砂時計の渚
―― 不思議な物語 ――


まえがき
人は、歳を重ねるほど、時間を意識するようになるのかもしれません。
若い頃には、時間はいくらでもあると思っていました。
けれど、還暦を過ぎ、友人の訃報が一つ、また一つと届くようになると、「残された時間」という言葉が、急に現実味を帯びてきます。
できなくなったこと。
失ったもの。
先に逝ってしまった人たち。
そんなものを数えているうちに、いつの間にか、自分の時間まで減ってしまったように感じることがあります。
もし、亡くなった友人たちが、人生の途中で立ち止まったまま、どこかにいるとしたら。
もし、そこに「砂時計の砂」のように、人それぞれの時間が流れ続けている場所があるとしたら。
この物語は、そんな小さな想像から生まれました。
少しだけ不思議な渚の物語を、どうぞ最後までお楽しみください。




一章 還暦の夜
還暦を過ぎてからというもの、訃報は静かに、しかし確実に増えていった。
年賀状の宛名が一つ減り、同窓会の名簿に「※」の印が一つ増える。
そのたびに、諏訪部誠一は、自分の胸の奥に小さな石が積まれていくような気がした。
その夜も、一通の短いメールが届いた。
〈お知らせいたします。この度、夫・田村俊一が永眠いたしました〉
俊一。
高校の三年間、毎日のように自転車を並べて走った男だった。
就職してからは疎遠になっていた。
それでも、還暦の同窓会で再会したときには、あの頃と同じ声で笑っていた。
「誠一、お互い、もう先が見えてきたな」
そう言って笑った俊一の顔を、誠一はまだ覚えている。
あれから、まだ半年も経っていない。
誠一は、リビングの椅子に座ったまま、しばらく動けなかった。
窓の外では、正月の名残の飾りが、冷たい風に揺れていた。
還暦を迎え、干支が一巡した。
「ここから、もう一度始まるんだ」
そんなふうに言う人もいる。
けれど誠一には、人生がもう一度始まったというより、残り時間が、急に数字として見えるようになっただけのように思えた。
そのときだった。
胸の奥で、
とくん。
小さな一拍が強く鳴った。
近頃、ときどき感じる違和感だった。
医者に行くほどではない。
歳のせいだろう。
疲れているだけだ。
そうやって、何度も自分に言い聞かせてきた。
けれど今夜は、その一拍が妙に大きく響いた。
「……まさかな」
誠一は立ち上がった。
薬缶に水を入れようと、台所へ向かう。
そのとき、視界の隅で何かが揺れた。
窓の外。
まだ夜明け前の暗闇のはずだった。
なのに、庭の向こうに、薄い橙色の光が見えた。
誠一は窓を開けた。
冷たい空気が流れ込んでくる。
そして、玄関を出た。
庭の向こうには――
見慣れない渚が広がっていた。


二章 渚に立つ人影
夜のはずなのに、そこだけ夕暮れのような橙色の光に包まれていた。
波の音はしなかった。
聞こえるのは、
さらさら、
さらさら、
という、何かが絶え間なく流れ落ちる音だけだった。
誠一は足元を見た。
砂だった。
しかし、普通の砂ではない。
砂時計の中に入っているような、細かな砂の粒が、渚一面に広がっている。
風はない。
それなのに砂は、静かに、確実に、ある一点へ向かって流れていた。
「……何だ、ここは」
そのときだった。
「誠一」
声がした。
誠一は顔を上げた。
渚の先に、人影が立っている。
見覚えのある姿だった。
まさか。
そう思った瞬間、その顔がはっきりと見えた。
俊一だった。
しかし、誠一の記憶にある還暦の俊一ではない。
高校時代。
自転車を漕ぎ、くだらない話をしながら笑っていた、あの頃の俊一だった。
十七か十八歳。
制服姿のまま。
「……俊一?」
「そうだよ」
俊一は笑った。
あの頃と寸分違わぬ笑い方だった。
誠一は言葉を失った。
数時間前に届いた訃報。
その本人が、目の前で少年の姿のまま立っている。
「お前……死んだんじゃないのか」
「そうみたいだな」
「そうみたいって……」
「俺にも、よく分からないんだよ」
俊一は肩をすくめた。
「ここがどこなのかも、誰が作った場所なのかも分からない。ただ、一つだけ分かったことがある」
俊一は、足元の砂を指さした。
「この砂は、人間の時間なんだ」
誠一は黙って砂を見た。
「時間?」
「ああ。誰かの持ち時間だ」
俊一は言った。
「人によって長さは違う。でも、流れ始めたら止まらない」
誠一の足元を、無数の砂粒が通り過ぎていく。
さらさら。
さらさら。
「俺の時間も、ここにあるのか」
「ああ」
俊一は笑った。
「だから、あまり長居はできないぞ」


三章 時が止まった者たち
俊一に導かれ、誠一は渚を歩いた。
歩くたびに、橙色の光の中から人影が浮かび上がってきた。
中学時代の同級生、北村。
二十代の頃に亡くなった従兄の健太郎。
ほかにも、記憶の奥にしまっていた人たちがいた。
不思議なことに、誰も老いていない。
亡くなったときの姿でもなかった。
それぞれの人生で、もっとも輝いていた頃の姿だった。
「不思議だろう」
俊一が言った。
「ここでは、誰も老いない」
誠一は、北村の顔を見つめた。
「どうして?」
「さあな」
俊一は少し笑った。
「ただ、俺たちは、あの日のままなんだ」
誠一は胸が締めつけられるような気がした。
自分だけが歳を取っていく。
白髪が増えた。
身体が思うように動かなくなった。
友人が一人、また一人と先に逝っていく。
それなのに、ここにいる人たちは、みんな若い。
「……羨ましいよ」
誠一は正直に言った。
俊一が振り返った。
「そうか」
「俺は還暦を過ぎてから、できることが少しずつ減っている気がする。酒もやめた。食事にも気をつけている。それでも身体は歳を取る」
誠一は苦笑した。
「友達は先にいなくなる。自分の番も、いつか来るんだろうと思う。だから、最近は時間を数えてばかりだ」
俊一はしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「誠一」
「ん?」
「お前、勘違いしてるよ」
「何を?」
俊一は渚の向こうを見た。
「俺たちは、老いないんじゃない」
少し間を置いて、
「老いる機会を、失っただけだよ」
誠一は何も言えなかった。
その言葉が、胸の奥に深く沈んでいった。


四章 あいつの分まで
「老いる機会を……失っただけ」
誠一は、砂の上に立ったまま呟いた。
俊一は頷いた。
「白髪が増えることも、腰が痛くなることも、身体が重くなることも、老眼になることも、全部、生きているからできることだ」
「……嫌なことばかりだけどな」
「そうだな」
俊一は笑った。
「でも、俺たちには、それすらもうない」
誠一は黙って砂を見た。
俊一が続けた。
「お前、同窓会で言ってたよな」
「何を?」
「『あいつの分まで生きる』って」
誠一は俯いた。
友人の葬式に出るたび、そう言ってきた。
「誰かが亡くなるたびに、みんな同じことを言う。でもな」
俊一は、誠一の顔を見た。
「それは、言葉にするものじゃないんだ」
「じゃあ、何なんだ?」
「ちゃんと生きることだよ」
誠一は返事ができなかった。
「俺は……怖いんだ」
やがて、誠一は言った。
「この歳になって、残り時間を数えることが。友達が一人減るたびに、次は自分かもしれないと思うことが」
俊一は、砂の流れを見つめた。
「誠一」
「うん」
「この砂は、止まらない」
「……ああ」
「お前が怖がっても、喜んでも、同じ速さで流れていく」
俊一は一粒の砂を拾おうとした。
しかし、砂は指の間からこぼれていった。
「だったらさ」
俊一が笑った。
「怖がって過ごす一日と、笑って過ごす一日。どっちがいい?」
誠一は、しばらく考えた。
そして笑った。
「……笑って過ごすほうだな」
「だろ?」
砂は、さらさらと流れ続けていた。


五章 動悸の理由
しばらく歩いたあと、誠一はふと胸に手を当てた。
「なあ、俊一」
「何だ?」
「俺、最近、動悸がするんだ」
俊一の顔から、笑みが消えた。
「どんな?」
「一拍だけ、強く打つんだ。とくん、って」
「いつから?」
「何か月か前からかな」
「医者には?」
「まだ行ってない」
俊一は黙った。
「歳のせいだと思ってたんだ」
「誠一」
俊一の声が、少し低くなった。
「それは、確かめたほうがいい」
「大したことないと思う」
「俺もな。大したことないと思ってたんだ」
誠一は顔を上げた。
俊一は渚を見ていた。
「ここでは、言えないことがあるんだ」
「……死んだ理由か?」
俊一は答えなかった。
ただ、誠一の胸を指さした。
「その音を、この渚に持ち込む前に」
俊一は、静かに言った。
「一度、ちゃんと確かめてこい」
誠一は自分の胸に手を当てた。
とくん。
また一拍。
その音が、さっきまでとは違って聞こえた。
老いの音なのか。
病気の音なのか。
それとも、まだ生きているという音なのか。
誠一には分からなかった。


六章 砂時計の向こう
「誠一」
俊一が言った。
「そろそろ時間だ」
橙色の光が、少しずつ薄くなっていた。
「もう行くのか」
「ああ」
「もっと話したいよ」
「俺もだ」
俊一は笑った。
「でも、ここは生きている人間が長くいる場所じゃない」
誠一は渚を見渡した。
北村が手を振っている。
健太郎も笑っている。
みんな、あの日のままだ。
時を止めた人たち。
誠一は、胸の奥に寂しさが込み上げてくるのを感じた。
「なあ、俊一」
「何だ?」
「俺、この先どうしたらいいんだろう」
俊一は答えなかった。
誠一は続けた。
「願うことといえば、健康と、安全と、安定と……最近は、それくらいなんだ」
俊一は、少しだけ笑った。
「それでいいんじゃないか」
「いいのか?」
「人間、歳を取ると、欲しいものが変わるからな」
俊一は誠一の肩を叩いた。
「でもな」
「うん」
「願うだけじゃ駄目だ」
「……分かってる」
「本当に分かってるか?」
俊一が笑った。
「動悸がするなら病院へ行け。心配なら誰かに話せ。食べ過ぎたら少し歩け。眠れなければ無理をするな」
「ずいぶん現実的だな」
「死んだ後だからこそ、言えるんだよ」
二人は笑った。
そして俊一は、最後に言った。
「誠一」
「何だ?」
「俺たちの分まで、なんて気負わなくていい」
「……」
「ただ、ちゃんと生きろ」
俊一の声が、静かに渚へ溶けていく。
「老いることを、そんなに嫌がるな」
「……」
「老いはな」
俊一は笑った。
「俺たちが、手に入れられなかった贈り物なんだから」
その言葉を最後に、俊一の姿が少しずつ光の中へ消えていった。
「俊一!」
誠一は手を伸ばした。
俊一は、最後まで笑っていた。


七章 目覚め
気がつくと、誠一はリビングの椅子に座っていた。
窓の外は、夜明け前の暗闇。
薬缶は、まだ台所に置かれたままだった。
火もついていない。
夢だったのだろうか。
それとも――。
誠一は胸に手を当てた。
とくん。
確かに、一拍だけ強く打った。
誠一は、しばらくその音を聞いていた。
そして立ち上がった。
その日の朝。
誠一は妻に、最近の動悸について話した。
「どうして今まで言わなかったの?」
妻は少し怒った顔をした。
「大したことないと思ってた」
「それ、歳を取った人が一番言っちゃいけない言葉じゃない?」
誠一は苦笑した。
「……そうかもしれない」
その日のうちに、かかりつけ医へ電話をした。
数日後。
診察の結果、軽度の不整脈が見つかった。
命に関わるものではなかったが、生活習慣の見直しと、定期的な経過観察が必要だという。
「早めに来ていただいて良かったですよ」
医師が言った。
「こういうものは、放っておくと悪化することもありますから」
診察室を出た誠一は、病院の廊下で立ち止まった。
大きく息を吐く。
助かった。
そう思った。
同時に、少しだけ可笑しくなった。
自分は今まで、老いを恐れていた。
病気を恐れていた。
死を恐れていた。
けれど、本当に怖かったのは――
確かめることから逃げていた自分だったのかもしれない。
誠一は、窓の外を見た。
朝の光が、病院の壁を白く照らしていた。
「俊一」
小さく呟いた。
「行ってきたぞ」


八章 渚の向こうへ
それから半年が過ぎた。
誠一は今も、還暦を過ぎた身体と付き合いながら暮らしている。
酒はやめた。
食事にも気をつけている。
以前より少し歩くようにもなった。
だが、一番変わったのは、身体ではなかった。
老いを、敵のように思わなくなったことだった。
友人が一人、また一人と先に逝く。
その寂しさは、なくならない。
訃報が届くたび、胸の奥が痛む。
それでも今の誠一には、思い出す場所がある。
あの渚。
橙色の光。
さらさらと流れる砂。
そして、制服姿の俊一。
ある晩。
誠一は庭に出て、夜空を見上げていた。
そのときだった。
視界の隅で、何かが揺れた。
橙色の光。
ほんの一瞬だった。
誠一は目を凝らした。
しかし、そこには何もなかった。
風に揺れる木の葉だけ。
「……気のせいか」
そう呟いて、誠一は空を見上げた。
そして、少しだけ笑った。
「俊一」
返事はない。
それでも誠一は、その暗い庭に向かって手を挙げた。
「見ていてくれ」
少し間を置いて、
「俺は、ちゃんと生きるから」
夜は静かだった。
遠くで、犬の鳴き声がした。
誠一は家へ戻ろうとした。
そのとき――
さらさら。
どこからともなく、砂の流れる音が聞こえた気がした。
誠一は振り返った。
何もない。
けれど、なぜか分かった。
砂時計の砂は、誰のためにも止まらない。
生きている者の砂も。
逝ってしまった者の記憶も。
時間は、ただ静かに流れていく。
だからこそ。
一粒一粒を、怖がって数える必要はない。
今日という一粒を、今日として生きればいい。
明日の一粒は、明日になれば落ちてくる。
誠一は、もう一度だけ夜空を見上げた。
老いることは、失っていくことだけではない。
今日まで生きてきたということ。
そして、明日へ進む時間が、まだ残されているということ。
それは、死んだ者にはもう手に入らない。
生きている者だけに与えられた、ささやかな贈り物だった。
さらさら。
砂は、今日も流れている。
誠一は、その音を聞きながら、静かに家へ戻っていった。

――完――


Kindle



あとがき
白髪が増えること、腰や肩が痛むこと、疲れやすくなること。若い頃には忌々しく思えた「老い」のサインも、見方を変えれば、生きているからこそ味わえる体験です。先に逝ってしまった友人たちは、もう歳を取ることすら叶いません。
「あいつの分まで生きる」と肩に力を入れる必要はないのかもしれません。ただ自分の今日という一日を丁寧に、笑って過ごすこと。それこそが、残された私たちにできる最高のことなのだと思います。
誰にとっても砂時計の砂は止まりませんが、だからこそ、今日落ちてくる一粒を大切に味わっていきたいものです。