬼頭の顔へ視線を移した。
鬼頭の額には、立派な角が二本生えている。
どう見ても鬼だった。
ただし、背広姿のせいで、どこか会社員にも見える。
「それで、私に何の用ですか?」
「単刀直入に申し上げます」
鬼頭は一歩近づいた。
「お血脈の御印を、返していただきたい」
「……嫌です」
即答だった。
鬼頭が目を丸くする。
「まだ話の内容を説明していませんが」
「だいたい分かりました」
善治は財布を取り出した。
その中には、十年前にもらったお血脈の御印が入っている。
「これを返したら、私、地獄へ行くんでしょう?」
「そういうことになります」
「じゃあ、嫌です」
「ですよねえ……」
鬼頭は肩を落とした。
「最近、皆さん、そうおっしゃるんです」
「当たり前でしょう」
「地獄もですね、昔とは事情が違うんですよ」
鬼頭はため息をついた。
「昔は、悪いことをした人が、わんさか来ました」
「でしょうね」
「ところが今は、皆さん善行に励まれる」
「いいことじゃないですか」
「いいことなんですが……」
鬼頭は声を落とした。
「地獄としては、大変なんです」
善治は首を傾げた。
「地獄が?」
「はい」
「経営が?」
「はい」
「……地獄にも経営があるんですか?」
「あります」
鬼頭は真剣だった。
「大変なんですよ、これが」
善治は、なんだか可笑しくなってきた。
「それで、私にどうしろと?」
「お血脈の御印を返していただきたい」
「嫌です」
「ですよねえ」
鬼頭は、また肩を落とした。
しばらく二人は黙っていた。
善光寺の境内を、観光客が歩いていく。
若い夫婦。
外国人の旅行者。
杖をついた老人。
小さな子ども。
みんな、それぞれの願いを胸に、この寺を訪れている。
善治は思った。
――極楽へ行きたい。
人間というのは、ずいぶん贅沢な生き物だ。
生きている間は長生きを願い。
死ぬときには苦しみたくないと願い。
死んだあとには、極楽へ行きたいと願う。
「鬼頭さん」
「はい」
「ひとつ聞いていいですか」
「どうぞ」
「地獄って、本当にそんなに人が減ってるんですか?」
鬼頭は、しばらく黙った。
探るような目つきで、静かに頷いた。
「……かなり」
「そんなに?」
「ええ」
「どれくらい?」
鬼頭は周囲を見回した。
「ここでは何ですから」
「はい?」
「少し、場所を変えましょう」
「どこへ?」
鬼頭は、善光寺本堂のほうを指差した。
「戒壇巡りを、ご存じですか?」
善治は頷いた。
「真っ暗なところを歩くやつでしょう」
「そうです」
鬼頭は笑った。
「少しだけ、暗いところでお話ししましょう」
善治は嫌な予感がした。
しかし。
なぜか断る気になれなかった。
「分かりました」
こうして善治は、鬼に連れられて、善光寺の戒壇巡りへ向かうことになった。


第二章 名刺は赤かった
本堂の中へ入る。
善治は、いつ来てもここだけは空気が違うと思う。
外のざわめきが遠くなり、静かな時間が流れている。
鬼頭は、受付で何かを話していた。
「え?」
善治は耳を疑った。
「鬼頭さん、ここ、普通に入れるんですか?」
「私、地獄観光庁の職員ですよ」
「だから?」
「善光寺とは、昔から業務提携がありまして」
「……本当ですか?」
「たぶん」
「たぶん?」
「細かいところは、気にしないでください」
善治は、ますます不安になった。
戒壇巡りの入口。
中は暗い。
善治は一度、足を止めた。
「本当にここですか?」
「はい」
「鬼頭さん、暗いところ平気なんですか?」
「鬼ですから」
「関係あるんですか?」
「たぶん」
また、たぶんだった。
二人は階段を下りた。
一歩。
また一歩。
やがて、周囲は完全な闇になった。
善治は、壁に手を伸ばした。
冷たい石の感触。
湿った空気。
足音だけが響く。
右手を壁に這わせながら、一歩ずつ進む。
そのときだった。
足元を抜ける風の温度が、ふっと変わった。
線香の香りが薄れ、代わりにどこか硫黄のような、かすかに温かい風が足元から吹き上げてきた。
足裏の感触も、善光寺の板張りから、ひんやりとした古い石畳へと変わっていく。
いつの間にか、境内の地下を歩いている感覚が失われていた。
「鬼頭さん」
「はい」
「何か、空気変わりませんでしたか?」
「おや、気づかれましたか。ここから先は当庁の管轄領域です」
「……どこに連れていく気ですか」
「鬼ですから」
「答えになってません」
鬼頭の声が、暗闇の中で少しだけ笑った。
しばらく歩く。
すると、前方に小さな光が見えた。
「出口ですか?」
「違います」
「じゃあ何です?」
「受付です」
「……何の?」
鬼頭は答えなかった。
光が近づいてくる。
やがて、白いカウンターが見えてきた。
その向こうに、一人の女性が座っていた。
いや。
女性のように見えた。
白い服。
穏やかな笑顔。
そして、胸元に名札。
そこには、
『極楽受付』
と書いてある。
善治は立ち止まった。
「……極楽?」
受付の女性が笑った。
「はい。極楽です」
鬼頭が咳払いをした。
「こちらが、極楽の受付になります」
「いやいやいや」
善治は首を振った。
「話がおかしいでしょう」
「何がです?」
「地獄の話をしに来たのに、どうして極楽の受付が出てくるんですか」
受付の女性が答えた。
「最近は、地獄と極楽の業務も、かなり一体化しているんですよ」
「一体化?」
「はい」
「どういう意味です?」
「人が少ないものですから」
鬼頭が小さく咳をした。
「その話は、あとで」
受付の女性は、善治を見た。
「善治さんですね」
「……はい」
「六十八歳」
「はい」
「猫、一匹」
善治は目を見開いた。
「どうして猫のことを?」
受付の女性は笑った。
「ごくらくちゃんですね」
善治は固まった。
「……知ってるんですか?」
「もちろんです」
「どこで?」
「こちらでは、いろいろと記録されていますから」
「何を?」
「人間のこと」
そして、少し間を置いて、
「猫のことも」
と言った。
善治は思った。
――これは、とんでもないところへ来てしまった。


第三章 地獄の台所事情
「まず、こちらをご覧ください」
鬼頭が一枚の紙を差し出した。
そこには、奇妙な表が書かれていた。
「地獄収支報告書?」
善治は読み上げた。
「はい」
「……赤字じゃないですか」
「そうなんです」
鬼頭は深刻な顔をした。
「地獄、現在、大赤字です」
「どうして?」
「来る人が少ないからです」
「そんなこと、本当にあるんですか?」
「あります」
鬼頭は机の上に資料を並べた。
「まず、針の山」
「はい」
「昔は大人気でした」
「人気だったんですか?」
「地獄の定番ですから」
「まあ……そうですね」
「ところが、最近は健康ブームで」
「健康ブーム?」
「針が怖くないんです」
善治は笑った。
「確かに」
「鍼灸院というものがありますでしょう」
「あります」
「針を刺されることが、むしろ健康にいいと思われている」
「まあ、そうですね」
「針の山を見せても」
鬼頭はため息をついた。
「『あ、これ、鍼治療みたいですね』と言われるんです」
善治は吹き出した。
「それは困りますね」
「次に、血の池」
「はい」
「昔は恐ろしい場所でした」
「でしょうね」
「ところが最近は、赤い温泉だと思われています」
「……」
「『血の池地獄って、写真映えしますね』」
鬼頭は、両手で頭を抱えた。
「そう言ってスマートフォンで写真を撮るんですよ」
善治は笑った。
「地獄も大変ですね」
「他人事ではありませんよ」
「どうして?」
「あなたが極楽へ行くと、また一人、地獄の顧客が減ります」
「私はまだ死んでませんよ」
「分かっています」
鬼頭は真顔で言った。
「だからこそ、今のうちに相談しているんです」
善治は腕を組んだ。
「それで、私にどうしろと?」
「お血脈の御印を返していただく」
「嫌です」
「……ですよね」
鬼頭は深いため息をついた。
そして、資料の最後のページを見せた。
そこには、大きく、
『地獄人口 前年比マイナス三十七パーセント』
と書かれていた。
「三十七パーセント……」
善治は思わず呟いた。
「これは、かなり減っていますね」
「そうでしょう?」
「それで、鬼は何人いるんです?」
「約三千人」
「三千人!」
「はい」
「そんなに?」
「昔はもっといました」
「仕事は?」
鬼頭は黙った。
「……ありません」
「え?」
「仕事がないんです」
善治は笑いそうになった。
「鬼なのに?」
「鬼だからです」
「意味が分かりません」
「昔は、悪い人が来れば、仕事がありました」
「はい」
「ところが最近は、反省している人ばかりなんです」
「それは……いいことじゃないですか」
「地獄としては困るんです」
鬼頭は資料を閉じた。
「そこで、私たちは考えました」
「何を?」
「地獄の改革です」
善治は眉を上げた。
「改革?」
「はい」
鬼頭の目が、少しだけ輝いた。
「針の山をなくします」
「え?」
「血の池もなくします」
「え?」
「煮えたぎる釜も、使い方を変えます」
善治は、思わず笑った。
「地獄じゃなくなるじゃないですか」
鬼頭は真顔で答えた。
「その通りです」
「……」
「だから、困っているんです」
善治は、しばらく何も言えなかった。
増え続ける空席と、手持ち無沙汰な三千人の鬼。
もしかすると。
地獄という場所も、変わろうとしているのかもしれない。
人間の世界が変わってきたように。
鬼たちの世界もまた、変わらざるを得なくなったのだ。
鬼頭が、静かに言った。
「善治さん」
「はい」
「お願いがあります」
「何でしょう」
「あなたの力を、貸していただきたい」
善治は鬼頭を見た。
「私に、何ができるんです?」
鬼頭は答えた。
「それを、これからお話しします」
そして。
地獄の改革案が、善治の前に差し出された。


第四章 暗闇の戒壇巡り
「改革案?」
善治は、鬼頭が差し出した紙を見つめた。
そこには、いくつもの項目が並んでいた。
――針の山、再利用計画。
――血の池、温泉化計画。
――煮えたぎる釜、地熱エネルギー活用計画。
――鬼職員、再教育計画。
「ずいぶん現代的ですね」
善治が言うと、鬼頭は苦笑した。
「地獄も、いつまでも昔のままではいられません」
「鬼も大変ですね」
「大変ですよ」
鬼頭はため息をついた。
「でも、一番困っているのは、別のことなんです」
「何です?」
鬼頭は、一枚の資料を取り出した。
「人間が、自分は許されたと思い込んでしまうことです」
善治は眉をひそめた。
「それは、悪いことなんですか?」
「悪いとは言っていません」
鬼頭は首を振った。
「むしろ、その逆です」
「じゃあ、どういう意味です?」
「お血脈の御印をいただいた人の中には、『これで極楽へ行ける』と思って、それまでの人生を振り返らなくナル人もいるんです」
善治は黙った。
「自分は大丈夫だ」
「許されている」
「死んだら極楽だ」
そう思えば、確かに楽になる。
けれど。
それで、本当にいいのだろうか。
鬼頭は言った。
「私たちが問題にしているのは、お札そのものではありません」
「では、何を?」
「人間の心です」
善治は、しばらく黙っていた。
そのときだった。
受付の女性が、静かに口を開いた。
「善治さん」
「はい」
「お血脈の御印を、もう一度よく見てみませんか?」
善治は財布から札を取り出した。
十年間、大切に持っていたものだった。
小さな札。
特別に見えるわけではない。
けれど、善治にとっては、大切なものだった。
「これが、私を極楽へ連れていってくれるんでしょう?」
受付の女性は微笑んだ。
「そう信じているのですね」
「はい」
「では、一度だけ、ご自分で確かめてみてください」
「何を?」
「その札が、あなたに何をしてくれたのか」
善治は答えられなかった。
鬼頭が立ち上がった。
「少し歩きましょう」
「どこへ?」
「もう一度、暗闇を」
二人は受付を離れた。
極楽の受付の明かりが、少しずつ遠くなる。
再び暗闇。
善治はゆっくり歩いた。
不思議だった。
さっきは怖かったのに、今はそれほど怖くない。
暗いということは、何も見えないということだ。
何も見えないからこそ、自分の中にあるものが、妙にはっきりする。
十年前。
病院の帰り。
善光寺。
お血脈の御印。
あのとき、何を考えていたのだろう。
死にたくなかった。
怖かった。
まだやりたいことがあった。
妻に、もっと優しくしておけばよかったと思った。
もう少し、子どもたちと話せばよかったと思った。
そして。
亡くなった母親のことを思い出した。
「……バアちゃん」
善治の口から、自然に言葉が出た。
鬼頭は何も言わなかった。
「鬼頭さん」
「はい」
「私、母親に謝りたいことがあります」
「何ですか?」
「最後に会ったとき、忙しいからって、早く帰ったんです」
「……」
「そのあと、しばらくして亡くなりました」
善治は歩きながら続けた。
「別に、ひどいことを言ったわけじゃないんです」
「はい」
「でも、もう一度くらい、ゆっくり話しておけばよかった」
暗闇の中で、鬼頭の声がした。
「それが、後悔です」
善治は頷いた。
「そうかもしれません」
「でも」
鬼頭は言った。
「後悔できるということは、まだ、その人を大切に思っているということでもあります」
善治は足を止めた。
暗闇の向こうから、かすかに光が見えた。
「出口ですか?」
「いいえ」
鬼頭が言った。
「極楽です」


第五章 極楽の受付
光の先には、小さな建物があった。
白い壁。
木の扉。
大きな看板。
そこには、
『極楽受付』
と書かれていた。
善治は目を疑った。
「本当に、役所みたいですね」
「極楽ですから」
「関係ないでしょう」
中へ入る。
受付の奥には、長い机があり、その上にいくつもの端末が並んでいた。
「ここで、何をしているんです?」
「死後の手続きです」
「死後の手続き……」
「はい」
鬼頭は慣れた様子で説明した。
「死亡確認」
「はい」
「人生記録照合」
「はい」
「本人確認」
「はい」
「家族との関係確認」
「はい」
「未練の有無」
善治は眉を上げた。
「未練も調べるんですか?」
「重要です」
「どうして?」
「未練を残したままだと、次の場所へ進めませんから」
善治は少し考えた。
「それじゃ、私なんか、かなり時間がかかりそうですね」
「なぜです?」
「やり残したことがいっぱいあります」
鬼頭は笑った。
「そういう人のほうが、案外、長生きするんですよ」
「そうなんですか?」
「やり残しがあるから」
善治は笑った。
「なるほど」
受付の奥から、機械音とともに声がした。
「次の方、どうぞ」
善治が振り返る。
そこには、小さな機械が置かれていた。
画面には、
⁠GOKURAKU SYSTEM⁠
と表示されている。
「何ですか、これ?」
「極楽システムです」
「そのままですね」
「分かりやすさは大事です」
鬼頭が機械に近づいた。
「ゴクラクさん」
機械が反応した。
「はい。鬼頭課長」
「この方を登録してください」
「承知しました」
画面に善治の名前が表示された。
⁠善治 六十八歳⁠
その下に、いくつもの項目が並んでいる。
家族。
友人。
仕事。
健康。
後悔。
感謝。
そして――
猫。
「猫まであるんですか?」
「もちろん」
鬼頭は答えた。
「猫は重要です」
「何が?」
「人間がどんな人だったか、猫が一番よく知っています」
善治は思わず笑った。
「そんな馬鹿な」
すると機械が言った。
「訂正します」
「はい?」
「猫は、人間がどんな人だったかではなく、人間が自分にどれだけ餌をくれたかを記憶しています」
善治は吹き出した。
鬼頭も笑った。
「ごもっともです」
「ごくらくは、ちゃんと覚えてくれてるかな」
善治が呟く。
「何をです?」
「私のことです」
「もちろんです」
鬼頭が言った。
「あなたが毎朝、餌をやっていることも」
「はい」
「雨の日に、濡れて帰ってきたごくらくをタオルで拭いたことも」
「……」
「病気になったとき、夜中までそばにいたことも」
善治は黙った。
「そんなことまで、記録されているんですか?」
「記録されているというより」
鬼頭は、少しだけ笑った。
「残っているんです」
「何が?」
「あなたの人生に」
善治は画面を見つめた。
そこには、いろいろな記録があった。
大きな出来事。
小さな出来事。
自分では忘れていたことまで。
その中に、ひとつの項目があった。
⁠後悔 十二件⁠
「十二件もあるんですか」
善治は苦笑した。
「もっとあると思っていました」
「大事なのは数ではありません」
鬼頭が言った。
「そのひとつひとつを、どうするかです」
「どうするって?」
「向き合うんです」
「死んでから?」
「生きているうちに」
善治は鬼頭を見た。
鬼頭は、いつもの鬼の顔ではなかった。
どこか、人間らしい顔をしていた。
「だから」
鬼頭は静かに言った。
「地獄も、少し考え方を変えようとしているんです」
「地獄が?」
「はい」
「どう変えるんです?」
鬼頭は笑った。
「罰を与える場所から」
少し間を置いて、
「話を聞く場所へ」
と言った。
善治は、しばらく何も言わなかった。
やがて、小さく笑った。
「鬼頭さん」
「はい」
「それなら、地獄も悪くないかもしれませんね」
鬼頭は答えた。
「そう言ってもらえると、助かります」
そのとき。
極楽システムから、静かな電子音が鳴った。
「善治さん」
「はい?」
「ご家族から、面会申請があります」
善治の胸が、一瞬だけ高鳴った。
「家族?」
鬼頭が画面を見る。
書籍の端末を操作しながら、少し驚いた顔をした。
「これは……」
「誰です?」
鬼頭は答えなかった。
画面に表示された名前を見つめている。
やがて。
「会ってみますか?」
と、静かに言った。
善治は頷いた。
「お願いします」
そして、極楽の奥から。
懐かしい声が聞こえてきた。
「善治」
その声を聞いた瞬間。
善治は、何も言えなくなった。


第六章 バアちゃんの縁側
「善治」
その声を聞いた瞬間。
善治の胸の奥で、何かが崩れた。
「……バアちゃん?」
そこにいたのは、紛れもなく祖母だった。
いつもの着物。
いつもの笑顔。
そして、いつもの手に、小さなおにぎりを持っている。
「腹、減ってないか?」
善治は笑った。
笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
目の奥が熱くなった。
「バアちゃん……」
「なんだい、そんな顔して」
「だって……」
「久しぶりだねえ」
「うん」
「大きくなったねえ」
善治は思わず笑った。
「もう六十八だよ」
「そうかい」
祖母は首を傾げた。
「じゃあ、まだ子どもだね」
「六十八だよ?」
「私から見れば、子どもさ」
昔と同じだった。
何十年経っても。
祖母は祖母だった。
善治は、おにぎりを見た。
「それ、まだ作ってるの?」
「作るよ」
「塩むすび?」
「そう」
「好きだったんだよな」
「知ってるよ」
祖母は笑った。
「昔から、あんたはこればっかりだった」
善治は、おにぎりを受け取った。
手のひらに乗せる。
温かかった。
「……食べていい?」
「何言ってるんだい」
祖母が笑う。
「そのために作ったんだよ」
善治は一口、食べた。
懐かしい味だった。
何十年ぶりだろう。
その味を覚えていた。
「うまい」
「そうかい」
「やっぱり、うまいよ」
「それならよかった」
二人は縁側に座った。
庭には、見たことのない花が咲いていた。
空は、どこまでも青い。
鳥の声がする。
善治は聞いた。
「ここが極楽?」
「そうだよ」
「ずいぶん普通だね」
「極楽だからって、毎日花火が上がるわけじゃないよ」
「そりゃそうか」
「ご飯も食べるし」
「へえ」
「眠くなれば寝る」
「死んでからも?」
「死んだからこそだよ」
祖母は笑った。
善治も笑った。
しばらく沈黙が続いた。
そして善治は、ずっと胸の中にあったことを口にした。
「バアちゃん」
「なんだい」
「最後に会ったとき」
「うん」
「俺、すぐ帰ったよな」
祖母は何も言わなかった。
「忙しいからって」
「そうだったね」
「もっと話せばよかった」
「そうかい」
「ごめん」
祖母は、おにぎりを握るような仕草をした。
「善治」
「うん」
「そんなこと、もういいんだよ」
「でも……」
「人間はね」
祖母は、空を見ながら言った。
「生きてる間に、全部ちゃんとするなんて無理なんだよ」
善治は黙った。
「言えなかったこともある」
「うん」
「謝れなかったこともある」
「うん」
「ありがとうと言えなかったこともある」
祖母は笑った。
「だから、あとから思い出すんだよ」
「あとから?」
「そう」
「それに意味があるの?」
「あるよ」
祖母は善治を見た。
「思い出せたってことは、その人をまだ大事にしてるってことだから」
善治の目から、涙が一粒落ちた。
祖母は何も言わなかった。
ただ、おにぎりをもう一つ握った。
「ほら」
「……うん」
「食べな」
「うん」
そのとき。
遠くから鬼頭の声が聞こえた。
「善治さん!」
「はい?」
「そろそろ時間です!」
善治は立ち上がった。
「もう行くの?」
祖母が聞いた。
「うん」
「また来ればいい」
「死んだら?」
「それでもいい」
祖母は笑った。
「でも、まだ来ちゃ駄目だよ」
善治は笑った。
「分かってる」
「ちゃんと生きておいで」
「うん」
「まだまだ、やることがあるんだろ?」
善治は頷いた。
「ある」
祖母は手を振った。
「じゃあ、行っておいで」
善治は何度も振り返った。
祖母は、ずっと手を振っていた。


第七章 閻魔大王の辞表
極楽から戻ると、鬼頭が待っていた。
「どうでした?」
善治は答えた。
「バアちゃんに会いました」
「そうですか」
「泣いてしまいました」
「それは、よかった」
「よかった?」
「泣けるというのは、まだ心が生きているということですから」
善治は鬼頭を見た。
「鬼頭さん」
「はい」
「地獄って、本当に必要なんですか?」
鬼頭は少し考えた。
「昔は、必要だったと思います」
「今は?」
「今は、変わらなければならないと思っています」
「どうして?」
鬼頭は一枚の紙を取り出した。
「これです」
善治が見る。
そこには大きく、
『地獄改革計画』
と書かれていた。
「閻魔大王の提案です」
「閻魔大王が?」
「はい」
「何をするんです?」
鬼頭は読み上げた。
「第一に、罰を見直す」
「ほう」
「第二に、反省を促す」
「うん」
「第三に、生きている者の後悔を減らす」
「それは、どうやって?」
鬼頭は笑った。
「話を聞くんです」
「誰が?」
「鬼が」
善治は笑った。
「鬼が、人の話を?」
「そうです」
「それ、鬼の仕事ですか?」
「新しい仕事です」
鬼頭は胸を張った。
「地獄観光庁、事業再編案です」
「観光庁なのに?」
「観光もします」
「何を観光するんです?」
「反省です」
「……」
善治は笑った。
「よく分かりません」
「そのうち分かります」
鬼頭は言った。
「そこで、新しい施設を作ります」
「施設?」
「はい」
「何という名前?」
鬼頭は、少し得意そうに言った。
「反省温泉です」
「……温泉?」
「はい」
「地獄で?」
「地獄で」
善治は頭を抱えた。
「ますます地獄じゃなくなるじゃないですか」
「だから改革なんです」


第八章 反省温泉、開業準備
地獄の風景が変わり始めた。
針の山。
そこには看板が立てられた。
『反省鍼灸処』
血の池。
そこには、
『薬草足湯』
という看板。
煮えたぎる釜は、
『地熱温泉』
になった。
善治は呆れていた。
「本当にやるんですね」
鬼頭は忙しそうに走り回っている。
「もちろんです!」
「鬼が足湯の案内をしてますよ」
「新しい時代ですから」
「針の山で鍼灸?」
「大好評です」
「血の池で足湯?」
「女性客に人気です」
「地獄ですよね?」
「元・地獄です」
「……」
鬼頭はさらに説明した。
「そして、最大の目玉がこちら」
扉の上に、
『反省の間』
と書かれている。
「何をするんです?」
「話をします」
「誰と?」
「鬼と」
「何を?」
「後悔を」
善治は扉を開けた。
中には、椅子が二つ。
向かい合って置かれている。
一方に鬼。
もう一方に、人間。
鬼が言う。
「では、あなたの後悔を聞かせてください」
人間が言う。
「昔、女房にひどいことを言いました」
鬼が聞く。
「何と言ったんです?」
「覚えていません」
「では、何が後悔なんです?」
「女房が泣いたことだけ覚えています」
鬼は黙って聞く。
それだけだった。
怒鳴らない。
脅さない。
罰を与えない。
ただ、聞く。
善治は思った。
「鬼頭さん」
「はい」
「これなら、いいかもしれませんね」
「でしょう?」
「地獄より、ずっと人間らしい」
鬼頭は笑った。
「鬼が人間らしくなって、人間が少し鬼から学ぶ」
「どういうこと?」
「人間は、悪いことをしたあと、誰かに聞いてもらえるだけで少し楽になることがあります」
「そうですね」
「そして、少し楽になれば」
鬼頭は言った。
「もう一度、生きてみようと思える」
善治は頷いた。
「なるほど」
その日の夕方。
反省温泉の入り口に、最初の客がやってきた。
男だった。
六十代くらい。
鬼頭が笑顔で迎える。
「いらっしゃいませ」
男は不安そうに言った。
「ここ、本当に地獄ですか?」
「以前は」
「今は?」
「反省温泉です」
男はしばらく考えた。
「……温泉だけ入って帰ってもいいですか?」
鬼頭は即答した。
「もちろんです」
「反省しなくても?」
「したくなったら、どうぞ」
男は笑った。
「それなら、いいですね」
善治も笑った。
地獄は。
少しずつ変わり始めていた。


第九章 開業初日の珍客たち
反省温泉の開業初日。
予想以上の人がやってきた。
最初は、本当に反省したい人たちだった。
「妻に謝りたい」
「息子と仲直りしたい」
「昔の友達に、ありがとうと言いたい」
そんな人たち。
ところが。
午後になると、少し変わった客が増えてきた。
「地獄の温泉って、珍しいから来ました」
「写真を撮っていいですか?」
「SNSに載せてもいい?」
鬼頭は頭を抱えた。
「観光客まで来てしまった……」
善治は笑った。
「地獄観光庁なんだから、いいんじゃないですか?」
「反省してほしいんですよ!」
「まあまあ」
「ここは地獄ですよ!」
「元・地獄でしょう」
鬼頭はため息をついた。
しかし。
その中に、一人だけ。
妙に静かな男がいた。
高そうな服。
高そうな靴。
高そうな腕時計。
そして、妙に地獄を見回している。
「鬼頭さん」
「はい」
「あの人、何してるんです?」
「さあ……」
男は、針の山を見た。
血の池を見た。
地熱温泉を見た。
そして。
小さく呟いた。
「これは……使える」
善治は、その言葉を聞き逃さなかった。
「鬼頭さん」
「はい」
「あの人、何か企んでませんか?」
鬼頭は男を見た。
そして。
「……嫌な予感がします」
男は、こちらを振り返った。
そして、にっこり笑った。
「どうも」
名刺を差し出す。
そこには、
『石川五郎』
と書かれていた。
善治は、名刺を見つめた。
「石川……五郎?」
男は笑った。
「はい」
「もしかして……」
「ご想像の通りです」
男は胸を張った。
「石川五右衛門の、十六代目の末裔です」
鬼頭の顔が引きつった。
善治は思った。
――また、とんでもないのが来た。
そして。
地獄の経営危機は。
新たな方向へ転がり始めることになる。


第十章 石川五郎の末裔
「石川五郎……」
善治は、もう一度その名前を見た。
「はい」
男は胸を張った。
「石川五右衛門の、十六代目の末裔です」
「それで?」
「それで?」
「何をしに来たんです?」
五郎は、地獄を見回した。
「買いに来ました」
「何を?」
「ここを」
善治と鬼頭は、同時に男を見た。
「……ここ?」
「そうです」
五郎は笑った。
「地獄を、買いたいんです」
鬼頭の顔から笑顔が消えた。
「何を言っているんですか」
「いやいや、冗談ではありません」
五郎は鞄から書類を取り出した。
「私、土地開発の仕事をしておりまして」
「はい」
「ここ、かなり広いでしょう?」
「地獄ですから」
「立地も面白い」
「地獄ですよ」
「温泉もある」
「元・地獄です」
五郎は目を輝かせた。
「これはいけます」
善治は呆れた。
「何が?」
「地獄リゾートです」
「……」
「高級温泉旅館」
「……」
「テーマパーク」
「……」
「夜は鬼のショー」
鬼頭が立ち上がった。
「帰ってください」
「まあまあ」
五郎は笑った。
「ビジネスの話ですよ」
「ここは地獄です!」
「だから面白いんじゃないですか」
五郎は資料を広げた。
そこには、豪華な完成予想図まで描かれていた。
「鬼の露天風呂」
「……」
「地獄鍋」
「……」
「閻魔大王の説教ライブ」
鬼頭は頭を抱えた。
「やめてください」
「なぜです?」
「閻魔大王は、もう辞表を出しています」
「え?」
「地獄の経営改革に疲れまして」
「……」
五郎は少し考えた。
「それなら、私が社長をやります」
「もっと駄目です」
善治は吹き出した。
「石川さん」
「はい」
「あなた、地獄を何だと思っているんです?」
五郎は少し黙った。
そして、真面目な顔になった。
「商売の種です」
「なるほど」
善治は頷いた。
「正直ですね」
五郎は笑った。
「私は、正直だけが取り柄です」
その夜。
開発資料を小脇に抱えた五郎は、ひとり薬草足湯のフチに腰掛けていた。
赤い湯気をぼんやり見つめながら、仕立てのいいズボンを膝まで捲り上げ、お湯に足を浸している。
昼間の高圧的な勢いはどこへやら、その背中は小さく丸まっていた。
「石川さん」
善治が隣に腰を下ろすと、五郎はビクッと肩を揺らし、苦笑いを浮かべた。
「……いいお湯ですね、ここ」
「そうでしょう。血の池だった頃より評判がいい」
「私、昔から……こういう温かい湯に入ると、余計なことばかり思い出すんです」
「余計なこと?」
五郎は捲り上げた腕をさすりながら、ぽつりと言った。
「……母親のことです」
「お母さん?」
「ええ」
五郎は湯気を見つめた。
「若い頃から金儲けばかりでね。どこに投資すれば勝てるか、それしか考えていなかった。母親が病気で倒れたときも、大事な買収案件があるからって、病院に行かなかったんです」
善治は静かに耳を傾けた。
「最後に電話が来ました。『五郎、たまには帰っておいで。柿が美味しくなったよ』って。でも私は『今忙しいんだ!』って怒鳴って切ってしまった」
五郎の手が、湯の中でぎゅっと握りしめられた。
「その三日後でした。亡くなったのは。私は結局、母に謝ることも、感謝を伝えることもできなかった。だから……自分を誤魔化すために、もっと大きなビジネスをして、もっと金を稼ごうとしたのかもしれません」
足湯の温もりが、頑なだった男の心をゆっくりと解かしていく。
五郎は深いため息をつき、膝の上の開発資料をくしゃりと丸めた。
「……やめます」
「地獄リゾートをですか?」
「ええ。こんな買い叩くような真似、母が見たらまた悲しみますから」
後ろでじっと聞いていた鬼頭が、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「五郎さん」
「鬼頭課長……申し訳ない。失礼な提案ばかりして」
「いいえ」
鬼頭は頭を振った。
「よろしければ、あの反省の間で、お母様への思いをゆっくり聴かせていただけませんか?」
五郎は目を丸くし、やがてハンカチで目元を拭った。
「……ありがとうございます。それと……もし経営費で困っているなら、私に相談してください。まっとうな出資なら、喜んで協力しますから」
鬼頭の目が輝いた。
「本当ですか!?」
善治は笑った。
強欲なビジネスマンの後悔もまた、地獄の温泉によって少しだけ優しくほぐされたのだった。


第十一章 鬼頭課長の休日
ある日。
鬼頭が珍しく休みを取った。
「鬼にも休日があるんですか?」
善治が聞くと、
「ありますよ」
鬼頭は答えた。
「週休二日制です」
「地獄なのに?」
「地獄だからこそです」
「なるほど」
鬼頭は、人間界へやって来た。
背広姿。
角は帽子で隠している。
善治も一緒だった。
二人で町を歩く。
「鬼頭さん」
「はい」
「どこへ行くんです?」
「喫茶店です」
「喫茶店?」
「コーヒーが飲みたいんです」
「鬼もコーヒー飲むんですね」
「飲みますよ」
二人は喫茶店に入った。
鬼頭はメニューを見て、
「ブレンド」
と言った。
善治は笑った。
「普通ですね」
「鬼だからって、血の池を飲むわけじゃありません」
「そりゃそうですね」
コーヒーが運ばれてくる。
鬼頭は、一口飲んだ。
「……うまい」
「でしょう?」
「地獄にも喫茶店を作りたいですね」
「また改革ですか?」
「ええ」
鬼頭は笑った。
しばらくして。
善治が聞いた。
「鬼頭さん」
「はい」
「どうして鬼になったんです?」
鬼頭の手が止まった。
「……昔の話です」
「聞いてもいいですか?」
「大した話ではありません」
「それでも」
鬼頭はしばらく黙っていた。
「私は、昔、人間でした」
「え?」
「江戸の頃です」
「そんな昔?」
「はい」
鬼頭は遠くを見るような目をした。
「小さな商いをしていました」
「何を?」
「米です」
「それで?」
「金に困っていました」
鬼頭は笑った。
「ほんの少しだけ、店の金を使い込みました」
「ほんの少し?」
「今の金にすれば、それほど大きな額ではありません」
「じゃあ、なぜ?」
「返すつもりだったんです」
「でも?」
「返せなかった」
鬼頭はコーヒーを見つめた。
「病気になりました」
「……」
「死ぬ間際になって、ようやく後悔しました」
「家族には?」
「言えませんでした」
「謝れなかった?」
「はい」
鬼頭は頷いた。
「だから、死んでも終わらなかった」
「どういう意味です?」
「自分の中で、ずっと続いていたんです」
「後悔が?」
「はい」
鬼頭は笑った。
「それで、気がついたら鬼でした」
善治は何も言えなかった。
「地獄で働き始めて、最初は人を罰するのが仕事だと思っていました」
「違ったんですか?」
「違いました」
「何が?」
鬼頭は言った。
「人は、罰よりも、自分の後悔に苦しんでいることが多い」
善治は黙って聞いた。
「だったら」
鬼頭は笑った。
「話を聞くほうがいい」
善治は頷いた。
「だから、反省温泉なんですね」
「そうです」
鬼頭はコーヒーを飲み干した。
「私自身が、一番聞いてほしかったのかもしれません」


第十二章 反省の間だより
反省温泉は、少しずつ評判になった。
人間界から来る人。
地獄から移ってくる人。
増え続ける客に対応するため、地獄の鬼たちは日々研修を重ねた。
そして、ときには、生きている人間の夢に入り込んでくる人。
みんな、それぞれに後悔を抱えていた。
ある老人は言った。
「妻に、ありがとうと言えなかった」
ある女性は言った。
「娘に、もっと好きだと言えばよかった」
ある男は言った。
「親父に謝りたい」
鬼は何も言わない。
ただ、聞く。
そして最後に、
「よく、話してくれました」
と言う。
それだけだった。
ある日。
善治は反省の間の壁に、一枚の札が貼られていることに気づいた。
「これは?」
鬼頭が答えた。
「生前予約札です」
「生前予約?」
「はい」
札には、こう書かれていた。
『よく、話してくれました。
まだ、こちらへ来るには早いです。
あと二十年は、来ないでください。』
善治は笑った。
「ずいぶん勝手ですね」
「地獄側の都合です」
「都合?」
「まだ地獄の準備ができていません」
「なるほど」
善治は札を見つめた。
「これ、私ももらえますか?」
鬼頭は笑った。
「もちろん」
「本当に?」
「はい」
鬼頭は一枚の札を取り出した。
そこには、
⁠善治⁠
と書かれていた。
「二十年?」
「二十年です」
「長いなあ」
「短いですよ」
鬼頭は笑った。
「歳を取ると、二十年なんてあっという間です」
善治は札を受け取った。
「じゃあ、二十年後に」
「そのときは、こちらで」
「はい」
善治は札を財布に入れた。
けれど。
このときの善治は知らなかった。
その二十年が。
自分にとって、思っていたよりずっと大切な時間になることを。


第十三章 柿泥棒の夏
善治には、一つだけ。
子どもの頃から、ずっと忘れられないことがあった。
柿だった。
まだ八歳の頃。
近所に、権蔵という老人がいた。
庭に、大きな柿の木があった。
秋になると、たくさんの実がなる。
善治は、その柿が好きだった。
けれど。
勝手に取ってはいけない。
祖母から、何度も言われていた。
「権蔵さんの柿は、取っちゃいけないよ」
「分かってる」
「本当に?」
「分かってるって」
でも。
子どもというのは、誘惑に弱い。
ある夕方。
善治は、権蔵の家の前に立っていた。
柿が、枝いっぱいに実っている。
一つ。
くらいいいだろう。
善治は木に登った。
そして、一番大きな柿を一つ取った。
その瞬間。
「こら!」
声がした。
善治は凍りついた。
下を見る。
権蔵が立っていた。
「……」
「何してる」
「……柿」
「見れば分かる」
善治は木から降りた。
怒られると思った。
殴られるかもしれない。
祖母にも叱られる。
善治は俯いた。
すると。
権蔵は言った。
「それ、一つだけか?」
「……うん」
「じゃあ、持ってけ」
善治は顔を上げた。
「え?」
「どうせ取ったんだろ」
「……」
「もう一つ取れ」
「いいの?」
「ああ」
権蔵は笑った。
「ただし、今度は堂々と取れ」
善治は、もう一つ柿を取った。
知識など持たない子どもの足で、走って帰った。
家に帰ると、祖母が待っていた。
「善治」
「……」
「どこから持ってきたの?」
善治は黙っていた。
祖母は柿を見た。
探る目つきで、そしてすべてを察した。
「権蔵さんのところだね」
「……うん」
「謝っておいで」
「でも……」
「行っておいで」
善治は、また権蔵の家へ向かった。
「ごめんなさい」
頭を下げた。
権蔵は笑った。
「もういい」
「勝手に取りました」
「分かってる」
「ごめんなさい」
「だから、もういいって」
権蔵は、柿を一つ善治に渡した。
「ほら」
「いいの?」
「ああ」
「ありがとう」
その言葉だけだった。
それから何十年も経った。
権蔵は亡くなった。
善治も、その出来事を忘れていた。
いや。
忘れたつもりになっていた。
ある日の反省の間。
善治は、その話をした。
「そんな小さなことを、まだ覚えているんですか?」
鬼頭が聞いた。
「覚えてるんです」
「なぜ?」
善治は考えた。
「たぶん……」
少し間を置いて。
「ありがとうを、ちゃんと言えなかった気がするんです」
鬼頭は黙っていた。
そして。
「では」
と言った。
「会ってみますか?」
善治は顔を上げた。
「誰に?」
鬼頭は笑った。
「権蔵さんに」
善治の胸が、大きく鳴った。
何十年も前の。
たった一個の柿。
その柿から始まった小さな後悔が。
ようやく、動き始めた。


第十四章 お血脈の真実
「権蔵さんに、会えるんですか?」
善治は鬼頭に聞いた。
「はい」
「本当に?」
「反省温泉には、そういう仕組みがありますから」
「仕組みって……」
鬼頭は笑った。
「後悔している人と、後悔の中に残っている人を、少しだけつなぐんです」
善治は、胸が高鳴るのを感じた。
何十年も前のことだった。
たった一個の柿。
けれど、その小さな出来事が、ずっと心のどこかに残っていた。
「こちらです」
鬼頭が扉を開けた。
そこには、一人の老人が座っていた。
白い髪。
少し曲がった背中。
善治は、その顔を見た。
「……権蔵さん」
老人が顔を上げた。
「おう」
その声だった。
間違いない。
善治が八歳だった頃。
何度も聞いた声。
「大きくなったな」
善治は笑った。
「もう、六十八ですよ」
「そうか」
権蔵は笑った。
「俺も、ずいぶん待ったな」
「……」
「柿、一個だったな」
善治は頷いた。
「はい」
「ちゃんと食ったか?」
「食べました」
「うまかったか?」
「はい」
善治の目に涙が浮かんだ。
「ありがとうございました」
権蔵は首を傾げた。
「何が?」
「柿です」
「そんな昔のことか」
「僕は、ずっと覚えていました」
「そうか」
「ちゃんと、お礼を言いたかった」
権蔵は、少し笑った。
「今、言ったじゃねえか」
「はい」
「じゃあ、それでいい」
善治は、何度も頭を下げた。
「ありがとうございました」
「もういいって」
「でも……」
「人間は、昔のことを考えすぎる」
権蔵は笑った。
「柿一個くらいで、何十年も悩むな」
善治も笑った。
涙が止まらなかった。
鬼頭は、少し離れたところで二人を見ていた。
そして、小さく呟いた。
「これが、反省温泉なんです」
善治は振り返った。
「はい」
「罰を与えるんじゃない」
「はい」
「終わらせるんです」
善治は頷いた。
「ああ」
そのときだった。
善治の財布から、一枚の札が落ちた。
拾い上げる。
お血脈の御印。
十年間、ずっと持っていた札。
善治は、それを見つめた。
「鬼頭さん」
「はい」
「これって、本当に極楽へ行ける札なんですか?」
鬼頭は答えなかった。
代わりに、奥から一人の僧侶が現れた。
穏やかな顔をした老人だった。
「その札を、どう思いますか?」
善治は考えた。
「……守ってくれるものだと思っていました」
「今は?」
「分かりません」
僧侶は笑った。
「それでいいのです」
「え?」
「お血脈の御印は、魔法の札ではありません」
善治は驚いた。
「魔法じゃない?」
「はい」
「じゃあ、極楽へ行けるというのは?」
「人は、信じることで変わるのです」
僧侶は、静かに続けた。
「あなたが十年前、この札を手にしたとき」
「はい」
「あなたは、こう思ったのでしょう」
――これで大丈夫だ。
――自分は許された。
――ならば、もう少し、人に優しく生きよう。
善治は黙った。
「それこそが、お血脈の力なのです」
善治は、札を見つめた。
確かに。
この十年間。
何か大きな奇跡が起きたわけではない。
けれど。
少しだけ、人に優しくなった。
少しだけ、怒らなくなった。
少しだけ、昔のことを許せるようになった。
そして。
今日。
バアちゃんに会えた。
権蔵にも会えた。
「じゃあ……」
善治は言った。
「この札がなくても、極楽へ行けるんですか?」
僧侶は微笑んだ。
「極楽というものは、札の中にあるのではありません」
「では、どこに?」
「あなたの中に」
善治は、しばらく黙っていた。
そして、札を財布へ戻した。
捨てることはしなかった。
それは、十年間の自分を支えてくれたものだったから。
ただ。
もう、札だけに頼る必要はなかった。


第十五章 ご同輩、微笑んでいてね
それから十年。
善治は七十八歳になった。
最初の猫のごくらくは、二年前に静かに息を引き取った。
寂しさに沈む善治の家へ、近所の縁でやってきたのが二代目の猫だった。
名前は、ぱらいそ。
「ごくらくの次だから、パラダイス……いや、ぱらいそだな」
善治が呟くと、猫は返事もせず、ひだまりの中で大きなあくびをした。
「お前もまた、俺の最後の気休めにつきあってくれるのかい」
頭を撫でると、ぱらいそはゴロゴロと喉を鳴らした。
反省温泉は、すっかり有名になっていた。
人間界からも、ときどき相談者がやってくる。
鬼頭は、相変わらず課長だった。
「もう課長、長いですね」
善治が言うと、
「昇進すると現場に出られなくなりますから」
と、鬼頭は笑った。
「出世したくないんですか?」
「鬼にも、こだわりがあるんです」
そんな穏やかな日々が過ぎ、やがて「ぱらいそ」も眠るように去っていった。
善治は庭の隅に二つ並んだ小さな墓を撫でながら、ぽつりと独りごちた。
「また先にいっちゃったな」
そして八十代半ばを過ぎた頃。
三匹目の猫がやって来た。
白と灰色の毛をした、どこか呆けたような顔の小さな猫だった。
「ごくらく、ぱらいそ、と来て……もう言葉が出んな。お前はただ、黙々(もくもく)と生きてくれりゃいい」
そう言って名付けた「もくもく」は、善治の膝の上がお気に入りだった。
「もくもく。人間ってのはな、歳をとると謝りたいことより『ありがとう』と言いたいことの方が増えるんだよ」
猫の背中を撫でながら、善治は遠い目をした。
朝起きる。
血圧を測る。
薬を飲む。
猫に餌をやる。
そして。
ときどき、昔のことを思い出す。
バアちゃんのおにぎり。
権蔵さんの柿。
鬼頭課長の赤い名刺。
反省温泉の温もり。
お血脈の御印。
人生には、忘れられないことがいくつもある。
けれど。
全部を後悔する必要はない。
全部を抱え込んでおく必要もない。
ただ。
ありがとうと言えるものには、ありがとうと言っておく。
ごめんなさいと言えるものには、ごめんなさいと言っておく。
それだけで、人間の心には小さな極楽が灯る。
善治は、そう思うようになっていた。
そして、二十年という約束の期限が、ゆっくりと近づいてきた。


終章 あちらからのお迎え
それから、さらに歳月が過ぎた。
善治は九十四歳になっていた。
秋晴れの朝。
善治は縁側に座っていた。
膝の上には、すっかり老猫になった「もくもく」。
庭には、やわらかな風が吹き抜けている。
善治は空を見上げた。
「長かったなあ」
もくもくが、
「ニャー」
と弱々しく鳴いた。
「そうだな」
善治は笑った。
「十分、生きたよな」
そのとき。
玄関のほうから、懐かしい声がした。
「善治さん」
善治はゆっくり振り返った。
そこに、鬼頭が立っていた。
昔と同じ黒い背広。
昔と同じ赤いネクタイ。
そして。
昔と同じ二本の角。
ただし。
その角には、少しだけ白いものが混じっていた。
「鬼頭さん?」
「ご無沙汰しております」
「久しぶりですね」
「はい」
鬼頭は、深々と頭を下げた。
「お迎えに、参りました」
善治は、しばらく黙っていた。
そして、穏やかに笑った。
「とうとう来ましたか」
「はい」
「二十年って言ってましたよね」
「そうです」
鬼頭は懐かしそうに目を細めた。
「反省温泉の生前予約札に、そう書きましたから」
善治はポケットから古びた財布を取り出した。
中には、小さな紙切れが入っている。
二十六年前。
反省温泉でもらったものだった。
善治は、それを鬼頭に見せた。
「まだ持ってたんですか」
「ずっと宝物でしたよ」
鬼頭は札を見つめ、静かに微笑んだ。
「では」
「はい」
「約束の期限です」
善治は、庭を見た。
もくもくが膝の上で目を細めている。
「もくもく」
「ニャー」
「お前は、もう少しここで日向ぼっこしてな」
猫の頭を優しく撫で、善治はゆっくりと立ち上がった。
少しだけ膝がふらつく。
鬼頭がそっと手を差し出した。
善治は、その温かい手をしっかりと握った。
玄関へ向かって歩き出す。
そのとき。
光の差す土間の向こうから、あの懐かしい声が響いた。
「善治」
善治が顔を上げる。
そこに。
バアちゃんが立っていた。
その隣には、柿を手にした権蔵さんもいる。
善治は、目を細めた。
「……バアちゃん」
祖母は嬉しそうに笑った。
「遅かったねえ」
「うん」
「ずいぶん待たされたよ」
「ごめんごめん」
「何を言ってるんだい」
祖母は温かい目で善治を見た。
「ちゃんと、最後まで生きてきたじゃないか」
善治の目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
権蔵も白い歯を見せて笑っている。
「善治、柿、まだ食いたいか?」
善治は泣きながら笑った。
「食べたい。今度は堂々と食うよ」
「おう、好きなだけ食え」
鬼頭が静かに促した。
「善治さん」
「はい」
「行きましょうか」
善治は最後に、もう一度だけ我が家の庭を振り返った。
九十四年間。
いろいろなことがあった。
笑った。
怒った。
泣いた。
後悔した。
謝った。
ありがとうと言った。
そして。
心から愛した人たちと、もう一度巡り合えた。
善治は、光の中へ一歩を踏み出した。
鬼頭と並んで歩く。
その先で、バアちゃんが手を差し伸べている。
善治は笑った。
「ただいま」
バアちゃんが答えた。
「おかえり、善治」
善治は、もう一度力強く言った。
「ただいま、バアちゃん」
空は、どこまでも青く澄み渡っていた。
そして。
その日の午後。
善治の家には、静かで穏やかな時間だけが残された。
縁側では、もくもくが丸くなって気持ちよさそうに眠っている。
その隣には。
使い込まれた古い財布が置かれていた。
中には、一枚の古びた札。
そこには、柔らかな筆文字で、こう書かれていた。
『極楽は、待っている場所ではありません。
誰かを思いながら、今日を生きていく場所です。』
風が吹き抜け、札の端がほんの少しだけ揺れた。
もくもくが片目を開け、長なあくびをした。
そして。
何事もなかったかのように、また幸せそうに目を閉じたのだった。
――おしまい。


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あとがき
人は、歳を重ねるほど、
「死」というものを、少しずつ身近に感じるようになるのかもしれません。
友人から届く訃報。
昔の写真。
もう会えなくなった人の声。
ふとした瞬間によみがえる、何十年も前の出来事。
そして、そんなときに思うのです。
「あのとき、もう少し話しておけばよかった」
「ちゃんと、ありがとうと言えばよかった」
「悪かった、と一言伝えておけばよかった」
人生には、どうしても言い残すことがあります。
本作の主人公、善治もそうでした。
善治が持っていた「お血脈の御印」は、
物語の中では、まるで極楽行きの切符のような存在として登場します。
けれど、本当に描きたかったのは、
札そのものの不思議な力ではありません。
「自分は許されている」
そう信じることで、
人は少しだけ優しくなれる。
怒ることを一度やめる。
誰かの話を少し長く聞く。
ありがとうを言ってみる。
昔のことを思い出してみる。
そんな小さな変化の積み重ねこそが、
もしかすると「極楽」なのではないか。
私は、そんなことを考えながら、この物語を書きました。
書籍化にあたり、主人公の善治を取り巻く愛おしい描写をいくつか深めました。
そして、もう一人の主人公が鬼頭剛です。
角を生やし、
赤い名刺を持ち、
地獄の観光庁で働いている鬼。
けれど、彼にも後悔があります。
地獄にいるのは、
悪い人間だけではないのかもしれません。
「もっと、こうしておけばよかった」
そんな思いを抱えたまま、
誰にも話せずにいる人がいる。
だから鬼頭は、
罰する地獄から、
話を聞く地獄へと変えようとします。
針の山も、
血の池も、
煮えたぎる釜も、
人を苦しめるためだけのものではなくなる。
そして、
「反省温泉」が始まります。
少し笑えて、
少し馬鹿馬鹿しくて、
それでも最後には、
自分の中にある大切なものを思い出してもらえる場所。
そんな地獄があってもいいのではないか。
そんな気持ちで書きました。
善治が思い出した、
バアちゃんのおにぎり。
一個の柿。
言えなかった「ありがとう」。
言えなかった「ごめんなさい」。
どれも、人生から見れば小さな出来事です。
けれど、人が最後まで覚えているのは、
案外、そういう小さな出来事なのかもしれません。
もし今、
あなたの心の中にも、
「ありがとう」
とか、
「ごめんなさい」
とか、
「もう一度、会いたい」
という言葉が残っているのなら。
まだ、生きているうちに、
伝えてみてください。
電話でもいい。
手紙でもいい。
直接言えなければ、
心の中で言ってもいい。
きっと、その言葉は、
どこかへ消えてしまうものではありません。
ご同輩。
極楽は、
死んでから行く場所だけではないのかもしれません。
誰かを思いながら生きること。
誰かに優しくすること。
昔の自分を許すこと。
そして、
今日という一日を、ちゃんと生きること。
その中に、
小さな極楽があるのではないでしょうか。
本作を最後まで読んでくださった皆さまへ。
ありがとうございました。
どうぞ、まだまだ元気に生きてください。
極楽の話は、
そのあとで十分です。