生まれて、死んで、また会う。
――生と死をめぐる、不思議なSF三部作――
* 『仮退院の惑星』――生きる
* 『軌道病棟』――死を意識する
* 『魂の順番待ち』――死んで、また生まれる
まえがき
人は、いつか死にます。
それは、誰もが知っていることです。
けれど私たちは、普段、そのことをあまり考えずに生きています。
朝起きて、食事をして、仕事をして、誰かと話して、笑って、眠る。
そんな何気ない一日の中に、「生きている」という不思議が、静かに存在しています。
では、生きるとは何なのでしょう。
死ぬとは、何なのでしょう。
そして――
死んだあとに、もし「何か」が続いているとしたら。
そんなことを考えながら書いたのが、この三部作です。
『仮退院の惑星』では、
まだ生きている人間が、自分の人生を見つめ直します。
『軌道病棟』では、
宇宙という巨大な空間の中で、死を意識しながら生きる人々を描きます。
そして『魂の順番待ち』では、
死んだあとに待っているかもしれない、不思議な場所を描きました。
三つの物語に、直接的なつながりはありません。
登場人物も、舞台も、それぞれ違います。
けれど、その底には一つの問いがあります。
――人は、何のために生きるのだろう。
そしてもう一つ。
――死んだら、本当にすべてが終わるのだろう。
もちろん、答えはありません。
科学で証明できる話でもありません。
だからこそ、物語にしてみました。
宇宙の病院。
人生を再査定される人間。
死を待つ人々。
そして、生まれ変わる順番を待つ魂たち。
少し不思議で、
少し滑稽で、
時々切なくて、
最後には、ほんの少しだけ温かい。
そんな物語を三つ並べてみました。
人は、生まれて。
生きて。
いつか死んで。
もしその先に、もう一度誰かと出会えるのなら。
人生というものは、今より少しだけ違って見えるかもしれません。
この三部作が、
読んでくださった方の「今日」という一日を、
ほんの少しだけ大切に思えるきっかけになれば幸いです。
それでは、しばらくの間。
生と死のあいだにある、
不思議な世界へ。
どうぞ、お付き合いください。
一部
仮退院の惑星
―― 宇宙保健機構・地球支部からの報告書 ――
一 検診通知
半田治のポストに、その封筒が届いたのは、九月にしては妙に肌寒い火曜日の朝だった。
封筒は水色で、隅に小さく「宇宙保健機構 地球支部 第七病棟管理課」という判が押してある。差出人の欄には、判読しにくい丸っこい字で「地球担当・受持医」とだけ書かれていた。
「またこれか」
治はため息をついた。この手の封筒が来るのは、これで三度目だった。一度目は三十九年前、二十一歳のとき。二度目は――思い出したくもない、バイクで転倒して救急車に運ばれた、あの二回のうちのどちらか。
だが今回は、様子がちがった。封筒の右上に、赤いスタンプで大きくこう押されていたのだ。
「還暦前・全身再査定 対象者」
そしてその下に、もう一つ、さらに小さく、しかし治の心臓には十分すぎるほど大きく響く一文が添えられていた。
「本人、大厄該当につき、優先審査扱いとなります」
治は封筒を持ったまま、しばらく玄関先に立ち尽くした。近所の柴犬が吠えた。空はやけに青かった。こういうときに限って空が青いのは、この惑星の意地の悪いところだと治は思った。
封を切ると、中には一枚の呼び出し状と、地図と、それから――どういうわけか――飴玉が一つ入っていた。ハッカ味だった。
呼び出し状にはこう書かれていた。
「拝啓 貴殿におかれましては、これまで三十九年にわたり、良好な仮退院状態を継続してこられたこと、当機構としても大変喜ばしく存じます。つきましては、還暦を機に、貴殿の心身の状態、社会的機能、および幸福指数について、総合的な再査定を行いたく存じます。つきましては、来る十月一日、第七病棟管理課窓口までご出頭くださいますよう、お願い申し上げます。なお、審査結果によっては、仮退院の継続、条件変更、あるいは――」
そこから先は、なぜか印字がかすれていて読めなかった。
治は封筒をテーブルに置き、コーヒーを淹れた。手が少し震えていた。震えているくせに、口元はどういうわけか、笑いたがっていた。
三十九年前、彼はまさにこの手の呼び出しを受けて、オレンジ色の車に乗せられたのだった。あのときも、こんなふうに、妙に晴れた日だった。
二 支部事務所
第七病棟管理課は、駅前の、ごくふつうの雑居ビルの三階にあった。一階は美容室、二階は行政書士事務所、三階だけが、なぜか「宇宙保健機構」だった。表札は小さく、見落としそうなほど地味だった。
エレベーターを降りると、待合室には、治と同じような年格好の男女が十人ほど、所在なげに座っていた。壁には「健康長寿県ランキング」というポスターが貼られており、堂々の一位には「長野県」と書かれていた。
「あそこは別格ですからねえ」
隣に座っていた老婦人が、治の視線に気づいて話しかけてきた。
「別格、というと?」
「支部長がとにかく厳しいんですよ。塩分、運動、笑い、生きがい――全部揃わないと合格点をくれない。でもそのぶん、みんな長生きするから、文句も言えなくてねえ」
老婦人はそう言うと、静かに笑った。笑うと、頬にたくさんの皺が寄った。健康そうな皺だった。
「治さん、半田治さん、どうぞ」
呼ばれて、治は立ち上がった。案内された部屋の扉には「受持医:宇野井(うのい)」という名札があった。
中に入ると、白衣を着た、丸眼鏡の小柄な男が、机の向こうでにこにこと待っていた。年齢は五十代半ばくらいだろうか。机の上には、湯気の立つ緑茶と、なぜか将棋盤が置かれていた。
「やあ、半田さん。いや、三十九年ぶりですなあ」
「……お会いしたこと、ありましたっけ」
「二十一のとき、あなたはタバコをやめる代わりに、カミさんをくださいと願ったでしょう。あれ、私が処理したんですよ」
治は目を丸くした。
「あの願いを、処理、って……」
「この惑星は、交換でできています。何かをやめれば、何かが届く。何かを差し出せば、何かが返ってくる。あなたはタバコという習慣を返上し、代わりに伴侶という処方を受けた。悪くない取引でしたな。奥さんの登美子さん、お元気ですか」
「元気です。口うるさいですが」
「結構、結構。口うるさいのは、健康な証拠です」
宇野井医師はそう言って、カルテらしきものを開いた。それは紙のカルテではなく、薄いガラス板のようなもので、触れると光の文字がふわふわと浮かび上がった。
「さて。あなたは今年、還暦を迎える。干支がひと回りして、振り出しに戻る年です。同時に、男の大厄。この二つが重なるのは、六十年に一度の非常に重要なケースでしてね。当機構としても、慎重に審査させていただくことになります」
「審査……というのは、つまり」
宇野井医師は、湯気の立つ茶をひとくち飲んでから、静かに言った。
「簡単に言えば、こういうことです。半田さん、あなたはこの先も、仮退院を続けたいですか? それとも――」
言葉を濁したまま、宇野井医師はにっこりと笑った。笑うと、丸眼鏡の奥の目がほとんど見えなくなった。
治は、思わず息を呑んだ。ポケットの中にあるハッカ飴の包み紙を、指先でぎゅっと握りしめた。
三 オレンジ色の相棒
「まあ、そう硬くならんでください」
宇野井医師は将棋盤を治のほうへ押し出した。
「審査の前に、まず面談です。今日のところは雑談だと思ってください。ところで半田さん、あなたはこれまでに二度、緊急搬送を受けていますね」
「はい……あれは、正直、思い出したくない」
「一度目は二十一歳、バイクで転倒。二度目は五十歳、同じくバイクで転倒。二度とも、オレンジ色の車が、ピーポーピーポーと迎えに来た」
「その節は、お世話になりました」
「あの車の運転手、覚えていますか」
治は記憶をたどった。薄れゆく意識と消毒液の匂いの中で、妙に落ち着いた声で「大丈夫ですよ、ゆっくり行きましょう」と話しかけてくれた男の顔が、かすかに浮かんだ。
「なんとなく、ですが……妙に落ち着いた人だった気がします」
「それ、私の同期です。名前は檜山(ひやま)といいましてね。今はもう、こちら側の人間ですが」
「こちら側、というと」
「本院送還済み、ということです。つまり、亡くなった。もう十年前になりますか」
治は言葉を失った。宇野井医師は、しかし、ちっとも湿っぽい顔をせずに続けた。
「檜山は、生前、いい迎え屋でした。彼のモットーは『急いで来て、ゆっくり運ぶ』。サイレンは急いでいるように聞こえるが、実際に患者を運ぶときは、驚くほど丁寧だった。あなたを二度とも無事にこちらへ届けたのは、彼の腕です」
「今は、その檜山さんは……」
「本院の、案内係です。今度あなたが本院に――いや、これは失言でした。まだ決まったわけではない」
宇野井医師は慌てて茶を飲んだ。治は、なんだかおかしくなって、思わず小さく笑ってしまった。
「先生、それ、フォローになってませんよ」
「これは失礼」
宇野井医師も笑った。二人でしばらく笑っていると、ふと、窓の外を救急車が通り過ぎていった。ピーポーピーポーという音が、部屋の中まで響いてきた。
「ああ、いい音だ」と宇野井医師がつぶやいた。
「いい音、ですか」
「あれは、この惑星でいちばん正直な音です。誰かの人生に、ちゃんと『まだ続きがある』と告げている音ですから」
治は、その音が遠ざかっていくのを、しばらく黙って聞いていた。
四 長野出張所
一週間後、治は「長野出張所への任意訪問」という、奇妙な指示書を受け取った。
「任意」と書いてあるくせに、封筒の隅には小さく「訪問を推奨します(強く)」と添えられていた。この機構の日本語は、いつもこういう具合に、遠慮がちに強制してくる。
長野出張所は、駅から少し歩いた、りんご畑のそばの一軒家だった。表には「健康長寿の里・出張診療所」という木の看板が下がっている。
出迎えたのは、日に焼けた、がっしりとした体格の女性医師だった。名札には「支部長・戸隠(とがくし)」とあった。
「よく来た。半田さんだね」
「はい。あの、私、審査対象者でして」
「知ってる。あんたの資料はもう全部見た」戸隠支部長は、治の頭からつま先までをじろりと眺めた。「歩き方が悪い。膝を庇っとる。座り方も悪い。猫背だ。それから――」
「あの、それから?」
「顔が疲れとる。笑いが浅い」
治は思わず自分の頬を触った。
「笑いに、深い浅いなんて、あるんですか」
「あるとも。浅い笑いは、口先だけで作った愛想笑い。深い笑いは、腹の底から、思わず漏れてしまう笑い。うちの県が長寿なのは、塩分がどうとか、標高がどうとか、いろいろ言われとるが、本当の理由はな、深い笑いの回数が多いからだ」
戸隠支部長は、そう言って、治を診療所の奥の畑へ連れていった。畑では、老人たちが何人も、楽しそうに土をいじっていた。九十歳は超えているだろう、腰の曲がった男性が、大声で冗談を言い、周りがどっと笑っている。
「見てみろ。あの笑いだ。あれが、深い笑いだ」
治は、その光景をしばらく眺めていた。なんだか、羨ましいような、恥ずかしいような気持ちになった。
「支部長、正直に言うと、私、最近あんなふうに笑ったこと、あったかどうか……」
「だろうな。都会の患者は、みんなそう言う」戸隠支部長は腕を組んだ。「都会の連中は、いつもストレスとやらを抱えて、病との境目をふらふら彷徨っとる。それじゃあ、仮退院とは名ばかりの、半分入院しとるようなもんだ」
「半分、入院……」
「そうとも。この惑星の都会人は、生涯、仮退院中というより、生涯、外泊中の重症患者に近い。笑いなさい、半田さん。深く、腹の底から。それが、いちばんの治療だ」
治は、その言葉を、なぜか胸の奥にしまい込んだ。ポケットの中の飴玉のように、少しずつ溶けていくように。
五 厄年特別審査部
長野から戻った翌週、治は再び支部事務所に呼び出された。今度は三階ではなく、地下一階。案内板には「厄年特別審査部(男性厄年課)」とある。
エレベーターの扉が開くと、そこは薄暗い、迷路のような廊下だった。壁には古めかしい貼り紙が並んでいる。
「前厄・本厄・後厄――三年連続、油断は禁物」
「男の大厄、四十二歳にあらず。人生には、もう一つの大厄がある」
「還暦大厄、これぞ真の関門」
治は初めて知った。四十二の厄年は有名だが、還暦にもう一つの、いわば「隠れ大厄」があるということを。
窓口には、疲れた顔の中年男性職員が座っていた。名札には「担当・碓氷(うすい)」とある。
「半田さん、ですね。還暦大厄、初めてですか」
「はい、というか、そんな厄年があること自体、初耳です」
碓氷はため息をついた。
「無理もない。うちの部署、宣伝が下手くそでしてね。四十二の厄年ばかり有名になって、還暦大厄はいつも影が薄い。でも、実はこっちのほうが重要なんですよ。なにしろ、干支がひと回りして、振り出しに戻る年ですから」
「振り出しに戻る、というと」
「つまり、赤ちゃんに戻る、ということです。比喩ですけどね。還暦のお祝いに赤いちゃんちゃんこを着せるのは、その名残です。もう一度、生まれ直すつもりで、人生をリセットする。だからこそ、この年は、身体の検査だけじゃなく、『生き方』そのものの再査定が必要になる」
碓氷は、机の上に分厚いファイルを広げた。
「半田さんの資料を見ましたが、いくつか気になる点があります」
「どんな点でしょう」
「まず、趣味の欄が空欄です」
治は口ごもった。
「それから、『最近笑ったこと』の欄も空欄」
「……」
「それから、これは重要なんですが、『今後の願い』の欄も、空欄です」
碓氷は、ファイルを閉じて、治をまっすぐ見た。
「半田さん。あなたは三十九年前、タバコをやめる代わりに『カミさんをください』と願った。そのおかげで、いい奥さんを得た。十年前、五十歳でバイクを降りた。あのときも、何か願ったんじゃないですか」
治は記憶をたどった。そういえば――十年前、長年乗ったバイクを手放したとき、寂しさの反面で漠然と、何か新しいものが届くのかもしれないと思っただけで、はっきりと願ったわけではなかった。
「いえ、あのときは、特に何も」
「それがまずい」碓氷はぴしゃりと言った。「この惑星の交換システムは、明確な願いがないと発動しません。あなたは十年前、バイクという大きな存在を差し出したのに、何も受け取っていない。つまり、あなたの口座には、未使用の『交換ポイント』が、たまったままになっている」
治は目を丸くした。
「交換ポイントって、そんなものが」
「あります。健康長寿県のポイントカードみたいなものです、ええ」碓氷はにやりと笑った。「還暦大厄の審査に通るには、その未使用ポイントを、きちんと使い切ることが条件です。さもないと――」
「さもないと?」
「未練が残ったまま、審査に臨むことになる。それは、あまり、よろしくない」
碓氷はそう言うと、一枚の申請用紙を差し出した。「今後の願い」という欄が、大きく空いていた。
六 交換の理論
家に帰った治は、その申請用紙をテーブルに置いたまま、しばらく動けずにいた。
妻の登美子(とみこ)が、夕飯の支度をしながら聞いてきた。
「何、その難しい顔」
「いや、実はさ」
治は、これまでの経緯を、かいつまんで話した。仮退院という概念、宇野井医師、長野の戸隠支部長、そして今日の碓氷の話。登美子は、菜箸を持ったまま、しばらく黙って聞いていた。
「――で、あなた、未使用のポイントがあるって言われたわけね」
「そうなんだ。十年前、バイクを降りたとき、何も願わなかったから」
登美子はくすりと笑った。
「あなたらしいわ。タバコをやめたときは、若かったから、素直に『妻をください』なんて言えたのに。バイクを降りたときは、もう五十だったから、恥ずかしくて何も言えなかったんでしょう」
図星だった。治は黙ってビールを飲んだ。
「でもさ」登美子が続けた。「今なら、何か、願いたいことがあるんじゃない?」
治は考えた。健康、長生き、それとも、もっと具体的な何か。
そのとき、隣の部屋から、息子の陽一(よういち)の声が聞こえてきた。三十二歳、いまだ独身。仕事は真面目にやっているが、浮いた話の一つも聞かない。
「陽一のこと、心配なんだよな、実は」
治がぽつりと言うと、登美子はうなずいた。
「私も。あの子、仕事仕事で、出会いなんてどこにもないでしょう」
治の頭の中で、三十九年前の記憶と、いまの願いが、するりと重なった。
――二十一でタバコを辞めたとき、代わりにカミさんを下さいと願った。
――今度は、バイクを降りたから、何かが届くのかもしれない。
そうだ。今度は、自分のためじゃない。
「息子に、嫁を、って願おう」
治がそうつぶやくと、登美子は目を丸くしてから、ふっと笑った。
「あなたって人は。自分の還暦の審査だっていうのに、息子の嫁の心配ですか」
「だって、俺はもう十分もらったからな。登美子も、三十九年分の人生も。今度は、俺のぶんの未使用ポイントを、あいつに回してやりたい」
登美子は何も言わず、ただ、治の背中を軽く叩いた。その手が、少し湿っていた。
七 申請書と、息子
翌日、治は申請用紙の「今後の願い」の欄に、こう書いた。
「息子・陽一に、良き伴侶が与えられますように。私の未使用の交換ポイントを、すべて彼のために使ってください」
書き終えて、しばらく眺めていると、なんだかおかしくなってきた。役所の申請書に、こんなことを書く日が来るとは思わなかった。三十九年前の自分に見せてやりたい。
その晩、治は思い切って、陽一の部屋のドアをノックした。
「入っていいか」
「珍しいな、父さんが」
陽一は、パソコンの画面を閉じて振り返った。仕事の資料が、机の上に山積みになっている。
「実はな」治は、椅子に座りながら切り出した。「父さん、今年還暦でな。ついでに大厄でな。それで、いろいろと審査を受けることになってな」
「審査? 健康診断的な?」
「まあ、そんなようなもんだ。それでな、その審査の書類に、お前のことを書いた」
「俺の?」
「良き伴侶が与えられますように、って」
陽一は、しばらく呆気にとられた顔をしていたが、やがて、ぷっと吹き出した。
「父さん、それ、神社のお札とかに書くやつだろ。役所の書類に書くもんじゃないよ」
「いいんだよ、これも一種のお祈りみたいなもんだ。この惑星のシステムでは、これが結構、効くらしいんだ」
「意味わかんないけど」陽一は笑いながら首を振った。「でも、まあ、ありがたく受け取っとくよ」
「本当に、心配なんだよ、お前のこと」
陽一は少し表情を和らげた。
「父さんこそ、審査って、大丈夫なのか。何か、悪い結果が出たりしないだろうな」
治は、正直、その答えを持っていなかった。だが、こう言った。
「大丈夫だ。深く笑えば、大丈夫らしい」
「なんだよ、それ」
「長野の先生が言ってたんだ。深い笑いは、いちばんの薬だって」
陽一はまた笑った。今度は、さっきよりも深く、腹の底から出るような笑いだった。治は、その笑い声を聞きながら、ふと、戸隠支部長の言葉を思い出した。
(あれが、深い笑いだ)
治は、自分の胸の中に、何か温かいものが灯るのを感じた。
八 大審査
十月一日、その日はやはり、妙に晴れていた。
治はスーツを着て、支部事務所の最上階、これまで一度も足を踏み入れたことのない、七階の「大審査室」へと案内された。
部屋は、思っていたよりもずっと簡素だった。円卓が一つ、椅子が数脚、それだけだった。円卓の向こうには、三人が並んで座っていた。中央に宇野井医師、右に戸隠支部長、左に碓氷。
「揃いましたな」宇野井医師がにこやかに言った。「では、始めましょうか。半田治さん、還暦大厄・全身再査定、開始します」
治は椅子に腰かけた。手のひらに汗がにじんでいた。思わずポケットを探ると、あの日渡されたハッカ飴がコロンと指に触れた。
「まず、身体面の査定は問題なし。血圧やや高めですが、許容範囲内。次に、社会的機能。これも問題なし、家族関係、勤労状況、いずれも良好」
宇野井医師はガラス板を操作しながら、淡々と読み上げていく。治は少しずつ、緊張が緩んでいくのを感じた。
「問題は、次の項目です」戸隠支部長が身を乗り出した。「幸福指数、および、深い笑いの頻度」
「これが、うちの管轄なんだが」戸隠支部長は腕を組んだ。「半田さん、長野に来たとき、あんたは正直に言ったな。最近、深く笑ったことがあったかどうか、わからないと」
「はい……」
「その後、どうだ。何か、変化はあったか」
治は、昨晩の、陽一との会話を思い出した。
「息子と、話をしました。息子が、深く笑ったんです。それを見ていたら、なんだか、こっちまで温かい気持ちになりました」
「それは、あんたが笑ったことになるのか?」戸隠支部長が鋭く聞いた。
「いえ、正確には、私自身が大きな声を出して笑ったわけでは……」
碓氷が、ここで口を挟んだ。
「支部長、それについては、私の担当分野からも申し上げたいことがあります」
「なんだ」
「半田さんは、未使用の交換ポイントを、すべて息子さんのために使うと申請されました。これは、還暦大厄の審査において、非常に稀なケースです」
「稀、というと」
「通常、患者は自分のために願います。健康、長寿、あるいは金銭。しかし半田さんは、自分の分を、子どもに譲った。これは、いわば――」碓氷は少し言葉を選んだ。「笑いの、贈与、とでも言うべき現象です」
宇野井医師が、ここで初めて、ガラス板から顔を上げた。
「笑いの贈与、ですか。それは興味深い」
「深い笑いというのは、必ずしも自分の口から出るものだけを指すのではない、というのが、最近の機構内の研究でも指摘されておりましてね」碓氷は続けた。「誰かを笑わせること、誰かの笑いを見て自分も温かくなること、これもまた、深い笑いの一形態である、と」
戸隠支部長は、しばらく黙って考え込んでいたが、やがて、ふっと表情を緩めた。
「なるほどな。半田さん、あんた、案外、いいことをしたのかもしれんぞ」
九 判定
三人は、しばらく小声で話し合っていた。治は、円卓の前で、ただじっと待っていた。窓の外では、また救急車のサイレンが聞こえた。ピーポーピーポー。誰か、別の患者を迎えに行くのだろう。あの音は、いい音だ、と治は思った。宇野井医師の言葉を、今なら少しわかる気がした。
「まだ続きがある、と告げている音」
やがて、宇野井医師が顔を上げた。
「半田治さん。判定をお伝えします」
治は、思わず背筋を伸ばした。
「まず、身体面、社会面、いずれも良好。次に、幸福指数について。当初、単独での深い笑いの頻度は低いという評価でしたが、審査の過程で、贈与的な笑い――つまり、他者の笑いを介した幸福の共有が、良好に機能していることが確認されました。加えて」
宇野井医師は、ガラス板をくるりと治のほうへ向けた。そこには、光る文字でこう浮かんでいた。
「仮退院、継続を許可する」
治は、思わず大きな息を吐いた。全身の力が抜けるようだった。
「ただし」戸隠支部長が付け加えた。「条件がある」
「条件……ですか」
「一つ、月に一度は長野に来て、深い笑いのリハビリを受けること。二つ、息子の陽一くんの様子を、定期的に報告すること。三つ――」
戸隠支部長は、ここで少し表情を和らげた。
「三つ、あんた自身も、そろそろ何か、自分のための願いを、一つくらい持て」
治は、その言葉に、なぜか胸が熱くなった。
「自分のための願い、ですか」
「三十九年前は妻を願った。十年前は何も願わなかった。今度は息子のために願った。それはそれで、立派なことだ。だがな半田さん、還暦っていうのは、振り出しに戻る年だ。振り出しってのは、ゼロってことだ。ゼロってことは、また一から、好きに願っていいってことだ」
碓氷も、うなずきながら付け加えた。
「未使用ポイントは使い切っていただきましたが、還暦を機に、新しい口座が開設されます。これは、いわば、人生の第二クールの、初回ボーナスのようなものです」
治は、しばらく考えた。何を願おうか。健康か、長寿か、それとも――
「先生方、少し、考える時間をいただけますか」
「もちろん」宇野井医師は、にこやかにうなずいた。「なにしろ、これから、あと六十年ぶんの時間があるわけですから」
「六十年……」
「干支がひと回りするまで、ですよ。気長に、考えてください」
治は、深く頭を下げた。頭を上げたとき、なぜか、目の奥が少し熱かった。それが涙なのか、それとも別の何かなのか、治自身にもよくわからなかった。
十 シャバの空気
審査室を出て、エレベーターで一階まで降りると、外はすっかり秋の陽気になっていた。風が、どこかりんごの匂いを運んでくるような気がしたが、たぶん気のせいだった。
治は、スマートフォンを取り出して、登美子にメッセージを送った。
「審査、通った。仮退院、継続だそうだ」
すぐに返信が来た。
「よかった。今夜は赤飯にしましょうか」
「還暦のお祝いはもう少し先だろう」
「いいじゃない、前祝いよ。それに、あなた、今日から新しい口座が開設されたんでしょう。それもお祝いしなきゃ」
治は、思わず笑った。腹の底から、久しぶりに、深く。
駅までの道を歩きながら、治は、ふと立ち止まって、空を見上げた。
三十九年前、二十一歳の治は、タバコをやめて、代わりに妻をもらった。
十年前、五十歳の治は、バイクを降りて、何も願わなかった。未使用のまま、それはずっと胸のポケットに入っていた。
そして今、六十歳の治は、その未使用のぶんを、息子のために使った。息子に、良き伴侶が与えられますようにと。
還暦とは、干支がひと回りして、また振り出しに戻ることだという。だとしたら、まだ何も始まっていないのと同じだ。おまけに、男の大厄にも当たっている。
だが、それでいい、と治は思った。振り出しに戻るということは、また一から、好きに願っていいということだから。
治は、ポケットに手を入れた。指先に、あの日もらったハッカ味の飴玉が、まだ一つ、包み紙のまま残っていた。治はそれを口に放り込んだ。冷たく、少し甘く、そして、どこか懐かしい味がした。
シャバの空気は、今日も、悪くない。
エピローグ 振り出しにて
半年後、陽一が、職場の後輩だという女性を、家に連れてきた。
名前は、実桜(みお)といった。よく笑う人だった。腹の底から、深く。
治は、その笑い声を聞きながら、ふと、戸隠支部長の言葉を思い出していた。
(あれが、深い笑いだ)
夕食の席で、登美子が、実桜に治との馴れ初めを話していた。二十一歳のときにタバコをやめて、代わりに妻をもらったのだという、あの古い話を。実桜は、目を丸くして、それから、これまでで一番深く笑った。
治は、その様子を眺めながら、静かにビールを飲んだ。
翌月、治は長野に出向いた。戸隠支部長は、畑仕事をする老人たちの中に混じって、治を見つけると、片手を上げた。
「どうだ半田さん、その後」
「息子に、いい人ができました」
「そりゃよかった。願いが、ちゃんと届いたな」
「はい。それで、支部長」治は少し照れながら続けた。「自分の願いも、決まりました」
「ほう、何を願うんだ」
治は、しばらく口ごもったあと、こう言った。
「あの二人の子どもが、深く笑える子に育ちますように」
戸隠支部長は、しばらく治の顔をじっと見つめてから、大きな声で、腹の底から笑った。畑にいた老人たちも、つられて笑った。その笑い声が、りんご畑いっぱいに広がっていった。
治も、笑った。
三十九年前と同じように、心の底から。
――了――
二部
軌道病棟
― Orbital Ward ―
一
腹の奥で、古い瘢痕が疼いた。
僕、蓮司(れんじ)は、外惑星航路を往復する輸送船《ノトス》の操舵士だった。もう十五年、木星圏と地球圏を結ぶ航路を、荷を積んでは運び、運んでは戻ってくる。その繰り返しの中で、身体のあちこちに、仕事の勲章とも呼べる古傷を溜め込んできた。
いちばん厄介なのが、腹壁の瘢痕ヘルニアだった。八年前、木星圏の中継ステーションで与圧服の破損事故に遭い、緊急の腹部手術を受けた。その時の縫合痕が、経年劣化した与圧服の生地のように、少しずつ緩んできていたのだ。
医師には「そろそろ根治手術をしないと、腸が脱出する危険がある」と、二年前から言われ続けていた。だが僕は、航路のスケジュールを理由に、ずっと先延ばしにしてきた。全身麻酔をかけて、術後一ヶ月は重力下での安静が必要だと聞けば、誰だって二の足を踏む。無重力に慣れた身体を、わざわざ重力のある軌道ステーションの病棟に預けて、一ヶ月も寝て過ごすなど、僕には想像もつかなかった。
けれど、この春――正確には、地球暦でいう三月――瘢痕の疼きが、明らかに変わった。鈍い違和感ではなく、鋭く差し込むような痛みが、荷役作業のたびに走るようになった。
そろそろか。
いよいよか。
やらねばならないのか。
自問自答は、いつも同じ結論に辿り着いた。僕は航路管理局に長期休暇を申請し、木星圏行きの次の便を降りた。
端末で手配を済ませながら、地球にいる彼女からの通信履歴を眺めた。『次はいつ戻るの?』という短い問いかけに、僕はまた「仕事が落ち着いたら」とだけ返し、返信を途絶えさせていた。
行き先は、地球と月の中間軌道に浮かぶ、《リング・メディカル・ステーション》。輪状に設計された、この宙域でもっとも設備の整った医療施設だった。
二
手術は、思っていたよりもあっさりと終わった。
執刀医は、瘢痕組織を丁寧に剥離し、人工メッシュで腹壁を補強したと説明してくれた。「これで、あと二十年は保ちます」と、彼女は事務的な口調で言った。僕は麻酔から覚めたばかりの、まだ靄のかかった頭で、その数字を反芻した。二十年。僕の残りの持ち時間の、ちょうど半分くらいだろうか。
問題は、僕自身の身体ではなかった。
術後の経過は順調で、痛みも予想より軽かった。厄介だったのは、入院した外科病棟――ステーションの「B環状区画」と呼ばれるフロアの、空気そのものだった。
そこは重症患者の多い病棟だった。デブリ衝突による減圧外傷、放射線障害、長期航行による循環器系の劣化。地球圏の病院とは違い、退院していく患者よりも、より重い症状の患者へと「入れ替わっていく」ことの方が、圧倒的に多いフロアだった。
三
リハビリのため、僕は毎日、看護ステーションを取り囲むように配置された環状の廊下を、決められた周数だけ歩くことを課せられた。
人工重力は地球の三分の二程度に調整されていたが、久々に重力を受け止める術後の腹筋には、それでも十分すぎる負荷だった。引きつる腹を庇いながら、足を引きずり、テクテクと。
一周、また一周と。
廊下の反対側、看護ステーションを挟んで向かい合う病室のひとつは、全面が強化ガラス張りになっていた。集中管理室――そこでは、常に看護師とAI医療アシスタントの目が、患者から離れることはない。
僕は、そこを通り過ぎるたびに、なんとなく申し訳ないような気持ちになった。まるで、他人の生死の現場を覗き見しているような、そんなうしろめたさだった。それでも僕は、ガラス越しに横たわる患者を見るたび、心の中でそっと、無事を祈るようになった。
ある日の午後、その部屋は賑わっていた。ガラスの向こうに、患者の身内らしき人々が何人も集まり、涙ぐみながら何かを語りかけている姿が見えた。僕は歩調を緩め、通り過ぎながら思った。――良くなってきているのだろうか。それとも。
翌朝、同じ廊下を歩くと、その部屋はガランとしていた。ベッドのシーツは新しく張り替えられ、モニターの類はすべて片付けられていた。
間に合わなかったのか。
そう思った瞬間、僕の胸は、鉛を飲み込んだように重くなった。誰なのかも、名前も知らない。それでも、その「空白」は、僕の中に長く尾を引いた。
廊下の途中、給水ステーションの脇に、小さな観測窓があった。そこに、いつも同じ女性が座っていた。歳の頃は、僕と同じくらいだろうか。車椅子に浅く腰掛け、青く輝く地球をじっと見つめている。すれ違うとき、彼女は決まって、小さく会釈だけを返してくれた。名前も、病状も知らない。それでも、彼女がそこにいることが、いつからか、僕の毎日の歩行の、ささやかな目印になっていた。
四
僕自身が入っていた四人部屋も、決して軽症者ばかりの部屋ではなかった。
隣のベッドにいた老人は、外惑星鉱山での労働災害で肺の半分を失っていた。彼は僕によく話しかけてきて、若い頃に木星の衛星で見た、氷の下に広がるオーロラのような発光現象の話を、何度も繰り返した。僕はその話が、実は三通りくらいのバリエーションがあることに気づいていたが、黙って聞いていた。
転棟の前夜、彼はいつもより低い声で、僕にこう言った。
「なあ、蓮司さん。また会うかもしれんな」
どういう意味かと聞き返すより先に、彼は目を閉じ、そのまま眠ってしまった。僕はその一言を、ただの寝言だろうと聞き流した。
その老人が、翌朝、忽然と「移動」になった。看護師は「別のフロアへの転棟です」とだけ僕に告げたが、その言い方の抑揚に、僕は何か決定的なものを感じ取った。それきり、彼のベッドに、彼が戻ってくることはなかった。
新しいベッドには、また別の患者が運び込まれてきた。その人もまた、いずれ「入れ替わる」のだろうか。
人生の最終ラインというものを、こんな形で、次々と目の当たりにするとは思わなかった。
もしかしたら、僕も。
そんな考えが、ふと胸をよぎる瞬間があった。手術は成功したと聞かされている。予後も良好だと。それでも、あの環状の廊下を歩くたびに、僕の心のどこかは、たしかに一瞬、暗い軌道へと落ちていった。
五
窓の外――正確には、ステーションの外周に沿って設置された観測モニターの向こうには、地球が青く浮かんでいた。その青い球体の上を、夜の領域を示す影がゆっくりと、確実に覆っていく。
地球では、僕の古い仲間たちが、きっと今日も気楽に笑っているのだろう。航路の合間の休暇で酒を飲み、次の目的地の話で盛り上がっているのだろう。彼らを恨む気持ちなど、微塵もなかった。ただ、この病棟という、生と死のあまりにも近い場所と、あの気楽な日常との「あまりにも大きな隔たり」を、僕はどうしても、見て見ぬふりができなかった。
命と戦っている患者たち。
それを支え続ける、医師と看護師たち。
そして、その狭間に、たまたま迷い込んだだけの僕。
夜、消灯後の病室で、僕はひとり、その大きな隔たりについて考え続けた。誰に話すでもなく、ただ、たそがれるような時間だった。
天井の非常灯だけが、青白く点滅していた。隣のベッドから聞こえる誰かの寝息と、廊下の向こうから響く医療モニターの単調な電子音。その二つの音の間に、僕は自分の呼吸を重ねてみる。吸って、吐いて。ただそれだけのことが、この病棟では、ひどく貴重なものに思えた。
地球にいた頃は、こんなことを考えたこともなかった。次の航路、次の荷、次の休暇。時間はいくらでもあるつもりで、僕はずっと、大事な決断を後回しにし続けてきた。手術のことも、結婚のことも、そして、自分自身の生き方そのものも。
けれど、この環状の廊下を何十周も歩き、隣のベッドの持ち主が音もなく入れ替わっていくのを見るたびに、僕の中で、何かがゆっくりと組み変わっていくのを感じた。
六
退院を三日後に控えたある夜、僕は当直の看護師――名をユーリといった――に、こんな話をした。
「この病棟に来てから、残りの持ち時間ばかりが気になるようになりました」
ユーリは、モニターを確認する手を止めずに、静かに答えた。
「多くの方が、そうおっしゃいます。でも、それは悪いことではないと思いますよ。持ち時間を意識するからこそ、その時間の使い方を、ちゃんと選べるようになるんです」
僕は、彼女の言葉を、何度も頭の中で反芻した。
ふと思い出して、僕は尋ねた。「観測窓のところに、いつも座っている女性がいますよね。あの方は、もう長いんですか」
ユーリは、少し驚いたような顔をした。「観測窓に……ですか? あそこにいらした患者さんは、三日前に退院なさいましたよ」
昨日も、確かに車椅子の彼女と目が合い、会釈を交わしたはずだった。首筋を冷たい風が吹き抜けたような気がしたが、僕はそれを口にするのをやめた。ユーリの表情には、冗談を言っている様子は、どこにもなかった。
航路管理局への長期休暇申請は、実はもう「セミリタイア」への切り替え申請に書き換えていた。二年先延ばしにしていた手術を決断したのと同じように、今度は、これまで先延ばしにしてきた「生き方そのもの」の見直しを、決断する番だった。
婚約者に――地球で待っている彼女に――僕はこの入院中、何度もメッセージを送った。最初は近況報告のつもりだった。だが、書いているうちに、いつも同じ結論に辿り着いた。
明日、目が覚める保証など、誰にもない。
それは、この病棟の廊下を何十周も歩く中で、否応なく叩き込まれた事実だった。
僕はメッセージの最後に、短く書き足した。
――今度こそ、先延ばしにしない。
送信ボタンを押す指先が、少しだけ震えていた。
七
退院の朝、僕はもう一度だけ、あの環状の廊下を歩いた。
ガラス張りの集中管理室には、新しい患者が横たわっていた。僕は、いつものように歩調を緩め、心の中で、その人の無事を祈った。今度は、うしろめたさではなく、ただ純粋な祈りとして。
観測窓の脇を通ったとき、車椅子はもうそこになかった。ただ、ガラスに反射した光が、一瞬だけ、誰かが座っているような影をつくった。瞬きをすると、それはもう消えていた。
――また会うかもしれんな。
老人の声が、ふいに耳の奥で蘇った。あのときは聞き流しただけの言葉の意味を、僕は今、少しだけわかる気がした。この病棟を巡る廊下も、僕らの人生も、結局はひとつの軌道なのかもしれない。同じ場所を、何度も、違う形で通り過ぎていく。
ステーションの発着ロビーで、僕は地球行きのシャトルを待ちながら、窓の外に浮かぶ青い星を見つめた。
もう先延ばしはしない。
婚約者と会ったら、まず伝えよう。今日という日を、大事にすると。
シャトルのハッチが開いた。僕は、まだ少しだけ引きつるように痛む腹の傷を押さえながら、それでも確かな足取りで、乗り込んでいった。
――了――
三部
魂の順番待ち
――前世は犬、来世は猫、なのに今世はサラリーマン――
一 平凡な火曜日
保坂了、三十四歳。
独身。
経理部所属。
役職なし。
年収は、それなり。
趣味は特にない。
会社では「真面目だけど目立たない」と言われ、自宅では「飯をくれる人」として猫に認識されている。
つまり、人生において特筆すべきことは何もなかった。
強いて言えば、拾った猫が異常に態度がでかいことくらいだった。
「ミケ。俺の枕、返してくれないか」
ベッドの中央。
了の枕の上。
三年分ほど前の雨の日に段ボール箱の中で震えていたはずの猫が、堂々と香箱を組んでいた。
名前はミケ。
三毛猫だからミケ。
あまりにも安直な名前だったが、本人は特に不満を申し立てることもなく、三年間その名前で暮らしている。
了が手を伸ばす。
ミケは片目だけを開けた。
「……」
「いや、俺の枕なんだけど」
「……」
ミケは大きく欠伸をした。
そして、もう一度目を閉じた。
「お前、絶対わざとやってるだろ」
猫は答えない。
もちろん答えない。
しかし、その顔は明らかに、
「だったら何?」
と言っているように見えた。
了は諦め、ベッドの端に身体を押し込んだ。
翌朝。
いつものように会社へ行き、いつものように仕事をして、いつものように定時を少し過ぎて帰宅した。
特別なことは何もなかった。
それが、保坂了の日常だった。
だから、その夜。
スマートフォンに届いた一通のメールが、人生を根本から変えることになるとは、夢にも思わなかった。
午後十一番四十七分。
画面に表示された差出人は、
『輪廻転生管理局・生類課 noreply@rinne-tensei.go.jp』
だった。
件名は、
【重要】貴殿の輪廻転生順序に関する行政指導のお知らせ
だった。
「……なんだ、これ」
迷惑メールだと思った。
だが、本文を開いた瞬間、了の眉間に皺が寄った。
そこには、役所の通知書としか思えない文面が並んでいた。
――保坂了様。
――魂ID:7749-DOG-Ω。
――貴殿の転生履歴について、重大な順番違反が確認されました。
「順番違反?」
読み進める。
――本来、貴殿は今生において「犬生」を割り当てられておりました。
――しかし、前回の転生処理における入力ミス、および担当部署間の引き継ぎ不備により、人間枠へ誤配属されたことが判明いたしました。
――さらに、その誤配属を修正する際、別の魂との入れ替え処理が発生し、現在、三種族間の転生待機列に重大な遅延が生じております。
了は画面を見つめた。
「……何だよ、それ」
さらに下には、
――つきましては、次回土曜日、輪廻転生管理局・生類課(哺乳類特別窓口)までご来訪ください。
――今後の魂配分についてご相談申し上げます。
添付ファイル。
地図。
場所は、自宅から徒歩十五分ほどのところだった。
そこには、三年前に閉店した喫茶店の名前が記されていた。
「喫茶ボンヌール」
了はスマートフォンを伏せた。
「詐欺だな」
そう呟いた。
その直後。
ベッドの上のミケが、了を見た。
なぜか、妙に真剣な目だった。
「……お前、何か知ってるのか?」
ミケは答えなかった。
ただ、尻尾を一度だけ振った。
二 潰れた喫茶店
土曜日。
了は喫茶ボンヌールの跡地に来ていた。
九割九分、詐欺だと思っていた。
残りの一分は、
「もし本物だったら面白い」
という、経理部員らしからぬ好奇心だった。
店は三年前に閉店したままだった。
古びた看板。
色褪せた壁。
埃をかぶった窓。
ところが、入口だけが妙に新しい。
木製のプレートが掛かっている。
そこには、
「輪廻転生管理局
生類課
哺乳類特別窓口
地方支局・仮設」
と書かれていた。
「……本気かよ」
了が扉を開ける。
チリン。
昔ながらの喫茶店のベルが鳴った。
しかし、中にあったのは喫茶店ではなかった。
パイプ椅子。
番号札発券機。
受付カウンター。
壁には、
「本日の窓口対応時間は魂力の都合により前後する場合があります」
という貼り紙。
さらに、
「転生先の種族変更には本人確認が必要です」
「前世記憶の開示には別途申請が必要です」
「生まれ変わり後の苦情は現世側では受け付けません」
などという注意書きまである。
「……役所じゃねえか」
カウンターの奥から女性職員が顔を上げた。
頭には、妙に大きな猫耳がついている。
名札には、
「三毛田」
とあった。
「保坂了様ですね」
「はい」
「魂ID、7749-DOG-Ω」
「……はい」
「お待ちしておりました」
三毛田は書類を確認した。
「どうぞ、お掛けください」
「これ、本当に輪廻転生管理局なんですか?」
「はい」
「俺、死んでませんけど」
「存じております」
「じゃあ、なんで呼ばれたんですか」
三毛田は少し困ったような顔をした。
「順番が狂っているからです」
「順番?」
「輪廻というものは、皆さんが想像されているほど神秘的ではありません」
三毛田は机の上の分厚いファイルを開いた。
「魂には、それぞれ転生予定表があります」
「予定表?」
「はい。人間、犬、猫など、次の生をどこで過ごすか、大まかな順番が決められています」
「そんなものがあるんですか」
「もちろんです」
三毛田は当然のように答えた。
「ただし、全宇宙の魂を完全に管理するには職員が足りませんので、かなり大雑把です」
「大雑把……」
「以前は牛、馬、鳥、魚、昆虫まで管理していました」
「今は?」
「予算削減です」
「……」
「現在は、人間、犬、猫を中心とした簡易運用になっています」
了は頭を抱えた。
「輪廻転生って、行政改革されるものなんですか」
「天界も財政事情は厳しいんですよ」
三毛田は真顔だった。
「問題は、あなたです」
ファイルを一枚めくる。
「保坂様は、前回の転生処理で、本来とは違う種族に割り当てられました」
「犬?」
「はい」
「俺が?」
「はい」
「でも俺、人間ですよ」
「だから困っているんです」
三毛田はため息をついた。
「さらに、その修正処理の際に別の魂を巻き込んでしまいました」
「別の魂?」
「宮田さんです」
了の手が止まった。
「……宮田?」
三毛田は頷いた。
「宮田浩一さん。あなたの会社の元同僚ですね」
三年前に亡くなった。
入社して三年目。
了が唯一、気を許していた友人だった。
「彼が……どうしたんですか」
「本来、彼は人間として再配属される予定でした」
「再配属?」
「ところが、あなたの処理ミスの影響で、犬の列に入りました」
「……犬?」
「その後、さらに猫の列へ移動しています」
了は黙った。
三毛田は静かに続けた。
「そして三年前、あなたが拾った猫――ミケさん」
「……」
「彼女の魂IDを照合すると、宮田さんの魂と一致します」
了は椅子から立ち上がりかけた。
「待ってください」
「はい」
「ミケが?」
「はい」
「宮田?」
「はい」
「……猫?」
「現在は猫です」
了は何も言えなくなった。
三 生類課の裏事情
三毛田は湯飲みを了の前に置いた。
「どうぞ」
了は一口飲んだ。
猫まんまのような匂いがした。
「……これ、何のお茶ですか」
「生類課特製です」
「答えになってません」
奥のデスクでは、若い男性職員がパソコンと格闘していた。
頭には犬耳。
「また落ちた……」
「彼は犬飼君です」
「犬飼……」
「新人です」
犬飼が振り返った。
「すみません、猫の魂数がまた二重計上されています」
「また?」
「はい。昨日だけで三百二十一件」
「原因は?」
「マクロです」
「直せます?」
「たぶん」
「たぶん?」
「僕、犬なので。細かい計算はちょっと苦手なんです」
「初耳ですよ、その特性」
三毛田は説明した。
輪廻転生管理局は、かつて巨大な組織だった。
しかし、長い年月の間に統廃合が進み、現在ではほとんどの部署が廃止されている。
馬部門は担当者がいなくなって消滅。
鳥類部門は生類課へ統合。
金魚係は、なぜか「夏季休業中」のまま二百年が経過。
そして魂の管理システムは、最新のクラウドではなく、古いサーバーとExcelで動いていた。
「なぜExcelなんですか」
「前任者が詳しかったからです」
「それだけ?」
「それだけです」
了は深く息を吐いた。
「じゃあ、俺の人生が変になった原因も……」
「はい」
「Excel?」
「正確には、Excelを使った人間です」
「余計ひどい」
三毛田は申し訳なさそうに頭を下げた。
「輪廻転生管理局としても、今回の件は重大なミスだったと認識しています」
「じゃあ、どうするんです?」
「二つ方法があります」
「一つ目は?」
「現状維持」
「嫌です」
「まだ説明してません」
「嫌です」
三毛田は苦笑した。
「現状維持の場合、魂の待機列がさらに長くなります」
「どれくらい?」
「現在、人間側で約七十二万件。犬側で約四十一万件。猫側で約五十六万件」
「……そんなに?」
「しかも、毎日増えています」
「なんで?」
「人が死ぬからです」
「当たり前だろ」
「ですから処理が追いつかないんです」
三毛田はもう一枚の書類を出した。
「最近、犬や猫に妙な現象が増えているのも、その影響です」
「妙な現象?」
「人間のような目をする」
「……」
「人間の会話を理解する」
「……」
「ため息をつく」
「……」
「飼い主の仕事の愚痴を聞いて、明らかに呆れた顔をする」
了は黙った。
「ミケのことじゃないですか」
「はい」
「完全にミケです」
「世界中で増えています」
三毛田は資料を見せた。
そこには、
『最近、うちの犬が人間を憐れむような目で見る』
『猫が夫より賢そうな顔をしている』
『うちの犬が会社の上司みたいなため息をつく』
などの相談事例が並んでいた。
「魂の渋滞が、記憶の逆流を起こしているんです」
「逆流?」
「本来なら次の生に持ち越さないはずの記憶が、順番待ちの圧力で少しずつ表面化している」
「だから犬や猫が人間みたいになる?」
「はい」
「それ、かなり危ないんじゃ……」
「その通りです」
三毛田は静かに言った。
「人間も同じです」
その言葉に、了は顔を上げた。
「人間?」
「最近、人間側でも、犬や猫の記憶が表面化しています」
「……例えば?」
「散歩に行きたくなる」
「それは普通じゃないですか」
「飼い主に褒められると異常に嬉しい」
「……」
「誰かが帰宅すると、理由もなく嬉しくなる」
「……」
「食事を出されると、とりあえず尻尾を振りたくなる」
「人間には尻尾ないでしょう」
「だから困っているんです」
四 ミケの正体
帰宅すると、ミケが玄関に座っていた。
「ただいま」
ミケは了を見る。
それから、ゆっくり立ち上がった。
「お前……宮田なのか?」
ミケは答えない。
当然だ。
猫なのだから。
了は靴を脱いだ。
「宮田だったら、何か合図してくれ」
ミケは黙って歩き出した。
そして、了の部屋の前で立ち止まった。
振り返る。
「……」
「何だよ」
ミケは机の上に置かれた古い名刺入れを見た。
了は息を呑んだ。
名刺入れを開く。
そこには、三年前に亡くなった宮田の名刺が入っていた。
小さな猫のイラスト。
宮田が生前、自分で描いたものだった。
「俺、死んだら猫になりたいんだよな」
以前、宮田がそう言ったことを思い出した。
「人間関係、疲れるじゃん」
そのとき、了は笑った。
「猫なんか、毎日寝てるだけだろ」
宮田は言った。
「それがいいんだよ」
了は名刺を握りしめた。
「……お前、本当に宮田なのか?」
ミケは了を見つめた。
そして、前足で名刺を一度だけ押した。
了は笑った。
「分かりにくいんだよ、お前」
ミケは欠伸をした。
「その態度……」
了は笑いながら、目を細めた。
「やっぱりお前だな」
ミケは何も言わない。
ただ、了の膝の上に乗った。
その夜。
了は初めて、ミケを抱きしめた。
三年前、段ボールの中で震えていた小さな猫。
あの日、自分が拾ったと思っていた。
しかし、もしかすると。
拾ったのではなく、
再会したのかもしれない。
五 世界の渋滞
翌週。
ニュースを見ていると、奇妙な特集が始まった。
「全国の動物病院で、犬や猫の行動に関する不思議な相談が増えています」
画面には一匹の犬。
飼い主が、
「最近、この子が私の仕事の話を聞くと、ものすごく嫌そうな顔をするんです」
と話している。
別の映像。
猫がテレビの国会中継を見ている。
政治家が何かを話すたびに、猫が大きなため息をつく。
「……」
了はテレビを消した。
会社へ行く。
部長が待っていた。
「保坂君」
「はい」
「僕はね、最近、来世について考えるんだよ」
「……」
「人間は大変だ」
「そうですね」
「来世は犬がいい」
部長は遠くを見るような目をした。
「犬になって、毎日散歩して、飯を食べて、寝る」
了は部長を見た。
「……部長」
「何だね」
「最近、犬っぽくなってません?」
「失礼な」
その日の昼休み。
隣の課の女性社員が言った。
「うちの夫、最近、寝言で『お座り』って言うと本当に正座するんです」
「……」
営業部の若手は、商談中に相手から褒められると、なぜか身体を左右に揺らすようになった。
「犬っぽい」と噂された。
そして駅前では、もっと奇妙な事件が起きた。
老婦人が連れていた柴犬が、横断歩道で立ち止まった。
隣には、急いでいるサラリーマン。
柴犬はサラリーマンを見た。
そして、前足を一歩引いた。
まるで、
「お先にどうぞ」
と言うように。
動画はSNSで拡散された。
『犬、紳士すぎる』
というタイトルがついた。
だが、了には分かっていた。
あれは紳士なのではない。
人間だった頃の記憶が、魂の渋滞によって浮かび上がったのだ。
帰宅すると、ミケがテレビの前に座っていた。
「見たか?」
ミケは振り返る。
「犬が道を譲った」
「……」
「お前も、ああなるのか?」
ミケは目を細めた。
「宮田」
呼びかけても、返事はない。
「お前、俺より先に人間に戻るんだよな」
ミケの尻尾が、ゆっくり動いた。
「俺は、そのあと犬か」
ミケは何も言わない。
「……変な話だよな」
了は笑った。
人間だった友人が猫になり。
自分は、次に犬になる。
そして、その次には――。
「もしかしたら、お前が俺を飼うのか」
ミケが了を見る。
その顔は、
「当然でしょ」
と言っているように見えた。
六 決断
数日後。
了は再び、生類課を訪れた。
三毛田は書類の山に埋もれていた。
「また来ました」
「保坂さん」
三毛田は顔を上げた。
「決めました」
「はい」
「俺、次の生は犬になります」
三毛田はしばらく黙っていた。
「よろしいのですか?」
「はい」
「犬生は、人間ほど複雑ではありません」
「知ってます」
「食べる」
「はい」
「寝る」
「はい」
「散歩する」
「はい」
「飼い主が帰ってきたら喜ぶ」
「それ、今の俺より幸せそうですね」
三毛田は笑った。
「犬になることを、嫌ではないのですか?」
了は少し考えた。
「最初は嫌でした」
「はい」
「人間に生まれたのに、人生が平凡で。仕事も普通で。特別な才能もなくて」
「……」
「でも、最近思うんです」
了は窓の外を見た。
「平凡だったから、ミケを拾えたのかもしれない」
三毛田は黙って聞いている。
「もし俺が忙しくて、もっと違う人生を送っていたら、あの日、あの段ボールを見つけなかった」
「はい」
「宮田とも会わなかった」
「はい」
「そう考えると、間違った人生だったのかどうか、分からなくなりました」
三毛田は書類を一枚取り出した。
「それでも、順番を戻しますか?」
「はい」
了は頷いた。
「俺のせいで、誰かがずっと順番待ちしてるんでしょう?」
「……はい」
「だったら、俺が一回、犬をやります」
三毛田は静かに微笑んだ。
「ありがとうございます」
「何で職員からお礼を言われるんですか」
「この仕事をしていると、皆さん自分の順番ばかり気にされるんです」
「……」
「自分がどこへ行くか。自分が何になるか。自分が得をするか」
三毛田は書類に判を押した。
「でも、誰かの順番を空けるために、自分から列に戻る人は、あまりいません」
了は苦笑した。
「経理ですから」
「関係あります?」
「順番が合ってないと、気持ち悪いんですよ」
三毛田は笑った。
「では、正式に処理します」
書類に、
「現世:人間」
「次回:犬」
「次々回:猫」
と記入される。
了はそれを見た。
「……猫?」
「はい」
「犬の次が猫?」
「順番は魂ごとに違います」
「なるほど」
「そして、その次に人間へ戻る予定です」
了は笑った。
「じゃあ、ミケは?」
三毛田は別の書類を確認した。
「宮田さんは、次回の転生で人間側へ戻る予定です」
「人間に?」
「はい」
「どんな人間に?」
「それは決められません」
「俺の近くに来ますかね」
「それも分かりません」
「……そうですか」
了は少しだけ残念そうにした。
すると三毛田が言った。
「ただし、魂には不思議な傾向があります」
「何ですか?」
「一度深く関わった魂同士は、別の生になっても、また近くに集まりやすい」
了は笑った。
「じゃあ、また会えるかもしれない」
「ええ」
「そのとき、俺が犬で、宮田が人間だったら……」
「立場が逆になりますね」
「宮田が俺を飼う」
三毛田は笑った。
「そうなるかもしれません」
了は立ち上がった。
「それなら、悪くないですね」
七 犬の時間
それから三十数年が過ぎた。
ある家の縁側に、一匹の老いた柴犬が寝そべっていた。
名前は、リョウ。
若い頃から人間が好きだった。
特に、家の主人である青年にはよく懐いた。
青年の名前は、宮田。
不思議なことに、青年は経理の仕事をしていた。
数字を合わせるのが好きで、仕事から帰ってくると、縁側の犬に向かってよく愚痴をこぼした。
「今日も上司に怒られたよ」
リョウは黙って聞く。
「俺、向いてないのかな」
リョウは尻尾を振る。
「お前はいいよな」
青年が笑う。
「寝てればいいんだから」
リョウは目を細めた。
――そうでもない。
犬にも犬の悩みがある。
散歩に行きたいのに雨が降る。
ご飯が少ない。
知らない犬が庭に入ってくる。
そして何より、
飼い主が元気のない顔をしていると、どうしていいか分からない。
人間だった頃には知らなかった悩みだった。
ある日。
青年は祖父の遺品を整理していた。
古い引き出しの奥から、一枚のメモが出てきた。
それはどこか見覚えのある、角ばった、真面目な経理マン特有の几帳面な字で書かれていた。
そこには、
「犬と猫とだけは
他の動物たちとは違い
人間に寄り添って
生きて来た。
それはもしや
次は人間に
生まれ変わるかのように。
いや。
かつて人間だったかのように」
とあった。
青年は首を傾げた。
「何だ、これ」
縁側を見る。
老犬がこちらを見ている。
青年は笑った。
「まさかな」
リョウは立ち上がった。
ゆっくり青年のところまで歩く。
そして、その足元に座った。
青年が頭を撫でる。
「お前、昔から人間みたいな顔するよな」
リョウは目を閉じた。
――昔から?
その言葉に、胸の奥で何かが動いた。
雨の日。
段ボール。
猫。
古い名刺。
経理部。
喫茶店。
猫耳の職員。
そして、
「俺、死んだら猫になりたいんだよな」
という声。
すべてが一瞬だけ、遠い記憶のように浮かんだ。
リョウは目を開けた。
青年を見上げる。
尻尾を一度。
二度。
ゆっくり振った。
青年は笑った。
「お前、本当に人間みたいだな」
リョウは何も言わない。
言えるはずがない。
今は犬なのだから。
ただ。
不思議と悪くなかった。
犬には犬の幸せがある。
誰かが帰ってきたら嬉しい。
名前を呼ばれたら嬉しい。
天気が良ければ嬉しい。
ご飯が美味しければ嬉しい。
そして。
大切な人がそばにいれば、それだけでいい。
エピローグ 順番待ち
その頃。
輪廻転生管理局・生類課では、今日も朝から職員たちが忙しく働いていた。
「犬、三百二十六件!」
「猫、四百十二件!」
「人間、一万八千九百七十一件!」
「多すぎます!」
「死ぬ人間が多いんだから仕方ないでしょう!」
「じゃあ、誰か手伝ってください!」
「私は猫担当です!」
「僕は犬です!」
「意味分かりません!」
奥の机では、犬飼がパソコンを叩いていた。
「……あ」
三毛田が振り返る。
「どうしました?」
「魂配分表、またエラーです」
「今度は何ですか?」
犬飼が画面を見る。
「一件だけ、種族が空欄になっています」
「空欄?」
「はい」
三毛田が画面を覗き込む。
そこには、
魂ID:7749-DOG-Ω
現世:犬
次回:猫
次々回:人間
と表示されていた。
その下に、小さな備考欄がある。
三毛田はそこを読んだ。
「……『再会予定あり』」
「誰とです?」
犬飼が尋ねる。
三毛田は少し笑った。
「さあ」
そして、判を押した。
「本日の割り当て、完了」
窓の外では、どこか遠くで犬が鳴いていた。
どこかでは猫が眠っている。
どこかでは、人間が会社へ向かっている。
それぞれが、それぞれの列に並んでいる。
前の人が進めば、自分も一歩進む。
誰かが先に行けば、自分の番も少し近づく。
人生は、もしかしたら。
自分だけのものではないのかもしれない。
誰かの人生の途中に、自分がいて。
自分の人生の途中には、誰かがいる。
そして、その関係は。
生まれ変わっても、完全には消えない。
犬だったり。
猫だったり。
人間だったり。
ときには、名前すら変わってしまう。
それでも。
なぜかまた会う。
理由は分からない。
ただ、魂は知っているのかもしれない。
「この人だ」
「この猫だ」
「この犬だ」
そうやって、長い長い列の中で、もう一度出会う。
輪廻転生管理局の古い掲示板には、今日も一枚の紙が貼られている。
――次の方、お待ちください。
その文字の下に、小さく追記されていた。
――順番は、必ず来ます。
そして世界のどこかで。
一匹の老犬が、若い飼い主の足元で目を閉じた。
その顔は、とても穏やかだった。
次の順番を待つように。
けれど、急ぐ必要などないと知っているように。
――了――
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あとがき
三つの物語を書き終えて、
あらためて思うことがあります。
人間というのは、
ずいぶん不思議な生き物です。
生まれた瞬間から、
いつか死ぬことが決まっている。
それなのに、
笑ったり、怒ったり、恋をしたり、
誰かを心配したり、
明日の予定を立てたりする。
考えてみれば、
かなり大胆な生き方です。
『仮退院の惑星』では、
「生きる」ということを考えました。
『軌道病棟』では、
「死を意識する」ということを考えました。
そして『魂の順番待ち』では、
「死んだあと」を想像しました。
書いているうちに、
三つの物語が一本の線でつながっていくような感覚がありました。
生まれて。
生きて。
死んで。
そして――
また、どこかで会う。
もちろん、
そんな世界が本当に存在するのかは分かりません。
死後の世界も、
魂も、
生まれ変わりも、
今の科学では証明されていません。
だからこそ、
物語の中では自由に想像してみました。
もしかすると、
宇宙のどこかに病院があるのかもしれない。
もしかすると、
死を迎えた人たちが集まる場所があるのかもしれない。
もしかすると、
生まれ変わる前の魂たちが、
自分の順番を静かに待っているのかもしれない。
そして、
そこで誰かが言うのです。
「次は、どこへ行きますか?」
そんな世界を想像すると、
人生の見え方が少し変わってきます。
今そばにいる人も、
昔そばにいた人も、
これから出会う人も。
ひょっとすると、
長い時間の中では、
何度もどこかで出会っているのかもしれない。
そう考えると、
人生の別れさえ、
少しだけ違って見えてきます。
この三部作に、
正しい答えを用意したつもりはありません。
読んでくださった方が、
それぞれの人生の中で、
それぞれの答えを見つけていただければと思っています。
そして最後に。
もし本当に、
「生まれて、死んで、また会う」
という長い旅があるのなら。
今この瞬間を生きている私たちは、
その旅の途中にいるのでしょう。
だったら今日は、
今日しかできないことを一つ。
誰かに「ありがとう」と言う。
久しぶりの人に連絡する。
好きなものを食べる。
空を見上げる。
そして、
少しだけ笑う。
それだけでも、
十分なのかもしれません。
またいつか。
この本のどこかで。
あるいは、
別の物語の中で。
お会いできれば幸いです。





