証人の樹
まえがき
人間は、記憶する生き物です。
誰かとの約束を覚えています。
失ったものを覚えています。
自分が犯した間違いも、ときには忘れたふりをしながら、どこかで覚えています。
けれど、人間の記憶には限界があります。
百年前の出来事を知らない人が増えれば、その出来事は少しずつ遠ざかっていきます。
千年前の出来事になれば、伝説になり、やがて名前すら失われていきます。
では、もし人間が忘れてしまったことを、ずっと覚えている存在がいたとしたら。
それが、本だったら。
記録装置だったら。
あるいは、一本の樹だったら。
本作『証人の樹』は、そんな小さな問いから生まれました。
舞台は、人間が一度、大きく地球を傷つけてしまった未来。
廃墟となった都市の中に、一本の巨大な樹が立っています。
その樹は、人間を裁きません。
怒りもしません。
ただ、見ていました。
人間が何をしてきたのか。
何を失ったのか。
そして、人間の中に、それでも残っているものは何なのか。
樹が最後に選んだ証人は、一人の少女でした。
未来という名を持つ少女、ミライ。
彼女が選ぶのは、得をする道ではありません。
けれど、その小さな選択が、滅びかけた世界にもう一度、芽を出させることになります。
これは環境破壊の物語であると同時に、「人間は、何を残せば人間なのか」という物語でもあります。
どうか、最後の一葉までお付き合いください。
序章 記録された世界
かつて、高いビルが空を突き刺していた時代があった。
人は地の底深くに街を造り、山を削ってトンネルを通した。
光を求めて上へ。
涼しさを求めて下へ。
近道を求めて横へ。
便利さという名の欲望は、地球という一つの身体を、休むことなく掘り続けた。
地面の中には道路が走り、地下鉄が走り、巨大な施設が造られた。
山は切り開かれ、海は埋め立てられ、森は数字に置き換えられた。
一本の樹が何年生きてきたかよりも、その土地からどれだけの利益が得られるかが重要だった。
それから、どれほどの時が流れただろう。
いま、かつて高層ビルが並んでいた場所には、赤く錆びた骨組みだけが、風に鳴る巨大な墓標のように立っている。
地下都市はとうに水没した。
トンネルは崩れた。
駅だった場所には泥が溜まり、かつて人を運んだ線路は獣たちの寝床になった。
人間は、絶滅しなかった。
ただ、限りなくそれに近い数まで減った。
世界は静かになった。
車の音もない。
工場の音もない。
飛行機の音もない。
夜空には、昔の人間が見上げることを忘れていた星々が戻っていた。
そして、廃墟となった都市の中心に、一度も倒れなかった一本の樹があった。
その樹は、すべてを見ていた。
そして、まだ何かを待っていた。
これは、その樹と、一人の少女の物語である。
第一章 瓦礫の未来
少女の名は、ミライといった。
名付けた親は、もういない。
ミライ自身、その名の意味を昔の言葉としてしか知らなかった。
もっとも、それを教えてくれた老人は、昔こう言っていた。
「ミライってのはね、まだ来ていないもの、という意味だよ」
「まだ来ていないもの?」
「そうさ」
老人は笑った。何がおかしいのか、ミライにはわからなかった。
ミライは十六になるまで、〈裂け谷〉と呼ばれる旧市街の廃墟で暮らしてきた。
使える金属。
腐っていない布。
たまに見つかる乾燥食料の缶。
古い工具。
水を入れられる容器。
そうしたものを拾い集め、谷の底にある集落へ持ち帰る。
それを水や燃料と交換する。
それが、ミライの日常だった。
その日、ミライはいつもより遠くまで歩いていた。
噂に聞く〈沈んだ塔〉を見に行くためだった。
昔は天まで届くように見えたという超高層ビル。いまでは半分が地面に沈み、誰も近づかない場所になっている。
地面はところどころ陥没していた。足元の割れ目から覗き込むと、底の見えない縦穴が口を開けている。
祖母は生前、こんなことを言っていた。
「昔の人間はね、地面の下にも街を作ったんだよ」
「どうして?」
「空に届かないなら、地の底に潜ればいいと思ったんだろうねぇ」
その声には、呆れとも、哀しみともつかない響きがあった。
やがてミライの前に、〈沈んだ塔〉が現れた。
噂通りだった。
鋼鉄とガラスでできていたはずの塔は、半分ほどが地面に沈み、傾いたまま立っている。
だが、ミライの目を奪ったのは塔ではなかった。
塔を突き破るようにして、一本の巨大な樹が生えていた。
幹の太さは、大人が十人手をつないでも囲めないほどだった。
枝は塔のあらゆる窓から溢れ出し、まるで塔そのものを抱きしめるように空へ伸びている。
葉は、風もないのにかすかに揺れていた。
ミライは立ち尽くした。
こんな大きな樹を見たことがなかった。いや、こんな大きな生き物を見たことがなかった。
彼女は、吸い寄せられるように、崩れた入り口から塔の中へ足を踏み入れた。
第二章 地下の楽園
塔の内部は、思っていたより静かだった。
根が壁を割り、床を持ち上げている。建物の骨格そのものを、樹が支えているようにも見えた。
ミライは崩れかけた階段を降りた。地下へ。さらに地下へ。
やがて、暗闇の中に小さな光が見えた。
そして、電灯が点いていた。
水音がした。かすかに、肉の焼ける匂いまでした。
ミライは息を止めた。
旧時代の技術で守られた地下区画。そこには、人が暮らしていた。しかも、地上の集落では見たこともないほど整った服を着た人間たちが、そこにはいた。
壁には照明がある。水は流れている。食べ物もある。
ミライは、まるで別の世界に入り込んだような気がした。
「おや」
声がした。
「迷い込んだのかい、地上の子」
振り返ると、恰幅の良い老人が立っていた。顔色は悪い。だが、指には黄ばんだ宝石の指輪がいくつも光っている。
老人はミライを見て笑った。
「名前は?」
「ミライ」
「ほう。ずいぶん皮肉な名前だ」
「どういう意味?」
「いや。何でもない」
老人は手を振った。
「わしはゴウドだ」
ゴウドは温かいスープを差し出した。
「食べなさい」
ミライの腹が鳴った。だが、手を伸ばせなかった。
「地上の人たちには?」
「何?」
「この食べ物。地上にも分けてあげればいい」
ゴウドは少し黙った。そして、笑った。
「それは無理だ」
「どうして?」
「決まっているだろう」
ゴウドはスープの器を見た。
「限られたものを全員で分ければ、全員が少しずつ飢える」
「でも、分けなかったら?」
「われわれが生き残る」
「それでいいの?」
ゴウドは、ミライを見つめた。
「お前は若いな」
「何が?」
「生き残るということを、まだ知らない」
ミライは答えなかった。
ゴウドは続けた。
「わしらは、何十年もここで生きてきた。水も、電気も、食料も、自分たちで管理してきた」
「地上の人たちは?」
「自分たちで生きればいい」
「どうして?」
ゴウドは肩をすくめた。
「全員を助けようとして、全員死ぬよりいいだろう?」
その言葉に、ミライは何も返せなかった。
だが、谷で暮らしてきた自分には、どうしても納得できなかった。
谷では、足りないものを分けた。足りないからこそ、分けた。
それでも足りない日には、年寄りが自分の分を子供に渡した。
誰かが怪我をすれば、みんなで運んだ。
誰かが死ねば、みんなで埋めた。
豊かではなかった。けれど、誰も一人ではなかった。
ミライはスープを返した。
「いらない」
ゴウドの眉が動いた。
「そうか」
ミライが立ち去ろうとすると、背後から声がした。
「あの樹に近づくんじゃない」
ミライは振り返った。ゴウドの顔から笑みが消えていた。
「あれは……人間の敵だ」
第三章 証人
樹の根元には、小さな空洞があった。
ミライが中へ入ると、幹の内側一面に、淡い光の筋が走った。血管のようだった。文字のようでもあった。
そして、声がした。
『ようやく、来たか』
ミライは飛び退いた。声は耳から聞こえたのではない。頭の中に直接響いた。
「あなたは……誰?」
しばらく沈黙があった。やがて、
『わたしに名はない。強いて言うなら、観測者』
「観測者?」
『この星に起きたことを、記録する者』
ミライは巨大な幹を見上げた。
「あなたは、樹なの?」
『そうでもあり、そうでもない』
光が揺れた。
『わたしは、旧時代の終わりに造られた』
「誰が?」
『人間だ』
ミライは驚いた。
『生態系が崩壊していくことを知った研究者たちは、最後にひとつのものを残そうとした』
「何を?」
『記録だ』
光が強くなった。
『人間は、忘れる。歴史を忘れる。絶滅した生き物を忘れる。失われた森を忘れる。そして、自分たちがなぜ滅びかけたのかさえ忘れる。だから、忘れないものを造った』
ミライは、樹の幹に手を触れた。冷たくはなかった。ほんのり温かかった。
『わたしは、地中の水と、崩れた都市の栄養を吸いながら生きてきた。そして、その間に起きたことを記録してきた』
「全部?」
『全部だ』
「そんなこと、できるの?」
『人間にはできない。だから、人間はわたしを造った』
少しだけ、樹の声が柔らかくなった。
次の瞬間、ミライの周囲に、無数の光の粒が浮かんだ。光の粒は映像になった。
高いビル。走り続ける車。夜も眠らない街。
山を削る巨大な機械。海を埋め立てる工事。地下へ伸びていく道路。
そして、消えていく森。消えていく鳥。消えていく虫。消えていく魚。
最後の一匹が息絶える瞬間まで、樹は記録していた。
ミライの目から涙が落ちた。
「どうして……」
『何が?』
「どうして、こんなことになったの?」
観測者は答えなかった。しばらくして、静かに言った。
『便利だったからだ』
ミライは顔を上げた。
『少し便利になる。もう少し便利になる。誰かが便利になれば、別の誰かも便利になりたくなる。そして、気がついたときには、誰も止まれなくなっていた』
ミライは映像を見つめた。
「これは……罪なの?」
『罪と呼びたければ、それでもいい』
「じゃあ、罰なの?」
長い沈黙のあと、観測者は言った。
『違う。罰ではない。順番だ』
「順番?」
『山を削れば、いずれ山が崩れる。地を掘れば、いずれ地が沈む。命を奪えば、いずれ自分たちの世界から命が消える。与えたものは、いつか返ってくる。良いも悪いもない。ただ、順番が来るだけだ』
ミライは、その言葉を心の中で繰り返した。順番。
それは、谷で何度も聞いた言葉だった。食料を配るとき。水を汲むとき。病人を看るとき。
誰かが困れば、「次は自分の番かもしれない」と、老人たちは言った。
世界は違っても、何かが巡っていくという意味だけは同じだった。
第四章 金の匂い
ゴウドは、何年も前から樹の存在を知っていた。そして、観測者の正体にも気づいていた。
だが、それ以上に彼が興味を持ったのは、樹の記憶ではなかった。樹液だった。
地下の人間たちは長い研究の末、樹の根から採取した樹液に、細胞の修復を促す特殊な成分が含まれていることを突き止めていた。傷は早く治る。病気の進行も遅くなる。そして、老化した細胞の一部が若い状態に戻る。完全な不老不死ではない。それでも、十分すぎるほどの価値だった。
ゴウドはそれを独占していた。
「人間は、結局そこへ戻る」
ゴウドは樹を見上げながら呟いた。
「金だ」
彼の背後には、地下区画の男たちがいた。そして、そのさらに後ろには、旧世界の重機があった。地下の予備電源で、長い眠りから起こされた掘削機が、低い音を立てている。
「小娘」
ゴウドはミライを見た。
「お前も、あの樹の力を見ただろう」
「やめて」
「なぜ?」
「樹が死ぬ」
ゴウドは笑った。
「樹はまた生える」
「同じ樹じゃない」
「同じだ」
「違う!」
ミライの声が響いた。
ゴウドは黙った。
ミライは続けた。
「この樹には、全部が入っている」
「全部?」
「消えた動物も。森も。人間がしたことも」
ゴウドは、少しだけ目を細めた。
「だからどうした?」
「忘れちゃいけない」
「忘れれば楽になる」
「でも、同じことをする」
ゴウドは笑った。
「だから記憶が何だという?」
そして、ミライに近づいた。
「わしは、人間を救おうとしている」
ミライは黙った。
「この樹液を使えば、少なくとも一部の人間は生き残れる」
「一部だけ?」
「全部を救う力など、どこにもない」
ゴウドの声は、不思議なほど静かだった。
「わしは悪人なのか?」
ミライは答えられなかった。
ゴウドは続けた。
「地上の連中を助ければ、食料が足りなくなる。水が足りなくなる。電力が足りなくなる。やがて地下も巻き込まれる」
「だから、独り占めするの?」
「だから、生き残る者を選ぶ」
その言葉は冷たかった。だが、ミライには、ほんの少しだけ怖いものが見えた。
ゴウドは欲深いだけではない。この老人もまた、滅びることを恐れている。ただ、恐怖のために、他者を切り捨てることを覚えてしまったのだ。
ゴウドが背を向けた。
「掘れ」
掘削機が動き始めた。
第五章 選択
ミライは観測者のもとへ走った。
「逃げて!」
光る空洞の中で叫んだ。
『わたしは動けない』
「でも、ゴウドたちが根を掘ってる!」
『知っている』
「どうして止めないの?」
『止める力がないからだ』
ミライは言葉を失った。
『わたしは、記録するために造られた。人間を支配するためではない。人間を裁くためでもない。ただ、見てきた』
「それだけ?」
『それだけだ』
「じゃあ、死ぬの?」
『おそらく』
ミライは拳を握った。
「怖くないの?」
『怖い、という感情を持っているかどうか、わたしにはわからない。ただ、惜しいとは思う』
「何が?」
『まだ、記録したいことが残っている』
ミライの胸が痛くなった。
「じゃあ、どうすればいい?」
『お前が決めることだ』
「私が?」
『そう』
観測者の声が、初めて少しだけ人間らしく聞こえた。
『ゴウドに樹液の場所を教える道もある。樹液を分けてもらえば、お前も長く生きられるだろう。この世界では、正直者は損をする』
ミライは黙った。谷での暮らしが頭に浮かんだ。足りない食料。少ない水。壊れた道具。それでも、子供には食べさせる。怪我人には水を渡す。老人が倒れれば、若者が背負う。誰も裕福ではない。誰も安心していない。それでも、誰も一人ではなかった。
ミライは顔を上げた。
「私は……」
少しだけ震えていた。
「あなたを守る」
『なぜ?』
「得にならなくても」
『なぜ?』
ミライは答えた。
「谷では、そうするから」
そして、
「私も、そうしたいから」
と言った。
観測者は長い間、沈黙した。やがて、
『記録した』
と答えた。
ミライは笑った。
「それ、記録することなの?」
『わたしは証人だから』
その瞬間、地下の奥で、掘削機の轟音が響いた。
第六章 いずれ訪れる順番
掘削機の刃が、根に食い込んだ。その瞬間だった。
樹全体が、まばゆい光を放った。地下区画が揺れた。壁に亀裂が走る。天井から土砂が落ちてくる。
「止めろ!」
誰かが叫んだ。だが、ゴウドは止めなかった。
「掘れ!」
「危険です!」
「構わん!」
掘削機がさらに根へ食い込む。すると、地面そのものが沈んだ。
ゴウドが顔を上げた。
「まさか……」
観測者の根は、長い年月をかけて地下の構造物を支えていた。かつて人間が掘った空洞。そこへ入り込んだ根。その根が崩れれば、地下都市そのものが持たない。
『山を削れば、いずれ山が崩れる』
観測者の声が響いた。
『地を掘れば、いずれ地が沈む』
天井が大きく崩れた。人々が逃げ始める。ゴウドも走った。だが、足元が崩れた。
「ゴウド!」
ミライが手を伸ばした。一瞬、ゴウドはミライを見た。そして、手を伸ばした。ミライはその手を掴んだ。だが、間に合わなかった。崩れた床が二人の間を裂いた。ゴウドの身体が瓦礫の下へ落ちていく。
「ミライ!」
最後に聞こえた声は、怒りではなかった。恐怖だった。
そして、地下の楽園は崩れた。長い年月をかけて、人間が地下へ逃げ込み、築き上げた世界。その世界は、それを支えていた一本の樹を奪おうとした瞬間、自らの重さに耐えられなくなった。
ミライは光る根にしがみついた。
「ごめん……守れなかった」
『いいや。お前は、残った』
「でも……」
『得にならないと知りながら、それでも、わたしのそばに残った。それだけで、十分だ』
そのときだった。幹の根元が、小さく光った。一本の根が裂ける。そこから、ひとつの種が押し出された。掌に収まるほどの、小さな種。触れた瞬間だけ、淡く光った。
ミライはそれを拾った。
「これは?」
『わたしの記憶だ』
「記憶?」
『すべてを入れた』
ミライは種を見つめた。
「あなたは……死ぬの?」
『樹は死ぬ』
「じゃあ、あなたも?」
『わからない。ただ、記録は残る』
ミライは種を握りしめた。
「どこへ行けばいい?」
『地上へ』
「そして?」
『植えなさい』
「何を?」
『未来を』
ミライは泣きながら笑った。自分の名前と同じ言葉だった。
『樹は、また芽吹く。今度は、誰かが大事に守ってくれることを願う』
天井が崩れた。ミライは走った。瓦礫の隙間を抜け、階段を駆け上がり、地上へ向かった。背後から、最後の光が、一度だけ強く輝いた。そして、消えた。
終章 次の世で
それから、何年が経っただろう。
〈裂け谷〉には、小さな森ができていた。ミライが植えた種から、一本の若木が芽を出した。その周りに草が生えた。花が咲いた。やがて、鳥が戻った。虫が戻った。名も知らぬ小さな生き物たちが、少しずつ戻ってきた。
谷の人々は、相変わらず貧しかった。食料は十分ではなかった。水も少なかった。正直に生きても、特別な見返りがあるわけではなかった。
それでも、誰も飢え死にしなかった。誰も見捨てられなかった。
ミライは大人になった。そして、年老いていった。
ある夜。若木の下に座り、星空を見上げていた。かつて高いビルが突き刺していた空には、いま、無数の星があった。
風が吹いた。葉が揺れた。
そのとき、ミライの頭の中に、小さな声が聞こえた。
『記録した』
ミライは目を閉じた。それが本当に観測者の声なのか。それとも、自分の記憶が生み出したものなのか。もう、確かめる必要はなかった。
ミライは若木の幹に手を触れた。
「今日も、誰も見捨てなかったよ」
葉が揺れた。
『記録した』
ミライは笑った。
「それだけ?」
『それだけだ』
しばらく二人とも黙っていた。そしてミライは空を見上げた。
人間が世界を支配していた時代には、当たり前だと思っていた空だった。いまは、ただそこにある。星があり、月があり、風があり、樹がある。
ミライは思った。
人間が地球を守るのではない。地球の中で、人間もまた、生きさせてもらっている。ただ、それだけなのかもしれない。
若木は、静かに葉を揺らしていた。まるで、遠い未来に向かって、何かを語りかけるように。
もしも本当に、すべてを見ている者がいるのなら。
もしも、この小さな、損ばかりする生き方を、それでも見ていてくれるのなら。
次の世では、きっと。
もう一度、同じ順番が来る。
そして今度は、人間が誰かを救う番なのかもしれない。
夜空の下で、若木は立っていた。その幹の中には、遠い昔の記憶が眠っている。
人間が栄えた時代。
人間が壊した世界。
失われた命。
最後の一匹。
そして、瓦礫の中で、一本の樹を守ろうとした少女。
すべてを見ていた、証人の樹。
その樹は、もう何も語らない。
ただ、生きている。
(了)
あとがき
『証人の樹』を書き終えて、最初に残ったのは、「人間は本当に変われるのだろうか」という問いでした。
地球を傷つけたのも人間です。
森を切り、山を削り、地下を掘り、便利さを求め続けたのも人間です。
けれど同時に、
誰かに食べ物を分けるのも人間です。
倒れた人を助けるのも人間です。
損をすると分かっていて、それでも誰かを見捨てないのも、人間です。
だから、この物語では、人間そのものを否定する結末にはしたくありませんでした。
ゴウドも、単純な悪人ではありません。
彼は彼なりに、人間を生き残らせようとしていました。
ただ、その「生き残る」という目的が強くなりすぎたとき、人はいつの間にか、
「自分たちだけが生き残ればいい」
という考えに変わってしまいます。
ミライが選んだのは、その反対でした。
得になるからではない。
褒められるからでもない。
正しいからでもない。
ただ、
「誰かを見捨てたくない」
と思ったからです。
私は、そこに人間の小さな希望があるのではないかと思っています。
作中で観測者は、
「罰ではない。順番だ」
と言います。
これは、人間を脅すための言葉ではありません。
自分たちがしたことは、いつか自分たちのところへ戻ってくる。
そして、自分たちが誰かに与えたものも、いつか別の誰かへ渡っていく。
そんな意味での「順番」です。
一本の樹が記録したのは、
人間の罪だけではありません。
人間の優しさも、
人間の愚かさも、
人間の弱さも、
そして、人間が最後まで捨てなかったものも、
すべてでした。
だから、
『証人の樹』は、
滅びの物語ではありません。
最後に残った小さな種の物語です。
そして、
その種を誰かに渡す物語です。
もし読んでくださったあなたの中に、
何か小さな種が残ったのなら――
とても嬉しく思います。

